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2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感3


  • 2006年8月17日(木) 15:51 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,011
教育機関 この報告に感銘を受け、16日後に三国志城でレジュメに載っている呼風符を写してみる。なんだか形が崩れたが、大方、こんな感じ。・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2の続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/377

 10分間の休憩を終え、11:45、次の報告が始まる。

 司会の中川先生から「渡邉先生は三国志の歴史学のご専門家」というような紹介がありスタート。

○報告 諸葛亮の兵法
    大東文化大学文学部中国学科教授  渡邉 義浩

 渡邉義浩先生から
「わたくし、上田先生と違いまして大東文化大学を背負わなければいけませんので、大東文化大学の宣伝をいろんなところで入れながらお話をさせていこうかと考えています」
 とおっしゃってのっけから会場をわかしている。
 それから諸葛亮の兵法についてははっきりいってよくわからない、と断りつつ、こんなようなことがいえるんじゃないかというお話でも少ないそうな。だから歴史以外にも4番目には三国演義の話もでるとのこと

はじめに

 三国志では諸葛亮の兵法は興味深いけど、よくわからない、ってこと。『三国演義』では大軍師だけど、まず歴史(『三国志』)での有名な陳寿の評の紹介。「諸葛亮って人は臨機応変の戦術は得意じゃなかった」と書かれているとのこと。
 それから晋書の記述。司馬昭って人は蜀漢が滅びた後、諸葛亮の陣形、用法の方法、軍隊の統制方法といったことを陳[劦思](ちんきょう)って人に勉強させたそうな。陳[劦思]はそれを全部暗記したとのこと。そこで渡邉先生、(記述が少ないから?)「たいした内容じゃなかったんじゃないかな?」と突っ込み(場内笑)。そこで何か継承されたのではないか、と。
 南北朝期には「八陣図」を採用したり(当時はわかっていた)、「木牛・流馬」を制作した国もあるそうな。話しながら、午後のパネルディスカッションを見越して、前列の各大学の三国志研究会に「こんなこと聞くなよ」ってプレッシャーをあたえ笑わしている。
 唐代には諸葛亮は中国を代表する十人の良将に選ばれたとのこと。
 そこから今回の報告のアウトラインを小ネタを入れつつ述べていた。

一、諸葛亮の兵法の基本、荊州学

 諸葛亮が学んだ学問は荊州学と呼ばれている。荊州で学ばれた学問だから荊州学。司馬徽・宗忠たち中心。荊州学は渡邉先生の先生の一人が名付けたそうな。
 どんな学問かというと儒教。儒教から大東文化大学の宣伝が入れるが、あまり高校生が居ないことを自己突っ込み(笑)。温故知新をキーワードに『春秋』『詩経』『論語』に注をつけるという学問行為の丁寧な解説→訓詁学の説明。たとえば最初の四文字を説明するのに二万字がついていると解説。
 荊州学は簡単な注が特徴とのこと。それから学問を世の中に生かしていくことを目指したことが特徴とのこと。
 司馬徽は自らを儒者と区別し「俊傑」と称していたほど、学問を世の中へ生かすことを目指していたとのこと。諸葛亮は政治家として将軍として(管仲や楽毅に比し)国家の経営を抱負として学問を生かしていたとのこと。→つまり諸葛亮は軍事も勉強していた。
 荊州学は春秋左氏伝を中心に今までの経典をまとめなおしたいた。

二、兵法家としての諸葛亮

 陳寿は諸葛亮オタクで『諸葛氏集』というのを編纂。ここに諸葛亮が書いたものが載っているとのこと。これは散逸。唐代にはすでにかき集めているぐらい。後世に復元されたけど宋代の偽作が含まれありする。たとえば『心書』『将苑』。この二つは完全に偽物。現代に発売されたある本でこの二つが含まれていた、とかおっしゃって場内をわかせる。
 偽物とされるものにもわずかに本物が含まれている。太平御覧の引用と一致するところは本物だろう、と判断。具体的には『便宜十六策』。ここで『便宜十六策』治軍第九を引用。→あまり面白くない。主に孫子での常識的なことが書いているため。ここで大東文化大学の宣伝が入るが、実はその専門の先生が今年御定年ということで学べないという自己突っ込み(笑)
 『便宜十六策』斬断第十四の説明。主に戦いの地形の話。そこで渡邉先生が夷陵の戦いを例に出し、劉備はここに書かれていること(つまり諸葛亮が「やってはいけませんよ」と言っていること)に反したことを全部やっていると指摘した上で「そこらへんが劉備のかっこいいところ」と言い、場内をわかせる。「負けるべきして負けるわけです」
 『便宜十六策』斬断第十四にある七つの禁止事項が書かれている。
 それでこの項のまとめ、現在残っている諸葛亮の兵法はわかっている範囲ではそんなにおもしろくなく、軍隊を管理して運営していくものが多い。陳寿が評どおり、臨機応変の戦術からほど遠い印象を受ける、とのこと。確かに。
 あと、八陣図は「道蔵輯要」という本にあって、それは陸遜を退けた八陣の遺跡からうつしとったもので、そこから諸葛亮の兵法を考えることはできないそうな。

三、兵陰陽家としての諸葛亮

 前近代の戦いは合理的なものばかりではなく占いなどの呪術も含まれている。『漢書』芸文志によると、『孫子』などの兵法とは別に呪術などをふくむのは「兵陰陽家」と呼ぶそうだ。具体的には日時の吉兆、天体の方角などを占うとのこと。
 これらのことと諸葛亮の関係をきっちり資料からあげることはできないが、荊州学に『荊州占』という本がある(現在は残っていない)。
 仕方ないのでここから天文占の一般的な話になる。占星術が個人の運勢を占うのに対し天文占は国家の運命を占う。三垣・二十八宿の説明。それぞれ天の官僚。
 さらに『晋書』天文志の紹介。諸葛亮が陣没した話が載っているそうな。占文のとおり諸葛亮は死んだ、と記録されている、とのこと
 諸葛亮はどんな「兵陰陽家」か? 後世に偽物の書がたくさんある。

四、演義の諸葛亮像

 諸葛亮の『八門・遁甲の法』の話。『三国演義』において司馬懿との戦いで『八門・遁甲の法』の秘術を会得した諸葛亮が六丁・六甲の神兵を使った「縮地の法」を行ったとのこと。道教に『八門・遁甲の法』の話があるんじゃないかということで道教を調べる。
 明代には『秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経』を会得すると六丁・六甲の神兵を使い「縮地の法」を行えるとされていたそうな。そこから道教の符[竹/録](ふろく、おふだの意)の効用の説明。レジュメのところには諸葛亮が風を呼んだ符[竹/録]が印刷されている。
 現行の三国演義は道教のお経を嫌っていたようでそういった記述は少なくなっている。「縮地の法」も同じ造りの三両の四輪車を交互に見せることで「縮地の法」にみせかけたそうな。
 ここで一例として赤壁の戦いで諸葛亮が風を呼んだ話が出てくる。三国演義中で諸葛亮は『奇門遁甲天書』を伝授された、と書かれている。そこで『秘蔵通玄変化六陰洞微遁甲真経』の流れをくみであろう『奇門遁甲天書』の中身の風を呼ぶ箇所の話になる。まず符[竹/録]を使う。それがレジュメでかいてあるやつ(写真参照)。それから「発[火慮](左手の中指を押し神を呼ぶ動作)」をするとのことだけど、実際、渡邉先生が左手で狐のような手でそれをやってくださる。さらにこのポーズで「歩[四/正](北斗七星の形にステップを踏む足運び)」をするそうだけど、実際、これも渡邉先生がその場でやって場内をかなりわかせていた。さらに「叩歯(上下の歯をカチカチとかみ合わせること)」をやるそうだけど、これも渡邉先生が実践。しかも金縛りにあったとき叩歯をやって(魔をうち破る効果があるそうな)それがとけたってエピソードを添えてさらに会場をわかせていた。
 それから二十八宿の旗を立て、天を祈っているから、天文占にあたると、天文占にあるように星をあやつれば大風が吹くが、天文占では星が動かないので、やっぱり道教の秘術を用いたことになるとのこと。

※追記 大津祭 孔明祈水山(2012年10月6日7日)

おわりに

 撤退したときに兵を損ねたことはなかったことを指摘し諸葛亮は名将だと評する。つまり「出でては将、入りては相」となる儒将だということでまとめ。
 報告終了。

 司会の中川先生は「大東文化大学に入るとこんなすばらしい講義がきける」と宣伝を入れつつ、次はお昼休みだということのアナウンスを入れる。
 あと今回はパネルディスカッションで一般視聴の人の質問も受け付けるそうで、何か質問があれば事前に配っていた質問用紙に質問を書いて、提出すれば良いとのこと。

○昼休み

 それで昼休みは学食に行こうと思ったら、前回、それでパネルディスカッションに遅刻したって実績(?)があったんで、大学の外に行くことに。
 幸い正門を出て道の向こう側にファミレスがあるのでそこへ行く。
 メンバーは清岡KJさん、三口宗さん、げんりゅうさん、げんりゅうさんの後輩さん、ミミまろさん、伊比学さん。やはり七人が座れるテーブルは混雑時期にはないということで前者3名と後者4名に分かれて食す。
 こっちの話題はもちろん三国志シンポジウムの方向の他、確かサイト運営の話をしていたかな。あと大学の研究会の話とか三国志関連のデータベースの話とか。


・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/386

2006年8月14日 第五回三顧会ダイジェスト0


  • 2006年8月16日(水) 17:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,497
場所  山口県光市には三国志の資料館「石城の里 三国志城」というのがあって、三国志ファンを対象とした「三顧会」というイベントが2006年8月14日に開催された。今回ではや第五回目。

・「三国志城」公式サイト
http://www3.ocn.ne.jp/~sangoku/

・第四回三顧会の様子
http://cte.main.jp/newsch/article.php/329

 今回のイベントタイムスケジュールは以下のとおり。当日の張り紙の丸写し

--------------------------------------------------------------
開催場所:特別展示室(館内奥)

9時   三国志城開場
10時   挨拶&簡単な自己紹介
10時30分 三国志講習会「劉備のデビュー」
    講師:清岡氏
11時   三国志トランプ大会 チーム戦
12時30分 お食事(各自)・・・ 事前に売店で食券購入必要
13時30分 三国志城を旗で飾ろう
15時   三国志巨大パズル大会

<随時開催>
 ・三国志クイズラリー(三国志クイズペーパー試験)
 ・三顧会作品展示「三国志陶器をつくろう」
 ・第25回イラストコンテスト投票

8月13日 前日祭 おしゃべり会【孔明を偲ぶ】終日
--------------------------------------------------------------
※ちなみに今回もコスプレが行われたんだけど、張り紙の「随時開催」には書かれていない。入れ忘れていたのかな。ネットではちゃんと告知されているし
http://cte.main.jp/newsch/article.php/360


恒例のウェルカム看板。第2回にもあったけど、そのときとデザインが違う前日作成のじゅんきさんの旗。楊修って人選が三国志ファンの目を惹きつける

 清岡は前日の8月13日の昼過ぎには来ていて、その夜、清岡を含め七人で三国志城の特別企画展示場に雑魚寝で泊まってたんで、当然、当日を早朝から三国志城に居た。
 なぜか6時過ぎには目が覚めて、しばしカメラ片手にうろちょろしていた。当日、これない人のために前日も「三国志城を旗で飾ろう」の企画が行われていたみたいで、すでにじゅんきさんの旗が飾られれていた(二枚目の写真)。こういう気遣いのある企画はうれしいね。
 その後、8時ぐらいにあらかじめ頼んでおいた朝食を前夜から泊まっていたみなさま+傅僉さんと食べることに。このボリュームといいおいしさといい、300円は安い。
 そこから特別企画展示室でだらだらと待つ。初めから7人も前夜から居たせいか、今回はイベント開始前から徐々に集まってきている印象はうすい。そういや龍蜀さん親子四名は結構、早い目に来ていて、三国志城の展示を家族そろって見ていたなぁ。
 スタッフも含めぽつぽつと顔なじみが現れそれぞれに軽く挨拶をする(そのとき誰が来たかは次の「挨拶&簡単な自己紹介」でまとめて)。
 10時前後に一台のタクシーが到着して、KJさん&KRさん夫妻と十希野(ときの)さん&茶味(ちゃみ)さん姉妹(漢字あってますかね)がご登場。なんか十希野さんからスタッフと間違えられたのでついでに案内(前回も私が馴染んだ様子で居たから?・笑)。というか私も「挨拶&簡単な自己紹介」の会場、どこかしらないんだけど。
 どうやら今回は特別企画展示場にメインの企画進行の会場を統一しているようなので、五人でぞろぞろと特別企画展示場へ。前回まで挨拶と自己紹介は食堂で行われていたけど、確かに一カ所で進めていった方が良い感じかもね。
 というわけで次の「挨拶&簡単な自己紹介」を待つことになる。


・第五回三顧会ダイジェスト1「挨拶&簡単な自己紹介」へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/382

2006年8月12日「ブレイド三国志」(月刊少年ガンガン9月号)


  • 2006年8月16日(水) 13:34 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,323
マンガ

漫画雑誌の「月刊少年ガンガン」に「ブレイド三国志」ってのが連載されている。
第一回目をみてもあまり三国志に関係ないかなぁと思ってノーチェックだった。
だけどコンビニ行く用事ができたんでふと気になって「ブレイド三国志」をチェックしてみた。
第三回「前言撤回!」ね

・ガンガンNET
http://gangan.square-enix.co.jp/
・2006年6月12日「ブレイド三国志」(月刊少年ガンガン7月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/357

そうすると扉絵からいきなり孫策のブレイド(「生まれ変わり」とルビ)が出てきていて公孫[王賛]のブレイドと一対一の戦い。
イメージ絵として腹巻きタイプの鎧をきている生まれ変わる前の姿がでてくる。
あぁ、だから単純に2000年を足した西暦2194年が舞台なんだ。
一回目に出てきた昭和初期の訳本の「三国志」を持った少年がそれを読んで孫策と公孫[王賛]の解説をする。
特殊能力の総称か何かでTAO(「タオ」とルビ。道?)という概念が登場していて、公孫[王賛]はそのTAOで「白馬義從」という技を繰り出している(笑)
というか、孫家と公孫家は生まれ変わる前の反董卓時期後は同盟関係じゃなかったのかぁ?(笑)

こりゃ三国志ファンとして目が離せない感じ
(と書きつつ、チェックを素で忘れてそうな予感・笑)
他のブレイドのTAOが楽しみ。


・2006年9月12日「ブレイド三国志」(月刊少年ガンガン10月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/415
 

エアコン星彩登場


  • 2006年8月 9日(水) 12:10 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,761
ゲーム 一見、何の変哲もないクーラーところがこんな製品名とは!小ネタです。中国特派員(?)の呂珪さんのタレコミ情報によると、宿舎のエアコンが「星彩」だったそうです。
右の写真を見て下さい。水色のラベルのところに確かに「星彩」と書かれています。ついでにアップの写真も載せました。
特派員の証言によると「強くて寒い」だそうです(笑)
しかし、去年のこの時期にもエアコン「星彩」が居たそうなので時期的にはどっちが先なんでしょう。あれこれ想像できて楽しいです。

……と星彩を知らない方へ一応説明。星彩とはコーエーから発売されているPlayStation 2用のタクティカルアクションゲーム「真・三國無双4」のオリジナルキャラクター。張飛の娘という設定です。

そのため、劉禅の妻の敬哀皇后かその妹の張皇后(同じく劉禅の妻)がモデルと言われています

三國志蜀書二主妃子伝より

後主敬哀皇后、車騎將軍張飛長女也。

後主(劉禅のこと、蜀漢の二代目皇帝)の敬哀皇后は車騎将軍・張飛の長女だ。

後主張皇后、前后敬哀之妹也。

後主の張皇后は前の皇后・敬哀の妹だ。

2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2


  • 2006年8月 8日(火) 23:52 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,732
教育機関 江戸中期、三国演義を受容した人たちのヒエラルキー真似図。しかし、現在の三国志ファンを連想してしまうなぁ・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1の続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/374


 司会の中川先生から上田先生の紹介。三国演義の専門家であり、会場に来ている東京大学三国志研究会の先輩(東大の先輩? 研究会の先輩?)と紹介される。


○報告 小説『三国志』と日本人
    金沢大学文学部助教授  上田 望

 発表形式は向かって左のスクリーンへパソコンから発表資料が映し出される。なるほど去年のシンポジウムでは和田先生がやっていた発表形式ね。

 そこに今回の報告をタイトルが映し出される。その日付が「2006年7月26日 午後11時-11時30分」となっていたことをここに記しておこう。
 上田先生は口べたで御夫人から(三国志シンポジウムはオープンキャンパスの一環なので)「あんたなんか口べたな人が話したら大東文化大学の生徒がへっちゃうよ」と言われた、という出だしから会場をわかす。
 あと子供の幼稚園児に中国の小説を読ませているそうな。

 はじめに

 この報告では日本人と三国演義との話をするそうな。

一、江戸時代の『三国志』(一)─『三国志』の輸入と完訳『通俗三国志』誕生まで

 まず江戸時代から。この時代、中国でいうところの明代、清代とのこと。中国では白話小説(口語体)が勃興している。タイムラグなしに江戸時代に輸入され、大きな影響を与えた。
 受け入れ方は、原文で読む→訳注が作られる→部分訳が作られる→完訳が作られる→ダイジェスト・絵本が作られる→挿図付き完訳本が作られる(ここらへんがスクリーンに出る)、という流れがあるのとのこと。
 で、まず原文。日本で最初に三国演義を読んだ人は誰だ? ってことでそれはおそらく儒学者の林羅山とのこと。羅山が読んだ本の目録に入っていたらしい(1604年)。もう一人は天海僧正の蔵書の中にあるそうな(1643年没)。天海が持っていた挿し絵がスクリーンに映し出される。
 次が徳川将軍家。紅葉山文庫に入っているとのこと。あと長崎の商人たち。これは『二刻英雄譜』。1673~1676。原文を読む人は儒学者、僧、大名クラス、通訳、徳川将軍家、将軍のブレーンなどに限られていたそうな。
 その次が部分訳。陽明学者、中江藤樹だそうな。1662年。
 次が『通俗三国志』の登場。世界で二番目に早い三国演義の完訳だそうな。翻訳した人は「湖南の文山」。謎の人。湖南は姓じゃなくて場所だそうな。なるほど、初耳。
 文山は『李卓吾批評三国志』を底本としているそうな。当時、すでに毛評本がでていたけど、あえて李卓吾本を訳している。
 『通俗三国志』の功罪。プラス面は多くの人が読めるようになったこと。水滸伝は1784年だし西遊記は1837年とぬきんでて早く訳されている。マイナス面。超訳が多く、原文の妙味が失われているとか、俗語の小説を翻訳するという意識の欠如がある。それを実際に長板橋の下りを例にとって、どこが省略されているか解説。
 逆に文山が適当に訳したからこそ三国演義は文山訳をみないとだめという主張もある。

二、江戸時代の『三国志』(二)─絵本の創作と『三国志』の大衆化

 江戸時代中期。正徳年間から享保にかけて日本では空前の中国ブーム。中国趣味は大流行。受容の形態は(1)中国語を学び、その学習課程で三国演義の原文を読む人。(2)中国語は学ばないが三国演義の原文なら読む人。(3)中国ブームに即発されて通俗三国志やダイジェスト本を読む人(当然中国語は読めない)。(4)字は読めない。歌舞伎や浄瑠璃や講談などで三国の物語を楽しむ人。(スクリーンに映し出される。)
 こういうふうに階層分化してきた。
 (1)と(2)の人のために中国から三国演義を輸入。(3)の人向けに通俗三国志が出版され続ける。絵本がたくさん出てくる。それから絵本の一覧がスクリーンに出される。絵本の絵はなるべく中国に似せようとしている(しかし少し変だ、とコメント)。中国の絵をまねているところを実際にスクリーンに映し出される。それから幕末の絵。とても中国の絵に見えない。関羽の絵だけど当時の歌舞伎役者の絵にかわっている(※清岡注。ん? どっかできいた話だな)
 それから話が元にもどって絵をそっくりぱくっている例が出される。
 江戸中期では、人々の間に、原作になるべく忠実に、という規範意識が芽生えたのではないかと。原作と違うとそれおかしいよ、と思う読者層が育ったとのこと。(※清岡注。これもどっかできいた話だな)
 この例外は浮世絵や浄瑠璃の世界。浄瑠璃につけられた絵の話。最後は孫権と劉備と曹操が三人仲良く終わるとのこと(場内爆笑)。歌舞伎の関羽→浮世絵化したものの例。
 それでスクリーンに映し出されるのは階層化されたファン層(ちょっと真似してここの記事の絵に載せてみる。真似版では三国志を三国演義と書きかけている。)
 中国からの舶来文学→日本の大衆文化。


三、江戸時代の『三国志』(三)─『絵本通俗三国志』の登場


 江戸後期。『絵本通俗三国志』刊行(1836~1841年、八編七十五冊)。この時代のエポックメイキングなできごと。元禄に『通俗三国志』の本文、それから草双紙、絵本、歌舞伎、浮世絵、そういったところで三国演義の絵がたくさんつくられ、そっちの挿し絵を元にした一種のコラボレーションと思うと説明。
 これは校訂をしている。カタカナをひらがなにすると大分、読みやすくなったと遊女か誰かが言っていたとのこと。挿図が葛飾戴斗二世で四百葉を越える。戴斗という画号は北斎(北斎はこの画号を使っていたことがあったそうな)から1809年に譲り受けている。だから二世とのこと(なるほど)
 戴斗二世の絵の特徴。正確な遠近法。桂宗信画『絵本三国志』を意識して、先行する異なる画像を敢えて取り上げているそうな。これは渡辺由美子氏の卒業研究だそうな(上田先生、すごいと思います、と賞賛)。遠近法は葛飾北斎も最初できなかったと解説。
 他の特徴は残虐性。残虐なシーンの数を読み上げる。残虐なのは幕末の流行だそうな。北斎も残虐な絵を描いている。
 もう一つの特徴は和風化。北斎は和風趣味だったそうな。あと登場人物は人気役者の似顔絵で描かれているとのこと。これを江戸中期の模倣の時代から江戸後期のパロディー化の時代と解説(※清岡注、なんかきいたことある話だ)
 まとめると、『絵本通俗三国志』は三国演義のネガティブな面を徹底的に図像化している、とのこと。

四、明治、大正、昭和初期における『三国志』

 近代出版技術が導入されて洋装本、活字本が出てくる。明治の最初の十年は木版本の絵本が出回っていた。明治10年(1877年)日本で初めての活字印刷された三国演義が世に出る(永井徳鄰和解『通俗演義三国志』)。毛評本の挿し絵を取り込んでいる。
 明治における三国演義と水滸伝のブーム。高島俊男氏の『水滸伝と日本人』で述べられている明治の水滸伝のブームと三国演義も当てはまると解説。出版社の傾向が似通っているから。
 第一期。明治10年代後半。二十種類の翻訳が出版。通俗三国志の活字本。リライト、絵本などバラエティに富んでいる。ここで日本初の洋装本の写真や浮世絵を映し出す。明治14年に政府が儒教道徳の復活をはかり、そのために中国の古典籍の復刻ブームがおきたので、その流れに便乗したとえば『絵本三国志』がよく売れたそうな。
 第二期。明治20年代後半。明治を代表する書店、博文館が帝国文庫シリーズとして『校訂通俗三国志』(活字本洋装本)を出す。昭和15年まで出版されつづける。上田先生は昭和15年に『吉川三国志』が出版されるんで、それにとって変わられたと推理。この時代、浮世絵がすられたと紹介。実際にスクリーンに映し出していた。講談(桃川燕林とか、明治31年)。参考書にも三国演義が取り入れられていた。明治前半が上田先生のいうところの三国演義受容のピークとのこと。
 第三期。明治40年代。日露戦争後、日本フィーバーで中国古典も活気づく。この時代の特徴は多様化。小説研究が出版に影響(幸田露伴の仕事など)。久保天随『三国志演義』(明治39年)を出版。妙訳だが日本初の毛評本の翻訳。日本での本格的な三国演義の研究の始まり。幸田露伴『通俗三国志』(明治44年)を出版。幸田は絵本三国志が李卓吾本に似ていると指摘。久保天随『新譯演義三国志』を出版(明治45年)(※清岡注。吉川英治が少年の頃、熟読していたやつね)。日本初の毛評本の完訳だそうな。深い考察付き(露伴の説をうけて李卓吾本と毛評本の優劣を論じている)。久保天随は毛評本の定着を願っていた。
 明治時代に識字率が向上。読者がレベルアップ。価格が低下(活字本の普及により)。上田先生「一家に一冊『三国志』」と説明。もう一つ大きな変化。音読から黙読への変化(明治30年代)。「読書の内省化」と説明。その逆の影響で講談や歌舞伎での三国演義ものが停滞。明治末年、幸田露伴と久保天随の輝かしい功績
 その後、大正から昭和初期。翻訳本という観点からは不毛の時代。昭和15年、吉川三国志出版。これ以外、特筆することはない時代。毛評本は定着せず。
 それからまとめ。日本と中国の違い。どちらも変わる部分と変わらない部分があるが、中国ではある程度、定着したテキストはそれ以上、いじらない。日本では原作があまり読まれなくなる。ここで金沢大学の教え子の話が例に出る。
 それからスクリーンには日本と中国の流れのまとめ図(フローチャート)が出る。中国では李卓吾本が読まれず毛評本が読まれるようになる。
 中国では三国演義に権威性がでる(文化ナショナリズム? 政治と文学)。日本ではそういうものがない。中国からきた娯楽として楽しむ。「日本の古典として三国志を読みなさい」と自分の学生に言っている。

 ここで10分ほど、休憩と中川先生からアナウンス。それから中国語のアナウンスも。

 10分の間、上田先生の講演でいっていた江戸時代の話は現代の三国志ファンと似ていて面白い、と清岡は話していた。

・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/381