『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝(孫皓伝)では下記のような記述がある。
・『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝
(天紀四年三月)壬申、王濬最先到、於是受皓之降、解縛焚櫬、延請相見。
<清岡訳>
天紀四年(紀元280年)三月壬申、王濬は最も先に到り、これに於いて孫皓の降伏を受け、わかち縛り櫬(ひつぎ)を焼き(降伏の礼)、連なって対面するのを請うた。
とのことで、呉の皇帝の孫皓は晋に降伏したのは紀元280年3月で、日付は「壬申」になる。これは十干十二支と呼ばれる一周六十日の表記で、
中央研究院兩千年中西暦轉換を見ると、紀元280年3月に「壬申」はない。
そこで晋側の記述、『晋書』巻三武帝紀を見てみると、
・『晋書』巻三武帝紀
(太康元年)三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫皓大懼、面縛輿櫬、降于軍門。
<清岡訳>
太康元年(紀元280年)三月壬寅(15日)、王濬は舟師で建鄴の石頭に至り、孫皓は大いに大いに懼れ、面縛し(後ろ手に縛り)、櫬(ひつぎ)を車に乗せ(降伏の礼)、軍門に降った。
となっており、さらに「三月壬寅」に次のように注が入る。
三月壬寅至石頭「壬寅」、各本皆作「壬申」。按:三月戊子朔、無壬申。校文云、王濬傳載濬入石頭後上書有「以十五日至秣陵」語、十五日為壬寅、則「申」當為「寅」字之誤。今據改。
<清岡訳>
三月壬寅、石頭に至る「壬寅」は、各本は皆、「壬申」に作る。按じるに、三月戊子が朔(一日)であり、壬申は無い。校文に言う、王濬伝は王濬が石頭に入った後に上書に「十五日を以て秣陵に至る」の語が有り、十五日は壬寅とすれば、則ち「申」は「寅」字の誤りとすべきである。
ここにあるように実際、『晋書』巻四十二王濬伝を見ると次のような記述がある。
・『晋書』巻四十二王濬伝
臣以十五日至秣陵、而詔書以十六日起洛陽、其間懸闊、不相赴接、則臣之罪責宜蒙察恕。
<清岡訳>
臣(わたし)は十五日に秣陵へ至り、詔書が十六日に洛陽を起ち、その間は遠く広く、互いに赴き接することがなければ、則ち臣(わたし)の罪責を宜しく被り了解して下さい。
というわけで紀元280年3月15日は三国統一の日。
※参照記事
4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日
以下余談。
以上の紀元280年3月15日は太陰暦(旧暦)であり、こういった月日を太陽暦(新暦)にして今年は何月何日かを示す場合がある。そういった方法に次の通り、二通りあるようだ。
1. 当年A月B日 → 今年A月B日 ─(太陽暦へ変換)→ 今年C月D日
2. 当年A月B日 ─(太陽暦へ変換)→ 当年C'月D'日 → 今年C'月D'日
前者の1.の方法で今年は何月何日かを示すと毎年違う月日になるが、後者の2.の方法だと毎年同じ月日になり、つまり、C月D日とC'月D'日は同じ月日にならない。
例えば、下記サイトの「Q&A」のページにあるように、関帝廟では関羽(字雲長)の誕生日(所謂「関帝誕」)が紀元160年6月24日と信じられており、毎年、その記念日は変わる。今年、2011年の関帝誕は7月24日であり昨年2010年は8月4日であり同じ月日ではなく、つまり前述の1.の方法が使われている。仮に後者の2.の方法を使えば毎年8月13日と一定になるだろう。関帝誕に使われるぐらいだから、太陽暦に変換した月日を使うとなると、前者の1.の方法がより一般的なのかな?
・横浜中華街 関帝廟《関帝廟入口》
http://www.yokohama-kanteibyo.com/
※関連記事
2008年の関帝誕は7月26日土曜日
※追記
1月18日は姜維、鍾会の忌日
※追記
12月24日は陳羣の忌日
※参照リンク
・三国志 Three Kingdoms オフィシャルブログ
http://blog.livedoor.jp/sangokushi_tv/
・3月15日 (※上記ブログ記事)
http://blog.livedoor.jp/sangokushi_tv/archives/51927008.html
※参照記事
2005年11月10日「蒼天航路」堂々完結
※追記
宮城谷昌光/著『三国志』第十二巻(2013年9月14日)
※追記
三国志大戦 バージョンアップ停止表明(2014年3月14日)
※追記
関西大学の入試で三国志関連2016
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