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2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午後レポ


  • 2006年3月21日(火) 15:53 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,324
研究 ・午前の部
http://cte.main.jp/newsch/article.php/305


 「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」の午後の部。
 まず司会の冨谷先生から座席についてのお願いとアンケート回答のお願い。


○講演「漢から魏へ──上尊号碑」(13:10~14:30)

 講師は井波陵一先生(京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター教授)。講演の前に次回「TOKYO 漢籍 SEMINAR」のお知らせ

 そういや午前の部で書き忘れていたけど、貰った資料の中に次回のお知らせがあった。

2007年3月10日土曜日開催予定
「第三回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」
講演テーマ遠い世界へ Part 1 西域への旅 
玄奘三蔵『大唐西域記』

などをとりあげるとのこと

 それから講演に入る。プリントの資料の2-1に触れ、そこの最初の【延康】から触れている(以下、【】付けはプリントの資料2-1で【】付けにされている項目があるという意味)。延康元年(西暦220年)は曹操がなくなってからの改元だ。延康の前は建安で、建安文学の説明が入る。
 プリントの資料に則し次が【禅譲】。禅譲という言葉の走りは後漢書逸民伝に見られるとのこと。そこから禅譲の意味へ。禅譲は武力を伴わないものに対し「放伐」は武力にうったえるもの(例として夏→殷、殷→周)。なるほど、初耳。
 【220年当時の情勢】に話が移り、武力は必要ないが、大義名分が必要とのこと。まず周囲の盛り上がりが大事とのこと(曹丕が一方的に圧力をかけたわけではない)。元号の「延康」に漢王朝の抵抗の意味が込められていると説明。
 というわけで話は曹丕の【即位へ向けてのプロセス】へ。ここで上尊号碑にまつわる話に触れていく。上尊号碑が今、どういうふうにおかれているか、撮影許可をとるだけでも大変だ、という話など。
 それから【上尊号碑】を奉った人物の説明へうつっていく。その奉った人物の一覧表(46人)が別のプリント(2-4 表2)でまとめられている。上尊号碑にはまず肩書きがあって姓がなくて人物の名がくるとかとかいう概説。名しかないので誰のことかわからない人物が何人かいるとのこと。
 具体的に上尊号碑に記載のある人物の説明に移る。【三公】から。三公の相國が司徒とも呼ばれ御史大夫が司空とも呼ばれ、それぞれの担当を説明した後、最高責任者であると説明。九卿(元々は九つあったがこの時期は違う)が各省庁の大臣職官にあたると上尊号碑の碑額に「公卿将軍上尊号碑」(公卿→三公九卿)と書かれていて文官武官のトップクラスが並べられていることがわかる。
 三公である【華[音欠]・賈[言羽]・王朗】の説明。三国志魏書武帝紀などに見られる着任時期の話。三人が三公になったのは曹丕が魏王だったときで碑文と一致。ただし、三国志魏書賈[言羽]伝との記述とは一致しない。これは即位→即王位とすれば一致する(王昶「金石萃編」の主張)。賈[言羽]の爵位も史書と碑文は一致しない。
 【華[音欠]】。三国演義だと曹丕に即位を促した悪人と説明し、史書の説明に移る。三国志魏書華[音欠]伝において、靈帝を廃位しようとしたとき華[音欠]がそれを止めたというエピソードを紹介し(プリントの資料にその言葉が訳して載せられている)、それなのに曹丕に即位を促したというのは相当の覚悟だったと説明。
 【賈[言羽]】。資料のプリントには三国志魏書賈[言羽]伝にみえる「[言羽]自以非太祖舊臣、而策謀深長、懼見猜疑、闔門自守、退無私交、男女嫁娶、不結高門、天下之論智計者歸之。」の訳が書かれてあり、それを紹介。他の三公と違って「世説新語」に載せられていない人で面白いと紹介。元々、太祖の臣じゃないところからの心理的な考察等。
 【王朗】。経書に注釈を加えたというあたりに触れる。学者。三国演義では当時の学問的な話を取り上げることがなかった。王朗の息子の王粛の話にうつる。ちなみに王粛は鄭玄(じょうげん)の学説に反対の立場をとることが多かった。三国演義だと王朗は諸葛亮と対決する。実際の王朗とは違う云々。
 【04曹仁~14臧霸】(数字は上尊号碑においての順番)。碑文にある05劉若は三国志に伝がない。06鮮于輔~09閻柔は異様。「三国職官表」では判で押したように「上尊号碑は九卿の上に在れば、即ち亦た応に三品なるべし」(プリントの資料にあり)というような頼りないコメントであると説明。「通典」での将軍の序列は「大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍、四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍、雑号将軍」となっている。これと上尊号碑を対応付け。碑文では……四鎮将軍→九卿→近衛軍→雑号将軍という流れ。「通典」では諱を避けて虎牙将軍(雑号将軍)が武牙将軍になっている。こういった官職の意味で06鮮于輔~09閻柔は序列が異様。さらに三国志には伝がない。曹丕との個人的関係によるもの?
 【曹仁・曹洪・曹真・曹休・夏侯尚・臧霸】。臧霸以外、曹丕の親戚。碑文にみえる「使持節・行都督督軍」や「仮節・都督諸軍事」の説明。節のランクが「使持節・持節・仮節」(資料のプリント)。(清岡はここで仮節の意味を取り違えていたことに気付く・汗)。厳密な使い分けは謎(碑文では使持節=仮節?)。臧霸について→川勝義雄先生の本を参照。プリントの資料2-2に引用されている。講演では「六朝貴族制社会の研究」。任侠的な人間関係の話が出てくる。
 11曹真の話。曹真残碑(資料のプリント2-6に拓本のコピーあり)について。「蜀賊諸葛亮」の「賊」が後世に削られたって話。清岡はこの話を知っていたけど、これって曹真残碑のことだったんだ。下記URL参照。

サイト「睡人亭」内曹眞殘碑
http://www.shuiren.org/sangoku/soshin.htm

 【前後左右将軍】。「朱霊という人物をよく知っている方がおられたらよっぽどの三国志マニアだと思います」。この四人は元々、他の配下。朱霊は自ら袁紹の元をさって曹操の元にきた。それは西暦194年で他の三人より早い。朱霊は三国志でちゃんとした伝が立てられていない。上尊号碑の順番で朱霊の重要性を改めて確認できる。
 【匈奴】。19呼厨泉。異民族、ある意味、お客さんだから高い位置。
 その次が【九卿】。九卿で22程昱トップ。24鍾[夕/缶系]は刑罰の分野で有名。肉刑論の話。→参考、冨谷至先生/著「古代中国の刑罰」。前漢の文帝の13年に肉刑廃止とか。鍾[夕/缶系]は肉刑復活論者。
 【近衛軍】。それほど有名な人物は出てこない。三国演義での話云々。【雑号将軍】。35焦触。三国演義では赤壁の戦いであっけなく殺される人物なので、上尊号碑に出てくるぐらい「あんた、生きてたの?」と口走ったほど個人的に面白かったとのこと。46許[木者](キョチョ、上尊号碑ではきへんで書かれているそうな)。上尊号碑の位置づけの最後というのは重要な意味を込めているかも。
 まとめ。碑文の名前の羅列と文献史料の対比で何かしら面白みを見いだしてくれたら幸い。

 それで司会の冨谷先生のコメント(井波先生の専門等、史書と碑文を厳密に比較云々、順番や官位は碑文の書き手が緊張するところだ)から質問タイムへ。時代の区分に関する質問。ここで清岡が興味深かったのが、史記は前漢あたり「経書」に分類されていたが、三国時代以降、「史書」に分類、つまり「史書」が独立されてきたって話。春秋の扱いに絡ませて。


○休憩(14:30~14:45、10分おしぐらい)

 ここで隼鶻さんと会う。よもやま話。


○講演「魏から晋へ──王基碑」(14:45~15:55、10分おしぐらい)

 司会の冨谷先生の紹介から、藤井律之先生の講演(京都大学人文科学研究所助手)。北京大学へ研修へ行くそうな。

 ≪1 未完の石刻≫。(以下、同様にプリント内の表題を≪≫でくくる)
 ≪・王基碑とは≫。王基碑の説明。清・乾隆年間に洛陽より出土。名前がないが碑文のキャリアから王基の碑文とされる。未完の碑文。発見時、下書きの朱字が残っていたそうな。その様子は2002年11月30日の「石刻が語る三国時代」で発表済み。ということで≪・朱字のミステリー、その後≫。2005年10月に王基碑の実物をみたそうな。そのときの様子を語っていた。そこには歴代の石碑が並べられているそうな。実物を見て前回の結論を確信したとのこと。プリントの資料3-2に写真あり。

 で、王基碑の時代背景にうつる。ポイントは王基碑がなぜ未完成に終わったか。≪2 正始政変と故吏≫。正始政変の説明。司馬懿のクーデター。曹爽一族を抹殺。
 ≪・曹真残碑の碑陰から≫。碑陰(石碑の裏側)に注目。プリントの資料3-2の図3。「州民」+「官職名」+「出身地」+「姓名字」の書式。おそらく彼らは曹真の故吏。
 ≪・故吏であるということ≫。故吏、つまりかつての部下って意味。かつての上司のために碑をたてることは後漢時代に盛んだった。必要に迫られていてのこと。盛んだったのは選挙制度(登用制度)の停滞が原因。
 ここで選挙制度の説明。前漢時代(武帝)に儒教を学問として試験に合格したものを登用する。また地方から孝廉(孝行、清廉潔白)の科目による推挙が制度化。孝廉→郎の流れ。郎(皇帝の親衛隊←清岡は出典が知りたい)は高級官僚へとステップアップする、つまり人材のプール。後漢時代には毎年、郎にするのが制度化されていたんで毎年、ある数の郎ができる。郎に定員はないが、その後のポストに限りがある。郎にはなったがその後が続かない。
 郎の制度に風穴をあけたのが辟召。辟召の説明。役所の長官によって登用、掾属になる。それが三公クラスの掾属だと郎と同格になる。→孝廉の選挙制度の変革。郎を拒否し辟召を待つ→碑を立てて、故吏個人がアピールする。そのため、曹操による立碑の禁
 ≪・正始政変の陰≫。曹爽の故吏たちが一斉に罷免される。ここで羊[示古]の逸話。羊[示古]の先見の明の話。羊[示古]は曹爽の辟召をうけることをすすめられるがそれを拒否。それに対し王基は曹爽の故吏→罷免。その他の西晋の功臣も罷免→うち何名か(賈充とか)は後に、司馬氏への積極的な与党。→福原啓郎先生の「西晋の武帝司馬炎」参照(と実は会場に福原啓郎先生が来られている)。

※追記 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』

 ≪3 「功臣」王基≫。
 ≪・寿春の鎮将≫。寿春を反司馬氏勢力が拠点にしたそうな。ここは呉との係争地。ここで歴代の例をあげていく。王凌(じっさいはにすいじゃなくさんずい)、カン丘儉、諸葛誕の反乱例。王基は司馬氏側につき活躍。
 ≪・晋による王基の顕彰≫。王基がなくなった後、晋による顕彰。
 ≪・司馬昭の心≫。「司馬昭之心、路人所知也」にふれる。漢から魏は進駐型。魏から晋は本領安堵型と定義(←宮崎市定「九品官人法の研究」)
 ≪・魏の碑か晋の碑か≫。ここで王基碑がどちらの王朝のものか碑文の改行箇所から検証。五行目の大将軍(=司馬懿)で改行されず。司馬懿が皇帝とされていないので魏王朝のもの。碑がたてられなかったのは司馬氏への忠誠心のあらわれ。

 というわけで忠誠心がどうなったか。≪4 「忠義」のゆくえ≫。
 ≪・魏晋交替が生んだ石刻≫。プリントの資料3-2図4「郭夫人之柩銘」。嘉平六年(西暦254年)、反司馬氏の計画がばれて李豊が抹殺される。賈充(曹爽の故吏)はその李豊の娘を妻としていた離縁する。賈充は郭夫人をめとる。その間の娘(賈南風)が後の恵帝の皇后。
 正始政変の際、羊[示古]の妻の父、夏侯覇は蜀へと亡命。だけど羊[示古]は離縁せず。つまり王基碑と対照的に王朝交替により郭夫人之柩銘が残った。
 ≪・八王の乱──両石刻のその後≫。賈南風の専権→司馬倫による帝位簒奪と賈南風の誅殺→八王の乱→西晋滅亡。王基の娘婿の司馬[月三]は司馬倫とともに賈南風を皇后から廃す
 ≪・元帝の生母≫。司馬睿(元帝)の中興。プリントの資料に書かれている「司馬氏婚威簡図」を元に説明。実は司馬睿の生母は夏侯覇の弟・夏侯威の孫(夏侯淵の曾孫)、つまり晋の命脈をたもったのは曹操の一族であるという皮肉な結果になる。

 司会の冨谷先生のコメント(王基碑をなぜそのままにしたか等)から質問タイム。辟召についてとか揚州府と中央政府の関係とか。その後の質問のやりとりをあまり聞かずに荷物整理タイムにあててしまった(汗)。その他、講演全体の質問タイム


○総括・閉会挨拶(15:55~16:10 10分おしぐらい)

 森 時彦先生による挨拶。先生は清のご専門で今回のことは門外漢なので、楽しく聴いていたとのこと。それから来年の第三回についてのアナウンス。満場拍手。
 司会の冨谷先生からのアナウンス。今回の資料(封筒に入った分)に余分があるので、今日、来れなかった人のために余分に持って帰っても良いとのこと。それから簡単な挨拶でしめ。満場拍手。



 そういえば昼休みに青木朋さんが「今日ってサインもらうような会じゃないですよね」って呟いていたんだけど…

 すべてのプログラムが終わった後、会場に観衆がほとんど居なくなったぐらいに、左の通路で前からやってくる冨谷先生を青木さんが出待ち…というか迎撃。「先生」と呼びかけた後、青木さんがそのために持ってきておられた「木簡・竹簡の語る中国古代」へのサインを冨谷先生にお願い。冨谷先生、一瞬、困った様子をみせるも(というかサインを要求されるだなんて思ってもいらっしゃらなかっただろう)、快く承諾。青木朋さんの字をどう書くか、訊かれたあと、さらさらと書いていらっしゃった。書いていらっしゃるとき、「学生さんですか?」「いえ、とっくに卒業してます」とやりとり(そばにいた清岡は思わず笑ってしまった)。
 しかし清岡は「木簡・竹簡の語る中国古代」をもっているんだけど、さすがに道中、読まない本を持ち歩いてはいなかったし、サインという発想もなかった。あぁ、持ってくれば良かったなぁ。


 というわけで、その後、清岡、呂珪さん、青木さん、隼鶻さんと共に神田神保町へ行くことになる。

・2006年3月11日 プチオフ会 神田編
http://cte.main.jp/newsch/article.php/302

関羽でイメージ検索すると…


  • 2006年3月20日(月) 20:33 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,343
玩具

小ネタです。
http://images.google.co.jp/
↑googleにイメージ検索という機能があります。
単語を入力するとそれにまつわるネット上のイメージが検索されて、検索結果としてイメージの一覧が出てきます。
それで「関羽」と検索すると

・「関羽」のイメージ検索結果
http://tinyurl.com/gtbwx

ぬお!!
というか日本が誤解されますね(汗)
まぁ、繁体字にして「關羽」だったら引っかからないでしょうし……

・「關羽」のイメージ検索結果
http://tinyurl.com/f7lzr

と思ったら、微妙に残ってますね(笑)

※2006年3月20日の検索ネタなので時間が立つと検索結果がまったく違うかもしれません(個人的には違って欲しいのです)。
何が出ていたかは下記のリンク先参照です。

・2005年09月26日 AERA(2005年10月3日号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/185


<2008年2月7日追記>
・『一騎当千 秘蔵限定BOX』発売決定
http://cte.main.jp/newsch/article.php/723


・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/
・東アジア人のメンタリティーなんて似たようなもんです。
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20080203/p1

※追記 一騎当千XX × 真・恋姫無双

※追記 一騎当千 赤壁終結記念BOX

※追記 京都で哲舟さんを囲む会(2013年2月5日)
 

2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ


  • 2006年3月19日(日) 12:57 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,554
研究  下記URLの記事にあるように2006年3月11日に京都大学人文科学研究所主催の「第二回TOKYO 漢籍 SEMINAR 三国鼎立から統一へ--史書と碑文をあわせ読む」が東京であるときいたので、行ってみることに。先着200名で事前に参加応募する形式で、送られてきた参加票を見ると私は94番目だった。後で会場にて聞いた話だと180名の参加者がいたとのこと。

・2006年3月11日 第二回TOKYO 漢籍 SEMINAR
http://cte.main.jp/newsch/article.php/270

※追記 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)

※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)

「第二回TOKYO 漢籍 SEMINAR
 三国鼎立から統一へ--史書と碑文をあわせ読む」
主催 国立大学法人京都大学人文科学研究所
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
日時 2006年3月11日土曜日の10時30分~16時
場所 東京都千代田区 学士会館2階 210 大会議室

 当日、徹夜明けになるところを頑張って1時間半ほど眠ったぐらいで、私の頭の中はほわほわしてたんだけど、何とか予定通りの新幹線に飛び乗り、初めていく会場の学士会館へたどたどしい足取りでたどり着く。15分前ぐらいだ。

・学士会館
http://www.gakushikaikan.co.jp/

 階段を上がると、大会議室の前に受付があった。そこで今回の資料が入った封筒を手渡される。座る席は受付を済ませた順に前から詰めていく感じ。私はG4の指定席にすわった。前からA,B,C,D…と続いて左から1,2,3,4…18という順だからもう既に会場は結構、人で埋まっている。
 右上の写真のように前に壇上があって向かって左手に司会者がたつ配置だ。

 セミナーが始まる前に封筒の中を確認する。まず目に付いたのが今回のチラシ。裏にプログラムが書かれてある。よく見ると表の画像って武器もかぶり物も服飾も三国時代のものじゃないな。続けて、講師紹介のプリント。
 それと両面印刷のプリントが何枚も。どれも右上に○に数字がうってあって、その数字が3つまでだから、今回の3つの講演の資料なんだろう。あと2002年11月30日の「石刻が語る三国時代」というシンポジウムのパンフレット。こちらはちゃんと製本されている(というか私が元々、持っていたパンフレットを持ってきていたんだけど・汗)。それから今回のセミナーのアンケート。年齢のところが「~30歳」「31~40歳」「41歳~50歳」「51歳~」の四択なあたりがどういう年齢層の人たちが聞きに来ているか、おおかたわかるというものだ。後は京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センターのパンフレットなどなど。

○開会挨拶(10:30~10:35)

 というわけで京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター長の森 時彦先生による開会挨拶が「おはようございます」とともに始まる。漢字情報研究センターの紹介。最近のIT化の話など。そうそう私個人としてデータベースにはお世話になってる(下記URL参照)。あと今回のセミナーの主旨。

・石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/215


○本テーマの狙いについて説明(10:35~10:45)

 続けて司会の冨谷至先生(京都大学人文科学研究所教授)による今回のセミナーについての説明。のっけから2002年11月30日のシンポジウム「石刻が語る三国時代」の説明。そのシンポジウムが中間報告で、最終報告として三國時代の出土文字資料班/編「魏晉石刻資料選注」(京都大學人文科學研究所)という本と今回のセミナーがあるそうな。やっぱり今回が最終報告だったんか! それから碑文がどういう史料的位置付けかの説明。史書は後の時代に書かれたものだけど碑文は同時代史料と説明した後、実のところ碑文は史料としては史書より情報が少なく役に立たないんだ、という敢えて断言(こういわれると引き込まれるなぁ)。そこから碑文の特徴を説明した後、碑文からいかに情報を引き出すのかが史家の腕の見せ所、と話をしめる。


○講演「魏・蜀・呉の正統論」(10:45~12:10)

 司会の冨谷先生から宮宅潔先生(人文科学研究所助教授)の紹介がありスタート。三国(魏・蜀・呉)がどのように正統を主張しているか説明し、その後、碑文でどう表現されているか、というのが講演の流れとのこと。
 まず王朝の交代の法則の説明。「その法則というのが皆さんご存知の陰陽五行説」とおっしゃっていたけど、陰陽五行説がみなさんご存知か?(汗)。それで配られたプリントには伏羲から順に五行(木、水、火、土、金)とともに王朝交代が書かれている。相生説の方だね。

・五行についての参考(別サイト)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1635

 まず王莽がたくみに五行をつかった解説。王莽は血統的に舜(土徳。つまり五行相生だと火徳の漢の次)の子孫ということを主張したそうな。さらに讖緯(予言のこと)や符瑞をつかってその正統化を強めたとのこと。
 こういった王莽の方法を真似たといって良いのが魏。まず予言の「当塗高」を例にあげていた(三国志魏書文帝紀の注に引く讖緯)。ここで袁術がこの予言を先に使ったと補足説明(三国志ファンにはおなじみだね)。それから曹家の血統の主張にふれる。プリントの資料に二つの例があげられている。一つ目の例では周の子孫を称していたけど、それでは五行的に不都合だということ(と推測できるの)で(三国志魏書蒋濟伝の注)、もう一つの例で、曹家は舜と祖先を同じにすると書かれたところをあげていた(三国志魏書文帝紀の注)。ここで実際の碑文ではどうかってことで「石刻が語る三国時代」のパンフレットの碑文の写真で示す。魏は漢からの禅譲に周到な演出をしている、と指摘。
 その次は蜀の正統性の主張。蜀に献帝は暗殺された、と誤った情報が流れたことに触れ、そこから劉備が皇帝になるプロセスの説明。なぜ数多い劉氏の末裔の中で劉備が選ばれたかは予言を利用したという事例がプリントの資料にあげられていた(三国志蜀書先主伝)。この予言というのは劉秀のときの予言(続漢書祭祀志)をお手本にしたことが、わかりやすくプリントの資料に二つの予言が並べられていた。劉秀には関係があるが劉備には関係のない「九世」が予言でそのままコピーしている様がよくわかる。それから天体現象を利用した正統性の主張について。これもお手本があるってことを説明していた(三国志蜀書先主伝と漢書天文志)。

 さて次は講演のメイン(?)となる呉について。まず魏と違って禅譲していず、また蜀と違って劉氏でもない呉はどういう立場だったかって話。三つ選択肢があったって話。1)新しい皇帝、魏の皇帝に忠誠を誓う。2)あくまで漢王朝に忠誠を尽くす。3)自ら皇帝になる。初め呉は1)を選んでいた。しかし一方、2)もあった。その証拠にプリントの資料に長沙呉簡の記述を挙げている。年号が「建安廿七年」(西暦222年)ってなっているってところ。魏が帝位をついで年号をかえたのが西暦220年なので。

・参照記事
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

 このあと孫堅(字、文台)の漢傳國璽の話。ここらへんはプリントの資料にあげていない。孫権が知星者に問うた話を説明(資料のプリント、三国志呉書呉主伝の注に引く魏略)。
 それから西暦229年に孫権が即位した時の正統論の話。告天文の事例(三国志呉書呉主伝の注に引く呉録)をあげている。それを主張する呉のやり方を説明。呉は血統をあげずに符瑞をあれこれあげている。東南の運気(三国志呉書呉主伝の注に引く呉書)、始皇帝巡行時の逸話(宋書符瑞志)、故老の話(三国志呉書張紘伝の注に引く江表伝)。当然、始皇帝の話は史記や漢書には載っていない。
 その次が「黄旗紫蓋」の話。三国志呉書三嗣主伝(孫皓伝)の注に引く江表伝に、丹陽の チョウ玄が司馬徽と劉[广異]の議論に偽って書き加えた話が載っている。司馬徽と劉[广異]の紹介があった後、こういったでっち上げについて解説があった。
 話が孫皓のころにうつり、石刻の説明にうつる。まず時代背景等や孫皓自身についての伝承を説明。それから孫皓の時代の符瑞にふれる。ここらへんは資料のプリントにまとめられている。それから石刻の説明で、禅国山碑について。設置場所とか形とか。「[穴/乏]石(へんせき)」を引き合いに出して、それにまつわる話、孫皓が[穴/乏]石に自分の業績を刻んだエピソード(太平寰宇記巻九六に引かれる「輿地志」)。現在では何が書かれているかわからないそうな。
 話が禅国山碑に戻る。書かれている内容について。「石刻が語る三国時代」のパンフレットに載っている釈文を中心に説明。符瑞がたくさん書かれている。禅国山碑と呉越春秋との共通した記述。「金冊青玉符」と「其書金簡青玉為字」。呉越春秋の作者は後漢の会稽の人、趙煜といわれている。実際は別の人の記述が混ざっていて漢から六朝の民間伝承と史実をごちゃまぜにされていると説明。
 呉の正統論の特徴をまとめた後、晋については午後の発表ということで講演が終わる。

 それで司会の冨谷先生のコメント(力さえあれば碑で正統性を主張しなくてもいいんじゃないかという個人的疑問等)から質問タイムへ。
 呉より後に影響はなかったかって質問→「黄旗紫蓋」は南朝で頻繁に出てくる。泰山以外の封禅に関する質問→泰山以外は例外中の例外、六朝時代に議論される。碑文はどういう層をターゲットにしたかって質問→よくわからない難しいテーマだけど個人的には自己満足な要素が強く宣伝の要素は少ない(宣伝の意味よりその当時の決意が重要)。

※追記 韋昭研究(2011年7月)


○休憩(12:10~13:10)

 いわゆる昼休みの食事休憩。清岡のその様子は少し下の記事で書いた。

・2006年3月11日 プチオフ会 神田編
http://cte.main.jp/newsch/article.php/302




 食事のため会場から出る前に、金 文京先生を見かけた。京都大学人文科学研究所の所長さんだから義務で来ておられていたのかな。
 あと、食事から帰ってきて学士会館の階段をあがってちょうど踊り場で目の前に革ジャン姿の中林史朗先生がいらっしゃって、向こうがこっちのことを知らないのは当然と1フェムト秒ぐらいで理解したんだけどあまりにもビックリしたんで「こんにちわ」と挨拶してしまった。
 会場で席に着くと、去年の三国志シンポジウムのノリを思い出して、素人考えで「変装の上、偵察か!」とか一人色めきたっていたんだけど、後で隼鶻さん情報によると、午後、冨谷先生と名刺交換をされていたとのこと。
 あと渡邉義浩先生らしき方も見かけたような気がする。


 というわけで午後の部に続く。

・午後の部
http://cte.main.jp/newsch/article.php/307

※追記 「三国文化」私観─諸葛孔明をめぐって(2012年2月1日水曜日)

※追記 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

2006年3月11日 プチオフ会 新宿編


  • 2006年3月15日(水) 18:47 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    10,682
ネット ・前回、プチオフ会 神田編
http://cte.main.jp/newsch/article.php/302

 18時40分ごろまだ神田にいた清岡、呂珪さん、隼鶻さんの三人はとりあえず青木朋さんと合流せんと、携帯で電話してみるもつながらず、とりあえず、次の会場が新宿コマ劇場の近くだと先に伝えていたので、我々三人は新宿へ向かうことに。
 しかし神保町発の電車(都営新宿線)が18:47までないことに気付く(汗)。で、実際、新宿の駅についたのが18:56。プチオフ会の会場は新宿東口からさらに歩いたところなので清岡は内心、かなり焦っていた。ここで青木さんに電話してみると、もう新宿コマ劇場についているとのこと。さらに焦りだし。地上やら地下やら新宿界隈をすたすた歩く。
 そしてようやく新宿コマ劇場についたのが19:10(汗)。一言、新宿コマ劇場といってもいろいろあるらしく、青木さんはどこにいらっしゃるのかと、電話をかけてみる。そうすると、もう会場に着いたとのこと。
 それであわてて会場へ行く。会場は前回のプチオフ会で行きそびれた「異邦人」だ。

・「異邦人」(古代中国個室ダイニング)
http://www.ihohjin.com/
・前回のプチオフ会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/287

※追記 三国志ファン、コア層こわそう

 会場はUSHISUKEさんが予約を入れてくれていて、行ってみると、すでにUSHISUKEさんとKJさんがいらっしゃって、その奧には青木さんが居て、土下座されていた。いや時間に遅れまくった我々が土下座したいぐらいなんですが(汗)
 で、話を聞いてみると、我々が青木さんを探して新宿コマ劇場周辺を彷徨っていたと思っていたそうな。いや、そんなことなく単なる遅刻です(汗)

 さて話戻して「異邦人」の「蘭州」という名の個室。
 近頃の飲み屋は個室がはやっていて、個室といっても単にカーテンで仕切っているだけで、隣の部屋の声が丸聞こえって名ばかりの個室が多いけど、ここはそんなこと全然なく、一歩、足を踏み入れると、隣の部屋の声なんて全然、聞こえない感じ。部屋にカラオケが設置されていて、そこらの部屋では大熱唱のはずなのに全然、聞こえないってことはきっと下手なカラオケ屋より防音設備が良いに違いない。
 それもそのはず、そこはまるで洞窟の横穴のような空間。なんか中華系の変な壁の絵があるし(写真参照)、そしてなんとロフトまである。部屋の中の木の階段を上がると、二人がテーブルを挟んで軽く談話できるところだ。そんなんだから、ホント異世界に連れてこられた感じ。そして自分の部屋のように落ち着ける空間。
 で、メイン会場(?)は一階(?)のテーブルのところ。座布団が引かれている。席の並びは下のような感じ。サイトを持っている人へはリンクを張っている。

出入口

  KJさん 呂珪さん 青木朋さん

   テ  ー  ブ  ル 

USHISUKEさん 隼鶻さん 清岡


 もうコース料理のはじめの品はきているようなので、まず後から来た三人はドリンクを頼む。ドリンクがそろった時点で青木さんの「八卦の空」単行本発売お祝いとあと呂珪さんのお祝いと隼鶻さんの門出を祝って乾杯した。
 なぜか清岡と隼鶻さんはマンゴジュースを注文していたんだけど、はじめの品にピータンが添えられていて、ここで隼鶻さんが大発見をする。ピータンを食べてマンゴジュースを飲むと、口の中で奇妙な味(薬品みたいな?)が広がるとのこと。清岡は隼鶻さんに強くすすめられたけど、さすがに断った(笑) USHISUKEさんたちはチャレンジしていたようだけど(汗)
 結構、良いタイミングでくる料理を食しながら、あれこれおしゃべりする。清岡が最近、お手伝いしている検索サイトの話とか。
 あとサポ板のこと。たまに来る変な質問書き込み(検索かけて他の書き込みを見ずにそのまま書き込んだようなやつ)に、青木さん的表現だと「生暖かく」回答するあたりが他の掲示板になくてとても良いとのこと。確かに言われてみれば独特の雰囲気。他の掲示板だといきなり切り捨てたりされるところもあるらしいからね。そこでそういう質問書き込みをする人にとってあれこれ検討したりして正確性を出すより、もしかすると嘘でも良いんで単純明快な決まった回答があると納得して喜んで帰っていくかもって話をしていた。この間の話じゃないけど、とりあえず回答を元に同好の人たち同士で、知識を披露しあったりサイトで「祭り」の企画をやったりあれこれ盛り上がりたいのかな、と。例えば下記のURLだと特にサポ板の情報が検証されず(もしくはサポ板上で検証した私の書き込みには触れず)そのまま載っているし。
http://musou.s38.xrea.com/test/read.cgi/bbs/1114255029/#412


 それから話の大半をしめたのが、三国志ジャンル論。
 例えば、一言、「三国志」と言っても人によっては吉川三国志を連想するし、コーエー(koei、旧、光栄)のシミュレーションゲームや真・三國無双を想像するだろうし、単なる歴史書を思い浮かべる人もいろいろ居るだろう。はっきり「三国志」と一言いっても人によっていろんな意味があっていろんなジャンルがあると認識している人なら特に議論することはないけど、単に漠然と「三国志」というものを思い浮かべている人たちやゲームならゲームだけしかないと認識している人たちはいっぱいいるはずだ。そういう人たちがいざネットで「三国志」というキーワードを頼りにあれこれ調べたり同好の人を探したりし、ある架空の三国志総合サイトにたどり着く場合の話をしていた。主観はそういった三国志初心者の方じゃなくて、サイト管理人側の方。

 はたして、三国志サイトで歴史なり小説なりゲームなり「三国志」内カテゴリーを分ける必要があるのか

という課題。その場に居た、隼鶻さん以外の人たちは「三国志」ジャンル内のカテゴリーを分けるのが当然と思っていたんで、隼鶻さんの主張は私にとってなかなか興味深い話だった。いや、いきなりこんな込み入った設定の話をしたんじゃなくて、この間のプチオフ会の話の「コア層」の認識が微妙に違っていてその発展系といったところだろう。
 私にとっての「コア層」は一つあるいは複数の「三国志」内カテゴリーに増資が深く、当然、他の「三国志」内カテゴリーのことは詳しくないにせよ、ある程度は認識しているファンを想定している。一方、隼鶻さんはそういうファン以外にも他のカテゴリーのことをまったく知らないでもある一つの「三国志」内カテゴリーに長いこと逗留するファンも含むそうな。例えば「10年、コーエーの三国志のシミュレーションゲームやってます」っていうようなファンも含むそうな。
 隼鶻さんの想定するところは、ゲームファンなり小説ファンなり歴史ファンなりそういったいろんな三国志ファン(コア層でも)が「三国志」という共通することさえあれば、わかりあえるってこと。そういえば去年、オフ会を東京で何度か開いていたときも隼鶻さんは「三国志のオフ会をする」と広く告知さえすればいろんな三国志ファンが集まってくると言っていたなぁ。
 そのため、三国志の総合サイトにカテゴリー分けは要らないってのが隼鶻さんの主張だ。もっというとほとんど三国志のことは何も知らない初心者にわざわざ三国志ジャンルの中を区切って教える必要はないってことだそうな。下手をするとそのサイトの管理人の考えによって初心者である閲覧者が広い三国志ジャンルの中のごく一部、狭い一カテゴリーに押し込まれてしまうおそれがあるって危機感だ。
 これは前々から隼鶻さんが三国志ジャンル全体について疑問に思っていることの流れから来ている考えだ。隼鶻さんが見るに今の三国志ジャンルの中身が区切られていることに違和感を抱いているとのこと。理想としては先にあげたように「三国志」という共通項でいろんな方向性の三国志ファンが集まってくる状態だ。確かにその理想の実現にとって、三国志ジャンルが細分化されている現状は弊害以外の何者でもないのだろう。隼鶻さんにとって三国志ファンは初心者のうちから狭いカテゴリーに押し込められている観があるようだ。
 隼鶻さん自身が馴染みのない別の「三国志」内カテゴリー、スーパー歌舞伎を見に行ったり、同人誌展示即売会に行ったりしたことがあるのは、そういった細分化された現状はおかしいと考えている気持ちの表れなのかなぁ、と清岡は思っている。

 他の人にとっては思いもよらない話だけに真っ先に反論するというより先に隼鶻さんの主張を皆、理解しようとしていた。隼鶻さんにあれこれ質問したり、別の言葉で言い換えてそういう意味であっているか確認したり。
 清岡は総合サイトでカテゴリー分けがされていないと利便性が失われるのではないか、と思っていた。三国志ジャンルみたいに広い分野だとどこをクリックすれば良いかわからなくなるんじゃないか、と。
 青木さんや呂珪さんあたりがおっしゃっていたのが、サイト管理人のようなファン歴の長い人が初心者を狭いカテゴリーに押し込んでいるというより、むしろ初心者が進んで狭いカテゴリーに行っているんじゃないか、ってこと。初心者のうちは全然、方向性の違う三国志ファンと話を合わせようと勉めるより、初心者自身と好みや知識が近いファンたちのところで共感したり盛り上がったりしたんだろう、と。呂珪さんの言葉を借りるなら三国志の知識を広めるよりも今、持っている真・三國無双の太史慈の知識や想いから「子義祭り」をして盛り上がりたい! といったところだろう。これはこの間のプチオフ会の話の初心者の傾向と似通った理屈だ。とコア層が六人もあつまっている場だと、地に足のついた議論ではないかもしれないけど。
 あと、青木さんが示唆していたのが、何も「三国志」内カテゴリーはきっちり三国志ジャンルにおさまっているというわけではない、ってことだ。話に出ていたのが真・三國無双のファンのこと。真・三國無双シリーズのプレイヤーは、例えば真・三國無双4猛将伝にあきると、別の「三国志」内カテゴリーにうつるというよりは、戦国無双2で遊ぶだろうし、それにあきるとファイナルファンタジーXIIであそぶだろうってこと。つまり大半が三国志より先にゲームありきだろうってことだ。たまたま遊んでいるゲームで三国志が題材に使われているという感覚かもしれない(もしかすると題材に三国志が使われていることすら知らないかもしれない)。清岡が思うに、初心者にそれは三国志が題材として使われているのだよ、とそれとなく伝えるにはやっぱりカテゴリー分けが要るのかな、という気がしていた。

 と、こういう話をあれこれしていたら「異邦人」に居れる2時間があっと言う間にすぎた。そのためいそいそと会場をカラオケ店に移す。それにしても「異邦人」はとても居心地が良い店だった。
 カラオケ店でそこからさらに1時間半、同じテーマでおしゃべりして、23時半に解散となった。最後の方で隼鶻さんの壮大な野望を聴いたんだけど、それはここでは割愛。

 特に具体的な話が出たわけじゃないけど、なかなか興味深い話や見解をあれこれ聴けた。隼鶻さんの意見に賛同する人がいなかったので、雰囲気的に隼鶻さん対その他五人といった構図になってしまったけど、また機会があればこのテーマの続き(もちろん壮大な野望込みで)を話したいな、と思った。

2006年3月9日 三国志onlyサークル会誌「KINGDOMS×REVOLUTION」5号発行


  • 2006年3月14日(火) 12:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,354
二次創作  会報系三国志onlyサークルの名前でありそのサークルの会報の名前でもある「KINGDOMS×REVOLUTION」。その会報の五号が2006年3月9日に発送されたことが永空堂さんのサイト(下記URL)に書かれてあった。ついでに前号の記事も下記にかかげておく。

・ba69me
http://pksp.jp/ba69me/
※ここの→「三国志喫茶へ」→「KXR連絡所(BBS)」

・三国志onlyサークル会誌「KINGDOMS×REVOLUTION」4号発行
http://cte.main.jp/newsch/article.php/183

 11日の朝から12日の夜まで家をあけるんで、こりゃその間にくるな、と思っていたら、案の定。12日の夜でようやく見ることができる。
 今回もB5中綴じコピー本で、今回は20ページ。うち7ページが清岡の原稿。写真のように「三国志重大ニュース2005カウントダウン」ってやつだ。
 毎回、会報には特集のテーマが設定されていて、今回は「新年、1、2、3、ダー!!」。珍しく清岡の原稿はその特集テーマに即していたので目次にそう紹介されていた。まぁ、清岡の原稿はともかく特集にあるイラスト類に注目だ。

 次号、「KINGDOMS×REVOLUTION」6号の原稿締切は2006年5月20日。そして特集のテーマは梅雨に合わせてか、「雨、あるいは   」ってこと。
 サークルおよび会報へ興味ある方は上記、サイト「ba69me」(携帯電話対応)の「三国志喫茶」へGo!

 あと、ついでに「KINGDOMS×REVOLUTION」代表の永空堂さんがサイト「英傑群像」(下記URL)で2006年2月22日に「永空堂の徒然ボンド草」というタイトルの日記をスタートさせた。
 前々から「英傑群像」のブログで永空堂さんの名前があったんで、何か書かれるのかな、と思っていたけど、結局、独立したコンテンツになったんだね。

・三国志グッズ総合オンラインショップ「英傑群像」
http://www.chugen.net/