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三国志学会 第四回大会ノート2


  • 2009年9月18日(金) 12:46 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,073
研究 ※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)
※前記事 三国志学会 第四回大会ノート1

 10:59。総合司会の石井先生から次の司会の金沢大学の上田望先生への紹介がある。配付資料(レジュメ)はA4の3枚の両面印刷5ページ。

※参照リンク メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ)


○「謀る孔明、女装する仲達――川劇「上方谷」をめぐって」

 向かって左に立つ上田先生から田村さんと報告の紹介の後、「川劇」の解説がある。中国には京劇を初めたくさんの地方劇があって、特に四川地方に伝わっている川劇についてどのような三国の物語が伝わっているか、それらについて報告があるか期待しているという。日本では川劇の三国物語はおろか、川劇自体が上演されないので、その辺の話の報告については楽しみにしているという。

 それで中央に登壇される田村さんからの報告が始まる。
 まず四川省の成都と三国志との関係についての概要が話される。また、雑劇や講談で「三国志」が古くから親しまれていたという。
 「三国志」の物語で最も影響を持つ『三国演義』だが、それや『三国志』を読まずとも、劉備や諸葛亮を知っている。これは「三国志」の物語を伝える手段が文字だけでないことを示している。むしろ識字率が今ほど高くなかった時代では一般庶民にとっては文字以外の媒体が三国志の物語を受容する手段だったと考えられる。また、現代でも三国志の物語はテレビや映画など文字以外の媒体で受容され続けているため、文字以外の媒体を研究することも重要と考えられる。
 今回は四川の人々に親しまれてきた伝統的な芸能から川劇を題材として取り上げる。川劇と『三国演義』を比較し、如何に四川の人に三国志の物語が受容されていったか検討する。

●1. 川劇の中の三国戯
※以下、冒頭に「●」とある場合はレジュメからの引用。

 まず川劇と京劇の違いを簡単に説明。京劇は北京で発展、川劇は四川で発展した伝統劇。
(※清岡注。この記事を書いている今さら気付いたんだけど、京劇って「北京の劇」って意味だったんだね。地名の一部+劇って呼び名か)
 川劇のセリフ、歌、メロディーは地方色に富んでいる。川劇の技の一つである変面は非常に有名だが、以前は軽々しく演じることが禁じられた秘技。昆腔、高腔、胡琴、弾戯、灯調の五つの声腔(音楽の種類)がある。それぞれは成立や過程は違うが互いに影響しあい現代のものとなっている。今回の「上方谷」は胡琴声腔の川劇。
 明代の陳鐸の散曲に「(川劇を)インテリはばかにして、教養のない者がよろこぶ」とある。つまり当時の川劇が庶民の娯楽であることを示している。
 川劇が現在の形になったのが、およそ清代中葉ごろ。各声腔が四川に流入し古くからある民間オリジナルと結合しながら四川化し発展していった。清代中葉から二十世紀前半まで川劇は広く人々の生活の中に浸透し、祭日、教会等のイベント、冠婚葬祭等に決まった劇が上演され、演目の選択や演出方法にも決まりがあったようだ。現在では娯楽が映画やテレビなどに取って代わられ以前ほどの人気はなくなったが、未だに上演されている。成都には毎日午後二時から上演されお茶を飲みながら見られる劇場が現代でもある。
 川劇界には「唐三千、宋八百、演じきれない三・列国」(演じきれないほど多い、三国・春秋戦国)という言葉がある。三国ものの劇、つまり三国戯の演目の多さを表す。川劇は一つがどこで切れているか曖昧だったり、同じ劇の流れが違ったりするので正確な統計を出しにくく、『川劇三国戯匯編』によると142の三国戯があるとのこと。『川劇三国戯三題』によるとまた川劇の10%を占めるという調査結果もある。三国戯を得意とする劇団の内で最も有名なのは太洪班で、清朝末期に活躍。現存する胡琴声腔の三国戯の風格は概ね太洪班によって伝えられた。
 1954年に、重慶市実験川劇院において三国戯と列国戯を特別に整理・上演する活動が行われ、そのことからも三国戯が重視されていることがわかる。さらに川劇の俳優の中には「生き孔明」「生き張飛」「生き曹操」と呼ばれる人が居て、観客に三国戯の登場人物を身近に感じさせる働きがあったと考えられる。
 演劇を研究対象にする場合、資料不足という問題が出てくるが、敢えて失敗を怖れずできる限りの考察を行う。

●2. 小説『三国志演義』と川劇「上方谷」

 かつて川劇の芸人は『三国演義』をしほん(紙本?)として尊重し、「食うに困ってもしほんは残せ」と言われ、『三国演義』のテキストが尊重された。『三国演義』は多くの版本があり、現代普及しているのは清代初期の毛宗崗本。
 川劇「上方谷」は『三国演義』第百三回「上方谷司馬受困、五丈原諸葛禳星」に相当する。(ここでレジュメに書かれているあらすじを読み上げ解説される)川劇「上方谷」の成立状況がはっきりしない。性質上、演出は常に変化し、内容は流動的だった可能性がある。今回は『川劇三国戯匯編』所収のテキストを使う。但しこのテキストの成立年の記載はない。記録資料では1951年から1964年までで胡度が劇本と上演を見ることができた劇として「上方谷」がある。また『川劇通史』では、呉暁雷(1894-1960)、李泉涌(1896-1966)、金震雷(1914-1986)等の俳優がこの演目を得意とした、という記載がある。
 小説『三国志演義』と川劇「上方谷」を比較すると二つの大きな違いがある。一つは諸葛亮が魏延を焼き殺そうとする話。川劇「上方谷」では、上方谷で司馬懿親子を焼き殺す計略の時、それに乗じ魏延を謀殺しようとするが、失敗するとそれを馬岱になすりつける。『三国志演義』(毛宗崗本)にはその話がない。もう一つは司馬懿が女装する話。川劇「上方谷」では、五丈原で髪飾りと女の服が贈られた司馬懿はそれを着て諸葛亮に会う。やはりこの話も『三国志演義』にない。これらを仮にそれぞれ「魏延謀殺故事」「司馬懿女装故事」と呼ぶ。以降、この二つについてそれぞれ考察する。

●3. 魏延謀殺故事について

 川劇「上方谷」でのこの場面は、四川らしい方言で話したり変面や火を取り入れた演出があり娯楽に富んで親しみやすくなっている。結論から言うと「魏延謀殺故事」は嘉靖本、葉蓬春本、李卓吾本など毛宗崗本以外の版本に存在する。ここで版本についての解説に移り、嘉靖本は現存する『三国演義』で最古のもので明代の版本であり、、葉蓬春本は嘉靖本より少し後に出版されたと言われるが、それより古い内容を残していると言われており、上半分に挿絵、下半分に本文という形式であり、李卓吾本は明代の哲学者、李卓吾の名を騙った別人が批評を付けた版本で、当時、影響力が大きかった思われ、毛宗崗本は李卓吾本を手本にしていると言われている。批評とは批評者の感想やコメントを本文の行間や上の空白、各回の前後に書き込んだもの。
 李卓吾本の第103回の総評には

孔明定非王道中人、勿論其他、即謀害魏延一事、豈正人所為。如魏延有罪、不妨明正罪、何與司馬父子一等視之也。此時驟雨大注、不惟救司馬父子、實救魏延也。…

とあり、諸葛亮を非難している。しかし周知の諸葛亮はこのような悪人ではない。ではなぜこのようになったのか。それは毛宗崗本で改定されているため。『三国演義』毛宗崗本の冒頭には凡例がついている。この凡例とは毛宗崗本がどのような視点で批評校正を行ったかが書かれている大変重要なものだ。それは次のようなことが書かれている。

一、俗本謬托李卓吾先生批閲、而究竟不知出自何人之手。其評中多有唐突昭烈、謾罵武侯之語、今倶削去、而以新評校正之。
一、後人捏造之事、有俗本演義所無、而今日傳奇所有者、如關公斬貂蝉、張飛捉周瑜之類、此其誣也。則今人之所知也。有古本『三國志』所無、而俗本演義所有者、如諸葛亮欲焼魏延于上方谷、諸葛瞻得鄧艾書而猶豫未決之類、此其誣也、則非今人之所知也。不知其誣、毋乃冤古人太甚。今皆削去、使讀者不為齊東所誤。
(※「俗本演義」は李卓吾本を指すと思われるという。「傳奇」=お芝居。『三國志』はおそらく毛宗崗本を指すという)

 このような「魏延謀殺故事」は毛宗崗本で削られ、毛宗崗本が流布したことで我々に馴染みが薄くなったが、川劇「上方谷」には残っていた、ということになる。
 「魏延謀殺故事」がどこから来たかは二つの可能性がある。一つは毛宗崗本以外の版本でこの故事が載っている小説を元に作られた場合、もう一つは元々小説とは関係なく演劇またはその他の芸能等で独自に物語が継承された場合。前者の場合では元々あった物語を一方では文字化小説化し、一方では演劇化、上演していたということになる。後者の場合は後に触れていく。

●4. 司馬懿女装故事について

 諸葛亮が司馬懿に髪飾りと女の服を贈った逸話は史書を初め見られた。対して司馬懿が女装する話は史書に見られないが民間伝承や演劇として広く伝わっており、それらの中で、最も有名なのは京劇「胭粉計」がある。

※参照リンク
・青木朋HP++青青
http://aoki.moo.jp/
・京劇「臙粉計」
http://blog.aoki.moo.jp/?eid=1371213

※参照リンク 第8回三顧会午後2

 曽白融/主編『京劇劇目辞典』の胭粉計の項目には「京劇「胭粉計」ほか、漢劇、秦腔、豫劇、河北梆子にも同様の演目あり」とあり、人気がある。実際に、私が観劇した際、女装した司馬懿が諸葛亮にちょっかいをかけ滑稽な言動をするたびに笑いと拍手が起こっていた。司馬懿の役どころは淨で性格が激しい人物の役で顔には隈取りで力強い声で歌い、そのような淨が女性の仕草や歌い踊るという演劇ならではの面白さがあり、役者の見せ所でもあると言える。また司馬懿の狡猾さを描きながらどことなくユーモラスで娯楽性が高い。
 川劇の三国戯には二通りの性格のものがあると言われる。一つは小説『三国演義』に由来するもの、一つは言葉に到るまで小説『三国演義』に準拠したもの。「司馬懿女装故事」に関しては、同じ五丈原の場面を扱いながらも、より『三国演義』に近い内容になっている「五丈原」という別の川劇がある。川劇「五丈原」では物語の展開が『三国演義』とほぼ同じで、司馬懿が女装せず登場人物がまるまる一致する部分がある。(※レジュメには諸葛亮に忠告する場面を例に取り、川劇「五丈原」、『三国演義』毛宗崗本、『三国演義』嘉靖本の比較が行われている)。結果、川劇「五丈原」は『三国演義』毛宗崗本とよく一致する。
 上田望「毛綸,毛宗崗批評『四大奇書三國志演義』と清代の出版文化」(『東方學』第101輯, 119-131,2001年1月)によると、毛宗崗本が中国全土で普及するようになったのは、道光・咸豊以降で、清代中期から始まった人口の増大・移動と関係があったようだ。

※参照リンク
・CiNii - 毛綸,毛宗崗批評『四大奇書三國志演義』と清代の出版文化
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000281772

 清代中期では毛宗崗本が四川でも盛んに出版されるようになった。清代末期では石印・銅印などの近代出版技術の導入により、さらに安価で大量の本を出版することが可能となった。石印本の値段の参考例として、『成都通覧』(1909年)に「列国志」が「鉛印五角」「石印三角二」とある。ちなみに『三国演義』は挿絵入りのおそらく木版本は「一元五角」と書かれている。炸醬麵(ジャージャー麺)の値段から算出し「三角二」は今の70元ぐらい。
 前述の論文では、各地で学校が作られ、識字率が上昇したこと、本を販売するネットワークが形成され、広い地域で販売されたことが、『三国演義』毛宗崗本の普及に関係しているとされている。川劇「五丈原」はこのように『三国演義』毛宗崗本が流布していく流れの中にある作品ではないだろうか。
 しかし、その一方で小説『三国演義』にない物語が演劇やその他の芸能で脈々と継承される例がある。例えば、現在でも上演される京劇の演目に「黄鶴楼」というのがある。呉の周瑜が劉備を黄鶴楼に呼び出し兵を伏せ荊州返還を迫るが、諸葛亮の計略や趙雲の助けにより劉備は無事脱出するという内容。これは『三国演義』には見られないが『三国志平話』や元雑劇に見られ、古くから人々に親しまれていたようだ。
 「司馬懿女装故事」は今回調査した限りでは元雑劇や『三国志平話』を初めとした古い演劇や芸能の中には見られなかったので、「黄鶴楼」のように古い起源を持つものではないのかもしれないが、記録が見つからなかっただけかもしれないので、はっきりしたことはわからない。但し、それなりに広い範囲で多少異なった形で、この物語が広がっていることは確かだ。「司馬懿女装故事」はその由来が古いものか後に作られたものかわからないが、庶民に受容され続け現在に至っている。

●5. まとめ

 「魏延謀殺故事」は、『三国演義』毛宗崗本で改訂された古い内容が川劇「上方谷」で起こったもの。それには由来に二つの可能性がある。「司馬懿女装故事」は成立不明だが、『三国演義』毛宗崗本の流布とそれに忠実に内容にしようとする動きの影響を受けていない。あるいは「黄鶴楼」のように演劇や芸能の中で継承されていった故事なのかもしれない。『三国演義』毛宗崗本の普及の後、それとは異なる物語が川劇という形で人々に受容されていた。三国志の物語が長く人々に愛され続けていた理由として、川劇などの娯楽性の高い存在を無視することはできないのではないか。

(※時間があるということで、川劇「司馬懿打粉」の写真がプロジェクターに映し出される。清岡のような素人目に見て、あまり京劇との区別がつかない。皺皺の顔の司馬懿やら女装した司馬懿の画像等)

 11:31。報告が終わり上田先生の司会が入る。川劇「上方谷」は古い内容を留めており、川劇の中で清代または明代以降、三国志の物語が独自の発展を遂げていった。先ほどの清岡さんの報告での「データベース消費」みたいな形がこの時代の中国でも行われていったということで、昔から三国志ファンというのはすごいんだな、ということがよく判る。

(※再びプロジェクターにより、川劇の動画が上映される。田村さんによる解説が入る。安い入場料とおひねりで運営しているので、衣装などもあまりよくないとのこと)

(※その動画で音が出ないものだから、田村さんが日本語でセリフを解説に織り込む)
(司馬懿が諸葛亮に向かって)「結納の品、ありがとう。君と私は呂布と貂蝉のようなベストカップルだね」
(場内笑)

 上田先生が観衆が「三国志」と違うと疑問を持つかどうかという質問に対し、田村さん答えて曰く、特にそういうことはなく、印象的だったことは隣に座っていた男性老人が「諸葛亮死後に司馬懿が諸葛亮の兵書を一枚一枚嘗めながらめくっていたら、そこに毒が塗られており死んだんだ」と言っていたことだ。場内の笑いを誘っていた。

 (解説で)このお芝居は、最後に、司馬懿があまりにも早口なので、諸葛亮が怒ってくるくるして血を吐いて退場した(場内笑)。
 質疑に移る。

Q1 雑号将軍さんより。「魏延謀殺故事」にはどういう経緯があるのか。魏延が嫌われていたのは判るが、それだと諸葛亮が悪役めいてしまって、何ともどっちつかずの印象がある。
A1 そのへんはよく判らないが、自分の勝手な想像を言うと、まず諸葛亮が聖人君主のイメージは恐らく『三国演義』毛宗崗本ぐらいで段々と形成されたもので、それより以前の話であると、諸葛亮は「頭が優れることをいいことにそれを鼻に掛けるちょっとイヤなヤツ」という面がある。それを考えると、キャラクターに合ってないこともない。あと「魏延謀殺故事」は最後、馬岱の責任になるが、馬岱は「実は自分ではなく楊儀が言ったんだ」と言って、それが魏延の最期のシーンにつながり、実は諸葛亮はそこまで計算していたんだという諸葛亮の頭の良さを示す話になる。

※参照リンク
・ぐっこ どっと ねっと-~三国迷ぐっこのHP~
http://gukko.net/
・三国志学会行ってきた(゚∀゚)!
http://gukko.net/diary/diary-column/1643.html

Q2 川劇と京劇の中での三国戯の比率はどうなのか。また、川劇「司馬懿打粉」は最期、諸葛亮がしてやられる話だが、蜀の国での上演で、観衆の反応はどうだったか。

A2 京劇の比率はわからないが、確かに京劇では「三国演義」や「楊家将演義」など立ち回りをする演目が多いので、「三国演義」の比率も多いと思う。観衆の反応について、普通に見て面白いので観客は普通に笑って「ああ、面白かったね」という感じだった。

Q3 龍谷大学の非常勤講師より。川劇「上方谷」と「五丈原」はどういった関係にあるのか。司馬懿が女装するときの比較として「五丈原」の方の版本を用いた理由は何か。京劇「胭粉計」との関連は何か。
(※2006年北京公演が質問に織り込まれていたが、この記事の書き手の知識が追い付かないので、それを書いていないため、情報が欠損している)

A3 まず川劇「上方谷」と「五丈原」とを扱った理由は同じ場面を扱っているが内容が異なっているということだ。内容からみるとおそらく「五丈原」の方が成立が後だ。「胭粉計」について、同じように司馬懿が女装する話は他のお芝居にもあり、京劇と同じように、私が観劇した川劇「司馬懿打粉」でも前半に魏延を破る話はなく、司馬懿が女装する話だけを演じたものだ。お芝居の長さは流動的なものだ。

Q4 関西大学非常勤講師より。レジュメに川劇「五丈原」と『三国演義』毛宗崗本とがほとんど一致するという話だが、川劇「五丈原」の方は実際に上演されているのか。

A4 私は見ていない。それはテキストから。

Q4 (それを承けて)ここまで一致していると、(そのテキストは)読み物用に整備されているような気がする。私は語り物を専門としているが、戯曲と小説とに切っても切れない関係があり、やはりお芝居と語り物とは強い結びつきがあると思う。小説にない話がお芝居にあって、元を辿れば語り物にあってというパターンが良くある。

A4 この「五丈原」のテキストは1983年に芸人が口述したもので、本として整備されたものではないと思われる。曲芸という楽器と歌だけで三国志のお話をやる芸能をみたことがあるが、言葉は違っても内容は川劇と同じだったので、語り物の影響はもちろん考えられる。

Q5 日本の歌舞伎や能は最初、庶民の娯楽だったものが段々と敷居が高くなったという経緯があるが、川劇の場合は同じ様なことはおこったか。歌舞伎のように男性が女性を演じるというのは川劇にはあるのか。

A5 川劇が今の形になったのは清代で、明代の陳鐸が言っている川劇は素朴な夫婦漫才のようなお芝居。川劇には五つの声腔があり、これらがインテリが見るものから庶民が見るものまで順番にあり、昆腔、高腔が雅なもので、高腔、胡琴が京劇のようなもので、灯調が夫婦漫才のような素朴なお芝居だ。道化なおばさんは男の人が演じるパターンがある。

 最後に上田先生から映画『単騎、千里を走る』の話が添えられる。その映画の内容は民俗学者(役者、中井貴一さん)が中国雲南省に幻の三国物語(お芝居)を探しに行くという設定で、その学者が倒れた代わりにその父(役者、高倉健さん)が雲南省に言って芝居を見るという話だそうな。実際に撮影したのは貴州省という。中国にはこのようにまだまだ『三国演義』に書かれていないローカルなお芝居がたくさんあるそうな。映画が上映されている期間、「関索戯」を管轄している文化局の人から上田先生の元へ手紙が来て、そこには「日本の観光客がたくさん来て、大変なんだ」ということが書かれ、(嬉しい)悲鳴を上げられていたそうな。
 報告の終了が告げられ、満場拍手。

※参照リンク
・えちぜんの独り言 Ver.2
http://echizen01.blog52.fc2.com/
・三国志学会 第四回大会 雑感(その2)
http://echizen01.blog52.fc2.com/blog-entry-788.html

 12:00。この後、総司会の石井先生からが告げられ、さらに竹内先生から学食が開いていないことと昼食をとれる場所、さらには書店やグッズ店の出店情報が告げられる。

○昼休み (12:00~13:00)

 ここで清岡は来場していたぐっこさんに軽く挨拶し、昼食は伊比学さんとげんりゅうさんと共に取ることになり、行動を共にする。清岡の報告について、道中、伊比さんから「源実朝」を例にした興味深いコメントを聞く。つまり「源実朝」は歴史の授業でも国語の授業でも出てくる人物だが、生徒にとっては同一人物だとあまり気付かれておらず、『BB戦士三国伝』の購買層に通じるところがあるのではないかという話。

 なんとなく三人で昼飯を求め歩いていて、前にたまたま上田先生グループがいらっしゃったんで、それについていけば飲食店に行けると、堀川通りまで密かに後を着いていったんだけど、結局、角でコンビニエンスストアを見かけたものだから、三人はそこで買って会場で食すことになる。
 清岡は120円の缶コーヒーと二個で120円のパンを買い、計240円の買い物。


※次記事 三国志学会 第四回大会ノート3

※追記 ゆらり散歩世界の街角(2010年6月2日)

※追記 中国神秘紀行 #22長江 三国志の旅 赤壁の戦いの秘密(2011年12月10日19日)

※追記 中国古典小説研究 第16号(2011年12月21日)

※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)

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