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掲示板 件名 最新投稿

1548年 三国演義の葉逢春本


  • 2006年2月 7日(火) 23:44 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,281
古典文学  下記のサポ板の周瑜命日ツリーですでに書いたんだけど、こちらでも書く。
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1899

 三国演義ができたころは抄本(写本)で広まり、その中で弘治七年(1494年)のいわゆる弘治本が有名で、どうも史書によって改訂された部分があるらしい。
 初めての刊本(木版印刷)は嘉靖元年(1522年)のいわゆる嘉靖本とのこと。さらにこの後、時代変遷があるため、これらの本が中央研究院でみられるような現在に伝わる三国演義と内容が所々、ちがうところがある。

・中央研究院
http://www.sinica.edu.tw/
※たどり方 →中文→公共服務/研究資源→漢籍電子文獻→瀚典全文檢索系統 1.3 版→小説戲曲→三國演義

 その中の一つが冒頭でリンクを張った周瑜の命日だろう。

 自分で実際、目にしたいとおもって、検索していると思わぬものを見つけてしまう。それが三国演義の葉逢春本のDigital Imagesだ。下記サイトのリンク先にある。

・BabelStone
http://www.babelstone.co.uk/index.html
※ここの→「Ye Fengchun Edition」→「Table of Contents」

 ここのサイトによると、葉逢春本は1548年刊行の三国演義とのこと。
 不完全なコピーながらthe Royal Library of the Escorial Monastery outside Madrid in Spainにあったとのこと。そういや三国志シンポジウムでスペインにあったと言っていたのはこのことかな。

 で、周瑜の亡くなるところ(諸葛亮三氣周瑜)を探してたけど、亡くなるページが「NOT PHOTOGRAPHED」とでてきた(汗)
 それでも周瑜が孫権にあてた遺書に今の三国演義(中央研究院のやつ)にはない「至建安十五年冬十二月朔周瑜謹書」の文字を見つけた。

<追記>
 冒頭に示した掲示板のツリーの最後の方に書いているが、三国演義の葉逢春本が関西大学出版部から『三國志通俗演義史傳』(上下巻)というタイトルで出版されていて、それによると、

而亡壽年三十六時建安十五年冬十二月初三日也

と書かれている。



※追記 「四大奇書」の研究(2010年11月10日)

※追記 クイズマジックアカデミー賢者の扉 三国志検定(2012年4月24日-5月20日)

2006年4月中旬「八卦の空」コミックス化


マンガ  速報です。
 ミステリーボニータ2006年3月号によると、2006年4月中旬に単行本が発売されるそうです。
 今回の号の「八卦の空」の表紙に「4月中旬、ついにコミックス化決定」という文字があり、それから次号予告のページの「八卦の空」のところに「コミックス発売決定!」という文字が出ていました。
※「八卦の空」については以下の記事参照。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/263

<2月7日追記>
・秋田書店
http://www.akitashoten.co.jp/

 以下、秋田書店のサイトの新刊情報(4月14日発売のところ)から引用です。4月14日発売で「ふしぎ道士伝」なんですね。

ボニータコミックスα ふしぎ道士伝 八卦の空 第1巻 アオキトモ 540円(514円)

<追記終わり>


 あと余談ですが、読者の投稿コーナー「ミステリーボニータ ホットライン」で読者から「八卦の空」への手紙、それから「ボニータギャラリー」に「八卦の空」のイラストが載ってましたね。
 こういう感じで読者の盛り上がりがわかるって良いですねー
(先月号だったらもっと図書館の本をみたら「おおっ」って言いまくりですね・笑)

 あともう一つニュースがあります。
 「八卦の空」の作者・青木朋先生のサイトが移転・改名となりました。
 お手元にブックマークがある場合は張り替えてくださいね。

・青木朋先生のサイト「青木朋HP++青青」
http://aoki.moo.jp/

・青木朋さんホムペがお引越ししました!!
http://bluefan.exblog.jp/2626555
※ブログ「青木朋さん(私設)ファンクラブ」の記事。

 移転してから青青日記がブログ形式になったり「八卦の空」の制作メモができたりとパワーアップしているのです。
 ファンの方は要チェックですよ♪

 ちなみに三国志ニュースでは過去の記事のリンクを修正し、それそれトラックバック送信いたしました。

リュウビ二十七歳


  • 2006年2月 4日(土) 23:57 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,674
歴史  前回からの続き。

・前回「リュウビ十五歳」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/276

 劉備について前々から疑問に思っていたのは、いつ初陣かということ。これが歴史じゃなくて三国演義だと「第一回:宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」にあるようにおそらく中平元年(西暦184年)に、鄒靖に率いられ、黄巾賊の將、程遠志の軍と戦ったのが初めて、とすぐでてくるんだけど、歴史だと意外と難しい。
 まず劉備のことでスタンダードで最も重要な三国志蜀書先主伝をあたる。

<本文>
靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。

<清岡のテキトー訳>
靈帝の時代の末、黄巾が起こり、州郡おのおのは義兵をあげ、先主(劉備)はその屬従である校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討ち戦功があり、安喜尉(安喜県の尉)になった。

 黄巾の乱がおこったのは光和七年(西暦184年)であり、一年ぐらいでリーダーの張角がいる冀州の本隊は壊滅しているが、その後、乱は消滅したというより各地に分散している。そのため、黄巾討伐といっても光和七年(西暦184年)とは限らない。
参照1 http://cte.main.jp/sunshi/w/w040112.html
参照2 http://cte.main.jp/sunshi/w/w040924.html

 ここで参照になるのが裴松之の注。典略から引いている。その内容を次にあげる。

<本文>
典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。

<清岡のテキトー訳>
典略にいう。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。


 典略にある「後以軍功、為中山安喜尉。」という文をそのまま受けると、順序としては「劉備と劉子平の張純討伐」(典略)→「劉備と鄒靖の黄巾討伐」(三国志)→「劉備が黄巾討伐の戦功で安喜尉になる」(三国志)というふうになる。
 劉子平も鄒靖も他の史書では見あたらないが、張純だけは他の史書で見られ、年代もある程度、特定できる。というわけで張純の記述。ここは後漢書本紀から四カ所、抜粋する。


<本文>
(中平四年六月~九月)漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。

(中平五年)九月、南單于叛、與白波賊寇河東。遣中郎將孟益率騎都尉公孫[王賛]討漁陽賊張純等。

(中平五年十一月~十二月)公孫[王賛]與張純戰於石門、大破之。

(中平六年)三月、幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。

<清岡のテキトー訳>
(中平四年(西暦187年)六月~九月の記述)漁陽郡の張純と同郡の張舉は兵をあげ反乱し、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠たちを攻め、殺した。張舉が天子を自称し、幽州、冀州の二州に侵略した。

(中平五年(西暦188年))九月、南單于が反乱し、白波賊が河東へ侵略した。中郎将の孟益に騎都尉の公孫[王賛]を率いて、漁陽賊張純たちを討伐させた。

(中平五年十一月or十二月)公孫[王賛]と張純が石門で戦い、(公孫[王賛]が張純を)大破した。

(中平六年(西暦189年))三月、幽州牧の劉虞が漁陽賊の張純を購斬した(賞金をかけて斬った)。


 こういう感じで、張純の乱は西暦187年の半ばから始まって、西暦189年の3月に彼が斬られるまでの期間に起こっている。さらに後漢書公孫[王賛]伝をみると、

<本文>
會烏桓反畔、與賊張純等攻撃薊中、[王賛]率所領追討純等有功、遷騎都尉。張純復與畔胡丘力居等寇漁陽・河間・勃海、入平原、多所殺略。[王賛]追撃戰於屬國石門、虜遂大敗。

<清岡のテキトー訳>
たまたま烏桓と賊の張純たちが反乱し、(幽州広陽郡)薊県の中へ攻撃し、公孫[王賛]は受け持ちのところで張純たちを追討し戦功があり、騎都尉になった。張純はふたたび背き、胡(えびす)の丘力居(烏桓族の大人)たちが漁陽・河間・勃海に侵略し、平原に入り、多く殺人・略奪した。公孫[王賛]は追撃し属国(遼東属国?)の石門で戦い、敵はついに大敗した。


と、なっておりさらに後漢書劉虞伝だと


<本文>
(中平)四年、純等遂與烏桓大人共連盟、攻薊下、燔燒城郭、虜略百姓、殺護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終等、衆至十餘萬、屯肥如。舉稱「天子」、純稱「彌天將軍安定王」、移書州郡、云舉當代漢、告天子避位、敕公卿奉迎。純又使烏桓峭王等歩騎五萬、入青冀二州、攻破清河・平原、殺害吏民。朝廷以虞威信素著、恩積北方、明年、復拜幽州牧。

<清岡のテキトー訳>
(中平)四年(西暦187年)、ついに張純たちと烏桓大人は連盟し、薊県のもとを攻め、城郭を焼き、百姓から略奪し、護烏桓校尉の箕稠(後漢書本紀の公[其/糸]稠と同一人物?)、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終(後漢書本紀の楊終と同一人物?)たちを殺し、その衆は十万あまりにもなり、肥如に駐屯した。張舉は「天子」を自称し、張純は「弥天将軍安定王」を自称し、州や郡に張舉が漢の代わりに当たると述べる文書を移送し、天子に位を退くことを告げ、公卿に迎えるように勅命を下した。張純はまた、烏桓の峭王たちを歩兵騎兵五万を青州・冀州の二州に行かせ、清河や平原を攻め破り、官吏や民を殺害した。朝廷は劉虞に威信を示させ、北方に恩恵をつらねさせるため、明年、劉虞を幽州牧に復職させた(劉虞はそれ以前に幽州刺史だったことがある)。


となっている(あと三国志公孫[王賛]伝、後漢紀、後漢書南匈奴列伝、後漢書烏桓鮮卑列伝、三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝に張純の乱がでるがここでは略)。
 後漢書本紀とあわせると、張純との戦いは大きく三つに分けてまとめてみる。
 まず一つ目、中平四年六月~九月の張純による薊県(幽州広陽郡)攻め。このとき護烏桓校尉、右北平太守、遼東太守が殺される。肥如(幽州遼西郡)に駐屯。また戦功により公孫[王賛]は騎都尉になる。
 それから一つ目と二つ目の間、張舉が天子を自称した。
 二つ目は漁陽(幽州)、河間(冀州)、勃海(冀州)、清河(冀州)、平原(青州)、清河(冀州)に侵攻。
 三つ目は中平五年九月から現れる官軍の反撃戦。劉虞が幽州牧になったり、公孫[王賛]による石門での大破もここ。

 どの期間あたりに劉備が参戦しているかを考えてみる。少し張純のことから離れ、三国志蜀書先主伝やその注に立ち戻ってみる。「劉備と劉子平の張純討伐」の後の「劉備と鄒靖の黄巾討伐」は果たしてどの黄巾の乱にあたるんだろう?と思って、後漢書本紀から張純討伐の後の黄巾関連を五つほどピックアップしてみる。


<本文>
(中平五年三月)黄巾餘賊郭太等起於西河白波谷、寇太原・河東

(中平五年)夏四月、汝南葛陂黄巾攻沒郡縣。

(中平五年六月)益州黄巾馬相攻殺刺史[希β]儉、自稱天子、又寇巴郡、殺郡守趙部、益州從事賈龍撃相、斬之。

(中平五年)冬十月、青・徐黄巾復起、寇郡縣。

(中平五年十一月or十二月)遣下軍校尉鮑鴻討葛陂黄巾。

<清岡のテキトー訳>
(中平五年(西暦188年)三月の記述)黄巾賊の残党、郭太たちが西河白波谷で蜂起し、太原・河東へ侵略した。

(中平五年)夏四月、汝南葛陂の黄巾が郡や県を陥落させた。

(中平五年六月の記述)益州黄巾の馬相が刺史の[希β]儉を攻め殺し、天子を自称し、さらに巴郡へ侵略し、太守の趙部を殺した。益州從事の賈龍は馬相を撃ち、これを斬った。

(中平五年)冬十月、青州と徐州の黄巾がふたたび蜂起し、郡や県を攻めた。

(中平五年十一月もしくは十二月の記述)下軍校尉の鮑鴻をやって葛陂黄巾を討伐させた。


 中平五年の三月から六月の黄巾関連が対張純戦の一つ目の後あることは確実で、二つ目の後かは不確定。十月からの黄巾関連が対張純戦二つ目の後で三つ目の途中といったところだろう。
 なので、対張純戦一つ目二つ目ともに劉備の参戦の時期の条件としては当てはまる。ただ、地理的条件だと、あれこれ考える余地はありそう。例えば、典略での対張純戦では平原を通過しているけど、後漢書公孫[王賛]伝での対張純戦二つ目では張純側の丘力居軍が平原入りしている。
 もしかして張舉が天子を自称したことで朝廷が青州に命令し、幽州へ向かう青州軍と青州の平原へ向かう丘力居軍が道中で鉢合わせしたとか、あれこれ想像できる。

 しかし、劉備の兄弟子が対張純戦の中心人物の一人、公孫[王賛]っていうところとか、なんで劉子平は劉備に武勇があると思ったのか、とか小説など創作の材料としておいしいのが結構あるなぁ。創作で変に黄巾の乱一年目に出さなくても良いんじゃないか、って思うぐらいで。

2006年2月「三国志-正史と小説の狭間」


  • 2006年2月 3日(金) 21:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,510
書籍  まだ手にとって読んでないけど、ネットで見かけたので書籍をご紹介。

タイトル 三国志-正史と小説の狭間
著者 満田剛
ISBN 4-89174-786-2
価格 1800円
発売 2006年2月
出版 白帝社

・白帝社のサイト
http://www.hakuteisha.co.jp/
・三国志-正史と小説の狭間
http://www.hakuteisha.co.jp/new_pages/books/786-2.html
※このページから注文できる。

 「三国志」、「正史」とタイトルにつけられると、経験上、すごく胡散臭いものを想像してしまうが、失礼な書きようだけど著者は研究者の方なのでそういうことはなさそうだ。
 「長沙呉簡研究報告」第1集で「長沙走馬楼吏民田家[くさかんむりに別]に見える姓について」という報告を書かれている人だ(いや、たまたまその冊子が今、手元にあったもので)。
 上記リンク先の紹介文によると、内容は三国志、裴松之の注、三国演義、三国演義の日本での受容などが書かれているらしい。三国志の中身じゃなくて、三国志の成立とその後の影響について知るには良い本かもしれない。

<2月13日追記>
 ちょっと誤解していたんだけど、第1章が三国志、裴松之の注、三国演義、三国演義の日本での受容などが書かれていて、第2章から第7章までが三国志に載っていること(つまり三国志の中身)を時代順に説明しているとのこと。

※追記 図解 三国志 群雄勢力マップ(2009年6月16日)

※追記 【三国志街道】孔明の夢~街亭・五丈原~(2009年8月18日-24日)

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

リュウビ十五歳


  • 2006年2月 1日(水) 22:55 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,651
歴史  自サイトで小説を書くためのメモ書きみたいな「孫氏からみた三国志」というコンテンツをつくっていて、そこに劉備(字、玄徳)のことを書くことになった。そのコンテンツで書く書かないは別として、劉備についてあれこれ調べていた。
 そこで気になったのが三国志蜀書先主伝の記述。

年十五、母使行學、與同宗劉徳然・遼西公孫[王賛]倶事故九江太守同郡盧植。徳然父元起常資給先主、與徳然等。

というところの、(劉備が)15歳のとき、劉備の母は(劉備を)同じ一族の劉徳然と遼西出身の公孫[王賛]とともに遊学させ、元、九江太守の同郡([シ豕]郡)出身の盧植につかえさせた。徳然の父、元起はいつも先主(劉備)と徳然たちへ資金援助していた。というところが気になった。

 そういえばこのとき盧植(字、子幹)は何をしていたんだっけ? 黄巾の乱で中郎将になるのは後年のことだし。

 まず年代だけど、幸運なことに劉備の没年と亡くなった歳がわかるので、そこから劉備が15歳のとき、何年だったがわかる。同じく三国志蜀書先主伝によると、

(章武三年)夏四月癸巳、先主[歹且]于永安宮、時年六十三。

というふうに章武三年(西暦223年)の夏四月癸巳(四月に癸巳の日はないので命日は3月5日?、これに続く文の諸葛亮の上言によると命日は4月24日)に先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった、とあるので、そこから逆算し、当時は数え年なので、劉備は西暦161年生まれということになる。
 それで劉備が15歳のときは熹平四年(西暦175年)だ。

 一方、盧植はというと、後漢書盧植伝によると、

建寧中、徴為博士、乃始起焉。熹平四年、九江蠻反、四府選植才兼文武、拜九江太守、蠻寇賓服。以疾去官。作尚書章句・三禮解詁。時始立太學石經、以正五經文字

というふうに、建寧年間(西暦168年-172年)、(盧植は)博士になり、そこから起き始めた(それまで無官)。熹平四年(西暦175年)に九江郡の蠻(蛮)が反乱し、四府は文武を兼ねた才能のある盧植を選び、九江太守にし、蠻は屈服した。病気のため官を去った。尚書章句と三禮解詁(三禮は儀礼、周礼、礼記のこと)を作った。当時、初めて太學石經が立ち、それにより五經(易・書・詩・礼・春秋)の文字を正した、となっている。

 先の三国志蜀書先主伝をみると、「故九江太守同郡盧植」(元、九江太守の同郡出身の盧植)となっているので、九江太守をやめた後、盧植の元へいったと単純に思っても良いけど、経験上、官職の記述はあまりあてにならないと思うので、もうちょっと調べる。

 後漢紀によると

熹平四年 春三月、五經文字刻石立于太學之前。

 後漢書本紀によると

(熹平)四年春三月、詔諸儒正五經文字、刻石立于太學門外。

というふうに共に熹平四年春三月に後漢書盧植伝に記載のある太學石經が立ったことになっており、史書の記述を見比べてみると、九江郡の蠻の乱は熹平四年の上四半期のうちにおさまったんだろう(残念ながら他のところから乱に関する記述を見つけだせなかった)。
 ということは劉備たちは官職についていないときの盧植の元へ行っていたのかな(病をわずらっていないときと思うが・汗)。劉備たちが習ったことは当時、盧植が執筆した尚書章句と三禮解詁の内容を色濃く影響をうけたものだったんだろうか、とあれこれ想像してしまう。

・「リュウビ二十七歳」に続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/278