※関連記事
メモ:第6章 武侠漫画の映画的手法表現の成立をめぐって
上記関連記事の流れで、図書館から借りていたんだけど、返却期限が来たので、一旦返した、竹内オサム/著『マンガ表現学入門』(筑摩書房2005年6月25日発行)を再び借りようと図書館の端末で「マンガ表現」と検索すると、当然ながら、別の書籍も検索にリストアップされた。その一つが山田奨治/編『コモンズと文化 ─文化は誰のものか─』(東京堂出版2010年3月28日発行)で、気になって、それがある著作権や書籍関連の開架に行くと目に付いたのが、今回、紹介する京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター編『漢籍はおもしろい』(京大人文研漢籍セミナー1、研文出版2008年3月6日発行)であり、中をパラパラ見ると借りることを決意する。
※リンク追記
・マンガ関連二種 (※2013年3月2日の三国と無関係の雑記)
http://cte.main.jp/sunshi/2013/0301.html#02
下記関連記事で触れたように、最近、ちょうど「景初二年」を巡る暗黙の了解について気に掛かっており、それがこの書籍PP.37-70所収の冨谷至「錯誤と漢籍」に解説されていたからだ。
※関連記事
同志社大学の入試で三国演義・三国志関連2013
この書籍の巻末に「本書は、二〇〇五年三月一二日(土)に学術総合センター二階中会議場において開催された第一回TOKYO漢籍SEMINARの講演にもとづいて、新たに書き起こしたものである。」とあるように、元となる講演があって、その第二回(※個人的には、冨谷至先生に青木朋さんがサインをこっそりと求めていたのが印象的な)や同じ様な書籍については下記関連記事ですでに触れてある。
※関連記事
2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ
京大人文研漢籍セミナー2 三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む
まず「錯誤と漢籍」の目次から
38 はじめに
40 一 錯簡
53 二 伝書の誤り
56 邪馬台国はなかった?
58 景初三年と卑弥呼の鏡
「一 錯簡」は、その名の通り、編綴された複数の簡が錯綜した状態で、そのまま後世まで誤りが伝わることを本題としている。その例として『論語』の例が挙げられている。「尺牘」という言葉があり、簡牘は一尺だと思っていたが、この節のP.46以降によると、
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
普通に使用するものは、一尺(漢代の一尺は約二三センチ)であり、皇帝から下される詔書は一尺一寸、儒学の教典は二尺四寸、そして『論語』といえば、八寸の長さの札に書かれる。つまり書物、文書はそれがもつ権威によって、長さが決められていた、否、長さでもって書物や文書を権威づけしていたのである。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
とのことで、さらに『論語』は権威づけされていなかったのではなく、周代の一尺の長さに合わせた結果だとう。一尺だと一行三〇字前後で、『論語』は双行の注釈があると仮定し、そこから計算して二三字分だという。
「二 伝書の誤り」にてP.55にて
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歴代、国家の典籍を管理し、また補修、訂正、書写するための期間としては、秘書監、秘書省といった官署があった。後漢の桓帝延熹二年(一五九)に秘書監がおかれ、宮中の図書・秘記を所轄することを職務とし、以後、秘書監は魏晋南北朝にも引き継がれる。否、図書の増加と共に、期間の規模が大きくなっていたといってよい。
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とあり、以降の王朝で筆写や校定が行われ、P.56に「一説には、漢代には、七度、魏晋には六度、南北朝には十数回、唐代には四度、書物の校定が記録の上から確認されるという(姚名達『中国目録学史』校讎篇)。」とある。これだけ機会があれば、書き間違い、写し間違いがあるのは自然という流れ。
その流れを受けて「邪馬台国はなかった?」では、P.57にて『三国志』に「邪馬臺國」ではなく「邪馬壹國」となっていことについて。『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』『資治通鑑』『通典』『太平御覧』では「臺」になっているそうな。『三国志』の錯誤の傍証として『隋書』東夷伝に
倭國、在百濟・新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
とあるという。
1971年に古田武彦/著『「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎』が朝日新聞社より刊行され、「その衝撃的なタイトルからベストセラーとなり」とし、その書籍の内容について触れられている。
※関連記事
古田武彦・古代史コレクション(2010年1月30日-)
※追記
第31回 春の古書大即売会(京都古書研究会2013年5月1日-5日)
※追記
古田 武彦 氏、死去(2015年10月14日)
『三国志』中の「臺」と「壹」について調べ、それらが混同される可能性がないとしているそうな。それについての結論は先送りで、話題転換される。
それで気になる「景初三年と卑弥呼の鏡」。冒頭のP.58-59で、
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従来、この「景初二年」に関しても、『梁書』(唐・姚思廉撰 六三六年成立)、さらには我が『日本書紀』神功皇后三九年には「景初三年」となっており、景初二年八月に遼東半島一帯を支配していた公孫淵を魏が征討した(景初二年八月)以降のことと考える方が理解しやすいことから「二年」は「三年」の誤りと考えられてきたのである(『北史』〔唐李延寿撰 六五九年成立〕の百衲本、汲古閣本は、「景初五年」につくる)。
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とあり、日本史の分野で「景初三年」である理由が簡潔に述べられている。清岡注で、軽く検索すると『日本書紀』は720年に完成しており、素人考えでこの『梁書』を参考にしているように思われ、それって情報源一つで、しかも地元(つまり日本)の史書贔屓で学説を決めているように思える。
それで先の古田氏の話に戻り、P.62に
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すでに述べたように、古田氏の考証は現行本『三国志』──それは宋版(紹煕本、紹興本)を基にする──をもって進められる。宋版『三国志』には、「臺」と「壹」の混同・錯誤は、認められない。「臺」と「壹」の字形は似ていない。したがって両者の間には間違いは生じるはずはないという。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
とあり、そこから誤りが起こる可能性について論じられていく。前提として前述の写す機会の多さがあり、そして、字形、特に草書体について論じられている。
興味のある方はこの書籍を直接読んで欲しいところなので、これ以上、詳しくは書かないが、P.70にて以下のように締められている。どちらを選んだかで著者の考えが出ているような気がするが、違うんだろうかね。
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以上のことから、私は、邪馬臺、景初二年の誤謬は唐代になってから生じたと考えたいのである。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
※追記
三国時代の日本 卑弥呼と弥生時代展(2013年3月23日-6月30日)
※追記
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※追記
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地下からの贈り物(2014年6月)
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