※関連記事
魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会(2014年12月6日)
上記関連記事で紹介したように、2014年12月6日土曜日10時より大阪府松原市 阪南大学本キャンパス50周年記念館3階会議室にて国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」が開催された。その日、清岡は午前中に別の用事があって、その後、できるだけ早く会場に赴き、何とか昼休み前に会場入りできた。
・魏晋南北朝史研究会
http://6ch.blog.shinobi.jp/
・国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(12月6日)のご案内
http://6ch.blog.shinobi.jp/開催案内/国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(1
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メモ:三国志学会 第十六回大会 報告(2021年9月5日)
その部屋に入る前の廊下にて資料としてA4の冊子とA4のプリント(佐川先生報告分)が配られてあって、それを受け取り、部屋に入ると、ラウンドテーブルみたく、机を輪の形に並べてあって…それは比喩表現で実際には四角く並べてあって、ほぼ満席でどこか空いてないかと見回すと、四角の形の角に当たる部分、机ではない箇所が空いてあって、そのうちの一つの席に座る。ちなみに対角線上にある角の席は、清岡より遅れていらっしゃった福原啓郎先生が座られていた。
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三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)
前述のブログ記事から下記へプログラムを引用するのだけど、昼休みに開始当初からいらっしゃった
教団さんの話によると、中村先生と陳先生は日本語でのご報告で、王先生と(清岡が少しだけ聞けた)周先生は中国語でのご報告だったそうな。
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
プログラム(予定)
≪午前の部≫
10時 開会の辞・趣旨説明 中村圭爾(相愛大学)
「魏晋南北朝時期「都城圏」社会研究の意図」
10時20分 講演1 王小蒙(陝西省考古研究院副院長)
「秦~唐以長安為中心的都城建材」
11時 報告1 陳力(阪南大学)
「従漢長安城到茂陵邑」
11時40分 講演2 周科華(四川省文物考古研究院副院長)
「魏晋南北朝時期的四川墓葬考古」
12時20分~1時20分 休憩
≪午後の部≫
1時20分 講演3 劉濤(中国社会科学院考古研究所)
「漢魏洛陽城近年来的考古収獲」
2時 報告2 佐川英治(東京大学)
「後漢~北魏における洛陽の人口集中と都市空間」
2時40分 報告3 小尾孝夫(大手前大学)
「建康の性格と都城圏の形成」
3時20分 講演4 張学鋒(南京大学)
「六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心」
4時~4時20分 休憩
4時20分 総合討論(司会 永田拓治(阪南大学))
批評1 塩沢裕仁(法政大学)
批評2 未定
6時 閉会
終了後、情報交換会を予定していますので、奮ってご参加下さい。
主催:平成26年度科学研究費補助金基盤研究(B)「魏晋南北朝時期主要都城の「都城圏」社会に関する地域史的研究」プロジェクト(研究代表者中村圭爾)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
それらに冊子のそれぞれの予稿の使用言語が対応していたので、てっきり午後もそうだと思い込んでいたら、張学鋒「六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心」 では予稿は中文だが、口頭のご報告は日本語だった。
何より「六朝~」というタイトルの割には三国呉が大きく取り上げられており、「三国志ニュース」で記事にしても違和感がなさそうなので、以下、そのときの軽いノートだ。
昼休み直後にアナウンスがあったように、報告の間に休憩はなく、続けざま三報があった、三報目にこの張先生のが来ていた。
・当初、日本語でご報告するとおっしゃりつつ小尾先生のご報告をきき自信がなくなったという軽いユーモアを口にされていて、結局、終始、日本語のご報告だった。
・予稿に沿った内容ながら、掻い摘んだ報告だった。
・スライドは地図のみで、それは予稿にも載っている。
・考古学の立場で郊外の話をしようとした。
・それほど先行研究はない。
・都城圏の概要ははっきりしない。いくらでも東西南北に膨れる。
・予稿に張先生の見解が述べられている。都城圏は単なる地理的概念ではなく、政治・軍事・経済の諸分野で、その都城を日常的に支える最も狭い地域というものとされていた。(同内容を言い換えて)全国が都城の管轄下にあったが一つの都市として正常的運営を支える範囲。
・予稿に史料がとりあげられているが、口頭ではそれに触れず概要のみ。後漢以来、呉にかけて、南京周辺は地方の豪族の南下があって、出土史料によると、今の南京市の南部から東部、北の長江のほとりまで、建康の「東部弧形地帯」と命名する。
・この地帯で南京の地方の豪族は、紀氏、陶氏、甘氏、繆氏、朱氏、大体、五、六の豪族の史料はまとめられている。土地の開発も進んでいたと思われる。
・宮城をつくった今の南京市内に、後漢の建安年間の再末期の多くの墓が集中している。
・宮城をつくったのはまったく軍事目的だろう。
・遷都から一気に人口が増えやはり軍糧が大きな問題となった。そのため屯田が行われた。
・孫氏は浙江省の富陽の人(当時の呉郡富春県)で、建業にいくまえに会稽と呉郡を政治の中心としていた。もちろん目は東の方に向けている。
・破崗瀆についての対策と方向。細かいものなので紹介を省きたい。
・破崗瀆という名の運河
・『三国志』巻四十七呉書呉主伝赤烏八年(241)条
八月、大赦。遣校尉陳勳將屯田及作士三萬人鑿句容中道、自小其至雲陽西城、通會市、作邸閣。
・『建康実録』巻二太祖下赤烏八年条
八月、大赦使校尉陳勲作屯田、發屯兵三萬鑿句容中道、至雲陽西城、以通呉・會舡艦號、破崗瀆、上下一十四埭、通會市、作邸閣。仍於方山南截淮立埭、號曰方山埭、今在縣東南七十里。
案、其瀆在句容東南二十五里、上七埭入延陵界、下七埭入江寧界。初、東郡舡不得行京行江也、晉・宋・齊・因之、梁太子嗣、改為破墩瀆、遂廢之。而開上容瀆。在句容縣東南五里、項上分流、一源東南三十里十六埭、入延陵界;一源西南流二十五里五埭、注句容界。上容瀆西流入江寧秦淮。後至陳髙祖即位。又堹上容而更修破崗。至隋平陳、乃詔並廢此瀆。
・上記の『建康実録』の記述について解説。「會市」の解釈がキー。また「邸閣」についても。
・予稿には各記述について項目立ててあって、p.97の終わりに「1.校尉陳勲」、p.98に「2.句容中道」「3.小其・至雲陽西城」、p.99「4.上下一十四埭」「5.狭義的破崗瀆和広義的破崗瀆」、p.100「6.破崗瀆的東延線」とある。
・屯兵を遣って運河を造った。山を越える運河だから河を横切った関所をつくった。
・「5.狭義的破崗瀆和広義的破崗瀆」。史料から二つの意味での「破崗瀆」が読み取れる。
・方山から秦淮河の支流を利用しながら、湖の水を借りながら、雲陽の西に到達した。
・どうして東に直線に運河をつくらなかったか?→理由はいろいろあるが、その一つに北回りにして孫堅の高陵があるから。
・「三呉」は呉郡、呉興郡、会稽郡のこと。
・「東郡」という表現。呉郡、呉興郡、会稽郡が一体化。
・破崗瀆がなければ東の食糧がなければ建康という都にならない。三呉は建康の運営にとって欠かせない存在だ(詳細は予稿のpp.102-103)。
・方山の西の地帯、東部弧形地帯を「近東」といった。破崗瀆を通して東に行った東郡の地域を「中東」といった。
・それらに対して「遠東」はあるか、それは予稿のpp.106-108「余論:建康都城圏的“遠東”」に論じられる。
・ここで「通會市、作邸閣。」について。後者の「邸閣」は市場に設置した物流施設と解釈されている。伊藤先生によると軍事的性格も帯びている。軍を駐屯させたことも十分考えられる。
※関連記事
「長沙呉簡の世界」ノート7
・前者の「會市」は、従来の解釈は「會」は「通」と同じ意味。つまり「通會市」は「交通貿易」の意味
・これについて北京大学の王鏗先生と話すと「会稽の市」ではないかという意見で一致した。つまり総じて「会稽の市場に通じる」の意味。
・海外のも会稽の市場に来る。外越の人。蒙文通『越史叢考』(人民出版社、1983年、pp.102-108)によると、「外越」は「海外の越人」
・六朝の時代、海外、例えば亶洲の位置は韓国の済州島。もう一つの夷洲は従来は台湾島だと説明されていたが、ここ数年(音韻学の立場から?)考えるに九州の倭だと思う。
→近東、中東、遠東のまとめ
講演終了。会場拍手。
講演とは無関係の話として、また個人が特定されないように書けば、三つの講演中、なぜかいびきが聞こえてきていた。もちろん清岡自身やそこから最遠に座る福原先生の近くに座っていらっしゃった教団さんが音源ではない。
お次は中国語の通訳の入る総合討論。基本は三国と無関係なことが多いので、先の他の二つの講演同様割愛するのだけど、その中でも印象に残ったのは塩沢裕仁先生の話として、海外からでも見られる今の中国の正確な地図の見方で、中央研究院のサイトにアクセスし「研究所・中心」→「近代史研究所」→「檔案館」で辿って見られる二万五千分の一の地図が非常に正確だそうな。無い部分もあるが、自分の研究で関係する地図が有れば大ヒットとのこと。
・中央研究院
http://www.sinica.edu.tw/
また塩沢先生が破崗瀆を「パナマ式運河構造」と断言されていたのが印象に残った。
17時45分に研究集会が閉会となり、続いて天王寺で情報交換会が予定されているとのことだったんだけど、清岡は手元のお金が少なかったので、参加表明せずにいた。そして教団さんも不参加とのことだったので、最寄り駅の河内天美駅近くマクドナルドに一服することにした。
それぞれ安い食べ物を買って、こちらからは下記関連記事で少しだけ触れた「三国志フェス2015」の黄巾党の決起集会の一週間後でその土産話があったし、それに関係して「三国志フェス2015」自体の話もあれこれあったし、それに一週間後に下記関連記事にあるように「第5回三国志感謝祭」が控えていたし、それ以外にもあれこれあって、話が盛り上がってしまった。
※関連記事
メモ:恋愛ドラマとケータイ(2014年1月22日)
第5回三国志感謝祭(2014年12月13日土曜日)
清岡の方が遠方に居るので、話が長引けば長引くほど己の首を絞める自体になるので、まだまだ話したりない感じだったが、泣く泣く20時6分発の列車に乗れるよう、その会合をお開きにした。
※次の記事
ノート:「連環画」の転変(『月刊しにか』2000年10月)
※追記
「三国志パズル大戦」×「真・三國無双」シリーズコラボレーション 新武将登場(2014年12月2日-16日)
※追記
NHK高校講座 世界史 第7回 三国志の時代(2015年6月5日)
※追記
巴と蜀と ~四川省の三国志関連遺跡、重慶地区を中心に~(2016年2月20日)
※追記
中国都市論への挑動(2016年3月31日)
※追記
中国古代環境史の研究(2016年2月26日)
※新規関連記事
中国王朝 英雄たちの伝説 反逆者 三国志の真相(NHK BSプレミアム2018年3月7日)
※新規関連記事
六朝初期的《郷飲酒禮》(京都2019年12月15日)
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