※前記事
メモ:「両漢時代の商業と市」
旧年の11月頃、官吏の登用制度が気になっていて、下記関連記事のように「2009年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』14冊にあった、この記事で紹介する論文を読んでいた。
※関連記事
メモ:「東洋史研究会大会」出店状況
結局、下記の関連記事のようにそこから辿って読んだ同著者の論文で孝廉の一側面について知ることができた。
※関連記事
リンク:「胡広伝覚書」
登用制度全体は下記に示す論文であれこれ知ることができた。常科と制科の区別とか。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。
西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』Vol.54 No.4 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276
この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1200円で購入できるようだ。
・東洋史研究会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
まずはページ数付きで目次から示す。
583 はじめに
585 一 明經の語の出現とその意義
589 二 詔より見た明經科
594 三 明經科の諸相
594 (一) 「擧明經」の實態
597 (二) 平帝期と光武帝期の明經
599 (三) 成帝期の明經
600 四 明經科の成立とその性格
603 おわりに
604 注
「はじめに」では論文題名にもあり論文のテーマでもある「明經」が何かについて書かれており、それは個人が(經書・經學の)「經に明らか」なことで、またその知識を実際の政治に応用できる能力をも意味していたという。つまり明經は政治での儒学の重要度の高まりと共に、官僚を登用する際の基準になってくるとのこと。その明經科の起源は漢代であるが、その性格は定説がない。
「一」では明經が評価の語として出現した最初についての論となる。『漢書』卷八十九循吏傳に「(文翁)毎出行縣、益從學官諸生明經飭行者與倶、使傳教令、出入閨閤。」が最初(景帝末」)で、これに次ぐのが『漢書』卷六十六蔡義傳(武帝期)。しかし同時代の史料となる『史記』に明經が見出せないという。『史記』を注意してみると、卷百二十一儒林傳序に「明儒學」、同じ卷の董仲舒傳に「明於春秋」とあり、実質的に「明經」と同義だと言う。これらは先の『漢書』と同じく景帝期から武帝期にかけての記事だという。論点が変わり「明」以外に何かの学問に通暁しているのをどの語で表すか探っている。それには『後漢書』卷十四馬嚴傳にある子の馬續に関して「續字季則、七歳能通論語、十三明尚書、十六治詩、博觀群籍、善九章筭術。」とあり「通」「治」「善」がある。これらは『史記』卷四十七孔子世家の「通六藝者」、卷百二十一儒林傳の「治尚書者」と「明」より早い時期に使われ、この傾向は『漢書』でも同じだという。但し、これらは「經」と結びつかないのがほとんどで、「通經」は後漢中期以降みられるだけだとのこと。次に明經が武帝の即位前後に使われる理由が探られる。『漢書』卷七十五眭弘傳に「從嬴公受春秋。以明經為議郎」とあり、何らかの經書に通暁していれば明經と評価されるという。眭弘は明經の評価により官僚に採用され、また先の文翁では學官弟子になれば郡縣属吏に任用されるため、明經は出現当初より政治的色彩が濃いものであると記される。これらは博士弟子制度による儒學の官學化の推進に先立つ武帝の即位前後に生まれたと言う。
「二」に入ると、明經が察擧科目になる時期を詔から見出そうとしている。漢代の登用法は定期の常科と不定期の皇帝の詔による制科の二つがあり、それぞれいくつかの察擧科目があると記される。この例として孝廉科があげられ、察擧者が太守、被察擧者の初任官が郎官(比三百石)である。察擧の詔は常科であれば一度、制科は必要に応じて出されるという。明經察擧の詔が最初に確認されるのは『後漢書』紀三章帝紀元和二年五月條の詔の「令郡國上明經者、口十萬以上五人、不滿十萬三人。」、次に『後漢書』紀六質帝紀本初元年夏四月條に「令郡國舉明經、年五十以上・七十以下詣太學。」とあるので制科とされ、察擧者が郡国の守相となるという。被察擧者の初任官を類推するために『通典』卷十三選擧一の「桓帝建和初、詔:諸學生年十六以上、比郡國明經、試、次第上名。高第十五人・上第十六人為中郎、中第十七人為太子舍人、下第十七人為王家郎。」を示し、明經科の被察擧者はまず試験が課され、その結果により初任官が与えられ、また不合格者も出たたという。それを承け『後漢書』紀六順帝紀陽嘉秋七月條の「丙辰、以太學新成、試明經下第者補弟子、增甲・乙科員各十人。除郡國耆儒九十人補郎・舍人」を明經察擧の記事としている。ここで『後漢書』傳五十一左雄傳から六十歳を境に下を明經、上を耆儒と分けているとする。また明經科の性格としては、福井重雅氏が明らかにした至孝科や有道科と似ているとしている。
「三」「(一)」の冒頭では「擧明經」と記される者を九例、列挙してあり、成帝期(2名)、平帝期(3名)、光武帝期(3名)、章帝期(1名)となり、制科を示唆する。さらに察擧者、被察擧者の初任官について見て、その多くが詔から分析した明經科と性格が一致することを示す。例外として高い官秩の官に就いた者もいる。
「三」「(二)」ではまず平帝期(3名)の明經に着目している。中でも『後漢書』傳六十九儒林傳下の注で李賢が「前書(『漢書』)平帝元始五年、舉明經。」としており、それに対応した記事として、『漢書』卷十二平帝紀元始五年條の「徴天下通知逸經・古記・天文・暦算・鍾律・小學・史篇・方術・本草及以五經・論語・孝經・爾雅教授者、在所為駕一封軺傳、遣詣京師。」と『漢書』王莽傳上元始四年條の「徴天下通一藝教授十一人以上、及有逸禮・古書・毛詩・周官・爾雅・天文・圖讖・鍾律・月令・兵法・史篇文字、通知其意者、皆詣公車。」とし、両者を詔を通じた明經で年が違うが同一のものとしている。それに対し武帝期は間接的にも詔が見あたらず、その解釈に着目される。順帝期には大学の復興との関連、平帝期には經書における移設の統一との関連、章帝期には儒學振興の一環の可能性と政治的要求があることから、光武帝期も建武五年の太學の再興(『後漢書』紀一光武帝紀)と中元元年の明堂・靈臺・辟雍の建設(『後漢書』傳六十九上儒林傳序)に可能性を見出している。
「三」「(三)」では成帝期の二名の事例には詔がなく時期に開きがありその「舉明經」に別の意味、つまり評価の語であったと考えられている。また官僚への登用・昇進のさいに明經が理由であると、比較的高い官秩の官が用意されると指摘されている。また「擧」とあっても必ずしも察擧を意味しない場合が紹介されている。
「四」では明經の察擧科目がいつ成立したか論じられている。察擧科目の成立は例えば、『漢書』卷六武帝期の「元光元年冬十一月、初令郡國舉孝廉各一人。」が挙げられ、開始時に察擧科目名が明示されるのが普通だという。論文では平帝期に間接的に明經の察擧が行われ、光武帝期では間接的にも察擧の史料がなく、章帝の元和二年で「明經」の文字が見えるといい、史料の欠落したとし光武帝期に察擧科目になった可能性が最も高いという。また試験の結果で初任官が与えられ、その初任官の点で博士弟子制度の下で行われる常科の射策科とほぼ同様と指摘される。射策科は元帝期の博士弟子定員の急増で存在意義が薄れ、前漢末に機能が停止するが、一方、博士弟子制度の成功で地方社会には多くの明經者が存在したといい、明經科は射策科を補完する察擧科目としている。また明經はその初任官が比三百石の郎官かそれ以下であるため常科の孝廉科より一段低い察擧科目と指摘している。
「おわりに」。前漢の一經專修から後漢の數家兼修の背景で、いわゆる「章句の學」を止揚し、學問の統合化をはかる「博學」または「通儒の學」と呼ばれるものが重要性を増し、明經の評価を相対的に低くしていると指摘している。また、当時、察擧科目として常科の孝廉科、制科の賢良・方正科が定着していて、明經科は射策科と共に運命を共にしたという。
※次記事
メモ:「功次による昇進制度の形成」
※追記
正史『三国志』の世界(2010年7月3日)
※追記
『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)
※新規関連記事
立命館大学の世界史入試で後漢末関連2022(2月3日)
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