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第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート1


  • 2009年12月 3日(木) 23:05 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,950
研究 ※前記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日)

 13:00、中村先生より開会の挨拶があり、総合司会は川合先生とのこと。

 川合先生から今日のスケジュールが告げられる。

 13:01、大原さんと満田先生が前の長机のところに着席され、まず満田先生から司会。配付資料はA3用紙8枚15ページの本紙とA3用紙4枚7ページの表中心の別紙とA3用紙1枚2ページの補足資料。大原さんの経歴の紹介。
 13:07、発表開始。

 修士の時に曹魏明帝期の中書に深く関わっていた。そのため、中書と尚書系官職との関わりについて疑問に思っていたところでの今回の報告となる。

○報告1 曹魏明帝政権の人的構造

●はじめに
※以下、冒頭に「●」とある場合はレジュメからの引用。

 先行研究。
 曹魏は漢の崩壊の中で出来上がる王朝。漢にどのように対処するか。まず曹操政権に関する議論、軍事面の分析[川勝 1954]、その反論[五井 1956]、さらにその辟召理解面での反論[好並 1957]、一方、後漢官僚と曹魏官僚と違いがなく、王朝の俸禄により成り立つ寄生官僚だという論(寄生官僚論)[矢野 1976]。曹魏政権を知るにはそのもの自体の流れを知るのが大事。
 それに関し重要な知見を述べているのが陳寅恪の論[陳 1956]、曹魏を曹氏(非儒教官僚)と司馬氏及び諸官僚(儒教官僚)の対立ととらえる論。これは継承される。(1)制度関係で曹魏王朝の諸側面の分析[越智 1974][神矢 1974]、(2)曹魏政権内の諸勢力の分析[万 1964][唐 1981][渡邉 2001]、ここで皆、指摘しており基本となるのが汝潁集団、譙沛集団という二大勢力の捉え方。その後、渡邉先生はこの二大勢力について分析された結果、そういうことは必ずしも言えず、全国的な広がり、超郷党的であると言えるとした。なおかつ、荀彧を中心とした人物たちが一番、勢力を占めていると指摘。(3)正始の政変(政権を握る曹爽に対する司馬懿がクーデターを起こす事件)についての分析[伊藤 1986][葭森 1986]、それにより、正始の政変が曹魏政権にとって大きな転換点だということが改めて確認された。それに至る文・明帝期の解明が重要になってくる。
 そうした問題関心により文・明帝期により注目が集まっている。(1)文帝期から明帝期にかけての政治史的解釈[佐藤 1993][渡邉 2003]、佐藤氏は皇帝と陳群・司馬懿中心の名族層との関係で、特に文帝期は協調路線が進展したが、疑獄事件によって溝が深まると述べている。渡邉氏の解釈は文帝が公の政治を進めていたのに対し、明帝は私の政治を掲げ、そこからいわゆる名士層と皇帝の溝が深まっていったと述べている。(2)明帝期一代の政治史の総体的研究[王 1999]、明帝個人の政策や境遇を論じている(※発表者は論文を読んだのではなくWWWの概要を読んだそうな)。(3)曹魏王朝を軍事制度の面から分析[森本 1996]、軍権を握ることを曹魏政権の基盤にしてきたのが、明帝期で都督を中心とした地方軍権を曹氏一族で担いきれなくなったことから、政権基盤を失い崩壊していくと述べている。論者と深く関わっている、(4)明帝期の主要官職任官者と明帝期の政権構造について、特に九品官人法との関わりについて論じている[李 2001]。(5)明帝の宮室修治の意義を考察[渡邉 2000][安田 2006][王 2007]、第一の論文ではどちらかというと肯定的に評価し、それ以外は明帝と儒教官僚との溝が深まり対立に至ったとした。一方、地方社会を含めた論として「名士」を巡る議論もなされている[渡邉 1991][堀 1996][安部 2002]。これら先行研究の流れの中で、大体、全ての研究に関連したものがあって、それが曹氏対司馬氏という二項対立的図式が存在するのかどうかというもの[津田 2007]。こうした先行研究の中で、文・明帝期がどういった性格の政権だったかというものを探るためには、より突っ込んだ人的構造の分析がなされる必要があるのではないか。(※この後、レジュメにある「(2)本稿のねらい」が読まれる)

●1. 明帝政権の主要構成員

 レジュメの別紙に表1として明帝期の主要官僚がまとめている(表1 明帝期の主要官僚)。本稿では明帝の中央政治に直接関わる官職を主要官僚とし分析対象とする(※レジュメで三公、九卿、侍中、大司馬、司隷校尉など具体名が挙げられている)。表2には本貫地に分類した表がある。(表2 明帝期主要官僚本貫地分類表)。表2から判るように超郷的な広がり、全国的な広がりにあると言って良いだろう[矢野 1976]。これを踏まえた上で、曹操の時代、文帝の時代の官僚の継承関係で分析する。時代の変化を見るために次の三種類に分類する。A 曹操時代に後漢あるいは魏国の主要官僚であった人物。特に魏国の主要官僚というのは文帝が禅譲後の政権の基盤を作った。B 文帝時代に主要官僚となった人物。C 明帝時代に主要官僚となった人物。(※レジュメにABCそれぞれに人物名が列挙されている。Aの桓楷は削除、Cの孫邕追加)。レジュメの別紙2枚目3枚目にABC各人物の官暦が表になっている。
 こうしてまとめると、(1)まず大きな流れとして世代交代がある。曹操・文帝時代以来の高官が世を去り、変わって新しく入ってきたのが主要官僚になり、徐々に世代交代が行われる。(2)入朝人事への明帝の関与。明帝の意図が反映される事例がある(※レジュメに挙げる人物に修正が必要とアナウンス)。まず別紙3枚目にある司馬孚の官暦。文帝の時代には清河太守であり、その後、明帝即位後、明帝が司馬懿にどんな人物か訊いて、度支尚書に任命した。次は鄭渾。文帝時代に様々な太守についていて、土地に水害があるとし、自ら堤を作ったという地方の治績があり、それを聞いた明帝が詔を発し布告し、
その後、鄭渾は将作大匠になる。明確に明帝が関与した史料ではないが、関与した事例ではないか。盧毓は文帝の時代に左遷されていたが、安平太守になって、治績を積み、侍中になった。特に何も書かれていないが、侍中に関して後で指摘する点がある。侍中から吏部尚書へ転任する際、明帝自ら(挙げた)。
 明帝期の政治が、官僚層との矛盾を深化させた[佐藤 1993]。その原因を宮室修治に見る[渡邉 2003][王永平 2007]。そうした先行研究を受け、明帝と官僚との間に矛盾が起こりうるか、明帝期の各年で各官僚にどのような変化があるのか、政治状況へどのように関わったか。

●2. 構成人員の年次の推移

 2年ごとに変化を見る。九卿は年次を追うのが困難であるため除外。尚書、侍中、散騎常侍については判明するもののみ記載。2年間で変化があった場合、表では変化後の状況を記載。任官時期不祥の場合は万斯同「魏将相大臣年表」の判断による。
 まず明帝が即位した、(1)黄初七年(226)から太和元年(227)まで。黄初七年十二月に大きな人事が行われる(『三国志』巻三明帝期黄初七年十二月条)。ここで注目すべき点は文帝が定めた輔政体制が変更されたこと(※レジュメにまとめられている)。特に注目すべきは司馬懿、陳羣等の加官だった侍中や給事中というのを全て失うということ。また、曹休、数年後には曹真、司馬懿 地方に出鎮する。尚書徐宣が左僕射になり、繆襲が散騎常侍になり、劉放・孫資が加散騎常侍になる。先ほどの分類で繆襲はCに当たり、徐宣と劉放・孫資はBに当たる。次に(2)太和二年(228)から太和三年(229)まで。Bの大司馬曹休、Aの司徒王朗と尚書衛覬が薨去する。大きな人事として散騎常侍に王粛が就き、清河太守司馬孚が度支尚書に帰ってくる。(レジュメにある)六人の中でBの蒋済以外はC。(3)太和四年(230)から太和五年(231)まで。ここでも亡くなる人物が出てきて、太傅鍾繇、太尉華歆はAに当たり、大司馬曹真はCに当たる。曹休、曹真が死んだことで曹魏の明帝政権にとって大きな転換点を迎えたことになると思われる。驃騎将軍司馬懿が大将軍になる。文帝期に尚書だった衛臻が右僕射加侍中典選挙になる。(4)太和六年(232)から青龍元年(233)まで。ここでは曹洪が亡くなっている。侍中だった辛毗が衛尉になっている。劉放・孫資は侍中を加えられる。(5)青龍二年(234)から青龍三年(235)まで。大将軍司馬懿が諸葛亮の死もあってか太尉になっている。大きなところでCの孫礼が尚書に入ってきて、Cの盧毓が侍中に入ってくる。(6)青龍四年(236)から景初元年(237)まで。B董昭、A陳羣、B徐宣、A陳矯が亡くなる。侍中盧毓が吏部尚書に移る。その侍中にC孫邕が入ってくる。(7)景初二年(238)から景初三年(239)まで。司徒韓曁が亡くなる。人事という点だけ見て、時点(7)の段階でAは該当者なしで、B,Cがレジュメに示されているとおりで、総じてAの人物が亡くなる一方で、明帝期に新たに起用した人物が中央政界の中心となっていく傾向にある。仮に明帝期が官僚との矛盾を含めた時期とするなら、その矛盾は明帝とB,Cとの間に認められなければならない。

●3. 明帝期の政権運営と諸政策

 (1)明帝期の政権運営。明帝は自ら政治に関わることに意欲的でそれは『三国志』巻二十二魏書陳矯伝に

明帝即位、進爵東郷侯、邑六百戸。車駕嘗卒至尚書門、矯跪問帝曰:「陛下欲何之?」帝曰:「欲案行文書耳。」矯曰:「此自臣職分、非陛下所宜臨也。若臣不稱其職、則請就黜退。陛下宜還。」帝慚、回車而反。

とあるが、陳矯を信用していないのではなく迅速な行政処理を望んだ結果[祝 1990]で、必然的に自らの政務を補佐する側近官が必要となる。明帝の置かれた立場はどのようなものか。東宮時代、朝臣との関わりが希薄ということが知られている。明帝の個人的な関係が考えられる人物にまず血縁関係が挙げられる。曹爽、何晏、毛氏・甄氏。また東宮時代の関係はレジュメに書いている。東宮時代から交遊関係が幅広かった文帝とはかなり違う状況を持っている。そのため、自身の交遊人間関係以外のところから人材を登用する必要があった。まず最も重要な点として中書の重要が挙げられる。有名な中書監劉放、中書令孫資だが、曹操の時代より仕え明帝により重んじられたが、具体的な活躍は明帝期になってから。そのことはおそらく明帝の政権運営の方針と関係する。明帝期の全体の方針を規画したのは孫資であると既に言われている[岡崎 1932]。中書監・令について具体的には『三国志』巻二十五魏書辛毗伝に

冗從僕射畢軌表言:「尚書僕射王思精勤舊吏、忠亮計略不如辛毗、毗宜代思。」帝以訪放・資、放・資對曰:「陛下用思者、誠欲取其效力、不貴虚名也。毗實亮宜、然性剛而專、聖慮所當深察也。」遂不用。

とあり、このように劉放・孫資は明帝の側にあって様々な政策に影響を及ぼしていたと思われる。劉放・孫資が最も活躍した事例に明帝の崩御の際の出来事がある。また中書全体も重視した事例として、浮華事件後の中書郎の人事(『三国志』巻二十二魏書盧毓伝の「時舉中書郎、詔曰:得其人與否、在盧生耳。選舉莫取有名、名如畫地作餅、不可啖也。」)があある。また著作局の中書への編入がある(『晋書』巻二十四職官志の「魏明帝太和中、詔置著作郎、於此始有其官、隸中書省。」)。通事の事例がある(『晋書』巻十九礼志上の「魏明帝景初元年、通事白曰」)。これらが傍証になる。明帝はその他、近侍の官も重視した。『三国志』巻十四魏書劉放伝注引『孫資別伝』に

帝詔資曰:「吾年稍長、又歴觀書傳中、皆歎息無所不念。圖萬年後計、莫過使親人廣據職勢、兵任又重。今射聲校尉缺、久欲得親人、誰可用者?」

とあるように明帝期は晩年になるにしたがい、五校尉の任官者は近親者が多くなる[佐藤 1993]。実際に中書以外の近侍の活躍がある。それを裏付けるものに女尚書の存在がある(『三国志』巻三魏書明帝紀青龍三年条注引『魏略』の「帝常游宴在内、乃選女子知書可付信者六人、以為女尚書、使典省外奏事、處當畫可、自貴人以下至尚保、及給掖庭灑掃、習伎歌者、各有千數。」)。こうしたことで以下のことが言える。明帝期に宮城の後の園林で裁判が行われる[渡辺 2000][辻 2005]。青龍三年に創建される太極宮型宮城構造及び東西二堂型式[渡辺 1996][吉田 1997]、新たな宮城の構造が生み出され、特に百官公卿が議論される場と皇帝の空間が分けられた。それにより尚書系統と側近の官との空間が分けられた。構造が生み出されたから政治が変わったと考えるより、側近を重視しているという状況があって、(かなり憶測だが)それに即し宮城構造が成り立つと考えられる。また明帝期の尚書について。曹魏では、外朝機関化した尚書を抑えるとともに、政務の効率をあげるために、尚書に侍中を加官した[趙 2001]。明帝期に侍中を加官された尚書にどういう人物がいたか。尚書令陳矯は青龍年間に侍中光禄大夫を加官される。左僕射徐宣が太和年間に侍中光禄大夫を加えられる。右僕射衛臻が侍中典選挙後加光禄大夫に加えられる。前述したように黄初七年十二月に陳羣等の加官だった侍中や給事中というのを全て失うのに対し、徐宣・衛臻が加官されているのは重視して良いのではないか。これらのことは先行研究で述べられている[李 2001]。その明帝が重視した事例として『三国志』巻二十二魏書徐宣伝に「車駕幸許昌、總統留事。帝還、主者奏呈文書。詔曰:「吾省與僕射何異?」」がある。次に明帝期の重要な諸政策に官僚がどのように関わってきたか(※レジュメにそれらが表としてまとめられている)。その関係者にはCの人物が多い。つまりCの人物は明帝期に重要な政策の推進者となっている。従って明帝とCの人物との矛盾が深まったとは考えにくい。また、青龍年間以降に行われていることが多い。

●4. 宮室修治諫言の検討

 これを取り上げる理由は、官僚との矛盾を深刻化させた[王永平 2007][渡邉 2003]とされているため。宮室修治は文帝以来の既定方針、文・明帝間に史料の偏向性がある[安田 2006]。そもそも宮殿の造営自体に反対ではなく、時期尚早とするものが多い[福原 2000]。こうした中で、明帝の失政の理由に挙げられるのが宮室修治であり、本当にそれがきっかけで明帝と官僚とが溝を深めたのか(※レジュメに「明帝期宮室修治諫言者一覧」が表としてまとめられている)。Cの人物で諫言したものも多くいる。諫言された時期について、明帝の時期全般にありばらつきがある(※レジュメに時期毎に人物が列挙されている)。必ずしも青龍三年以降の宮室修治だけに批判が向けられておらず分散的。諫言の内容について、発言が載録されていない人物は実状が不明。発言の内容が宮室修治への直接的な批判でないものに盧毓の事例がある(高堂隆の発言を受け入れるよう進言)。発言内容が別紙表4にあり、それがレジュメに分類される。1.経済的理由、2.軍事的理由、3.礼制的理由、4.その他。実際は複合的な内容を含んでいる。細かく見ると理由が微妙に異なる。例えば、蒋済は軍事的に呉と蜀を攻めるための戦略として間違っているとし、一方、楊偉は生民の墓の上の松柏を斬り、碑獣や石柱を壊すことを良くないこととして、高堂隆にしても宮室修治そのものについて批判している。諫官について。諫官在任者(侍中、散騎常侍、給事中、散騎侍郎)が含まれていることに注目する。諫官は皇帝の統治を守るためで皇帝権力を制限するものではない[陸 2005](※諫言者中の諫官在任者がレジュメに書かれている)。この他、光禄勲高堂隆、和洽も顧問応対の職務をしていた可能性がある[上田 1970]。したがって宮室修治への諫言が必ずしも明帝と官僚たちとの溝を深めたとは考えられない。

●おわりに

(※今までの四項目がレジュメに文章として要約されており、それが読み上げられた)

 14:12終了。


 続けて司会の満田先生から発表の要約に引き続き、いくつか意見が述べられ、発表者に意見を求める。
・主要官僚の定義について。挙げられた官職は目安になるが、検討の余地あり。
・官僚たちによる政治が実際どのように動いたのか、検討の必要あり。
・明帝と主要官僚との矛盾の有無の精査について。文帝期に主要官僚になった司馬懿等を含め問題設定がどの程度有効か考慮の余地あり。
・関係者とされている人物が政策をどの程度推進していたかの見解。
・諸政策の括り方、人物の政策の関わり方、先行研究を含め検討の余地あり。
・いわゆる宮室修治について、反対者の理由に、時期による理由の違い、理由の前後関係があるのかどうか。反対者の多さに意味があるという見方もあると思うが、発表者のような言動をするのであれば、先行研究をより踏まえ、詳しく調べる必要がある。
・今後のことについて。明帝期の諸政策ならば、蜀漢の北伐の時期と大半が重なるので、対外政策や軍事について総合的に考慮する必要がある。司馬懿が明帝の側近ではなくなったというのも踏まえて。
・この発表の内容を踏まえ、(先行研究の整理で紹介されていた)正始の政変への見解。
・それと関連して、(『晋書』の史料批判も含め)司馬懿の政治的位置についての見解。

 発表者からの回答。
・主要官僚の定義について。先行研究での伊藤氏、渡邉氏、李氏の論文の分析方法、後に付けられている表で拾われている官職を目安にしている。今回対象としたのが、さらに明帝とそれに関わる中央政治を重視している。それらを踏まえ、宮室修治の諫言の中で、董尋は上書(『三国志』巻三魏書明帝紀注引『魏略』)で「三公九卿侍中尚書」とひとまとめで発言しており、それが一般的に中央官僚という象徴的なもので、それをまず取り上げる。それ以外の散騎常侍、中書等をなぜ取り入れるかの点。曹魏の尚書は、後漢の流れで曹操の時代に大きな変化を見せる。それまで尚書が三公の力を奪っていったというより曹魏の文帝明帝が自ら政治を行おうとしたことによって行政の効率化を目指した結果、尚書が行政の力を持っていったという指摘がある。尚書と中書の二省が政策決定の中枢に居たと言われる。散騎常侍、散騎侍郎、侍中、黄門侍郎の官職は尚書奏事を曝すること、詔に対して曝することを職掌としている。郎官はそこから変遷を経て高官に上っていくため除外し、その中で侍中と散騎常侍を選んだ。そこに給事中を加えた理由は、郎官とも立場が違ってそれより位が上で、侍中と散騎常侍とも違う。文帝明帝期に博士加給事中というような人物が居て、主要な三職とは別に中心的役割を為していた状況を踏まえている。武官系の官職については、特に大司馬、大将軍といった中央の軍事権に関わりの持つ人物の官職をまず挙げた。中護軍、護軍将軍、領軍将軍といったのが近衛の官を司っていることから来ている。司隷校尉と河南尹は宮室修治に関わっているため。
・司馬懿等が明帝没後にも活躍する理由や司馬懿の政治的位置について。基本的に司馬氏が禅譲に関わっている切欠がどこにあるか考えていった中で、こういった明帝の宮室修治等が施政にあって天下の望を失っていったのが考えやすいが、実際の政治状況を考えあわせると、司馬懿について景初年間に行われた議論に賛成したのが、宮室修治が行われた後であることを踏まえると、再考面があるのではないかと思う。蒋済について、特に蒋済と高堂隆との曹氏に関する議論で、蒋済が批判することで魏の正統性を認めていないという指摘があるが、発表者の疑問として蒋済が曹魏が封禅を行うべきだと言っていることというのは正統性を認めていることではないか。蒋済の立場からすると再考の必要がある。
・政策に関して。今回の報告の中では諸政策という大きな枠組みで括ってしまったので、そこは実際と併せて今後、考えて行きたい。
・宮室修治の分析について。発言そのものがどこまで個人の意志を反映しているかがかなり問題で、極端に言えば陳寿の史料操作であると考えれば個人の意志が反映されているか疑わしい。従って妥当であるかも改めて考え直す必要がある。宮室修治について、今回、触れなかったが以前考えたことに、諫言が文帝期に少なくて明帝期に多い原因だと思ったのが、文帝が何度も親征を行っており、明帝は前半、親征を行ったが青龍三年以降、公孫淵討伐以外はほとんど戦闘がない状態で、曹魏政権の正統性を考えた場合、統一に向けての動きが正統性を強める一面になると考えると、初年度に宮室修治を行ったことに批判が集まっていると思う。今後、これを含め検討したい。
・正始の政変について。一つの展望として、曹爽の時代は稟議的な面が急激にかなり変えられる状況を考えると、一般的な考えで当然生じる不満が対立項となっていったと考える。重要な点は司馬懿に繋がる勢力ではなく、単純に、曹爽への不満が結集したことだけではないかと考えている。司馬懿について。その後、曹魏の末期に毌丘儉と文欽による叛乱があって、その毌丘儉と文欽の上奏文に、司馬懿が明帝の補佐であってそれを継承したとあるが、正始の政変が起こったことに対し司馬氏、特に司馬懿を非難していない。したがって、魏晋禅譲への具体的な切欠は、正始の政変を含めより時代的に後に求めていってもよいのではないかと思う。

 14:35。質疑応答。
 川本先生より。明帝期の意志決定のプロセスとそれに関わった人たちから時代的特徴を明らかにしようという発表だと聞いていた。名士層との対立に関し司馬氏を取り上げることについて、おそらく浮華事件で明帝から排除された人たちが対峙している。そのため、最初、曹爽と司馬懿自身は対峙しておらず途中からなので、この発想もある程度理解できる。しかし、質問したいことが二点ある。
Q1 一つは先ほどどうして役職を取り上げたかがあったが、考えなければいけないことに高いからといって実権持っているという訳ではなく棚上げにして権力を奪おうというのが曹魏時代の後半によくあることだ。実際の意志決定に重要なポストはどういう人たちなのか。そういう観点を入れて分析しないと、ただ地位が高いからというだけで分析できるのかなという気がした。そういう形だと中書監令という役職は重要だと思った。そういうところとの関係をどう理解すれば良いか。
Q2 意志決定の仕方について。明帝期はおそらく皇帝も臣下も意見を言う、『三国志』を読んでそういうイメージがある。そうするならば、曹操の時代の政策意志決定のプロセスの仕方、あるいはその後、例えば西晋の初め、司馬昭や司馬炎の時代の意志決定の仕方、そういうものと比べればこの時代の特徴があるのか、そう考えればもう少し見えるのではないか。前後の時代と比べればどういった特徴があるのか。

A1 象徴的なのが九卿や三公もそういう状況になってきている。実際の状況との関わりで言うと、特に明帝期に関しては皇帝との距離が近い官、明帝と関係する官というのを幅広く見ていかなければいけないと思っている。西晋まで繋がるかわからないが、例えば指南車を作った馬鈞は官職的に低いものの、政策の部分で近いんで、指摘のまま繰り返してしまうが実状と合わせて主要官僚を決めていきたい。
A2 前後の時代との関係で、今、言えることは明帝自身が人間関係を持たなかったということが、政権運営していくに当たって回りとの協力関係で行ってきたと強調されているような気がする。相対的に見たとき曹操の時に比べフラットになるというのは仰るとおり。

 渡邉先生より。三点ほど。
Q1 レジュメ3ページ目について。皇帝が関わらない中央官僚人事は果たしてあるのか。皇帝側が関わる中央官僚人事は当然のことで、明帝自ら選んだ人物とに矛盾が起こりうるかという疑問そのものが成り立たない。

A1 実際、前後の時代の比較をしないといけないと思っていて、文帝の時期とその後の時期との中で明帝期の人事が微妙な違いがあるのかどうかを探っていかなければと思っている。

Q2 レジュメ9ページ目の「∴明帝期において、明帝とCの人物との矛盾が深まったとは考えにくい」について。逆にどういう状況が起これば矛盾が生じるか。

A2 (実際、今、頭の中に用意されているわけではないが)具体的には極端な話、反乱を起こす等。矛盾が深まったとすれば、明帝時代にはないが、文帝時代だと殺戮してしまう等、実際、事態が深刻化すればそこまで発展するだろう。

Q3 それだと矛盾した官僚は生きていけなくなり、政策運営に関われなくなってしまうが、レジュメで先行研究と比べて目新しいのは「4. 宮室修治諫言の検討」(※10ページ)というところだと思うが、諫言をしているというのは矛盾とは考えていないのか。

A3 諫官が居るということは可能性が強いのではないかという点。ここで指摘したいのは必ずしも同じ立場で反論している訳ではなく、それが明帝にとって隊列を見出すのではなく、それぞれがそれぞれの問題意識をもって批判をしていると考えている。

福原先生より
Q1 レジュメ12ページの「おわりに」のところに「内容についても官僚によって微妙に諫言理由がことなっているなど、官僚間に共通性が見られない」とあるが、ある意味では、共通性があると思う。(当時の)官僚と言うのは今の日本で言うと官僚的な側面と代議士的な側面があると思う。宮室修治に反対するということは国会議員的なタイプだと思う。要点でも「民のため」と出て、いわゆる輿論に基づいているという感じがする。(例えば)今、「消費税値上げするか反対するか」どちらも大事だと思うが、当然、代議士タイプは反対する。当時の官僚はどちらの側面があり、共通性はあると思う。

A1 諫めている人物の中で、ほとんどが呉と蜀を意識しており、また民の農地を奪うなというのがほとんどで、確かに共通性がある。今回、違う点を積極的に取り上げた。それと関連し、(福原先生は)肉刑復活の議論と宮室修治の議論を対比させているが、肉刑復活が詔により議論されているのに対し、宮室修治は史料上、議にかけられず行われた点に対し諫言がなされている。その点、何故そうなのか明確に解らないが、それと関連し考えられるのが、明帝を取り巻く一定の官僚層が推し進めていたことがあって、議にかける場合に実行されてしまう、あるいはできる体制にあったと思われる。

 14:52終了。拍手。10分の休憩とのこと。


 回りを見渡すと、挨拶の後、論文の抜き刷りを名刺代わりに手渡す習慣がやはり会場のいろんな所で見られていた。
 清岡はタイミングを見計らいつつ、満田先生の所へ挨拶に上がると、その六日前に「三国志学会 公開講演会」でご発表のあったレジュメを配られていた。清岡もそれを頂けることになる。

※関連記事 三国志学会 公開講演会(2009年9月6日)

※追記 『大三国志展』帰国匯報展

 その後、自席に戻り、しばらく三口宗さんと話したり、知り合いのSuさんに挨拶しにいったりしていた。

※次記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート2

※追記 三国軍制と長沙呉簡(2012年11月9日)

※追記 中央大学 博士学位(甲)請求論文(大原信正氏)最終試験(2014年5月7日)

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