<2008年1月5日追記>
最近、「曹全碑」でこの古い記事が検索されることが多いんで、情報を付け足しておくけど、釈文はサイトの「文物圖象研究資料庫 全文檢索」に載って居るんでそこで探してね
<関連>文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413
※追記
道教の美術 TAOISM ART(2009年9月15日-10月25日)
<追記終了>
・「中国 美の十字路展 ~大唐文明への道~」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/197
「中国 美の十字路展」へ行ったとき、数ある展示品の中で特に気になったのがあった。それは「曹全碑拓本」。「中平二年十月丙辰」(西暦185年10月21日)に造られた碑文、その写しだ。隷書で書かれていて、三国志の一人物伝のように名と字と出身地から始まり、その人の業績が書かれている。張角の名も文中に見られる。
「曹全碑拓本」の横に下のような解説文が入っていた。
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曹全は敦煌の人。西域の武官であった時、疏勒(カシュガル)王の謀反を討伐し功績をあげたが、弟の死に遭い官を捨てた。後に酒泉の祿福長に任じられた時、[合β]陽の県令に選ばれて漢末に起こった太平道の張角率いる黄巾の乱を収拾し、民治に尽力した。これを称え在命中にこの石碑が建てられた。
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実際、拓本を読んでみると、曹全が酒泉の祿福長のときに張角に関することがおこったようで、酒泉郡も黄巾の影響があったのかな、とあれこれ疑問に思っていた。
展覧会を一通り見回ってからまた拓本を読んでいた。見慣れない隷書のせいか、ところどころどういった字かわからない箇所がでてくる。わからないなりにあれこれメモっていたんだけど、帰りのバスの時間が迫っていたんで、諦めてその場を後にする。
家に帰ってから、メモをたよりにネットで検索をかけてみる。
そうすると「曹全碑拓本」の写真がみつかる。
・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
ここの「データベース」→「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」
※追記
東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)
ここの「文字拓本」のところを探れば「曹全碑拓本」以外にもあれこれでてくる。「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」のページからリンクが張られているページでDjVuプラグインをダウンロードすれば(無料)、拡大画像が見れるのだ。
また、「畫像石」のところも史料価値が高い。いろんな画像石や画像磚から当時の服飾や風俗をかいま見ることができるのだ。
しかし、実際、「曹全碑拓本」の拡大写真を見ても清岡のよくわからない文字はよくわからない(汗)
そこでわかる文字をたよりにネットで検索してみると、「曹全碑拓本」を活字にしてくれているページを発見する。
・琴詩書画巣
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/
ここの「詩 書」→「漢碑 原文」
なるほどなるほど、こういうことが書かれていたのか。ここであれこれ思ったことを箇条書きに。
・後漢書傅燮伝の傅燮の上疏にある「今張角起於趙・魏、黄巾亂於六州。」の六州と「曹全碑拓本」にみえる幽冀[六/兄]豫荊楊の六州と数が一致する。中平二年十月の時点では後漢書皇甫嵩伝にみえる八州という認知ではない(?)
・「曹全碑拓本」では六州の乱をあげておきながら、関係のない地域、[合β]陽の県令(司隷左馮翊)となって、乱をおさめている。なぜだろう。郭家たちは実は張角の一味? それとも張角の乱に便乗した?
・黄巾の乱が平定されたとして光和七年十二月己巳(29日)に「中平」と改元したんだけど、史書では中平元年に黄巾の乱がおこったとされることはざら。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040127.html
だけど「曹全碑拓本」では文の流れからちゃんと(光和)七年の出来事としている。
・張角は当時、「[言夭]賊」という位置づけ。
・碑陽(碑の表側)では姓+名表記と姓+字表記。だけど碑陰(碑の裏側)では姓+名+字表記ばかり。字に書く表記(変な言い方だけど)では姓+名+字表記はありってことかな。逆に碑陽で「是以郷人為之諺曰重親致歡曹景完」となっているように話す方の表記は姓+字表記(ここでは「曹景完」)なのかな、と前々から思っていたことを確認した。
・碑陰では役職+姓名字+数字が列記されているけど、最後の数字は何? 張遷碑の碑陰では「銭五百」とかなっているのでこの碑をたてるにあったって寄贈金?
・碑陽にある「學者李儒」や碑陰にある「傳士李儒文優」は後漢書皇后紀に出てくる「郎中令李儒」や三国演義 第三回:議温明董卓叱丁原、餽金珠李肅説呂布に出てくる「(董)卓婿謀士李儒」と同姓同名だから、三国志ファンの話題や創作のネタになるなぁ、とおもって、試しに「李儒文優」と検索したら、すでにネット上で話題になっていた。
まだじっくり読んでないので意外な発見があれこれあるかも。
ちなみに書体に関しては下記のリンク先参照
http://cte.main.jp/newsch/article.php/181
※関連記事
三国志 Three Kingdoms 群雄割拠(BSフジ2011年1月10日-)
※2011年9月21日追記。特定のドメインから「曹全碑 辛卯」と検索される。短絡的に検索するんじゃなくて(直接的に情報にアクセスしようとするんじゃなくて)、まず「十干十二支」の概念に行き着くのが正常と思うが、そういうのが「情報リテラシーが低い」ってことなんだろうね。こういった現象をうまく言語化して啓発していきたいね。
※2013年1月21日追記。01/20 (日) 21:22:27に「曹全碑 景完敦煌の読み方と意味は」というリテラシーの低い検索語句があったが、その漢字の間で区切るんだよ、と誰にも伝わらないのに脊髄反射的にツッコミを入れてしまった。「景完」が字(あざな)で敦煌が地名。
※追記
メモ2:三国志・君主と軍師・謀臣たち(川本喜八郎人形ギャラリー 2016年9月4日)
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中国の書跡 隋唐時代の書―拓本の世界―(東京国立博物館2017年4月25日-2017年6月25日)
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髀肉之嘆(Cha-ngokushi2017年4月)
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曹全碑(2017年9月30日)
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↑関尾史郎先生のブログによると(11月15日)、『中国史研究』第38輯,2005年10月,1226-4571.に
金慶浩「通過『曹全碑』所理解的漢代辺境出身官吏的成長和背景-以辺郡徙民和建寧2年的記載爲中心-」,1-30.
というのがあるそうです。
どんな内容だろ。
最近、やたら「曹全碑」という検索キーワードがおおかたのはそのせい??
図書館で借りて帰ろうと思ったけど、すでに林巳奈夫/著「漢代の文物」を借りていて、持ってかえるのがきつかったので借りて帰らず。