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清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
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三国志同人イベント情報サイト


  • 2006年9月 2日(土) 10:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,132
二次創作 下記のように三国志ニュースで三国志関連の同人誌展示即売会(イベント)をお伝えしてきた。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/308
http://cte.main.jp/newsch/article.php/341
http://cte.main.jp/newsch/article.php/376

それらを取り上げていると、同人イベントの情報専用のサイトってあったら便利だなぁと思っていた。
そんなおり、見かけたのが「三国志同人イベント情報サイト」。三国志関連のイベントのみならずコミケやシティなど(あえて略称を使うが)の大規模イベントの情報まで載っている。

・三国志同人イベント情報サイト
http://s594.sakura.ne.jp/event/

しかもサークル参加しようと思っている人に便利なようにそれらのサークル参加締め切り日等の情報もあげられている。
こういうサイトは長いこと続いてくれれば(そして更新はいつでも素早く)、かなり重宝されるよな。
(※あと個人的にはシンプルなバナーなんだから「3594 801 SEARCH」のように小さいバナーもあるとありがたい ※追記→というわけで小さいバナーも追加された。ありがたい♪)

三国志学会第一回大会お昼休み


  • 2006年9月 1日(金) 12:28 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,337
研究 ・三国志学会第一回大会ノート4からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401


 我々はアナウンス通り、お昼をとろうと近くのスーパーの最上階を目指す。
 ここで伊比学さんは旧交をあたためた徹夜明けのためそのまま帰宅。KJさんは業務のため昼休み我々と行動を別にする。そのため、USHISUKEさん、げんりゅうさん、清岡、ミミまろさん、たいがあさんの五人で昼飯へ。
 歩きながら、前日の三国志シンポジウムにこれなかったUSHISUKEさんやたいがあさんに前日の会場の様子や客層などを話す。

 スーパーの最上階はレストランを集めた階で、さすがに子供の夏休みの日曜日とあって通路まで大混雑。我々は空いているお店をうろうろ探すと、意外と簡単にみつかる。ジンギスカンのお店。ランチメニューや単品もあるんでそこに決定!

 店に入って、皆、メニューを決めると、やはり午前中の質疑応答でUSHISUKEさんが質問したことが話題になる。やっぱり王平が出るとUSHISUKEさんが質問するんだな(以下のリンク参照)、って話。

・【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2366658#2366658
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2370072#2370072
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2410665#2410665
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2422391#2422391

 さらに前日の三国志シンポジウムのパネルディスカッションは去年と違ったのか、って話。そうそう予め質問用紙が配られたり、研究会からの質問が控えめになったりしたんだ。
 メニューをきく人が来る。やはりビビンバとか韓国系のランチが豊富みたいでそれを頼む人も結構居た。清岡は冷麺ランチ。韓国風冷麺ね。

 やがて自己紹介が始まる。
 まず、げんりゅうさんから。唯一、初対面のたいがあさんからあれこれ質問が来る。分かりやすい、げんりゅうさんのブログの行き方は三国志連環の「三国志連環について」のページから。そこから右回りに、お次は、たいがあさんの自己紹介。次、向かいに座っている清岡、その次、向かって右に座るUSHISUKEさん、さらに右に座るミミまろさん。
 それから三国志学会第一回大会の懇親会に出ようか出まいかどうしようって話をしていた。私はKJさんに合わせるといった事を言っていた。

 そのうち徐々に食事が来て、来た順に各人が食べていった。

 また話が昨日の三国志シンポジウムへ。清岡から。USHISUKEさんに{上田先生の報告で発表のあった江戸中期の三国演義を受容した人たちのピラミッドの図の話(下記のリンク先参照)をする。そうそう2月18日にプチオフ会をしたとき、USHISUKEさんとげんりゅうさんと隼鶻さんとで、現代の三国志ファンの話をしていたとき、同じような図(下記のリンク先参照)が出ていたんだよな。プチオフ会のときは上下逆さで下に向かって先細りした図だけど。

・上田望先生の報告「小説『三国志』と日本人」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/377
・2月18日プチオフ会での話
http://cte.main.jp/newsch/article.php/288
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2191

 それから上田先生の報告にあった、歌舞伎役者に挿し絵を似せるのは現代の真・三國無双のキャラのようなものだ、とか。
 次は映画「赤壁之戦」の話。北京オリンピックにあわせて公開されるんで撮影開始がさらに遅れた、など話していた。あと公開後は役者のファンが三国志ジャンルにどっと押し寄せて来るんだろうな、って話をしていた(7月18日の宣和堂電網頁オフ会に出た話題の受け売りなんだけど・笑)。
 あと韓国の三国志映画の話もどうなったんだ、とか。

 時間も時間だったので我々はその店を後に

 それから店の旧名が実は「ジンギスカン フランス人」だった。謎な店名(汗)。ジンギスカン(チンギスハン)はフランス人だった?!とか皆いろんなツッコミをしていた。

 帰り道は中国と日本の三国志研究の活発さの話をしていた。中国語わからないと、理解できないことが多いね、とか。

 13時50分ぐらい。大東文化会館の建物に入ると、KJさんに会う。真っ先に懇親会の話を振ってみたら、KJさん出る予定ということなので、そこの五人全員出ることに。
 あと三国志学会の話になって、普通の会員よりグレードが高い維持会員があるって話をしていた。それから三国志学会のサイトでその前日ぐらいから広報担当の人の所属が「NPO三国志フォーラム」に変わっていたって話もしていた(笑)
 その後、清岡は受付で懇親会に出席する手続きをすませ、ホールに入る。

 さていよいよ午後の部だ。


・三国志学会第一回大会ノート5へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405

三国志学会第一回大会ノート4


  • 2006年8月31日(木) 01:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,077
研究 ・三国志学会第一回大会ノート3からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

 待ち時間、たいがあさんが持ってきた小川環樹先生による『三国演義』の訳本のの挿し絵を見せて貰っていた。その挿し絵はちょうど昨日の三国志シンポジウムの上田望先生の報告で出てきた葛飾戴斗二世の絵だった。

 次の司会は三国志学会副会長の金文京先生(京都大学人文科学研究所所長)。

○竹内真彦(龍谷大学助教授)「呂布には何故ひげがないか-三国志物語の図像と本文の関係について」

 ※以下、「1. 」といった番号に続くタイトルはレジュメのをそのまま使っている。

1. 問題意識

 レジュメは4ページ、それに図像が10ページ。
 図像の葛飾戴斗二世の呂布の絵(『絵本通俗三国志』)を見せ、髭があることを確認し、次に図像の中国の『絵図三国演義』の呂布の絵を見せ、髭がないことを確認した。
 その後、図像の二枚目を見せ、呂布が貂蝉に言い寄る場面で日本(『絵本通俗三国志』)と中国(『三国志演義』周曰校本)での呂布の描かれ方の違いを見せた。あきらかに日本は美女にむさい男が言い寄っているが、中国のは美男美女。むしろ中国の方がなぜ美男美女に描かれるのかが疑問(本報告のきっかけ)

 図像三枚目、上が『三国志演義』呉観明刻本の王允と策をねっているところ。下が虎牢関。ともにひげのない「白面の貴公子」
 →こう描かれるには『三国演義』本文にはでていない「呂布の物語」があったのではないのか?

2. 呂布の物語

 赤兎馬。『三国志』では関羽が乗っていないが、『三国演義』や『三国志平話』では乗っている。なぜ関羽は赤兎馬に乗っているのか?→関羽は物語中、英雄的役割だから。
 呂布に物語があった? 『水滸伝』中に過去の英雄が出てくる。「小温侯 呂方」。登場人物が呂布の物語を背負っている
 具体的にどういう物語なのか確認できない。

3. 呂布の物語

※以下の漢文はレジュメそのまま引用。
『三国志平話』 
  董卓見呂布身長一丈、腰闊七圍、獨殺百十餘人、如此英雄、方今天下少有。(巻一)
『三国志演義』呉観明刻本
  時李儒見丁原背後一人、身長一丈、腰大十圍、弓馬熟閑、眉目清秀。五原郡九原人也。姓呂、名布、字奉先。(第三回)
『三国志演義』毛宗崗本(通行本)
  時李儒見丁原背後一人,生得器字軒昂,威風凜凜,手執方天畫戟,怒目而視。(第三回)

 古い『三国演義』(呉観明刻本)では「眉目清秀」となっている。まだあたらしくなると(毛宗崗本)では「威風凜凜」になっている。
 呂布の「髭がない」とされるのはかなり少ない。ただこちらはそれほど古い歴史はない
 もう一つの特徴としてかぶりものがあげられる。同じ者をかぶっている登場人物はそれほどいない。

 図像の四枚目上、『三国志平話』に出てくる呂布のところ。はっきり呂布に髭がある。しかしかぶりものが共通している
 →かぶりものに意味がある?

4. 呂布の装束

※以下の漢文は表示できるかぎりレジュメそのまま引用。
『三国志平話』
  左有義兒呂布、布騎赤免馬、身披金鎧、頭帶[けものへんに解]豸冠、使丈二方天戟、上面挂黄幡豹尾
「関雲長単刀劈四寇」雑劇穿関
  三叉冠雉鷄 抹額 蠎衣曳撒 袍 項帛 直纏 [ころもへんに荅]膊 帯 三髭髯 簡

 かぶりものは『三国志平話』に「頭帶[けものへんに解]豸冠」とあり、『三国演義』に先行する雑劇に服装の指定が書かれているのがある。それが「三叉冠雉鷄」(かぶりもの)とあるが「三髭髯」(ひげの指定)がある。
 「帶[けものへんに解]豸冠」」や「三叉冠」はいずれも図像のものではない。
 →図像は「束髪冠」


※以下の漢文はレジュメそのまま引用。

『演義』呉観明刻本
  頭戴三叉束髮紫金冠、體挂西川紅錦百花袍、身披獸面呑頭連環鎧、腰繁勒甲玲瓏獅蠻帶。弓箭隨身可体、手持畫桿方天戟、坐下嘶風赤兔馬。果然是人中呂布、馬中赤兔。人馬之中、漢末両絶。(第五回)

 『三国演義』呉観明刻本では「三叉束髮紫金冠」。束髮冠とはどんなものか?
 →図像四枚目下図。三才図絵から。
 ・『紅楼夢』の賈宝玉が図像(五枚目上)でつけている。本文では「束髪嵌宝紫金冠」となっている。ここは「束髪」に注目。
 束髮冠とは何か?→古代の帝王、貴人(三王など)・公子(賈宝玉)がかぶるもの?
 他の雑劇や小説でも束髮冠が出てくる。普通の武将がかぶるようなものではない。

5. 「連環記」再考──結びにかえて

 『三国演義』では貂蝉は自発的に(王允の恩義に報いるため)計略をかけようとする。
 →実は伏線がなくなっている
 「錦雲堂美女連環記」雑劇(息機本)では呂布と貂蝉は夫婦で生き別れ、王允はそれを知りそれを利用する(貂蝉は身を汚すことを王允に強制される)
 ※『三国志平話』でも元々、夫婦。
 →雑劇の方が原型に近い。
 竹内先生の考えでは原型は呂布と貂蝉が復縁する話。呂布は善玉だったのでは?
 →『三国演義』は全体的な流れで呂布を悪玉にする必要があり、夫婦設定はカット。その善玉設定が残って「束髮冠」であり「ひげがない」のでは。


○質疑応答

 大学院生からの質問。京劇の呂布にひげがないことに前々から疑問に思っていた。「4. 呂布の装束」。雑劇の例でひげがあるとのことだけど、宮廷で上演されたものではないのでしょうか?(宦官が演じていたのでは?)
 →もちろんそうだけど(宦官が演じていたが)、ひげをつけない場合もあるので解釈が難しい。同じ特性をもったものに同じような格好をさせる(同じ符号を与えられる)。※あとその例をあげられた。敵役の武将に髭をつける場合がある。他の例として忠義の符号を与えられた関羽と岳飛はかぶりものが同じ。(司会補足。明末からということですよね、雑劇ででてくるのは、ひげがないのは)

 [けものへんに解]豸冠は後漢書輿服志か独断ででてきたのではないか?(※こまかいところは聞き取れず)
 →ありがとうございます。
 司会補足、[けものへんに解]豸は想像上の動物とのこと。
 ※清岡注。細かい議論が見えてこなかったけど、今、続漢書輿服志をみてみると確かに法冠のところに書いてある。あと手元の「漢代の文物」をみてみると、ばっちり[けものへんに解]豸の画像と法冠の画像が載っている。しかし『三国演義』関連の図像と当時の冠は一致しないことの方が多いと思うので、これでたどると危険かも。

 中国語で質問(劉先生か周先生だと思うけど失念)。司会が翻訳。『三国演義』葉逢春本でひげがあるかどうか?
 →ない。(そのころの)人物像が簡単なんでひげがない人が多い。そのため呂布にひげがないことに意味があるか不明。


 というわけで午前の部は終わって次はお昼休み。
 渡邉義浩先生がご飯の食べられるところについてのアナウンスが入り、聴衆はぞろぞろと会場の外へと動き出した。


・三国志学会第一回大会お昼休みへ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

三国志学会第一回大会ノート3


  • 2006年8月29日(火) 00:00 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,746
研究 ・三国志学会第一回大会ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

 時間がおしているので休憩なしでそのまま。会場のホールでの空調の調子は悪いが、皮肉なことに一階上の控え室はガンガンにクーラーが効いている、と渡邉先生の小粋なアナウンスが入る。

 お次は文学の研究とのこと。建安文学がどういう位置づけかとのこと。あと和田先生のご紹介。

○和田英信(お茶の水大学助教授)「建安文学をめぐって」

 レジュメは縦書きの2ページ。丸で囲った数字が全部で16あり、それぞれの数字の下に引用した文が載せられている。建安は後漢の年号。建安期を代表する文学者、曹操、その息子、曹丕、曹植、その周りに集まった王粲といった詩人たち。
(1)李白の詩で建安のことが詩でうたわれている。建安は中国の文学の中で特別な位置。建安はその他の時代と異なる。
 建安期以前の詩とはどのようなもの? そのほとんどが古詩あるいは樂府と呼ばれる作者不詳の詩。
(2)(3)現在見られるものの例、『文選』にある「古詩」十九首など。
(4)樂府とは音楽と共にうたわれたもの。例として『宋書』樂志にのっているもの。
 古詩あるいは樂府はいつどのようなにつくられたか、はここでは論じないが、建安の詩人たちの土俵になったことは間違いない。曹操の作品は現在、樂府にカテゴリーに分類される。
 古詩・樂府と建安を隔てる大きな違いは作品に署名があるかどうか。
(5)(6)

 なぜ建安期によってかわったか。どのようにかわったか
 建安期以降、歴史時代にはいったという考え(※漢字あってるかな)
 具体例。(7)古詩と(8)曹植の詩の比較。
(7)「古詩十九首」其三。洛陽がにぎやかな代名詞としてあげられている。ここではかならずしも実在の洛陽でもなくてもよい。
(8)曹植「送應氏」二首其一。應氏が実在の人物。作者と作品とが関係。董卓の時代(190年)に宮室が焼かれた洛陽が描写される。ここでは洛陽を他の場所におきかえることができない。
 人物に関して(3)古詩と(9)曹植の詩の比較。古詩の中に描き込まれる人物は神仙、神話上の人物など特殊な人物がほとんど。
(3)「古詩」十九首其十五。仙人がでてくるが不老不死の代名詞として出てくる。
(9)曹植「贈丁儀王粲」。二人の人物がでてくる。その人そのものを指す。具体的背景のその人たちへのメッセージ。作者と作品の関係は署名だけではなく詩のうたい方にも現れている。詩のあり方がかわったから、作者の署名が加わるようになったと考え方もできる。
 建安以降、あらゆる詩がこうなったというわけではない。

(10)曹植「贈徐幹」。(個性を有した)徐幹を生き生きと描くのみならず、そういったメッセージを贈った作者そのものも生き生きと表現されているようだ。

 建安以降、文学は個を表現するようになった。

 建安期以降、詩が極めて具体的な政治状況で詩がくみ出されること。
(11)曹丕「令詩」。詩は明らかに政治的な文脈で書かれている。
(12)曹丕「至廣陵於馬上作詩」
 曹操も政治的な作品をつくっている。政治的アピール。(13)曹操「短歌行」(14)「苦寒行」
 (12)と(14)に東山詩が組み込まれている。
→そういう意味では文学は政治に従属するようになった?

(15)典論論文の文学至上主義はそういう文脈でみると…

(16)『文選』にみられる建安期の詩人


○質疑応答
※清岡が失念。文学と政治の話が司会と報告者で延々と応酬される。その後、質問者が一人。


・三国志学会第一回大会ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401

三国志学会第一回大会ノート2


  • 2006年8月28日(月) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,178
研究 ・三国志学会第一回大会ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/397


 司会に三国志学会副会長の堀池信夫先生がついて、早速、次の報告がスタート。

○澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)「五斗米道研究の現状と課題」

 レジュメは6ページ。家系図、年表やら史書からの引用がある。
 初めは澤先生から高校の授業で三国志がほとんど取り上げられないことに不満の声が挙がるほど関心が高いという掴み。

【1】宗教名の変遷

 まず五斗米道の説明。張陵が始祖。いつのころから天師道と呼ばれるようになったとのこと。元代には正一教と呼ばれる。南北朝のころには様々な経典を受け入れ、道教とも呼ばれるようになった。つまり初期道教と呼ばれる。

【2】歴代張天師

 歴代の天師名がレジュメに並べられる。初期の三代を三張(張道陵、張衡、張魯)と呼ばれる。現在は64代目の張源先(1969~)で台湾におられるとのこと。この系図は疑わしい部分がある。張魯のときに五斗米道は大きな飛躍をする。

【3】五斗米道関係年表

 190年に劉焉と結びつき漢中郡と巴郡を支配下に置き、五斗米道に基づいた政治を行う。この政権は宗教王国のような捉え方をされている。道教からの研究(道教の歴史や教義、仏教との論争等)と歴史からの研究の二つがある。歴史研究において太平道(黄巾の乱)に比べ副次的に五斗米道が研究されてきた。

【4】『三国志』巻8張魯伝

 タイトルにある三国志魏書張魯伝の冒頭の漢文が引用されていて、それが読まれていく。五斗米道は病気を治す→レジュメ【5】裴松之注を読まれる

【5】同前、裴松之注

 五斗米道の細かいところが読まれる。「老子五千文」を読ませるとか。老子がテキストに使われていることに注目。五斗米道のころから老子が重要。六朝時代から唐の時代にかけての道教の伝承では張衡あるいは張魯が老子に注をつけたということで「老子想爾注」が成立したとのこと。道教の研究には不可欠なもの。成立年代は多くの人が後漢の成立だろうといっている。疑問の声もある。

【6】『後漢書』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条

 裴松之の指摘。張脩を張衡としている。これらの論争があって幸田露伴は裴松之に従う。張脩のままでいいんだ、としている人もいる。五斗米道の研究ではさらにやっかいで、張脩という人物は三人出てくる。裴松之注に引く典略、三国志魏書張魯伝、後漢書本紀の三カ所出てきて、どれとどれとが同一人物とかいろんなパターンが出てくる。
 実は張脩が五斗米道を開き、張魯が乗っ取って張魯が歴史をねつ造したという興味深い説もある。
 澤先生は裴松之の指摘は間違いで、三カ所の張脩は同一人物と考えているとのこと。そうすると本筋とは別の問題が出てくる。なぜ陳寿は『三国志』で「別部司馬張脩」とだけ載せたか? 五斗米道との関係を書かなかったのか。澤先生は張魯の伝であって、張魯中心に書いていたため張脩については簡略に書いた、と考えた。

 歴史研究、五斗米道を主な研究としたもの。「教団の組織」と「異民族との関係」とを対象とした二つがある。
 まず教団の組織について。大きな組織(大きな軍)をおさめられたのか? 地元の豪族の協力が必要。教団そのものではない。政権としては地元の有力者を形式的に祭司に任命し治めさせていたのではないか。信者じゃない人も信者としていた

【7】『華陽国志』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条
【8】『三国志』巻1武帝紀、建安20年の条
【9】『文選』巻4所載、蜀都賦注引『風俗通』
【10】『後漢書』巻86南蛮伝、板楯蛮夷の条

 そして異民族との関係。曹操に攻められたとき、異民族を張魯は味方にしていた。【7】で[宗/貝]人(そうじん)、【10】で板楯蛮と呼ばれている。非常に勇猛な民族をうまく取り入れた。民族の首長を祭司に任命し取り入れた。

・残された課題

 五斗米道と太平道との関係。宮崎市定先生から「君、関係あると思うかね?」ときかれたそうな。黄巾の乱とは別に考える?

・質疑応答

 津田先生からの質問というか意見。
 第一に張魯の娘が曹操の息子に嫁ぐ。その息子が最後の皇帝になる。そういったことに関係するのか。
 第二に陳寿のこと。陳寿の出身地は五斗米道の活動範囲とかぶる。

 USHISUKEさんからの質問。名乗らず、NPO三国志フォーラムに所属とのこと
 異民族についての質問。王平のこととか。
 五斗米道はどの程度、異民族に対し寛容であったか。
※詳しくは下に示す三国志漂流の記事参照

・三国志漂流
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040
・『三国志学会』レポート
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2606181#2606181

 →元々、漢民族に対し協力的。後漢になると中央政府に対する板楯蛮の反乱が多くなってくる。そういった異民族に対し五斗米道は受け入れる体制にあった。板楯蛮は租税を免除されいたんだろう。曹操に降った後、異民族は軍団長に任命されていたり、と。


・三国志学会第一回大会ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

予定表(今後二ヶ月)