毎年、この時期は忙しいので、書けず終いだったけど、今回は十日前ほどに予め書いて、エディタに保管していた。(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「26日」から「25日」に訂正)
何かというと今日8月25日は何進字遂高の忌日、あるいは薨去した日。勿論、例の如く旧暦ね。
・『後漢書』孝靈帝紀
八月戊辰、中常侍張讓・段珪等殺大將軍何進、於是虎賁中郎將袁術燒東西宮、攻諸宦者。
・ 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)
戊辰、大將軍何進白太后、將決其事、謀欲盡誅諸常侍、選三署郎補其處。中常侍張讓・段珪相謂曰:「大將軍常稱疾、不臨喪葬、今忽入省、此意何為?竇氏意復起邪?」使侍者聽之、〔具〕(冥)聞進言。出坐省戸下、讓謂進曰:「天下憤憤、亦非獨我曹也。又先帝嘗與太后不快、幾至成敗、我曹泣涕救解、各出家財且千萬、共為禮、和悅上意、但欲託門戸於卿耳。今卿云何欲滅我曹種族、不亦太甚乎!卿言省内濁穢、公卿已下忠清、為誰乎?」於是尚方監渠穆拔劍斬進。珪・讓偽詔以故太尉樊陵為司隸校尉、故司空許相為河南尹。尚書得詔疑焉、請大將軍出議之。中黄門以進首與尚書曰:「何進謀反、以伏誅。」
つまり光熹元年八月戊辰(紀元189年8月25日)に中常侍の張讓と段珪の命令により尚方監の渠穆が何進を殺害する。
この二、三日後に張讓らも亡くなって董卓が入京するって流れ。
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4月11日は霊帝崩御の日
※追記
メモ:「前漢後期における中朝と尚書」
※追記
8月27日は何苗の忌日
余談ながら、この時期は三国魏で再建されなかった南宮がまだ健在で、文だけだとなかなかわかりづらいが、都城関連のCOEの冊子にある図を見ながら文を追っていくと、なるほど、と思うことが多い。
※追記
メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)
※追記
大将軍 三国志伝(2013年9月5日-)
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