Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2024年 03月
«
»
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

新着記事 1件(24時間)

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 79 投票 | 0 コメント

PR

清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
よくわかるねこまんまさんの問題行動 pdf
gif

検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 91 - 120 / 584 件 (0.0112 秒). 検索条件の修正

91. メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』
 書店で見かけたら買おうと思っていた書籍に、蘇哲/著『魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社アジア史選書008、2007年2月1日発行)ってのがあるんだけど、よくよく調べてみると近くの図書館に置いていたので借りてくることに。  とは言ってもタイトルから連想されるように「三国志ニュース」的なことはそれほどないんだろうな、と思っていて、それを証明するかのように七章あるうち、三国志と関係ありそうなのは「第一章 三国西晋の壁画墓」だけだった。第二章は「五胡十六国時代の壁画墓」ということで三国関係はあまり期待できないな、と思いつつ読み進める。  「一、中原壁画墓の衰微」。魏はやはり曹操が厚葬を禁止したので、それほど面白いものが出ていないようだね。 ※『三国志』魏書武帝紀 (建安)十年春正月、攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰:「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。  その中で紹介されていたのが「壁画のない陳思王墓」という小タイトルで曹植の墓が紹介されている。発掘調査は1951年6月、二度目は1977年3月と結構、古い。タイトル通り壁画はなかったものの、私的には「棺の右側には炊事道具、左側には井戸・車・家畜・家禽類の模型と俑などの陶質明器が並んでいた」という箇所に興味あり(本には写真はなかった)。それから墓の銘文から墓を造営した人に二〓日の休みを賜った(各賜休二〓日)という制度とかも興味あり(一文字だけ消えてるとしたら二十日とか二百日とかどれだろ)。あと三国志ファンとしてはその墓に遺骨が安置されていたってところが気になるんじゃないかな。  この章だとあと「二、河西回廊の壁画墓の繁栄」。ここでは漢民族と異民族の関わり合いが大きく取りあげられている。私が興味あったのは「河西地域の羌と胡」という小タイトルのところ。「嘉峪関市新城6号墓農耕図」、「嘉峪関市新城5号墓牧畜図」、「嘉峪関市新城3号墓穹窿図」の三枚の白黒写真が出てくる。6号墓に描かれている人物を「髪の毛が二股であり、羌族とされている」と書かれている。5号墓に描かれている人物を「鼻が高く、顎が大きくて、中央アジア人種の特徴を持っている」とし後の記述で「月氏族である可能性が高い」と書かれている。3号墓に関しては「ご飯をつくっている人物の服には鳥の尾羽がついている」と書かれている。どうも画像の絵が単純すぎてそれだけだと判りづらいが、こう説明されると理解や想像の手助けにはなる。 ※ちなみにこの本、「夏侯淵」(正)が「夏候淵」(誤)となっている。  それで他の章には三国関係はないかというと、そうではなく時たま過去の事例を引っぱり出すときに不意にでてきたりする。第二章の始めは墓での西王母と東王父の壁画に関し、後漢の事例を引っぱり出している。後は出行図に関してあれこれ。そこの挿図(図32 進賢冠の構造図)に孫機/著『漢代物質文化資料図説』で載っている進賢冠の説明図と同じものがでてくる。「図版出典一覧」の図32の出典を見ると、「図32 進賢冠の構造図(『中国古輿服論叢』文物出版社 2001年)」となっていて、この章の注で「〔15〕武冠・進賢冠・平上[巾責]の形式について、孫機「進賢冠与武弁大冠」(『中国歴史博物館館刊』総13・14期)1989年、のちに『中国古輿服論叢』文物出版社 2001所収)参照」となっているんで、おそらく同じ作者によるものなんだろうな。ここでの個人的チェックポイントは「『晋書』輿服志・『宋書』礼志の記録により、介[巾責]は文吏、平上[巾責]は武官のかぶりものだとわかる」ってあたり。時代にもよるだろうけど、介[巾責]は進賢冠の一部だし、平上[巾責]は武冠の一部だから納得できる。他のチェックポイントは「被葬者冠は武冠(籠冠ともいう)といい、西晋・東晋時代では、将軍クラスの武人がかぶっているものである」というところ。後漢の俑などをみると、音楽を引いたり踊ったりしている人が武冠かぶっていることが多いんで、ここらへんの時代変遷が新鮮。この章ではあと牛車の流行り廃れについて書いている。  もう三国関係はないかと思いきや第六章に「魏晋南北朝の具装騎兵」というのがあって後漢~三国の文献に見られる「鎧馬」、「鉄騎」、「鉄騎都尉」(馬超の弟)などについて書かれている。文献には曹操の『軍策令』からのもある。ここらへん第一回三国志シンポジウムで石井仁先生の報告「三国時代の軍事制度」でも触れられていたことを思い出した。 ・2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/152 ※追記 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日) ※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)

92. リンク:「胡広伝覚書」
※前記事 リンク:「盧植とその『礼記解詁』」  一応、上記のようにネット上で公開されている論文を紹介する記事のシリーズなんだけど、そこに至るまでに前置きが長い。本題のみに興味ある人は読み飛ばしてくださると幸い。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況  上記関連記事で書いたように『東洋史研究』を買ってきて興味のあるところを読んでいた。それらの中に興味をもった一つに、下記に示す論文があって、いつものようにCiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。 西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』第54巻 第4號 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276 ※追記 メモ:「漢代明經考」  興味のある理由は史書上、孝廉に推挙された後、すぐ郎になるような記述が多いが、(時代性も考慮し)その間に孝廉のまま留まる場合があるのか、また試験があったのか、という二点。  前者に関しては『三國志』卷四十七呉書呉主傳に 策長史張昭謂權曰、孝廉、此寧哭時邪? と、孫策の長史である張昭が、孝廉や茂才に挙げられた行奉義校尉(つまり代行)の孫権へ呼び掛けるとき「孝廉」としている。また後者に関しては、試しに『太平御覧』で「孝廉」と検索し、ざっと見ていくと卷二百一十五職官部十三總敘尚書郎に 『續漢書』曰:胡廣字伯始、舉孝廉試為天下第一、旬日拜尚書郎。 と、試験しその評価で任官が変わる記述がある。

93. 『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(1975年)
 毎年、この大型連休の時期に京都古書研究会主催で京都市勧業館(みやこめっせ、写真)でやっているのが「春の古書大即売会」。今年で第25回で、5月1日から5日までやっている。 ・京都古書研究会 http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/  どんな催しかというと、広いホールに本棚がずらりとならんでいて、それぞれのスペースに京都を初め大阪や奈良の古書店が出店していて、いろんな古書を物色できる会。出店されている古書店は44店(さっきチラシから一回だけ数えたけど、数え間違え失礼) 会計は会場奥の壁際のカウンターで一律だし、買い物かごも用意されているので、ついつい買いすぎちゃう。  昨年は三顧会と日程が重なったこともあってか、行けず仕舞いだったが、今年は都合が着いたので、行くことに。  といっても15時半ぐらいに会場へ到着。荷物を預け、あれこれ古書を見て回る。値段は高いが『冊府元亀』や『康煕字典』がドカーンとセットで置いていたり、『三才図会』がさりげなく置いていたのはさすがだなぁって思った。ちなみに『中国社会風俗史』は1200円で売っていた。  今回、そのまま旅行に行く予定だったので、良い本があっても心の中で難癖つけて、荷物にならないように勉めた。そのため漢代の出土物の展覧会の図録をあきらめる(難癖:半分ぐらいが興味ない唐代のものだから)。  そんなことを思いながら、うろちょろしていたら、いつの間にやら時刻は16時20分。荷物預かりは16時半までだったので、慌てて、もったいないとばかりに気になっていた本を取りに行き、カウンターへ急ぐ。  それは樋口隆康/著『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(<新潮選書>新潮社、1975年)。500円なり。  暇を持て余す旅行の移動中とは言え、すでに旅のお供に『中国社会風俗史』と『画像が語る中国の古代』を携帯していたので、『古代中国を発掘する』を読み始めるのは半年後ぐらいになるだろう、と思っていた。ところがその二冊は既読ともあって、いつの間にやら手を伸ばしページを開いている。  冒頭の「まえがき」を見ると「私の同学の京都大学人文科学研究所の林巳奈夫君」と林巳奈夫先生の名前が不意に出てきていて思わず食いついてしまう。その後、本編でも何度か林巳奈夫先生のお名前が出てくる。  続く「序 ─世紀の大発見─」では原田淑人「盗掘」(『東亜古文化説』昭和四十八年刊)や楊伯峻の論文からピックアップした盗掘の話が印象に残った。そこには三国時代の盗掘や発掘された劉表の墓の話(『水経注』ベン水注と、『三国志』劉表伝)が載っていた。  その後は馬王堆の漢墓について書かれてある。一つの墓についてだから狭く深くしか書かれていないように思ったが、墓自体について出土品について時代背景についてなど多岐にわたりどれも文献からの引用を交え事細かに書かれており、挿図も豊富なので、興味を失うことなく読み進めることができる。例えば帛画に描かれている絵画の説明は林 巳奈夫/編『漢代の文物』を彷彿とさせると、馬王堆漢墓の婦人の遺体の調査のところは冨谷至/著『古代中国の刑罰』を彷彿とさせる。 ※馬王堆漢墓についての関連リンク ・2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝 http://cte.main.jp/newsch/article.php/232  三国時代より前の時代のことながら、三国志に書かれた当時の社会風俗の一部が浮き彫りになるようで面白い(いや、このサイトが「三国志ニュース」なもんでとってつけたような文を入れてみる・笑)。  以下、『古代中国を発掘する』の目次を引用。 まえがき 序 世紀の大発見 第一部 馬王堆の漢墓 1 長沙の国 2 馬王堆一号墓の発掘 3 槨と棺 4 逸品ぞろいの副葬品 5 なぜ保存がよかったか 6 被葬者は誰か 7 長沙と楚の文化 8 馬王堆二号、三号墓の発掘 第二部 満城の漢墓 1 隠されていた墓 2 崖墓のしくみ 3 復原された金縷玉衣 4 副葬品のかずかす 5 劉勝と竇綰 結び 前漢時代の墓制 1 雄壮な帝王陵 2 堅穴墓から洞穴墓へ 以上、旅行中の山口県の岩国駅近くのファーストフードより。

94. リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」
※前記事 リンク:「漢代の扁書・壁書」  漢代においての地方官吏の日常については前々から興味があって、下記掲示板の書き込みにある論文について気になっていた。 ・Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2546  その論文は下記の論文。 高村 武幸「秦漢代地方官吏の『日記』について」(『古代文化』54(9) (2002) pp.22-33,63-64) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000449115  下記関連記事で触れた高村武幸/著『漢代の地方官吏と地域社会』の「後記」によると、この論文は大幅に書き改められた上で、この書籍の「第二部 漢代官吏の社会と生活」の「第一章 秦漢代地方官吏の「日記」について」に収録されたという。 ※関連記事 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年) ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ・汲古叢書 75 漢代の地方官吏と地域社会 - 株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/book/b9728.html  その漢代の部分の元となる史料は尹湾六号漢墓簡牘であり、中でも「元延二年日記」と命名された冊書が主となる。前述の論文に先んじて、基礎的研究の論文が下記のようにあり、ウェブ上で閲覧できる。 西川 利文「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究──三・四号木牘の作成時期を中心として──」(『文学部論集』第83号 (199903) pp.1-17 佛教大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473019

95. 「長沙呉簡の世界」ノート6
・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/642 ※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。 ※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか? <7月20日5時半追記> 何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。 三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。 まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/264 ↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような… <7月28日13:20追記> 確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。 ※追記 リンク:学生の動向 ※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日) <追記終了> ○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」  15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。  それで日本語の要約。  報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。  前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。  呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。  宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。  また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。  孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。  羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。  王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。  王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。  ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。  後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。  非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。  呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。  呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。 ※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。  15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。  16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。 ○休憩(15:25~15:45)  この間、幸さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪  あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑) ・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/648 ※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)

96. 三國志よりみた邪馬臺國(2016年4月27日)
・關尾史郎のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・購入2(16/05/12) (※上記ブログ記事) http://sekio516.exblog.jp/24394654/ 上記のブログ記事のRSSで知ったこと。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ・三國志よりみた邪馬臺國 - 株式会社汲古書院      古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b222657.html ※関連記事 邪馬壹国の歴史学―「邪馬台国」論争を超えて―(2016年3月30日) 上記サイトの上記書籍ページにあるように汲古書院より2016年4月27日に渡邉義浩/著『三國志よりみた邪馬臺國 ―国際関係と文化を中心として―』(ISBN9784762965715)が出版されたという。8000円(税別)。 ・渡邉義浩ホームページ http://ywata.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志 運命の十二大決戦(2016年2月29日)

97. 三国志学会 第四回大会ノート2
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート1  10:59。総合司会の石井先生から次の司会の金沢大学の上田望先生への紹介がある。配付資料(レジュメ)はA4の3枚の両面印刷5ページ。 ※参照リンク メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ) ○「謀る孔明、女装する仲達――川劇「上方谷」をめぐって」  向かって左に立つ上田先生から田村さんと報告の紹介の後、「川劇」の解説がある。中国には京劇を初めたくさんの地方劇があって、特に四川地方に伝わっている川劇についてどのような三国の物語が伝わっているか、それらについて報告があるか期待しているという。日本では川劇の三国物語はおろか、川劇自体が上演されないので、その辺の話の報告については楽しみにしているという。  それで中央に登壇される田村さんからの報告が始まる。  まず四川省の成都と三国志との関係についての概要が話される。また、雑劇や講談で「三国志」が古くから親しまれていたという。

98. 単軸モデルから多軸モデルへ(あるいはピラミッドモデルからすり鉢モデルへ)
※関連記事 2005年度におけるコーエーとセガの三国製品への関心変遷  上記記事の続き。  現代日本の『三国志』に関わるジャンルについて考えるに当たり、ふと江戸時代のことを思い出す。  2006年7月29日に開催された「第2回三国志シンポジウム」での報告「小説『三国志』と日本人」では、江戸時代中期において三国志を受容した層がどのようなものだったか、模式図としてスクリーンに映し出されていた。 ※関連記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2

99. リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法
※前記事 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について ※関連記事 三国志 Three Kingdoms 群雄割拠(BSフジ2011年1月10日-)  上記関連記事で触れたように『三国志 Three Kingdoms』前篇 DVD-BOXに完全収録『絵本通俗三国志』挿絵集が同梱されると聞いて、一瞬、「何を今さら」と思ってしまったわけだけど、それにはちゃんと解説文がついているようでファンの趣向の幅を広げるという意味では意義があるのかもしれない。 ※参照記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2  だけど、三国マンガ等、視覚的要素を含む現代日本の三国作品において、ちゃんと根拠を示せるわけじゃないけど、この日本の『絵本通俗三国志』よりも中国の連環画の影響が大きいように思える。 ※参照記事 赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポ  ここ一年ぐらい、マンガ関連の学会大会やシンポジウムに一般聴講して再認識したんだが、マンガに先立つ一つの表現形式として連環画がある。そのため、日本の三国マンガにどれ程、連環画が影響を与えたか興味を持っていた。なかなか視覚的要素を定量的に扱う案が思い浮かばず、定性的に扱うとなると主観を交えない自信がないため、研究するのに躊躇しているのだが。 ※関連記事 私的メモ2:三国漫画分析  そこで何か参考になるものはないか、今、CiNiiで「連環画」と軽く検索を掛けるといくつか論文が出てきて、それらの中のいくつかは読めるものもあって、今回、リンクするのが下記の論文。 高橋 愛「中国の連環画の変遷とその描写技法」(『美術教育学 : 美術科教育学会誌』27号 (20060331) pp.219-231 美術科教育学会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004702829

100. 第2回三国志学会大会ノート2
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/680  1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。  そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。 ○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)  11時13分スタート。司会は中川先生。 ●はじめに  ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ  「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。  (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。 ●一、対象とする「関羽文献」  (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)  A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)  これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。 ●二、「関羽文献」の「本伝」の内容  いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。 ●1. 呼称  (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)  Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。 ●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程  (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)  『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。  出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。  「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。 →王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。  「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。 →『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。  関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。 →BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。 <参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006) http://cte.main.jp/newsch/article.php/275 ●3. 車胄を斬る  『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。 ●4. 秉燭達旦  『三国志』にはない話。発表では割愛 ●5. 義釈曹操  『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響 ●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード  レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。 ●7. ...

101. 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日)
・財團法人東方學會 http://www.tohogakkai.com/  ※関連記事 漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日)  上記サイトにあるように2010年5月21日に「第55回国際東方学者会議」の併設の「第2回中日学者中国古代史論壇 魏晋南北朝期における貴族制の形成と三教・文学 ―歴史学・思想史・文学の連携による―」が開催される。  名前から連想されるように私を含めた一般人は立ち入りできないから(※追記訂正。この記事のコメント覧で渡邉義浩先生よりご指摘をいただき、一般でも参加できるとのこと。5月12日締切でEメールでの事前申込制で会議参加費4000円で、学生は2000円。ただ、たいへん権威のある学会なのでそこらへんは念頭においてください。)、あまりここで記事にしても意味はなさそうだけど、下記関連記事にあるように昨年の「第53回国際東方学者会議 東京会議」のシンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」の内容が『三國志研究』第四号にまとめられており、今回も何らかの形で刊行される可能性はないとは言えないので、ここに記しておこう。 ※関連記事 三國志研究 第四号(2009年9月)  今回、「三国志ニュース」的に目を引くのが、「Section II(History)」の13:50-14:10のところにある「梁満倉: 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係」というもの。  タイトルに「曹操墓」ってあるけど、これって、連想するに、昨年末(2009年12月27日)に公表された安陽西高穴大墓の出土物(※下記記事参照)と伝世文献史料とを照合し検討するような内容なのかな。 ※関連記事 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

102. 第9回魏晋南北朝史研究会大会(2009年9月12日)
・古代中国箚記 http://ancientchina.blog74.fc2.com/ ・第9回魏晋南北朝史研究会大会(於:駒澤大学・2009/9/12)  (※上記ブログ記事) http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-251.html  上記ブログで今年の「第9回魏晋南北朝史研究会大会」のプログラムを知る。駒澤大学で2009年9月12日土曜日13時より開催とのこと。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/  というわけで前回に引き続きプリントから情報を下記へ転載。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  日時 9月21日(土)午後1時  場所 駒澤大学 深沢校舎1-2講義室  プログラム   開会挨拶   研究報告「魏晋南北朝史の再構成と史料批判の可能性を探る」    報告1 曹魏明帝政権の人的構造                         大原 信正 氏        コメンテーター          満田 剛  氏   報告2 東晋南朝の宗廟について                         戸川 貴行 氏        コメンテーター          小尾 孝夫 氏  特別講演 近年中国魏晋南北朝史研究动向:以青年学者为中心                         侯 旭東  氏  学会報告等  総会 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

103. 三国志研究入門(2007年7月25日)
日外アソシエーツというところから2007年7月25日に渡邉義浩先生/著、三国志学会/監修『三国志研究入門』という本が刊行されるとのこと。2300円。 ・日外アソシエーツ http://www.nichigai.co.jp/ ・三国志研究入門(上記サイト内紹介ページ) http://www.nichigai.co.jp/sales/sangokushi.html 上記ページを見ると、「三国志研究」とは言っても「歴史・文学・思想それぞれに焦点をあてて」いるようで、ここらへんは監修の三国志学会の取り扱う領域を反映しているようだね。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ・『三国志研究入門』 http://www.daito.ac.jp/sangoku/book.html ※このページによると三国志学会の学会員は特別価格2000円になるとのこと。300円安。 目次などを見るといろんな単語がピックアップしてあって興味深い。個人的には思想のあたり馴染みがないので、触りだけでも知りたいところ。日外アソシエーツのページでは「序」を見ることができ、またそのページからはPDF形式で本文見本を見ることができる。本文見本で上げられているのは「第一部 研究入門篇」の「I 三国志をより深く知るには」のところ。監修とあって三国志学会中心の書き出しで、ここらへんこの本の意図するところ(仕掛けようとするところ)のシステマチックなものが見え、面白いね。 この見本で知ったけど、『三国志研究』第二号(三国志学会第二回大会のときに発行)に去年の三国志学会第一回大会で講演のあった「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」の翻訳が載るとのこと。版本の細かい話とか判りづらかったので、ありがたい。 ・三国志学会第一回大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 ・三国志学会第二回大会のプログラム発表 http://cte.main.jp/newsch/article.php/636 ※追記 三国志研究要覧(2011年9月復刊) ※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日) あまり関係なさそうだけど、三国志ジャンルの「歴史・文学・思想」というと創文社のPR誌『創文』で「三国志の世界:思想・歴史・文学」というシリーズを連想するね。私は未読だけど。 ・三国志の世界:思想・歴史・文学(『創文』) http://cte.main.jp/newsch/article.php/627 <7月25日追記> ・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・購入(07/07/25) http://sekio516.exblog.jp/6160684 あ、そうか、復刊希望の多い『三国志研究要覧』のリニューアル本と捉えるのが自然だね。

104. メモ:後漢時代の私塾に関する基礎的考察(史料批判研究 9号 2010年12月)
※三国関連の前記事 メモ:曹豹さんを囲む会(仮)(2013年5月4日) ※前雑記 ・メモ:亜種一周片道乗車券 http://cte.main.jp/sunshi/2013/0426.html  上記のリンク先のように一週間も経たず、今度は東へ出かける。当初はその二週間後に同じく東に出かけるため、上記の雑記のようにまた一筆書きの一周片道乗車券、しかも往復を選ぼうとしたが、有効期限を考えるとどう考えても価格的に割りに合わないので普通に高速バスの2往復を選択する。  2013年5月10日10時30分京都駅発の高速バスに乗り込み、バスの中では終わりの見えない大型連休のレポを書き始める。ちょうど上記の雑記からリンクを貼っているページがそれらに当たる。  18時ぐらいに東京駅日本橋口に到着し、そこから160円で丸ノ内線に乗り大手町で半蔵門線に乗り換え、神保町で降り、A7出口へ向かい、少し雨が降る中、通りを歩き、東方書店へ到着する。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/  下記関連記事で触れたように、夢梨さんとの話で、論文、照内崇仁「後漢時代の私塾に関する基礎的考察」(『史料批判研究』第9号、史料批判研究会2010年12月)のことを思い出していた。国立国会図書館に行けば読めると思っていたが、ちゃんと検索してみると、蔵書がなく、あれこれ当たると東方書店に置いてあると知り、用事のついでにその書店に寄ろうと決める。 ※関連記事 メモ:第18回三顧会 前夜祭(2013年5月3日)  それでいざ書店に入ってみてあれこれ本棚を見て回っても、目的の学術雑誌が見当たらない。しばし粘ってみたが、諦めて店員に尋ねてみて探して貰うことになった。  その待っている間の様子は下記関連記事に書いたとおりだ。 ※関連記事 六朝詩における「銅雀台」(中国詩文論叢 第31集 2012年12月)  それで出して貰った、下記リンク先に情報のある『史料批判研究』第9号。3150円。308頁もあり、思ったより分厚く一瞬、怯んだが、そのまま購入する。 ・国内書 史料批判研究 第九號【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900008555&bookType=jp

105. 中国古代国家と社会システム(2009年9月25日)
 三国志とあまり関係ないけど、三国時代に通ずるものが多いということで。  汲古書院からのRSS配信や、フライヤー入りの封書で知ったんだけど、下記リンク先にあるように2009年9月25日に藤田勝久/著『中国古代国家と社会システム―長江流域出土資料の研究―』(汲古叢書85)が発売したという。ISBN9784762925849。定価、13000円+税。 ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日) ・汲古叢書85 中国古代国家と社会システム - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b37955.html

106. 三国志学会第一回大会ノート2
・三国志学会第一回大会ノート1からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/397  司会に三国志学会副会長の堀池信夫先生がついて、早速、次の報告がスタート。 ○澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)「五斗米道研究の現状と課題」  レジュメは6ページ。家系図、年表やら史書からの引用がある。  初めは澤先生から高校の授業で三国志がほとんど取り上げられないことに不満の声が挙がるほど関心が高いという掴み。 【1】宗教名の変遷  まず五斗米道の説明。張陵が始祖。いつのころから天師道と呼ばれるようになったとのこと。元代には正一教と呼ばれる。南北朝のころには様々な経典を受け入れ、道教とも呼ばれるようになった。つまり初期道教と呼ばれる。 【2】歴代張天師  歴代の天師名がレジュメに並べられる。初期の三代を三張(張道陵、張衡、張魯)と呼ばれる。現在は64代目の張源先(1969~)で台湾におられるとのこと。この系図は疑わしい部分がある。張魯のときに五斗米道は大きな飛躍をする。 【3】五斗米道関係年表  190年に劉焉と結びつき漢中郡と巴郡を支配下に置き、五斗米道に基づいた政治を行う。この政権は宗教王国のような捉え方をされている。道教からの研究(道教の歴史や教義、仏教との論争等)と歴史からの研究の二つがある。歴史研究において太平道(黄巾の乱)に比べ副次的に五斗米道が研究されてきた。 【4】『三国志』巻8張魯伝  タイトルにある三国志魏書張魯伝の冒頭の漢文が引用されていて、それが読まれていく。五斗米道は病気を治す→レジュメ【5】裴松之注を読まれる 【5】同前、裴松之注  五斗米道の細かいところが読まれる。「老子五千文」を読ませるとか。老子がテキストに使われていることに注目。五斗米道のころから老子が重要。六朝時代から唐の時代にかけての道教の伝承では張衡あるいは張魯が老子に注をつけたということで「老子想爾注」が成立したとのこと。道教の研究には不可欠なもの。成立年代は多くの人が後漢の成立だろうといっている。疑問の声もある。 【6】『後漢書』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条  裴松之の指摘。張脩を張衡としている。これらの論争があって幸田露伴は裴松之に従う。張脩のままでいいんだ、としている人もいる。五斗米道の研究ではさらにやっかいで、張脩という人物は三人出てくる。裴松之注に引く典略、三国志魏書張魯伝、後漢書本紀の三カ所出てきて、どれとどれとが同一人物とかいろんなパターンが出てくる。  実は張脩が五斗米道を開き、張魯が乗っ取って張魯が歴史をねつ造したという興味深い説もある。  澤先生は裴松之の指摘は間違いで、三カ所の張脩は同一人物と考えているとのこと。そうすると本筋とは別の問題が出てくる。なぜ陳寿は『三国志』で「別部司馬張脩」とだけ載せたか? 五斗米道との関係を書かなかったのか。澤先生は張魯の伝であって、張魯中心に書いていたため張脩については簡略に書いた、と考えた。  歴史研究、五斗米道を主な研究としたもの。「教団の組織」と「異民族との関係」とを対象とした二つがある。  まず教団の組織について。大きな組織(大きな軍)をおさめられたのか? 地元の豪族の協力が必要。教団そのものではない。政権としては地元の有力者を形式的に祭司に任命し治めさせていたのではないか。信者じゃない人も信者としていた 【7】『華陽国志』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条 【8】『三国志』巻1武帝紀、建安20年の条 【9】『文選』巻4所載、蜀都賦注引『風俗通』 【10】『後漢書』巻86南蛮伝、板楯蛮夷の条  そして異民族との関係。曹操に攻められたとき、異民族を張魯は味方にしていた。【7】で[宗/貝]人(そうじん)、【10】で板楯蛮と呼ばれている。非常に勇猛な民族をうまく取り入れた。民族の首長を祭司に任命し取り入れた。 ・残された課題  五斗米道と太平道との関係。宮崎市定先生から「君、関係あると思うかね?」ときかれたそうな。黄巾の乱とは別に考える? ・質疑応答  津田先生からの質問というか意見。  第一に張魯の娘が曹操の息子に嫁ぐ。その息子が最後の皇帝になる。そういったことに関係するのか。  第二に陳寿のこと。陳寿の出身地は五斗米道の活動範囲とかぶる。  USHISUKEさんからの質問。名乗らず、NPO三国志フォーラムに所属とのこと  異民族についての質問。王平のこととか。  五斗米道はどの程度、異民族に対し寛容であったか。 ※詳しくは下に示す三国志漂流の記事参照 ・三国志漂流 http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040 ・『三国志学会』レポート http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2606181#2606181  →元々、漢民族に対し協力的。後漢になると中央政府に対する板楯蛮の反乱が多くなってくる。そういった異民族に対し五斗米道は受け入れる体制にあった。板楯蛮は租税を免除されいたんだろう。曹操に降った後、異民族は軍団長に任命されていたり、と。 ・三国志学会第一回大会ノート3へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

107. リンク:「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」
・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(09/04/07) http://sekio516.exblog.jp/10007672/  上記ブログ記事で知ったこと。 --引用開始----------------------------------------------------- 中林史朗「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」,『大東文化大学漢学会誌』第48号:237-274,2009年3月 --引用終了----------------------------------------------------- ・大東文化大学文学部中国学科 http://daito-sinology.seesaa.net/  この論文のタイトルから2007年7月28日に開催された「第3回三国志シンポジウム」の一限目の「日本人にとって三國志とは何じゃいな? ~見るのか、讀むのか、掛け軸から『ストップ劉備くん』まで~」を連想し、何か関連があるのかと思い、下記のサイトを見に行く。 ※関連記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1  そうすると、同じ論文が公開されていた上に、やはり「第3回「三国志シンポジウム」に於いて発表した講演原稿と配付資料とに、些か手を加えて書き改めたものである」とのこと。  というわけで、下記に該当ページへリンクする。あれこれ参考になるね。「Dynasty Warriors Wiki」もここを参考にすれば良いと思った。 ・黄虎洞 http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/ ・日本人に於ける三国志とは http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html  ※「http://www.daito.ac.jp/」から「http://www.ic.daito.ac.jp/」へ訂正 ※関連記事 Sangokushi News - Japanese fansite for anything based on the Romance of Three Kingdoms

108. 2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート
 2006年9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」が開催されること、さらにそれは一般聴講可能だと聞き及び、前日、清岡は関西から東京入りする。  当日、同じく関西からのしずかさんと共に東京メトロ丸ノ内線で会場となるお茶の水女子大学最寄り駅、茗荷谷駅に向かう。  茗荷谷駅から歩いて北上し、途中のコンビニで飲料水を買いつつ、やってきたのはお茶の水女子大学の正門。正門近くのお茶の水女子大学附属高等学校で輝鏡祭(学園祭)をやっているようで華やか。  それを尻目に会場となる理学部3号館へ向かう。前のスーツ姿の人の後をつけて、3号館の2階から入り、エレベータで7階へ。7階についてエレベータを出ると前は汲古書院などの店舗となっていて、そこから会場を探し歩く。  7階は狭く細長い一本の廊下があるだけなので、少し階段を上がったりしつつそれをずんずん進んでいくと、廊下の突き当たりに受付があったので、受付をすまし、予稿集とレジュメを受け取り、廊下突き当たり左手の701教室へ入る。予稿集は「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集と似た構成で、茶色の厚紙が表紙で、表紙が目次代わりとなっている。  どこに座ろうかと、会場向かって右側の通路を通っていると、不意に仁雛さんに声をかけられ、軽く挨拶する。席を真ん中左寄り、前から四列目を確保。10時開始の10分前だけどまわりにあまり人が座っていないのが気になった。ほとんどの人は後や右の端っこの方に座っている。  専門外の清岡は全く気付かなかったけど、しずかさんによると、入り口側、つまり会場向かって右側に席には著名な先生方がかたまっているとのこと。前日、同大学で「第6回魏晋南北朝史研究会大会」があったので、その流れかな、と話していた。 ・「第6回魏晋南北朝史研究会大会」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4182734  当時もそうだけど、上記記事をみると興味深いので聴講しにいけばよかったと後悔。  会場の様子は右上の写真のようになっている。プログラム等は以下の通り。【直前情報】長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」(關尾史郎先生のブログ内記事)のほぼまる写し ---------------------------------------------- ○長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」 日時:2006年9月17日日曜日、10:00~17:00 会場:お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室 主催:長沙呉簡研究会 総合司会:三崎良章(早稲田大学) プログラム: ・開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学) ・主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学) ・報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」  ※文字コードの表示上の都合から[艸/別]は「別」の字にくさかんむりをつけた字という意味、以下、同じ ・報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」 ・報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」 昼食・休憩(12:25~13:30) ・報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」 ・報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」 ・報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「従〈呉簡研究〉看呉簡研究所面臨的困難」 ・休憩(15:25~15:45) ・パネルディスカッション(15:45~16:45)  コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校) ・閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学) ----------------------------------------------  また以下のリンクは開催後の記事 ・長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界―三国志を超えて―」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4174556  それにしてもこのシンポジウム、タイトルに「三国志を超えて」とあるんだけど、個人的に史書である『三国志』にない情報がたくさん長沙呉簡に含まれているという意味で「超えて」だと思っていた。シンポジウムが終わった後、幸さんの話によると、三崎良章先生から「(このシンポジウムには)三国志はないですよ」というようなことを言われたとのこと。それをきいて清岡は、『三国志』を飛び「超えて」しまって通り過ぎたという意味で『三国志』はないんだ、なんてアホなことを思っていた。 ・「長沙呉簡の世界」ノート1へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/421 ※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日) ※追記 レポート:関プチ5 全国ツアー:6/22特別講座「新発見!三国志と日本」勝手に予習(2014年6月22日)

109. 林 巳奈夫 先生、死去
訃報です。 2006年1月1日に林 巳奈夫 先生が急性心不全のため死去されました。80歳でした。 ・産経新聞 http://www.sankei.co.jp/ ※ここの「おくやみ」のところです。 林 巳奈夫 先生は京都大学名誉教授で「中国古代の生活史」(吉川弘文館刊、1992年3月10日発行、ISBN4-642-07311-6)の著者であり、つい最近、著作の「漢代の文物」を紹介したばかりです(下のリンク参照)。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/258 そのため、個人的にかなり驚きました。 林 巳奈夫 先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。 ※追記 『中国古代の生活史』復刊(2009年12月15日)

110. 韋昭研究(2011年7月)
数日前に汲古書院よりフライヤが送られてきて、普段は下記のサイトで情報が更新されるまで待つのだけど、今回は三国に直接関係し、しかも孫呉ファンの需要が高そうな情報なのですぐ記事に。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ そのフライヤによると、汲古書院より2011年7月に高橋康浩/著『韋昭研究』(ISBN978-4-7629-2965-6)が6300円で刊行されたという。タイトルの韋昭は『三国志』巻卷六十五呉書に立伝される、三国呉の韋曜字弘嗣(204-273)のことだね。

111. 三国志学会 第四回大会ノート4
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート3  14:09。総合司会の石井先生から次の報告へのアナウンスがあった。司会は渡邉先生とのこと。  レジュメはB4が四枚、8ページ。主に資料が並んでいる。  まず渡邉先生から辛 賢 先生の紹介がある。韓国出身で、筑波大学で学び、易が専門とのこと。漢代から三国魏にかけて象数易から義理易に変わってくる時代であり、そこで王弼の易が出てくるという。  辛先生が登壇される。 ○「王弼の「意」と「象」―「象」の淵源から解釈の展開―」  最初のタイトルは「鄭玄と王弼」だったがなかなか鄭玄の易と王弼の易の比較は難しかったので、今回は「王弼の易」で報告する。

112. ノート2:三国志学会 第五回大会
※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日) ※前記事 ノート1:三国志学会 第五回大会  11時16分再開。牧角先生から発表者と発表題名のアナウンスが入る。以下、二つ目の研究報告のノート。レジュメはB4用紙4枚、B5で縦書き8ページだ。 ○研究報告 11:10~12:00「結びつけられる三国志と太平記―近世初期の学問・思想の一齣として」

113. メモ:日中における『三国志』の受容と再創造の概況
※前記事 メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」  下記関連記事にある情報交換会を開催する前に、余っていれば、ある抜刷をくれないか、と著者ご本人にお願いしたところ、有り難いことにその会に用意して下さり、快くそれを下さった。 ※関連記事 議事録:三国創作における視覚的研究材についての情報交換会(仮題)(2012年7月5日)  それは下記の論文(雑誌内表記では、研究ノート)だ。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 陳 曦子「日中における『三国志』の受容と再創造の概況」(『メディア学』 (25), 1-9, 2010 同志社大学大学院メディア学研究会) http://ci.nii.ac.jp/naid/40018711817

114. 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本サブカルチャー研究会 http://www.japan-subculture.com/top.html  上記サイトにあるように(※時間が経てば更新される可能性大)、2012年6月1月金曜日から3日日曜日まで国際学術会議 "Manga Worlds" : Subculture, Japan, Japanology「マンガ・ワールズ-サブカルチャー、日本、日本学」が開催された。その二日目までは神戸大学瀧川記念学術交流館が会場で使用言語は英語のみで、三日目は京都国際マンガミュージアムが会場で使用言語に日本語も加わり発表時の同時通訳と質疑応答時の逐次通訳も行われた。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/  その三日目の会場の各座席に予め置かれていたのが、その国際学術会議についてのアンケートと、「日本マンガ学会第12回大会」のフライヤだった。そこには下記の日本マンガ学会サイトの下記ページにあるようなプログラムが書かれてあった。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12  上記のページによると、2012年6月23日土曜日24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催されるという。参加費は、会員であれば2日間で1000円(学生会員500円)、一般であれば1日につき1000円(学生500円)で、懇親会は一律別途3000円だという。 ・明治大学 http://www.meiji.ac.jp/  ここで「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表だ。 それは  陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻]  日本における三国志マンガの翻案過程 というもの。「会場3」は13時から16時までの間に4報告あってそのうち最後は「ラウンドテーブル(90分)」であるため、この報告に30分が割り当てられているのだろう。ここでいう「三国志マンガ」の対象が、下記関連記事であげたような広く通行する横山光輝/著『三国志』だけ等、絞っているのか、あるいはデータベース消費を誘発するような『BB戦士三国伝』関連マンガ等も含めるぐらい幅広く取り入れられているのか気になるところだ。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会ノート1

115. 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日) ※関連記事 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日) ※追記 国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」(2010年11月27日28日)  上記の関連記事にあるように2008年10月11日12日に愛媛大学で公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」が行われるということで足を運ぶ。  当日はちょうど「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、12日の午前中を狙って11日丸一日かけて愛媛大学のある愛媛県松山市へと向かう。初めて行く土地で、車窓を楽しんでいたので、 図書館から借りた『漢代の地方官吏と地域社会』をほとんど読み進められなかったが。  松山はコンパクトにまとまった街で、市電と徒歩でホテル、観光地や繁華街などほとんどカバーできた。しかも市電はどこでも150円で一日券が300円という安さ。ただ市電の終電が早いことは玉にきずだけどね。  12日朝、市電に乗り込み、いざ会場となる愛媛大学へ向かう。 ・愛媛大学 http://www.ehime-u.ac.jp/  9時前、会場となる建物の愛媛大学法文学部に到着する。その出入り口のど真ん中には写真のように犬がうつ伏せに寝そべって、こちらに無関心な様子で建物の入口の前でくつろいでいた(笑)。  エレベータに乗り込み8階に上がり、東側にある大会議室へ。西の入口でレジュメを貰う。  東の壁にスクリーンがあって、そこが演壇となる。席が東に向かって配置されているのではなく、写真にあるように会議室の名の通り、南北で交互に向かい合わせになるような席と机の配置となっている。清岡はスクリーンが見えるように北側南向きの席に座り、開始を待つ。 ●10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)  ※以下、頭に「●」をつけた一行はプログラムからの写し  9:06開始。  前日「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」のご講演をされていた藤田勝久先生が司会として立たれる。ここで王子今先生は渡航手続の関係上、来日できなかったとアナウンスされる。その代わり、三番目に黄 暁芬先生の「秦直道の調査と研究」というご報告をされるそうな。 ※追記 中国古代国家と社会システム(2009年9月25日) ●王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」  藤田先生が急遽、作成した資料「中国古代の出土資料と交通論」を元に簡単な説明がされるとのこと。 ○1、中国古代交通史の研究  ※以下、頭に「○」をつけた一行はレジュメからの写し  白寿彝『中国交通史』(1975)は交通区域とか都会とか道路とか、制度史のような形で書かれた。その他、いくつか書かれ漢代だと譚宗義『漢代国内陸路交通考』(1967)、唐代だと厳耕望『唐代交通図考』(1985-1986)など交通路線の問題、それから交通施設の問題など、文献学を中心とした研究。  王子今『秦漢交通史考』(1994)は手に入るものの中で、一番、ベーシックなもの(レジュメでは目次が書かれている)。王子今先生の考えによると交通システムは統一国家を維持するためのものとのこと。秦漢時代に空前の発達を遂げた。秦漢交通史に重要性がある。社会生産の発展は交通の発達と維持を必要とする。交通網の分布、密度、効率は文化圏の範囲と規模を決定する。『秦漢交通史考』はこの当時、発見された出土史料画像史料をも含め概説されている。考察の対象としては狭い意味では人と物の空間、広い意味では通信など伝達方式も意識されている。考察の対象として、交通発展の現象と規律、社会文化面に対する作用を扱う。実際には制度、交通路とか橋とか乗り物とかが社会にどのように関わるか網羅的に扱う。  今回、王子今先生が発表するにあたり、予めどのような内容なのか聴いており、それがレジュメに書かれている「1交通条件と皇帝権、2交通施設と国家の政治、3交通路と国家の建設、4交通道路と軍事化」という目次に当たる。王子今先生には機会を改めて松山で発表してもらう予定とのこと。 ○2、人びとの移動と出土資料:文字資料と口頭伝達  人びとの移動としてどんな資料があるか。藤田先生は昔、『司馬遷の旅』(中公新書、2003)という本を書き、司馬遷は武帝と巡行したりと中国の三分の二を旅行している。交通史の研究が少ないので実際、どうかわからない、と。その本では「余論」として「漢代の旅行事情」として書いて、その時に調べてわかったことがある。つまり中国の交通史の研究は進んでなくて、よくわからないということがよくわかった。  レジュメの右側にいくつか項目を挙げている。それらは中国ではどんな人々が移動しているか、そんな移動を示す出土資料にはどういったものがあるか、そういったものを対象として研究を進んでいけば貢献できるのではないか。  「1)皇帝の巡狩」。一番有名なのに秦始皇帝の天下巡行がある。それを示すものに「刻石」がある。「2)中央の官僚、官吏」「3)地方の官僚、官吏」。従来から研究されている。「4)軍隊とその組織」。王子今先生も注目されている。軍事目的で移動したり辺境の防衛や徙民に関連する資料もある。「5)公的な労働」。単に物資を輸送させるだけではなく、土木建設、例えば皇帝陵墓作るためかり出されるとか。各地への軍需物資の移動の資料の一つに、今日、発表で触れられる「里耶秦漢」などがある。「6)学者、客、一般民など」。思想家、占いをする者、技術者など。 ○3、交通の施設と交通システム  一番考えられるのは「1)公的な城郭、交通・軍事の施設」、こういうハード面がある。出土資料そのものだけではなく近年、遺跡の調査もある。「2)交通システムと規定」について例えば睡虎地秦簡や張家山漢簡には「行書律」「伝食律」などの職業規定が出てきている。また通行書に当たるもの(符、伝、伝信)も資料として増えてきた。  ここで今回の報告の概要が藤田先生により説明される。今回の発表は全て日本語だそうな。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2 ※追記 東アジア出土資料と情報伝達(2011年5月25日) ※追記 日本マンガ学会第13回大会に至るまで(2013年7月4日-) ※追記 中国の歴史をたどる―『三国志』(2014年10月14日-2015年3月10日全6回)

116. 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日)
※関連記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会(2009年9月12日)  上記関連記事で書いたように、2009年9月12日に第9回魏晋南北朝史研究会大会が駒澤大学深沢校舎1-2講義室で開催された。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/  初めていく大学だが、事前に駒澤大学深沢校舎は駅から結構、離れていると知ったんで、なるべく歩かないようにと、最寄りのバス停がないかネット上の地図で探す。そうすると、会場の目の前にバス停があると知る。渋谷駅から出る東急バス渋82(等々力行)の路線で駒大深沢キャンパス前というバス停があるそうな。

117. メモ:三国志ジャンルと消費2
 「三国志ニュース」を見て下さっている方にはほとんど関係ない内輪な話なんだけど、今回の記事で「三国志ニュース」における記事の通し番号が1000を迎えることになる。但し、欠番は結構あるので、記事が1000報あるというわけではない。  それを記念して、三周年のときに書いたように、「三国志ニュース」の今までの記事を振り返るみたいな企画も考えたけど、特にピンと来るのが思い付かなかったので、極々、清岡の個人的なことを書いてお茶を濁してしまおう。個人的な話に留めないと角が立つってのもあるけど(笑) ・蒼天三国志blog http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/ ・thinking 2008 http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/archives/51452120.html  上記ブログ記事に刺激を受けてあれこれ三国志ジャンルのことを考えていた。中でも「二次創作」というキーワードに反応してしまう。  「二次創作」とは、ある創作物(作品)からキャラクターや設定などの要素を抜き出して来て、それらを自らの創作物において使用する創作のことを指す。時には複数の創作物から要素を抽出する場合もある。  こう書くと中には何かまとまった作品を想像される方もおられるだろうが、多くの二次創作物は一次創作がある前提(受け手が一次創作を知っている前提)で成り立っており、そのため、すでに一次創作で出ているキャラクターの性格や設定などの要素を説明する必要はなく、結果的にそれ自体が独立していない断片的なものとなりやすい。  以上はもちろん三国志ジャンルに限ったことではなく一般的な話である。余談だけど、「二次創作」は「創作」とあるもののファンにとっては消費の一形態のように清岡は最近、思うようになっている。  上記ブログでは、三国志ファンの間で二次創作が盛り上がっている、と書かれているのかもしれないが、ここは敢えて、流通する最近の三国志関連創作において二次創作的なものが盛り上がっている、と受け止めていこう。  とは言っても流通している作品において前述した二次創作にありがちな「それ自体が独立していない断片的なもの」はほとんどないように清岡は思える。それは単独で流通し消費される前提のものだから他の創作物に依存する訳がないという先入観が清岡にはあって、正しく認識できてない可能性がある。人によって捉え方は違うだろうし、現に仮装士 義さんの見方だと最近の作品は「三国志を知っている前提」のものが多いとのことだ。  ここで話は前提条件に立ち戻る。「三国志関連創作(作品)」と言う以上、『三国志』なり『三国演義』なりをベースにするのだから、二次創作的(あるいは多次創作的)になるのは当たり前だ、と言われそうだけど、ここで清岡が着目しているのはそういうことじゃない。と言うのも、最近の三国志関連創作は『三国志』または『三国演義』以外のところからもキャラクターや設定などの要素を取り出していないか、ということであり、そういう意味で二次創作的な作品が盛り上がっているんじゃないか(流通し消費されているんじゃないか)、ということだ。  『三国志』または『三国演義』以外のところ、というのは何も一つにまとまった特定の作品からとは限らない。それらは他作品に見られるようなナルシストなキャラクター性であったり、異質なデザインであったり、実在するタレントであったり、女性化だったり様々だ。もちろん例えば『BB戦士 三国伝』みたいに、あからさまにまとまった特定の作品(あるいはシリーズ)から抽出するケースもある。  こういった二次創作的な作品が次々と出る最近の三国志ジャンルに清岡は違和感を覚えているんだけど、どうもそれをうまく言語化できずにいた。  とりあえず無理からにでも言語化しようとし「データベース消費」という言葉を借用し、以前、ある記事を書いた。無理からに一気に書いたせいか、どうも書いていくうちに「データベース消費」という言葉の意味がズレてきていた。今、読み返すとそのズレっぷりを恥ずかしく感じ、記事を削除するか訂正するかすれば良いんだけど、前者は惜しく思え、後者は時間的余裕がないということで、そのまま放置しておこう。  とは言え、そのまま三国志ニュース内で「データベース消費」を誤用したままにしておくのも閲覧者に申し訳ないので、下記に定義の書かれた部分を引用しておく。 東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より --引用開始--------------------------------------------------------- 「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。 --引用終了---------------------------------------------------------  話を本筋に戻し、清岡の違和感を感じる根元の一つに、制作側はなぜ『三国志』または『三国演義』以外のところから抽出した要素を創作に使うのだろうか、というものがある。すぐに「それはその要素に商業的に成功した実績があるから」と答えが出るんだけど、どうも清岡は割り切れない。  また、そういったところからいろんな要素を取り込むことによって、三国志ジャンルやそのファン層の裾野が広がるだろうが、果たして三国志ジャンルにとって他の影響はないんだろうか。こういったことを清岡自身は下記のように2002年あたりから気にかけいろんなところで話していた。 ※関連記事  2006年3月11日 プチオフ会 新宿編  三国志ファン、コア層こわそう  自戒! ブロマイド小説 (※個人サイト内ページ。2002年6月27日) ※追記 プレ:三国志ニュースの記事が出来るまで  それらの記事を読み直し改めて思うのは、結局、『三国志』『三国演義』以外の要素と抱き合わせのように消費されると、ビギナーは『三国志』『三国演義』の表層だけに目が行き、深いところを知らずにいるままになるんじゃないかということ。いくら抱き合わせで盛り上がったとしても三国志ジャンルの表層で消費サイクルを早めるだけで、ビギナーは容易に三国志ジャンルから離れるのではないかという予想が付く。 ※実名を出した手前、一応フォローとして参照まで下記に記事を挙げておく。 ※参照記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)  そういった風潮において再び制作側に目を向けてみると、『三国志』『三国演義』を深く掘り起こそうとする動きよりは、むしろデータベース消費されやすいような製品を進んで出している動きが目立つ。もはやデータベース消費に抵抗できうるような作品性の高い(まとまりのある)ものは目立たなくなっている。ここらへんが1980年代や1990年代の三国志ブームと違い、「今のブームは「幹」になるような作品がない」とされている所以なのかもしれない。 ※参照記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて  清岡はこういった近況について、もはや良い悪いを論じるほど熱くなれずにいて、せいぜい消費サイクルの速さに振り回されないように、身の守りを固くし(というより財布の紐を固くし)醒めた目で静観しつつ、独自にやりたいことをやるぐらいだ。そもそも何かを消費するほど、三国志ジャンル内の製品には、清岡にとって魅力的なものはほとんどないんだけどね。  三国志ジャンルがどう転ぼうとも、動物的に消費し続けるファン層以外にも、状況を把握しそれを論じるような、ジャンルを支えるファン層があれば安泰なんだけど、果たしてそんなファン層が支えられるほど居るのか、という疑問も湧く。  ようやく冒頭で書いたように極々、個人的なことに話が戻ってきたんだけど、要はそういった二次創作的な三国志関連創作自体にどうも興味を持てなくなってきているぞ、ということだ。それらが社会や三国志ジャンルにどう影響を与えているかについては未だ興味はあるんだけどね。それは単に表明であって特に非難しているわけではない。  そういった二次創作的なものを省いた場合でも三国志関連創作についても興味が持てなくなってきている。創作物に制作者の創作部分以外に『三国演義』等の後世の創作が混じるとそれを認めた時点で清岡は拒否反応を起こしてしまう。  別に懐かしの「正史派」&「演義派」(SNSのコミュニティの噂を聞くとリバイバルしているのかな?)のどちらかを気取っているわけではなく、その創作が『三国志』ベースであろうとも『三国演義』ベースであろうとも作品の本質とは無関係であることは理屈で解っている。しかし、いざそういった『三国演義』等の後世の創作が混じったものを目の当たりにすると、強い違和感を抱き興醒めしてしまう。例えば、源平の時代に電話を出したり、フランス革命前に革命後の軍服を出したりと敢えてやっている分には気にならないが、「歴史」あるいは『三国志』を題材とした創作と銘打ちながら、何らかの考えに裏打ちされず『三国演義』等の後世の創作からも取材した創作物については違和感を抱く。どうも清岡には、制作側発信側が歴史から取材するより一つのまとまった物語である『三国演義』(挿絵も含め)から取材する方が簡単だと捉え、易きに流れているだけに思えてならない。  『三国演義』は版を重ねるごとに数百年間、改良され続けており、制作側発信側にとって確固たるものかもしれないが、それだけを取材することで『三国志』を取材した創作とは言えない。また、監督が『三国演義』の映画化と言っているのに、配給会社の一つが「『三国志』の完全映画化」と喧伝しているケースもあり、注意する必要がある。その上、『三国志』や『三国演義』を題材にした創作物であるのに、そのまま「三国志」と名付ける、いわゆる自称「三国志」・他称「三国志」にも清岡は注意を向けている。すでにその弊害として、『三国志』が物語であると勘違いしている事例が散見されている。  『三国演義』を含め後世の創作を交えず、三国創作を行おうとすれば、『三国志』やその注以外にも『後漢書』や『晋書』などの史書を当たることもあるだろうし、出土史料と経書類、小学類、制度史類を照らし合わせることもあるだろうし、工具書にも頼ることもあるだろうし、論文を読んで新たな観点を得ることもあるだろう。こういったように後世の創作を取り込まずとも『三国志』を含む歴史関連には、まだまだ消費財として開拓されていない箇所がたくさんあり、充分、魅力的なものも種々あるだろう。こういったことを差し置いて他の時代の方がはるかに魅力的だと三国志ファンを扇動することは自らの無知を表明しているように思える。  随分、長々と書いたけど、そういった現状の三国志関連創作物を消費することよりも、史書の記述や既存の歴史研究を消費財に換えることに今、清岡の興味は向いているということを書きたかっただけだったりする。三国志ニュースでは後者より前者に関係する記事が多く、恐らくブログの性質上、前者の方が相性が良いためだろう。後者に関係する記事は最近では「メモ:東漢人多為舉主行喪制服」や「三国創作のための拝メモ」などあることはあるが少数派となる。  これから先、清岡は後者への活動により多くの時間を割いていきたいため、おそらく三国志ニュースでの清岡による更新はペースダウンすることだろうね。

118. メモ:大半の三国創作と二次創作の相似点
※前記事 メモ:歴史漫画における少年漫画と少女漫画との違い  上記記事の続き。  前置きはやはり長くて、主にマンガ/コミックスの国際学術会議について。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/ ・国際学術会議「世界のコミックスとコミックスの世界」| 京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/event/study/isc01.php  前記事のように、2009年12月18日から20日まで京都国際マンガミュージアムにて国際学術会議「世界のコミックスとコミックスの世界」が開催された。  この国際学術会議の主催は「京都国際マンガミュージアム/京都精華大学国際マンガ研究センター」ということなんだけど、共催は「国際交流基金、女性MANGA研究プロジェクト、ドイツ文化センター」ということで、独日の「国際交流」という名目で予算を引っ張ってくる方式は実現の可否はともかく何かと使えそうだ。「三国志」だと中日交流なわけだけど、清岡の狭い見識ではこういう予算の方式はあまり聞いたことがない。「中国文化」全般だと日本の大学にいくつかある孔子学院が真っ先に思い付くのだが。 ・京都国際マンガミュージアムへ。最終日  (※清岡個人の日記) http://cte.main.jp/sunshi/2009/1209.html#20  上記日記にも書いたように、2009年12月20日にはこの国際学術会議以外にも「漢字文献情報処理研究会第十二回大会」という学術催事があって、両者を比較してみると、スタイルの特徴が明確になって興味深いものだった。 ・漢字文献情報処理研究会 ホームページ http://www.jaet.gr.jp/

119. 第2回三国志学会大会懇親会
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート6 http://cte.main.jp/newsch/article.php/690  17時35分、第2回三国志学会大会終了。  その後、清岡はピーターラビットの手提げカバンを貰い、早速、ノートPCを入れてみる。そうするとちょうど(というかギリギリ)入ったのでこれから活用するという予感を持った。  懇親会は18時開始とのことでまだ20分程度余裕があったため、知り合い皆で一階下の書店へ立ち寄る。  その後、懇親会行く組と行かない組に分かれたので、組同士互いに別れの挨拶をし、地下の懇親会会場へと向かう。  知り合いで懇親会に行く組は清岡、KJさん、USHISUKEさん、すでに会場に来ていた、しずかさん。今回は前回の懇親会に比べ知り合いが少ない。 <参照>三国志学会第一回大会懇親会 http://cte.main.jp/newsch/article.php/409  前回、初めのうちは知り合い同士で固まって話をして、場に慣れてきたら、徐々に交流を広げていたが、今回は人数的にそのパターンができそうにないんで、清岡はKJさんの後に着いていく宣言をしていた(笑)  そうすると何故か清岡、KJさん、USHISUKEさんで作戦会議みたいな感じになる(なぜ?・笑)  あと去年の小学生は今年は来てないのかな、なんて話していた(後で聞いた話だと今年も来ていたとの話。その持続力は素晴らしい)  それから三国志学会のサイトで前回の大会の様子が写真で出ていたとか話していた。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※今、見に行ったら、第2回三国志学会大会の写真もアップされている。初めの発表の会場の写真で150名ぎっしり人が詰まっている様子がわかる。  18時になると、石井先生から食事の場所へ入るように呼び掛け。あと乾杯のための飲み物の準備に対しても。  前回の懇親会と同じくバイキング形式+立食パーティー形式。  清岡たちが着いたテーブルには知り合い以外には、中林先生や福原先生がいらっしゃった。 ○懇親会(午後6時~)  そして懇親会は、狩野直禎先生からの乾杯のご挨拶から始まる。  一同「乾杯!」、そして満場拍手。  早速、清岡は料理を取りに向かっていた。  テーブルに戻るとKJさん、福原先生、しずかさん、USHISUKEさんが話していて、それに耳を傾けていた。KJさんからの地理の話から、福原先生が実際に南陽→新野→襄陽をバスに乗っていったとき、ちょうど新野が中間地点にあったとか、実際に言ってみると土地の実感がわくという話になっていた。さらにしずかさんの大河の意味合い的な話、区切るものか人の流れを促すものかとか。それからKJさんからNPO三国志フォーラムの紹介。  福原先生から『西晋の武帝 司馬炎』(中国歴史人物選3、白帝社)の執筆話。冗談っぽく「書かされた」って表現をされたんで思わず「書かされたんですか?」とツッコミを入れてしまった。どうも司馬炎の伝記を頼まれたそうなんだけど、それだけでは一冊は書けないと思われたらしく(関西弁で「書けるんかな、と思って…」)、結局、司馬懿から書いて、「ポスト三国志」の流れになった。それから(今の)中国のお酒の話からUSHISUKEさんが中国に旅行した話。 ※追記 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』  その後はしばし清岡、KJさん、USHISUKEさんでローカルトーク。ウェブと出版とのコラボレーションで成功している事例があるのかな、って話などをしていた。  ここで石井先生からアナウンス。折角、韓国から来て下さったということで李先生からのお話を伺う場となる。  李先生が韓国語がおっしゃって、金先生がそれを日本語に訳すって流れ。  ローカルトークをしていたら、しずかさんがKJさんに客人を連れてくる。どうも「三国検索」を結構、活用している方で、KJさんのことをネットで一方的に知っている方らしい。  その後、中林先生からお酒で倒れた時の武勇伝(?)を伺う。面白すぎ。  『三国志研究入門』を出版している日外アソシエーツ株式会社の小森さんと名刺交換。  その後、会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺う。  USHISUKEさんは昨年と同様、澤先生とマンツーマン状態で話し込んで居るんで、清岡はKJさんとローカルトーク続行。  そうすると、その二人の元へ石井先生が見知らぬ二人を連れて来る。どうやらサイト「徳本商会」の徳本さんとその知り合いの簡俊さんとのこと。しばしサイト管理の話やネット動向の話、ファン層の興味の移り変わりの話で盛り上がる。サイト管理の話ではサイトの寿命の話をしていたっけ。以前の話題を提供した。  その流れでKJさんから清岡の紹介があって、「長沙走馬楼呉簡 丘について」の課題ネタを振られた。いやさすがに初対面の人にこのネタは引かれるだろうと思いつつ言ってみるとやっぱり引かれ気味だった(笑)。  ここで会長の狩野先生がお帰りというアナウンスがあったので拍手。  サイト管理の話を再開する。簡俊さんから最近の三国志ファン層の興味深い話を伺う。やっぱり三国志大戦がメジャーだよな。  とりあえずKJさんが「NPO三国志フォーラム」はまだNPO法人化されていないんで、「NPO法人三国志フォーラム」ではないので間違わないように、と徳本さんに主張していたところにはなんか妙に笑ってしまった。その流れで「三国志連環」の話。やはりデッドリンクが多いと感じられていると徳本さん。そうだよな、あれはなかなか。  話の流れで簡俊さんとUSHISUKEさんを引き合わせる。そうすると、マンツーマン状態でその後も話していた。 ※追記 ノート6:三国志学会 第五回大会  その後、分かれ、再び会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺っていた。清岡とKJさんからはネットの知り合いに会った話をする。  てな感じで時計は20時近く。ここで石井先生のアナウンスがあって、最後は福原啓郎先生から締めの挨拶。  最後は第三回に向けてということで一同乾杯と満場拍手で終える。 ...

120. メモ:「功次による昇進制度の形成」
※前記事 メモ:「漢代明經考」  下記関連記事で触れたように、尹湾漢墓簡牘に記載される長吏からも、察挙による就官の事例より功次による昇進の事例の方が多いと確認されたという。 ※関連記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」  前者の察挙はさらに常科と制科があり、それぞれ孝廉科、賢良・方正科が例として挙げられる。それについては前記事で触れた論文について書かれていた。しかしそれ以外の大半と言われる功次による昇進について私はあまり把握していないので、一度、目を通した論文を再び読んでメモを残す。  論文は一昨年の「2008年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』の中にあった分で、ちょうど下記の関連記事(2番目)で触れた論文の次に来る論文だ。 ※関連記事  「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート  メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」 ※追記 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について  その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 佐藤 達郎「功次による昇進制度の形成」(『東洋史研究』Vol.58 No.4 (200003) pp.673-696 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660407  この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/