・「長沙呉簡の世界」ノート6からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/646
○パネルディスカッション(15:45~16:45) コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校)
休憩が終わり16時7分、パネルディスカッションが始まるとアナウンスが出る。
始めに韓国から特別に来ていただいた朴漢済先生からのコメントがあるとのこと。経歴の紹介があったあと、外国語でコメントがある。日本語で追って読まれるのではなく、予稿集に日本語訳があるので省略される。
※『長沙呉簡研究報告』第3集にも載っている
パネルディスカッションに移る。
※中国の先生からの回答は、中国語の回答→日本語訳といった流れ
阿部先生への質問。1.耕作者の身分は具体的にどのように記されているか。2.身分的集計がされているのか。
回答。1.、圧倒的に多いのは「男子」、その他「大女」。続いて「州吏」「郡吏」「軍吏」、あるいは「州卒」。その他、特定の丘里に見られる身分もあるため、今、すべての身分を掲げることはできない。2.今のところ身分ごとに有義のあることは見いだせない。一つ言えることは「州吏」に関してかかってくる税率が他の身分より低い。旱田の率が極めて低い。全体的に低い。
宋少華先生への質問。1.長沙市の簡牘博物館について長沙呉簡を訪問者が実際に手にとって見ることができるのか。
回答。1.呉簡自体はまだ地下の貯蔵庫にある。そのため初めて来る人は先生にお願いして地下の貯蔵庫から出して貰うという形で見ることができる。まだ取り壊し状態のところが二棟残っており、それが取り壊されると完全に開放される予定。去年の12月には400枚ほどの簡牘を見ていただいた。
王素先生と羅新先生への質問。1.竹簡は一部しか公開されていないが、整理釈読に当たっている先生方は公開済みの竹簡と異なる性質のものをみかけたか。あればそれはどの程度か。
王素先生からの回答。1.現在まで長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡〔壹〕』(上、中、下)(文物出版社、2003)が出ているが、今年の年末か来年の初頭には竹簡〔弐〕が出る(※現在では既刊。長沙簡牘博物館・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組(編)『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[弐]』(全3冊),文物出版社,2007年1月,7-5010-1726-3.。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。竹簡〔弐〕の中にはわずかであるが形式や内容の異なるものが含まれている。竹簡〔参〕以降になるとそういった異なるものが増えてくる。後になればなるほど内容は豊富で重要なものとなる(ここで場内笑)
東海大の渡部武先生からの質問。1.「常限田」「火種田」について興味がある。それを漢代の史料に出てくる「火耕水耨」と結びつける流れがあるが、四川の西南地方を調査したときに水がかりの良い土地とそうでない周辺の土地がいっぱいある。そういうことを連想し、長沙にもそういった対比があったのではないか、水がかりの良いところは水平で、そうではない所は通常の方式をとらない、そういったことを調査から思い浮かべたが、そういうことを言っている研究者はほとんど居なかった。農学を研究している方面から走馬楼呉簡についての二つの種類の耕地(※「常限田」「火種田」のこと?)への所見はあるのか。
日本側からの回答。1.結論からいうとわからない。一点言うと「常限田」「火種田」とは対比したり二種類として良いものか、というのは問題になっていることの一つだ。今のところ基本的には「常限田」と対比される概念は「餘力田」である。「餘力田」=「火種田」なのか、それとも「餘力田」と「火種田」とは別のカテゴリーなのかというのはまだ想像の範囲だ。そういう段階だから「火種田」をどういう風に理解するかは答えにくい。「餘力」とは何なのかが絡んでくる。
中国側からの回答。1.「火種田」は二つの見方がある。一つは「火耕水耨」。もう一つは阿部先生の指摘通り山地の焼き畑農法。後者は水田ではない。両方のやり方が存在していて、長沙呉簡では収穫してからなので「米」という字を書いていて(※この直後、聞き取れず)、「火種田」は水田と思われる。
宋少華先生からの回答。1.現在の話。水利条件の良いところでは水稲を設け、あとは野菜、トウモロコシなどをつくっている。水利条件の悪い山地的なところではアワ、豆、麻、麦などを現在はつくっている。
伊藤先生からの回答。1.目録を作っているが、今のところ、農学者による論文を見ていない。
質問。1.文献に見えるような豪族の変化の方向性は呉簡で見えるのか(※ここでは清岡はかなり略して書いている)。2.あるいは後漢の研究で碑陰の中に出てくる郷里の門生故吏(で見られるように)同じ姓の人たちが地方で里を占めていくというがあり、呉簡でそういうことが見えてくるのか。3.従来の後漢社会の変化というものと呉簡研究との関係はどうか
回答。2.竹簡〔壹〕でのデータベースを検索していく中で一つの里の中で同じ姓はあまり見られない。今のところ大きな力を持った姓は見られない。
新潟大学の書道史の鶴田先生(今回のシンポジウムの表題なりパネルなりの文字を書いた先生)からのコメント。1.三月に明治大学で研究会があって後漢の史料がかなりあるという話。議論があまり進んでいない状況。みんな盛んにアタックし始めている。鶴田先生は十一月の学会で草書について発表する予定(※現在では発表済。鶴田一雄氏「長沙市東牌楼出土簡牘にみる草書の変遷に関する一考察」。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。
王素先生への質問。1.長沙呉簡に書かれる時期の長沙は蜀に対する呉の最前線(軍事的に厳しい状況)だったが、(「邸閣」は日本では軍事施設という理解が強い、あるいは明らかな軍事的な機関の名も見られるが、)その時期の長沙は呉の一地方とみなすのか、それとも前線とみなすのか。
王素先生からの回答。1.まず呉簡は大きく分けて経済方面の史料が多くある。経済方面の史料として戸籍と、税を納める史料が非常に多い。但し軍事関係の史料が全くないというわけではない。こういう方面は羅新先生が知っているので(羅新先生にコメントを求める)。
羅新先生からの回答。1.そういう史料があれば非常に面白い研究になると思うが、現在、(研究するほどには史料が整理されていない)。
關尾先生から朴先生へのお願い。1.朴先生は韓国の呉簡研究について厳しい評価をした。大分前に關尾先生が韓国に行き韓国の若い先生と話をした。その時に日本の学会では社会経済史の研究は停滞気味だが韓国の学会では若い先生方が社会経済史に対し大きな関心を持っていると感じた。長沙呉簡は今日の報告にもあったように社会経済史に関する非常に豊かな宝庫だと思っている。そのため、是非、韓国でも若い研究者の方々を中心に長沙呉簡に関する研究が活発になるよう祈っているし、朴先生にはリーダーとしての立場としてそういった研究を盛り上げてくれるようお願いしたい。
朴先生からのコメント。1.呉簡に関して今、韓国では盛んに研究が行われてないが、○○(※聞き逃し)史に関して若い先生方で新しい研究がされている。社会経済史に関しては若い研究者の間で一所懸命やっている。4,5年前にこちらの方に来たとき、呉簡とあまり関係ない研究をやっていて、今回、この研究会に参加し、多くのものを得て、いろんなものを考えるようになって、これから韓国に帰ったら、若い人たちと一緒に研究をやってみたいと考えてる。そのためいろんな史料をいただけるとありがたい。韓国でこのような研究会があるとすれば、今度はコメンテーターとしてではなく発表者として参加したい。もし韓国でなければ、私がやりたい(主催?)と思う。
パネルディスカッション終了のアナウンスで終了。17時2分。
○閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学)
伊藤先生が日本語でおっしゃった後、中国語で追随する形。今回のシンポジウムで一つ一つ誰がどんな発表したかをいう形。今回の報告内容は『長沙呉簡研究報告』第3集に収録される予定なので、刊行されれば購入してくれるようお願いがあった(場内笑)
○この後
開場は片づけと共に先生方で集合写真を撮っていた。
それを尻目に我々は会場を後にしファミリーレストランで一休み。
※追記 ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日)
・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/642
※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。
※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか?
<7月20日5時半追記>
何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。
三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。
まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/264
↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような…
<7月28日13:20追記>
確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。
※追記 リンク:学生の動向
※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日)
<追記終了>
○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」
15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。
それで日本語の要約。
報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。
前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。
呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。
宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。
また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。
孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。
羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。
王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。
王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。
ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。
後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。
非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。
呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。
呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。
※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。
15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。
16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。
○休憩(15:25~15:45)
この間、幸さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪
あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑)
・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/648
※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)