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4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日


  • 2009年4月16日(木) 12:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,548
歴史 ・孫権の忌日  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2874


 以前、上記のリンク先のように書き込んだんだけど、『三国志』呉書呉主伝に、

(太元二年、紀元252年)夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。

<清岡による訳>
(太元二年、紀元252年)夏4月に孫権は薨去し、当時、年七十一で、大皇帝と諡をつけた。


とあって、亡くなった月日まで書いてない。ところが同書の他の伝、諸葛恪伝には

權疾困、召恪・弘及太常滕胤・將軍呂據・侍中孫峻、屬以後事。翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。

<清岡による訳>
孫権は苦しみ、諸葛恪と孫弘および太常の滕胤、将軍の呂據、侍中の孫峻を召し後事を任せた。翌日、孫権が薨去した。孫弘は元より諸葛恪と穏やかではなく、諸葛恪により治められることをおそれ、孫権の死を隠し訪ね、偽りの詔により諸葛恪を除することを望んだ。孫峻が諸葛恪に告げたため、諸葛恪は孫弘に面会を求め、座中でこれを誅することを図り、すなわち、死亡を公表し服した。弟の公安督の諸葛融に書で言う。
「今月十六日乙未の日、大行皇帝は万国を委棄し(崩御し)、群下大小は嘆き悲しまないものはなかった。


とあって、孫権が亡くなった日が記されている。
 冒頭のリンク先にも書いたが、念のため、中央研究院兩千年中西暦轉換で太元二年(紀元252年)の4月16日のところを見てみると、確かに乙未の日になっている。

 三国志ニュースの過去の記事を見ると、結構、四月に忌日(※仏教用語で言うところの「命日」)がくる人物が多い。下記にリンクと共に纏めてみよう。

4月
  4日 孫策
 11日 劉宏
 24日 劉備
 25日 蹇碩
 25日 夏侯惇
 26日 孫権

※追記 6月27日は賈詡の忌日

※追記 三国統一(280年3月15日)

<2016年4月29日追記>

・呉下の凡愚の住処
http://ameblo.jp/ancyon/

・東呉大帝孫権の命日
http://ameblo.jp/ancyon/entry-12154100528.html


・敎団 (Vitalize3K) on Twitter
http://twitter.com/Vitalize3K

・Twitter / Vitalize3K: 「最後になりますが『建康實録』には「(神鳳元年)夏四月乙未,帝崩於内殿」と記載され、『集解』には「潘眉曰:吳主以四月薨推神鳳元年四月乙未,乃二十六日傳文脫二字也」とあります。ですので16日ではなく26日だと考えてます。 ...
http://twitter.com/Vitalize3K/status/725690134247526400

多分、当時、『三国志集解』を持ってなかったんで、それに当たるという基本が清岡になかったと。ちなみに『三国志』巻四十七呉書呉主伝の「時七十一」の集解部分が「權疾困召諸葛恪孫弘滕胤呂據孫峻屬以後事見諸葛恪傳」とあり、特に日付のことがかかれてないが、上記四番目のリンク先にあるように、巻六十四呉書諸葛恪伝の「今月十六日乙未」の集解部分が「潘眉曰呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脱二字也」とあり、神鳳元年四月の十干十二支の乙未が二十六日なので、諸葛恪伝で「二」の字が抜けているとのこと。というわけで記事タイトルと終わりの一覧を変更。

※追記 5月17日は三国魏の文帝崩御の日

※新規関連記事 デジタル時代の中国学リファレンス(1)(漢字文献情報処理研究17号2018年1月25日発行)

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