Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2021年 10月
«
»
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

-

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 64 投票 | 0 コメント

PR

清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
よくわかるねこまんまさんの問題行動 pdf
gif

掲示板 件名 最新投稿

曹全を追え


  • 2005年10月24日(月) 13:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,883
歴史 <2008年1月5日追記>
最近、「曹全碑」でこの古い記事が検索されることが多いんで、情報を付け足しておくけど、釈文はサイトの「文物圖象研究資料庫 全文檢索」に載って居るんでそこで探してね

<関連>文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

※追記 道教の美術 TAOISM ART(2009年9月15日-10月25日)

<追記終了>

・「中国 美の十字路展 ~大唐文明への道~」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/197

 「中国 美の十字路展」へ行ったとき、数ある展示品の中で特に気になったのがあった。それは「曹全碑拓本」。「中平二年十月丙辰」(西暦185年10月21日)に造られた碑文、その写しだ。隷書で書かれていて、三国志の一人物伝のように名と字と出身地から始まり、その人の業績が書かれている。張角の名も文中に見られる。
 「曹全碑拓本」の横に下のような解説文が入っていた。

----------------------------------------------------------------
曹全は敦煌の人。西域の武官であった時、疏勒(カシュガル)王の謀反を討伐し功績をあげたが、弟の死に遭い官を捨てた。後に酒泉の祿福長に任じられた時、[合β]陽の県令に選ばれて漢末に起こった太平道の張角率いる黄巾の乱を収拾し、民治に尽力した。これを称え在命中にこの石碑が建てられた。
----------------------------------------------------------------


 実際、拓本を読んでみると、曹全が酒泉の祿福長のときに張角に関することがおこったようで、酒泉郡も黄巾の影響があったのかな、とあれこれ疑問に思っていた。
 展覧会を一通り見回ってからまた拓本を読んでいた。見慣れない隷書のせいか、ところどころどういった字かわからない箇所がでてくる。わからないなりにあれこれメモっていたんだけど、帰りのバスの時間が迫っていたんで、諦めてその場を後にする。

 家に帰ってから、メモをたよりにネットで検索をかけてみる。
 そうすると「曹全碑拓本」の写真がみつかる。

・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
ここの「データベース」→「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」

※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)

 ここの「文字拓本」のところを探れば「曹全碑拓本」以外にもあれこれでてくる。「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」のページからリンクが張られているページでDjVuプラグインをダウンロードすれば(無料)、拡大画像が見れるのだ。
 また、「畫像石」のところも史料価値が高い。いろんな画像石や画像磚から当時の服飾や風俗をかいま見ることができるのだ。

 しかし、実際、「曹全碑拓本」の拡大写真を見ても清岡のよくわからない文字はよくわからない(汗)
 そこでわかる文字をたよりにネットで検索してみると、「曹全碑拓本」を活字にしてくれているページを発見する。

・琴詩書画巣
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/
ここの「詩 書」→「漢碑 原文」

 なるほどなるほど、こういうことが書かれていたのか。ここであれこれ思ったことを箇条書きに。

・後漢書傅燮伝の傅燮の上疏にある「今張角起於趙・魏、黄巾亂於六州。」の六州と「曹全碑拓本」にみえる幽冀[六/兄]豫荊楊の六州と数が一致する。中平二年十月の時点では後漢書皇甫嵩伝にみえる八州という認知ではない(?)
・「曹全碑拓本」では六州の乱をあげておきながら、関係のない地域、[合β]陽の県令(司隷左馮翊)となって、乱をおさめている。なぜだろう。郭家たちは実は張角の一味? それとも張角の乱に便乗した?
・黄巾の乱が平定されたとして光和七年十二月己巳(29日)に「中平」と改元したんだけど、史書では中平元年に黄巾の乱がおこったとされることはざら。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040127.html
 だけど「曹全碑拓本」では文の流れからちゃんと(光和)七年の出来事としている。
・張角は当時、「[言夭]賊」という位置づけ。
・碑陽(碑の表側)では姓+名表記と姓+字表記。だけど碑陰(碑の裏側)では姓+名+字表記ばかり。字に書く表記(変な言い方だけど)では姓+名+字表記はありってことかな。逆に碑陽で「是以郷人為之諺曰重親致歡曹景完」となっているように話す方の表記は姓+字表記(ここでは「曹景完」)なのかな、と前々から思っていたことを確認した。
・碑陰では役職+姓名字+数字が列記されているけど、最後の数字は何? 張遷碑の碑陰では「銭五百」とかなっているのでこの碑をたてるにあったって寄贈金?
・碑陽にある「學者李儒」や碑陰にある「傳士李儒文優」は後漢書皇后紀に出てくる「郎中令李儒」や三国演義 第三回:議温明董卓叱丁原、餽金珠李肅説呂布に出てくる「(董)卓婿謀士李儒」と同姓同名だから、三国志ファンの話題や創作のネタになるなぁ、とおもって、試しに「李儒文優」と検索したら、すでにネット上で話題になっていた。

 まだじっくり読んでないので意外な発見があれこれあるかも。

 ちなみに書体に関しては下記のリンク先参照
http://cte.main.jp/newsch/article.php/181

「絵に描いた餅」の元祖?


  • 2005年8月30日(火) 23:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,476
歴史 ・絵に描いた餅
役に立たないたとえ。計画などが実現する可能性のないこと。画餅。
三省堂「大辞林 第二版」より


毎週土曜日19時から三国志討論会(チャット)が開かれていることで時間があれば参加しようと思っていた。
それでなかなか参加できないでいたけど、この間の土曜日にようやく参加した。

・サイト「三国志愛好会」の「三国志討論会」
http://san-gokushi.com/

それで毎回テーマが設定されていて、その時は「三国時代の食物と体型」……だったと思う。
それで三国時代の食物の話題になって、麦を食べていたことはわかるけど麦を何の料理にしたかって話題になっていた。
パン? ナン?って話だったんだけど、そこで出てきた単語が「餅」。
餅の材料というとてっきり餅米からつくるのかと思ったら、そうでもないみたい。
その場で「字通」で調べてみると、麦の粉をまるめ蒸してつくったのが餅だそうな。

それで実際に餅ができる過程が史書に載っていないか、後漢書や三国志を調べる。
そうするとあまり関係ないことが目に付いて気になったのが、三国志魏書の盧毓伝。
盧毓(字、子家)は盧植の息子。
で、時代背景や前後関係の説明を抜いて、いきなりその文を書く。

時舉中書郎、詔曰:「得其人與否、在盧生耳。選舉莫取有名、名如畫地作餅、不可啖也。」

<清岡の適当訳>
(盧毓が)中書郎に登用されたとき、詔(みことのり)でいわれる。「その人を採用するかどうかは、つまり盧毓の生業いかんだ。選挙(登用の選抜)は名声があるから採用するのではない。名声は地に画を描いて餅を作るようなものだから、啖(くら)うことはできない」

詔を出すのは皇帝。このときは魏の明帝。
この人が「絵に描いた餅」という言い回しを使った元祖?
この言葉の由来?

とは言っても、三国志より先行する書物をきっちり調べたわけではないので、元祖がどうかわからないのだった。
なんか、普通に故事でありそうだしね。

宋書楽志にある「鼓吹曲」の見方


  • 2005年8月 7日(日) 21:29 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,347
歴史 三国志シンポジウムの雑感をかくまえに宋書楽志に載っている「鼓吹曲」のメモ。
基調報告の「日中韓三国の三国志」と、それに対する討論会での質問でも出てきたので。

※関連記事 2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1

<追記>Re:蜀の史官の存在について  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=3171

もし蜀の鼓吹曲が残っていたら三国演義の原型のようなものであろう、とする基調講演に対し、蜀の鼓吹曲が残ってないのは、政権を後漢から引き継いだという建前なので元々、蜀の鼓吹曲はなかったのでは? というような討論会での質問。

魏と呉の鼓吹曲は
http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3
↑中央研究院漢籍全文資料庫の大東文化大学サーバー版(まぁ本家でも良いんだけど、三国志シンポジウム関連でせっかくなんでこちら)で見ることができる。
ここの「二十五史」のところをチェックして「開啓」のボタンを押して移ったページで「新校本宋書」→「志」→「卷二十二 志第十二」→「樂四」
→「644」と順にクリックしたページから見ることができる(呉は「656」。韋昭がつくっているあたりがファンにとってポイントが高い)

※追記
上記サイトがデッドリンクなので、替わりに下記を挙げておく(というかこっちが本家)。
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/

※追記 韋昭研究(2011年7月)



(以下、余談)
というようなことをサイト「江河水」
http://kougasui.fc2web.com/
(現URL)の掲示板で2001年7月8日17時52分に書き込んだんだけど(多分、もうログはサイト上に残っていない)、さらによそのサイト「呉書見聞」
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/
(現URL)の掲示板で反響があって、2001年8月2日21時29分の佳耶乃さんの書き込みによると(多分、もうログはサイト上に残っていない)、篠田耕一/著「三国志軍事ガイド」(新紀元社刊)に呉の鼓吹曲「伐烏林」の原文と対訳が載っているとのこと(清岡は未確認)。

余談ついでながら、よその掲示板まで反響があって浮かれている清岡の書き込みを以下、あげておく

-----------------------------

Res:清岡美津夫(849) 題名:ありがとうございます♪ 投稿日 : 2001年8月3日<金>07時04分
いえいえ、引用されててなんだか嬉しかったです
それと、対訳が載っている本を教えてくださってありがとうございます。
えっと、私はその本、持ってないので、どこかで見かけたら、
見させてもらいますね。
って軍歌っていうことはいつ頃、唄われてたのですかね。
三国時代なのですか? だとしたら三国時代に軍楽隊ってあったってことに!?

呉鼓吹曲、あの詞の呉贔屓っぷりが好きです(笑)
でも他の国のファンの人には見せれないですね、、、
その中の「關背德曲」なんて題名からいきなりそうですし(苦笑)

8月5日は司馬懿の命日


  • 2005年8月 5日(金) 12:47 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,043
歴史 晋書の帝紀(宣帝のところ)を見ると

(嘉平三年、紀元251年)秋八月戊寅、崩於京師、時年七十三。

となっていて

http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr&tree=1824
↑ここを参考にしつつ、日を特定すると、どうやら紀元251年8月5日に司馬懿(字、仲達)は崩御したそうな。

ついでにいうと、司馬懿の息子の司馬昭(字、子上)は晋書の帝紀(文帝のところ)をみると

(咸熙二年、紀元265年)秋八月辛卯、帝崩于露寢、時年五十五。

となっておりどうやら紀元265年8月9日に崩御したそうな。

しらなんだ。

梁はいくつ?


  • 2005年7月11日(月) 21:33 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,711
歴史 趣味で三国志小説を書いていると当時の様子が気になる。
「中国古代の生活史」、「中国古代の服飾研究」など、三国志の時代の画像を元に当時の生活風景や衣装を解説している本はいろいろあって、どれも参考になるけど、一つ物足りないことがある。
それはそれらの本で書かれている内容と史書とで用語が往々にして違うため、なかなか対応付けして読めないと言うことだ。
その点、時代は少しずれて漢代になるけど、「漢帝国と辺境社会」は木簡に書かれた原文も豊富に載せられていて、史書との対応付けがしやすい。

そのため、どんなものかだいたいわかっているんだけど、当時、なんて呼ばれていたか、似たようなものだけど微妙に呼び方に違いがあるのか、など、わからないことがしばしば。
未だに「牀」と「榻」の区別、つかないし。
そういった中で気になったのが「中国古代の服飾研究」。当時の官吏の冠として紹介されていたのがその本での呼び名でいうところの「梁冠」。
史書で何て言うんだろう、と思っていたものの、あまりしゃっきり調べられず、頭の中がもやもやしたままで月日を費やした。

そんなときに見かけたのがサイト「青木朋HP++青青」の日記と掲示板。
http://aoki.moo.jp/
ここのサイトはサイトのタイトルと同名のweb三国志系コミックをメインに発表しているところ(このサイト自身は下記リンク参照)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=777

漫画の資料集めがきっかけなのか、サイト管理人の青木朋さんは服飾など当時の風俗に興味がある方のようで、しばしコンテンツ、日記や掲示板にもその様子が見られる。

そんなサイトの日記や掲示板で紹介されていた「漢~晋の冠について図付き解説ページ」。
どうやら、サイト「松濤堂酒店87號(ショウトウドウシュテンパシチハオ)」の管理人の嘉風松雲さんが青木朋さんに向けてつくったページとのこと。
・松濤堂酒店87號
http://www.h7.dion.ne.jp/~storm_e/index.html
※2005年7月10日現在サイト縮小中とのこと。

横から覗くのはちょいと後ろめたい気持ちもありながら(汗)、まぁ、ネットに公開されているのだから、ちょいとそのページを覗いてみる。

中国古代の冠のことがドカドカっと載せているじゃないですか!

とりあえず後からじっくりサイト全体をみようと思い、嬉々としてブックマークをつけてみる。
件のページで初めに目を引いたのが「進賢冠」のところ。
これって冒頭に書いた「梁冠」。しかも謎の金属のフレームのことが書かれている。
フレームの名は「梁」。なるほど、それで「梁冠」っていうんだ。
そしてこの「梁」は「一梁、二梁」というように梁の数には意味があるらしい。多い方が位が高いそうなのだ。
と感心しつつ、続漢書の輿服志を調べてみると、
「中二千石以下至博士兩梁、自博士以下至小史私學弟子、皆一梁」
と、ばっちり梁の数が書いている!
あぁ、今まで気付かなかっただなんて……しかも過去に高官でもないのに二梁で描いている人物のイラストがある(汗)……
ちなみにここのサイトの掲示板によると「梁冠」とは明代での呼び名とのこと。
※2005年7月10日現在、掲示板へのリンクはない。

なるほどー。やはり、「梁冠」は当時の呼び方ではなかったんだ。

<2006年2月4日一部修正>

前漢に鐙はあった?!


  • 2005年1月24日(月) 00:48 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    6,955
歴史 ほかの三国志ファンには大したことないかもしれないけど、私にとって重大なこと。

趣味で小説を書くにあたり、資料としてちょくちょく「中国古代の服飾研究(増補版)」という本を図書館から借りている。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w021124.html
↑その本。増補版の原本は1992年に書かれ1994年に訳されたそうな。
それで資料としてなので未だに一通り読むなんてことはしていない。
それで何気なく、136ページから140ページまでの「漢の刻画に見られる数種の騎士」という項目をみていた。
136ページから139ページまでは前漢の騎馬画像(壁画とか)が掲載されていて、あぁ、これが胡族の服装か、これが騎士の服装かなんて見てたんだけど、最後のページにでてきたのが「石寨山出土の銅製騎馬像」の写真とそれを解説する文章。石寨山とは雲南省晋寧県にあるとのこと。
まぁ、それは気にならなかったんだけど、問題はその文の方。
騎馬画像には詳しく書かれていないが、このころ(文の流れ的に前漢?)にすでに鐙(あぶみ)があったとすることが書かれていて、その証拠として同じページの「石寨山出土の銅製騎馬像」の写真があげられている。
その写真を見ると鐙と思われるものが確かに写っている。サイドビューだから左右二本ついているかどうか不明だけど。
また、本文にも書かれていたことなんだけど、青銅像と違って画像の方はいっさい鐙が描かれていない。
単に描画技術や技法上の省略なのか、それほど鐙が普及してなかったのかよくわからない。

それまで私の中の定説は、例えば「中国古代の生活史」の99ページに書かれているように

「鐙は中国では四世紀のおわりごろが早い例で、乗る時のために鞍の片側だけにつけられている。」

といったもので、まさか前漢にすでに発明されていたなんてにわかに信じがたい。
(ちなみに「中国古代の生活史」の100ページに載っている後2世紀の銅製騎馬像には鐙がない)

http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=75
↑「中国古代の生活史」

実際はどうだったんだろ? ほかに何か資料がないかなぁ。

ちなみに銅製騎馬像と同じ雲南省晋寧県石寨山出土の青銅器「狩猟場面貯貝器」が中国国宝展(国立国際美術館、2005年1月18日~3月27日)に出展されていたんだけど、その一部が騎馬像だったが、鐙はなかった。

<2008年1月4日追記>
近頃、思っているんだけど、石寨山出土って滇族の文化だよね。

<2008年6月24日追記>
下記のリンク先(始皇帝暗殺(その2)の方)によると、石寨山出土の騎馬像は片側の鐙だそうな。

・睡人亭
http://www.shuiren.org/
・始皇帝暗殺(その2)
http://www.shuiren.org/chuugoku/koramu/ko981011.htm#sono2


※追記 メモ:漢中興士人皆冠葛巾

※追記 『中国古代の生活史』復刊(2009年12月15日)

※追記 リンク:模範解答でいいのか(ニュースな史点2012/4/30の記事)

※追記 ノート1:三国志学会 第五回大会

劉備 幼名


  • 2004年11月23日(火) 01:13 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,597
歴史 某サイトのアクセス解析を見ていたら、昨日の夜9時半からやたらといろんなホストから「劉備 幼名」ってキーワードで検索がかかるんだけど、何かテレビかなんかであったんでしょうか。
その息子の幼名は有名だけど、劉備はとんときいたことないなぁ

三国志の基本史料


  • 2004年10月27日(水) 01:54 JST
  • 投稿者:
    KJ
  • 閲覧数
    1,809
歴史 三国時代のことが書かれている文献と言えば、歴史書としての正史「三國志」があるが、これに次ぐ史料として「長沙呉簡」と呼ばれる木簡がある。

「長沙呉簡」は、1996年に湖南省長沙市の古井戸から出土したもので、呉の嘉禾年間(232~237)の記録が木簡、木版、竹簡に記録されている。その数はおよそ10万点。

今後の整理により、身分制、地方行政、戸籍、賦税、物流などが明らかになるという。