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三国志学会第一回大会ノート3


  • 2006年8月29日(火) 00:00 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,760
研究 ・三国志学会第一回大会ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

 時間がおしているので休憩なしでそのまま。会場のホールでの空調の調子は悪いが、皮肉なことに一階上の控え室はガンガンにクーラーが効いている、と渡邉先生の小粋なアナウンスが入る。

 お次は文学の研究とのこと。建安文学がどういう位置づけかとのこと。あと和田先生のご紹介。

○和田英信(お茶の水大学助教授)「建安文学をめぐって」

 レジュメは縦書きの2ページ。丸で囲った数字が全部で16あり、それぞれの数字の下に引用した文が載せられている。建安は後漢の年号。建安期を代表する文学者、曹操、その息子、曹丕、曹植、その周りに集まった王粲といった詩人たち。
(1)李白の詩で建安のことが詩でうたわれている。建安は中国の文学の中で特別な位置。建安はその他の時代と異なる。
 建安期以前の詩とはどのようなもの? そのほとんどが古詩あるいは樂府と呼ばれる作者不詳の詩。
(2)(3)現在見られるものの例、『文選』にある「古詩」十九首など。
(4)樂府とは音楽と共にうたわれたもの。例として『宋書』樂志にのっているもの。
 古詩あるいは樂府はいつどのようなにつくられたか、はここでは論じないが、建安の詩人たちの土俵になったことは間違いない。曹操の作品は現在、樂府にカテゴリーに分類される。
 古詩・樂府と建安を隔てる大きな違いは作品に署名があるかどうか。
(5)(6)

 なぜ建安期によってかわったか。どのようにかわったか
 建安期以降、歴史時代にはいったという考え(※漢字あってるかな)
 具体例。(7)古詩と(8)曹植の詩の比較。
(7)「古詩十九首」其三。洛陽がにぎやかな代名詞としてあげられている。ここではかならずしも実在の洛陽でもなくてもよい。
(8)曹植「送應氏」二首其一。應氏が実在の人物。作者と作品とが関係。董卓の時代(190年)に宮室が焼かれた洛陽が描写される。ここでは洛陽を他の場所におきかえることができない。
 人物に関して(3)古詩と(9)曹植の詩の比較。古詩の中に描き込まれる人物は神仙、神話上の人物など特殊な人物がほとんど。
(3)「古詩」十九首其十五。仙人がでてくるが不老不死の代名詞として出てくる。
(9)曹植「贈丁儀王粲」。二人の人物がでてくる。その人そのものを指す。具体的背景のその人たちへのメッセージ。作者と作品の関係は署名だけではなく詩のうたい方にも現れている。詩のあり方がかわったから、作者の署名が加わるようになったと考え方もできる。
 建安以降、あらゆる詩がこうなったというわけではない。

(10)曹植「贈徐幹」。(個性を有した)徐幹を生き生きと描くのみならず、そういったメッセージを贈った作者そのものも生き生きと表現されているようだ。

 建安以降、文学は個を表現するようになった。

 建安期以降、詩が極めて具体的な政治状況で詩がくみ出されること。
(11)曹丕「令詩」。詩は明らかに政治的な文脈で書かれている。
(12)曹丕「至廣陵於馬上作詩」
 曹操も政治的な作品をつくっている。政治的アピール。(13)曹操「短歌行」(14)「苦寒行」
 (12)と(14)に東山詩が組み込まれている。
→そういう意味では文学は政治に従属するようになった?

(15)典論論文の文学至上主義はそういう文脈でみると…

(16)『文選』にみられる建安期の詩人


○質疑応答
※清岡が失念。文学と政治の話が司会と報告者で延々と応酬される。その後、質問者が一人。


・三国志学会第一回大会ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401

三国志学会第一回大会ノート2


  • 2006年8月28日(月) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,085
研究 ・三国志学会第一回大会ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/397


 司会に三国志学会副会長の堀池信夫先生がついて、早速、次の報告がスタート。

○澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)「五斗米道研究の現状と課題」

 レジュメは6ページ。家系図、年表やら史書からの引用がある。
 初めは澤先生から高校の授業で三国志がほとんど取り上げられないことに不満の声が挙がるほど関心が高いという掴み。

【1】宗教名の変遷

 まず五斗米道の説明。張陵が始祖。いつのころから天師道と呼ばれるようになったとのこと。元代には正一教と呼ばれる。南北朝のころには様々な経典を受け入れ、道教とも呼ばれるようになった。つまり初期道教と呼ばれる。

【2】歴代張天師

 歴代の天師名がレジュメに並べられる。初期の三代を三張(張道陵、張衡、張魯)と呼ばれる。現在は64代目の張源先(1969~)で台湾におられるとのこと。この系図は疑わしい部分がある。張魯のときに五斗米道は大きな飛躍をする。

【3】五斗米道関係年表

 190年に劉焉と結びつき漢中郡と巴郡を支配下に置き、五斗米道に基づいた政治を行う。この政権は宗教王国のような捉え方をされている。道教からの研究(道教の歴史や教義、仏教との論争等)と歴史からの研究の二つがある。歴史研究において太平道(黄巾の乱)に比べ副次的に五斗米道が研究されてきた。

【4】『三国志』巻8張魯伝

 タイトルにある三国志魏書張魯伝の冒頭の漢文が引用されていて、それが読まれていく。五斗米道は病気を治す→レジュメ【5】裴松之注を読まれる

【5】同前、裴松之注

 五斗米道の細かいところが読まれる。「老子五千文」を読ませるとか。老子がテキストに使われていることに注目。五斗米道のころから老子が重要。六朝時代から唐の時代にかけての道教の伝承では張衡あるいは張魯が老子に注をつけたということで「老子想爾注」が成立したとのこと。道教の研究には不可欠なもの。成立年代は多くの人が後漢の成立だろうといっている。疑問の声もある。

【6】『後漢書』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条

 裴松之の指摘。張脩を張衡としている。これらの論争があって幸田露伴は裴松之に従う。張脩のままでいいんだ、としている人もいる。五斗米道の研究ではさらにやっかいで、張脩という人物は三人出てくる。裴松之注に引く典略、三国志魏書張魯伝、後漢書本紀の三カ所出てきて、どれとどれとが同一人物とかいろんなパターンが出てくる。
 実は張脩が五斗米道を開き、張魯が乗っ取って張魯が歴史をねつ造したという興味深い説もある。
 澤先生は裴松之の指摘は間違いで、三カ所の張脩は同一人物と考えているとのこと。そうすると本筋とは別の問題が出てくる。なぜ陳寿は『三国志』で「別部司馬張脩」とだけ載せたか? 五斗米道との関係を書かなかったのか。澤先生は張魯の伝であって、張魯中心に書いていたため張脩については簡略に書いた、と考えた。

 歴史研究、五斗米道を主な研究としたもの。「教団の組織」と「異民族との関係」とを対象とした二つがある。
 まず教団の組織について。大きな組織(大きな軍)をおさめられたのか? 地元の豪族の協力が必要。教団そのものではない。政権としては地元の有力者を形式的に祭司に任命し治めさせていたのではないか。信者じゃない人も信者としていた

【7】『華陽国志』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条
【8】『三国志』巻1武帝紀、建安20年の条
【9】『文選』巻4所載、蜀都賦注引『風俗通』
【10】『後漢書』巻86南蛮伝、板楯蛮夷の条

 そして異民族との関係。曹操に攻められたとき、異民族を張魯は味方にしていた。【7】で[宗/貝]人(そうじん)、【10】で板楯蛮と呼ばれている。非常に勇猛な民族をうまく取り入れた。民族の首長を祭司に任命し取り入れた。

・残された課題

 五斗米道と太平道との関係。宮崎市定先生から「君、関係あると思うかね?」ときかれたそうな。黄巾の乱とは別に考える?

・質疑応答

 津田先生からの質問というか意見。
 第一に張魯の娘が曹操の息子に嫁ぐ。その息子が最後の皇帝になる。そういったことに関係するのか。
 第二に陳寿のこと。陳寿の出身地は五斗米道の活動範囲とかぶる。

 USHISUKEさんからの質問。名乗らず、NPO三国志フォーラムに所属とのこと
 異民族についての質問。王平のこととか。
 五斗米道はどの程度、異民族に対し寛容であったか。
※詳しくは下に示す三国志漂流の記事参照

・三国志漂流
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040
・『三国志学会』レポート
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2606181#2606181

 →元々、漢民族に対し協力的。後漢になると中央政府に対する板楯蛮の反乱が多くなってくる。そういった異民族に対し五斗米道は受け入れる体制にあった。板楯蛮は租税を免除されいたんだろう。曹操に降った後、異民族は軍団長に任命されていたり、と。


・三国志学会第一回大会ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

メモ:三顧会の企画を分類


  • 2006年8月27日(日) 16:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,914
場所  三国志城とは無関係に非公開で個人的にまとめていたら結構、面白い読み物になったところもあるので企画のところを公開しておこう。

 山口県に三国志城という三国志関連の資料館があって、そこで5月の大型連休と8月の盆の年二回、「三顧会」というイベントがある。同名に会員制があるが、ここではイベントのみを指す。

・「三国志城」公式サイト
http://www3.ocn.ne.jp/~sangoku/

 三顧会の他の三国志系イベントにはない魅力的なところと言えば、インタラクティブ(双方向)なところ。
 もし学術的なことを聴講したいのであれば、三国志シンポジウム三国志学会の大会が年一回あるし、エンターテイメントなショーを見たければ、三国志の宴があるし、演劇であれば三国志プロジェクト京劇、それからもう終わったけど人形劇スーパー歌舞伎があった。コスプレを見たければ中華コスプレ日本大会、それに三国志系の同人誌展示即売会でみれるところもあるし、それ自体、三国志系の同人誌を買うことができる。
 しかし、どれも参加者同士の交流の場は特に用意されておらず(強いて言うなら、三国志学会大会の懇親会や三国志系の同人誌展示即売会によっては用意される交流会)、参加者同士の交流という意味でも三顧会は秀でているし、元々のイベント設立目的の一つがそういった交流を深めて貰おうというのがあった。

 その三顧会の特長を担うのがプログラムに組み込まれた企画の数々。第一回はそれらの企画は場所(コーナー)ごとに設定されていた。例えば「三国志を大いに語る会コーナー」に参加したければ特別企画展示場に行き、「三国志グッズ展示コーナー」であれば第二展示場に行くといった仕組み。第二回以降は時間が決められ(プログラムが組まれ)、いってみれば時間ごとに企画が設定されていた。参考までに以下に各回の三顧会の参照リンクを上げておく。

・第一回三顧会の様子(個人サイトの日記)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040815.html
・第二回三顧会の様子
http://cte.main.jp/newsch/article.php/115
・第三回三顧会の様子
http://cte.main.jp/newsch/article.php/156
・第四回三顧会の様子
http://cte.main.jp/newsch/article.php/329
・第五回三顧会の様子
http://cte.main.jp/newsch/article.php/380


 それらの企画は以下のように大きく四つに分類できそうだ。
(※以下、三顧会の回数は便宜上、[]付けにする。第三回三顧会のことなら[3]となる。)

○作り物系企画

 文字通り、参加者が何か作る企画。さらに陶器系・非陶器系とかチーム系・個人系とかに分けられそうだ。

[1]落書きコーナー

[2]三国志を陶器にしよう
[2]木牛を皆でいっしょに作ってみよう

[4]中国酒盃を作ろう(三国志を陶器にしよう第二弾)

[5]三国志城を旗で飾ろう

 「木牛を皆でいっしょに作ってみよう」以外は基本的に一人での作業になる。だけど、それで参加者が孤立しやすいとかではなく、むしろ逆で何かを作りながらだと、その作るものの話から自然と参加者同士で会話が弾む。「三国志城を旗で飾ろう」での旗作りは文字でも絵でも表現できて参加者の技能を選ばないせいか、大いに盛り上がったなぁ。


○ゲーム系企画

 文字通り、みんなでゲームをする企画。さらにテーブル系・競技系に分けられそう。

[1]三国志ゲーム試遊コーナー

[2]英傑群像企画イベント(三国志トランプ大会)

[3]三国志弓術大会
[3]英傑群像イベント<三国志トランプ大会>

[4]三国志ビンゴ大会
[4]三国志トランプ大会(協力:英傑群像)

[5]三国志トランプ大会チーム戦
[5]三国志巨大パズル大会

 第四回までの「三国志トランプ大会」っていうのが創作神経衰弱。めくった二枚のカードに描かれた三国志関連の人物の関係を説明するという結構、三国志的知識を要求されるゲーム。それに個人戦なので、ここらへんをチーム戦にすればお互いに助け合って知識を出し合うものだからチーム内の交流ひいてはチーム間が深まるのかなぁ、と思った。「[5]三国志トランプ大会チーム戦」はチームで一人ずつ前に出すタイプだったので、特にチーム内の交流という意味では希薄だった。


○語り系企画

 初めは講義系にしたが、よく考えたら、挨拶や自己紹介関連もここに入るな、と思って語り系に改める。さらに講師系・自己紹介系に分けられそう。

[1]三国志を大いに語る会コーナー(座談会形式)

[2]三国志城ガイドツアー

[3]本参加自己紹介
[3]三国志風水講習会

[4]ご挨拶&簡単な自己紹介など

[5]挨拶&簡単な自己紹介
[5]三国志講習会「劉備のデビュー」

 参加者の自己紹介は第三回から定番となっている。どこから来たのかどんな人物が好きなのかきくのが楽しみ。三国志ファンの知的好奇心の高さは他のジャンルではあまり見られない。この知的好奇心の高さを満たすような講習系企画が一つあるとより三国志のイベントらしくなるかなぁ。


○随時系企画

 時間に縛られない企画。展示や紙にいつでも書き込めるクイズラリーなど。クイズラリーは三顧会だけの企画じゃなく一ヶ月程度の企画だけど、三顧会のプログラムに掲げられていたのでここに書いておく。

[1]三国志グッズ展示コーナー
[1]三国志クイズラリー

[3](三国志コスプレ
[3]三国志玉璽を探せ 印鑑探し&クイズ
[3]三国志クイズラリー(三国志クイズペーパー試験)
[3]第二回イベント「三国志陶器をつくろう」完成品展示

[4]三国志コスプレ大歓迎

[5]三国志コスプレ大歓迎!
[5]三国志クイズラリー(三国志クイズペーパー試験)
[5]三顧会作品展示「三国志陶器をつくろう」
[5]第25回イラストコンテスト投票

 随時開催は他の企画の待ち時間で参加者を退屈させないのに役立ってるようだ。例えば[3]三国志弓術大会では、他の参加者の弓術を見ている人の他に三国志クイズラリーをやったり三国志玉璽を探せ 印鑑探し&クイズをやったりしている方も見かけた。

三国志学会第一回大会ノート1


  • 2006年8月27日(日) 01:52 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,318
研究 ・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

○報告(10時-12時40分)

 司会に津田資久先生がついて、まず石井仁先生の紹介が述べられる。

○石井 仁(駒澤大学助教授)「呉・蜀の軍事制度に関する覚書」

 昨年、三国志シンポジウムで「三国時代の軍事制度」の報告をされた先生。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

 トップバッターで反董卓時期の曹操にあやかりたいとのこと(すぐに曹操は敗れたから縁起が悪いと自己ツッコミ)
 レジュメは6ページの箇条書き。

 まず時代区分の論争(中世古代の論争)について軽く説明。都督は封建的主従関係かって論争があったそうな。それへの疑問が石井先生の制度史研究のきっかけになったそうだ。当時の制度をきっちりおさえることが大事だと。
 それから魏晋の軍事制度のこと。これは記録が多いが呉や蜀は少ない。呉・蜀の軍事制度と魏晋との比較を今回、行う。

 魏晋の軍事制度の中心的なものについて説明。中軍(中外軍)、つまり魏晋の正規軍のこと。次が都督について。「使持節・都督○○諸軍事」の略称。各方面の行政・軍事を統轄する機関および長官のこと。必ず三公ないし将軍の加官。魏初には河北都督、揚州都督、荊州都督、雍涼二州都督がいた。駐屯地には都督府がある。
 レジュメでは続いて参考文献が列挙されている。


1. 呉・蜀の都督制度

 まず呉の都督
 通俗的理解では、呉は魏晋よりも小規模な「督」を列置。都督→督の二重構造。
 三国志呉書では「假節・督夏口」の記述。三国志魏書では「使持節・都督夏口諸軍事」。同じく「西陵督」と「都督西陵諸軍事」。そのため単なる表記上の問題とみなす(資料の経路の違い?)。魏晋の都督制度とほぼ同等。監軍が派遣されている。呉の都督の特徴として長江流域の重鎮(樂郷・武昌など)の都督が左右(東西)で構成されている。
 ※レジュメでは本文があって、そこに○数字がうってあって、その丸数字には論拠となる史書の記述が列挙されている。以下、同じ。

 次が蜀の都督。
 表記が一定せず統一性がない(レジュメで督の部分を列挙)。「陳寿という人は都督制を理解していたのか?」という根本的なことに行きかねない。魏晋は「督軍」(前漢由来)と「都督」(曹操政権)が融合。そのため正式名称は「都督督軍」。蜀にも都督督軍が一例あるので魏晋と同じ可能性あり。呉も都督と督軍がある。
 [广+來]降都督(らいこうととく)だけは統一的表記。[广+來]降は南中の地名だそうな。必ず副貳(副官)がついたとのこと。これは「[广+來]降屯副貳都督」「南中参軍」とも称され、さらに魏晋の記録では[广+來]降都督を「南中都督護軍」「南中監軍」と称す。正式名称は「都督南中諸軍事」? [广+來]降は通称? [广+來]降は来降に通じやってきて降るの意? 受降城と同義?

2. 都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍

 蜀は「都護→軍師→監軍/領軍→護軍→典軍→参軍」という序列の官職がある。軍部関連。魏晋に似たような官職があるが同一視できない。

 呉にも同様なのがある。蜀より簡略。「軍師→都護→護軍」。断片的。始まりは周瑜の「左右大督」に分かれたのを機に「左右護軍」に分かれる(「左右都護」「左右軍師」を累加)。軍部関連。次第に名誉職の意味合いが強くなる。

 ここで時間になったのでまとめに入る。
 呉・蜀では「都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍」の本質は西魏二十四軍の指揮系統に期限を持つ勲官に類するものと推測。

おわりに

 蜀は10人に一人兵士、呉は11人に一人兵士。
 三国は基幹部分を共有している(劉備集団は曹操政権および孫呉政権と綿密に関わる)。ここらへんも考慮する必要があるか否か。三国時代もしくは中国~東アジアをトータルに眺める視点。


○質疑応答

※理解せず聴いていたので以下、ただのメモ。
 龍谷大学の村田先生。「都督」、「督」は名詞的方法? 動詞的用法?
 当時の都督のイメージ、陳寿の都督のイメージ、現代の都督のイメージが異なるかもしれませんが…。国家を運営する理念が都督制に反映されている。
 文官・武官のやりとり。
 →時間なので後は懇親会で。


・三国志学会第一回大会ノート2へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

2006年10月10日第三回三國相承展スタート


  • 2006年8月26日(土) 10:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
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ネット オンライン上で三国志に関する作品を展示する「三國相承展」の第三回がテーマを「赤壁とし、2006年10月10日から12月12日まで開催される。現在、絵・漫画・動画・詩・書・音楽・Flashコンテンツ・短編小説・論文・レポート等、ウェブで転じ可能な三国志関連の作品募集中とのこと。詳しくは書きURLへ。

http://359s.net/

ちなみに過去の展示は

・第一回「三国志作品」
2005年10月10日~12月12日(神無月)

・第二回「縁-enishi-」
2006年6月6日~7月7日(水無月)

となる。

※追記
 三國相承展トリニティ「魏-wei-」今秋開催決定
 2006年11月16日『曹操孟徳正伝』特別編~瘴癘江