『後漢書』朱儁伝の冒頭

 どうも漢文離れが久しく、私にとってその先の創作になかなか進めないこともあり、良いスパイラルへ変えたくて、この場できっかけ作りをしてみる。
 何かというと、史書を自分なりに読んで、その一端を書いてみる。対象は宋范曄『後漢書』朱儁伝の冒頭とそれに対応する唐李賢(※というか章懐太子か)等の注と王先謙等の集解部分。


『後漢書』朱儁伝

朱雋字公偉、會稽上虞人也。少孤、母嘗販繒為業。雋以孝養致名、為縣門下書佐、好義輕財、郷閭敬之。時同郡周規辟公府、當行、假郡庫錢百萬、以為冠幘費、而後倉卒督責、規家貧無以備、雋乃竊母繒帛、為規解對。母既失産業、深恚責之。雋曰:「小損當大益、初貧後富、必然理也。」
本縣長山陽度尚見而奇之、薦於太守韋毅、稍歴郡職。

<清岡による訳>
朱雋、字は公偉で會稽郡の上虞県の人だ。若いときから孤(父親を亡くし)で、母はかつて絵を売り業(なりわい)とし、雋は孝養で名をなしたため、県の門下書佐になり、義を好み財を軽んじ、郷閭(村里)はこれを敬った。当時、同郡の周規は公府に辟(め)され、まさに行こうと、郡庫の銭百万を借り、それにより冠幘の費とし、その後、倉卒の督は責め、周規の家は貧しく備えがなく、朱雋はすなわち母の絵帛を盗み、周規のために解対した。母はすでに産業を失い、深く怒りこれを責めた。朱雋は言う。
「小さな損は大きな益に当たり、初め貧しく後に富むことは、必然の理だ」
本県長の山陽出身の度尚はまみえ、これを抜きんでているとし、太守の韋毅に推薦し、次第に郡職を歴任した。


<「解對」のところにかかる注および集解>

規被録占對雋為備錢以解其事[集解]惠棟曰
會稽典録云規字公圓太守唐鳳命為功曹鳳
中常侍衡之從兄恃中官專行貪暴規諫曰明府以負薪之才受
剖符之任所謂力弱不惟顚蹶方今聖治在上不容秕政明府以
敎人之職行桀紂之暴鳳怒縛規捶于閣内鳳後果以檻車徴華
嶠後漢書云規除臨湘令長沙太守穆徐二月行縣敕諸縣治道
規以方春向農民多劇務不欲奪人良時徐出督郵規卽委官而
去徐憮然有媿色遣功曹賚印綬檄書謝請還規謂功曹曰穆府
君愛馬蹄不重民力徑逝不顧穆一作程汪
文臺曰御覧八百十四張璠漢記規作起


<清岡による訳>

 周規は調べられ応対し、朱雋は銭を備えることでそれを解いた。
[集解]惠棟は言う、『会稽典録』によると、
 周規、字は公圓で、太守の唐鳳に命じられ、功曹になった。唐鳳は中常侍の唐衡の従兄であり、中官に恃み、専ら貪暴を行った。周規は諫めて言う。
「明府(あなた)は薪を背負う才能により剖符の任を受けています。いわゆる力が弱くともただ失敗せず、まさに今、聖治し、上に在って悪政を受け入れない任です。ところが、明府は人に教える職により桀紂の暴を行っています」
 唐鳳は怒り、周規を縛り、閣内でむち打った。唐鳳は後に檻車により取り立てられることこととなった。
 華嶠『後漢書』によると、
 周規は臨湘令に除された。長沙太守の穆徐は二月、諸県に道を治めるように県敕を行った。周規は春に四方へ向かった。農民が多くの激しくつとめ、人から良い時を奪わなかった。穆徐は督郵を出し、周規はただちに官を棄て、去った。穆徐は憮然とし恥じ入る様子があり、功曹を遣って印綬を与え、檄で謝を表し、周規に還るよう請うた。周規は功曹に言う。
「穆府君は馬の蹄を愛で民の力を重んじません」
 すみやかに去り、顧みなかった。

 「穆」は「程」と一作する。
 汪文臺は言う。『太平御覧』八百十四に載る張璠『漢記』では規を起と作る。


<コメント>
・「少孤」
 『禮記』王制に「少而無父者謂之孤.」(若くして父の無い者、これを「孤」という)とある。

・「母嘗販繒為業」
 ここでいう「繒」(絵)は刺繍のことだろうね。

・「縣門下書佐」
 「門下」とは、下記に参照記事を挙げる『漢代都市機構の研究』の「第二部 都市の財政と官僚機構/第三章 漢代の官衙と属吏/(2)ふたつの「門下」」等に詳しく書かれており、時代変遷もあるが言ってみれば長官との私従的側面があるという。また、そこには「文献に見える「門下書佐」のように「門下」という意外には職掌を示さない書記官も出てくる。長官秘書といったところかもしれないが、官秩はごく下級である。」(P.236)ととりあげられ、さらに「門下書佐」に注の(144)が割り振りられており、『後漢書』朱儁伝の冒頭が例として挙げられている。そのため、上虞長から直に抜擢された直属の部下といったところだろうね。本伝の続きを見ると上虞長は度尚であり、他の伝に上虞長度尚が出てきており、そこの謝承『後漢書』や『後漢紀』を見ると、朱雋が抜擢されたことが書かれている。また、『続漢書』百官志には「簿曹書佐主簿書。其餘都官書佐及毎郡國、各有典郡書佐一人、各主一郡文書、以郡吏補、歳滿一更。」とあり、「書佐」には、その名の通り(前述の引用部分にもあるが)、書記官を連想させる。

※参照記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

・「辟公府」
 つまり三公の府から辟召された(登用を受けた)ということ。集解部分や後に続く文をみると、すでに周規は郡吏だったんで、公府、つまり中央での冠幘は郡のそれより払えないぐらい高いのか、と思ってしまったんだけど、よくよく思い直してみると、次項にも書いたけど、車馬の費用等、他の経費も含めた価格のニュアンスなんだろうね。辟召に関しては下記の記事にある講演「魏から晋へ──王基碑」のメモ参照。

※参照記事 2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午後レポ

・「假郡庫錢百萬、以為冠幘費」
 下記に参照記事を挙げる『漢代の地方官吏と地域社会』の「第一部 漢代官吏の資格について/第一章 漢代官吏任用における財産資格の再検討/第三節 地方少吏と財産資格」等に官吏は衣冠を自費で購入することが指摘されている。「冠」だけでなく「幘」もあるというのは、文武とも当時の官吏の冠は幘を基本としているからだろうね(下記、二番目の記事参照)。「銭百万」は大げさな表現としても、多額な銭が要ることには違いなかったんだろう。それは前述の『漢代の地方官吏と地域社会』の「第二部 漢代官吏の社会と生活/第二章 漢代地方官吏の社会と生活/第二節 餞別からみた官吏の社会と生活」等冠幘の費用だけでなく、車馬を揃える費用も含まれるとすると納得できる。

※参照記事
 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)
 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

・「小損當大益」
 このエピソードは中央との人脈を築くために投資をしたともとれる。

・「本縣長山陽度尚」
 度尚は范曄『後漢書』で立伝されており、さらに謝承『後漢書』度尚伝や『後漢紀』によると「擢門下書佐朱雋(俊)」と上虞長だったときの度尚が朱雋を引き抜いたことが書かれてある。『後漢書』度尚伝によると、度尚は若いときは貧しく、さらにその注に引く『続漢書』によると、度尚は若いときに父を亡くし母に仕え孝行したそうだから、朱雋と似た境遇であり、そこらへんが朱雋の登用に繋がったと想像できる。度尚は上虞長の後、文安令→右校令→荊州刺史と歴任する。荊州刺史になったきっかけが、延熹五年(紀元162年)の荊州での反乱だという。そのため、朱雋が門下書佐だった頃はそれ以前だと言える。ちなみにその反乱に対応する記述が『後漢書』本紀にあるものの、それは延熹三年の十二月になっている。

・「功曹」
 『続漢書』百官志五の州郡のところに「本注曰:諸曹略如公府曹,無東西曹。有功曹史、主選署功勞。」(本注にいう、諸曹はほぼ公府の曹のごとくで、東西曹が無い。功曹史が有り、主に功労を選び表す)とあって、さらに『続漢書』百官志一の太尉の曹のところ、つまり公府の曹のところに「西曹主府史署用。東曹主二千石長吏遷除及軍吏。」(西曹は府史の署用をつかさどり、東曹は二千石長吏(太守等)の遷除及び軍吏をつかさどる)とあり、つまり功曹は郡の人事。先に挙げた『漢代都市機構の研究』に書いているけど、郡内では高官だね。

・「中常侍衡」
 『後漢書』宦者列伝に唐衡が立伝されている。延熹二年(紀元159年)に中常侍になって、延熹七年(紀元164年)に亡くなっている。『会稽典録』のエピソードはその期間のことであり、周規が功曹だった頃はそれ以上、遡れないということなんだろう。さらに贅沢をいえば、本伝の朱儁とのエピソードと繋げてその時期を特定したいところだけど、それは難しそうだね。ちなみに苟彧は唐衡の娘を娶っている。

・「臨湘令」
 長沙郡臨湘県、あるいは後の臨湘侯国といえば東牌楼漢簡や走馬楼呉簡で有名なところ。共に時代的にはこれとずれるんだろうけど。

※参照記事 「長沙呉簡の世界」ノート2

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

※追記 メモ:『後漢書』傅燮伝

※追記 メモ:「両漢時代の商業と市」

※追記 三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)

※追記 三国志愛溢れるカードゲーム「サンゴク」にもっと武将を増やしたい!(クラウドファンディング2014年11月-12月)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/1230