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石碑からこんにちわ
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<<十一月、二つの三国志系イベント



名前:石刻が語る三国時代1)
種別:共同研究公開シンポジウム
主催:京都大学人文科学研究所「三国時代の出土文字資料」研究班
場所:京都大学人文科学研究所本館二階大会議室
日時:2002年11月30日土曜日10:00〜16:30


   立ち見は嫌だったので、早く家を出ることにする。

   この催しを知ったのが2日前。何気なく見ていた、ウェブサイト「りゅうぜんず2)」で知ることになる。その次の日にコンサート3)に行く予定があったものの、その日は運良く予定がない。
   それじゃ、行くか、ということになる。

   そして迎えた当日。
   京阪電車の京都側終着駅、出町柳駅から歩くことにする。鴨川沿いの地下にある駅から、東今出川通りを東へ、百万遍通りを南へと、行く。


▲これぐらいの大きさの立て看板だとわかりやすい
   京大のテリトリーだな、と回りをキョロキョロしていると、左の写真のような看板を見つける。
   場所はネットで確認したし、以前、その近辺で、オフ会4)をしたこともあったので、すんなり到着できる。時計を見ると午前9時32分だった。
   そこへ足を踏み入れると、横長の折り畳み机に、受付の人が二名。机の上から、A4サイズのパンフレットとB4サイズの藁半紙のプリントを渡される。
   ああ、やはり入場無料だったのか。


   で、会場は二階にあるとその場で聞いたので、階段を意味もなく二段とばしで駆け上がる。
   階段を上りきると、いろんな本が置いてあるスペースに出る。なるほど、今回のシンポジウム関連の本を販売しているということか。
   中国史関連の本があるのはわかるけど、アバンギャルド云々って題名の本5)があるのには、その違和感におかしかった(っておそらく講演者が人文研に関係があるんだろうけど)。

   その書籍販売スペースの奥には会場の大会議室が見える。
   そこへ足を入れると、会場を一望できる。奥の中央には演台がある。上の写真のように、その演台の背後にはなにやら、黒字に白抜きの漢字群が……あ、これが石刻の写し(拓本というらしい)ってやつか。
   演台の左横には横長の折り畳み机。そして、次の講演をしらせる立て垂れ幕。なるほど、司会席ね。演台の右横には、また拓本があった。よくよく見ると、左の壁には石刻の写しが二つ、右の壁には石刻の写しが三つあった。
   予め、調べていたこのシンポジウムの情報で、「関連拓本展覧」ってあったのはこのことだったのか。もちろん、演台の手前にはパイプ椅子が何十席も敷き詰められてあって、どうやら、そこで講演や発表を聴くようだ。

   まだ、開演まで30分弱あるとあって、会場はスタッフの方ばかりだった。とりあえず、前から四列目の中央の席に座り、開演を待つ。
   単に待っていても仕方ないので、会場の写真をとったり、入り口のところにある書籍販売のコーナーに行ったり、ノートPCを開いて、サイトのコンテンツ作り6)をしたりして時間をつぶす。
   開演の10時前に近づくとさすがに人が集まってきた。年齢層はまばら、若い人から年取った人まで様々。私はてっきり、ディープな三国志フリークが集まるんだろうな、と勝手に想像してたんだけど、ぜんぜん、そんな気配がない。幅広い年齢層だ。
   密かにネットでの顔なじみがいるかなと、横目で見てたけど、見あたらず。誰か誘えばよかったかな。

   で、空席がまったく見あたらなくなったころ、いよいよ開演。
   パンフレットを見ると、まずは「司会挨拶」とのこと。
   簡単な挨拶が終わると、早速、講演「三国時代の歴史的意義」が始まる。
   はじめは、おそらく、三国志をあまり知らない、もしくは忘れている人向けの話だったと思う。
   「三国志」関連のことがインターネットや書籍で見かけるようになった、と言う感じで、講演を聴く側の身近な話題から入るようだ。
   そして、例としてあげたのは、取り出したるは「図解三国志7)」という本。そこから話を膨らませていって、有名な、孔明の活躍(?)、官途の戦赤壁の戦が実は三国時代じゃなく、後漢時代だ、というようなことを言う、つかみ。
   あと、蜀の北伐のこととか、話していたようなきがしたけど、記憶にない。もう、ここらへんの話は三国志をきっかけに話を広げていく導入部分と割り切って、膝の上のノートPCでコンテンツ作りしていた。
   で、パンフレットの方では、三国時代に関わる王朝交替の大義名分などが書かれているが、実際の講演はプリントに沿って「石刻の起源と展開」についての講演。
   秦の始皇帝に書かれた石刻は、天に天下統一を報告する形を取られているとか、その石刻には二世皇帝の追刻があるとか。
   話は時代を下り前漢・後漢の石刻について。碑文の数は後漢に比べ、前漢は圧倒的に少ないとのこと。前漢の碑文は十点ぐらいしか発見されてなくて、そのうち、ちゃんとした文章が刻まれているのが1、2点とのこと(←うろ覚えなので鵜呑みにしないでね。以下同じ)。これは講演者の言を借りると「前漢時代にはそういった社会通念がないのではないか」というほど、その時代、碑文が発見されていないらしい。
   対して、後漢時代から碑文が増えてくる。とくに後半に集中しているとのこと。例としてあげるのが「乙瑛碑」。この碑文は、秦の時代とは違い、皇帝側がたてたのではなく、皇帝から詔(みことのり)を受けた側(臣下側)がたてているとのこと。そこで碑文の必然性がキーポイントとなってくるんだけど、要は、臣下側の業績をたたえて臣下側がたてたとのこと。次の例も同じく、臣下側の碑文。「史晨碑」。これは先ほどと違い、石刻の内容は、上奏文のままでとどまっているらしい。あと、その碑文の「碑陰」(石碑の裏の石刻かな)も取り上げていた。
   こういった臣下側の碑文は今でいう、会社の会長とかが個人の銅像をたてるようなものかな、と私は可笑しさを覚えていた。あと、みずからの小説のネタに使えないかなと…

   次の講演は「石刻の芸術的意義」。
   これは書家からみた石刻の話といったところ。曰く、三国時代は書家にとって空白時代だったとのこと。同じくプリントに沿って説明されていく。
   隷書は二拍子(? 音で聴いているだけだから漢字に自信なし)だとか楷書は三拍子(?)だとか、後漢は横長の文字だけど、三国時代は不自然な縦長の文字だとか、専門的な言葉が飛び交う。どうも、書に素人な私はちょっと取っつきにくかった講演だけど、議論の対象になっていることは何となくわかる気がしていた。まず、史書に「楷書」という言葉はいつ登場するか(市民権を得るか)、また、そういう言葉が使われなかった時期は代わりにどんな言葉を使われていたとか(正書とか)。続いて、北と南とでは書は違うという論(「南北書派論」)の紹介やその反論の紹介など、いろいろな論が登場する。

   午前中の講演はこれで終わり。
   昼休みに入る。
   私は特に昼食のあてがなかったので、その場で待機することになる。
   やはり、聴きに来ている人たちは昼食を食べにか外へいったので、会場にはスタッフの人しかおらず。

   にわかに人が戻ってきて、始まったのが発表「朱字のミステリー:王基碑」。
   ここらへんから空席がちらほらを見られるようになる。はじめ、昼食から戻るのが遅いだけかと思ったら、そうでもなく、空席は空席のままだった。単に飽きて帰っちゃったのか、書道の講演目当てに来た人が多かったのか、理由は、私の想像の域を出ない。
   さて話戻して、この講演だけど、未完成の状態で発見された王基碑についてである。「王基碑」と呼んでるが、実はこの碑文に「王基」の文字は見られず、じゃ、なぜ、「王基碑」と呼ぶかってことだけど、何でも石刻の内容が三国志王基伝8)と一致するからだそうだ。
   で、この講演で議論されているのが、

果たして王基碑は本来どの様な姿をしていたか、また何故完成されなかったのだろうか。9)

ということ。タイトルになっている「朱字」だけど、石碑が発見されたときは、それに一部、刻まれる前段階の部分に朱字が書かれていたらしい。これにより、どのように石碑がつくられていくかなど、単に完成したものだったらわからないことまでわかるとのこと。
   まず、数々の文献から、この石碑について書かれた部分に触れていく。それぞれの文献間で、朱字の場所が食い違っていたり(上か下か両方か、石碑の大きさはどうか)、ある二つの文献で書き方が似ていたりと。
   それから、この石碑の拓本について触れられる。ちなみに、会場の左の壁の奥側には、その拓本が展示されている。ここから本来、どのような姿だったかが拓本から推理されていくんだけど、聴く側にとって、何だか石碑について詳しくなった気分になる。
   碑文では皇帝の名をはばかって、一文字、上に飛び出ること(例えば「大晋龍興辟雍碑」の「宣皇帝」の部分。宣の字が上に飛び出ている、とか)、文字を書いたり刻んだりするときに、罫線を入れること。
   それら様々な事柄から発表者は本来、どのような姿だったかを復元している。
   そして、最後に、この石碑がどうして未完成だったかの理由について。発表者は魏晋革命にそのわけを見いだす。石碑の内容が「魏の功臣」というスタンスをとっているから、晋の時代に完成させる意味がなかったからと、発表を聴いていた私は理解した。
   パンフレットに書かれたプログラムには、これより以前のものが「講演」であり、ここから先のものが「発表」とあるが、私にはその違いがわかりかねていたが、ここでその違いの一つを知る。発表は講演と違い、コメンテータがつくようだ。
   コメンテータのコメントが始まる。そこで印象に残ったことは、中国で「司馬昭の心」というと、「バレバレの下心」という意味で使われるとのこと。うーん、使える三国志用語(?)。
   また、質疑応答の時間も設けられていた。そこでの質問は罫線は後の世の人が入れてたりすることはないかということ。それに対する回答は、時代分けの話などをしてたけど、結局は断言できないとのこと。下に罫線がないことは確かと言えると発言。


   次の発表は「ある夫人の生涯:孫夫人碑」。
   この拓本も展示されている。左の壁の手前側。
   女性の碑文はとても珍しいらしい。この発表は、その女性の碑文から当時の女性の生活を考察するというもの。
   話はだいたいパンフレットに書かれたことに沿っている。プリントの方では史書に見られる女性の記述がリストアップされていて、パンフレットの記述を補う形になっている。「父に対する娘の助言」→「西晋時代における貴族女性の教養」→「既婚女性にとっての『孝』」10)と話が進んでいき、興味深く耳を傾けていた。
   だけど、本編より印象に残ったのが、後のコメンテータの言。先ほどの発表のコメントより長い目。まず「夫の一族と妻の一族は同盟関係にあった」というわかりやすいフレーズから始まり、その具体例として劉邦と呂后との関係をあげる。また、当時、家の中(内部)では夫は妻の下につくという立場だけど、社会(外部)では対等関係だと言い、とても素人でもわかりやすい。
   次に質疑応答。一つの質問に、碑の内容をどこまで信じられるか、というものがあった。その答えとして、碑には語り言葉が書かれていて、かなり史書と似ていることをあげていた。
   ここで気付いたんだけど、質問する人に自らの名を名乗る人が多いということ。これって、一般聴者が質問しているというより、同じ専門の人が質問しているところを私は連想する。一般聴者ばかりかと思っていたら、そうでもないのかな。


   休憩を挟んで、最後の発表は「正統論はいかに展開されたか:上尊号碑から辟雍碑まで」。
   もう「正統論」というだけでも三国志ファンに受けそうな内容だけど、この時間、連なる空席が目立つようになっている。残念ながら。
   それと、この発表では、会場で展示している拓本を目一杯、使っている。演台の後ろの壁に、左から晋の「大晋龍興辟雍碑」の碑陰(裏)と碑陽(表)。演台の向かって右に魏の「受禅碑」。その右側、つまり、右の壁の奥に魏の「上尊号碑」。同じく右の壁、その手前に、呉の「禅国山碑」が飾られている。いずれも王朝の正統論が唱えられているそうだ。
   まず魏関係の石碑。
   「上尊号碑」は曹操・曹丕をたたえる内容だけど、「受禅碑」は曹丕をたたえる内容になっている。また、前者は魏ができる前の碑で、後者ができた後の碑だという説明がされていた。そして、漢から魏への禅譲の話へと移る。
   次に蜀。これは拓本がないので、さらっと終わるかと思いきや、結構、詳しく触れる。印象に残ったのは劉備が皇帝になる際の符瑞(めでたいしるし)や図讖(吉兆を記した予言)は劉邦・劉秀のときと共通するものがあるとか。
   次に呉。これは「禅国山碑」があるし、他の二国と違い、正統を唱える根拠に乏しいので、さらに詳しく語られる。
   ここでは「漢への忠誠」が「基本姿勢」だとか。他の二国には見られない独特な(ローカルな)符瑞を歌っていたとか。興味深い内容だった。私は心中、この過程で孫堅の業績も過剰に「漢への忠誠」を強調されたのかな、と思っていた。
   そして最後に晋。「大晋龍興辟雍碑」。晋の碑は魏蜀呉の三国(三方)を混乱の時代としたことや、

三国の正統感を裏付けるものとして愛用されてきた、天体現象の解釈や讖緯の額を、晋の武帝は即位後まもなく禁止している。11)

ことなどの時代性を感じるところが印象に残った。
   展示している呉の拓本の額がガタンと傾いたのを、発表で取り上げられるのが遅くて機嫌を損ねていると称したり、正統論を当事者は死にものぐるいだけど、部外者にとっては傍観するから気楽なものだ、とか冗談を要所要所でとばすので、この発表はおもしろかったなぁ。

   で、総括討議がまったりと行われ、シンポジウムは幕を閉じたのだった。



1)   「石刻が語る三国時代」。本文中にかいているとおり、京都大学人文科学研究所による公開シンポジウム。詳しくはその研究所のサイト参照。   >>京都大学人文科学研究所    <<戻る

2)   ウェブサイト「りゅうぜんず」。松竹梅さんによる三国志情報サイト。ほぼ毎日更新の三国志ニュース「永安日報」が魅力的。   >>りゅうぜんず   <<戻る

3)   次の日のコンサート。えーと、この日が、2002年11月の30日だから、次の日が12月1日で、「矢野顕子さとがえるコンサート2002」が大阪フェスティバルホールであった日。更新歴にちょっと書いたけど、そのうち、レポ書こうかなと。   >>そのときの更新歴   <<戻る

4)   オフ会。2002年7月28日に行われた第二回関西プチオフ会のこと。初めの会場は京都駅前だったけど、次の会場は京都大学前。下見でもそこら周辺に行っている   >>関プチ第II章メモ   <<戻る

5)   アバンギャルド云々って題名の本。後日、ネットで確認してみると、宇佐美斉著「アヴァンギャルドの世紀」(京都大学学術出版会出版、ISBN:487698431X)とのこと。京都大学人文科学研究所研究報告に含まれる?    <<戻る

6)   サイトのコンテンツづくり。このときは「気になるアイツ『於夫羅』」をつくって、FTPであげたっけ。改めてそのときの行為を書くと、アホですな。   >>そのときの更新歴   <<戻る

7)   「図解三国志」。おそらく渡邉義浩著「図解雑学 三国志」(ナツメ社出版、ISBN:4-8163-2926-9)のことだと思われる。   <<戻る

8)   「三國志卷二十七魏書二十七   徐胡二王傳第二十七」の「王基」の記述の部分。ちなみに私は未読です。   <<戻る

9)   「公開シンポジウム『石刻が語る三国時代』」パンフレット(京都大学人文科学研究所「三国時代の出土文字資料研究班発行」)の8ページから引用。   <<戻る

10)   かぎかっこ内のフレーズは「公開シンポジウム『石刻が語る三国時代』」パンフレット(京都大学人文科学研究所「三国時代の出土文字資料研究班発行」)の12〜13ページの小見出しをそのまま引用。   <<戻る

11)   「公開シンポジウム『石刻が語る三国時代』」パンフレット(京都大学人文科学研究所「三国時代の出土文字資料研究班発行」)の18ページから引用。   <<戻る

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