Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2020年 02月
«
»
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

-

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 53 投票 | 0 コメント

PR

清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
よくわかるねこまんまさんの問題行動 pdf
gif

掲示板 件名 最新投稿

三国志学会第一回大会ノート6


  • 2006年9月10日(日) 23:34 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,951
研究 ・三国志学会第一回大会ノート5の続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405


 司会の渡邉義浩先生から狩野直禎先生の紹介が入る。狩野先生がご著作の『諸葛孔明』を書くに至ったか、のご講演とのこと。

○狩野直禎(三国志学会会長、元京都女子大学学長)「私と三国志」

 レジュメは縦書き手書きの5枚。ある意味、貴重なレジュメ。

 先祖は熊本肥後。(転勤族の)父親が初めて東京に赴任したときに狩野先生がお生まれになったとのこと。大半は京都にいらっしゃったとのこと。
 小学校5年生のときに再び東京へ転勤。夏休みに引っ越し。そういう意味で友達がいなかったので両親が佐藤春夫/著『支那文學選』(新潮社、新日本少年少女文庫14)を買ってくださったとのこと。
 ここで狩野先生が初めて三国志の存在を知ったとのこと。そこのエピソードは「天下の英雄は君と僕だけさ」「五丈原の戦ひ」など。そこの解説では三国時代は我が国の神功皇后の時代、と解説があったそうな。さらに引用した書物の簡単な解説があるとのこと。そこに『三国志演義』と『三国志』の解説があったそうな。狩野先生がこの本で印象に残ったのは「故郷(ふるさと)」と題したもの。魯迅の「故郷」を訳したもの。
 1942年3月に小学校卒業。
 当時は義務教育6年間。狩野先生は東京の中学校進学。当時の主要教科は英数國漢だそうな。現代では考えられないが漢文の授業があった。教科書は簡野道明『新修漢文』。最初は簡単だが(江戸時代に書かれた漢文)、十八史略など入ってきて、曹植「七歩詩」などがあったそうな。歴史(社会の一つじゃなく独立している。)は一年が日本史、二年が東洋史、三年が西洋史、四年がふたたび日本史だったとのこと。そのとき二年の教科書は羽田亨『中等東洋史』とのこと。仏教がらみでインド史が入ってくる程度。三国時代も当然、入ってくるが30分か1時間程度。
 1944年で中学三年生。労働に使われたりしたそうな。狩野先生は防空壕の木材を運んだりしたとのこと。そのため西洋史については勉強する機会がなかったそうな。そのうち空襲が始まる。京都に帰る。京都府立の中学に転校。戦争が終わったら終わったで車掌として労働にかり出されていたとのこと。
 その後、出師表について授業を受けたそうな(教科書、土井晩翠『星落秋風五丈原』)。祖父が手紙で書き下し文を送ってくれたとのこと。後年、狩野先生の『諸葛孔明』でその文をそのまま使ったとのこと。
 京都の高等学校に進学。高等学校の一年生は日本史、二年生は東洋史、三年生は西洋史。東洋史の授業の先生は羽田亨先生のご令息だったそうな。そのときの夏休みの宿題が内藤虎次郎『中國中古の文化』(1927年の授業が本になったものとのこと)を読むようにというもの。当時は紙は悪いし内容が難しいし読みづらいものだったそうな。感想文提出。その中の項目で「曹操の文学趣味」「曹操の矯正策」「諸葛亮の矯正策」というのがあったとのこと。岡崎文夫『魏晋南北朝通史』を読んだそうな。
 大学へ進学(当時は高等学校進学の方が難しいそうな)。狩野先生は哲学に行くか、文学に行くか、史学に行くか迷ったとのこと。結局、東洋史学へ。狩野先生は四川省に興味をもつ。那波利貞「文化史上より観察する四川省成都」(歴史と地理 十二巻五号・六号)、久村因(ちなみ)の諸論文(漢代の地名に詳しい)。大庭脩「秦の蜀地経営」(卒業論文→竜谷史壇33号、1950年)。卒業研究は蜀漢か五代十国がまよったが、結局、その両方を含む○○伝説の研究(※聞き取れず)。三国志の研究に近づく。
 1953年に大学を卒業。そのころに小川環樹・金田純一郎/訳『三国志』(岩波文庫、1953年、※三国演義の訳) 旧制大学院に進学。一切、単位なし。そのころに川勝先生の論文が書かれる。
 川勝義雄「曹操軍団の構成について」(京都大学人文科学研究所創立二十五周年記念)、その中で曹操軍団の構成は任侠的結合である、とかかれていたとのこと。同じ頃に宮川尚志先生が京大に来られる。
 宮川尚志「三国呉の政治と制度」(史林38巻1号、1955年)
 狩野先生はちょうどそのとき史林の編集委員だったとのこと。この論文の構成などをしたとのこと。
 吉川幸次郎「曹氏父子伝」(世界121~132 6回 1956年)。この中の文を読まれる。内容は、我々は曹操を三国演義的な人物像を想像するが、それは正しくない、とかそういう旨。
 1957年に狩野先生はある論文を書き上げる。それが狩野直禎「後漢末の世相と巴蜀の動向」(東洋史研究15巻3号、1957年)。その書き上げた直後に、吉川幸次郎「曹植兄弟」(新潮55巻、1958年)の連載が始まる。その後、1962年に吉川幸次郎「三国志実録」(筑摩書房)刊行。時代区分論争に関連し、「魏晋から中世なのか?」と吉川先生から三ヶ月も質問を受けた、という話。
 その後、五斗米道の話も含めた論文、狩野直禎「蜀漢政権の構造」(史林42-4、1959年)を書き上げたそうな。このころ、狩野先生は京都大学東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』(東京創元社、1961年)の出版(下請けの仕事)に携わる。ここでいろんなことを勉強したとのこと。
 そのころから狩野先生は聖心女子大学の小林分校に就職。そこで二年間勉強すると短大の資格が貰えるとのこと。その時期に狩野直禎「華陽国志の成立を廻って」(聖心女子大学論叢21、1963年)を書き上げる。狩野直禎「後漢時代地方豪族の政治生活」(史泉22、1961年)という論文を書く。これは[牛建]為郡の張氏について書かれていて、三国時代から離れて後漢時代だとのこと。
 狩野直禎『両漢學術考』(筑摩書房、1964年)。吉川先生から言われた仕事とのこと。元は1924年の講義。後漢における老荘思想の萌芽。
 宮崎市定先生が定年を迎える。普通は定年記念で論文集ができるが、人物往来社から中国人物叢書の企画があがる。第一回配本は随の煬帝で宮崎市定先生ご自身の著。第二回配本は「諸葛孔明」で狩野先生に割り当てられる。狩野直禎『諸葛孔明』(人物往来社、中国人物叢書2、1966年)。これに書くに当たって参考にした本がレジュメに書かれている。内藤虎次郎『諸葛武侯』(東華堂 1897年)。これは劉備がなくなった時点で終わっている。つまり未完。非常に細かく優れた内容。内藤先生は三顧の礼を否定。杉浦重剛・猪狩又藏『諸葛亮』(博文館、1913年)。古本屋で購入。宮川尚志『諸葛孔明』(富山房、支那歴史地理叢書、1940年)。植村清二『諸葛孔明』(筑摩書房、1964年)。
 桑原隲藏「孔子と孔明」。これは「支那史上の偉人」というタイトルで1923年に大阪の懐徳堂で講演したときの紀要。のちに『東洋史説苑』(弘文堂、1923年)におさめられる。そこには桑原先生が「至誠一貫してその行動に一点の不純をも認めぬ」と断定。その中で中国嫌いの平田篤胤先生が「孔明の生涯の中で尤も感激に堪えぬのは、実に成敗を度外に北伐を実行して義務に殉じた時にある」と紹介されているとのこと。
 その後、狩野先生は森鹿三/編『東洋の歴史』第四巻「分裂の時代」(人物往来社、1967年)で「三国の鼎立」、「西晋から東晋へ」、「民族の大移動」の章を執筆されたとのこと。それと平行して狩野直禎『魏晋學術考』(筑摩書房、1968年、1926年の講義内容)を執筆。狩野直禎『支那文學史』(みすず書房、1970年、1908年の講義内容)を出版。これは六朝文學。狩野直禎「李固と清流派の進出 田村博士頌寿 東洋史論叢」(1968年)を執筆。これはタイトル通り三国時代の前の話。狩野直禎『「三国志」の世界─孔明と仲達─』 清水書院、1971年 人と歴史東洋5。孔明についてそれ以前に書いたので、仲達を入れたとのこと。

○質疑応答

 質疑を呼びかけたものの、特になかったので、「ご講演ということで質疑はなし」ってことで終了。満場拍手。


・三国志学会第一回大会懇親会へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/409

2006年9月6日「八卦の空」(ミステリーボニータ10月号)


  • 2006年9月 6日(水) 23:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,310
マンガ  月刊の漫画雑誌、ミステリーボニータ(秋田書店)に連載中の「八卦の空」。三国志およびその注に載っている人物、紀玄龍や管輅(字、公明)のコンビがオリジナリティ豊かに漫画で描かれていている。
 前々号で巫炎シリーズが終わり。一区切りついて、前号が休みだったので、二ヶ月ぶりの「八卦の空」。読み切り。

・前回
http://cte.main.jp/newsch/article.php/363

 今月15日に単行本2巻の発売が控えているので単行本情報がミステリーボニータ10月号に散らばっている

・2006年9月15日「ふしぎ道士伝 八卦の空」2巻発売
http://cte.main.jp/newsch/article.php/362

 連載の扉絵の1ページ前には単行本情報がある。よく見ると「★厚くて評判の1巻よりさらにもっと厚くなって読みごたえもたっぷり!」とあるんだけど、1巻よりさらに厚くなるんですか?!
 あとミステリーボニータ10月号の裏表紙をめくったところがカラーのコミック最新刊情報。ここに何気なく「ふしぎ道士伝 八卦の空」2巻の表紙絵が描かれてある。これって初公開?!

 で、本編。ネタバレなくご紹介。
 表紙が劉朱姫の絵が大きく出ていて「今回はあたしが主役です!!」とか書かれていたので、おぉ他のサブレギュラーキャラが掘り下げられる?!と思ったら、よく見たらその後に「……ウソ。」って書かれていた(笑)
 とはいっても、劉朱姫は冒頭と末尾で活躍して居るんでキャラに深みがでている感じ(冒頭あたりで一瞬、テレビドラマの「トリック」みたいな展開になるかと思った)。
 初登場の陸 采美、いい味だしているキャラだなぁ。影のある出自だとか。


 本筋とは関係ないけど、それにしても管ちゃんがなぜ椎の木の上のことを知っていたのか、キャラを壊してしまうようなことを想像してしまうんだけど(汗)。まぁ、占いには鋭い観察眼が必要不可欠ってことかな。


※関連リンク
・秋田書店
http://www.akitashoten.co.jp/
・青木朋先生のサイト「青木朋HP++青青」
http://aoki.moo.jp/
・青木朋さん(私設)ファンクラブ
http://bluefan.exblog.jp/
※ここに、最近、前にもまして活発な「お絵描き掲示板」に描き下ろしイラストあり。

・ミステリーボニータ10月号に「八卦の空」 神女の恋人(ブログ『青青日記』)
http://blog.aoki.moo.jp/?eid=377841


・2006年10月6日「八卦の空」(ミステリーボニータ11月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/422

三国志学会第一回大会ノート5


  • 2006年9月 3日(日) 18:19 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,539
研究 ・三国志学会第一回大会ノートお昼休みからの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402


 14時に定刻通り始まる。


○劉世徳(中国社会科学院教授)、通訳 伊藤晋太郎(慶応義塾大学講師)「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」


 今回はレジュメというより「≪三国志演義≫嘉慶七年刊本試論」という11ページの論文が配られている。それはタイトルも含め簡体字で書かれている。以降、ここで表示できる漢字に置き換える。
 劉世徳先生は中国の三国志演義学会の会長でだそうな。司会の金文京先生によると、中国の古典小説研究の権威とのこと。
 講演のスタイルは前日の劉先生の大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」と同じくまず劉先生が中国語で話し、随時、その後に通訳の伊藤先生が訳されていくというものだ。

 なぜ劉先生が三国演義の版本について研究しているかのお話。三国演義の版本については日本の方が先を行っていて、中国人の方も急いで追いつかないといけないとのこと。そういう考えの元、一人に日本人学生(博士課程)をとったとのこと。もちろんその学生は版本研究。彼の論文は優秀だと評価されたので、研究所では彼を版本研究にとどめようとしたそうな。ところが彼はその研究所から去ることになったとのこと。その理由は彼が結婚することになったんだけど、彼は家を貰えなかったからとのこと。その後、彼は商売替えし、三国演義から完全に離れてしまったとのこと。
 その後、劉先生自ら、版本の研究をすることになったとのこと。

 劉先生が今まで嘉慶七年刊本の研究をしてきた理由。その版本というのは希なものだから。イギリスの学者、アンドリュー・ウエスト(論文の除魏安?)の「三国演義版本考」という本によると、嘉慶七年刊本はアメリカのハーバード大学にしかないとのこと。その版本というのは紹介する価値がある。

 その版本の特徴は福建省の建陽というところで清の時代(嘉慶七年)に刊行されたとのこと。
 嘉慶七年刊本は二つの版本の流れが合流している性質がある。この趨勢は明代の終わりから清代の初めに始まった。福建省の建陽にあった出版社のあるものが南京の方へうつった。本来は上三分の一が絵で残り下三分の二が字だったんですが清代になりその形式を捨て去った。この時代の版本は毛宗崗本にどんどん近づいた。この版本は毛宗崗本についてた絵を移植している。また金[又/土][口又]という有名な文芸評論家の名を勝手に使っている。毛宗崗本に近づいているのに毛宗崗本とは称されていない。福建省の建陽の版本は風下におかれていて絶体絶命の状況にあった。
 嘉慶七年刊本は12幅(12枚)の絵がある(論文にその人物が書かれている。昭烈帝、張飛、諸葛亮、趙雲、姜維、曹操、張遼、許チョ、呉大帝、周瑜、魯粛、司馬懿)。その中に関羽だけ居ない。

 明代、関羽は重きを置かれていた。嘉靖本とその復刻本の区別がある。嘉靖本には関羽がどのように殺されるか詳しく書かれている。復刻本ではそういう場面がない。どう書き換えられたかというと、天から関羽を呼ぶ声(「はやくおいでよ」)がした、というふうに書き換えられている。このように明代には関羽を尊重して書き換えが行われている。同じように関羽の名前もでず「関公」と置き換えられている。それに対し、嘉慶七年刊本では関羽の絵がなくなっている。明代から清代の初めにかけて関羽を神様にする機運が高まっていたが、嘉慶年間になると関羽崇拝のブームが覚めてきた。
 嘉慶七年刊本は簡本(二十巻)であり、福建の本は簡本と繁本の二種類に分かれる。それら簡本は「志伝」と「英雄志伝」の二種類がある。嘉慶七年刊本を劉龍田刊本と黄一鶚刊本とで比較した。論文の比較は全面的ではないかもしれない。

 次に論文の構造と結論についての話。
 論文は八つの部分で構成。一は概況。二はいくつかの注意点。ここで四つの問題について述べている。一つ目は嘉慶七年刊本に書かれた作者の出身地が間違っている。二番目に関羽がいない点。三つ目は誤字が多い。四つ目はコスト削減のため臨機応変的な処置をとっている。
 三番目のテーマはこれが福建省の出版なのかどうか。三つの問題。一つは劉先生は福建省出版と認識している。その理由は書店、序文の作者や巻の構成などから。三つ目は二つの可能性がある。一つの可能性は福建の書店が出版した。二つ目の可能性は余所の書店が福建の古い版本をつかって出版した。
 四番目のテーマは三国演義第240節の題名について述べられている。三つの問題について述べている。一つ目は目次と本文の題名の不一致。二つ目は第139節、本文に関索は出てこないが、本の先頭にある目次には関索の文字が見える。三つ目は節のタイトルに誤字が見られる。→黄一鶚刊本によく似ている。
 五番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の一。235節の本文を例にとって述べている。いろんな本を比べ文字を見ると「簡本」に分類。他の簡本に比べてもかなり簡略化されている。
 六番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の二。33節と175節の末尾。33節の最後の部分には三つの違いがある。嘉慶七年刊本は明代の黄一鶚刊本の系列の簡略化された本と同じ。
 七番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の三。関索の挿話について述べている。結論。嘉慶七年刊本は基本的に黄一鶚刊本、明代の劉龍田刊本と同じ。別の系統にある周曰校刊本とは異なる。
 八番目は終わりに。すでにお話ししたのでここでは繰り返さない。


○質疑応答

 たいがあさんからの質問。三国志演義の版本について、日頃から疑問に思っていたことの質問。三国志演義の英訳(テイラー訳)について。英訳本と和訳本(小川環樹訳)とに内容が食い違う部分がある。例えば三顧の礼のシーンで諸葛亮が吟じる詩のところ。
※ここらへんは「三国志ファンのためのサポート掲示板」で出ていた話題なので以下のリンク先を参照のこと
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2023
これら二つは版本が元々違うのか?

→司会の金文京先生が(和訳の話なので)劉先生には答えることはできないとし、まず話の確認から。小川環樹訳は毛宗崗本とのこと。それから誰がおわかりになるか? と呼びかける。しばし二、三人からの中国語が会場に響き渡る。
(※中国文学のイギリス人の訳と日本人の訳について中国人と韓国人が中国語で話し合っているのを多くの日本人が静かに見守るという何とも国際色豊かなシーンだと清岡は内心思っていた)
司会の金先生は「それは面白い問題ですね」と話す。
→(劉先生の中国語の話を金先生が日本語に訳して)まとめると、結論としてはお答えできない。なぜなら劉先生自体、英訳も和訳も見ていないから。一般的な状況としてそれらは毛宗崗本に基づいて訳されている。毛宗崗本と一言にいってもそれは複雑で毛宗崗本の中でもいろんな違いがある。もしかすると英訳と和訳とでは元にした本が違うのかも。もし同じものに基づいていたら違いは起こらないだろう、と劉先生は信じているとのこと。明らかな例をあげると毛宗崗本では冒頭で詩があげられているが、本来の羅貫中のにはなかったここらへんは{前日の三国志シンポジウムの基調報告にあった話だ)
→さらにここから実際に諸葛亮の詩の違いについての確認。英訳にあたるような版本はない、とのこと。意訳ではないか? この間、やっぱり中国語が飛び交う。
(清岡がたいがあさんにきくと今、英語の文が手元にないとのこと。あとで清岡がノートPCでサポ板のツリーを見せる)

周文業先生からの質問。嘉慶七年刊本を劉先生はどこでみたのか?
→亡くなった方の蔵書の中で見た。

ハーバード大学のものと劉先生のみた本は同じものか?
→同じものであろう

12幅の絵で関羽が居ない理由は? それは単に抜けているだけでは?
→その可能性は小さいだろう。ハーバード大学の方の本でも関羽が居ないから。

周先生の理解では関羽崇拝ブームがどんどん高まっていった。劉先生との考え方以外で説明できることはないか?
→関羽崇拝は文化現象。明代の終わりから清代の初めまで関羽崇拝が高まったことは間違いない。清代中頃、関羽崇拝がさがっていったかどうかは検討の余地がある。劉先生は版本の話だけで述べた。関羽崇拝がどんどん高まっていったという根拠は?

周先生による別の考え方。関羽を崇拝するあまり怖ろしくて絵にもできなくなった(場内笑)。それは証拠があって清代に関羽のお芝居をすることが禁止された例がある。
→劉先生。関羽があるべきところにはあるはずだし、必要なければないはずだ。(何か例が出たけど清岡失念)。お芝居というのは特殊な状況で版本の問題は別。しかし、周先生の解釈も否定できない。

33節の末尾に三つの違いがあるということだけどどれが正しいか?
→字数の調整による違い。区切り方によってそれぞれのテキストに違いがでてきた。(その後、「紅楼夢」の例があげられる。) 話を通すと全部、同じだが、どこで区切るかによって違う。33節の末尾について専門に論文を書いたことがある。建陽で火事が起き出版業がだめになったことがある。数年前に建陽にいったことがあるが出版業が盛んだった時代のいかなる痕跡も残っていなかった。建陽の出版業は時代が下るごとに縮小していった。出版の中心は浙江省の杭州や南京の方へ移っていった。(以下、専門的な話が続く)

司会の金先生からのコメント。こういったテキストの研究というのは必要なものではあるが、非常に退屈なこと。劉先生の講演の冒頭で学生さんが版本の研究を離れるのも当然か、なと(場内笑)。もう一人名前の出ていたイギリスの人も今は銀行員になっていて、刊本研究をやめている。これから版本研究をやる人はご参考に、とのこと(場内笑)

○10分休憩

 ここで清岡は昨日一瞬、会った仁雛さんと会い、挨拶。
 あと清岡はさっきのたいがあさんの質問に関してたいがあさんとあれこれ話す。それからKJさんとUSHISUKEさんとでホールの入り口の外側近くで雑談。三国志シンポジウムって中国語に訳すと三国志座談会なんだ。
 そうするとホールの後ろの方でげんりゅうさんが話している人がいた。あまりにも自然な光景だったので、清岡はてっきりげんりゅうさんの出身大学関連の人(げんりゅうさんの先輩)かな、と思っていたら、渡辺精一先生だった(汗)。あまりにも唐突なことだったので、心の準備ができないまま、結局、清岡は渡辺先生にお話することができず仕舞いだった。その後、USHISUKEさんやKJさんあたりは渡辺先生とお話していたかな。ちなみにげんりゅうさんの話によると、渡辺先生もこちらのことをげんりゅうさんの出身大学関連の人だと思っていたとのこと。


・三国志学会第一回大会ノート6へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/407

2006年9月16日17日プチオフ会


ネット  今回、プチオフ会参加者が集まれば開催という曖昧なことなので、トラックバック送信もせずここに告知しておきます。
 以下、「三国志ファンのためのサポート掲示板」からの引用。
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2483

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2006年9月16日17日プチオフ会 by 清岡美津夫 -06/9/1(金) 19:10-
────────────────────────────────────
 2006年9月17日日曜日にお茶の水大学で、長沙呉簡国際シンポジウムの「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」があるとのことです。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/359

 私はこのシンポジウムに一般聴講しにいく予定です。前日、昼特急高速バスで夜ぐらいに東京入りし、翌日、夜に新幹線で帰る予定です(月曜日は祝日♪ 一応、その日は予定を開けてます)。

 それで日が差し迫っているのに何ですが、またまたプチオフ会を開けたら開こうか、と思ってます。ネットを見ても今回のシンポジウムはあまり三国志ファンの話題になってないんで、今回のプチオフ会は参加者がある程度、あつまりそうだったら、どこか適当なお店になだれ込む、ぐらいの消極的な考えです(汗)

 私は16日に昼特急高速バスで移動し、夕方ぐらいに新宿に到着します。ホテルは池袋です。なので開くとすれば19時スタートぐらいそのあたりでしょうか。17日はシンポジウムの方が17時終了なので、18時ぐらいに新宿・池袋あたりではじめる感じでしょうか。
 今回、集合場所集合時間集合目印(開催決定の場合、個別にメールでお知らせ?)以外、具体的には決めない感じなんですが、参加したいな、って方やこんな案があるぞ、って方はレス、よろしくお願いします。もちろんシンポジウムを見に行かない人やサポ板はROM専だって人も歓迎です。

 それから参加される方でもし清岡に何か三国志関連のものを持ってきて欲しいときはおっしゃってくださいね。例えば、「長江の流れは緩やかに見えて」のパンフレットとか、「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」のレジュメとか、「三国志シンポジウム」の冊子とか、「三国志学会第一回大会」のレジュメとか。
 まぁ、それらの土産話は清岡に標準装備されてますが(笑)

 もしプチオフ会を開くことができたら、2005年7月31日三国志シンポジウムあわせのプチオフ会、2005年9月3日三国志納涼オフ会in東京、2005年12月17日三国志忘年オフ会in東京(仮)、2006年2月18日・19日「長江の流れは緩やかに見えて」あわせのプチオフ会、2006年3月10日・11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」あわせのプチオフ会、2006年7月29日三国志シンポジウムあわせのプチオフ会に続く第7弾ってことになりますね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

三国志同人イベント情報サイト


  • 2006年9月 2日(土) 10:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,130
二次創作 下記のように三国志ニュースで三国志関連の同人誌展示即売会(イベント)をお伝えしてきた。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/308
http://cte.main.jp/newsch/article.php/341
http://cte.main.jp/newsch/article.php/376

それらを取り上げていると、同人イベントの情報専用のサイトってあったら便利だなぁと思っていた。
そんなおり、見かけたのが「三国志同人イベント情報サイト」。三国志関連のイベントのみならずコミケやシティなど(あえて略称を使うが)の大規模イベントの情報まで載っている。

・三国志同人イベント情報サイト
http://s594.sakura.ne.jp/event/

しかもサークル参加しようと思っている人に便利なようにそれらのサークル参加締め切り日等の情報もあげられている。
こういうサイトは長いこと続いてくれれば(そして更新はいつでも素早く)、かなり重宝されるよな。
(※あと個人的にはシンプルなバナーなんだから「3594 801 SEARCH」のように小さいバナーもあるとありがたい ※追記→というわけで小さいバナーも追加された。ありがたい♪)