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掲示板 件名 最新投稿

『後漢書』朱儁伝の冒頭


  • 2009年4月17日(金) 20:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,965
歴史  どうも漢文離れが久しく、私にとってその先の創作になかなか進めないこともあり、良いスパイラルへ変えたくて、この場できっかけ作りをしてみる。
 何かというと、史書を自分なりに読んで、その一端を書いてみる。対象は宋范曄『後漢書』朱儁伝の冒頭とそれに対応する唐李賢(※というか章懐太子か)等の注と王先謙等の集解部分。

4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日


  • 2009年4月16日(木) 12:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,874
歴史 ・孫権の忌日  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2874


 以前、上記のリンク先のように書き込んだんだけど、『三国志』呉書呉主伝に、

(太元二年、紀元252年)夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。

<清岡による訳>
(太元二年、紀元252年)夏4月に孫権は薨去し、当時、年七十一で、大皇帝と諡をつけた。


とあって、亡くなった月日まで書いてない。ところが同書の他の伝、諸葛恪伝には

權疾困、召恪・弘及太常滕胤・將軍呂據・侍中孫峻、屬以後事。翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。

<清岡による訳>
孫権は苦しみ、諸葛恪と孫弘および太常の滕胤、将軍の呂據、侍中の孫峻を召し後事を任せた。翌日、孫権が薨去した。孫弘は元より諸葛恪と穏やかではなく、諸葛恪により治められることをおそれ、孫権の死を隠し訪ね、偽りの詔により諸葛恪を除することを望んだ。孫峻が諸葛恪に告げたため、諸葛恪は孫弘に面会を求め、座中でこれを誅することを図り、すなわち、死亡を公表し服した。弟の公安督の諸葛融に書で言う。
「今月十六日乙未の日、大行皇帝は万国を委棄し(崩御し)、群下大小は嘆き悲しまないものはなかった。


とあって、孫権が亡くなった日が記されている。
 冒頭のリンク先にも書いたが、念のため、中央研究院兩千年中西暦轉換で太元二年(紀元252年)の4月16日のところを見てみると、確かに乙未の日になっている。

 三国志ニュースの過去の記事を見ると、結構、四月に忌日(※仏教用語で言うところの「命日」)がくる人物が多い。下記にリンクと共に纏めてみよう。

4月
  4日 孫策
 11日 劉宏
 24日 劉備
 25日 蹇碩
 25日 夏侯惇
 26日 孫権

※追記 6月27日は賈詡の忌日

※追記 三国統一(280年3月15日)

古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)


  • 2009年1月25日(日) 21:13 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    293,209
歴史 ※関連記事 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

 上記記事を書くにあたり、そう言えばネットで楊守敬『水経注図』を見ることができることを思い出す。確か、サイト「三国志討論会」のチャットログで知ったんだ。

・三国志討論会
http://san-gokushi.com/debate/


 それでどこで見れるかというと、下記の早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」。

・古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/

※新規関連記事 画筌 巻之四 漢人物(1721年)

「台灣中央研究院漢籍電子文獻」リニューアル?


  • 2008年12月10日(水) 23:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,037
歴史

数日前からやたら 「中央研究院 漢籍電子文獻」とか検索があるんで何かと思えば、「台灣中央研究院漢籍電子文獻」がリンク切れになっている。
「台灣中央研究院漢籍電子文獻」とは『三国志』を始めとする正史類の史書などを閲覧できるサイト。史書系を好む三国志ファンがよく見るサイトなのだ(…と『三国演義』毛宗崗本もあったあるから、三国演義ファンも使うのかな)。私は「漢籍電子文獻」はあまり使わないが、「中央研究院兩千年中西歴轉換」はよく使い、こちらもリンク切れしているので、不便に感じていた(「中央研究院歴史語言研究所文物圖象研究室資料庫檢索系統」も使うがこちらは今、生きている模様)。

・台灣中央研究院
http://www.sinica.edu.tw/

昨日あたり、 上記の「台灣中央研究院」→「more」→「學術資源」と辿ると「漢籍電子文獻」にリンクが張られていなかったが、今日、改めて見ると、下記サイトに繋がる。

・中央研究院漢籍電子文獻
http://dbj.sinica.edu.tw:8080/handy/

そこの「個人使用申請」を見てみると、申請制な上に年間台湾三千元である以前にどうやら日本からの使用ができないみたいだね(汗)
上記には「舊版系統」というのがあってリンクが張られているんだけど、現在、「中央研究院兩千年中西歴轉換」と同様リンク切れを起こしている。こちらは従来どおり無料で使えないものかな。
…と思ったら、以下のようなのがあるんだね(笑)

・新漢籍全文
http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/

<12月11日追記>
「台灣中央研究院漢籍電子文獻」が前の状態に戻っているね。昨日までの状況は一体、何だったんだろう。。。


※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

「高下在心」


  • 2008年11月27日(木) 19:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,693
歴史

「高下在心 故事」とか「高下在心 意味」とかよく検索されるんで、何かと思って再検索してみると、下記のように11月25日の記事が出てくる。

・MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/

・「枯れたヒマワリを咲かせたい」 中村紀の楽天入り濃厚か
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081125/bbl0811252107009-n1.htm

・よくある質問 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/faq/faq.htm#Anchor-06


つまり、中村紀選手が野村克也監督から「高下在心」と書かれた色紙を授かったと言う。
「高下在心」、そのまま読めば「高下(高低)は心に在る」といったところなんだろうね。
 

メモ:漢中興士人皆冠葛巾


  • 2008年9月12日(金) 23:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,642
歴史  私の記憶で、袁紹か袁術かを例にして当時の身分の高い人でも物資の乏しさ故に冠を被れないってのがあったんだけど、何で見かけたのか、すぐに思い出す。下記。

 沈従文/編著、古田真一/訳『中国古代の服飾研究』(京都書院1995年)※原書1980年

・三国志ファンのためのサポート掲示板
http://cte.main.jp/
・やっぱり「中国古代の服飾研究」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=64

 この『中国古代の服飾研究』だけど、そういえば豊富な挿図に目が行き、ある程度、通して読んでなかったなと思い、この期に図書館から借り興味のあるところを一通り読んでみる。

※関連記事 前漢に鐙はあった?!

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)


 典拠があまり明示されていなかったり、語句が主に現在のもので当時の呼ばれ方が判りにくかったりするものの、あれこれ新たに発見することも多かった。綬を納めるためのものが「虎頭[般/革]嚢」と呼ばれ、その画像もあったりと(※ここでいう画像は畫像磚石・俑などの出土物の写真やスケッチのことね)。あと出土した武冠の漆紗部分の写真とか。進賢冠の梁は鉄製だとか(※出典不明。探せばありそう)

※関連記事 メモ:武冠のあみあみ

 それで読んでいくと記憶にある箇所を見つける。それを下記に引用。

P144
「このような状態であったので、将軍の身分であった者、例えば袁紹や崔鈞でさえも、ただ頭巾で頭を包むことができただけで、冠を戴くことは難しかったわけであり、ましてや他は推して知るべしであろう。」


 「このような状態」というのは天下の荒廃ぶりを示した文であるが、特に典拠が書かれていない。しかし、冠ってそんな物資が要るかな? 進賢冠の梁ぐらいのような。

※関連記事 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

 ちなみに崔鈞といえば、下記のように袁紹と共に山東で反董卓のため兵を起こした人なので、上記のこともこれぐらいの時期の出来事を指しているのかな?

・『後漢書』崔[馬因]列傳

鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東、董卓以是收烈付[眉β]獄、錮之、[金良]鐺鐵鎖。


 それで「崔鈞」をキーワードに典拠を探してみるとあっさり見つかる。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』だ。似たような記述は『晋書』や『宋書』にも見られる。


・三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』

漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹・崔鈞之徒、雖為將帥、皆著[糸兼]巾。魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁[糸兼]帛以為[巾合]、合于簡易隨時之義、以色別其貴賤、于今施行、可謂軍容、非國容也。

<清岡による訳>
漢末の王公は王服を多くまねて、幅巾をもって雅として、これにより袁紹・崔鈞の徒は將帥だといえども、皆、[糸兼]巾をつけた。魏太祖は天下の凶荒をもって、資財が乏しく尽き、古の皮弁をまね、[糸兼]帛(白いかとりぎぬ)を裁つことで[巾合]にし、簡易に随時の義において合わせ、色をもってその貴賎を分かち、今において施行し、軍容(軍の儀容)というべきで、国容(国の儀節)ではない。


 後半部分の魏太祖(曹操)はまさしく『中国古代の服飾研究』の言うとおりなんだけど、個人的には、前半部分だけだと、特に袁紹や崔鈞が資財に乏しいだけで[糸兼]巾を着けていたわけじゃなく、「冠を戴くことは難しかった」と言い切れないような気がする。

 『三国志集解』によると、上記「非國容也」の後に次のように書かれている。

博物志漢中興士人皆冠葛巾建安中魏武造白[巾合]於是遂廢惟二學書生猶
著也中華古今注軍[巾(匚+夾)]魏武所制以軍中服之輕便又作五色[巾(匚+夾)]以表方面也

<清岡による訳>※うまく訳せてない。
博物志に言う。
漢の中興の士人は皆、葛巾を冠し、建安中、魏武は白[巾合]を造り、このため、遂に(葛巾を)廃し、ただ二学書生は(葛巾を)著した。(※追記。二学は太学と国子学)
中華古今注に言う。
軍[巾(匚+夾)]は魏武の制するところであり、これにより軍中でこれを軽便(手軽)に服し、また五色の[巾(匚+夾)]を作ることにより方面を表した。


 これと合わせて考えると、袁紹や崔鈞の時期というより、建安中あたりから冠を戴くことは難しかったのかな? とは言っても袁紹や崔鈞の時期と建安中は重なる部分はあるだろうけど。

 あと「葛巾」と言えば諸葛亮を連想することをメモとして残しておこう。

・諸葛亮の羽扇について。 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1452

メモ:東漢人多為舉主行喪制服


  • 2008年7月13日(日) 17:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,800
歴史  『後漢書』傅燮伝を読んでいると

再舉孝廉。聞所舉郡將喪、乃棄官行服。

という記述があって、傅燮は二回、孝廉に挙げられ、挙げた郡将(=郡太守)の喪を聞き、すなわち官を棄て喪に服したと言う。

 これを読んだとき、どれぐらいの期間、喪に服していたのかな、と疑問を持っていた。

 私自身、こういった礼に詳しくないんだけど、例えば『儀礼』喪服に当たり(池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)を参考にした)、三年の喪に該当する相手(亡くなった人の立場)や実際に行う人を挙げると、まず斬衰三年(斬衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父 (父のためにする)
 諸侯為天子 (天子のために諸侯がする)
 君 (君のためにする)
 父為長子 (長子のために父がする)
 為人後者 (人の跡継ぎとなった者がする)
 妻為夫 (夫のために妻がする)
 女子子在室為父 (父のために女子子で室に在る者がする)
 子嫁反在父之室為父三年 (子が嫁し、反って父の室は父のために三年する)

となり、つぎに齊衰三年(齊衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父卒則為母 (父が卒しておれば、母のためにする)
 慈母如母 ((父が卒しておれば)慈母のためにすることは母の如くにする)
 母為長子 (長子のために母がする)

となっており、少なくともここでは、孝廉を挙げた太守のために喪に服する場合で該当するものがないので、三年ではないのだろうな、と漠然と思っていた。

 ところが今、『後漢書集解』の傅燮伝を見ると冒頭で掲げた傅燮伝の箇所に、『後漢書集解』による注が以下のように付けられてあった。

[集解]蘇輿曰此為舉主行服之始桓鸞傳太守向苗舉鸞
孝廉苗卒鸞去膠東令職奔喪終三年乃歸荀爽傳袁逢
舉爽有道不應及逢卒爽制服三年並其事也此外屬吏之於其
長如郡吏樂恢為太守行服功曹李恂為太守李鴻服喪三年弟
子之於師如馮冑之於李[合β]制服心喪三年封丘令王元賞之門
生斬杖三年當時風氣之厚如此但與親喪無別則昧
等差耳
※さらに細かい字で注があったが私の持っている本だと潰れて読めない部分もあるので省略。

 いちいち訳すのは面倒なので略すけど、要は孝廉に挙げた太守の向苗のために三年の喪に服した桓鸞や、孝廉に挙げた袁逢のために三年の喪に服した荀爽のことが例として載せられている(さらに言えば荀爽は孝廉に応じていないのにも関わらず三年の喪に服している)。
 それに続き、属吏がその長のために三年の喪に服している例や、弟子が師のために三年の喪に服している例が挙げられる。

 上記の漢文をタイプするのが面倒なので、コピー&ペーストで済まそうと手元の電子文献で似たような文を探しているときに見かけたんだけど、『風俗通義』十反第五の注に

案東漢人多為舉主行喪制服

とあって、それに続き上記の傅燮伝、桓鸞伝、荀爽伝の記述が書かれてあった。

 どれぐらいの割合でこういったことが行われたか見当がつかないけど、挙主に対して三年の喪に服す事例はあるのだということはわかった。

 ちなみに三年の喪に関しては下記のURL参照。

・素朴な質問(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2489

※というか関係ないが、「三国志ファンのためのサポート掲示板」の書き込みでも「夏」を感じられるようになってしまったんだね(滝汗)

※追記 メモ:『後漢書』傅燮伝

4月25日は蹇碩の忌日


  • 2008年4月25日(金) 00:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,977
歴史 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆屬進。

<清岡による訳>紀元189年4月25日、上軍校尉の蹇碩は獄に下り誅殺され、兵は皆、何進に属した。

とのことで4月25日は蹇碩の忌日。庚午の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
宦官の蹇碩と言えば霊帝の寵臣で、西園八校尉のリーダーたる上軍校尉になっている。
しかし、蹇碩はその権力を支えていた霊帝の死後、もう一方の権力者である大将軍の何進により死に追い込まれる。
霊帝が亡くなってから14日後のことだった。

ちなみに31年後の4月25日に夏侯惇が薨去している。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 4月11日は霊帝崩御の日
 4月25日は夏侯惇の命日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

4月13日は劉弁即位の日


  • 2008年4月13日(日) 11:32 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,619
歴史 二日前に「4月11日は霊帝崩御の日」なんてことを書いたけど、皇帝が崩御すると、次の皇帝が即位するということで、『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は年十七で皇帝位についた。


とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)戊午、皇子辯即帝位、太后臨朝、大赦天下。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は帝位につき、太后は朝に臨み、天下に大赦した。


とのこと。といっても当時の状況を象徴するかのように、紀元189年9月1日に董卓により廃帝され弘農王にされ、紀元190年1月12日(『後漢紀』より)に劉弁は年十八の若さで董卓により殺されてしまう。

※関連記事
 4月11日は霊帝崩御の日
 3月13日は張純の忌日

4月11日は霊帝崩御の日


  • 2008年4月11日(金) 12:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,133
歴史 『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)丙辰、帝崩于南宮嘉徳殿、年三十四。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は南宮嘉徳殿において、年三十四で崩御した。

とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)丙辰、帝崩於嘉徳殿。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は嘉徳殿において崩御した。

とのこと。ここでいう帝とは後漢の霊帝(劉宏)のこと。丙辰の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
無上将軍を自称してから半年ほどしか経っていないうちの崩御となった。
この後、京師(みやこ)は権力争いや董卓による秉政によりいろんな意味でボロボロになっていく。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 3月13日は張純の忌日

 4月13日は劉弁即位の日

 4月25日は蹇碩の忌日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

※追記 メモ:『古代中国と皇帝祭祀』(汲古選書26)

※追記 8月25日は何進の忌日