
※前記事
メモ:「前漢後期における中朝と尚書」
下記にある「第33回 秋の古本まつり」で購入した『東洋史研究』7冊のうち、1冊に「黄巾の乱」関連の論文があった。
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第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)
「黄巾の乱」についてある程度、知っていて、1975年と古い論文なので、気軽に読むつもりで掲載されている論文誌を購入していた。
その論文について下記のように、CiNii内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。※追記。読めるリポジトリのページを下記に追記。
福井 重雅「黄巾の亂と傳統の問題」(『東洋史研究』Vol.34 No.1 (197506) pp.24-57 東洋史研究会 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/40002659661
※リンク追記・Kyoto University Research Information Repository:黄巾の亂と傳統の問題」
https://doi.org/10.14989/153573
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三国志ニュース定期便 【論文紹介】黄巾って五行関係なくね?(YouTube2024年6月16日)
この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.34 No.1は下記の東洋史研究会のサイトのバックナンバーでリストアップされていないので、購入できるかどうか不明。
・東洋史研究会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
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福井 重雅 先生、死去(2020年3月13日)
論文の主旨は黄巾の乱は青州・徐州、つまり齊の國に由来があり、そこの伝統と密接な関係にあるというもの。
しかし、読み手としては一つのある疑問点が気になってどうも読むのに集中できなかった。それは「まず最初に」といった重語が連発されるといった些末なことではなく、この論文の書かれた頃は、曹全碑の黄巾の乱の記述は認知されていなかったのか、というもの。下記の関連記事にあるように曹全碑には「訞賊張角、起兵幽冀、兗豫荊楊、同時并動。」と黄巾の乱が起こった翌年の中平二年の段階でどの州に起こったか明記されており、論文の中心となる青徐州がすっぽり消えている記述であるため、このテーマでは考察に際し避けては通れないはず。
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道教の美術 TAOISM ART(2009年9月15日-10月25日)
下記の論文を見ると、曹全碑の「原石が発見されたのは萬暦年間(一五七三~一六二〇)」であり、曹全碑の拓本が日本へ伝わって久しいようだ。
・CiNii - 韓天壽『岡寺版集帖』の研究2 : 子集帖・曹全碑についての考察
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000470665
1975年では曹全碑は史料として認知されていなかったんだろうか。
それは棚上げしておいたままにして、ひとまずページ数付きで目次から示す。
24 はじめに
28 一 黄巾の亂と地域の關係
28 (一)冀州の黄巾と青徐二州の黄巾
33 (二)青州の黄巾とその意義
36 二 黄巾の亂と傳統の關係
36 (一)青州の範圍とその傳統
43 (二)黄巾の亂に見られる地方の傳統
52 おわりに
54 注
前述した疑問点があって、気軽に読んでしまったが、以下、その時の軽めのメモ。
「はじめに」で論文の主旨が述べられている。『後漢書』皇甫嵩傳を初め、『後漢書』楊賜傳、『後漢書』孝靈帝紀などの基本となる史料から時期や規模が書かれている。
「一」の「(一)」で、『後漢書』、『續漢書』や『三国志』に見える記述からまず張角中心に地域を見ていき(特に史書の書かれた時期が考慮されてはいない)、さらに中平元年末以降の黄巾賊の動きが引用列挙され、青徐州が活発であったと指摘する。『後漢書』孝明八王列傳の下邳王傳の 「中平元年、意遭黄巾、棄國走。」を根拠に、下邳がある徐州にも中平元年には黄巾賊が居たことを指摘する(というより勢力下にあった証明としている)。
「(二)」では袁紹、曹操と黄巾との関わり合いに触れられ、大反乱になった最大の要素は、張角の反乱ではなく、青州の黄巾だとしている。
「二」の「(一)」に入り、前節を受けて、元来、齊の國に属していた青州について触れられている。まずその地方の境界について先秦時代から触れられており、地図(P.38)に纏められている。途中から黄巾の特色として黄老思想と游侠組織の二つが挙げられている。黄巾賊の訛言の「蒼天已死、黄天當立、歳在甲子、天下大吉」は五行思想とは無関係で黄老思想から来ていると説明。続いて、齊で黄老的な信仰が盛んだった記録を陳侯因[次/月]敦と呼ばれる金文、『史記』卷五十三曹相國世家で示し、黄老の発祥の地としている(引用しない分では『史記』卷二十八封禪書、『漢書』卷二十五郊祀志も)。また、游侠についても、誕生の地としている。
「(二)」に入ると、『漢書』卷四十一劉盆子傳を中心に赤眉の乱と比較し、共通箇所として、齊の國が舞台であること、游侠無頼の徒を意味する「少年」が居たこと、軍中に巫が居たことが挙げられている。さらに遡った記述である示し、『史記』卷七十七項羽本紀の「陳嬰者、故東陽令史、居縣中、素信謹、稱為長者。東陽少年殺其令、相聚數千人、欲置長、無適用、乃請陳嬰。嬰謝不能、遂彊立嬰為長、縣中從者得二萬人。少年欲立嬰便為王、異軍蒼頭特起。」とその注に引く所の「集解應劭曰:「蒼頭特起、言與眾異也。蒼頭、謂士卒皁巾、若赤眉、青領、以相別也。」」から、特に後者は実際に黄巾賊に対峙した應劭により赤眉と青領の同一視の記述であるため、蒼頭、赤眉、黄巾は五行思想に無関係だと指摘している。これを補足する意味で、『後漢書』朱雋傳にある黄巾賊の後の賊の称号が黄色だけでなく多彩であることを指摘している。
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メモ:「両漢時代の商業と市」
※追記
東京大學東洋文化研究所漢籍善本全文影像資料庫
※追記
『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)
※追記
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立命館大学の入試で三国志関連2013
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宮城谷昌光『三国志』最終回(2013年6月10日)
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後漢から劉宋における「黄老」概念の展開(2013年11月9日)
※追記
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立命館大学の日本史世界史入試で三国志関連2019
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