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3月13日は張純の忌日


  • 2008年3月13日(木) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,822
歴史  過去の記事で「x月x日は○○の命日」なんて銘打って書いていたけど、「命日」は仏教用語だろうから当然、三国時代では使われていないと自己ツッコミをしつつ今回から「忌日」と銘打つ(前回、自己ツッコミ済だけどね)。

※関連記事
 閏1月28日は司馬師の命日
 4月25日は夏侯惇の命日
 8月5日は司馬懿の命日
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日

 4月11日は霊帝崩御の日

 それで今回、取り上げるのは張純。同姓同名が居ると思うけど、漁陽郡漁陽県出身で中山相だった張純のこと。中平四年に叛乱を起こした人物だ。
 そのことは『後漢書』孝靈帝紀に載っている。

<本文>
(中平四年六月)
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。

<清岡の頼りない訳>
(紀元187年6月)漁陽人の張純と同郡の張挙は兵叛を挙げ、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠らを攻め殺した。張挙は天子を自称し、幽・冀二州に進寇した。


 この張純は三国志ファンに馴染みのない人物かもしれないが、劉備の初戦に関わる人物として、下記に引用する『三国志』蜀書先主伝の注に引く『典略』に出てくる

<本文>
典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。

<清岡の頼りない訳>
典略に言う。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。

※関連記事
 リュウビ二十七歳


 それでようやく本題だけど、下記のように『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)だとこの張純は三月己丑(3月13日)に殺されたとのこと。ただ三月己丑が張純の殺されたところまでかかるかどうかわからないけど。三月己丑の日付の同定は例によって「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使っている。

<本文>
(中平六年)
三月己丑、光祿劉虞為司馬領幽州牧、撃張純。虞使公孫[王賛]撃純、大戰破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、[王賛]為都亭侯、並鎮北邊

<清岡の頼りない訳>
(紀元189年)
3月13日、光祿の劉虞は司馬になり幽州牧を領し、張純を撃った。劉虞は公孫[王賛]に張純を撃たせ、大いに戦いこれを破った。張純の客の王政は張純の首を斬り、下った。劉虞は襄賁侯、公孫[王賛]は都亭侯に封じられ、並んで北辺を鎮めた。


・「中央研究院兩千年中西暦轉換」関連のサポ板での書き込み
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1825

メモ:虎牢関って


  • 2008年2月22日(金) 23:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    8,082
歴史 『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』を参考とした地図。 手元のサイトのアクセスログを見ると、ちょくちょく検索されるワードに「虎牢関 場所」というものがある。それほど、虎牢関の場所を知りたがっている三国志ファンが居るのだろうな、と実感していた。というわけで迷える三国志ファンのために少しでもお役に立てれば良いなとおもいつつ、「虎牢関」について私が知っていることをメモしておこう。

 白話小説である『三国演義』には「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」に董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦う場として「汜水関」や「虎牢関」が出てくる。『三国演義』において、前者では関羽が華雄を一刀のもとに斬り捨てたシーンで有名な場所で、後者は劉備・関羽・張飛が呂布と戦ったシーンで有名な場所。そのため三国志ファンの間では特に「虎牢関」が良く知られている
(↑一応、記事の前提条件を読者に確かめてもらう文)

 「虎牢」という地名自体はすでに『史記』や『漢書』にも見られ(例えば『史記』三代世表、『漢書』五行志)、さらに『史記』の注に

正義括地志云:「洛州氾水縣古(之)〔東〕[(埒虎)の土を抜いた字]國、亦鄭之制邑、又名虎牢、漢之成皋。」

<清岡による頼りない訳>
正義括地志に言う。「洛州の氾水県は古の東[(埒虎)の土を抜いた字]国であり、また鄭の制邑であり、またの名を虎牢であり、漢の成皋だ」

とあり、「虎牢」は漢代では「成皋」と呼ばれている。

 それで本題の『三国志』では「成皋」という地名は出てきており、『三国志』魏書武帝紀ではズバリ、董卓の勢力との戦いのところで出ている。長いが以下に標点がついた文を引用し、頼りない訳をつけておく。あと解りやすいように譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社出版)を元とした関連地図をこの記事につけておく。「成皋」という地名に注目。

初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔[イ由]・[六/兄]州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張[しんにょうに貌]・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。

二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、[しんにょうに貌]・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、[イ由]屯潁川、馥在[業β]。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。[しんにょうに貌]遣將衛茲分兵隨太祖。到[(螢)の虫が水]陽[シ卞]水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。

太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞[(車環)の王ぬき]轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」[しんにょうに貌]等不能用。

<清岡による頼りない訳>
初平元年(紀元190年)の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔[イ由]、[六/兄]州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張[しんにょうに貌]、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万であり、袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。

二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張[しんにょうに貌]、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔[イ由]は潁川に駐屯し、韓馥は[業β]に在った。董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操)は言う。「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか? 仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」 遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張[しんにょうに貌]は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。[(螢)の虫が水]陽の[シ卞]水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。

太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに因りて言う。
「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守っていただき、敖倉に拠り、[(車環)の王ぬき]轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」 張[しんにょうに貌]らは用いることができなかった。

※[(車環)の王ぬき]轅と太谷を「関」としている理由は後述。

 ここで注目ししばし覚えてほしいことは「成皋」という地名が出てくるものの実際に戦いはない。また「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」と「関」が出てくるもののこの時期、実際、山東勢と董卓による戦いが行われなかったことだ。
 『三国志』において「虎牢」という言葉はなく(但し、『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』の詩に「虎牢」という言葉が載っている)、反董卓時期に「関」での戦いも載っていないので、従って

 『三国志』に「虎牢関」は載っていない

ということになる(「汜水関」も載っていない)。

※「関」が何かは下記のURL先参照。

・関所の役割(「三国志ファンのためのサポート掲示板」、通称、サポ板内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2880

 もっと掘り下げると当時、「成皋」辺りに「関」があったのかどうかということになる。「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」は洛陽から見てそれぞれ南東、南東、南西にあり、東にある「成皋」からほど遠い位置にある。この時期あたりで、この三つの関以外に出てくる関は『三国志』魏書武帝紀において董卓秉政時期に曹操が洛陽から密かに東へ帰る下りで出てくる。

太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑

<清岡による頼りない訳>
太祖(曹操)はすなわち姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなる。


 また、この部分の直前の注に引かれる『魏書』には


從數騎過故人成皋呂伯奢。

<清岡による頼りない訳>
数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。


とある。但し「成皋呂伯奢」が成皋出身の呂伯奢という意味で現住所かどうかわからないが。

<関連記事>2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 それでこの関は何かというと、『三国志』からは見出せず、対象となる時代が近い『後漢書』から見出せる。
 『後漢書』皇甫嵩伝で黄巾から洛陽を守る準備をするという下りで、


詔敕州郡修理攻守、簡練器械、自函谷・大谷・廣城・伊闕・[(車環)の王ぬき]轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。
※大谷・[(車環)の王ぬき]轅在洛陽東南、旋門在汜水之西。

<清岡による頼りない訳>
詔敕により州郡に攻守の修理をさせ、函谷、大谷、廣城、伊闕、[(車環)の王ぬき]轅、旋門、孟津、小平津の諸関より器械を選び出し、並びに都尉を置く
※注。大谷・[(車環)の王ぬき]轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜水の西に在る。


というのあり(これを見ると前述の「孟津」も関のことかも)、さらに『続漢書』郡国志によると

成[四/幸](皋)有旃然水。有瓶丘聚。有漫水。有汜水。

ということで、成皋に汜水がある。
 まとめると曹操は東へ帰るときに通った関は「成皋」近くにある「旋門関」の可能性が高い。

 話を戻し、対象となる時代を順に『三国志』から正史類を見ていくと、『宋書』小帝紀で


(景平元年正月)虜將達奚(斤)破金[土庸]、進圍虎牢。

<清岡による頼りない訳>
(紀元423年1月)虜(北魏)の将の達奚斤は金[土庸](地名)を破り、虎牢に進み包囲した。

(※2009年12月追記。よく考えたら唐の李淵の祖父は李虎なんで、避諱されて「武牢」になるんだよね。後もそうなんだけど、「武牢」や「武牢関」で調べ直す必要がある。)


というふうにようやく「虎牢」という地名が出てくる。さらに蛇足だけど『宋書』文帝紀では


(元嘉七年)十一月癸未、虎牢城復為索虜所陷。

<清岡による頼りない訳>
(紀元430年)十一月癸未、虎牢城はふたたび索虜(北魏)に落とされた。


というふうに「虎牢城」という表現が見られるようになる(もっとも仮に県の名前が「AAA」だとするとその県城を「AAA城」という表現をするが)。
 さらに正史類において時代を下っていくと、『新唐書』武宗紀で


(會昌五年)十月、作昭武廟于虎牢關。

<清岡による頼りない訳>
(紀元845年)十月に昭武廟を虎牢関に作った。


というふうにようやく「虎牢関」の表現が出てくる(この「虎牢関」が前述の「旋門関」と同じあるいは同じ場所にあるのか、私は調べ切れていない)

 ここからは史書から離れて、なぜ『三国志』に載っていない「虎牢関」が三国志ファンによく知られるようになったかについてメモを書く。
 唐代からかなりの空白ができてしまうんだけど、元代の雑劇で董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦うものに、そのものズバリのタイトルで鄭光祖『虎牢關三戰呂布』(最近、サポ板でも書いたとおり私自身、ちゃんと確認していない)というようにタイトルに「虎牢関」があり、さらには冒頭でも書いたように『三国演義』(ここでは最も普及している毛宗崗本)でも「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」とタイトルに「虎牢関」がある。後漢末や三国時代と違い、ここまで時代が下ると「虎牢関」は馴染みのあるものとなっていたんだろう。
 また宋代の『朱子語類』卷第五十七 孟子七によると


 鄭之虎牢、即漢之成皋也。虎牢之下、即[シ秦][シ有]之水、後又名為汜水關

<清岡による頼りない訳>
 鄭の虎牢はすなわち漢の成皋だ。虎牢の下は、[シ秦]水と[シ有]水につき、後にまたの名を汜水関とする


ということで虎牢と「汜水関」が同じと認識されている。

 また、サイト「超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫」を見ると現在でも虎牢関があったとされる場所を示す碑もあるらしい。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 また、私からは未確認ながらサポ板の書き込み記事143828821512によると『歴史群像【中国戦史】シリーズ 真三國志』(学研)には虎牢関の場所を示す地図、『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻 曹操・劉備・孫権天下への大計』(学研)には虎牢関のイラスト、『三国志の大地』(竹内書店新社)では「汜水関と虎牢関は同じ物で、三国時代では汜水関と言われていた」という記述が見られるとのこと。これらは歴史を元にしているのか創作を元にしているのか確認していないが。


 ということで三国志関連の作品で「虎牢関」という記述を見かけると、その作品は歴史以外にも何か別に参考にしているのだな、と判断するように、私は「後漢は木徳」と同じように「虎牢関」があるかどうかを作品のチェック項目としている。


<2008年7月24日追記>
知り合いが、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーを持っていたんだけど、それによると成皋関(前漢)→旋門関(後漢)となっていた。
機会が在れば貸して貰ってちゃんと読んでみよう。

※追記 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

※追記 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究

三国創作のための拝メモ


  • 2007年11月13日(火) 18:26 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    16,727
歴史 「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」の一部をスケッチ 以前、『中国社会風俗史』という本を買って一通り読んでいたけど、あまり図で説明するといった本ではなかったことや私の能力の限界もあってか、あまり理解できなかった箇所が少なからずあった。

・中国社会風俗史
http://cte.main.jp/newsch/article.php/548

 それらの中の一つに「第二十六章 敬礼」がある。近頃、『礼記』に目を通すようになってこの章に書かれてある「拝」(旧字は「拜」)について多少なりとも馴染んできたためもう一度、目を通す。その際のメモ。尤もまだ『礼記』に目を通してないし、その上、また新たな視点で拝を見るようになるかもしれないんで、続きのメモができる可能性は大いにある。

 まず三国創作と拝がどう関わるか、おさらいがてら説明。
 ここで言う「拝」とは言ってみればお辞儀のような動作のことで(他にも拝には拝受するなど受けるという意味もあるが)、具体的には右上の画像において真ん中の人が行っている動作のこと(恐らく座っている状態からではなく、立っている状態からこのポーズになりまた立つといった動作)。
 回りくどいがこの画像の説明。これは石刻拓本からAdobe Illustrator CSを使ってスケッチしたもの。拓本資料は京都大学人文科学研究所所蔵の「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」(後漢、嘉祥縣畫像石、管理番号B01-22)だ。もっとスケッチしやすい鮮明な石刻拓本はあったが、たまたまスケッチしづらい画像石を選んでしまう(鮮明な画像石はどれかは後述)

・石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/215

 現代日本人から見ればあたかも土下座しているように見えるけど、当時においては日常的な動作。
 時代が少し遡るが漢代に成立した『礼記』曲禮下には

大夫士相見.雖貴賤不敵.主人敬客.則先拜客.客敬主人.則先拜主人

大夫・士が互いに見えたら、地位の高い低いが同等でないといっても、主人が客を敬えば、則ちまず客を拝し、客が主人を慕えば、則ち主人を拝する。

と書かれている等、少なくとも士大夫層には日常的な動作だということがわかる。
 『三国志』でも、ぱっと思い付くのが『三国志』呉書張昭伝や同周瑜伝に見られる 「升堂拜母」(堂に昇り、母を拝する)という記述。つまり、ここでの「拜母」は公の場だけではなく家庭でもという意味合いで、相手の母に拝する程、公私とも親しい仲ということなのかな。堂に関しては下記記事参照。こちらの記述も家庭でも、ってあたりを強調しているんだろうね(と、ここらへんこだわると「拝」から話が外れそうなのでこのへんまで)。

・三国創作のための『儀礼』メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/721

 また特殊なことではないので、拝だけでは『三国志』のような史書に記載されづらく、何かしらの+αがあれば載っていたりする。例えば、以前、紹介した『三国志』蜀書龐統伝の注に引く襄陽記の記述(他にもあるがちゃんと目を通していない・汗)。

・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221

 それで話を戻し、『中国社会風俗史』のこと。この訳本は社会風俗について中国古代から記述されてあって、それぞれの根拠となる出典が明記されている。今回、拝に関して改めて目を通すことになり、それぞれの出典を当たってみる。

 まず拝について。上の画像にある動作以外の拝もあるそうな。つまり拝には状況に応じて動作が違ってくるという言ってみればグレードのようなものがあるとのこと。それは時代が遡るが『周礼』春官宗伯に書かれてある。

辨九拜.一曰稽首.二曰頓首.三曰空首.四曰振動.五曰吉拜.六曰凶拜.七曰奇拜.八曰褒拜.九曰肅拜.

 まず一番目と二番目の稽首、頓首について。これらはお馴染みのやつで『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ)を見ると、稽首は人に対する最敬礼で、ひざまずき、頭を垂れて地(もしくはゆか)に接する礼で、頓首は、頭を下げ地に接するとすぐに頭を上げるものとのこと(『周礼』春官太祝の項の注に拠るものとのこと)。
 『中国社会風俗史』では『春秋左伝』哀公十七年の記述を元に、稽首を説明している。

公會齊侯盟于蒙.孟武伯相.齊侯稽首.公拜.齊人怒.武伯曰.非天子.寡君無所稽首.

公は齊侯と会い、蒙において盟を結び、孟武伯は見ていた。齊侯は稽首し、公は拜し、齊人は怒った。武伯は言う。天子でなければ我が君は稽首するところではありません。

 稽首と拝に違いがあって、稽首は天子に対して行うことがわかる。ちなみに春秋のころの天子とは王で、後漢のころの天子は皇帝のこと(後者は下記参照。『独断』の記述より)。

・Re:三国志の皇帝の呼び名について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2775

 また稽首と頓首は皇帝への上書の文面にも形式として出てくるとのこと(こちらも『独断』の記述より)。敬意を表してのことだろうね。

・上表・上疏・上奏の違い
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2906

 話が少し脱線するが、そう言えば形式として「拝」も文面として出てくるね。例えば下記記事のように「謁」や「刺」に「再拝」(二回、拝する)と書かれている。再拝が日常のどういうシチュエーションでなされるか、今後、『礼記』や『儀礼』を当たらないとね。

・三国時代あたりの名刺(謁、刺)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/566

 続けて、三番目の空首。『中国社会風俗史』によると空首は画像を交え前述した一般的な拝に相当するそうな(根拠がよくわからんが)
 そこの出典として上がっているのが『荀子』大略篇第二十七の記述。

平衡曰拜,下衡曰稽首,至地曰稽顙。

平衡が拝と言い、下衡が稽首と言い、地に至るのが稽顙と言う。

 とのことで、平衡とは『中国社会風俗史』によると頭と腰が平らになることで、下衡は腰より頭が下がる場合とのこと。その記述に準じて上の画像の真ん中の人が拝するということにしている。
 また拝のポーズは『礼記』内則によると、

凡男拜.尚左手.

およそ男が拝するのは左手を尚(うえ)にする。

凡女拜.尚右手.

およそ女が拝するのは右手を尚(うえ)にする。

とのこと。上の画像では服に隠れてどちらの手が上か確認できないが、左手を上にしているんだろうね。画像が不鮮明で分かりにくいけど(手にも見える)、腕から出ているものは、おそらく笏(こつ)ってやつ。命令をメモったりする板。聖徳太子の有名な画像で太子が持っているやつと用途は同じだろうね。使い方や身分に応じた材質等は『礼記』に書かれてある。
 京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見る限り、こうやって誰かの前に拝している画像は画像石によくあるモチーフのようだ。上にあげた画像元は不鮮明すぎて分からなかったんだけど、他の石刻拓本では拝する人の冠がよく見える。
 「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)では拝する人の冠は武冠になっている。それに対し、「左石室小龕後壁 拝礼、出行畫像」(後漢、武氏祠左石室、管理番号B04-01)では拝する人の冠は進賢冠になっている。冠については下記記事参照。

・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/641

 余談ながら、後者の画像中の進賢冠は梁の部分が地面に落ちている描写がされている。時代変遷が関わってくるだろうが、長沙市金盆嶺9号晋墓の青磁騎馬俑を見ると梁ごと紐で固定しているので、拝で梁が落ちる描写は不自然のように見えるんだけど、それはもしかして拝の度合いを演出しているのかな。いや、それは考えすぎで頭を90°傾けたら落ちるぐらいの固定具合かな。梁の上部は斜めなんで、力が分散してそうだし(後から前への力に弱い)。

 四番目以降は個人的にどうも理解しづらいのが続き、今のところ、興味のないものが多そうなので、一気に飛ばし九番目の粛拜に行く。『中国社会風俗史』によると粛拜は揖に相当するとのこと(ここらへんの理由もよく分からないが)
 まず『礼記』曲礼上の記述。

介者不拜、為其拜而蓌拜 .

介者(鎧を着た者)は拝せず。その拝が蓌(いつわり)の拜になるためだ。

とのことで、鎧を着て、上の画像の真ん中の人のポーズを取るのは困難で、やればやったでいつわりの拜になるってことだ。じゃ、何もしないのかといえばそうではなく代わりに粛拜を行うとのこと。次に『春秋左伝』成公十六年。

郤至見客.免冑承命曰.君之外臣至.從寡君之戎事.以君之靈.間蒙甲冑.不敢拜命.敢告不寧.君命之辱.為事之故.敢肅使者.三肅使者而退

郤至は客を見て甲冑を脱ぎ、命令を承けて言う。「君の外臣の至は我が君の軍事に従い、君の霊により、そのまま甲冑を被り、あえて命令を拝せず、敢えて不寧と君命の辱を告げ、これにつかえるために、あえて使者に粛します」 使者に三回粛し退いた。
※清岡が訳したためちゃんとした訳ではない。

とのことで拝の代わりに粛していることがわかる。

<11月16日追記>
 また揖に関してもこんな記述がある。『史記』卷八 高祖本紀第八より。

酈食其(謂)〔為〕監門、曰:「諸將過此者多、吾視沛公大人長者。」乃求見説沛公。沛公方踞牀、使兩女子洗足。酈生不拜、長揖、曰:「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者。」於是沛公起、攝衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留、得秦積粟。

酈食其は監門になって言う。「諸將はこのことを優れているとしすぎなので、私は沛公が大人長者かどうか見たい」 そのため会って沛公に説くことを求めた。沛公は牀の縁に踞し、二人の女子に足を洗わせていた。酈は現れ拝せず、深く揖して言う。「足下(あなた)は必ず無道の秦を誅したいと望むのだから、踞して長者に会うべきではない」 ここで沛公は立ち上がり、衣裳を整えこれを謝り、上にのび座った。食其は沛公に陳留を襲うことを説き、秦を得て粟を積んだ。

 「踞」については下記記事参照。

・メモ:踞牀
http://cte.main.jp/newsch/article.php/485

 つまり沛公(劉邦)が「踞」という非礼な態度を示したのに対し、酈食其は拝せず揖したという非礼な態度で応じたということだ。

<追記終了>

 この揖(粛拝)というのは『中国社会風俗史』での記述を見て考えるに、おそらく上の画像の左の人の動作に相当するのだろう。つまり膝を地面に着かず拝するとのこと。
 余談ながら粛は中国中央電視台制作ドラマの『三国演義』(下記記事参照)でもよく見られる。ドラマをよく見ると前述したように男の左手がちゃんと上になっているのはさすがだと思った。まぁ、上の画像より肘が張りすぎている気はするが。

・中国歴史ドラマ『三国志』の冒頭
http://cte.main.jp/newsch/article.php/638

<追記>
中華ファンタジーのアニメの『彩雲国物語』でドラマ『三国演義』ばりに肘の張った粛が出てきたが、やはりこの世とは別世界という設定なので、女性も男性も左手が上になっていた。
<追記終了>

※追記 初恋三国志 りゅうびちゃん、英傑と出会う!(2014年8月15日)

 上の画像の左の人。こちらも手から出ているのは笏だろうね。京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見ると、他の画像石にも揖(粛拝)している場合があって、多くの場合は上の画像と同じく進賢冠を被っている。
 この画像が本当に揖(粛拝)しているかどうかは『礼記』『儀礼』の記述と詳細に照らし合わせないといけないね。もしかすると拝の動作の途中を描いているかもしれないし。

<2009年5月16日追記>
 幾つかの知識を持っているものの、それが頭の中で繋がっていない、ということはよくある。以下、その一例なんだけど、別件で『三国志』魏書閻恩伝の注に引く『魏略』勇俠伝を読んでいてどこかで見たことある話だな、と思ったら、『中国社会風俗史』の46ページにあった。漢晋代では笏を版と言うそうで、『魏略』勇俠伝にも一例に挙げられるんだけど、長官と会うときは版を持つのが慣例のようだね。ということで上の画像も版を持って拝しているよく見る姿ということなんだろう。
<追記終了>

 ちなみに上の画像の右の人のように牀や榻の上に座って、拝や粛を承けるケースも他の画像石に見られる。上の画像では、進賢冠なんだけど、その他、よくわからない冠だったりすることもある(前述の「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)など)。網羅的に見ていないが、この名称不明冠(左前方として横から見ると梁の部分が「h」になっている冠)は後漢から見て昔の情景を描くときの画像によく見られる。他の画像石をみると、例えば「武梁祠西壁 神話故事、出行畫像」(後漢、武氏祠武梁祠、管理番号B02-02)だと、「呉王」と銘打たれた人が着けている冠にこの名称不明冠が使われている。後漢代には使われていない想像上の冠なのかな?(林 巳奈夫/編『漢代の文物』では「名称不明冠」として出てくる)
 また他の鮮明な画像石を参考にすると右の人の腕からでているものは「几」というやつで、正座して足が痺れないようにもたれかかる家具だ。


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

三国創作のための『儀礼』メモ


  • 2007年10月26日(金) 21:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    11,865
歴史 『儀礼I 別冊図』の中身 以前、三国創作における冠などかぶりものに関して「最低限、進賢冠と武冠が描かれていればリアリティが増すのかなぁ」と強引な説を書いてみた(下記リンク先)。

・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/641

 それで今度は建物について強引なことを書く。最低限、「堂」が描かれていたらリアリティが出るのかなあ、と思っている。
 「堂」とは建物の部分の名称で、地面より高い位置にある台で、その三方が「室」など他の建物の部位に繋がっているのに対し、その南面には壁がなく開けている(逆に「北堂」は北側が開けている)。南側から堂の上にアクセスするには南面の東と西にある階段を使う。つまり階段を使って地面から堂の上へ昇る。また「殿」は『説文』に「堂の高大なる者なり」とあり基本的に堂と同じ構造なんだろう。堂の子孫だろうなと思えるものが今でも神社仏閣(それに舞台も?)に見られる。
 こういった堂は後漢時代あたりの明器によく見られる題材となっている。

※参照(と言ってもほとんど関連性はないが)
・中国古代の暮らしと夢
http://cte.main.jp/newsch/article.php/317

 それで何で「堂」かというと、多くの日常的な活動の舞台となっているからだ。

 少々、遠回りになるが、以下、ここに至るまでの説明。
 当時の社会風俗を知ろうと思えば、墓から出土された明器や畫像石・畫像磚に描かれたものを参照・適合にしながら、文献を読み解いていけば良いんだろう。こっちは三国志ファンなもんだから、当時の文献で真っ先に思い付くのが『三国志』や『漢書』『後漢書』などの史書になっちゃうんだけど、それはあくまでも歴史のトピックスが書かれていて日常的なことが書かれることは希になる。強いて言えば『後漢書』の志の部分かな、禮儀志や輿服志があるし。そこで史書以外で社会風俗がよく書かれている当時の文献は何かと行き着いたのがいわゆる三礼。三礼とは経典の『周礼』『儀礼』『礼記』のことで、『三国志』中にも数例その単語が見られ、有名どころでは『後漢書』盧植伝で「作尚書章句・三禮解詁。」とあり盧植が三礼の解詁を作ったことが書かれている(『字通』CD-ROM版によると「解詁」→「訓詁」で「字義の古今を解く。」とのこと)。このうち、ごく簡単に書くと(※というか私の理解が乏しいので簡単にしか書けない)、『周礼』は制度について書かれてあり、『儀礼』は礼に関する行動が細かく書かれてあり、『礼記』は『周礼』と『儀礼』との両方の性格を併せ持っているとのこと(自転車で喩えるとロードレーサーとMTBとの両方の性格を持つクロスバイクといったところか。悪く言えばどっちつかずとも言うが)。
 三礼のうち、当時の社会風俗を具体的に浮き彫りにしているのは『儀礼』だろう。もっとも経典なので教科書的で礼として理想化されてそうだが、それを差し引いてもよく当時の様子をよく残していると思っている。そういう考えで『儀礼』の訳註を探し大手書店に行ったものの見つからない。書店の検索端末で「儀礼」と検索すると、普通名詞の「儀礼」を持つタイトルが並んだため、『儀礼』が見つかりにくい。ようやく『儀礼』が見つかったものの在庫無し。仕方ないので、『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ、原文、書き下し、通釈、語釈)に目を通すと、冠婚葬祭の個々の人の行動は元より、宴会や食事の様子まで書かれていて、これでも目的の多くは達せられると思い、暇があれば目を通していた。そこには具体的に細かく書かれているんだけど、冒頭で書いた堂をはじめ、稽首、答拜、揖やら簟やら馴染みのない単語が出てくる。もちろんこれらは語釈に解説があるもののどうもイメージとしては想像しにくい。これを三国志ファンにもわかりやすく喩えると『三国志』蜀書[广龍]統伝の注に引く『襄陽記』に「孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止」とあっても孔明がしていた「獨拜」がどんなものか「牀下」がどんなところなのかそれぞれの単語を知った上でさらに全体像を掴むことに似ている。

<参照>「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221

 まぁ『三国志』自体もそうだけど、「どうせだったら『ヴィジュアル礼記』なんかあったら便利だなあ」と思っていた。

 そんなおり、図書館で見かけたのが池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)。『礼記』より『儀礼』の訳註を探していたことをすっかり忘れていたんだけど、試しに全四巻のうち一巻、つまり『儀礼I』を借りることにする。箱入りのハードカバーで同じ箱には『儀礼I 別冊図』として訳註とは別の冊子があり、そこには折り込みで45枚の図がある。どんな図かというと建物の平面図(ほとんど堂が描かれてある)があり、それぞれには『儀礼』の本文に対応した人物の配置や人物の行動が描き込まれている。それが右上の写真(少々分かりにくいが、図があってそこに文字があれこれ書き込まれているという雰囲気だけでも)。立体ではないにせよ、まさしくヴィジュアルなのだ。
 それで『儀礼I』の冒頭にある「自序」を読むと、こういった「空間的に再構成」することは『儀礼』を理解するために必要と考えられているようで、その例として「台湾の孔徳成氏等の儀礼グループでは十六ミリの映画を使用していると聞く」(※本来は旧字体で書かれているが表示の都合上、書き替える、以下、同じ)やら「さらに、焦循は十七篇のうち喪服・士喪・既夕・士虞礼を除く十三編については「習礼格(※「すごろく」とルビ)」を作って習うことを述べている。則ち、朝廟や庠に門・階・堂などを記入した紙の奕秤(※二字合わせて「ばん」とルビ)を作って、それぞれ人物・器物、それに揖・拝などの行動を示す棋(※「こま」とルビ)を木か石で種別に作り(後略)」やらが出ている。部外者だから無責任にここらへんはお人形ごっこを連想し、笑ってしまうんだけど。器物図は聶崇義/撰『新定三禮圖』に拠っているとのことなので、『中国社会風俗史』同様、畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている訳ではないので注意が必要かな。
 さて『儀礼』に目を通し新たな発見が楽しみだ(その前に『礼記』に目を通し終えたいところだけど・汗)

 こういうふうに堂は当時の日常生活で重要な場所なんだけど、三国創作において堂を描いたのは良いが、堂上で「踞する」描写をしてしまってはリアリティが台無しになってしまうのでそこらへんは注意が必要となる。

・メモ:踞牀
http://cte.main.jp/newsch/article.php/485

<2008年7月14日追記>

・池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)

巻の内訳

儀禮I
 士冠禮 士昏禮 士相見禮 郷飲酒禮 郷射禮

儀禮II
 燕禮 大射儀 聘禮 公食大夫禮 覲禮

儀禮III
 喪服

儀禮IV
 士喪禮 既夕禮 士虞禮

<追記終了>


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

※追記 メモ:東漢人多為舉主行喪制服

10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日


  • 2007年10月16日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 後漢書卷八 孝靈帝紀第八によると

(中平五年冬十月)甲子、帝自稱「無上將軍」、燿兵於平樂觀。

(西暦188年10月16日に帝自ら「無上将軍」を称し、平楽観において兵を輝かせた。)

とのことで中央研究院兩千年中西暦轉換で西暦(といっても日付は旧暦のまま)に変換すると、後漢の霊帝(劉宏、33歳)は西暦188年10月16日に「無上将軍」を自称したとのこと。今年で1819周年、来年に1820年という節目を迎える……と言っても来年、何かあるというわけではなさそうだが。
ちなみに霊帝は翌年の4月丙辰(11日)に34歳で亡くなったんだけど、その間に「無上将軍」として何かしたというわけではなさそうだけど。
同時期に設立された西園八校尉には一応、動きがある。同年十一月に八校尉の一人、下軍校尉の鮑鴻は葛陂賊討伐にあたる。ところがそこで横領したせいか(後漢紀より)、翌年の三月、獄に入り死んでいる。

<関連>閏1月28日は司馬師の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/514

 4月11日は霊帝崩御の日

三国創作のための『夏小正』メモ


  • 2007年9月21日(金) 22:48 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史  経書である戴聖/編『礼記』には孔子と弟子の問答など抽象的な話以外にも冠義(元服)や昏義(婚礼)で具体的に何を行うかの話も記載されている。『礼記』の成立が漢代であるため、それを受け継ぐ後漢や三国のことが書かれてあると考えても差し支えがないと個人的には思っている。そこで、そういった制度や慣習に関する具体的な記述をピックアップし、後でそれを頼りに読み直すことができるメモか何かを残しておけば、小説なり漫画なり三国志関連の創作をするのに役立つんじゃないかと思うようになる。
 実際、『礼記』を見てみると、清岡にとって馴染みない言葉が並んでいて理解が進まないため、通釈と語釈の入った書籍、明治書院の新釈漢文大系シリーズの『礼記』(竹内照夫/著)を図書館から借りてくることに。いざ図書館の本棚に立つと、戴徳/撰『大戴礼記』(栗原圭介/著)も気になり借りていく。
 まず『大戴礼記』を見ていくと「夏小正 第四十七」というところに目が行く。「夏小正は、夏の時に作られ農耕を主とした暦である。」(79ページより)ということで、それぞれの月の具体的な自然のことが記されている。『大戴礼記』と『夏小正』との関係にあれこれ蘊蓄がありそうだけど、ここでは特に取りあげない(詳しくはこの本で)。
 そういうわけで、夏小正に一通り目を通し(傳はほぼ省く)、解らないところがあれば通釈と語釈に当たり括弧付けで記述したメモを下記に置いておく。このメモの使用方法として(と私しか使わないか)、例えば、七月の背景描写をしようとすれば、寒蝉(ひぐらし)が鳴く描写を入れたり、逆に背景描写のように従に使うのではなく、五月の話が欲しければ、梅を煮て梅干しを作ることを主にした創作に使うのもいいかもしれない。

大戴礼記

夏小正 第四十七

夏小正
正月
蟄を啓(ひら)く(隠れ住んでいた虫どもが冬眠を終え動き出す)
鴈(かり)北に郷(むかう)ふ(雁が北に向かい移動)
雉(山雉)震[口句](く)す(けたたましく鳴く)
魚陟(のぼ)りて冰(こおり)を負う(背負う)
農厥(のうそ)の耒(すき)を緯(い)す(農耕に用いる耒をたばねる)
初歳に耒を祭り、始めて暢(ちょう)を用いる
[口+有](いう、にわ、苑を垣で囲んだ所)に韭(にら)を見る有り
時に俊風(大風、南風)有り
寒日凍塗(どろどろの道)を[シ條](あら)ふ(冬の日に氷りついた路を水で洗い流す)
田鼠(もぐらもち、土竜)出づ(田鼠が地上に出て活動を始める。猫は田鼠捕らえては食う)
農均田に率(したが)ふ(農耕に従っている人々は田をくさぎることに従っている)
獺(かわうそ)魚を獻ず(献じて祭りをする)
鷹則ち鳩と為る(鷹は変じて鳩となる)
農雪澤に及ぶ(農夫は春の雪解けを待って、農耕に着手する)
初めに公田に服す(初めに公田の農耕に服する)
藝(うん、香草)を采る(これを寝廟に供えて先祖を祀る)
鞠([口蜀]という名の星)則ち見ゆ
初昏(夕暮れ時)に參中す(参という西方に輝く白虎に宿る星が中する)
斗柄(北斗七星の杓形の柄にあたる部分)縣かりて下に在り(北方の上空)
梅杏[木也]桃([木也]・桃は山桃の類)則ち華さく(華は木に花咲くをいう)。
縞(きぬ)に[糸是](あかぎぬ)あり
鶏桴(孚卵)粥(しゃく、養)す(鶏が卵を養う)

二月
往きて黍(もちきび)を[耒憂](いう)す([耒憂]を用いて土ならしし種子をまく)。襌(単衣)なり
初めて俊羔厥の母の粥を助く(俊羔(大きな羊の子)はその母羊を助け養う)
多くの女士を綏(やす)んず(仲春の吉辰(吉日)、嫁娶や加冠の儀礼には心の安まる思いでいる)
丁亥、萬用ひて學に入る(学(大学)の初めの教学は丁亥の日)
鮪(巨大なまぐろ)を祭る
菫(すみれではなく、あおい)を栄えしめ、繁(しろよもぎ)を采る。
昆(衆)として小蟲(小さな虫が集まって動く)。[虫(氏/一)](ありの卵。食用)を抵(お)す
來降して燕乃ち睇す(降りてきた燕を流し目で見る。同じ屋根の下)
[魚單](うなぎの一種)を剥ぐ(→鼓を作る)
鳴く倉庚(こうらいうぐいす)有り
榮芸(正月の采芸が花咲く)
時有[禾弟]を見て始めて収める(成長した[禾弟]を採取)

三月
参則ち伏す((三月)には参宿という星が隠れて見えない)
桑を攝る(桑の葉をもぎ取る、蚕を飼うのがにわかに忙しくなる様子)
委たる楊(やなぎ)あり(委委…のびのびと葉が茂って下に垂れているさま)
[羊韋](羊がむれあつまる、羊は暖かくなると群集まる)たる羊あり
[(士/冖/虫)殳](けら、すくもむし)は則ち鳴く
冰を頒かつ(氷を氷室より取り出す。凌人職が氷を分けて大夫に授ける)
識([艸/職]の仮借時、葉はほおずきに似て花は小さく白く中心は黄)を采る
妾子始めて蠶(かひこ)かふ(妾とその子は始めて蚕を飼う。妾は卑いが子は尊い)
宮事(家庭のこと、家事)を執養す(ここでは蚕を飼うこと)
麥實を祈る(麦が実ることを天に祈る、殻を包んでいる皮のままだと保存がきき貴ばれた、前年の秋に種を蒔き翌年の晩春には実る。麦は穀の始め)
越(ここ、時を表す)に小旱有り
田鼠化して[如/鳥](ふなしうずら)と為る
桐芭(桐の花)を[才弗]う(払として細かくやわらかでしっとりした潤いがあり空にぽっかり浮かぶ風情がある)
鳴く鳩あり

四月
昴(星の名、白虎の宿星)則ち見る。初昏(夕暮れ時)に南門(星の名)正す
鳴く札(せみ)
囿(園の名)に杏(あんず)を見る有り
鳴く[虫或](よく、いさごむし)あり
王[艸/刀/貝](王瓜)秀づ(孟夏の月に生ず)
荼(と、のげし、けしあざみ、君の敷物を作る材料。花は菊に似て味は苦い)を取る
秀づる幽([艸/要](ひめはぎ)という草の名、根は薬用)あり
越(ここ、時を表す)に大旱(大きなひでり)有り
陟る(おすうまに乗る)を執り(母馬から引き離し)駒(おすうまの二歳)を攻む(順うように教育する)

五月
參(伐星)則ち見る(日を距てること三十度、東方)
浮游(かげろう)殷(さか)んなること有り(朝に生まれ日暮れに死ぬ)
[夬鳥](ふくろう、百舌?)則ち鳴く
時に養日(最も長い日)有り
乃ち瓜あり(今年始めて瓜を食う喜び)
良蜩(五采を備えた蝉)鳴く
[匚+(日/女)](せみ)の興るや、五日にして翕まる(羽を合わせ活動ができる)、望にして乃ち伏す(十五日にして鳴き、十五日にして伏して亡くなる)
灌(群がり生ずる)たる藍蓼(前者が染料、後者が食料)を啓つ(長大になるので分植する)
鳩鷹と為る(鳩が化として鷹となる)
唐蜩(夏ぜみをいう)鳴く
初昏(夕暮れ時)に大火(心星(火星)が南方に)中す(このときに黍を種える)
梅を煮る(梅を煮て日に曝し乾[木尞](梅干し)にする)
蘭を蓄ふなり(香草にして薬用に供せられている)
菽(しゃく、豆類の総称)の糜(うすいかゆ)あり(菽を用いて糜を作る)
馬を頒かつ(夫婦の駒を分かつ)
將に諸(こ)れ則を間(閑)せんとす

六月
初昏(夕暮れ時)に、斗柄(北斗七星の杓形の柄にあたる部分)正に上に在り(南方の上空)
桃(やまもも)を煮る(桃を煮て乾桃として保存)
鷹始めて摯(し)す(鳥を殺す意)

七月
秀(ここでは花さく意味)づる[艸/(口口)/隹](おぎ)葦(あし、この材は席を織る)あり([艸/(口口)/隹]葦はあしの花の咲いた以後の名)
狸子(たぬきの幼子)肇(はじ)めて肆(と)ぐ(始めてほしいままにふるまう、小動物を狙っては追い回し捕殺する)
湟潦(土の低い所の水たまり。大雨であふれる雨水)苹(よもぎ)を生ず
爽(水辺に生ずる草)死す(臭気を発し枯死する)
苹(よもぎ)秀づ(繁茂して花を開いている)
漢(天の川)戸を案ず(家の正面(南)に南北の順い天の川が位している)
寒蝉(ひぐらし)鳴く
初昏(夕暮れ時)に織女正しく東郷す(織女の三星が正しく東に向いている)
時に霖雨(長雨、三日以上降る雨)有り
灌(あつ、聚の意)める荼(と)あり
斗柄(北斗七星の杓形の柄にあたる部分)懸かりて下に在り(北方の上空)、則ち旦(日が出る直前)なり。

八月
瓜を剥ぐ(上皮を剥ぎ取って、祭祀や賓客用に供するためひたしつけtけものにする。瓜を蓄える時期)
玄(赤みを帯びた黒色)校(もえぎ色のしぼりぞめの衣、未婚婦人の衣)なり
棗を剥ぐ(祭祀や賓客に供する豆実とする)
栗零(お)つる(栗の熟し収穫する時期。零つるは栗のいがが自然に割れ落ちる意)
丹鳥(蛍)白鳥(蚊)を羞(すす、食べる意)む(蛍が蚊を食べる)
辰(房星)は則ち伏す(地上から見えなくなる)
鹿人のごとく從う(つき随って行動する、群に随って行動する)
[如/鳥](ふなしうずら)鼠と為る
參(伐星)中すれば則ち旦(明け方)なり(參は昏に東に見える)(※語釈より。「中する」を否定している説が多い)

九月
火(大火、火星のこと)を内(い)る(伏して見えなくなること)
[しんにょうに帯](わた)る(北より南へ空を渡り行く)鴻鴈(おおいなるかり)あり
主夫(火を司る夫、古代の火の出納の重要な職)火を出だす
陟(のぼ)る(去り行く意)玄鳥(元鳥、燕)ありて蟄(かく)る(冬眠に備え静かな所に隠れる)
熊(くま)、羆(ひぐま)、[けものへんに百](驢馬の一種)、狢(むしな)、[鯱の魚が鼠](いたち)、鼬(いたち)、則ち穴にす(あなごもりし冬季には冬眠する)
榮(花を開いている)鞠あり
王始めて裘(かわごろも)きる
辰(房星)日に繋(か)かる
雀海に入りて蛤と為る

十月
犲(やまいぬ)獣を祭る(性が猛悪で羊や豚を斗耐えては祭ることを生き甲斐を示す)
初昏(夕暮れ時→朝旦の間違い)に南門(南北の二つの大星)に見る
黒鳥(からす)浴す(さながら羽毛を洗浴でもしているかのように高く飛び上がり低く下がり、鳥の待っているのが見える)
時に養夜(夜が長い)有り
玄雉(きじ)淮(淮水)に入りて蜃(大蛤)と為る
織女正しく北郷す(北に向かう)。則ち旦(夜明け方)なり

十有一月
王狩りす(冬期の一時を武にあてる)
筋(弓)革(鎧、共に古代の兵器の代表)を陳(つら)ぬ(使用に耐えられると王に報告する儀礼)
嗇人(身分の低い官)從はず(狩りには行かない)
麋(鹿の一種)角に隕(お)とす

十有二月
鳴く弋(よく、いぐるみ)あり(いぐるみに自由を縛られて鳴いている禽(とり)がいる)
玄駒(おおあり)賁(はし)る
卵蒜(大蒜(にんにく)、小蒜のこと)を納る(君に献上する)
虞人(山林沼沢を掌る役人)梁(水をせき止めて魚を捕るところ)に入る(漁をする)
麋(鹿の一種)角を隕(お)とす(※十一月に同文)

三国時代あたりの名刺(謁、刺)


  • 2007年4月25日(水) 18:29 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史  趣味で三国志小説を書いていて、ある人物が留守中に訪ねて来ていて、その人物が置いていった名刺を見るってシーンを書いていたんだけど、後漢や三国時代にこういった名刺があるって初めて知ったのは何だろう、と思い出してみる。
 そういや、下記のサイト「睡人亭」の「三国志のページ」の「朱然墓」のページで知ったんだ。

・睡人亭
http://www.shuiren.org/

・朱然墓
http://www.shuiren.org/sangoku/syuzen.htm

 今で言う名刺とは用途が少し違うんだろうけど、今の名刺に近い物は、当時、「謁」や「刺」と呼ばれていたとのこと。上記ページに上げられる画像の「謁」には実際、木の板に「謁」と書かれている。これで「謁」と「刺」との形式が区別できるってこと。「謁」の方は

持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拜

と形式ばって書かれていて、「刺」は

故[章β]朱然再拜 問起居 字義封

と「謁」より簡単に書かれている。
 上記ページによると朱然墓は1984年6月7日に発見されたそうだけど、それより前に出版された林 巳奈夫/編『漢代の文物』(京都大學人文科學研究所1976年12月15日発行、新版は1996年)にも「謁」と「刺」のことが載っている(539ページ)。そこの冒頭には漢劉熙撰『釋名』卷六釋書契から「謁」と「畫刺」について書かれたところを引用してある。以下、そのまま孫引き。

謁、詣也、詣、告也、書其姓名於上、以告所詣者也

※冨谷 至先生の『木簡・竹簡の語る中国古代』(岩波書店2003年7月29日発行)の88ページを見て気付いたけど「以告所至詣者也」が正解だね

畫姓名於奏上、曰畫刺、作再拜起居字、皆達其體、使書盡邊、徐引筆書之、如畫也

 畫刺は「再拜起居」の文字が書かれているってことなので、このあたりが前述の朱然墓の「刺」の特徴をよく対応する。
 『漢代の文物』では続けて、1974年に江西省南昌市で発掘された東晋の墓にあった木簡の釈文を例に挙げ、挿図(木簡のスケッチ)付きで説明してある。その釈文は下記。

弟子呉應再拜 問起居 南昌字子遠

豫章呉應再拜 問起居

中郎豫章南昌都郷吉陽里呉應年七十三字子遠

 上から二つがおそらく「刺」で三つ目が「謁」だろうな、と思っていたら、『漢代の文物』では続けて、三つ目の説明がある。同じく『釋名』卷六釋書契から引用し、

 下官刺曰長刺、長書中央、一行而下也、又曰爵里刺、書其官爵及郡縣郷里也

「長刺」あるいは「爵里刺」としている。

 「作再拜起居字」の「刺」の方の例は「文物圖象研究資料庫 全文檢索」(下記)で「再拜」とか「起居」とか検索すれば、釈文を何例か見ることができる。それを見ると、身分を書いていたり、出身郡、出身県を入れていたり、いろんな形式があるんだな。


・中央研究院歴史語言研究所 文物圖象研究室
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/index.html

・文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm

※関連記事
・文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)

<9月23日追記>
2008年5月3日から東京富士美術館で開催される「大三国志展」には朱然の刺が展示される予定とのこと。

・大三国志展(2008年5月3日-7月13日)関連情報
http://cte.main.jp/newsch/article.php/699

・三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ
http://mitsuda.blogtribe.org/
・呉の隠れた名将―朱然とその一族(その1)
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-9b78ac33b9d3668728b31e3a29504164.html

<2008年5月28日追記>
關尾史郎先生のブログに名刺関連の記事があったので情報中継。
ついで、そこから釈文を引用。


・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・南京出土の名刺簡?
http://sekio516.exblog.jp/8022462/
※6/30日追記
  ・魏晋時代の名刺簡
  http://sekio516.exblog.jp/8221142/

--引用開始---------------------------------------------------------
折鋒校尉沛國竹邑東郷安平里公乗薛秋年六十六字子春
--引用終了---------------------------------------------------------

ここの記事の流れから言うと釈文だけ見ると「謁」ってやつ?

メモ:五行相生説


  • 2007年4月14日(土) 13:43 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,517
歴史  中国古代の政権を五つの属性に当てはめ、どう交替していくかを表現する五行説のことは以前から知っていて、五行説にも五行相剋説と五行相生説があり(ここらへんは普通の漢和辞典に載っていた)、後漢~三国の頃は後者、五行相生説を取っていて、前漢あたりは五行相剋説ということも何となくは知っていたんだけど、特に何かを読み進めていくうちに困ることは無かったんで、まとめずに居た。
 そんなときに「三国志ファンのためのサポート掲示板」でツリーが立つ。

・三国志ファンのためのサポート掲示板
http://cte.main.jp/
・五徳説-それぞれの王朝は何徳?
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1635

 掲示板なもんだから、初めはみんなでいろんな情報や意見を出し合って居るんだけど、特に下記の書き込みがまとまっていて読んでいても面白い。あと出典が詳しければ完璧。

・皆様、ありがとうございます♪感謝感謝!
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1666

 つまり
五行相剋説:土→木→金→火→水 ※火に水は勝つ、といった流れ
五行相生説:木→火→土→金→水 ※木から火が生まれ、といった流れ

・色と方位の対応
木:青、東
火:赤、南
土:黄、央
金:白、西
水:黒、北
※詳しくは知らないが、ちょうど四神(四霊、四獣)が対応している。
 青龍:東、朱雀:南、白虎:西、玄武:北 玄は黒。

 この後、東大の東洋文化研究所のデータベースをウェブ上で見かけ、その中で後漢の蔡[巛/邑](サイヨウ)の著作を集めた『漢蔡中郎集六卷』収録の『獨斷』(独断)が見ることができ、そこでこの時代は五行相生説として認識されていたんだな、と確認がとれる。

・東京大學東洋文化研究所漢籍善本全文影像資料庫
http://cte.main.jp/newsch/article.php/253

以下に該当部分を引用。合成文字ばかりでわかりにくい引用になってしまうけど。

易曰帝出乎震震者木也言[ウ/必]犧氏始以木徳王天下
也木生火故[ウ/必]犧氏没神農氏以火徳繼之火生土故
神農氏没黄帝以土徳繼之土生金故黄帝没少昊氏
以金徳繼之金生水故少昊氏没[山/而 頁][王頁]氏以水徳繼之
水生木故[山/而 頁][王頁]氏没帝[學-子/告]氏以木徳繼之木生火故帝
[學-子/告]氏没帝尭氏以火徳繼之火生土故帝舜氏以土徳
繼之土生金故夏禹氏以金徳繼之金生水故殷湯氏
以木徳繼之水生木故周武以木徳繼之木生火故高
祖以火徳繼之

 途中は白文ながらすごくわかりやすい漢文なんだけど、いきなり出だしがわかりにくい。
 易に「帝出乎震」という言葉がある、というのはわかるんだけど。
 ネットで検索し何気なく見ていたらすぐわかる。
 つまり震は辰に通じていて東を意味するんだね。易にいう、帝は東から出る。東というのは木だ、てな感じだね。それで当時でも畫像石等で半身蛇に描かれる伝説上の伏羲([ウ/必]犧)を引っぱり出してきたり、夏以前が変に多かったりするんだ。とりあえず以下にまとめる。といっても「三国志ファンのためのサポート掲示板」に書かれていたまとめと同じだけど

[ウ/必]犧氏:木徳
神農氏:火徳
黄帝:土徳
少昊氏:金徳
[山/而 頁][王頁]氏:水徳
帝[學-子/告]氏:木徳
帝尭氏:火徳
帝舜氏:土徳
夏禹氏:金徳
殷湯氏:水徳
周武:木徳
(漢)高祖:火徳

 あと2006年3月11日に開催された「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」で講演「魏・蜀・呉の正統論」があったんだけど、ここで後漢から三国にかけての五行相生説がどう使われていたかがまとまっていて興味深いものだった。

・2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/305


<おまけ>

・国の色(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2702

いや、それはゲーム会社によるけど。

閏1月28日は司馬師の命日


  • 2007年2月21日(水) 12:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 今朝、「司馬師 命日」という検索ワードが来たんで、下記記事の二匹目のドジョウ……いや複数匹のドジョウを狙って、さらっと調べてみる。

・8月5日は司馬懿の命日 (※付8月9日の司馬昭)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/148
・4月25日は夏侯惇の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/326

※追記 3月13日は張純の忌日

※追記 歌手名「司馬師」

司馬懿の命日のコメント覧を見て貰うとわかるんだけど、私には司馬師と司馬昭を間違えた前科があるんで是非とも書こうと思った。
晋書景帝紀によると、

(正元二年)閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。

とのことで、中央研究院兩千年中西暦轉換によると、司馬師は紀元255年閏1月28日に48歳で崩御したそうな。
…と、別に今日明日が何かの日ってわけじゃなかったんだね。

それより閏月だとファンの方は企画が立てづらいだろうに。
(※この年は 正月→閏月→二月 という流れ)
ちなみに紀元255年閏1月28日をそのまま新暦にすると紀元255年3月23日とのこと。何かするならこの日を使うとかね。

しかし、なぜに検索で「命日」という言葉を使いたがるんだろう(それをいうなら「忌日」)。「命日」は当時の言葉ではないので単純に考えて検索では引っかかりにくいように思えるけど、言葉的に綺麗だからかな。
まぁ、それを「命日」という言葉を使いたがることを知っているからこうしてタイトルを「閏1月28日は司馬師の命日」としているんだけどね(笑)

ちなみに三国志スケジュール試用版の方では「亡くなった日」という表記にしている。

<10月16日追記>
そういやアーケードゲームの『三国志大戦2』の影響で(魏後伝、蜀後伝、呉後伝などの群雄伝の影響?)、司馬師、司馬昭にも人気が出ているとのこと。あまりよく分からないんだけど、それは本人たちの人気じゃなくてゲームで使うカードに描かれた絵が作り出すイメージやセリフに依るところが大きいと思えるんだけど、どうなんだろう。
(さらに趣向を限定すると、(大戦で)昭師が流行りらしい・笑)

メモ:武冠のあみあみ


  • 2007年2月 8日(木) 21:10 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,022
歴史
透彫香炉のパターンのスケッチ武冠のスケッチ。色はテキトー
 ここ三国志ニュースでは複数人でブログ記事を書き込めるようになっていて、一人一人がそれぞれプロフィールを書き込むことができる。プロフィールにはいろんな項目があるんだけど、その中に画像を入れるところがある。ここに顔写真とか個性的な絵とかを入れるってこと。
 以前まで右にある二つの画像のうち上の方をつかっていた。これは2005年1月に大阪であった中国国宝展に展示されていた「透彫香炉」(前5-前3世紀)の透かし彫りパターンの一つを抜き出してスケッチしたもの。元が青銅なのでこんな色にしてみた。

・中国国宝展(他サイトのレポート)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050923.html

 ごく一部ですごく好評だったこの画像もそろそろ飽きてきたんで、変更となる。それが下の方の画像。Adobe Illustrator CSで描いている。
 この元ネタは林巳奈夫/著『漢代の文物』に載っている、「人文研寫眞」から引く陶俑のスケッチ。つまりスケッチのスケッチってところだろうか。但し、「漢代の文物」は同じスケッチが二カ所、載っていて両者とも白黒だが、片方の[巾責]の部分(私のスケッチでいうところの赤い部分)はグレーで着色が施されている。そのグレーは印刷がもともと白黒だからなんだけど、カラー印刷だとそこは赤色になるんだろう。
 実際、私は似たような陶俑を何体も、京都でやっていた特別展「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢─建築・人・動物」で2006年4月に見ている。

・中国古代の暮らしと夢
http://cte.main.jp/newsch/article.php/317

 赤い[巾責]は漢代の武吏の標準的なかぶりものであることが沈従文ら/著「中国古代の服飾研究 増補版」で指摘されており、以前、別のサイトの掲示板に書き込んだ。
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=72

 プロフィールの画像の[巾責]は良いとして、その上にのっているあみあみ。一体これはどんな材質でできているの? とか疑問がわいてくる。まず基本となる続漢書の輿服志をあたる。

 続漢書の輿服志に書かれてある、

武冠、一曰武弁大冠、諸武官冠之。侍中・中常侍加黄金[王當]、附蝉為文、貂尾為飾、謂之「趙惠文冠」。

<テキトー訳>
武冠は一に武弁大冠と言われ、諸々の武官がこれを冠する。侍中と中常侍は(これに)黄金の[王當](みみだま)を加え、蝉をつけて文様とし、貂尾を飾りとし、これは「趙惠文冠」といわれる。

 さらに晋書の輿服志をあたると

武冠、一名武弁、一名大冠、一名繁冠、一名建冠、一名籠冠、即古之惠文冠。

<テキトー訳>
武冠は一に武弁と名付け、一に大冠と名付け、一に繁冠と名付け、一に建冠に名付け、一に籠冠に名付け、古の惠文冠に近い。

とあり、「籠冠」ってあたりが[巾責]の上に乗っている冠の「あみあみ」な形状をよく表している。と、「籠冠」のくだりは「漢代の文物」の受け売り(笑) しかし『漢代の文物』では特にこの籠部分が何で出来ているとかは書かれていない。
 確か、漢代の進賢冠の実物は出土していないんだけど、『漢代の文物』にもスケッチが載っているように武冠(※追記。正確には武冠の籠部分)は武威磨嘴子や馬王堆漢墓から出土している。そのため、材質等は調べればわかる話だ。

※冠関連の関連リンク
・一梁?メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/365
・メモ:三才圖會と三禮圖
http://cte.main.jp/newsch/article.php/480

※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

 そこでとりあえず手元の本をあたってみることにする。それは『漢代物質文化資料図説』という本。

・孫機/著「漢代物質文化資料図説」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/351

 この書籍の233ページからはじまる「58 服飾II 武士的弁、冠与頭飾」にバッチリのってそうだ。しかし、この書籍の本文は私が理解できない中国語でしかも慣れない簡体字のため、内容を理解するのが困難であり無理を押すと間違った解釈をしてしまう怖れがあった。
 でも一体、武冠のあみあみ部分は何でできているんだろう、という好奇心には勝てず中国語の文法を少しも知らず無理して訳してしまう(汗)
(※これは大げさな表現ではなく、実際に昨日、私が簡体字の「頭」と「興」の区別がつかない程、中国語を理解していなかったので)

 まずは本文の引用から。簡体字では表示できないことが多いので、その都度、EmEditorのプラグインを使って繁体字へ変換しており、それでも表示できないものは[]付きの合成文字で代用しているという何とも中途半端な字体になってしまっている。

 将弁和平上[巾責]組合在一起、与進賢冠和介[巾責]組合在一起的情況相似、所以它又得名為“武弁大冠”或“武冠”。雖然從根本上説、它并不是冠、但在流行過程中、它却被加以種種冠類的称謂。≪晋書・輿服志≫説:“武冠一名武弁、一名大冠、一名繁冠、一名建冠、即古之惠文冠。或曰趙惠文王所造、因以為名。亦云、惠者[虫惠]也、其冠文輕細如蝉翼、故名惠文。”其實惠文冠与趙惠文王并無関係、将惠文解釋為[虫惠](蝉)文、亦嫌遷闊。按≪礼記・喪服≫鄭注:“凡布細而疏者謂之[糸惠]。”武弁正是用細疏的[糸惠]布制作的。也有時在制弁的織物上[シ余]漆、馬王堆3号西漢墓与武威磨嘴子62号新莽墓均曾出漆[糸麗]紗弁(58-3・4);前者放置在一個漆[匚+算](86-4)、後者還戴在男尸頭上。磨嘴子弁周圍裹細竹筋、頂部用竹圈架支[才掌]、内襯赤[巾責]、清楚地反映出武弁的實際状況。這些弁的[糸麗]紗均孔眼分明。不僅實物如此、画像石中的武弁、也常特地刻画出網紋来、表示原物的質地是細疏的織物。但当弁[シ余]漆以後、変得堅硬起来、成為一頂籠状的甲殼、即所謂籠冠。籠冠偶見有直接戴在頭上的(58-11)、多数是将它嵌在[巾責]上。
 先秦時的書弁是浅紅色的、直到漢代、紅色仍是武士冠服的主要色調。這時在武弁之下用紅[巾責]。上述武威磨嘴子62号墓中襯[執/土]武弁的[巾責]就是紅色的。望都1号漢墓壁画之“門下游徼”所戴的武弁下也透出紅[巾責]。這和≪東観漢記≫所称:“詔賜段[匕/火頁]赤[巾責]大冠一具”(≪御覧≫卷六八七引)正相合。由于漢代的軍官和士兵穿[糸是](黄赤色)衣或[糸熏](暗赤色)衣、戴赤[巾責]、所以紅色成了代表軍人的顔色。≪漢書・尹賞伝≫説:“探赤丸、斫武吏;探黒丸、斫文吏。”≪論衡・商虫篇≫説:“虫食谷……夫頭赤則謂武吏、頭黒則謂文吏所致也。”也正是基于此種原因。

※ここの(58-3・4)などの()付きの数字は『漢代物質文化資料図説』の挿図に対応している。(58-3・4)がそれぞれ武威磨嘴子62号新莽墓と馬王堆3号西漢墓の漆[糸麗]紗弁のスケッチで、(58-11)が漆[匚+算]という箱のスケッチ、(58-11)が籠冠を直接頭に載せている画像。また、上記の文中に「晋書・輿服志」からの引用部分があるが、「一名籠冠」という記述が抜けている。

 それでこれを訳そうと、以前、買った中日辞書を探したんだけど、見つからない(誰かに貸した?)。そのため、以前、掲示板で教えて貰ったオンライン日⇔中辞書「北辞郎」を使うことになる。

・「北辞郎」に三国志の単語を入れてみる(三国志ファンのためのサポート掲示板の書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2034
・オンライン日⇔中辞書「北辞郎」
http://www.ctrans.org/cjdic/index.php

 そもそも文法を知らない私がどんな辞書を使おうとも変な訳文にしかなりえないので、以下に続く訳文が変なのは決してこの辞書のせいではない(笑)。
 というわけで、以下に訳文(と言える代物でもないが)。


 弁と平上[巾責]とを一緒にする組み合わせは、進賢冠と介[巾責]を一緒にする組み合わせの状態に似ていて、そのため“武弁大冠”あるいは“武冠”という名となる。根本は説明したとおりだといっても、それは決して冠ではないが、流行の過程の中では、それは返って様々な冠類の名称へと加えられる。『晋書・輿服志』によると、「武冠は一名を武弁、一名を大冠、一名を繁冠、一名を建冠といい、古の惠文冠に近い。あるいは趙惠文王によって作られたと言い、そのためその名となる。一方、惠というものは[虫惠](せみ、つくつくぼうし)であり、その冠の文(文様、かざり)は蝉の翼のように軽く細く、そのため惠文となづけられたと言われる」その実際の惠文冠と趙惠文王とを並べるのは関係がなく、必ず惠文は[虫惠](蝉)文となると解釈され、また広く変移することを嫌う。『礼記・喪服』鄭注とつきあわせる:「およそ布が細かいとあらい目になりこれを[糸惠]と言う」 武弁はまさしく細疏(細かくあらい目)の[糸惠]の布を用いて制作された。時には弁の織物の表面に漆が塗られており、以前に馬王堆3号西漢墓と武威磨嘴子62号新莽墓との両方から漆が塗られた[糸麗]紗弁(綺麗な目のあらい弁)が出現した(58-3・4);前者は一個の漆が塗られた[匚+算](86-4)に放置されており、後者は依然として男の屍の頭上に被さっていた。磨嘴子の弁の周囲には細い竹筋でくるんでおり、頂部には竹の囲いの架を用い支えており、内側の下には赤[巾責]があり、明晰に武弁の実際の状況を反映している。これら弁の[糸麗]紗はすべてはっきりと目がある。実物はそればかりか、画像石の中での武弁に常にもっぱら網の模様が描き出されていて、現物の性質が細疏(細かくあらい目)の織物であることを意味する。ところが弁に漆を塗ったときから後、堅くなり起きあがり、一つの頂点が籠状の甲殼となり、すなわち籠冠と言われるところとなる。籠冠は、時々、頭上に直接のせるように見られ(58-11)、多くは[巾責]の上に必ずそれがはめこまれる。
 先の秦の時の書の弁は浅い紅色で、漢代になるまで紅色は依然として武士の冠と服の主要色調だった。当時武弁の下に紅い[巾責]があった。上述のように武威磨嘴子62号墓のあて布の武弁の[巾責]は紅色だった。望都1号漢墓壁画の「門下游徼」でのるところでは武弁の下から紅[巾責]が透き出ていた。これと『東観漢記』とにあげられる:「詔令で段[匕/火頁]に赤[巾責]と大冠の一式を賜った」(『御覧』卷六八七に引く)とちょうど一致する。漢代の軍官と士兵が[糸是](黄赤色)の衣あるいは[糸熏](暗赤色)の衣を身につけ赤[巾責]をかぶることによって、したがって紅色は軍人の色合いを代表するようになった。『漢書・尹賞伝』説:「赤丸を探り、武吏を切り;黒丸を探し、文吏を切る。」 『論衡・商虫篇』説:「虫食谷……大人の頭が赤いのはすなわち武吏、頭が黒いのがすなわち文吏のいきつくところだ。」ちょうどこの種の原因に基づいている。


 というわけで武冠のあみあみ(上の文では「弁」)は漆をぬった細疏(細かくあらい目)の織物であり、竹で形を整えているものというのが正解っぽい。あと赤[巾責]のこともここで再確認できた。今、google等の検索サイトにて「麗紗弁」(これを簡体字にする)という単語で検索をかけるといくつかひっかかり、中には大きさ等が書かれているものもある。
 やはり実物があると説得力があるなぁ。漢代の進賢冠もこの調子でどこからか出てこないのかしら。


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

※追記 メモ:漢中興士人皆冠葛巾