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メモ:「洛陽八関とその内包空間」


  • 2009年1月25日(日) 20:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,647
研究 ※2012年7月17日追記。昨日あたりから「漢魏洛陽 塩沢裕仁」等の検索語句で複数のホストから検索されるんだけど、また学生がテストやレポート対策でネット検索している可能性が高い。まだその確証がとれるホスト名じゃないが、確証がとれれば、そんな短絡思考は本人のためにならないし、ログを塩沢先生に提出しようかな。※追記。07/18 (水) 14:06:40に法政大学から「漢長安の都市空間について」という検索。続けて同所から07/18 (水) 14:32:40に「洛陽 八関」、外務省から07/18 (水) 16:44:48に「漢魏洛陽 塩沢」、前者はともかく後者はいよいよ別件の可能性が出てきた。※20日追記。外務省や東京都の行政以外のアクセスはテスト前の挙動そのものだ。節操がない。※追記。07/25 (水) 11:44:15に明治大学から「漢 長安 都市空間」とありそれだけでなく洛陽関連も含み、複数のドメインから検索があった。どうもそこらへんが震源地のようだね。しかし一部の人間かもしれないがせっかく大学のネットを使っているのに、CiNii等の論文検索じゃなくて、普通の検索サイトで何度も検索する者を輩出するだなんて、日本の情報教育(あるいはネットリテラシー教育)はどうなってんだろう?と思ってしまう。

※2013年7月追記。7月上旬から不特定多数のホストから「塩沢裕仁 洛陽 長安 違い」とかの語句で検索されるようになる。上記の追記と合わせてもしや年中行事になりつつあるね、このネット・リテラシーの低さは。来年当たりどこの大学のどの授業か明らかになりそう。※追記。と書いていると、07/18 (木) 16:14:33にmita15.adst.keio.ac.jp(131.113.221.79)から「漢魏洛陽 長安 違い」と検索語句がある。評価に影響して欲しいところだが。


 メモ:「メモ:「党錮の「名士」再考」」に続くシリーズなんだけど、まったく分野が変わる。

※関連記事 メモ:虎牢関って

 上記のような記事を2008年2月に書いていて、さらに昨年末に『三国志』呉書孫破虜討逆伝を読んでいて、孫堅による洛陽への進軍の道のりが意外と詳しく書かれているものの、具体的にはさっぱり想像できない。この時代、洛陽は八関で守られていることは『後漢書』皇甫嵩伝から伺え、それに対応する場所は譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社)に載っているものの、地形まで含めるとよくわからないというのが私の正直な感想だった。
 そんなときに思い出したのが、下記の2003年の論文。と言っても上記の疑問に対応するところばかり読んでいたが。

塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集(20031105)pp.89-106)


 まずはページ数付きで目次から示す。

89 はじめに
90 I. 中国都市研究における漢魏洛陽研究の現状と課題
92 II. 洛陽八関と洛陽盆地の自然環境
98 III. 八関内における聚落の展開と空間構成
102 まとめ
104 註


 「はじめ」の冒頭では魏晋以前を対象とした中国都市研究はこれまで城壁の内側の空間でもって都市で理解していることを指摘している。都市活動は城外の空間をも如何に捉えるかが課題という。例えばある地方都市が首都になると過度な都市化が進むため城外の空間を巻き込み、その事例が建康(※呉だと建業だね)、許昌であり、広域な都市空間を有する点では長安と三輔の関係も同様だという。
 そういった前置きを承けて本題の洛陽に入り、洛陽近郊には、四関(函谷関、伊闕、成皋関、孟津関)で構成される地域(=洛陽盆地)と後漢末にはさらに八関(函谷関、広成関、伊闕、大谷関、轘轅関、旋門関、小平津関、孟津関)が置かれ南の伊川盆地まで含むように拡大したそうな。
 そこで論文の主題が出てくる。こういった八関の内包空間を洛陽の都市空間(Luoyang's metropolitan community)という認識で捉えられるか、というもの。それはかかる地域空間の様相を探求することで解明していくそうな。

 「I.」はタイトルどおりこういった都市研究の流れについて書かれている。ここは私にとって参考になることはなるが、時代が私にとって広範囲すぎて興味が持てないのでここでは割愛。。
 当論文の伏線になるところは、池田雄一「漢代の河南県城をめぐって-漢代の地方「都市」について-」の論文にある、城外の自然聚落の展開に触れていること。
 こういった研究は従来は大城のプラン比較という手法だったが、近年の研究動向に鑑み、この論文では「生活空間という視点より都市洛陽を取り巻く生活圏としての洛陽・伊川盆地の様相を明らかにして行きたい」(※論文より)という。

 「II」の冒頭では『後漢書』巻8霊帝本紀中平元年条の注や、『後漢書』巻71皇甫嵩朱儁伝の八関の記述を引き、その設置は黄巾の乱に備えた洛陽の防衛体制が起因であると指摘。それぞれに八関都尉、さらに城内に二十四都亭、城外に十二都亭(門亭)が置かれたと言う。
 八関に至るまでの話に戻り、『初学記』巻7地部関8に引く『洛陽記』や『水経注』伊水条の陸機の言では漢代の洛陽には四関があったと指摘。それは前漢後半から光武帝(位25-57)による定都前後での洛陽の状況としている。
 それが中期、安帝(位106-125)の頃に降り、張衡『東都賦』(『文選』所収)により六関(函谷、旋門、孟津、大谷、伊闕、轘轅)によって構成されていたと指摘される。またこの論文で「八関」とは「一都尉治」(八関都尉)を加えたものを指すと断りが入る。
 続けて、文献史料や衛星地図を用いた第1図が提示され、そこに示される洛陽盆地の説明に続き、八関の個別の説明が本文で順に書かれる。
 まず都尉治は『水経注』巻15洛水条の恵水を引き説明される。そこに出てくる「散関(城垣)」の説明では第2図に楊守敬『水経注図』から引用した図を載せ、『後漢書』よりそのラインが皇帝の行幸・校狩の道程(上林苑=函谷関=都尉治=広成苑)にあたると説明している。

※清岡注。ちなみにサイト「三国志討論会」のログによると楊守敬『水経注図』は早稲田大学の「古典籍総合データベース」で公開されている。

・古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/

 洛水と黄河の合流点(洛口)の右側の丘陵東麓(汜水口)に置かれるが、正確な位置は不明とのこと。『水経注』巻5河水、『後漢書』巻71皇甫嵩朱儁伝、『讀史方輿紀要』巻47河南2汜水の記述から、成皋関のの西側の丘陵地と解釈されている。
 広成関は遺址は確認されていないものの、伊川盆地東南部、汝水との分水嶺あたりにあるとし、『讀史方輿紀要』巻51河南6汝州から東南の備えであることを記している。また広成苑は『後漢書』巻5安帝本紀永初2年条より皇帝校狩の地であり、飢饉に対し公田仮作の場であることが示されている。
 伊闕は洛陽盆地と洛陽盆地を隔てる渓谷に置かれているという。洛陽盆地での伊水の南岸には熊耳山麓の大地が広がり、熊耳山の谷間には大谷関が置かれるという。『後漢書』巻72董卓伝より大谷関の北側から洛陽の南側までの間には帝陵区が設けられたという。轘轅関は熊耳山と嵩山山塊の谷間にあるそうな。『括地志』巻6洛州緱氏の記述を引いており、この関を抜けると許昌に出ると記されている。
 『元和郡縣志』巻5河南道新安縣の記述を引き、秦の函谷関を東へ遷したことを示し、『輿地廣記』巻5西京河南府新安縣から重要性を指摘した記事を引いている。
 邙山台地の北側に黄河が流れており、黄河の南岸は黄河七古津(孟津、富平津、小平津、冶坂津、委粟津、平陰津、硤坂津)が設けられ、台地を越えて盆地に至るルートは限られているという(津の背後は急峻な懸崖だそうな)。それらの中から城関が置かれたのが孟津、小平津という。
 「自然地形を最大限に活用して都尉の管轄する八関を設け、高大な洛陽盆地(伊川盆地を含む)全体を封鎖したのが、八関の防衛構想である」(※論文より)

 「III」ではまず先行する洛陽城内の研究を紹介し、この論文では割愛する旨が書かれている。
 八関内において、洛陽大城を中心に、東に偃師・鞏、西に河南・穀城、北に平陰・平、東南に緱氏、西南に新城が衛星都市のように縣城が展開していると指摘している。縣城の内側には郷や聚という名称の聚落が目立ち、『後漢書』郡国志では郷・聚・亭・城といったものが洛陽盆地では他の郡縣に比べ格段に多いという。洛陽縣の管轄域にある聚落の存在は正史中から探しにくく、『讀史方輿紀要』に頼らざるをえないそうな。これより小規模な聚落に関する文献史料は極めて少なく、城外の里としては東北の上商里が確認されるという。
 ここで問題提起が出てきており、つまり「従来議論されてきた郷、(亭)、里という行政組織とここに見られる聚や城という聚落の存在との関係を如何に説明すべきであろうか」(※論文より)。聚や城の行政上の位置づけに着目されている。重近啓樹「秦漢の郷里をめぐる諸問題」(『歴史評論』403(1983))や堀敏一「中国古代の亭をめぐる諸問題」(『中国古代の家と集落』汲古書院)から引いてきて、前者から漢代の自然聚落と行政聚落とが別次元のものとして存在する点、後者から聚の中に里が存在している事例より聚には行政機関がおかれず、その中の里は他邑の郷か縣に直属した点を引用されている。
 さらに洛陽になぜ聚が多いのかという問題提議。先の堀氏の見解から洛陽に郷がほとんど見られないという状況が説明可能で、聚や社などの聚落に内在する里は洛陽縣に直属すると考えられるという。長安では陵邑を人口増加に伴い縣に昇格させたのに対し、洛陽では聚を昇格させた形跡が見られないため、聚をそのまま直接洛陽に組み込み管理しようとしたのではないか、とする。
(※清岡注。素人考えでここらへんのことを長沙走馬楼呉簡の丘と里の関係とリンクして考えることができないのかと思った)
 聚などにより構成する内側には十二都亭によって構成するエリアがあるという。それら都亭は『元河南志』後漢城闕古蹟によると、津門(津門外)、皋門、宣徳、長壽、宣陽(宣陽門外)、凡陽(城西)、夕陽(城西)、萬壽(夏門外)、臨平(城外)という。『後漢書』巻8霊帝本紀中平元年条の八関設置の記事にもみられるように、軍事的には屯兵の場所、平時には治安維持および送迎の場となるため居住が想定されるという。
 苑園としていは、洛陽大城を中心に西に上林苑、顕陽苑、西南津門外に鴻徳苑、東南宣平門外に罼罜苑、東20里には鴻池が置かれたという。所在地不明で、霊琨苑、平楽苑、西苑があるそうな。伊川盆地の方でも広成苑が設けられているという。観として、西北上西門外に平楽観、北門外に長楽観、西南に千秋、鴻池、泉城、揚威、石楼の五観、西園中に宣陽、四百天観、広陽門外に承光、胡桃宮が設けられるという。その他、城西に白馬寺、城南には明堂、霊台、辟雍などの儀礼空間、雩場、太学があるという。
 以上が第3図の模式図にまとめられている。

 「まとめ」では、八関内の地域空間は洛陽の空間として認識することができるとしている。


※次記事 メモ:「後漢時代における刺史の「行政官化」再考」

※追記 リンク:「漢代における郡県の構造について」

※追記 千年帝都 洛陽―その遺跡と人文・自然環境(2010年1月10日)

※追記 イラスト図解 三国志(2010年9月29日)

※追記 後漢魏晋南北朝都城境域研究(2013年11月31日)

※追記 上智大学の2014年2月6日の入試は三国志祭り?

※新規関連記事 中国明堂思想研究(2018年2月15日)

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