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ノート2:三国志学会 第五回大会


  • 2012年7月28日(土) 00:54 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,938
研究 ※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日)

※前記事 ノート1:三国志学会 第五回大会

 11時16分再開。牧角先生から発表者と発表題名のアナウンスが入る。以下、二つ目の研究報告のノート。レジュメはB4用紙4枚、B5で縦書き8ページだ。


○研究報告 11:10~12:00「結びつけられる三国志と太平記―近世初期の学問・思想の一齣として」
 ※頭に「○」を冠する場合はプログラムより。以下同じ。

 藤巻尚子さん(早稲田大学文学学術院助教)は日本文学専攻の立場とのことで、『三国志』や三国時代を直接扱う立場ではないとのことだ。あくまでも日本文学、文化の変遷過程を明らかにすることを主たる研究目的とし、それを見ていくために「三国志」を指標とする。ここの「三国志」は『三国志』ではなく、例えば三国時代の人物やエピソードを取り込んでいるテクスト一般を指す。

※これを書いている時にレジュメを見て気付いたのだが、藤巻先生の旧姓は田中さんで、今さらながら『三国志享受史論考』(汲古書院、2007年)の著者ご本人と気付く。
 ※関連記事 メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ)

※追記 メモ:日中における『三国志』の受容と再創造の概況

●はじめに
 ※頭に「●」を冠する場合はレジュメから。以下同じ。

 江戸の元禄期に『三国演義』の翻訳本である『通俗三国志』が出てから、これが近現代における三国志人気の発端になると考える。それよりかなり早い段階から三国志に関わるテクストが入っており、また日本の様々なテクストの中に三国志に関するエピソードが引用されている。ただ漢楚合戦や玄宗皇帝と楊貴妃の話に比べそこまで頻繁に引用されていない。少ない中でも引用されそれが積み重なって江戸期の人気に辿り着くのは間違いない。やはり長い時間をかけて日本の状況に合わせて三国志というものが受け入れられてきたと思わなければならないと思う。それを図式化したのがレジュメの表。
 初期の段階(※表では7cあたり)では漢詩や故事など、非常に小さいレベルで引用されることが多く、その数も非常に少ない。それが徐々に説話的関心が持たれるようになり、また室町期になると学問が発達する中で、特に儒学的な興味が重なって、三国志に関しても注目が集まるようになる。おそらくこの学問的関心の延長線上に、江戸初期の歴史的なものに対する興味というのがあって、そこでますます三国志に対する興味がわいてくる。最終的に『三国演義』が入ってくることにより、物語自体にも興味があり、それが『通俗三国志』を生みだすといった大まかな流れが見える。
 この表の真ん中あたりに『太平記』という文字が見えると思う。私見では『太平記』があったからこそ、三国志が後々に人気が出てきたといっても過言ではないと思う。日本における三国志享受の軸となる『太平記』がいったいどのような力をもっていたか、その辺りについても整理して触れていく。

●一、『太平記』における三国志享受

 レジュメで『太平記』について纏めている。足利尊氏、楠木正成、後醍醐天皇らを中心に北条一族の滅亡、観応の擾乱など、いわゆる南北朝の内乱期の様相を描いた軍記物語ということになる。軍記物語というと、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『太平記』といったように、軍記の系譜といった主にこの四つのものが軍記研究の中で位置付けられている。『太平記』の中で三国志の故事が十数例と説話が一例が本文の中に例えという形で引用されている。レジュメに一覧表がある。ゴシック体(※巻二十「義貞夢想事付諸葛孔明時」)が説話部分。説話について説明すると、前半に三顧礼、後半に「死せる孔明、生ける仲達を走らかす」という故事があり、故事を軸に非常にコンパクトにまとまっている。特定のテクストを貼り付けているわけではなく、『三国志』を中心にその他諸々のテクストを使いながら、『太平記』に多少寄り添わせる、還元する形で作っている。そういった点では、三国志に関しても調べた上での引用だといえる。
 『太平記』以前の享受について。例えばレジュメの表にある『和漢朗詠集』を見ていくと、曹操が詩を詠む、周瑜の音楽といったような風流といったものに結びつくのが引用されている。合戦といったものは出てこない。その他のテクストで三国志に関する引用を見ても、他の時代の漢故事に比べ三国志のものは非常に少ない。そういう意味で『太平記』の十数例は今までと違う状態ということで確認できる。
 『太平記』巻二十二「義助朝臣病死事付鞆軍事」の一節、新田義貞の弟の脇屋義助が亡くなりそれを周囲の者が嘆くといった時に、例えとして三国のエピソードが引用される。レジュメの傍線のような表現(「孔明籌筆駅ニ死シテ、呉・魏便リヲ得シ事ヲ愁シガ如ク」)で描く。こちら例として岩波旧大系本頭注をひいているが、従来の『太平記』研究では、「孔明は死んだのは五丈原であるのだから、「籌筆駅」とするのは『太平記』が誤っている」というような注釈がされていた。しかし中国側の文献を見ていくと、例えば薛能「籌筆駅」という詩は、孔明の死と籌筆駅とを結びつけたものは中国側にも存在しており、ということは『太平記』は深いところまで三国志を理解して取り上げていたとなる。
 こうみていくと『太平記』がなぜ三国志を意識したのかも見ていかなくてはならない。『保元物語』『平治物語』『平家物語』『太平記』の中で『太平記』は先行する三つとかなり性格が異なるということはすでに軍記研究で言われている。まず大きな所は巻、四十巻の長さ。保元平治は三巻、基本的な形は十二巻、それに対する四十巻は圧倒的に異なる。また先の三作品がいわゆる源平時代というのを中心にしているのに対し、『太平記』は時間が隔たっている。その隔たりで日本の状況も変わってきて、戦闘のありようが実際面で異なってくる。源平の時では1対1で戦えば良かったが、それが『太平記』の時代では集団戦闘の方が良い、策略を練ってそれで勝てば良い、ゲリラ戦法もありなのだ、といった狡い勝ち方も許されてくるので、そういったものを物語に入れてくるので、当然、物語のあり方も変わってくる。もう一つ大きな違いは、漢籍を取り込む量が圧倒的に多い。どういったものを取り込むかと言うと、三皇五帝の時代から『太平記』が取り込めるギリギリ(の新しさ)の宋元の争いまでということになり、様々な故事や説話を自身の作品の例えとして例示として引用する。結果的には、他の物と連続し三国も取り込まれたという見方もできる。ただ、もう少し三国志に対して意味づけをしてもいいのではないかと考える。『平家物語』との違いがわかるのをレジュメに例文として挙げた。

・『太平記』巻二十八「太宰小弐奉聟直冬事」
 傍線:宮方、将軍方、兵衛佐殿方トテ国々三ニ分レシカバ、世中ノ忩劇弥無休時。
 二重傍線:只漢ノ代傾テ後、呉魏蜀ノ三国鼎ノ如クニ峙テ、互ニ二ヲ亡サントセシ戦国ノ始ニ相似タリ。

・『平家物語』巻八「法住寺合戦」
 傍線:平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曽は宮こにはりおこなふ。
 二重傍線:前漢・後漢の間、王莽が世をうちとッて十八年おさめたりしがごとし。

 同じように三勢力が立った記述があるが、『平家物語』は三国ではなく、まったく違った例えを使っている。『平家物語』と同じ状況を例えた『玉葉』では三国志(志が違うが)を引き合いに出している。

・『玉葉』寿永二年八月一二日条
 二重傍線:大略、天下之体、如三国史歟、
 傍線:西平氏、東頼朝、中国已無剣璽、

 『太平記』の方が時代という枠組みの中で三国と近いといった認識をもっていると言える。『太平記』は非常に多くの中国の故事をもってきており、それらの中で故事のパターンを見ていくと、一人の武将に対し中国の武将を使うとか、一つの合戦に対して一つの中国の合戦を例えるといった規模の小さくピンポイントところでの比較、例えが多い。先程のように国全体の大きさとして例えとして出ているのは、三国以外にもう一つ漢楚の時代が一例しかないので、両時代(『太平記』の時代、三国時代)が類似するものだという意識がある。これ以外、見ていっても、『太平記』の先行する時代と異なって、全国規模の乱世となったことや、戦略・知略といったものを重視して戦うようになった、また乱世であるからこそ、『太平記』の名の通り、太平、平和を求める政治をどう行うか、といった論とか、君臣はどうあるべきかといった理想の世の中を作ることが求められるわけで、『太平記』は常にそこのところを模索していく。そういった『太平記』の持っている言調というものと、三国志の中で引っ張ってくるところ、戦いの例え、君臣の関係など、そういったものが一致するものと思われる。平安時代の『和漢朗詠集』では戦ってはいないから、戦う例えが必要なく、そういった段階とは違い、乱世、戦い、だからこそ平和を求める段階になると、だからこそ三国志といったものに注目が及ぶようになったのではないか。
 『太平記』で使った三国志説話が非常にコンパクトで使い勝手がよかったのか、例えば『榻鴫暁筆』『壒嚢鈔』(15世紀)といったテクストは中国側のテクストをそのまま使うのではなく、『太平記』でまとめられた三国志の説話を自身のテクストに援用している。そして違うところは訂正し、自身のテクストにあったように変えていく動きも見えてくる。そういうところをみていくと、『太平記』の浸透の中で、リンクする形で三国志が徐々に浸透していったのが見て取れる。それが最終的に『通俗三国志』が生まれるところに至る。

●二、『太平記』における三国志享受

 『通俗三国志』は『三国演義』の翻訳本。元禄二年(1689年)-五年の間に出版刊行。レジュメでその説明に「本文の訳文は蓬左本の原文に忠実なものだが、よくこなれており、時には原文よりも具象性の濃いものになっている。ただし、各章の区切りは原文のそれと少しく異なることが多い。」とある。蓬左本は李卓吾批評本と同じ。『通俗三国志』は傍線部のように戦いの死体が川を塞いだ表現だがそれにしては綺麗な文学的表現となる。

・『通俗三国志』巻七「曹操興兵伐張繍」
 傍線部:サレバ
 通常部:討レタル屍、路ニ横タワリテ、
 傍線部:軍果テ後モ、淯河ノ流、血ニ成テ、紅楓ノ陰ヲ行水ノ、

これに対し李卓吾批評本はどうなっているかというと、

・『三国演義』李評本第十六回「曹操興兵挙張繍」
 波線部:人馬填満淯河

となり、ダイレクトな描写になる。なぜ『通俗三国志』の文学的表現になったかというと、『太平記』で

・『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」
 傍線部:サレバ軍散ジテ後マデモ木津河ノ流血ニ成テ、紅葉ノ陰ヲ行水ノ

という表現となり、先の『通俗三国志』と近い表現だ。もう一つの事例は次のようになる。

・『三国演義』李評本第四十二回「張翼徳拠水断橋」
 波線部:倒竪虎鬚、円睁円眼。

・『通俗三国志』巻十七「張飛拠水断橋」
 傍線部:頭ノ髪倒ニ上テ獅子ノ怒毛ノ如ク、眼ハ逆ニ裂テ光リ、百錬ノ鏡ニ朱ヲ洒ギ、怒ル鬼鬚左右ニ分テ、悪鬼羅刹モ是ニハ争カ及ベキ

・『太平記』巻二十八「慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事」
 傍線部:頭ノ髪上ニアガリテ冑ノ鉢ヲヽヒ貫キ、獅子ノイカリ毛ノ如ク巻テ百千万ノ星トナル。眦逆ニ裂テ、光百錬ノ鏡ニ血ヲソヽギタルガ如、其長九尺七寸有テ忿レル鬼鬚左右ニ別レタルガ、鎧突シテ立タル体、何ナル悪鬼羅刹モ是ニハ過ジトゾ見エタリケル。

 張飛の描写が『通俗三国志』ではより細かい表現となり、『太平記』にそれに対する(樊噌の)描写がある。
 それに対して次のは世界観まで変えてしまっている描写がある。

・『三国演義』李評本第百十八回「蜀後主輿櫬出降」
 波線部:是日漢亡。

・『通俗三国志』巻四十九「蜀主劉禅輿櫬降魏」
 傍線部:嗚呼コノ日、何ナル日ゾヤ。炎興元年十二月一日ト申ニ、漢朝四百余年ノ天下、タチマチニ滅テ、魏ノ為ニ、併呑セラレタル事コソ浅猱ケレ。

・『太平記』巻十「高時并一門以下於東勝寺自害事」
 傍線部:嗚呼此日何ナル日ゾヤ。元弘三年五月二十二日ト申ニ、平家九代ノ繁昌一時ニ滅亡シテ、

 これは蜀の滅亡となり、『通俗三国志』では評価が付け加わる。これも明らかに『太平記』の描写で、北条一族が亡ぶ描写だ。一つの勢力が終わるときの描写が定型となり、それを利用したのではないか

・『三国演義』李評本第百二十回「王濬計取石頭城」

・『通俗三国志』巻五十「王濬計計取石頭城」
 傍線部:万民無為ノ化ニ服シ、四海初テ太平ヲ、楽コトコソ目出度ケレ。

・『太平記』巻四十「細河右馬頭自西国上洛事」
 傍線部:中夏無為ノ代ニ成テ、目出カリシ事共也。

 これはまさに『通俗三国志』の最後の描写のところ。それ以外にも軍記物語によく使い回されるフレーズを『通俗三国志』は随所に取り入れている。どちらかというと『三国演義』そのままではなく自分たちの身の回りに親しんであった軍記物語の系譜に連なる作品として『通俗三国志』を意識していたのではないかと思われる。また合わせて考えると、『太平記』をある程度、読んでいる者にとってピンと来るところがある。そう考えると、気づきの楽しみ方があったのかもしれない。
 先に挙げた「各章の区切りは原文のそれと少しく異なることが多い」について、『三国演義』では基本「次回乞うご期待」的な、命の危機を言っておきながら、次回に行くと何事もなく進むことが多い、いわゆるクリフハンガー的なものだと思うが、それが『通俗三国志』では一箇所もそういうことがなくなる。基本的にすべて完結を立てる。特に誰かの死をもって語り終えることが多い。そういうことを考えると死者への鎮魂歌的性格の軍記と同じような感覚がそこにあったのではないかと思われる。
 その辺り、結びの言葉を入れたり、もしくは独自の言葉を付けたりする場合がある。『通俗三国志』では適宜、原文にはない見解を付け加えたりする場合がある。

・『三国演義』李評本第三回「董卓議立陳留王」
見何太后、倶各下涙痛哭、失伝国璽

・『通俗三国志』巻一「董卓起兵入洛陽」
 傍線部(追加部分):コノ玉璽ハ、秦ノ始皇ヨリ以来相伝リテ、代々ノ帝、国ヲ保玉ヘル印ナルニ、此時ニ失タルハ、漢ノ世ノ衰タルユヘニヤトテ、聞入眉ヲゾ顰ケル。

 『通俗三国志』での追加部分でまず伝国璽の説明が入る。おそらく日本の中では伝国璽を知らない人が居るだろうから分かりやすさから入る。その次にプラスアルファの情報が加わる。他の事例でも、危惧する、起きた状況について哀しむといった文言が随所に付け加えられているように思える。こういったものは『太平記』を始めとする軍記物語の世界観だ。やはり慣れ親しんだ軍記物語を当てはめることにより、異国のまったく関係のない説話・物語でなく、身近なお話として受け止められるようになったかと。これがこの時期に、特に『通俗三国志』が出た時期に、一気に人気を持たれたのに繋がったように思える。元々ある武将たちの活躍を捨て去ったわけではなく、それと同じくらいに死者敗者側の意識を付け加えていくバランスをとったように思える。『太平記』が先行する作品とは違ったオリジナリティを出そうとし、三国志を取り込むという選択をし、自身の世界観を分かりやすくし、それが受け入れられた流れがあった。時が経ち、逆に三国志(『通俗三国志』)が自身の世界観を表現しようとしたとき、『太平記』を利用していったという、長期的な相互関係を指摘できる。なぜ『太平記』かというと、両者が似てるということで、なぜ似ていることに気付いたのかも考える必要がある。

●三、近世初~中期における三国志と『太平記』

 (※レジュメに「三国志・太平記関連テクスト一覧」と題して三国志関連と太平記関連が列挙された江戸期対象の年表がある)
 『通俗三国志』(元禄二年(1689年)-五年)は人気があったが、実は成立事情があまり解っていない。訳者が湖南文山となるがそれが誰だか判っていない。成立した前後がどういった状況でどのように受け入れられたか見えてこない。辛うじて判るのが、レジュメの表に慶長九年(1604)に「林羅山既読書目録」とあるが、林羅山が『三国演義』を読んだことが目録から確認できる。その時代あたりから、いくつか『三国演義』の原書が記録に残ってくる。おそらくこの辺りに日本へ『三国演義』が入ってきたのであろう。ただ江戸より前に行くことは今のところ考えられない。表の享保十年(1725年)「四番船大意書草稿」と享保十二年「商船載来書目」は中国からの輸入書を記録したもの。その中に『三国演義』が取引されていると書かれている。『通俗三国志』が流行って『三国演義』自体への関心が高まったと考えた方が良い気がする。『通俗三国志』より後は徐々に様々なテクストが出てくるのが確認できるが、その前がよく判らない。そこを埋めていく作業になるが、そうなると何か背景がないか、となるが、一つ『太平記』の流布状況を見ていくことになる。
 『太平記』は本文自体、江戸初期から刊行がくり返されている。一年に一回ぐらいのペースの時もある。江戸の出版の増加にともない『太平記』も増刷に継ぐ増刷というのが行われた。それに合わせて本文に対する注釈もあるということで、数々の注釈書も刊行された。前の時代以上に、『太平記』が知られるようになった。その流布状況、出版状況、人気状況に便乗し、あるいはあやかるといった商業的な部分が(『通俗三国志』に)あったのかもしれない。『太平記』の人気状況にここまで注釈ができているといったことを考えると、学問的なレベルでの何らかの関わり合いがあったのではないかと考えられる。室町期あたりから学者がかなり三国志享受に影響を与えているので、そういったことが近世の学者にも受け継がれていると思われる。

●四、近世学者達の学問事情

 林鵞山は林羅山の息子。『本朝通鑑』の主要メンバー。林鵞山はその編纂過程を『国史館目録』という日記の中に書き留めていた。編纂にどれだけ苦労したかということと、史料を集めるだけ集めたという過程も出てくる。史書以外も和歌等の物語も集めている。なぜそういうことをしたのかというと、『国史館目録』で何度もくり返されるが「延喜以降、正史なし」という表現が多々見られる。正史から今ないから自分たちで作るのだといった強い自負で歴史書編纂に臨んでいたことがわかる。資料類の中で、『三国志』に関して読み込みそれに対する見解を日記の中に残した。
 『国史館目録』寛文四年十一月二十八日条では南北朝の正統論が書かれており、『資治通鑑』にならおうということで、寛文五年三月五日条では両者を分けるスタンスをとる。この時代、南朝正統論者が多い中、そうせずに二つ挙げ、歴史的事実を挙げることに辿り着く。そういった流れで、疑問点を挙げているところで、

・『国史館目録』寛文九年五月十六日条
 傍線部:談本朝通鑑之事、疑問数条、聊弁解之、相公快然、其余或及漢朝歴代事、論高祖光武優劣、或弁曹操・劉備正偽、

とあり、やはり正統という問題から王朝をどう扱うのか、それに続く時代をどう捉えるのかといったところから、『三国志』、『太平記』というより南北朝との発想の繋がりが強くなっていったのではないか。そういった歴史書の編纂の事情がある一方、『太平記』が出版され、そこにあわせ三国志がクローズアップされ取り上げられていたのではないか。こうした江戸初期の学者たちの言説を追い掛けることにより、何か『通俗三国志』を生みだすに至った要因を見るのではないかと思う。

(※レジュメに「主な先行研究」として次のように記される)
・長尾直茂氏「江戸時代の絵画における関羽像の確立」(漢文学解釈与研究2 一九九九・一一)
      「伊藤仁斎、東涯父子の諸葛孔明観」(漢文学解釈与研究3 二〇〇〇・一二)
      「江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像─『三国志演義』との関連において」(漢文学解釈与研究7 二〇〇四・一二)
・中林史朗氏「日本人に於ける三国志とは―見るのか、讀むのか、江戸から現代まで―」(大東文化大学漢學會誌48 二〇〇九・一二)

※関連記事 リンク:「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」

※清岡注、上田 望「日本における『三国演義』の受容(前篇) : 翻訳と挿図を中心に」(『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』Vol.9(20060331)pp. 1-43, ISSN:13423975)が挙げられていない。

※関連記事 メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ)

 例えば早い段階で『三国演義』を読んだとされる林羅山だが、

・林羅山「源将軍尊氏」
 傍線部:我朝禅継有三神器相授受久矣、夏鼎秦璽漢剣不足比並南帝伝三器、有真矣尊氏犯闕則為賊、有罪、故懼而執他主、以為帝、嫌於二帝相争、而己免賊名、
 普通部:是其宿姦歟、其聖人作春秋、齊豹陽貨之類皆書盗、是誅心之法聖筆厳矣哉、知此義者、
 傍線部:諸葛武侯斥曹氏、以為賊、夫惟名分之不紊如是而已、

という文を残し、三国志と『太平記』が近い、もしくは学問的に研究する上で合わせて検討するものとして意識されていたと伺わせる。熊沢蕃山(1619-1691)「集議外書」巻九 脱論六を見ると、学問の一つとして兵法でも「唐の諸葛孔明流、源義経・楠正成流など」と合わせて持ち出してくる。また、

・貝原益軒(1630-1714)『武訓』
 傍線部:もろこしにては魏の曹操のごとく、日本にては足利尊氏のごとき人は、仁義をそむきて人の国をうばひたれども、武将の本意なり。もろこしの諸葛孔明のごとく、日本の楠正成のごときは、忠義あれども攻を立る事ならず。

といったように、三国の時代だけでなく人物の類似性、検討がなされている。おそらくこれが『通俗三国志』近辺の段階での出来事だろう。

・頼山陽(1780-1832)『頼山陽文集』「楠公弁」
 傍線部:俗人以比武侯非也。武侯懐抱道徳、三顧而起。正成則応召即出。武侯用三代節制之師。正成則権謀奇譎、行危求成。正成不免為功名之徒。安得比武侯
 傍線部:我嘗論公之忠、与亮不相下。而其才不可同日論也。

 このように楠正成と諸葛亮(武侯)を比べる議論が出てくる。そういった中で、頼山陽は楠正成の忠を論じ諸葛亮と並び立つ者として意識をしている。『通俗三国志』以降、かなり時間が経つと、いろいろな人物たちにより議論がなされいろいろ残されてくることになる。

・頼山陽『頼山陽文集』「三国志演義序」
 傍線部:仮使此間太平記書南朝事、亦有若説、則吾知其更快人心也。是小説之有益世道者。
 傍線部:坊間有訳焉加繍像、以便童蒙者、而闕其後半。孔明事迹不備、猶太平記而不尽載楠公事、豈非大缼陥。

 歴史と物語の違いが書かれており、小説の益と不備が書かれている。
 学者たちの説を一つ一つ追い掛けることにより、もう少し『通俗三国志』近辺を追い掛けることができるのではないか。当時の日本の状況も追い掛けられるのではないか。おそらくその後の近現代につながっていくと思う。

●おわりに──今後の課題と展望

 三国志と『太平記』のつながりというのは、長期的なところで非常に深く繋がっており、一過性のものではない。それは日本のその時その時の状況を踏まえたもの、反映したものである。中でも日本の状況を引っ張っていく学者たちは『太平記』と三国志とが関わっていく中で大きな存在となっていった。ここと今へとどう繋がっていくのかを整理するのを、今後の課題とする。

 報告終了。拍手。


 12:04、司会の東京女子大学の先生から質疑が求められる。

Q. (BABIさんから)『太平記』巻二十八「太宰小弐奉聟直冬事」の「宮方、将軍方、兵衛佐殿方トテ国々三ニ分レシカバ」の「宮方」とは何か。「将軍方」は何か。「殿方」は何か。

A. この段階では南朝方、足利方。「殿方」は足利氏が分裂していき、その息子が立つということになり弟方、足利直義に養子になった人物が居て、その人物が立つということになる。

Q. (続けて)それは南朝方とはどういう関係か?

A. この段階では三勢力が立つ状況になる。

Q. (続けて)その箇所に続いて「呉魏蜀ノ三国鼎ノ如クニ峙テ」とある。普通、「魏蜀呉」や「魏呉蜀」だと思うが、これは『太平記』は呉が主人公ということか。

A. 全然そういうことはないと思う。そこにはどこまで意識してたかという問題と、諸本によって違う書き方をしている可能性がある。

Q. (続けて)元々、日本で呉が主人公と認識されていたが、『通俗三国志』として『三国演義』が翻訳された時点で、蜀が日本では主人公として認識された可能性はあるか。

A. 呉については別の浸透系の問題で考えていかないといけないが、ひとまず『太平記』に関してはどこが主役とは考えていないと思う。引用的に孔明、仲達という順になっており、そう考えるとこの並び、魏呉蜀が今の我々は普通だと考えるが、あんまりそこまで意識されてない可能性もあり、呉が主役というより呉はあくまでもおまけでしかないような説話、ほとんど呉が関わってないと『太平記』では位置付けられていくので、そういう意味では三国という部分を説明するためで、敢えて出てきたという部分であり、それ以降を考えても、江戸までで呉が主役かというと別にそういう訳ではなかった。ただ室町期の学問では赤壁に関する記述が非常に多くなってきた。そのあたりで呉に関する見解がきちんと出てくる。

Q. (司会から振られて上智大学の長尾直茂先生より)『太平記』と『通俗三国志』との関係を(長尾先生が)調べてきたが、先程の発表で『太平記』の存在がやはり『通俗三国志』の(成立で重要だという考え※よく聞き取れず)に賛成で、例えば、江戸の頃、軍書要覧がでていて、よく引かれるものに『和漢軍書要覧』がある。『和漢軍書要覧』では、和書、『太平記』『平家物語』などを前半に出し、中国のものは後半に出すという形で、明らかに印刷の本の中に一緒に入れており、軍書というものとしてまとめて読んでよろしいという見解があった。それは(江戸?)末にできたもので、そういう意識がその時代にあったのだろう。『通俗三国志』がでるぐらいまでに、大体、日本の軍書の主だったものが大体、刊行され尽くしている。それでもうネタを中国にもとめようという本屋さんの思惑があったのではないかと考えている。発表で『太平記』の類似する時代性とおっしゃっていたが、ここに正統論等を含めた類似性でよろしいのか。

A. 正統に関しては『太平記』自身が引く場合はおそらく意識していない。本文を読んでもどちらが正統とは言ってない。『太平記』は自身の時代がそこに延長しているので、どちらが正しいと言えない保留の段階だ。江戸になって足利の体制が終わった後だからこそ、南朝北朝がとりあげられ、そこで改めて第三者の目から見て改めて、中国のこの時代(三国時代)と日本のこの時代(南北朝)が正統という問題でが繋がっていく、ということなので、『太平記』の中で正統問題があったから引いたとは言えないと思う。

Q. (続けて)「通俗」には二つの意味があって、一つは翻訳、外国文学の翻訳作品という意味での「通俗」、もう一つは文字通り、子供にもそういう人たちにも分かりやすいという意味での「通俗」であろうと考えている。その意味でいうと子供たちが当時、読み始めた軍記もの言葉は、当然、分かりやすいものであろう、その意味における「通俗」というところで『太平記』が選ばれるといであろうということも納得できる意見だった。レジュメ5ページ、6ページあたりは、いろいろ定義をしていかないといけないだろうが、『三国演義』の輸入に関して痕跡がほとんど見られない。ただ最近、金文京先生の『三国志演義の世界 増訂版』の(足された)「東アジアの三国志」に朝鮮版の『三国演義』の存在に触れていて、その経路での『三国演義』の(日本への)流入はどう考えるか。

A. (※一部)対馬に五山の僧が行っており、朝鮮からの経由は無視できない。流入したとなるとハングルのものがどういった人に受け入れられたかも整理しないといけない。そこにも学者が関わってくると思う。五山から追い掛けていきたいと思う。

Q. (続けて)『漢書』のことをお調べになっていると思うが、『史記』と『後漢書』は師教、つまり綿々と師匠から伝授されたものがあるとされ、但し『漢書』はないと書かれ方をする。『後漢書』は伝授されたとする言説があって(長尾先生はそのテクストは見付けていないとのこと)、当然、『三国志』と重なる部分があって、そういう部分に実は『三国演義』の痕跡はないのか、調べたいと思っている。そういうことはあるか。

A. これから追い掛けていこうと思う。

Q. (司会から)レジュメ2ページに「孔明籌筆駅ニ死シテ、呉・魏便リヲ得シ事ヲ愁シガ如ク」という引用があり、今までの研究では単なる誤りとしていたが、実は中国側の文献に薛能「籌筆駅」という詩があるという話だったが、この薛能の詩を『太平記』の作者は読んでいるのか? この詩はいわば諸葛亮を批判した詩だが、そういうのはちゃんと読んでいるのか。

A. この薛能の詩に行き着いたのは、五山の研究をしているときで、敢えて例えとして薛能を出した。『太平記』ももちろんすべて合って『三国志』を引っ張っているわけではないので、どこまで読んでいたかのは少し引用になる。ただ薛能でなくても「籌筆駅」というものと絡めたところで孔明が論じられる説が、特定できないが何かがあってそういうものを引っ張ってきている可能性があるかと。もう一つ、『太平記』の中で「王佐の才」という問題がとりあげられている。『太平記』に関しては、もしかして間違っている所があるかもしれないがある程度、取り込もうとした努力がある、とひとまず留めておきたい。

 12:22、司会により終了が告げられ場内拍手。
※清岡注。ありがちな質問として中国四大奇書ないし中国四大名著の中で、なぜ日本では『三国演義』の人気が高いのか、というのがあるが、この研究報告をきくと、「『三国演義』は日本の軍記物語や江戸時代の軍書の流れにうまくマッチしたからだろう」と答えると良いんだろうかね。

※追記 三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)

 

※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日)

○昼休み (12:00~13:00)

 牧角先生から事務連絡があり、その会場では40分からドラマ『三国志 Three Kingdoms』のプロモーション映像(原題『三国』、当時はドラマ『三国志』と呼ばれていて、しかも先生からはタイトルに言及されず「映画の試写会」と紹介されていた)が上映されるとのこと。その他、食堂が使えない旨がアナウンスされた。あと、1号館は入試で入れないとのこと。

※関連記事 「三国志」前篇 DVD-BOX(2010年12月10日)

 そしてこの時、USHISUKEさんらはお手伝い(「三国志フェス2010」とのギブ&テイクだね)で机の上に「三国志感謝祭」の小さいチラシを配っていて、そして前売券の話をしていた。

※関連記事 三国志感謝祭(2010年10月30日)

 清岡からはイベント「三国志の宴3」は二日で売り切れたが、さすがに初めてのイベントなのでそこまでは売れてなさそうだ。

※関連記事 2008年5月31日 赤兎馬Presents「三国志の宴3」開催

 三口宗さんとの話題は『三國志研究』第5号で、清岡から村田先生の論文が載っていないことが残念だ、って話から、左将軍の話になっていた。

※関連記事 三国志学会 第四回大会ノート3

 そしてUSHISUKEさんに近付くと、午前中の発表の話をしていて「でも呉はおまけ、って言ってましたよ」という声が聞こえた。確かに(『太平記』の立場として)言っていたね。
 私は、いつも一日二食で朝、スタバで食べたので、昼食を取らなくても良いなと思い、席で待機していた。

 しばらくすると前の左の出入口から、かたせんさんがやってきていて、前述した1列目の徳本さんらの集団にまず挨拶していた。その後、かたせんさんがそこから見て奥に座る清岡に気付いた様子だったので「お久しぶりです」と挨拶すると「すいません、ご無沙汰しております!」と返ってくる。さらに1列目から「清岡さん?!」って声が複数、飛んでくる。なので1列目の集団に向かって、

清岡「いや、さっきから面白い話しているなって思って…」

と切り出し、朝に横断歩道で徳本さんと擦れ違った件を口にし、さらに会場でなかなか清岡が気付かれない点を言った上で、

清岡「…もうちょっと泳がせた方が面白かったかなぁ、と思ったんですが、残念ながら…」

と、のたまっていた。
 気付けば前のスクリーンでドラマ『三国志 Three Kingdoms』のプロモーション映像が流れていた。それを見ながら、おさっちさんと「三国志フェス2010」についてや目の前のドラマ(ツッコミを入れつつ)について話していた。

※関連記事 三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日)

 その後、時間を持て余せ気味に会場内を徘徊し、USHISUKEさんに会って話していたら、BABIさんが来られたので、初対面だったのでご挨拶。
 まだ清岡はうろちょろしていて、かたせんさんと会って、昨年の懇親会の件もあるんで福原先生に挨拶したら、と焚き付けた。それなのに結局、私は挨拶に上がらなかったが(汗)。まぁ、三国志学会第2回大会懇親会と第4回大会懇親会との経験上、(当然だろうが)顔を覚えられていないだろうと判断したんで。

※関連記事 三国志学会 第四回大会懇親会

 その後、会場の外でKJさんとばったり会ったので、三国と関係ない話を立ち話。
 気付けば昼休みが終わりそうだったので、会場に戻る。そうすると、かたせんさんが福原先生と話している光景が目に入り、その後、かたせんさんが一人の時に、近付き、

清岡「ホントに(福原先生に)声掛けるとは思わなかったので、面白かったですよ」

と鬼発言をしていた。オチとしては後日、気付いたが、この件をネット上のかたせんさんの日記でバッチリ書かれていたことだろう(笑)。


※次記事 ノート3:三国志学会 第五回大会

※追記 メモ;三国志TERAKOYA4が始まるまで(2013年12月13日)

※追記 メモ:2015年、2つの研究テーマ

※新規関連記事 リンク:『太平記』・『三国志演義』・"Le Morte d'Arthur"における語り手のスタンス(2015年9月)

※新規関連記事 雑文 三国志 in 太平記(チャムチャマガヤ2018年11月25日)

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