・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2の続き
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10分間の休憩を終え、11:45、次の報告が始まる。
司会の中川先生から「渡邉先生は三国志の歴史学のご専門家」というような紹介がありスタート。
○報告 諸葛亮の兵法
大東文化大学文学部中国学科教授
渡邉 義浩
渡邉義浩先生から
「わたくし、上田先生と違いまして大東文化大学を背負わなければいけませんので、大東文化大学の宣伝をいろんなところで入れながらお話をさせていこうかと考えています」
とおっしゃってのっけから会場をわかしている。
それから諸葛亮の兵法についてははっきりいってよくわからない、と断りつつ、こんなようなことがいえるんじゃないかというお話でも少ないそうな。だから歴史以外にも4番目には三国演義の話もでるとのこと
はじめに
三国志では諸葛亮の兵法は興味深いけど、よくわからない、ってこと。『三国演義』では大軍師だけど、まず歴史(『三国志』)での有名な陳寿の評の紹介。「諸葛亮って人は臨機応変の戦術は得意じゃなかった」と書かれているとのこと。
それから晋書の記述。司馬昭って人は蜀漢が滅びた後、諸葛亮の陣形、用法の方法、軍隊の統制方法といったことを陳[劦思](ちんきょう)って人に勉強させたそうな。陳[劦思]はそれを全部暗記したとのこと。そこで渡邉先生、(記述が少ないから?)「たいした内容じゃなかったんじゃないかな?」と突っ込み(場内笑)。そこで何か継承されたのではないか、と。
南北朝期には「八陣図」を採用したり(当時はわかっていた)、「木牛・流馬」を制作した国もあるそうな。話しながら、午後のパネルディスカッションを見越して、前列の各大学の三国志研究会に「こんなこと聞くなよ」ってプレッシャーをあたえ笑わしている。
唐代には諸葛亮は中国を代表する十人の良将に選ばれたとのこと。
そこから今回の報告のアウトラインを小ネタを入れつつ述べていた。
一、諸葛亮の兵法の基本、荊州学
諸葛亮が学んだ学問は荊州学と呼ばれている。荊州で学ばれた学問だから荊州学。司馬徽・宗忠たち中心。荊州学は渡邉先生の先生の一人が名付けたそうな。
どんな学問かというと儒教。儒教から大東文化大学の宣伝が入れるが、あまり高校生が居ないことを自己突っ込み(笑)。温故知新をキーワードに『春秋』『詩経』『論語』に注をつけるという学問行為の丁寧な解説→訓詁学の説明。たとえば最初の四文字を説明するのに二万字がついていると解説。
荊州学は簡単な注が特徴とのこと。それから学問を世の中に生かしていくことを目指したことが特徴とのこと。
司馬徽は自らを儒者と区別し「俊傑」と称していたほど、学問を世の中へ生かすことを目指していたとのこと。諸葛亮は政治家として将軍として(管仲や楽毅に比し)国家の経営を抱負として学問を生かしていたとのこと。→つまり諸葛亮は軍事も勉強していた。
荊州学は春秋左氏伝を中心に今までの経典をまとめなおしたいた。
二、兵法家としての諸葛亮
陳寿は諸葛亮オタクで『諸葛氏集』というのを編纂。ここに諸葛亮が書いたものが載っているとのこと。これは散逸。唐代にはすでにかき集めているぐらい。後世に復元されたけど宋代の偽作が含まれありする。たとえば『心書』『将苑』。この二つは完全に偽物。現代に発売されたある本でこの二つが含まれていた、とかおっしゃって場内をわかせる。
偽物とされるものにもわずかに本物が含まれている。太平御覧の引用と一致するところは本物だろう、と判断。具体的には『便宜十六策』。ここで『便宜十六策』治軍第九を引用。→あまり面白くない。主に孫子での常識的なことが書いているため。ここで大東文化大学の宣伝が入るが、実はその専門の先生が今年御定年ということで学べないという自己突っ込み(笑)
『便宜十六策』斬断第十四の説明。主に戦いの地形の話。そこで渡邉先生が夷陵の戦いを例に出し、劉備はここに書かれていること(つまり諸葛亮が「やってはいけませんよ」と言っていること)に反したことを全部やっていると指摘した上で「そこらへんが劉備のかっこいいところ」と言い、場内をわかせる。「負けるべきして負けるわけです」
『便宜十六策』斬断第十四にある七つの禁止事項が書かれている。
それでこの項のまとめ、現在残っている諸葛亮の兵法はわかっている範囲ではそんなにおもしろくなく、軍隊を管理して運営していくものが多い。陳寿が評どおり、臨機応変の戦術からほど遠い印象を受ける、とのこと。確かに。
あと、八陣図は「道蔵輯要」という本にあって、それは陸遜を退けた八陣の遺跡からうつしとったもので、そこから諸葛亮の兵法を考えることはできないそうな。
三、兵陰陽家としての諸葛亮
前近代の戦いは合理的なものばかりではなく占いなどの呪術も含まれている。『漢書』芸文志によると、『孫子』などの兵法とは別に呪術などをふくむのは「兵陰陽家」と呼ぶそうだ。具体的には日時の吉兆、天体の方角などを占うとのこと。
これらのことと諸葛亮の関係をきっちり資料からあげることはできないが、荊州学に『荊州占』という本がある(現在は残っていない)。
仕方ないのでここから天文占の一般的な話になる。占星術が個人の運勢を占うのに対し天文占は国家の運命を占う。三垣・二十八宿の説明。それぞれ天の官僚。
さらに『晋書』天文志の紹介。諸葛亮が陣没した話が載っているそうな。占文のとおり諸葛亮は死んだ、と記録されている、とのこと
諸葛亮はどんな「兵陰陽家」か? 後世に偽物の書がたくさんある。
四、演義の諸葛亮像
諸葛亮の『八門・遁甲の法』の話。『三国演義』において司馬懿との戦いで『八門・遁甲の法』の秘術を会得した諸葛亮が六丁・六甲の神兵を使った「縮地の法」を行ったとのこと。道教に『八門・遁甲の法』の話があるんじゃないかということで道教を調べる。
明代には『秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経』を会得すると六丁・六甲の神兵を使い「縮地の法」を行えるとされていたそうな。そこから道教の符[竹/録](ふろく、おふだの意)の効用の説明。レジュメのところには諸葛亮が風を呼んだ符[竹/録]が印刷されている。
現行の三国演義は道教のお経を嫌っていたようでそういった記述は少なくなっている。「縮地の法」も同じ造りの三両の四輪車を交互に見せることで「縮地の法」にみせかけたそうな。
ここで一例として赤壁の戦いで諸葛亮が風を呼んだ話が出てくる。三国演義中で諸葛亮は『奇門遁甲天書』を伝授された、と書かれている。そこで『秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経』の流れをくみであろう『奇門遁甲天書』の中身の風を呼ぶ箇所の話になる。まず符[竹/録]を使う。それがレジュメでかいてあるやつ(写真参照)。それから「発[火慮](左手の中指を押し神を呼ぶ動作)」をするとのことだけど、実際、渡邉先生が左手で狐のような手でそれをやってくださる。さらにこのポーズで「歩罡(北斗七星の形にステップを踏む足運び)」をするそうだけど、実際、これも渡邉先生がその場でやって場内をかなりわかせていた。さらに「叩歯(上下の歯をカチカチとかみ合わせること)」をやるそうだけど、これも渡邉先生が実践。しかも金縛りにあったとき叩歯をやって(魔をうち破る効果があるそうな)それがとけたってエピソードを添えてさらに会場をわかせていた。
それから二十八宿の旗を立て、天を祈っているから、天文占にあたると、天文占にあるように星をあやつれば大風が吹くが、天文占では星が動かないので、やっぱり道教の秘術を用いたことになるとのこと。
※追記
大津祭 孔明祈水山(2012年10月6日7日)
おわりに
撤退したときに兵を損ねたことはなかったことを指摘し諸葛亮は名将だと評する。つまり「出でては将、入りては相」となる儒将だということでまとめ。
報告終了。
司会の中川先生は「大東文化大学に入るとこんなすばらしい講義がきける」と宣伝を入れつつ、次はお昼休みだということのアナウンスを入れる。
あと今回はパネルディスカッションで一般視聴の人の質問も受け付けるそうで、何か質問があれば事前に配っていた質問用紙に質問を書いて、提出すれば良いとのこと。
○昼休み
それで昼休みは学食に行こうと思ったら、前回、それでパネルディスカッションに
遅刻したって実績(?)があったんで、大学の外に行くことに。
幸い正門を出て道の向こう側にファミレスがあるのでそこへ行く。
メンバーは
清岡、
KJさん、
三口宗さん、
げんりゅうさん、げんりゅうさんの後輩さん、ミミまろさん、
伊比学さん。やはり七人が座れるテーブルは混雑時期にはないということで前者3名と後者4名に分かれて食す。
こっちの話題はもちろん三国志シンポジウムの方向の他、確かサイト運営の話をしていたかな。あと大学の研究会の話とか三国志関連のデータベースの話とか。
・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感4へ続く
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