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メモ:三国志ジャンルにおけるデータベース消費


  • 2008年5月31日(土) 10:38 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,275
研究 <2012年1月28日追記>
アクセスログを見ると、ネットで「データベース消費」と検索するだけでリンクを辿ろうとしない、あるいは検索語句を調整しない、ネットリテラシーの低い人が多いので、お節介にも出典とそこからの引用を以下に追記しておく。

東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より
--引用開始---------------------------------------------------------
「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。
--引用終了---------------------------------------------------------

※追記。アクセスログを見ると、2012年07/27 (金) 00:57:14から不特定多数のIPアドレスから「データベース消費 三国志」とか「データベース消費 漫画」とか検索語句があるが、早稲田あたりでレポートでもでているんだろうか。07/30 (月) 16:50:35に「データベース消費と物語消費 についてのレポート」というそのものズバリの短絡的な、知性のかけらもかんじられない検索語句があったし。そんなリテラシーの低さだと、その結果はきっと評価点も低いことだろう。
<追記終了>

 以前、メモ的な記事を書いたとき、冒頭で、とあるブログの影響を受けたと書いたけど、そのブログでよく引用されていたのが東浩紀さんの著作。そこで同著の『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生 : 動物化するポストモダン2』『網状言論F改』『波状言論S改』を続けざまに読んでいる(※そういや関係ないけど、第7回三顧会で玄鳳さんが持っていた書籍は『三国志』の訳本以外だと東浩紀さんの著作だったね、確か)。
 というわけで以下、その影響を受けつつ三国志ニュースの「公式サイト」の記事を参考にしたメモ。


 よく耳にする言い回しとして「三国志という物語」とか「三国志 あらすじ」とか「三国志、その後」とか「三国志の結末」などがあり、『三国志』が一つの「大きな物語」であると誤認されている証左なのだろう。しかし、そもそも今の三国志ジャンルの大元である史書の陳寿撰『三国志』(成立:紀元280年以降)自体、一つの「大きな物語」なのではなく、王や皇帝など君主ごとに記述された本紀と、臣下ごと(一部、民族ごと)に記述された列伝の集合体であり、いってみればデータベース的側面を持っている。また『三国志』は『三国志』魏書袁紹伝に「語在武紀」(語は武帝紀に在る)、または『三国志』魏書呂布伝に「語在卓傳」(語は董卓伝に在る)とあるように他の列伝の箇所に触れることもあって、あたかもあるデータが別のデータへリンクしている箇所があり、その側面を浮き彫りにしている。
 『三国志』には本紀と列伝のみだが、他の史書、例えば『史記』には、さらに諸侯ごとに記述された成家、制度ごとに記述された書(他の史書、例えば『後漢書』や『晋書』では志)、年ごとに記述された表があり、データベース的側面が強くなっている。
 さらに『三国志』の裴松之の注は言ってみれば関連情報・詳細情報へのリンクなんだろう。また『三国志』と記述されている人物が多く共通する『世説新語』や『捜神記』などの文献はエピソードごとに収録されたデータベースとも言える。

 時代が下るとこういった簡牘や紙をメディアにしたもの以外にも、三国志関連の講談や雑劇など、生身の声や動作(楽器演奏も)をメディアとしたものが出てくる。これらはどちらかというとエピソードごとにまとめられている(※講談に関してはほとんど知らないので、こう言い切れる自信はないが)。

 さらに時代が下ると紙のメディアの『新刊全相平話三国志』(成立:紀元1321-1323年)や羅貫中/作『三国演義』(成立:14世紀)など、三国志関連を一つの「大きな物語」にまとめる動きが出てくる。
 それらの中で『三国演義』は淘汰されず、多くの人によりバージョンが変えられつつ(挿絵も入るようになり)写本あるいは出版し続けられた。

 この「大きな物語」の『三国演義』は日本にも輸入され、『三国演義』を日本語に翻訳(?)した湖南文山の『通俗三国志』(成立:紀元1689-1692年)が刊行された。
 そのため、江戸時代中期の日本では、輸入された『三国演義』を読む層、『通俗三国志』や『三国演義』のダイジェスト本を読む層、三国演義関連の歌舞伎や浄瑠璃や講談などで物語を楽しむ層の三つの消費形態出てくる。三番目の層の物語を楽しむ層は言ってみれば「大きな物語」からエピソードを切り出す消費形態の走りだといえる。

※参考記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2

 三番目の層の補足として、下記、参考記事によると詩文、川柳、掛け軸などがあったとのこと。エピソード以外にも「大きな物語」からさらに多角的に細分化して切り出し創作を加え消費されている。

※参考記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1

 日本では『通俗三国志』が出版され消費され続け(時には挿絵も入るようになる)、それとは別に明治時代に入ると『三国演義』も出版されるようになる(これも上記参考記事の受け売り)。

 1939年8月から1943年まで『中外商業新報』(新聞)において、『三国演義』を元にした吉川英治/著『三国志』(小説、以下、吉川『三国志』と表記)が連載され、後に書籍にまとめられ、それが現在に至っても消費されている。
 日本人の手で、『三国志』を大元として『三国演義』を日本語でリライトした三国志関連の「大きな物語」としては20世紀の日本において代表的な作品となっている。
 これに、三国志関連の小説として1966年から1968年まで『週刊現代』で連載された柴田錬三郎/著『柴錬三国志 英雄ここにあり』(小説)、1974年の陳舜臣/著『秘本三国志』(小説)が続く。
 後者の『秘本三国志』は『三国演義』や『三国志』以外にも『後漢書』を参考にしており、『三国演義』の「大きな物語」とは異なる部分が多い。

 こういった小説としての「大きな物語」の消費形態から新たに漫画としての消費形態が提示された。それが1972年1月から1987年3月まで連載された横山光輝/著『三国志』(漫画)である。これは吉川『三国志』とストーリーが似ている。
 さらには1982年10月2日から1984年3月24日までNHK制作の『人形劇三国志』がTV番組として放送され(人形を使った劇の放送、『三国演義』が原作となる)、三国志関連の消費形態が小説に留まらないことが示された。
 横山光輝/著『三国志』および『人形劇三国志』はこの頃の日本(1980年代?)の三国志ブームを支えていた。

 このブームの中、それ自体が「大きな物語」という枠組みに収まらない消費形態が出てくる。それは1985年12月に発売された光栄(現コーエー)/制作『三國志』(PC88用シミュレーションゲーム)である。
 これはシリーズ化され現在、11作目まで発売されており、そのどれもイベントと呼ばれる断片的なストーリーはあるものの、基本的に幹となるストーリー、つまり「大きな物語」はない。またゲームであるため、登場する人物の特性はパラメータ化されており、その多くは消費者(プレイヤー)に明示されている。その消費形態故に三国志関連の様々な事象をデータベース的に解体する必要があったと言える。
 ここに日本の三国志関連において「大きな物語」に頼らなくとも消費できるという構造の始まりを見て取れる。

 とは言っても、三国志ブームの盛衰に影響を受けるものの、「大きな物語」の枠組みに収め消費する構造は三国志ジャンルにおいて依然、健在であり、1990年代に入ってもなお、様々なメディアでその多くが『三国演義』を基板とした作品が生産され消費された。
 1991年から1992年まで横山光輝/原作『横山光輝三国志』(アニメ)が放送された。
 1994年、中国中央電視台/制作『三国演義』(TVドラマ)が制作された。
 1994年10月から2005年11月10日まで王欣太/著『蒼天航路』(漫画)が『週刊モーニング』(講談社)で連載された。これは『三国演義』以外にも『三国志』等の史書も参考にされている。
 1996年11月から北方謙三/著『三国志』(小説)が発表された。
 1998年7月25日から2007年5月28日まで諏訪緑/著『諸葛孔明 時の地平線』(漫画)が『隔月刊プチフラワー』に続き『月刊flowers』(共に小学館)で連載された。
 これらは何らかの形で1990年代の三国志ブームを支えたと言える。

※参考記事 第8回三顧会午前1 ※リンク先のページの終盤にある


 これとは違う流れとして別ジャンルの要素を三国志ジャンルに合わせる消費形態がある。例えば、1985年7月25日発売の雑誌『小説June』に掲載された『わが天空の龍は淵にひそみて(前編)』、後の江森備/著『私説三国志 天の華・地の風』(小説)はJune系の要素を三国志ジャンルに導入し(もしくはJune系のジャンルに三国志ジャンルの要素を導入し)、結果的にそれまでの三国志ジャンルの外にあった消費層の需要を開拓した。
 もう一例としてスーパー歌舞伎の要素と三国志ジャンルの要素を合わせた作品に1999年4月に初演された松竹/制作『スーパー歌舞伎 新・三国志』を挙げておく。

 さらには1990年代に流行した対戦格闘ゲームの要素を三国志ジャンルに導入した作品が1997年2月28日に発売されたコーエーのオメガフォース/制作『三國無双』(プレイステーション用ゲーム)であり、対戦格闘ゲーム由来と思われるキャラクターを特徴付ける要素が大きく導入されている。さらに言えば、ゲーム上のキャラクター(もちろん歴史上の人物と同名)に『三国志』や『三国演義』等の伝統的な由来の要素(武器に諸葛亮が羽扇や関羽が青竜偃月刀を持つ等)以外にもオリジナルの要素もしくは他のジャンルから影響を受けた要素(降ろした長髪の周瑜や各人の服装等)を組み入れており、あたかもキャラクターごとのデータベースを構築しそれを消費させるという形態をとっている。

※参考記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて1

 この『三國無双』は1対1の対戦格闘ゲームの枠内から多人数対多人数のタクティカルアクションゲームに進化し、戦場(ステージ)の概念を取り入れ2000年8月3日に発売されたコーエーのオメガフォース/制作『真・三國無双』(プレイステーション2用ゲーム)になる。これはステージごとのデータベース的側面を有していると言え、やはりゲームの特性上、伝統的な由来の要素以外にもオリジナルな要素が加わっている。これが流行し2000年代前半の三国志ブームの支えとなった。

 かといってデータベース消費がメジャーになったというわけではなく、「大きな物語」という形でも作られており、例えば、従来のように『三国演義』を基板にしたものではなく『後漢書』や『三国志』などの史書を基板とした作品として、2001年4月10日から『文藝春秋』で連載が始まった宮城谷昌光/著『三国志』(小説)が挙げられる。この小説は地の文で(著者視点で)たびたび『後漢書』や『三国志』を引用するといった、まるでデータベースにアクセスしリンクするというような手法がとられている。尤も『三国志』と銘打たれた作品内で、同名の『三国志』から引用することは不可解な現象には違いないが。

 1990年代から流行している分冊百科に三国志ジャンルの要素(主に『三国演義』)を導入したのが、2004年3月25日から2005年3月17日まで週刊で発売された分冊百科『週刊ビジュアル三国志』(全50巻)(世界文化社)である。実質はともかく(雑誌と区別がつきにくい)、分冊百科と銘打っているため、分冊に百科(各コーナー)を入れていくという手法はまさにデータベース消費的な枠組みに入っているだろう。

 漫画においても「大きな物語」という形で作られており、2004年9月10日から『ビッグコミックスペリオール』(小学館)で連載が始まった武論尊/原作・池上遼一/作画『覇-LORD-』(漫画)が挙げられる。これは『三国演義』を基本の流れとし各所で奇抜な設定(例えば、主人公の倭人が劉備に成りすますことや、呂布と趙雲(作中では女性)との子が関平とか出てくる。)を導入している。

※参考記事 第3回三国志シンポジウム 雑感11


 また2005年1月28日から2007年5月28日まで三国志漫画専門誌の隔月刊『コミック三国志マガジン』(全15冊)(メディアファクトリー)が発売される。掲載作品がすべて三国志関連であるため、必然的な結果として各作品は互いに差別化を図り特色を出すため、他のジャンル(対象は主に漫画内ジャンル)から様々な要素を取り入れるようになっていた。時事ギャグ漫画、スタイリッシュなギャグ漫画、学習漫画、劇画、水墨画調漫画、ファンタジー漫画等。「大きな物語」の形を為そうとした漫画は少ないため、全体として様々な他ジャンルから輸入したデータベース消費的側面が強い。

 2005年3月15日からセガ/制作『三国志大戦』(アーケードゲーム、リアルタイムカードアクション)の稼働が始まる。三国志の人物(キャラクター)一人一人がそれぞれカードになっており、筐体上で手持ちのカードを実際に動かし、画面上(ゲーム上、ソフト上)の対応した人物に指示を与える仕組みになっており、ネットワークを通じ全国の誰かと対戦できるようになっている。『三国志大戦』に先んじて同社よりサッカーのトレーディングカード『ワールドクラブ チャンピオンフットボール ヨーロピアンクラブス 2005-2006』が出ているため、三国志ジャンルにこのサッカーゲームのシステム(要素)を導入したともいえる。
 『三国志大戦』において、人物のカードに『三国志』や『三国演義』に由来する人物紹介文以外にゲーム特有のパラメータの他、様々なイラストレータによる人物の肖像画(というよりイラスト)が載せられている。複数のイラストレータの手によるため全体として統一感はないものの、、様々な他のジャンルの要素を各々取り込まれカード一枚一枚(キャラクター一人一人)が特徴付けされているため、もはや『三国志』や『三国演義』由来の特徴(要素)が希薄になっているキャラクターも多い。さらには各キャラクター固有の音質でゲーム上(ソフト上)の動作に応じ内容の異なるセリフが再生され、そのキャラクターのイメージが補足され拡張されている。
 ここで特筆することとして、『三国志大戦』がキャラクターごとでデータベース消費されていること以外にも、従来の三国志関連ゲームではあくまでもソフト上のことだったデータベース的側面が、カードという形でキャラクターごとに顕在化(物質化)したことが挙げられる。これによりソフト(ゲーム。ここでは筐体)を介さない消費が可能となり(例えばカードのトレード)また消費意欲を刺激し、総じて従来のゲームよりデータベース消費を促進させている。
 さらに『三国志大戦』の続編の『三国志大戦2』から既存の三国志関連作品からのキャラクターを導入し、まさに既存作品をデータベースに取り込み、該当する作品の消費層の需要を開拓している。
 こういった商業的成功(大量に消費された)により『三国志大戦』は2000年代後半の三国志ブームを支えていると言える。
 もっとも『三国志大戦』に先んじ、コンピュータを介さないものであれば、やのまんの『三國志 赤壁大戦』『マジック・ザ・ギャザリング』の「ポータル三国志 日本語版」などトレーディングカードゲームは存在していたものの、商業的成功という点では『三国志大戦』ほど有意とは言えない。

 こういった三国志ジャンルにおけるデータベース消費の例として、他には2007年6月15日からキャラクターごとに製品として発売されている『BB戦士 三国伝』(玩具、プラモデル)が挙げられる(キャラクターを複数同包させたセット販売もある)。これはBB戦士(あるいはSDガンダム)という「大きな物語」からデータベース的に取り出した様々な要素と、三国志ジャンルという「大きな物語」からデータベース的に取り出した様々な要素とを各々、合わせ形成されている。具体的にはBB戦士(あるいはSDガンダム)のキャラクターをあたかも役者として扱い、それぞれ三国志ジャンルのキャラクターを役として演じさせる構造となっている。例えば、ZZガンダムが関羽を演じ、サザビーが司馬懿を演じている。『BB戦士 三国伝』の製品としてのキャラクターは、さらに武器、鎧、さらには手足を分離させることができ、さらには他のキャラクターと融合させ新たなキャラクターを自由に創造することもできる。それはあたかもデータベース(データ群)からデータを取り出し新たなデータベース(データ群)を作り出す過程に似ており、それがソフト上のことではなく顕在化(物質化)したものであるため、さらなる消費意欲を刺激するものであろう(※メーカーの狙いはともかく、私は対象となる消費者に聞いたわけではないため実際は不明)。
 またこれらの消費形態のイメージを補佐し拡張する販売戦略としてメディアミックスの手法が用いられている。具体的には雑誌でマンガを連載させたり、インターネットの公式サイトや各種ホビー雑誌で様々な情報を載せたり、店頭で主題歌付きのアニメーションを流したりすることが挙げられる。

※関連記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)


※2008年5月31日10時39分、モス大塚駅北口店にて。イベントに一般参加する前なのでお粗末ながら慌てて一通り書き終える。後で書き直しや書き足しをする予定(少なくともリンクは足す)。


※追記 メモ:三国志ジャンルと消費2

佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)


  • 2008年5月 6日(火) 17:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,426
研究 ・漢ネット・ヤマダ ~モノから見る三国志(?)~
http://www.techno3594.join-us.jp/

 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古書院 汲古叢書31 2002年)のことを上記サイトで知って、最寄りの図書館の書庫にあるようなので行って借りてみた。
 一通り読んでから記事にすれば良いんだろうけど、それだと膨大な長さの記事になりそうなので、まずは少ししか読んでいない段階で、良書に出会えた喜びのまま記事にしてみる。

 この書籍の目次はこの記事の末に掲げている(ここでは部と章のみ)。
 図書館で借りた書籍なので、てっとり早くそれを借り続けるべきか否かを判断するため、前から順に読むのではなく、序論を読み、次に目次を見て自分の興味のある部分を読むことにした。序論の次に「第二部 都市の財政と官僚機構」の「第二章 漢代郡県の財政機構」、「第三章 漢代の官衙と属吏」を読んでいった。
 内容は章によって違うんだろうけど、文献資料と出土資料(墓室壁画、簡牘等)の照合が適度に行われており、個人的には心地よい。というわけで継続して借りることに。むしろ買いたいぐらいだけど、書籍の価格が税込みで13650円ということなので、しばらくは図書館通いが続きそうだ。
 以下、これまで読んだところで気になった箇所を少しだけ端的に箇条書き。

・和林格爾漢墓壁画についての説明文で「頭を剃り上げて弁髪を結った烏桓族が」(P203)とあったので、この時代に漢人以外の具体的な髪型が描かれているのか、と思って挿図を見ると不鮮明な絵(スケッチ?)で、よく判らなかった。引用元の書籍ではどうなんだろう?
(※『魏晋南北朝壁画墓の世界』には羌族とされている人の髪型が載っていたが)

・同じ壁画についてP205の本文と注に壁画に見られる服の色について書かれている。本文「灰衣の官吏が上級職員、褐衣が中級、黒衣が下級の職員であることを示すと考えられる」(P205)。その注ではその他の出土資料に見られる服の色が書かれてあった。「宴飲図」 主人と賓客が青袍 侍者が黒褐色の袍 「車騎図」従騎等は赤色の短衣(※注にある官吏と将士の色の違いは以前、書いた記事の再確認ができた。しかし被りものはともかく衣まで適応できるか個人的にまだ疑問の残るところだけど)

・この墓室壁画に関して、下の人物が小さく、上の人物が大きいのは、(別に遠近法の逆をいっているわけでなく・笑)、墓主にとってのヒエラルキーを絵の大小で表している。建物のデフォルメの意味まで記述しているあたり面白かった。

・一般的に官府の長官は具体的にどこで政務を執るか前々から疑問を抱いていたけど、あっさりこの疑問が解ける。例えば、丞相だと丞相府の堂とのこと。

・「後漢代の司徒府の堂は「百官朝会の殿」と言われ、天子の臨席のもとに…」(P.217) 朝会がどこで行われていたことも前々からの疑問だったけど、この記述であっさり解決。というかこの論拠となる注釈をみると、『周礼』地官[高/木]人鄭注から記述をひっぱってきており、そこらへんの手法にも素人目ながら感動した。
(※というと、もしかすると司徒府の延で傅南容は「斬司徒、天下乃安。」と言ったのかな)
※20090724追記。どうもこの時期の清岡は「朝議」と「朝会」を混同している模様。

・「門」と「閤」について。「閤」については認識外だったのでとても勉強になった。これから史書を読むときの楽しみになりそうだ。また宮では「正門」と「掖門」に対応するとのこと。

・「閤」の内と外で「門下」の意味合いが変わってくる。

・○曹って現代的に言えば○○部(あるいは○○課)といったところだったんだね。

・長官の私的空間である、官衙内の正堂の奥にある、後堂を中心とした「便坐」(※現代人から見たら便所の座に見えるが違うぞ・笑)
 →この私的空間に長官の妻子が住むらしく、逆に妻子を入れない羊続は廉潔な行いの代表となる。


※関連記事
 三国創作のための拝メモ
 三国創作のための『儀礼』メモ
 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
 メモ:武冠のあみあみ

※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)

※追記 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日)

※追記 メモ:「前漢後期における中朝と尚書」

※追記 リンク:「漢代の扁書・壁書」

※追記 メモ:「魏晋南北朝時代における地方長官の発令「教」について」


目次

序論

第一部 城郭都市の形態
 第一章 春秋戦国時代の城郭について
 第二章 漢長安城の成立
 第三章 都城としての漢長安城
 付論 漢長安城未央宮三号建築遺址について

第二部 都市の財政と官僚機構
 第一章 戦国時代の府・庫
 第二章 漢代郡県の財政機構
 第三章 漢代の官衙と属吏

第三部 市場と商工業
 第一章 漢代の市
 第二章 秦漢陶文考
 第三章 漢代鉄専売制の再検討
 付論1 漢代の製鉄技術について
 付論2 南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討

第四部 貨幣経済
 第一章 居延漢簡月俸考
 第二章 漢代貨幣史再考
 第三章 漢代の貨幣経済と社会

結論

メモ:三国志と株と商標と


  • 2008年2月14日(木) 18:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    20,038
研究

 今日がバレンタインデーであり、業者の思惑が目に付きやすい日だからというわけではないけど、没ネタ救済にお一つ記事を。

 『真・三國無双5』と廉価版「プレイステーション3(PS3)」の同梱商品を11月11日に発売すると、2007年10月10日に発表されて、直後、コーエーネット 2697.Q の株価が急激に上がった。
 それを見て思い付いたのが、株を買ってその譲渡益で『真・三國無双5』&廉価版「プレイステーション3(PS3)」を買うという、素人目に見てまるでヘビに自らのしっぽを食べさせるようなことをするというアホなネタを思い付いた。だけど、その後、目立ってコーエーあるいはコーエーネットの株価が上がるようなことはなかったので、そのネタは企画倒れということでそのままお蔵入り(結局、ゲームの方はシェアして買ったんだけどね・笑)

 それで三国志関連の商品を扱っている企業で上場しているところは何もコーエーだけというわけではないので、これを機に思い付く限りピックアップしてみる。ここでは銘柄の前には「●」をつけておく。
 また何が三国志と関係するか判りやすいように株の銘柄以外にも商標の権利者と商標を下記、特許電子図書館で調べ、その情報を添える。ここでは権利者の前には「◆」を入れ、その後に商標や商願を並べる。

・特許電子図書館
http://www.ipdl.inpit.go.jp/

 ただし登録商標も商標出願も特に区別していないのでご注意を。また、「商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務」を以下に明記しないので、一見、同じ登録商標が複数の権利者に跨っているように見える。
 さらに関連性が判りやすいようにコメントを入れ、適時、三国志ニュースでの参考記事もあげておく。


●コーエー 9654.T
●コーエーネット 2697.Q

◆株式会社光栄
 三国志
 三國志
 三國無双
 真・三國無双
 無双OROCHI
 三國志英傑伝
※ご存知、シミュレーションゲームの『三國志』を初めとして三国志や三国演義を題材としたゲームを多数作っている企業。コーエーネットはコーエーの卸子会社。
※関連記事
 ソースネクスト、WIN「三國志VIII」と「信長の野望 蒼天録」新要素を追加するパワーアップキットを発売
 『真・三國無双5』(PS3/Xbox360版)11月11日発売決定
 『無双OROCHI 魔王再臨』(PS2版)4月3日発売
 三國志英傑伝(携帯ゲーム)

※追加関連記事 株式会社コーエーネットの完全子会社化

※追加 テクモとコーエーが経営統合に向けて協議開始

※追記 『真・三國無双』シリーズに登場してほしい武将を募集(2011年3月24日-4月7日)

※追記 三国志魂(スピリッツ) 上(2012年3月28日)

※追記 火間虫入道のエイプリルフール・ネタ2012

※追記 三国志(Mobage2012年4月30日)


●セガサミーホールディングス 6460.T

◆株式会社セガ
 三国志大戦
 三国志\大戰\3594T.net\NET
※関連記事
 『三国志大戦3』稼働開始(2007年12月13日)


●バンダイナムコホールディングス 7832.T

◆株式会社バンダイ
 三国志
 ビービー せん し\BB戦士\さん ごく でん\三国伝\風雲豪傑編\ふううんごうけつへん
 三国伝

◆株式会社バンダイナムコゲームス
 中原の覇者\CHUGEN NO HASHA
 三国誌略
※「中原の覇者」はファミリーコンピューターのゲーム『三国志 中原の覇者』関連だろう。
※関連記事
 三国伝キャラクター人気投票2008(2008年1月25日-3月25日)
 iモード用戦略ゲーム「三国誌略」


●エイベックス・グループ・ホールディングス 7860.T

◆エイベックス・エンタテインメント株式会社
 REDCLIFF\レッドクリフ
※エイベックス・エンタテインメントはエイベックス・グループ・ホールディングスの子会社。
※関連記事
 呉宇森(ジョン・ウー)監督『レッドクリフ(RED CLIFF)』報道まとめ


●カプコン 9697.T

◆株式会社カプコン
 三国志
 天地を喰らう
◆株式会社サード・ライン
 天地を喰らう
※関連記事
 2007年2月1日「天地を喰らうRPG II 諸葛孔明伝」i-mode配信開始

※追記 天地を喰らう(リミックス2012年8月3日17日31日9月14日)


●ジャレコ・ホールディング 7954.Q

◆株式会社ジャレコ
 FIELD COMBAT\フィールド コンバット
※関連記事
 三國フィールドコンバット(2007年5月31日iアプリ配信開始)


●ジー・モード 2333.Q

◆株式会社ジー・モード
 三国志年代記
※関連記事
 横山光輝 三国志年代記(2007年10月17日配信開始)


●学習研究社 9470.T
※歴史群像シリーズなどで三国志関連の本が見受けられる。最近では小説の『天破 三国志』がある。
※関連記事
 2006年3月 歴史群像シリーズ83「演義三国志」
 天破 三国志 3(歴史群像新書、2007年8月31日)


●コナミ 9766.T
※『鋼鉄三国志』関連で商品展開している株式会社コナミデジタルエンタテインメントはコナミグループ。また関連性は判らないが「鋼鉄三国志」は別の権利者に商標がある(下記)。
<追記>
※上記のようなことを書いていたらコメント覧にてご指摘を頂きました。ありがとうございます。
というわけで、権利者情報を直下に移動しました。

※追記 『クイズマジックアカデミー5』三国志検定(2008年7月17日配信)


●アサツー ディ・ケイ 9747.T
◆株式会社日本アドシステムズ
 鋼鉄三国志

<追記終了>
※関連記事
 『鋼鉄三国志』第26話(2008年3月26日)


●スクウェア・エニックス 9684.T
※スクウェア・エニックスから出ている漫画雑誌『月刊少年ガンガン』で『ブレイド三国志』、また『月刊Gファンタジー』で『まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん』がそれぞれ連載中。
※関連記事
 『ブレイド三国志』4巻(2007年11月22日)
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●角川グループホールディングス 9477.T
※角川書店から出ている漫画雑誌『ケロケロA(エース)』にて『BB戦士三国伝~英雄激突編~』連載中
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 『BB戦士三国伝~英雄激突編~』(漫画)連載開始


 私が思い付く中で、こういう風に上場している株の銘柄で三国志と関連する企業は以上だけど、それ以外にあれこれ目に付いた商標があったので、下記に挙げておく。

◆株式会社竹屋
 三国覇王伝
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◆WIN NET TECHNOLOGY株式会社
 三国争覇伝\サンゴクソウハデン
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◆株式会社エヌエイチケイエンタープライズ
 三国志
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◆アークシステムワークス株式会社
 ゲーミックス
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◆ゲームヤロウ株式会社
 三国志豪傑伝\さんごくしごうけつでん
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◆株式会社リクルート
 コミック三国志マガジン

※一つも裏をとってないから関連性や信憑性は知らないが、昔、メディアファクトリーの元社員さんがメディアファクトリーをリクルートのエンターテインメント部門と喩えていたことを思い出した。
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 コミック三国志マガジン(2007年9月27日配信開始)

◆株式会社メディアファクトリー
 一騎当千
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<おまけ>
◆尾崎酒造株式会社
 蒼天航路


 あと余談だけどロールプレイングゲームを「RPG」と表記するのは、「ロールプレイング」が商標登録されているからだ、と以前、小耳に挟んだんだけど、今、特許電子図書館で検索すると、確かに「ロールプレイング」が出てきた。


※追記 リンク:Sanguozhi Game Archives~三国志ゲームアーカイブス

※追記 登録商標「三国志検定」

※追記 大トロ倶楽部(1987年4月17日-1990年7月20日)

※追記 12月10日は 歴史シミュレーションゲーム『三國志』の日

※追記 三国志大戦トレーディングカードゲーム公式ウェブサイトのエイプリルフール・ネタ2015

※追記 三国志ツクール(2015年12月10日)  

第2回三国志学会大会懇親会


  • 2007年9月15日(土) 14:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,608
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート6
http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

 17時35分、第2回三国志学会大会終了。

 その後、清岡はピーターラビットの手提げカバンを貰い、早速、ノートPCを入れてみる。そうするとちょうど(というかギリギリ)入ったのでこれから活用するという予感を持った。
 懇親会は18時開始とのことでまだ20分程度余裕があったため、知り合い皆で一階下の書店へ立ち寄る。

 その後、懇親会行く組と行かない組に分かれたので、組同士互いに別れの挨拶をし、地下の懇親会会場へと向かう。
 知り合いで懇親会に行く組は清岡、KJさん、USHISUKEさん、すでに会場に来ていた、しずかさん。今回は前回の懇親会に比べ知り合いが少ない。

<参照>三国志学会第一回大会懇親会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/409

 前回、初めのうちは知り合い同士で固まって話をして、場に慣れてきたら、徐々に交流を広げていたが、今回は人数的にそのパターンができそうにないんで、清岡はKJさんの後に着いていく宣言をしていた(笑)
 そうすると何故か清岡、KJさん、USHISUKEさんで作戦会議みたいな感じになる(なぜ?・笑)
 あと去年の小学生は今年は来てないのかな、なんて話していた(後で聞いた話だと今年も来ていたとの話。その持続力は素晴らしい)
 それから三国志学会のサイトで前回の大会の様子が写真で出ていたとか話していた。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/
※今、見に行ったら、第2回三国志学会大会の写真もアップされている。初めの発表の会場の写真で150名ぎっしり人が詰まっている様子がわかる。

 18時になると、石井先生から食事の場所へ入るように呼び掛け。あと乾杯のための飲み物の準備に対しても。

 前回の懇親会と同じくバイキング形式+立食パーティー形式。
 清岡たちが着いたテーブルには知り合い以外には、中林先生や福原先生がいらっしゃった。

○懇親会(午後6時~)

 そして懇親会は、狩野直禎先生からの乾杯のご挨拶から始まる。
 一同「乾杯!」、そして満場拍手。

 早速、清岡は料理を取りに向かっていた。
 テーブルに戻るとKJさん、福原先生、しずかさん、USHISUKEさんが話していて、それに耳を傾けていた。KJさんからの地理の話から、福原先生が実際に南陽→新野→襄陽をバスに乗っていったとき、ちょうど新野が中間地点にあったとか、実際に言ってみると土地の実感がわくという話になっていた。さらにしずかさんの大河の意味合い的な話、区切るものか人の流れを促すものかとか。それからKJさんからNPO三国志フォーラムの紹介。
 福原先生から『西晋の武帝 司馬炎』(中国歴史人物選3、白帝社)の執筆話。冗談っぽく「書かされた」って表現をされたんで思わず「書かされたんですか?」とツッコミを入れてしまった。どうも司馬炎の伝記を頼まれたそうなんだけど、それだけでは一冊は書けないと思われたらしく(関西弁で「書けるんかな、と思って…」)、結局、司馬懿から書いて、「ポスト三国志」の流れになった。それから(今の)中国のお酒の話からUSHISUKEさんが中国に旅行した話。

※追記 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』

 その後はしばし清岡、KJさん、USHISUKEさんでローカルトーク。ウェブと出版とのコラボレーションで成功している事例があるのかな、って話などをしていた。

 ここで石井先生からアナウンス。折角、韓国から来て下さったということで李先生からのお話を伺う場となる。
 李先生が韓国語がおっしゃって、金先生がそれを日本語に訳すって流れ。

 ローカルトークをしていたら、しずかさんがKJさんに客人を連れてくる。どうも「三国検索」を結構、活用している方で、KJさんのことをネットで一方的に知っている方らしい。

 その後、中林先生からお酒で倒れた時の武勇伝(?)を伺う。面白すぎ。

 『三国志研究入門』を出版している日外アソシエーツ株式会社の小森さんと名刺交換。

 その後、会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺う。

 USHISUKEさんは昨年と同様、澤先生とマンツーマン状態で話し込んで居るんで、清岡はKJさんとローカルトーク続行。
 そうすると、その二人の元へ石井先生が見知らぬ二人を連れて来る。どうやらサイト「徳本商会」の徳本さんとその知り合いの簡俊さんとのこと。しばしサイト管理の話やネット動向の話、ファン層の興味の移り変わりの話で盛り上がる。サイト管理の話ではサイトの寿命の話をしていたっけ。以前の話題を提供した。
 その流れでKJさんから清岡の紹介があって、「長沙走馬楼呉簡 丘について」の課題ネタを振られた。いやさすがに初対面の人にこのネタは引かれるだろうと思いつつ言ってみるとやっぱり引かれ気味だった(笑)。

 ここで会長の狩野先生がお帰りというアナウンスがあったので拍手。

 サイト管理の話を再開する。簡俊さんから最近の三国志ファン層の興味深い話を伺う。やっぱり三国志大戦がメジャーだよな。
 とりあえずKJさんが「NPO三国志フォーラム」はまだNPO法人化されていないんで、「NPO法人三国志フォーラム」ではないので間違わないように、と徳本さんに主張していたところにはなんか妙に笑ってしまった。その流れで「三国志連環」の話。やはりデッドリンクが多いと感じられていると徳本さん。そうだよな、あれはなかなか。
 話の流れで簡俊さんとUSHISUKEさんを引き合わせる。そうすると、マンツーマン状態でその後も話していた。

※追記 ノート6:三国志学会 第五回大会

 その後、分かれ、再び会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺っていた。清岡とKJさんからはネットの知り合いに会った話をする。

 てな感じで時計は20時近く。ここで石井先生のアナウンスがあって、最後は福原啓郎先生から締めの挨拶。
 最後は第三回に向けてということで一同乾杯と満場拍手で終える。


 この後、前回と同じくスタッフの案内で分かれてそれぞれの駅やバス停へ向かう。
 清岡はどこから帰ればホテルに近いんだろうと迷っていたら、会場にほとんど人が居なくなっていて、これはどうやら帰るタイミングを逸したんだと思っていたら、何か先生方や学生方で懇親会の二次会が近くのファミレス(昨日のジョナサンの隣)で行われるとかになっていたんで、それに参加することに。一般人は清岡だけだったんで、「誰だ、おまえ?」状態だったんだろな。

 二次会20時終了。
 結局、ファミレスから10分程度徒歩で西台まで行き、そこから都営三田線で巣鴨まで乗り、山手線に乗換え、ホテルの最寄り駅の大塚駅で降りた。


・第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
http://cte.main.jp/newsch/article.php/658

※追記 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)

第2回三国志学会大会ノート6


  • 2007年9月14日(金) 12:25 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,468
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

(※清岡注、最後の発表とあって疲れて清岡の気力が殆どなくなっており、またレジュメ等で後日補間できなかったため、以下、かなり端折ったレポート内容となっている)

 16時15分に紹介開始。
 二松学舎大学の竹下先生から林田先生のご紹介がある。略歴や著作等。三国時代の文学がご専門だそうな。

○「私の中の三国志」林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)

 16時20分に開始。
 最近、講談社から『史記・貨殖列伝を読み解く』という本を出した。そこで金文京先生の『三国志の世界』の本を頂いた。その本で林田先生が疑問に思ったところがある。卑弥呼が景初二年に使者を魏の明帝に送ったくだりで、「景初二年」と陳寿が『三国志』魏書東夷伝ではっきり書いており、(その使者が)帶方郡に着いたのは景初二年六月であると書いている。明帝は景初三年正月に亡くなるわけだから、景初二年十二月にすでに重体である(※「十二月乙丑、帝寢疾不豫。」『三国志』魏書明帝紀)。
 そこでなぜ(卑弥呼の使者が来たのは)景初三年になるのか。京都学派では景初三年になっていたり、今の教科書では景初三年になっているものもある。景初三年の理由がいろいろあるが、一つは明帝が亡くなった、一つは景初二年の六月から遼東半島で司馬懿と公孫淵が戦を初め八月には鎮圧した、というのがある。卑弥呼の使者は景初二年六月に帶方郡につき三ヶ月足止めを喰らっていた。そして戦が鎮まった景初二年八月に少し時間をおいて出発したとしても、遼東半島とそして洛陽まで大体、三ヶ月強ぐらいだ。なぜならば、(『三国志』魏書明帝紀の注に引く『干竇晉紀』で)明帝の問いにはっきりと司馬懿が百日と答えている(「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」)。

 曹操と荀[或〃]の話、文学の話など(※清岡注、この辺りの下りがほとんど清岡の頭に入らず)。

 漢代の辞賦作品。詩経などだいたい儒教の教理に適っている。また教理に沿いながら詩経などを解釈する。しかし曹丕は違う。「文以氣為主」(「典論論文」)としている。文には個性がある。それまで、政治的なものが入ってきて文学が形成された。例えばヨーロッパでは19世紀の末、ある人物(※清岡注、名前失念)が初めてヨーロッパ文学は(カソリックの教理から)自立したといった。(三世紀の中国の文学で自立性が確立して)それがあったからこそより内在的になった(※清岡注、この後の下りがほとんど清岡の頭に入らず)
 集英社の企画で、「中国の英傑」という伝記のシリーズがあって、林田先生は曹操の伝記を書きたかったとのこと。編集サイドとしては諸葛亮を書いて欲しかったとのこと。諸葛亮を精神的思想的な啓蒙型に位置づけた書き方をしようとおもったとのこと(※→中国の英傑(5)『諸葛孔明 泣いて馬謖を斬る』)。(司馬徳操など荊州での話)
 三国時代というのは三国が争ったが、国境を越えて文学というのがある。
※ここでA4一枚のレジュメにある話にうつる。レジュメには四つの引用があって、まず初めの二つについて。下記。

(1)胡沖呉歴曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫權、又以紙寫一通與張昭。
                       (『三國志』卷二 文帝紀 注引『呉歴』)

(2)呉歴曰、權以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致[鼠軍]子裘、明光鎧・[馬非]馬、又以素書所作典論及詩賦與權。
                     (『三國志』卷四十七 呉主傳 注引『呉歴』)

 素書の素は絹の意味。絹に典論や詩賦を書いて孫権に贈った。やはり孫権に知ってもらいためにわざわざこういうものを贈ったんだろう。(「以紙寫一通與張昭」に触れて孫権だけじゃなく張昭にも贈った、とし、張昭の話、陸機の話。血縁関係から陸機は張昭の書を見たんじゃないかとし、張昭が陸機に与えた文学的影響の話)

※レジュメの三番目についての解説に移る。

(3)呉書曰、紘見[木冉]榴枕、愛其文、為作賦。陳琳在北見之、以示人曰、此吾郷里張子綱所作也。後紘見陳琳作武庫賦・應機論、與琳書深歎美之。琳答曰、自僕在河北、與天下隔、此間率少於文章、易為雄伯、故使僕受此過差之譚、非其實也。今景興在此、足下與子布在彼、所謂小巫見大巫、神氣盡矣。紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰、前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。
                     (『三國志』卷五十三 張紘傳 注引『呉書』)

 それぞれ観賞したり、自分の書いたものを贈りつけたり褒められたりして、また喜ぶ、またそれが国境を越えていたというのは面白い。

※レジュメの四番目についての解説に移る。

(4)翻與少府孔融書、并示以所著易注。融答書曰、聞延陵之理樂、睹吾子之治易、乃知東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物、察應寒温、原其禍福、與神合契、可謂探[頤の頁が責]窮通者也。會稽東部都尉張紘又與融書曰、虞仲翔前頗為論者所侵、美寶為質、彫摩益光、不足以損。
                           (『三國志』卷五十七 虞翻傳)

 17時27分終了

 質問と回答(例の如く頭に入らなかったので略)

 17時29分終了

 事務局長から来年の開催日についてアナウンス。来年の三国志学会大会は9月14日。

<参照>第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
http://cte.main.jp/newsch/article.php/658

※追記 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日)

※追記 より深く理解するための「三国志」講座(2010年10月15日-12月24日)

※追記 図説 三国志の世界(2011年5月23日)

※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)

 あと帰路についてのアナウンス。スクールバスは終わっているが普通のバスはあるとのこと。三点目として懇親会のこと。会場は前もったお知らせにあるグリーンスポットであったが、急遽変更し一号館の地下の食堂になったとのこと。四点目は二階で出店しているまだ書店が営業しているとのこと。

 17時35分、第2回三国志学会大会終了。

<次回>第2回三国志学会大会懇親会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/691

第2回三国志学会大会ノート5


  • 2007年9月12日(水) 07:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,229
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687


○「韓国における三国志演義の受容と研究」李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)

 14時59分開始。
 壇上には李先生と金先生が立ち、手元のPCでスクリーンに論文(漢字でかけるところは漢字で書かれている)を映し出す。李先生が発表し、それを順次、金先生が訳していくスタイル。

 その前に李先生に登壇して頂いた理由について金先生から説明。
 昨年は中国の研究者からの講演があったので、渡邉先生から三国志を伝統的に愛唱しているところは中国以外に、日本、韓国、ベトナムがあり、韓国が三国志の歴史的状況、現在の状況を考える上で重要だとのことで、韓国で研究されている方がいたら紹介してほしいということになった。そのときは思い付かなかったので去年は中国の学者の方ばかりとなった。

※参照リンク
・三国志学会第一回大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405
・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/374
・2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 今年はちょうど李殷奉さんが韓国の三国演義研究で博士論文を書かれて金先生の元へもってきたので、ご講演して頂くこととなった。
 講演開始。

 『三国演義』の重要な版本として嘉靖本、(※清岡注。他二つ聞き取れず)、毛宗崗本などがある。韓国に『三国演義』が入ってきたか正確な年はわからないが、地理的に近いので恐らく中国で出版されほぼ同時期に韓国にもたらされたと考えられる。それを改刻・復刻した形で韓国において刊行され、小説ではあるが歴史小説であるため漢文を理解する読者に人気を博した。民間では壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のときに援軍として明の軍隊が来る。先の講演でもあったように明代の軍隊が関羽を信仰しており、関羽信仰を韓国へもたらし、そのため関羽信仰と共に三国演義が流行り、『三国演義』の筆写本、印刷されたものが流布することとなる。印刷されたものは経済的に制約で『三国演義』の中身全て出版されることがなかった。これが韓国の特徴で、人気のある面白い部分を取り出しそれを改作するということが流行した。そのため原作にはない内容、『三国演義』とは違う新しい物語が韓国で作られ出版される。近代になると日本からの活版技術が輸入され、それにより活字本でたくさんの『三国演義』の異本(韓国での創作が含むもの)が出現するようになる。こういった異本は大部分、読者が好む人物、興味深い事件を取り出し再構成したものであるために、歴史事実や大義名分が希薄になり興味本位なものとなり、『三国演義』は非常に多様な形態(小説、軍談、詩)で韓国で流布した。
 ここでは韓国の文化全般に多くの影響を与えた『三国演義』がいつ韓国に伝わったか、当時、伝わった版本は何なのか、また韓国で独自に発達した『三国演義』の異本はどういったような影響を受けたのか、を簡単に紹介する。前述したように『三国演義』が入ってきた正確な年代は判らないが、一番、古い記述としては高麗時代に『老乞大』(ろうきつだい)という中国語の教科書の中で『三国志平話』を買う場面がある。これが『三国志平話』について最も早い貴重な記録だ。これ以外は嘉靖本の序文に出てくる。『三国演義』の記述は『朝鮮王朝実録』の1569年6月1日の記事に出てくる。これが『三国演義』が韓国に入った最も古い記述。王様に対して大臣がある事柄についてそれは史書に書いているのではなく『三国演義』に書いていることだと指摘し、小説でそういうものを引いてはいけませんと諫める記述内容とのこと(※清岡注。講演では具体名が挙がってもっと詳細なものだったがメモを取れず)。嘉靖本が出たのが1522年なので、恐らく嘉靖本が朝鮮に入って来たのだろう。但し現在、韓国には嘉靖本はないので、韓国に残っている最も古い『三国演義』は恐らく周曰校本をカイホウした耽羅刊本である(この後、版本に関することについて)
 周曰校本以降、毛宗崗評本が入ってきて流行するが、その入ってきた年もよくわからない。粛宗の時代(1674年-1720年)のころだろうと推測されている。1681年-1768年の人物(※清岡注。名前失念)の一種の随筆に、「『三国演義』は刊行され広く読まれ家ごとに読まれており、過去の試験問題に『三国演義』が出ているがこれは全く恥ずかしい話である」というような記事がある。この時代、『三国演義』が非常に普及していたことがわかる。ある本(※清岡注。名前失念)では毛宗崗評本を全部、写しているのでこの時期には毛宗崗評本が入ってかなり普及していた。
 韓国で出た毛宗崗評本は『貫華堂第一才子書』という題名になっている。中国で出た毛宗崗評本は最初に「シュウゾウ三國志演義」となっているが、韓国の本では「貫華堂第一才子書」になっている。中国の版本では十行二十一字になっているのに対し韓国の本では八行十五字になっている。本文の方は巻一から巻十九まで行数字数、字の形に至るまで中国ででたものは同じ。毛宗崗評本は中国で刊行されるたびに巻数は字面が変わってきてるのに対し、韓国の方の本文の部分は十九巻、十二行二十六字と一致して、中国の十九巻本と一致する。それ以外に韓国で刊行された満州語の教科書に『三国演義』の満州語の翻訳の中から十回分の翻訳を選んで教科書に使っている。これはそれ以前の版本(底本は嘉靖本)を使っている。
 このように遅くとも1560年以前に『三国演義』が韓国に伝わっている。17世紀末には韓国語に翻訳され満州語との対訳になっていた。『三国演義』が韓国に伝わって、国王はもちろん士大夫たち、民間の女性・子供たちに至るまで三国志を興味を持つ階層は多様に渡っている。漢文を読む士大夫たちはそのまま読めたが、民間の女性や子供たちに対してはは(日本の)講釈師のような人が講談をし三国志を伝えた。17世紀の末には一部ではあるが『三国演義』が韓国語に翻訳され読者層拡大に寄与した。翻訳されたものを筆写する人がこの時代には居た。例えば1671年-1759年の人物(※清岡注。名前失念)の記録を見ると、ある人物(※清岡注。名前失念)のお母さんが『三国演義』を自分で筆写したという記録がある。女性は当時、漢字は書けないので、ハングルを筆写したのだろう。1690年-1742年の人物(※清岡注。名前失念)の文集に「娘たちに歴代の演義類の本を通じて歴史を教え見識を高める必要がある」という記述がある。17世紀末にはハングルで翻訳された『三国演義』が女性たちにより筆写されていたことがわかる。このようにハングルで翻訳された『三国演義』は筆写本以外にも旧活字本などいろいろな形態を通じ大衆の中へ多くの人気を得ることになる。
 韓国語で翻訳された『三国演義』は17世紀末にはあったと思われるが、現存するもので一番、古いものは19世紀末から20世紀までのものしか残っていない。毛宗崗評本を翻訳したものが大部分。その中で一つ特徴あるものは「楽善斉」(王室の図書館)に18世紀に翻訳された思われる筆写本がかなり多くある。その「楽善斉」に『三国志通俗演義』三十九冊が残っている。これは諸葛亮が征討するときに軍内に関索が登場しない特徴がある。ここだけをみると嘉靖本を底本として翻訳したものに思われるが、但し、それ以外、周曰校本だけにある内容が見られる。一概に嘉靖本だけとは言えない。さらに嘉靖本と周曰校本両方にない内容が見られる。それはどうも韓国で付け加えたものだ。例えば「梁父吟」の詩は『三国演義』では全然違う内容だが、この楽善斉本では『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引くもの(※清岡注。『藝文類聚』卷第十九 人部三 吟に記載)になっている。中国の『三国演義』で「梁父吟」をこのようにしたものはおそらく無く、おそらく訳者や筆写した人が歴史書を見て書き替えた可能性が大きい。
 商業出版が盛んになった19世紀に入ると、韓国の『三国演義』に新しい傾向が出てくる。それは『三国演義』全体を出版しそれを買うというのは経済的理由で難しいということで、人気のある一部を選んで、さらに新しい話を付け加え、元の『三国演義』とは全然違う話にしてしまう傾向。これは中国ではあまりない傾向で、韓国のこの時期の一番の特徴となる。
 独自に作られた話をもう少し詳しく紹介。ソウルで出版されたもので毛宗崗評本の第四十九回から第七十二回に相当する韓国語に翻訳したもので、前半は毛宗崗評本と同じだが、後半になると内容が『三国演義』と全く違ってくる。趙子龍を主人公とした小説となっていて、戦争で敗れた将軍が劉備に復讐しようとするが趙子龍と諸葛孔明の活躍により撤退するという話。原作にはない全く話。大部分が『三国演義』でモチーフだけ持ってきて趙子龍を中心として加工した話になっている。そういうものとして旧活字本の『趙子龍伝』(1917年)あるいは『山陽大戦』『三国大戦』というものが出版されている。いつ創作されたかはわからないが、ソウルで出版された三巻本の『三国演義』にソウルの地名の記載があり、1859年以前につくられたと考えられる。それが現在、完本(全集のこと)として残っている。
 もう一つの例を紹介すると、韓国語に訳された『三国演義』の下篇に、『孔明先生自筆』(※清岡注、聞き間違いの可能性あり)という諸葛亮に関する話がある。諸葛亮が南陽で弟の均と一緒に暮らしていて、黄承彦の娘と結婚してその奥さんからいろいろな術法を習うといった独特な構成になっている。諸葛亮を中心した話というより黄夫人を中心とした話として展開する。この小説は三顧の礼と最初の戦闘の話と結合し旧活字本の『黄夫人伝』という独自の物語として出版されている。
 もう一つ紹介すると、ソウルで出版されたとされる『桃園結義論』という本がある。毛宗崗評本の第二十回から第三十回を説略したもの。その中に『三国演義』には載ってない関羽が貂蝉を斬るという話が載っている。これは明代の芝居の「関大王月夜斬貂蝉」を少し変えて載せたのだろう。
 このように韓国語で翻訳された『三国演義』は19世紀に商業出版が盛んになると全部ではなくその中の一部分を取り出し、それを改作するというのが流行った。そのために元の『三国演義』の内容形態のものになる。中国では毛宗崗評本が最後の改訂版でこれ以降、話を変えたものは出ないし故意に内容を変えたものはでないが、韓国では全体をばらし一部を取り出しそれを違う話にどんどん作り替えてしまう(再構成してしまう)ということが流行った。これが韓国の当時の『三国演義』の大きな特徴で、そのため、歴史全体の三国志を見渡し、歴史小説としてあるいは教訓(大義名分)を読みとるとかの『三国演義』の柱になるが、当時の韓国ではそういうものよりかは個々の細部の話を興味本位に娯楽とする側面が強調されている。これが韓国での読者層の変化、『三国演義』への認識の変化をもたらしている。

 15時51分終了

質問1
(※清岡注。長いので頭に入らなかった。訳す金先生もたいへんだと思った)
 現在の韓国ではどういったものが伝わったり人気があったりするんでしょうか
回答
 いくつかの漫画が流行っている。日本語版を写したりということ。小説は流行作家が書き直したものがある。この小説がよく読まれている。中国では現代作家が書く三国志ものはないので、これは日本と韓国の共通したところだ。

 15時56分終了。
 15分休憩。
 このころになるとすっかり外は晴れていた。


<次回>第2回三国志学会大会ノート6
http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

第2回三国志学会大会ノート4


  • 2007年9月11日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,364
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685


○「台湾における関帝信仰の諸相」松本 浩一(筑波大学教授)

 雷を伴う集中豪雨により会場への観客の戻りが遅いため予定を遅らせる。
 ステージの上にスクリーンが用意されて、14時10分スタート。

●1. 関帝(関聖帝君):様々な性格を持った神
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 実際、様々な神格を持っている。関羽対する信仰は数種の部面があり、そのうち四つを紹介(増田福太郎『臺灣の宗教』p32の引用がレジュメに記載)。(イ)武神としての関羽。(ロ)仏教の祭神としての関羽。いわゆる伽藍神。お寺の建物の守り神(スクリーンにその関羽像が映し出される。青龍刀を持っている)。(ハ)儒教の祭神としての関羽。「文衡聖帝」として五文昌の一人。家業の神様。入試などで文昌帝君のところに絵馬が並ぶとのこと。(ニ)商業の神としての関羽。華僑の居るところには必ず関帝廟がある。
 それぞれについて由来を辿る。

●2. 国家祭祀の祭神としての関帝
 皇帝から称号を授かる歴史。まず宋元時代の加封。レジュメに『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆からの引用がある(以下に出てくる文献に関してもほとんどレジュメに引用と訳あり)
 宋元時代に王を加封。大觀二年に武安王など。現在、正史に見られないが、このころ、多くの称号を授かったことは間違いない。
 ある村民が県尉の李若水に関大王の書を持ってきたエピソード(『古今図書集成』神異典巻37より)。夢の予言でその村民が道士から得たとのこと。これが北宋末の年号。北宋末に王になっていたことは間違いない。
 時代を経るにつれてどんどん加封されていき元文宗天歴(暦)元年には顯靈威勇武安英濟王になった(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。
 最初は御霊神だった。『三国演義』の中でも曹操・呂蒙へ祟りを起こしに行くので。それを鎮めるために神様に祭られた。唐の咸通年間の乱のあとのエピソードでは霊の一つとして捉えられている(『北夢瑣言』巻11より)。関羽が祭られている祠では「僧侶でここに居住する者は、外の戸をしめないで、財産や絹を思うままにしておいても、敢えて盗む者はない」というほど、恐れられていた神様(『雲渓共友議』巻3より)。
 宋元の時代には道教の中にも関羽が神様として出てくる。呪術儀礼の中で、神兵を率いて邪鬼を追い払ったりする元帥神の一人。これは台湾に関係ないため触れない。
 多くの文献が(明朝の)萬暦年間に帝号をうけたとする(『三才図絵』人物巻5關羽、『關聖帝君聖跡圖誌』巻3)。王見川氏の考証では関羽が「協天大帝」の称号を受けたのは朝廷からの正式なものではなく民間の「私封」ではないかとしている。萬暦四十二年には三界伏魔大帝神威遠鎭天尊關聖帝君(いわゆる関聖帝君)になっている(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。この年に帝号を受けたことは様々な資料から裏付けられる。

●2. 仏教の伽藍神としての関帝(※清岡注。レジュメで2.が二回でてくる)
 伊藤先生の発表の中にあった唐代の董[イ廷]という人が書いた関帝の廟の記録(董[イ廷]「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉關廟記」(『全唐文』巻684))に、智顗禅師が玉泉寺にやってきたとき関羽が現れてこの地を僧坊として提供したいと申し出て(守護神となった)、とある。この全唐文では将軍になっているが後の時代になると聖帝になっている。帝号を得てから書き替えられたのであろう。張商英「重建當陽武廟記」(『全宋文』巻2231)の方では関羽が帝になっている。

●3. 商業の神としての関帝
 これはお馴染みのところ。

 ここまでは増田福太郎さんの言っていることと対応がつく。

●4. 扶[占し]の神としての関帝
 扶[占し](ふうち)とは神様が降りてきて字を書くこと。そうやってお告げをしていく。そういった文献がかなりある。先ほどの(伊藤先生の)発表は関羽について書かれた文献だったが、こちらは関羽が自らお告げを下した書物。
 清代には関帝の託した善書が多く出現。大概、良いことをすれは良いことが起こり悪いことをすれば悪いことが起こるといった内容。『関聖帝君明聖経』『救劫新論』『関帝返性図輯要実録』『救生船』『関聖帝君降筆真経』『関聖帝君戒士文』『関聖帝君全書』
などがある。一番有名なのが清朝の初期から中期ごろに成立したといわれる『関聖帝君覚世真経』(レジュメに引用と訳)。大抵は薄い冊子。
 清朝の後期になると関帝が降りてきて作るのが多くなる。場所は四川雲南湖南といった宗教結社で多くなる。時代に合わせ世を救うというテーマが強くなる。
 恩主公信仰。関聖帝君、孚佑帝君、司命真君が「三恩主」としてセットとして祭られている。
 関帝が玉皇大帝(西遊記でお馴染みの玉帝)の譲りを受けて、第十八代目の玉皇大帝に就任。第十七代の玉皇大帝は「玉皇大天尊玄穹高上帝」であり、『西遊記』第一回などにも「高天上聖大慈仁者玉皇大天尊玄穹高上帝」として見えている。第十八代「玉皇大天尊玄霊高上帝」になったという説。王見川氏によると雲南省あたりで発生したとのこと。
 王見川氏によると民国の初年中国で作られた善書の中には三つの異なった説がある。『中外普渡皇経』『玉皇普渡尊経』、『洞冥宝記』巻十のそれぞれに説がある(発表では三つ目の説を紹介)。
 この説は戦後になって台湾に伝わる。民国六十九年に台中の聖賢堂が印刷し各地に広まったという(レジュメに引用と一部訳がある)。
 最後に台湾での信仰を見るということになる。この後、スクリーンへ写真を映し出し順に解説。

 関帝を祭った廟として多いのは扶[占し]の神としての廟と商売の神様としての廟。いろんなところに出てきて最後は玉皇大帝になってしまうのは関羽の人気の高さを示している。

 14時47分終了。
 司会からフォローが入っていたが王見川を発表中「おうみかわ」と読んでいたのは「おうけんせん」だとのこと

質問1
(※清岡注。前置きが長いので略)関羽だけ帝にまでなったのは何故か
回答
 芝居や講談などの関羽人気が大きかった。また悲劇的最期を遂げたのも大きい。御霊神としての信仰がかなり広まる要素となっていると思う。

質問2
 商業神としての関羽は出身地から考えるのが一般的なのでは? 解県というのは代々、塩の名産地として知られている。解県のイメージからお金や商売がでてきた。

回答
 今回は皆さん御存知だと思ってちょっとしか話をしなかった。解州の塩とかかなり関係するとは思うが、山西商人自体、活躍していた。善書が広まるのは山西商人の影響が大きい。
(※清岡注 「解県」には塩池はなく続漢書郡国志によると安邑県にある。そこらへん回答では「解州」と言い換えているあたりさすがだなぁ、と思った。)

※追記 三国志飴(2010年9月16日)

質問3
(※清岡注。聞き取れず)

回答

 最後にこういうことに興味があれば道教学会の方にも足を運んでほしいとアナウンス。
 14時56分終了。

 ここでアナウンス。大学からのスクールバスは17時10分が最終とのこと。他の交通手段について説明があった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

第2回三国志学会大会昼休み


  • 2007年9月10日(月) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684


 ここで事務局長(渡邉先生)からアナウンス。いろいろ持って帰ることができる研究紀要、学内誌やパンフレットの話を終えた後、

「このようなものを用意いたしましたので(とピーターラビットの絵の入った手提げカバンを掲げられる)、宜しければお持ち帰り頂いてということでございまして、中を開けると何となく大学の案内が入ってると思いますが、『諸葛亮の罠』だとして、親戚の方々にでも配っていただくという仕組みになっております」

と『諸葛亮の罠』で場内爆笑。
 その後、構内の学食を含む近くの昼食の取れるところの案内と書店の案内をされていた。

 去年の会場は大東文化会館だったので、近くのスーパーマーケット内にあった「ジンギスカン フランス人」(旧名)に行ったんだけど、今年は大東文化大学板橋校舎ということで昨日行ったジョナサンに行くのも能がないと思い、「手作りうどん 味の民芸」に行くことに(というか清岡が主張・笑)。道中はやはり先ほどの発表について。

<参照>三国志学会第一回大会お昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

 民芸についたら、総勢8名居た。こりゃまた分かれて座るかな、と思ったら、実は同じところに座れるということで、しばし待つ。待っている間は『三国志研究』第2号は雑纂として一般の人の文章が載っており、実際、門戸を開いているんだなぁ、という話をげんりゅうさんとしていた。


USHISUKEさん おりふさん げんりゅうさん 三口宗さん

 テ ー ブ ル テ ー ブ ル テ ー ブ ル 

  清岡   しずかさん 玄鳳さんの後輩 玄鳳さん

※玄鳳さんの後輩さんはげんりゅうさんの後輩でもあるとのこと


 こんな感じの席順。お座敷。清岡は天ざるそばを注文。
 この八名はきっと知らない者同士も居るだろうってことで、清岡がお節介にも自己紹介タイムを提案。玄鳳さんから時計回りにスタートし、名前とか所属とか軽く自己紹介。結構、mixiではマイミク同士とかって話が出ていてそこらへん時代性を感じていた。
 というわけで後は席の近いところでローカルトーク。清岡の近くでは京都への旅行話をしていた。市バスの一日券で名所を回るのが良いのかなとか。
 そういう話をしていたら、向こう側の四人から何か話が飛んでくる。三口宗さんが晋書の訳が欲しいって話。

清岡「自分で訳してください、としか言いようがないですね(笑)」

という鬼発言で少し場をわかせる。んまぁ、一応、清岡からは、訳だとデータ化されてないんで、逆にネットでデータとしてある漢文(原文)の方が検索しやすい、という話でお茶を濁したが。げんりゅうさんも漢文読んだら派だったような。
 こっち側では再び京都話に戻り、大凶コレクターの話になっていた。そうこうしている間に料理が一辺に来て妙に感動する。
 食べながら、今日の会場移動は何故だろう、って話をしていた。移動前の会場のキャパシティが150名ぐらいだから、もし三国志学会会員の大半が来場したらさすがに入りきらないだろうって話。

 食べていると周りがざわつき、そのうち稲光と雷の音が。驚いて外を見ると集中豪雨。まさにバケツをひっくりかえしたような雨だ。みんな傘の心配をしていた。
 おりふさんが誰かシャッターを焚いていると思ったと言うと、すかさず清岡が「シャッターを気にするなんて有名人みたいですね」と茶々を入れる。
 そういや第一回三国志シンポジウム後はこういった集中豪雨でしたね、と思い出話を口にする。

・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html

 一人一人レジでの清算を終え、どうやってこの雷雨かつ豪雨の中、会場まで戻るか、眼前の問題に直面する。

 清岡は折り畳み傘を持っていて次の発表の時間が差し迫っていたので、意を決し外に飛び出す。
 途中で落雷が恐くて脇道に逸れ、まずどこか建物に入ろうとしたが見つからず結局、遠回りになってより多く濡れるだけというアホな結果になった(汗)


<次回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687

第2回三国志学会大会ノート3


  • 2007年9月 9日(日) 00:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683


○「建安文学における香りについて──迷迭の賦をめぐって」狩野 雄(相模女子大学准教授)

 12時17分スタート。

●一 はじめに──曹操の薫香嫌いと時代背景
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ
  また、レジュメでは[資料]として様々な文献からの引用が載せられている。

 建安文学の創造者とされる曹操だが、曹操は薫香を嫌い続けた人物。[資料一─1](太平御覧巻九百八十一 香部一 香に引かれる魏武令)に明確に「吾不好焼香」と書かれていて、焼香を許したのは実用面のみであった。曹操の薫香に対する姿勢は[資料一─2](三国志巻一 魏書一 武帝紀の注に引く魏書)で「雅性節儉、不好華麗」とみえるように華美を好まないためかもしれない。こうしたことを反映してか現存する曹操の詩歌作品中に薫香表現を見出すことは難しく、[資料一─3](宋書 楽志三 曹操「陌上桑」)で「柱杖桂枝佩秋蘭」と見えるだけ。曹操は詩人としても一個人としても薫香に関しては遠い存在といわざるを得ない。
 曹操のこうした姿勢は建安の時代において薫香がすべてに渡って疎んじられたという意味ではない。むしろ禁止しなければならないほど薫香が人々の好みに適っていたと雄弁に物語っていた。例えば曹操の息子、曹丕に関して[資料一─4](三国志 魏書 巻二十九 方技伝 朱建平)で「帝將乘馬、馬惡衣香、驚囓文帝膝」とあり馬が香りを嫌って衣に噛みつく程。
 こうした関心の強さはその当時まで蓄積された薫香の状況と些か関わりがある。[資料一─5]に示した陳連慶「漢晋之際輸入中国的香料」(『史学集刊』1986年第二期)では武帝紀に中国にもたらされた品々を細かに挙げながらかつ[資料一─5─(1)](漢書巻九十六下 西域伝)の「殊方異物、四面而至。」と述べながら、そこに香料が含まれないことと、香料の名が見える文献の清書が南北朝期であることを指摘した上で、当時、漢代、すでに陶製の薫炉が行われたことが出土文物からは認められるものの、香料の輸入が本格的に行われていたことを示すものでは必ずしもないと論じられている。信用できる文献として[資料一─5─(2)](芸文類聚巻八十五 布帛部 素、太平御覧巻九百八十二 香部二 蘇合)の班固が班超に宛てた手紙がある。後漢の章帝期で大月氏の蘇合香が中国に入ってきたことが確認できる。月氏の視線の先には大秦国(※清岡注、ローマ帝国のこと)が意識されていたかもしれない。[資料一─5─(3)](後漢書巻八十八 西域伝 大秦)では大秦国の様子に触れられているが蘇合香にも触れられている。「凡外國諸珍異皆出焉」の記述は[資料一─5─(1)]の記述にも通じる。「珍異」なるものとして香料が挙げられている。香料の名が魏略西戎伝に記される。[資料一─5─(4)](三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝の注に引く)のところ。「一微木・二蘇合・狄提・迷迷」。「迷迷」は「迷迭(めいてつ)」の誤りだと思われる。こういった香料は使節にももたらされたが商人にももたらされた。いつの頃かはわからないが[資料一─5─(5)](楽府詩集巻七十七 雑曲歌辞十七 楽府 古辞)に「五木香」や「迷迭」など香料やその原料となる植物が挙げられる。陳連慶氏は中国に香料がもたらされる時期を三つに分ける。前漢武帝期からを薫醸段階、後漢期を○○段階、魏晋期を○○段階、つまり建安時代は外国の香料が大量に中国へもたらされる段階に当たっている。こういったことを背景にしながら、建安文学の香りについて見ていく必要がある。香料の名前としてあるいは香料の原料として「迷迭」というものあった。[資料一─5─(6)](法苑珠林巻四十九)では「迷迭香 魏略曰、大秦出迷迭。廣志曰、迷迭出西海中。」となっている。「迷迭」は元々、植物の名称で建安の舞台にあって詩人たちによって愛でられた。

●二 迷迭の賦をめぐって──異国の植物はどう香るのか

 『芸文類聚』巻八十一は薬香草部上にあたっていて迷迭が一項目として立てられ、五名の辞賦作品がある。また[資料二─0](太平御覧巻九百八十二 香部二 迷送(迭))、曹丕の賦と思わしきものが収められている(「魏文帝迷送(迭)賦曰~」)。この制作年代は不明だが、先行研究の中では仮にとされながら「建安二十一年」としている。曹丕は迷迭の種を中庭に植えその様子と香りについて迷迭の賦を作っている。おそらく他の四名の作というのもこの時に盛んに行われたと言われている即興的競作的作品、つまり同時に作られたと思われる。
 今、詩人の個性と共に香りに対する感覚の世代間の差異が認められるか否かについて考えるために、試みに世代順に見ていく。まず曹操と同年代の陳琳(156-217)について[資料二─1](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 陳琳「迷迭賦」、韻補巻二 下平声・十陽・鍾「終」字 陳琳「迷迭香賦」、韻補巻五 入声・五質・歇「歇」字 陳琳「迷迭香賦」の三つ)で見る。芸文類聚に作品の全て掲載されていないことは韻補に収録されていることから知られている。残されている部分からいくつかの特徴がいえる。香りについて芸文類聚の引用の最後の部分「動容飾而微發、穆斐斐以承顔。」の表現を踏まえつつ、感じる顔の気配を詠じている。「斐斐」という表現が嗅覚と共に視覚をも意味する面白さを含みつつも余り迷迭の香りを中心に据えてはいないように感じられる。韻補の引用についても香りは久しく留まらないことを詠じられていたり、同様の傾向が伺える。
 こういう傾向は次の王粲(177-217)にも伺える。[資料二─2](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 王粲「迷迭賦」)。王粲の「迷迭賦」の芳香表現は「揚豐馨於西裔兮」に見られこれが「去原野之側陋兮、植高宇之外庭」の前、すなわち中国にもたらされ目の前に植えられる前の段階の香りを詠んでいる。眼前にある迷迭を詠じた部分ではもっぱらその姿の美しさが視覚的に捉えられており、迷迭の香りを中心に据えているようには思えない。 陳琳「迷迭賦」では迷迭は「來儀」するものと詠じられていたが、「來儀」とは[資料二─2─(1)](尚書 虞書 益稷)に見える「鳳皇來儀」という風に本来、鳳凰の鳳来を意味するものだった。[資料二─2─(2)](芸文類聚 巻九十二 鳥部下 雀)では大雀を詠じたものであり、霊物はしばしば鳥の姿で描かれる。おそらくはそうであるからこそ王粲の「迷迭賦」の最後で「以孔翠之揚精」とあり「孔翠」、辞書によってはクジャクだったり孔鳥と翠鳥の二種類の鳥だったりするが、いずれも美しい鳥である。こうした視点から異国の植物である迷迭を描いたとするならば、そこには可視的に到来することが期待されるのかもしれない。こうした陳琳や王粲の営みというのはそれが作られた場にはっきり影響を受けている。これらは曹丕を主人とする主客的空間であることを示すことで理解できる。
 目の前で迷迭が香りを放っている表現は無いかというと、應[王昜](?-217)の迷迭賦がそのような視点からの描写が見える。[資料二─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 應[王昜]「迷迭賦」)。應[王昜]は「舒芳香之酷烈、乘清風以徘徊」と詠じている。「舒芳香之酷烈」という表現は[資料二─3─(1)](楚辞 王褒 九懐「蓄英」、漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」、文選巻十六 司馬相如「長門賦」の三つ)に挙げている前漢の作家に見られる表現を踏まえたもの。
 続いて曹丕(187-226)の迷迭賦に見られる香りの表現は應[王昜]の香りの表現にとても良く似ている。[資料二─4](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹丕「迷迭賦」)。曹丕の迷迭賦に見られる香りの表現は「隨迴風以搖動兮、吐芳氣之穆清」、この部分に現れている。風に順い迷迭が揺れ、その際に清々しい香りを吐き出す、と表現されているので、應[王昜]の表現と大きく変わるものではない。ただ一点、「芳草之樹」が詠み込まれていることだけが差異と言える。この表現の差異はそれほど小さいものではないと考えている。「芳草之樹」が詠み込まれていることがどういうことかというと、漢代の辞賦作品を例に挙げると、[資料二─4─(1)](漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」)で「吐芳揚烈」とあってそれを顔師古は「烈、酷烈之氣成」と注をし、「郁郁菲菲、衆香發越」については郭璞は「香氣射散也」と注を付けている。何れも芳香の氣だと注釈にある。あくまでも注釈の段階で「氣」と表現されている。時代が下ると表現が一般化される。司馬相如の段階では表現の目が現れてない。
 「氣」の字が香りとして用いられるのはどれが一番古いのか。曹丕「迷迭賦」に先駆けては一つしか見いだせない。[資料二─4─(2)](芸文類聚巻八十七 菓部下 [艸/劦]支 王逸「[艸/劦]支賦」)での「口含甘液、心受芳氣。」。味覚と嗅覚で感じられる「芳氣」。「氣」を香りとして表現した曹丕の例がもう一例、曹植には二例ある。[資料二─4─(3)](楽府詩集巻三十六 瑟調曲一 曹丕「善哉行」)での「清氣含芳」、(玉台新詠巻二 曹植「美女編」)の「長嘯氣若蘭」、(文選巻十九 曹植「洛神賦」)の「氣若幽蘭」。同時代の用例はこの二人にだけ見られるということから、曹丕兄弟は芳香の氣を意識的に用いられると考えられる。現存する辞賦作品から見るならば、王逸によって試みられた芳香の氣の表現を曹丕曹植が受託的積極的に採用したといえるかもしれない。
 「氣」の字を織り込むことによって曹丕曹植兄弟は何を表現しようとした、あるいは結果的に何が表現されたのか。[資料二─4─(4)](説文解字一篇上、説文解字十一篇下)では「气、雲气也。」とされ、さらに「雲、山川气也。」とされる。こうしたものも合わせて考えると氣とは自然界に存在する雲気、水蒸気の立ち上る様子を表していた。可視的ではないことはないが可視的でもある。言い換えると名詞的でもあり形容詞的でもある。身体でも感じるものである。香りは充分に視覚では捉えられないものだが、決して実態のないものではない。王逸はまずそれを「芳氣」と表現し、曹丕曹植はその表現を継承する形で、いわば再発見してみせたといえる。芳香が「氣」の字と結びつくことにより、視覚だけではなく嗅覚や皮膚感覚でも捉えられるものとして強く意識されるようになったのではないか。曹丕兄弟は「芳氣」の詩語としての魅力に気が付いたことになる。視覚的に偏って表現されてきた香りは曹丕兄弟の手によって香りそのものに対する認識によって表現された。
 迷迭について曹植(192-232)のもう一つの辞賦作品がある。[資料二─5](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹植「迷迭香賦」)。残念ながら「氣」の字が見られない。ただそれでも「氣」の字を詠み込むことをどこかで通じるような感覚が詠み込まれている。最後の句に「順微風而舒光」とある。微風に順うの香りであるはずなのに曹植は光と表現している。実際、「舒光」という表現は漢代を通して視覚的になされているし、曹植自身も視覚として表現している。[資料二─5─(1)](楚辞 王褒 九懐「陶壅」、続漢書天文志上 注引 張衡「霊憲」、芸文類聚巻五十九 武部 戦伐 應[王昜]「撰征賦」、芸文類聚巻三十四 人部十八 哀傷 曹植「慰子賦」)。おそらくは[資料二─5─(2)](傅亜庶訳注『三曹詩文全集訳注』(1997年、吉林文史出版社)760頁)にみえる「舒光…謂迷迭香発出淡淡的幽香」という解釈だろう。つまり曹植は「舒光」という表現を香りの表現と寄り合わせるように詠じている。こうした表現がそれ以前になかったというわけではない。例えば「斐斐」という表現など。嗅覚と視覚にまたがった言葉の感覚がそれ以前にもあったことを示す。眼前の香りをどう捉えどう表現するかに曹植が研究したもの、そういったものを作り上げたい。曹丕兄弟の作品に見られる芳香の表現には香りそのものの性質として彼らが捉えたものとして、嗅覚に視覚や触覚が意識されて詠み込まれていることになる。

●三 おわりに──曹操の遺言とその後の香気

 [資料三─1](楽府詩集巻三十一 相和歌辞 平調曲 銅雀台題解)の「[業β]都故事」に曹操の遺言がある。「餘香可分諸夫人、不命祭」(余った香は夫人たちに分けてもよいが、(自分を)祭るのに用いさせない)とある。ある意味、徹底した曹操の態度。しかしこういった態度は息子の曹丕に受け継がれることはなかった。
 曹丕は帝位についた翌年には[資料三─2](三国志 呉書巻四十七 呉主権 「立登為王太子」の注に引く江表伝)に示した物品の要求を孫権にした。そこに「雀頭香」が見える。おそらくそれは[資料三─2─(1)](三国志巻四十九 呉書 劉[夕/缶系]太史慈士燮伝 士燮)に挙げられたような士燮から孫権へ届けられたものを見据えたものだといえる。その中に種々の香料があり、「雑香」という字が見える。
 最後に香気がどう伝えられたかについて。陳琳、王粲、應[王昜]が疫病に倒れこの世を去った年、217年に生まれた傅玄(217-278)は香りの表現を見ていく上で重要な詩人であると考えられる。曹丕兄弟の芳香の氣の表現が継承されている。[資料三─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 傅玄「鬱金賦」)と、その比較として[資料三─3─(1)](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 後漢・朱穆「鬱金賦」)。朱穆(100-163)の「鬱金賦」が傅玄の「鬱金賦」のほぼ三倍あまりの字数を用いながら、芳香の氣やそれと相通じる表現が含まれていないことを考えると、建安年間を通じてこうした表現が立ち上がってきてそれが次の時代の詩人に受け継がれたことがよくわかる。これ以降、芳香の氣が意識し織り込まれることが示唆されている。

 12時54分終了。

質問1
 迷迭という植物は今で言う何ということは判明しているのか。
回答
 結論からいうと、私自身ははっきりわからないが、「迷迭香」という植物は現代中国では「ローズマリー」とされることがある。「ローズマリー」とすると一応、理屈はあう。ローズマリーは南ヨーロッパの原産で、当時のローマ帝国(大秦国)の支配下にある。なんせ1800年前のことだから今の「ローズマリー」とするのは控えたい。

(※清岡の個人的な話。この時、何故か曹丕がローズマリーをくわえているイメージが脳内を駆けめぐり笑い出しそうになっていた)

質問2
(※清岡注、長くて頭に入らなかった)
回答
香料は漢代から熱心に使われていたと考えられる。もう一つの質問に関して。現存しているものからは蜀より魏の方が多い傾向にあっただろう。例えば鼓吹曲は魏や呉に残っているが蜀にはない。ただこれが実際になかったかどうかはわからない。それに関しては金先生の著作に詳しい。

<参照リンク>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

13時1分終了。

<次回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685

第2回三国志学会大会ノート2


  • 2007年9月 8日(土) 11:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 1号館301号室の様子<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

 1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。
 そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。

○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)

 11時13分スタート。司会は中川先生。

●はじめに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。
 (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。

●一、対象とする「関羽文献」

 (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)
 A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)
 これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。

●二、「関羽文献」の「本伝」の内容
 いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。
●1. 呼称
 (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)
 Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。
●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程
 (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)
 『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。
 出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。
 「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。
→王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。
 「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。
→『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。
 関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。
→BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。

<参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/275

●3. 車胄を斬る
 『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。
●4. 秉燭達旦
 『三国志』にはない話。発表では割愛
●5. 義釈曹操
 『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響
●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード
 レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。
●7. エピソードの挿入位置
 エピソードが挿入された順番に関する違い。
 (1)孫権が蜀を取ろうとして劉備に阻まれる
  210年頃、劉備の入蜀直前(BDG) 215年単刀会前に過去を振り返る形(ACE)
※以下レジュメでは合わせて7項目のエピソードの挿入位置について文献を分類している。
 こういった感じでエピソードの挿入位置を比較してみておおざっぱにまとめてみると、
 グループIがACE、グループIIがBDGと分かれる。

●まとめ
 ACEの文献は比較のところであまり取りあげていない。これは比較的、歴史に忠実なため。序文で誤りを正すと書いている方針は史書に忠実であるといところを指す。グループIとFはいわば真面目な文献。関羽信仰に対し冷静な態度をとっている。
 グループII(BDG)の文献の特徴として1)関羽、劉備・張飛の呼称によって関羽を尊崇する気持ちを強く表し、2)王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく聖蹟図を収録し、聖蹟図に基づく説を本伝に採用し、つまり出所が怪しい説を盲信し採用していて、3)『三国演義』を中心に演劇などを含めた俗文学の影響を多く受けている。
→これらの三つの文献も序文の中で先行文献の誤りを正すと書かれている。BDGの編纂者にとっては関羽のあらゆる説をなにもかも本伝に取り込むことが誤りを正す行為だったんだろう。関羽信仰の熱烈な信者。特にBの文献の序文では夢の中で関羽にこういう本を作れと命令されたと書かれている。そのあたり、いかがわしさがある。
 関羽文献というものはそういう方針から大きく二極分化していったのではないか。

(※清岡が思ったこと。グループIIの方針を聞いたとき、Wikipediaの三国志のところで出没する通称「ルーツ君」を連想し、笑い出すのを堪えていた)

 11時50分終了。

質問1
 Dの義で曹操を許すというところ(華容道のところ。曹操が「今日當踐三舎之言。」というところ)は『三国演義』の影響とのことだったが、雑劇なんかでこういったことを言うところがあったと思うが、主に『三国演義』の影響か、もっと通俗的なものの影響なのか。(※清岡注。長くて殆ど聞き取れなかった)
回答
 華容道の場面で春秋を出すところは『三国演義』の影響。大枠としては『三国演義』の影響。

質問2
 関羽の外貌の成立について、荊州の関羽について(※清岡注、報告に関係ない長い質問で清岡の頭に入らなかった)
回答
 元の時代では既に関羽の外貌の徴候があった(白黒ながら)。(一例として)赤い顔というのは忠義の色と言われている。また日焼けの赤で、農民の色、関羽が庶民にとって身近であることを表す意味という説も。関羽の容貌が劉淵の容貌に準じている話(大塚秀高先生の説)
 (※清岡注 この後、荊州の関羽について懇切丁寧な説明があるも、質問の段階で理解できなかったので清岡の頭に入らず。最後に、インターネット上のコラム参照とのこと。下記リンク先)

<参照リンク>(中国情報局のコラム)「名場面と人物で見る三国志」完結
http://cte.main.jp/newsch/article.php/594

※追記 メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)

 12時2分終了

 事務局長(渡邉義浩先生)からの予定変更のご案内。
 午前の部は「建安文学における香りについて」までで、そこから昼休みというスケジュールに変更。あと昨日と同じく冷たいお水を用意している旨、一階下の201号室に書店が来ている旨、この建物の地下に食堂がある旨、今から10分ほど休憩がある旨のアナウンスがあった。

 舞台の向かって右にご自由に取れる研究紀要が置いてある本棚があって休憩終了前にそれを持って帰ってくれというアナウンスがあって多くの人(おそらく一般の人がほとんど)が本棚に群がっていったんだけど、その群衆の中に福原先生が混じって物色していたのは妙にユーモラスな光景だった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684