<<
>>
訪問者(孫氏からみた三国志26)
040127
<<西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25)


   西の方では不穏な動きが現れはじめたものの、京師近くの地域を十ヶ月近く、苦しめていた黄巾軍が討たれ、事態は平穏な世の中へ向かっていた。
   それを中央の政府も感じ取ったのか、黄巾はすでに平定されたとし1)光和七年十二月、己巳の日(29日)031202-8)
   天下に大赦す(国の慶事で、一斉に恩赦を行う)。
   その上で、中平と改年(改元)する2)

   その功労者の一人、左車騎将軍の皇甫嵩(字、義真)は黄巾の本隊ともいうべき軍を討ったせいか、その勢いは天下にあった。だけど、政治は依然、日に日に乱れ、天下は困窮している。
   困窮具合を表しているように、改年(改元)前、光和七年十一月癸巳(21日)から十二月己巳(29日)の間に、太官(上級役人?)の珍羞(珍しい贈り物?)を減らし、もてなしの食事は肉を一つ(種類?)にし、厩の馬を郊祭(夏至と冬至の日に天地を祭る)に使わず、すべて軍用に提出しろ、と詔(皇帝の命令みたいなもの)がくだっている2)
   そういった困窮を少しでもやわらげようと、皇甫嵩は黄巾本隊のいた激戦区である冀州の一年分の田租(日本風にいうと年貢?)を引き受け、飢餓にあえぐ民衆を助けようと上奏する1)。皇帝はそれに従い、かくて、冀州の民衆は戦による飢餓と、それと毎年の税徴、両方から苦しめられることはなくなった。
   その感謝も込めてか、万民は皇甫嵩のことをうたう。歌詞はこうだ(といっても著者の訳だけど)。

天下は大いに乱れ、市は廃墟となり、母は子を養うことができず妻は夫を失い、皇甫に頼り再び安らかに暮らす

   皇甫嵩は士卒(将士や兵卒)によく施し、はなはだ人心を得ていて、飲食するのも眠るのもかならず将士が先で、皇甫嵩は後にしていた。軍士(兵士)がみな食べていても、皇甫嵩はむしろ飯をなめるぐらいだった(それだけ後に食べていた?)。吏(軍の役人?)があることに乗じ、賄賂を受けることがあって、皇甫嵩は「君は元々、潔く、必ず乏しくなる」といってその吏(役人)にさらに財物を施す。そうすると、その吏は恥じ、自殺に到ってしまった。
   そんなエピソードが残るほど、皇甫嵩の傘下は清廉潔白だった。皇甫嵩の名声は武力だけのものじゃなかったんだろう。

   そんな皇甫嵩の元へある日、閻忠という者が訪れる1)

   この時期は後漢紀だと張梁戦(冀州鉅鹿郡広宗県)と張寶戦(冀州鉅鹿郡下曲陽県)との間の時期で(<<「戦いの果てに」参照)、後漢書だとこの2つの戦の後、もう年号が中平になった後だ。
   これから閻忠が話すことから、どちらの時期にしても、おそらく皇甫嵩が冀州にいた頃だろう。
   閻忠は涼州漢陽郡出身(「漢陽」としか記されていないので、もしくは益州けん為屬國漢陽県出身)で、ちょうど冀州安平国(あるいは安平郡)の信徒県というところの県令(県の長)をやめさせられた(免職? 配置転換?)ところだった。信徒といえば安平国(安平郡)の国城(郡城)で、安平国の前は「信徒郡」ということもあって、もしかすると、国王が誅されたこと(処刑されたこと)と関係あって(お家騒動?)、やめさせられたかもしれない(国王について<<参照)。勝手な想像だけど、そんな皇帝の親族のいがみ合いを目の当たりにして今の政権がいやになったとか…
   あと、同じ涼州出身のよしみもあって(涼州漢陽郡出身だとして)、皇甫嵩と面会しやすかったと。
鉅鹿郡での黄巾戦
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 「戦いの果てに」と同じ地図。但し、画面上のルートの位置に根拠はありません


   閻忠は皇甫嵩に次のように話す。
「得難いが失いやすいもの、それは時間です。時間がすぎるが戻らないもの、それは機会です。そのため、聖人は時間にしたがい動き、智者は機会があれば発ちます。今、将軍(皇甫嵩のこと)は得難い運に遭遇しており、たやすく世を動かす機会をもっているのに、運命を受け止めず、機会に臨んで発たず、どうして名声を保つことができましょうか」
   と、閻忠の口から出た言葉は、彼から見た皇甫嵩の置かれている状況。どうやら彼は何かを説得しようとしていた。

   皇甫嵩には閻忠の意図がもう一つわからなかった。
「何がいいたいんだ?」
   皇甫嵩はそう聞き返した。

   閻忠は言い直す。
「天の道理によしみはなく、万民は親しみ従います。晩春において、今、将軍は鉞を受け(軍事権があり)、冬の終わりには戦功をおさめました。兵を動かせば神のごとく、謀略は二回と使わなくてもよく(一度で成功する)、枯れ木をおるようにやすやすと強きをくじき、雪に湯をそそぐようにはなはだ堅きを衰えさせ、旬月(一ヶ月もしくは十ヶ月)の間、優れた兵は雷光のようにはらい、屍を積み上げ、(功績を)石に刻み、報せをもって南にむかい、威勢と徳謀は朝廷をふるわせ、評判は国外へ馳せ、群雄は振り返り、万人はつま先立ちし(願い望み)、湯王・武王の挙行といえども、いまだ、将軍よりすぐれた者はいません。今、身をたて、功績をたたえられずとも、体は高人の徳をかね、庸主(暗君)に北面し(仕え)、どうして安まりましょうか」
   閻忠の言葉に具体性が出てきていた。
   皇甫嵩の黄巾戦での戦功やその評判をあげ、最後には問題提示している。皇帝を「庸主」(暗君)呼ばわりして。
   ちなみに「旬月」だけど、一ヶ月の意味だと、張梁戦など黄巾本隊(と呼んでいいんだろうか)との戦いのことをさしているんだろうし、十ヶ月だとそれまでの黄巾戦のことをさしているんだろう。

「朝早くから夜半まで公の場にいて、心は忠義を忘れないのに、どうして不安になるのだ?」
   どうやら、日々、真面目に職務をこなしている皇甫嵩にとって閻忠の言いたいことは理解できなかったらしい。

   さらに閻忠は続ける。
「そうではなく韓信は一食のもてなしを(裏切るのに)忍ばず、三分(項羽、劉邦、韓信の三勢力)の業をすて、かい通の説をこばみ、鼎立(三分)の勢いを軽んじ、鋭利な剣がすでにそののどをおさえ、そのため嘆き悔やみ、どうして女子に煮殺されたでしょうか。今、劉邦と項羽のときに比べ君主の勢いは弱く、将軍は淮陰(淮陰侯だった韓信のこと)より権力があり、指揮は風雨をゆるがすほどで、叱咤は雷電を興すほどです。かがやきが奮い発し、危機に乗じ弱みをうち、たっとびいつくしみ先に従った者を安んじ、武を奮い後に伏せた者に接し、冀州の士をとりたて、七州の民衆をおさえ、急な檄文を前もって送り、後に大軍は応じ、しょう水、河水(ともに冀州近くをだいたい西から東北へに流れている)の流れを踏み、孟津(らく陽近くの河水の渡し場)で馬に水を飲まし、天網(天罰の意もある)をあげ、京都(らく陽)を網羅し、中官(宮中の官、宦官)の罪を誅し(処刑し)、群衆の怨念の積もりをのぞき、逆さ吊りのような、久しい危機を解消しましょう。このようにすれば、攻撃しても戦う敵兵はなく、守る堅城もなく、招かずとも必ず影のように(民衆が)従い、童児(こども)といえども力を尽くし素手をふるってくれ、女子は命令に従い裳の裾をからげ(働き)、いわんや勇敢な兵卒、智能の士人を鼓舞しその疾風の勢いに乗じましょう!   功績がなされ、天下が恭順すれば、帝にあがることを求められ、天命をもって告げ、六合(天地東西南北)を一つにし、南面し(即位し)、天子にかわって政務をとり、己の家へ神器(天子のしるし)を移し、滅ぼした漢をおとし、神機が実り合わさるのに、風のごとく盛んに事をおこす良い機会でしょう。枯れ木を彫刻できず、衰えた世を補佐することは難しいのです。将軍はすでに補佐するのが難しい朝廷へ忠義をささげ、腐敗した木を彫っており、なお、上り坂に玉を走らせているようで、それは絶対にできることではありません。むしろ、今、権力のある宦官が大勢いて、集まる悪は市場のようで、天子は不自由で、政治は(天子からではなく)左右の者から出ています。庸主(暗君)のもと、長くいるのはむずかしく、功績はむくわれず、讒言する人が目をそばめ、もし早く図らなければ、後悔しても及びません!」
   閻忠が皇甫嵩に何を求めているか、あきらかになった。
   はじめ、韓信の故事を言い、行動を起こさなかった者がどうなったかを述べた。劉邦の傘下にいた韓信は、当時の二大勢力、劉邦、項羽に続く第三勢力になれるチャンスがあった。それを蹴って、劉邦の天下にした。ところが韓信は最期に劉邦の妻、呂后に殺されてしまう。
真・漢楚軍談(※と、あまりこの時代に詳しくない私が説明してもしかたないので、参照サイト、あげとく。おばらさんのサイト「真・漢楚軍談」→)
   閻忠はまず、そんな韓信と皇甫嵩の立場を重ね合わせた。次に閻忠は皇甫嵩に何をすべきか述べた。今の皇帝は項羽・劉邦より弱く、今の皇甫嵩は韓信より強いことを理由に。

   今の皇帝の取り巻きを倒し、皇甫嵩が皇帝になるよう。


   具体的には冀州で徴兵し、そこから京師(らく陽)へ攻めあがる戦略だ。攻めあがれば、多くの人々が味方するっていう、かなり楽観論だけど(汗)

   皇甫嵩はおそれて言う。
「非常の謀略は、普段の勢いではできない。図り、大いに功績をえるなんて、どうしてこの凡才ができようか。黄巾のこそ泥は秦や項羽を敵とせず、新しく結集し、たやすく散開し、ことを全うするのは困難だった。その上、人々は君主を忘れておらず、天は反逆をゆるさない。もしねつ造するなら、のぞまない功績となり、すぐに朝夕のわざわいとなるのと、朝廷へ忠義をささげ臣下の道を守るのとどちらがいいか。讒言を多く言われようとも、棄てることはできず、それでも名声があれば、死しても(名は)朽ちない。反逆の論は聞きたくない」
   皇甫嵩の返答は、まず閻忠によって持ち上げられた皇甫嵩の価値を下げることだった。その次に、黄巾の価値を下げ、まだ、今の政治は健在であることを示した。
   そして、あえて、反逆することと忠誠を変わらぬ誓うことを天秤にかけてみせた上で、反逆しないことを告げた。

   強大な敵軍を連覇した皇甫嵩は慢心せず、心に隙をつくらず、その忠誠心は揺るがなかった。

   断られた閻忠は、その計が用いられないことを知ると、その場を去り、狂気をよそおい、みだりがましくなった。
   やはり、そんな大逆を口にしたことで身に危険を感じたんだろう。


   黄巾との戦いにおいて最大の功労者である皇甫嵩へ反逆の誘惑があったものの、それをあっさりと蹴った。時代はこのまま平穏な世を迎えると思われたものの……




1)   改元、そして皇甫嵩話(本文のネタバレ含む)。後漢書皇甫嵩伝のところ+後漢紀。脚注040112-6)の続き。「以黄巾既平、故改年為中平。嵩奏請冀州一年田租、以贍飢民、帝從之。百姓歌曰:『天下大亂兮市為墟、母不保子兮妻失夫、ョ得皇甫兮復安居。』嵩温じゅつ士卒、甚得衆情、毎軍行頓止、須營幔修立、然後就舍帳。軍士皆食、己乃嘗飯。吏有因事受賂者、嵩更以錢物賜之、吏懷慚、或至自殺。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。民間で歌に出てくる皇甫嵩。さすが〜。
   あと後漢紀。「嵩字義真、規之兄子也。善用兵、為將、飲食舍止、必先將士、然後至巳乃安焉。兵曹有所受賂者、嵩曰:『公素廉、必用乏也。』出錢賜之。吏慚、即自殺。」(「後漢孝獻皇帝紀卷第二十七」より)
2)   改元や詔の年月日のこと。脚注040112-8)の続き。やっぱり日付といえば後漢書の本紀でした。「詔減太官珍羞、御食一肉;厩馬非郊祭之用、悉出給軍。   十二月己巳、大赦天下、改元中平。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。
3)   面談するお二人さん(本文のネタバレ含む)。元ネタは後漢書皇甫嵩伝と後漢紀と三国志賈く伝の注に引く九州春秋。これらは大体内容が同じなんだけど、細々としたところで違っている。多かったり欠けてたり。例えば後漢書と後漢紀だと、閻忠は単に元、信都令になっているけど、九州春秋ではそのときにやめさせられていると書かれている。そういう感じで、今回、三つの史書の気に入った箇所をつまみながら訳し本文をつくる。自分の力で一通り訳したんだけど、どうもちゃんと訳せてない、というより、日本語になっていなかった。さすがにこれは公の場に出せないやとおもって、幾喜三月/著「訳本皇甫嵩朱儁列伝」(楽史舎/企画 2000年8月13日発行 同人誌)11〜14ページと、今鷹真・井波律子/訳「三国志I   世界古典文学全集第24巻A」(筑摩書房   1977年7月30日第1刷発行)316〜317ページを参照する。本文でまだ意味が通じにくいところは参照先が変ってことじゃなくて、私がこの期に及んでもなおオリジナルな訳を尊重しているから(汗)。
「嵩既破黄巾、威震天下、而朝政日亂、海内虚困。故信都令漢陽閻忠干説嵩曰:『難得而易失者、時也;時至不旋踵者、幾也。故聖人順時以動、智者因幾以發。今將軍遭難得之運、蹈易駭之機、而踐運不撫、臨機不發、將何以保大名乎?』嵩曰:『何謂也?』忠曰:『天道無親、百姓與能。今將軍受鉞於暮春、收功於末冬。兵動若神、謀不再計、摧強易於折枯、消堅甚於湯雪、旬月之間、神兵電そう、封尸刻石、南向以報、威コ震本朝、風聲馳海外、雖湯武之舉、未有高將軍者也。今身建不賞之功、體兼高人之コ、而北面庸主、何以求安乎?』嵩曰:『夙夜在公、心不忘忠、何故不安?』忠曰:『不然。昔韓信不忍一餐之遇、而棄三分之業、利劍已揣其喉、方發悔毒之歎者、機失而謀乖也。今主上げい弱於劉・項、將軍權重於淮陰、指ヒ足以振風雲、叱咤可以興雷電。赫然奮發、因危抵頽、崇恩以綏先附、振武以臨後服、徴冀方之士、動七州之衆、羽檄先馳於前、大軍響振於後、蹈流しょう河、飲馬孟津、誅閹官之罪、除群凶之積、雖僮兒可使奮拳以致力、女子可使げん裳以用命、況詞F羆之卒、因迅風之げい哉!功業已就、天下已順、然後請呼上帝、示以天命、混齊六合、南面稱制、移寶器於將興、推亡漢於已墜、實神機之至會、風發之良時也。夫既朽不雕、衰世難佐。若欲輔難佐之朝、雕朽敗之木、是猶逆阪走丸、迎風縱棹、豈云易哉?且今豎宦群居、同惡如市、上命不行、權歸近習、昏主之下、難以久居、不賞之功、讒人側目、如不早圖、後悔無及。』嵩懼曰:『非常之謀、不施於有常之げい。創圖大功、豈庸才所致。黄巾細げつ、敵非秦・項、新結易散、難以濟業。且人未忘主、天不祐逆。若虚造不冀之功、以速朝夕之禍、孰與委忠本朝、守其臣節。雖云多讒、不過放廢、猶有令名、死且不朽。反常之論、所不敢聞。』忠知計不用、因亡去。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)
「嵩既破黄巾、威振天下、故信都令漢陽閻忠説嵩曰:「夫難得而易失者、時也;時至而不旋踵者、機也。故聖人常順時而動、智者必見機而發。今將軍遭難得之時、蹈之而不發、將何以權大名乎?』嵩曰:『何謂也?』忠曰:『天道無親、百姓與能、故有高人之功者、不受庸主之賞。今將軍受ふ鉞於暮春、收成功於末秋、兵動若神、謀不再計、攻堅易於折枯、摧敵甚於湯雪、旬月之間、神兵電そう、封戸刻石、南面以報、威振本朝、聲馳海外、是以群雄迴首、百姓企踵、雖有湯・武之舉、未有高將軍者也。身立高人之功、乃北面以事庸主、何以圖安也?』嵩曰:『夙夜在公、心不忘忠、何以不安?』忠曰:『不然!昔韓信不忍一餐之遇、棄三分之利、拒かい通之説、忽鼎峙之勢。利劍揣其喉、乃歎息而悔何以見烹於女子也。今主勢弱於劉項、將軍權重於淮陰、指麾足以震風雨、叱咤足以興雷電。赫然奮發、因危抵頽、崇恩以綏前附、振武以臨後伏、徴冀方之士、勒七州之衆、羽檄先馳於前、大軍嚮振於後、蹈流しょう河、欽馬盟津、誅中官之罪、除群怨之積。如此則攻無交兵、守無堅城、不招必影從、雖童兒可使奮空拳以致力、女子可使げん裳以用命、況詞F羆之卒、因迅風之勢哉!功業巳就、天下已順、乃請呼上帝、喩以大命、混齊六合、南面稱制、移神器於將興、推亡漢於已墜、實神機之至會、風發之良時。夫既朽不雕、衰世難佐。將軍既欲委忠於難佐之朝、雕朽敗之木、猶逆阪走丸、必不可得也。乃今權宦群居、同惡如市上不自由、政出左右。庸主之下、難以久居、不賞之功、讒人側目、如不早圖、後悔無及!』嵩懼曰:『黄巾小げつ、非秦・項之敵也;新結易散、非我功策之能。民未忘主、而子欲逆求之、是虚造不冀之功、以速朝夕之禍。非移祚之時也、孰與委忠本朝?雖有多讒、不過放廢、猶有令名、死且不朽。逆節之論、吾所不敢也。』忠知計不用、乃佯狂為巫。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)
「中平元年、車騎將軍皇甫嵩既破黄巾、威震天下。閻忠時罷信都令、説嵩曰:『夫難得而易失者時也、時至而不旋踵者機也、故聖人常順時而動、智者必因機以發。今將軍遭難得之運、蹈易解之機、而踐運不撫、臨機不發、將何以享大名乎?』嵩曰:『何謂也?』忠曰:『天道無親、百姓與能、故有高人之功者、不受庸主之賞。今將軍授鉞於初春、收功於末冬、兵動若神、謀不再計、旬月之間、神兵電掃、攻堅易於折枯、摧敵甚於湯雪、七州席卷、屠三十六方、夷黄巾之師、除邪害之患、或封戸刻石、南向以報コ、威震本朝、風馳海外。是以群雄迴首、百姓企踵、雖湯武之舉、未有高於將軍者。身建高人之功、北面以事庸主、將何以圖安?』嵩曰:『心不忘忠、何為不安?』忠曰:『不然。昔韓信不忍一餐之遇、而棄三分之利、拒かい通之忠、忽鼎じ之 勢、利劍已揣其喉、乃歎息而悔、所以見烹於兒女也。今主勢弱於劉・項、將軍權重於淮陰、指麾可以振風雲、叱咤足以興雷電;赫然奮發、因危抵頽、崇恩以綏前附、振武以臨後服;徴冀方之士、動七州之衆、羽檄先馳於前、大軍震響於後、蹈蹟しょう河、飲馬孟津、舉天網以網羅京都、誅閹宦之罪、除群怨之積忿、解久危之倒懸。如此則攻守無堅城、不招必影從、雖兒童可使奮空拳以致力、女子可使其げん裳以用命、況賜q能之士、因迅風之勢、則大功不足合、八方不足同也。功業已就、天下已順、乃燎于上帝、告以天命、混齊六合、南面以制、移神器於己家、推亡漢以定祚、實神機之至決、風發之良時也。夫木朽不彫、世衰難佐、將軍雖欲委忠難佐之朝、彫畫朽敗之木、猶逆阪而走丸、必不可也。方今權宦群居、同惡如市、主上不自由、詔命出左右。如有至聰不察、機事不先、必嬰後悔、亦無及矣。』嵩不從、忠乃亡去。」(「三國志卷十   魏書十   荀いく荀攸賈く傳第十」の注に引く九州春秋より)
   例によって、表示できる文字にかえてる。
<<
>>