過去の記事で「x月x日は○○の命日」なんて銘打って書いていたけど、「命日」は仏教用語だろうから当然、三国時代では使われていないと自己ツッコミをしつつ今回から「忌日」と銘打つ(
前回、自己ツッコミ済だけどね)。
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それで今回、取り上げるのは張純。同姓同名が居ると思うけど、漁陽郡漁陽県出身で中山相だった張純のこと。中平四年に叛乱を起こした人物だ。
そのことは『後漢書』孝靈帝紀に載っている。
<本文>
(中平四年六月)
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。
<清岡の頼りない訳>
(紀元187年6月)漁陽人の張純と同郡の張挙は兵叛を挙げ、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠らを攻め殺した。張挙は天子を自称し、幽・冀二州に進寇した。
この張純は三国志ファンに馴染みのない人物かもしれないが、劉備の初戦に関わる人物として、下記に引用する『三国志』蜀書先主伝の注に引く『典略』に出てくる
<本文>
典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。
<清岡の頼りない訳>
典略に言う。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。
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それでようやく本題だけど、下記のように『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)だとこの張純は三月己丑(3月13日)に殺されたとのこと。ただ三月己丑が張純の殺されたところまでかかるかどうかわからないけど。三月己丑の日付の同定は例によって「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使っている。
<本文>
(中平六年)
三月己丑、光祿劉虞為司馬領幽州牧、撃張純。虞使公孫[王賛]撃純、大戰破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、[王賛]為都亭侯、並鎮北邊
<清岡の頼りない訳>
(紀元189年)
3月13日、光祿の劉虞は司馬になり幽州牧を領し、張純を撃った。劉虞は公孫[王賛]に張純を撃たせ、大いに戦いこれを破った。張純の客の王政は張純の首を斬り、下った。劉虞は襄賁侯、公孫[王賛]は都亭侯に封じられ、並んで北辺を鎮めた。
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