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掲示板 件名 最新投稿

古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)


  • 2009年1月25日(日) 21:13 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    275,230
歴史 ※関連記事 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

 上記記事を書くにあたり、そう言えばネットで楊守敬『水経注図』を見ることができることを思い出す。確か、サイト「三国志討論会」のチャットログで知ったんだ。

・三国志討論会
http://san-gokushi.com/debate/


 それでどこで見れるかというと、下記の早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」。

・古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/

「台灣中央研究院漢籍電子文獻」リニューアル?


  • 2008年12月10日(水) 23:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,706
歴史

数日前からやたら 「中央研究院 漢籍電子文獻」とか検索があるんで何かと思えば、「台灣中央研究院漢籍電子文獻」がリンク切れになっている。
「台灣中央研究院漢籍電子文獻」とは『三国志』を始めとする正史類の史書などを閲覧できるサイト。史書系を好む三国志ファンがよく見るサイトなのだ(…と『三国演義』毛宗崗本もあったあるから、三国演義ファンも使うのかな)。私は「漢籍電子文獻」はあまり使わないが、「中央研究院兩千年中西歴轉換」はよく使い、こちらもリンク切れしているので、不便に感じていた(「中央研究院歴史語言研究所文物圖象研究室資料庫檢索系統」も使うがこちらは今、生きている模様)。

・台灣中央研究院
http://www.sinica.edu.tw/

昨日あたり、 上記の「台灣中央研究院」→「more」→「學術資源」と辿ると「漢籍電子文獻」にリンクが張られていなかったが、今日、改めて見ると、下記サイトに繋がる。

・中央研究院漢籍電子文獻
http://dbj.sinica.edu.tw:8080/handy/

そこの「個人使用申請」を見てみると、申請制な上に年間台湾三千元である以前にどうやら日本からの使用ができないみたいだね(汗)
上記には「舊版系統」というのがあってリンクが張られているんだけど、現在、「中央研究院兩千年中西歴轉換」と同様リンク切れを起こしている。こちらは従来どおり無料で使えないものかな。
…と思ったら、以下のようなのがあるんだね(笑)

・新漢籍全文
http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/

<12月11日追記>
「台灣中央研究院漢籍電子文獻」が前の状態に戻っているね。昨日までの状況は一体、何だったんだろう。。。


※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

「高下在心」


  • 2008年11月27日(木) 19:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,385
歴史

「高下在心 故事」とか「高下在心 意味」とかよく検索されるんで、何かと思って再検索してみると、下記のように11月25日の記事が出てくる。

・MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/

・「枯れたヒマワリを咲かせたい」 中村紀の楽天入り濃厚か
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081125/bbl0811252107009-n1.htm

・よくある質問 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/faq/faq.htm#Anchor-06


つまり、中村紀選手が野村克也監督から「高下在心」と書かれた色紙を授かったと言う。
「高下在心」、そのまま読めば「高下(高低)は心に在る」といったところなんだろうね。
 

メモ:漢中興士人皆冠葛巾


  • 2008年9月12日(金) 23:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,336
歴史  私の記憶で、袁紹か袁術かを例にして当時の身分の高い人でも物資の乏しさ故に冠を被れないってのがあったんだけど、何で見かけたのか、すぐに思い出す。下記。

 沈従文/編著、古田真一/訳『中国古代の服飾研究』(京都書院1995年)※原書1980年

・三国志ファンのためのサポート掲示板
http://cte.main.jp/
・やっぱり「中国古代の服飾研究」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=64

 この『中国古代の服飾研究』だけど、そういえば豊富な挿図に目が行き、ある程度、通して読んでなかったなと思い、この期に図書館から借り興味のあるところを一通り読んでみる。

※関連記事 前漢に鐙はあった?!

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)


 典拠があまり明示されていなかったり、語句が主に現在のもので当時の呼ばれ方が判りにくかったりするものの、あれこれ新たに発見することも多かった。綬を納めるためのものが「虎頭[般/革]嚢」と呼ばれ、その画像もあったりと(※ここでいう画像は畫像磚石・俑などの出土物の写真やスケッチのことね)。あと出土した武冠の漆紗部分の写真とか。進賢冠の梁は鉄製だとか(※出典不明。探せばありそう)

※関連記事 メモ:武冠のあみあみ

 それで読んでいくと記憶にある箇所を見つける。それを下記に引用。

P144
「このような状態であったので、将軍の身分であった者、例えば袁紹や崔鈞でさえも、ただ頭巾で頭を包むことができただけで、冠を戴くことは難しかったわけであり、ましてや他は推して知るべしであろう。」


 「このような状態」というのは天下の荒廃ぶりを示した文であるが、特に典拠が書かれていない。しかし、冠ってそんな物資が要るかな? 進賢冠の梁ぐらいのような。

※関連記事 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

 ちなみに崔鈞といえば、下記のように袁紹と共に山東で反董卓のため兵を起こした人なので、上記のこともこれぐらいの時期の出来事を指しているのかな?

・『後漢書』崔[馬因]列傳

鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東、董卓以是收烈付[眉β]獄、錮之、[金良]鐺鐵鎖。


 それで「崔鈞」をキーワードに典拠を探してみるとあっさり見つかる。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』だ。似たような記述は『晋書』や『宋書』にも見られる。


・三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』

漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹・崔鈞之徒、雖為將帥、皆著[糸兼]巾。魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁[糸兼]帛以為[巾合]、合于簡易隨時之義、以色別其貴賤、于今施行、可謂軍容、非國容也。

<清岡による訳>
漢末の王公は王服を多くまねて、幅巾をもって雅として、これにより袁紹・崔鈞の徒は將帥だといえども、皆、[糸兼]巾をつけた。魏太祖は天下の凶荒をもって、資財が乏しく尽き、古の皮弁をまね、[糸兼]帛(白いかとりぎぬ)を裁つことで[巾合]にし、簡易に随時の義において合わせ、色をもってその貴賎を分かち、今において施行し、軍容(軍の儀容)というべきで、国容(国の儀節)ではない。


 後半部分の魏太祖(曹操)はまさしく『中国古代の服飾研究』の言うとおりなんだけど、個人的には、前半部分だけだと、特に袁紹や崔鈞が資財に乏しいだけで[糸兼]巾を着けていたわけじゃなく、「冠を戴くことは難しかった」と言い切れないような気がする。

 『三国志集解』によると、上記「非國容也」の後に次のように書かれている。

博物志漢中興士人皆冠葛巾建安中魏武造白[巾合]於是遂廢惟二學書生猶
著也中華古今注軍[巾(匚+夾)]魏武所制以軍中服之輕便又作五色[巾(匚+夾)]以表方面也

<清岡による訳>※うまく訳せてない。
博物志に言う。
漢の中興の士人は皆、葛巾を冠し、建安中、魏武は白[巾合]を造り、このため、遂に(葛巾を)廃し、ただ二学書生は(葛巾を)著した。(※追記。二学は太学と国子学)
中華古今注に言う。
軍[巾(匚+夾)]は魏武の制するところであり、これにより軍中でこれを軽便(手軽)に服し、また五色の[巾(匚+夾)]を作ることにより方面を表した。


 これと合わせて考えると、袁紹や崔鈞の時期というより、建安中あたりから冠を戴くことは難しかったのかな? とは言っても袁紹や崔鈞の時期と建安中は重なる部分はあるだろうけど。

 あと「葛巾」と言えば諸葛亮を連想することをメモとして残しておこう。

・諸葛亮の羽扇について。 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1452

メモ:東漢人多為舉主行喪制服


  • 2008年7月13日(日) 17:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,513
歴史  『後漢書』傅燮伝を読んでいると

再舉孝廉。聞所舉郡將喪、乃棄官行服。

という記述があって、傅燮は二回、孝廉に挙げられ、挙げた郡将(=郡太守)の喪を聞き、すなわち官を棄て喪に服したと言う。

 これを読んだとき、どれぐらいの期間、喪に服していたのかな、と疑問を持っていた。

 私自身、こういった礼に詳しくないんだけど、例えば『儀礼』喪服に当たり(池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)を参考にした)、三年の喪に該当する相手(亡くなった人の立場)や実際に行う人を挙げると、まず斬衰三年(斬衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父 (父のためにする)
 諸侯為天子 (天子のために諸侯がする)
 君 (君のためにする)
 父為長子 (長子のために父がする)
 為人後者 (人の跡継ぎとなった者がする)
 妻為夫 (夫のために妻がする)
 女子子在室為父 (父のために女子子で室に在る者がする)
 子嫁反在父之室為父三年 (子が嫁し、反って父の室は父のために三年する)

となり、つぎに齊衰三年(齊衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父卒則為母 (父が卒しておれば、母のためにする)
 慈母如母 ((父が卒しておれば)慈母のためにすることは母の如くにする)
 母為長子 (長子のために母がする)

となっており、少なくともここでは、孝廉を挙げた太守のために喪に服する場合で該当するものがないので、三年ではないのだろうな、と漠然と思っていた。

 ところが今、『後漢書集解』の傅燮伝を見ると冒頭で掲げた傅燮伝の箇所に、『後漢書集解』による注が以下のように付けられてあった。

[集解]蘇輿曰此為舉主行服之始桓鸞傳太守向苗舉鸞
孝廉苗卒鸞去膠東令職奔喪終三年乃歸荀爽傳袁逢
舉爽有道不應及逢卒爽制服三年並其事也此外屬吏之於其
長如郡吏樂恢為太守行服功曹李恂為太守李鴻服喪三年弟
子之於師如馮冑之於李[合β]制服心喪三年封丘令王元賞之門
生斬杖三年當時風氣之厚如此但與親喪無別則昧
等差耳
※さらに細かい字で注があったが私の持っている本だと潰れて読めない部分もあるので省略。

 いちいち訳すのは面倒なので略すけど、要は孝廉に挙げた太守の向苗のために三年の喪に服した桓鸞や、孝廉に挙げた袁逢のために三年の喪に服した荀爽のことが例として載せられている(さらに言えば荀爽は孝廉に応じていないのにも関わらず三年の喪に服している)。
 それに続き、属吏がその長のために三年の喪に服している例や、弟子が師のために三年の喪に服している例が挙げられる。

 上記の漢文をタイプするのが面倒なので、コピー&ペーストで済まそうと手元の電子文献で似たような文を探しているときに見かけたんだけど、『風俗通義』十反第五の注に

案東漢人多為舉主行喪制服

とあって、それに続き上記の傅燮伝、桓鸞伝、荀爽伝の記述が書かれてあった。

 どれぐらいの割合でこういったことが行われたか見当がつかないけど、挙主に対して三年の喪に服す事例はあるのだということはわかった。

 ちなみに三年の喪に関しては下記のURL参照。

・素朴な質問(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2489

※というか関係ないが、「三国志ファンのためのサポート掲示板」の書き込みでも「夏」を感じられるようになってしまったんだね(滝汗)

※追記 メモ:『後漢書』傅燮伝

4月25日は蹇碩の忌日


  • 2008年4月25日(金) 00:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,674
歴史 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆屬進。

<清岡による訳>紀元189年4月25日、上軍校尉の蹇碩は獄に下り誅殺され、兵は皆、何進に属した。

とのことで4月25日は蹇碩の忌日。庚午の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
宦官の蹇碩と言えば霊帝の寵臣で、西園八校尉のリーダーたる上軍校尉になっている。
しかし、蹇碩はその権力を支えていた霊帝の死後、もう一方の権力者である大将軍の何進により死に追い込まれる。
霊帝が亡くなってから14日後のことだった。

ちなみに31年後の4月25日に夏侯惇が薨去している。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 4月11日は霊帝崩御の日
 4月25日は夏侯惇の命日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

4月13日は劉弁即位の日


  • 2008年4月13日(日) 11:32 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,407
歴史 二日前に「4月11日は霊帝崩御の日」なんてことを書いたけど、皇帝が崩御すると、次の皇帝が即位するということで、『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は年十七で皇帝位についた。


とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)戊午、皇子辯即帝位、太后臨朝、大赦天下。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は帝位につき、太后は朝に臨み、天下に大赦した。


とのこと。といっても当時の状況を象徴するかのように、紀元189年9月1日に董卓により廃帝され弘農王にされ、紀元190年1月12日(『後漢紀』より)に劉弁は年十八の若さで董卓により殺されてしまう。

※関連記事
 4月11日は霊帝崩御の日
 3月13日は張純の忌日

4月11日は霊帝崩御の日


  • 2008年4月11日(金) 12:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,871
歴史 『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)丙辰、帝崩于南宮嘉徳殿、年三十四。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は南宮嘉徳殿において、年三十四で崩御した。

とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)丙辰、帝崩於嘉徳殿。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は嘉徳殿において崩御した。

とのこと。ここでいう帝とは後漢の霊帝(劉宏)のこと。丙辰の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
無上将軍を自称してから半年ほどしか経っていないうちの崩御となった。
この後、京師(みやこ)は権力争いや董卓による秉政によりいろんな意味でボロボロになっていく。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 3月13日は張純の忌日

 4月13日は劉弁即位の日

 4月25日は蹇碩の忌日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

※追記 メモ:『古代中国と皇帝祭祀』(汲古選書26)

※追記 8月25日は何進の忌日

3月13日は張純の忌日


  • 2008年3月13日(木) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,568
歴史  過去の記事で「x月x日は○○の命日」なんて銘打って書いていたけど、「命日」は仏教用語だろうから当然、三国時代では使われていないと自己ツッコミをしつつ今回から「忌日」と銘打つ(前回、自己ツッコミ済だけどね)。

※関連記事
 閏1月28日は司馬師の命日
 4月25日は夏侯惇の命日
 8月5日は司馬懿の命日
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日

 4月11日は霊帝崩御の日

 それで今回、取り上げるのは張純。同姓同名が居ると思うけど、漁陽郡漁陽県出身で中山相だった張純のこと。中平四年に叛乱を起こした人物だ。
 そのことは『後漢書』孝靈帝紀に載っている。

<本文>
(中平四年六月)
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。

<清岡の頼りない訳>
(紀元187年6月)漁陽人の張純と同郡の張挙は兵叛を挙げ、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠らを攻め殺した。張挙は天子を自称し、幽・冀二州に進寇した。


 この張純は三国志ファンに馴染みのない人物かもしれないが、劉備の初戦に関わる人物として、下記に引用する『三国志』蜀書先主伝の注に引く『典略』に出てくる

<本文>
典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。

<清岡の頼りない訳>
典略に言う。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。

※関連記事
 リュウビ二十七歳


 それでようやく本題だけど、下記のように『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)だとこの張純は三月己丑(3月13日)に殺されたとのこと。ただ三月己丑が張純の殺されたところまでかかるかどうかわからないけど。三月己丑の日付の同定は例によって「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使っている。

<本文>
(中平六年)
三月己丑、光祿劉虞為司馬領幽州牧、撃張純。虞使公孫[王賛]撃純、大戰破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、[王賛]為都亭侯、並鎮北邊

<清岡の頼りない訳>
(紀元189年)
3月13日、光祿の劉虞は司馬になり幽州牧を領し、張純を撃った。劉虞は公孫[王賛]に張純を撃たせ、大いに戦いこれを破った。張純の客の王政は張純の首を斬り、下った。劉虞は襄賁侯、公孫[王賛]は都亭侯に封じられ、並んで北辺を鎮めた。


・「中央研究院兩千年中西暦轉換」関連のサポ板での書き込み
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1825

メモ:虎牢関って


  • 2008年2月22日(金) 23:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    7,093
歴史 『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』を参考とした地図。 手元のサイトのアクセスログを見ると、ちょくちょく検索されるワードに「虎牢関 場所」というものがある。それほど、虎牢関の場所を知りたがっている三国志ファンが居るのだろうな、と実感していた。というわけで迷える三国志ファンのために少しでもお役に立てれば良いなとおもいつつ、「虎牢関」について私が知っていることをメモしておこう。

 白話小説である『三国演義』には「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」に董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦う場として「汜水関」や「虎牢関」が出てくる。『三国演義』において、前者では関羽が華雄を一刀のもとに斬り捨てたシーンで有名な場所で、後者は劉備・関羽・張飛が呂布と戦ったシーンで有名な場所。そのため三国志ファンの間では特に「虎牢関」が良く知られている
(↑一応、記事の前提条件を読者に確かめてもらう文)

 「虎牢」という地名自体はすでに『史記』や『漢書』にも見られ(例えば『史記』三代世表、『漢書』五行志)、さらに『史記』の注に

正義括地志云:「洛州氾水縣古(之)〔東〕[(埒虎)の土を抜いた字]國、亦鄭之制邑、又名虎牢、漢之成皋。」

<清岡による頼りない訳>
正義括地志に言う。「洛州の氾水県は古の東[(埒虎)の土を抜いた字]国であり、また鄭の制邑であり、またの名を虎牢であり、漢の成皋だ」

とあり、「虎牢」は漢代では「成皋」と呼ばれている。

 それで本題の『三国志』では「成皋」という地名は出てきており、『三国志』魏書武帝紀ではズバリ、董卓の勢力との戦いのところで出ている。長いが以下に標点がついた文を引用し、頼りない訳をつけておく。あと解りやすいように譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社出版)を元とした関連地図をこの記事につけておく。「成皋」という地名に注目。

初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔[イ由]・[六/兄]州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張[しんにょうに貌]・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。

二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、[しんにょうに貌]・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、[イ由]屯潁川、馥在[業β]。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。[しんにょうに貌]遣將衛茲分兵隨太祖。到[(螢)の虫が水]陽[シ卞]水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。

太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞[(車環)の王ぬき]轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」[しんにょうに貌]等不能用。

<清岡による頼りない訳>
初平元年(紀元190年)の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔[イ由]、[六/兄]州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張[しんにょうに貌]、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万であり、袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。

二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張[しんにょうに貌]、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔[イ由]は潁川に駐屯し、韓馥は[業β]に在った。董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操)は言う。「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか? 仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」 遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張[しんにょうに貌]は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。[(螢)の虫が水]陽の[シ卞]水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。

太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに因りて言う。
「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守っていただき、敖倉に拠り、[(車環)の王ぬき]轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」 張[しんにょうに貌]らは用いることができなかった。

※[(車環)の王ぬき]轅と太谷を「関」としている理由は後述。

 ここで注目ししばし覚えてほしいことは「成皋」という地名が出てくるものの実際に戦いはない。また「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」と「関」が出てくるもののこの時期、実際、山東勢と董卓による戦いが行われなかったことだ。
 『三国志』において「虎牢」という言葉はなく(但し、『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』の詩に「虎牢」という言葉が載っている)、反董卓時期に「関」での戦いも載っていないので、従って

 『三国志』に「虎牢関」は載っていない

ということになる(「汜水関」も載っていない)。

※「関」が何かは下記のURL先参照。

・関所の役割(「三国志ファンのためのサポート掲示板」、通称、サポ板内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2880

 もっと掘り下げると当時、「成皋」辺りに「関」があったのかどうかということになる。「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」は洛陽から見てそれぞれ南東、南東、南西にあり、東にある「成皋」からほど遠い位置にある。この時期あたりで、この三つの関以外に出てくる関は『三国志』魏書武帝紀において董卓秉政時期に曹操が洛陽から密かに東へ帰る下りで出てくる。

太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑

<清岡による頼りない訳>
太祖(曹操)はすなわち姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなる。


 また、この部分の直前の注に引かれる『魏書』には


從數騎過故人成皋呂伯奢。

<清岡による頼りない訳>
数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。


とある。但し「成皋呂伯奢」が成皋出身の呂伯奢という意味で現住所かどうかわからないが。

<関連記事>2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 それでこの関は何かというと、『三国志』からは見出せず、対象となる時代が近い『後漢書』から見出せる。
 『後漢書』皇甫嵩伝で黄巾から洛陽を守る準備をするという下りで、


詔敕州郡修理攻守、簡練器械、自函谷・大谷・廣城・伊闕・[(車環)の王ぬき]轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。
※大谷・[(車環)の王ぬき]轅在洛陽東南、旋門在汜水之西。

<清岡による頼りない訳>
詔敕により州郡に攻守の修理をさせ、函谷、大谷、廣城、伊闕、[(車環)の王ぬき]轅、旋門、孟津、小平津の諸関より器械を選び出し、並びに都尉を置く
※注。大谷・[(車環)の王ぬき]轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜水の西に在る。


というのあり(これを見ると前述の「孟津」も関のことかも)、さらに『続漢書』郡国志によると

成[四/幸](皋)有旃然水。有瓶丘聚。有漫水。有汜水。

ということで、成皋に汜水がある。
 まとめると曹操は東へ帰るときに通った関は「成皋」近くにある「旋門関」の可能性が高い。

 話を戻し、対象となる時代を順に『三国志』から正史類を見ていくと、『宋書』小帝紀で


(景平元年正月)虜將達奚(斤)破金[土庸]、進圍虎牢。

<清岡による頼りない訳>
(紀元423年1月)虜(北魏)の将の達奚斤は金[土庸](地名)を破り、虎牢に進み包囲した。

(※2009年12月追記。よく考えたら唐の李淵の祖父は李虎なんで、避諱されて「武牢」になるんだよね。後もそうなんだけど、「武牢」や「武牢関」で調べ直す必要がある。)


というふうにようやく「虎牢」という地名が出てくる。さらに蛇足だけど『宋書』文帝紀では


(元嘉七年)十一月癸未、虎牢城復為索虜所陷。

<清岡による頼りない訳>
(紀元430年)十一月癸未、虎牢城はふたたび索虜(北魏)に落とされた。


というふうに「虎牢城」という表現が見られるようになる(もっとも仮に県の名前が「AAA」だとするとその県城を「AAA城」という表現をするが)。
 さらに正史類において時代を下っていくと、『新唐書』武宗紀で


(會昌五年)十月、作昭武廟于虎牢關。

<清岡による頼りない訳>
(紀元845年)十月に昭武廟を虎牢関に作った。


というふうにようやく「虎牢関」の表現が出てくる(この「虎牢関」が前述の「旋門関」と同じあるいは同じ場所にあるのか、私は調べ切れていない)

 ここからは史書から離れて、なぜ『三国志』に載っていない「虎牢関」が三国志ファンによく知られるようになったかについてメモを書く。
 唐代からかなりの空白ができてしまうんだけど、元代の雑劇で董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦うものに、そのものズバリのタイトルで鄭光祖『虎牢關三戰呂布』(最近、サポ板でも書いたとおり私自身、ちゃんと確認していない)というようにタイトルに「虎牢関」があり、さらには冒頭でも書いたように『三国演義』(ここでは最も普及している毛宗崗本)でも「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」とタイトルに「虎牢関」がある。後漢末や三国時代と違い、ここまで時代が下ると「虎牢関」は馴染みのあるものとなっていたんだろう。
 また宋代の『朱子語類』卷第五十七 孟子七によると


 鄭之虎牢、即漢之成皋也。虎牢之下、即[シ秦][シ有]之水、後又名為汜水關

<清岡による頼りない訳>
 鄭の虎牢はすなわち漢の成皋だ。虎牢の下は、[シ秦]水と[シ有]水につき、後にまたの名を汜水関とする


ということで虎牢と「汜水関」が同じと認識されている。

 また、サイト「超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫」を見ると現在でも虎牢関があったとされる場所を示す碑もあるらしい。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 また、私からは未確認ながらサポ板の書き込み記事143828821512によると『歴史群像【中国戦史】シリーズ 真三國志』(学研)には虎牢関の場所を示す地図、『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻 曹操・劉備・孫権天下への大計』(学研)には虎牢関のイラスト、『三国志の大地』(竹内書店新社)では「汜水関と虎牢関は同じ物で、三国時代では汜水関と言われていた」という記述が見られるとのこと。これらは歴史を元にしているのか創作を元にしているのか確認していないが。


 ということで三国志関連の作品で「虎牢関」という記述を見かけると、その作品は歴史以外にも何か別に参考にしているのだな、と判断するように、私は「後漢は木徳」と同じように「虎牢関」があるかどうかを作品のチェック項目としている。


<2008年7月24日追記>
知り合いが、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーを持っていたんだけど、それによると成皋関(前漢)→旋門関(後漢)となっていた。
機会が在れば貸して貰ってちゃんと読んでみよう。

※追記 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

※追記 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究