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検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 91 - 120 / 504 件 (0.0124 秒). 検索条件の修正

91. リンク:「胡広伝覚書」
※前記事 リンク:「盧植とその『礼記解詁』」  一応、上記のようにネット上で公開されている論文を紹介する記事のシリーズなんだけど、そこに至るまでに前置きが長い。本題のみに興味ある人は読み飛ばしてくださると幸い。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況  上記関連記事で書いたように『東洋史研究』を買ってきて興味のあるところを読んでいた。それらの中に興味をもった一つに、下記に示す論文があって、いつものようにCiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。 西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』第54巻 第4號 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276 ※追記 メモ:「漢代明經考」  興味のある理由は史書上、孝廉に推挙された後、すぐ郎になるような記述が多いが、(時代性も考慮し)その間に孝廉のまま留まる場合があるのか、また試験があったのか、という二点。  前者に関しては『三國志』卷四十七呉書呉主傳に 策長史張昭謂權曰、孝廉、此寧哭時邪? と、孫策の長史である張昭が、孝廉や茂才に挙げられた行奉義校尉(つまり代行)の孫権へ呼び掛けるとき「孝廉」としている。また後者に関しては、試しに『太平御覧』で「孝廉」と検索し、ざっと見ていくと卷二百一十五職官部十三總敘尚書郎に 『續漢書』曰:胡廣字伯始、舉孝廉試為天下第一、旬日拜尚書郎。 と、試験しその評価で任官が変わる記述がある。

92. 『易緯乾鑿度』上下二巻に附された鄭玄注の真偽(東洋古典學研究 第41集 2016年5月)
※関連記事 メモ:東方書店(2016年7月30日) 上記関連記事で触れたように、東方書店で見かけた学術誌に三国関連が。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・国内書 東洋古典学研究 第41集【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900010084&bookType=jp 上記書店ページの上記雑誌ページによると、2016年5月に東洋古典学研究会『東洋古典學研究』第41集(ISBN/ISSN 1346-9428)が刊行されたという。東方書店で2500円。そこに藤田衛「『易緯乾鑿度』上下二巻に附された鄭玄注の真偽」が収録されている。 ・東洋古典學研究 | 広島大学 http://hiroshima-u.jp/bungaku/brochure/publication_magazine/toyoukoten ※関連記事 中國古典定立史(2016年3月30日)

93. 中国古代国家と社会システム(2009年9月25日)
 三国志とあまり関係ないけど、三国時代に通ずるものが多いということで。  汲古書院からのRSS配信や、フライヤー入りの封書で知ったんだけど、下記リンク先にあるように2009年9月25日に藤田勝久/著『中国古代国家と社会システム―長江流域出土資料の研究―』(汲古叢書85)が発売したという。ISBN9784762925849。定価、13000円+税。 ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日) ・汲古叢書85 中国古代国家と社会システム - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b37955.html

94. 第2回三国志学会大会ノート2
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/680  1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。  そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。 ○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)  11時13分スタート。司会は中川先生。 ●はじめに  ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ  「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。  (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。 ●一、対象とする「関羽文献」  (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)  A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)  これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。 ●二、「関羽文献」の「本伝」の内容  いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。 ●1. 呼称  (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)  Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。 ●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程  (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)  『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。  出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。  「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。 →王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。  「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。 →『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。  関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。 →BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。 <参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006) http://cte.main.jp/newsch/article.php/275 ●3. 車胄を斬る  『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。 ●4. 秉燭達旦  『三国志』にはない話。発表では割愛 ●5. 義釈曹操  『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響 ●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード  レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。 ●7. ...

95. 2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート
 2006年9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」が開催されること、さらにそれは一般聴講可能だと聞き及び、前日、清岡は関西から東京入りする。  当日、同じく関西からのしずかさんと共に東京メトロ丸ノ内線で会場となるお茶の水女子大学最寄り駅、茗荷谷駅に向かう。  茗荷谷駅から歩いて北上し、途中のコンビニで飲料水を買いつつ、やってきたのはお茶の水女子大学の正門。正門近くのお茶の水女子大学附属高等学校で輝鏡祭(学園祭)をやっているようで華やか。  それを尻目に会場となる理学部3号館へ向かう。前のスーツ姿の人の後をつけて、3号館の2階から入り、エレベータで7階へ。7階についてエレベータを出ると前は汲古書院などの店舗となっていて、そこから会場を探し歩く。  7階は狭く細長い一本の廊下があるだけなので、少し階段を上がったりしつつそれをずんずん進んでいくと、廊下の突き当たりに受付があったので、受付をすまし、予稿集とレジュメを受け取り、廊下突き当たり左手の701教室へ入る。予稿集は「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集と似た構成で、茶色の厚紙が表紙で、表紙が目次代わりとなっている。  どこに座ろうかと、会場向かって右側の通路を通っていると、不意に仁雛さんに声をかけられ、軽く挨拶する。席を真ん中左寄り、前から四列目を確保。10時開始の10分前だけどまわりにあまり人が座っていないのが気になった。ほとんどの人は後や右の端っこの方に座っている。  専門外の清岡は全く気付かなかったけど、しずかさんによると、入り口側、つまり会場向かって右側に席には著名な先生方がかたまっているとのこと。前日、同大学で「第6回魏晋南北朝史研究会大会」があったので、その流れかな、と話していた。 ・「第6回魏晋南北朝史研究会大会」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4182734  当時もそうだけど、上記記事をみると興味深いので聴講しにいけばよかったと後悔。  会場の様子は右上の写真のようになっている。プログラム等は以下の通り。【直前情報】長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」(關尾史郎先生のブログ内記事)のほぼまる写し ---------------------------------------------- ○長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」 日時:2006年9月17日日曜日、10:00~17:00 会場:お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室 主催:長沙呉簡研究会 総合司会:三崎良章(早稲田大学) プログラム: ・開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学) ・主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学) ・報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」  ※文字コードの表示上の都合から[艸/別]は「別」の字にくさかんむりをつけた字という意味、以下、同じ ・報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」 ・報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」 昼食・休憩(12:25~13:30) ・報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」 ・報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」 ・報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「従〈呉簡研究〉看呉簡研究所面臨的困難」 ・休憩(15:25~15:45) ・パネルディスカッション(15:45~16:45)  コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校) ・閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学) ----------------------------------------------  また以下のリンクは開催後の記事 ・長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界―三国志を超えて―」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4174556  それにしてもこのシンポジウム、タイトルに「三国志を超えて」とあるんだけど、個人的に史書である『三国志』にない情報がたくさん長沙呉簡に含まれているという意味で「超えて」だと思っていた。シンポジウムが終わった後、幸さんの話によると、三崎良章先生から「(このシンポジウムには)三国志はないですよ」というようなことを言われたとのこと。それをきいて清岡は、『三国志』を飛び「超えて」しまって通り過ぎたという意味で『三国志』はないんだ、なんてアホなことを思っていた。 ・「長沙呉簡の世界」ノート1へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/421 ※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日) ※追記 レポート:関プチ5 全国ツアー:6/22特別講座「新発見!三国志と日本」勝手に予習(2014年6月22日)

96. 三国志学会 第四回大会ノート2
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート1  10:59。総合司会の石井先生から次の司会の金沢大学の上田望先生への紹介がある。配付資料(レジュメ)はA4の3枚の両面印刷5ページ。 ※参照リンク メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ) ○「謀る孔明、女装する仲達――川劇「上方谷」をめぐって」  向かって左に立つ上田先生から田村さんと報告の紹介の後、「川劇」の解説がある。中国には京劇を初めたくさんの地方劇があって、特に四川地方に伝わっている川劇についてどのような三国の物語が伝わっているか、それらについて報告があるか期待しているという。日本では川劇の三国物語はおろか、川劇自体が上演されないので、その辺の話の報告については楽しみにしているという。  それで中央に登壇される田村さんからの報告が始まる。  まず四川省の成都と三国志との関係についての概要が話される。また、雑劇や講談で「三国志」が古くから親しまれていたという。

97. メモ:第6章 武侠漫画の映画的手法表現の成立をめぐって
※前回記事 三国志ジョーカー 単行本未収録分(2011年7月6日-11月5日) ※三国と無関係ながら前回の雑記 ・22日はボーヤンの日 http://cte.main.jp/calcio/blog.cgi?n=361  表題の三国に関係があるところに到達するまで、無関係な記述が続くので、先に以前、書き残し損ねた三国関連について書く。

98. 「長沙呉簡の世界」ノート6
・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/642 ※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。 ※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか? <7月20日5時半追記> 何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。 三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。 まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/264 ↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような… <7月28日13:20追記> 確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。 ※追記 リンク:学生の動向 ※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日) <追記終了> ○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」  15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。  それで日本語の要約。  報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。  前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。  呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。  宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。  また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。  孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。  羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。  王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。  王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。  ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。  後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。  非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。  呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。  呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。 ※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。  15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。  16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。 ○休憩(15:25~15:45)  この間、幸さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪  あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑) ・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/648 ※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)

99. 三国志学会 第四回大会ノート4
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート3  14:09。総合司会の石井先生から次の報告へのアナウンスがあった。司会は渡邉先生とのこと。  レジュメはB4が四枚、8ページ。主に資料が並んでいる。  まず渡邉先生から辛 賢 先生の紹介がある。韓国出身で、筑波大学で学び、易が専門とのこと。漢代から三国魏にかけて象数易から義理易に変わってくる時代であり、そこで王弼の易が出てくるという。  辛先生が登壇される。 ○「王弼の「意」と「象」―「象」の淵源から解釈の展開―」  最初のタイトルは「鄭玄と王弼」だったがなかなか鄭玄の易と王弼の易の比較は難しかったので、今回は「王弼の易」で報告する。

100. 単軸モデルから多軸モデルへ(あるいはピラミッドモデルからすり鉢モデルへ)
※関連記事 2005年度におけるコーエーとセガの三国製品への関心変遷  上記記事の続き。  現代日本の『三国志』に関わるジャンルについて考えるに当たり、ふと江戸時代のことを思い出す。  2006年7月29日に開催された「第2回三国志シンポジウム」での報告「小説『三国志』と日本人」では、江戸時代中期において三国志を受容した層がどのようなものだったか、模式図としてスクリーンに映し出されていた。 ※関連記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2

101. 三国志学会第一回大会ノート2
・三国志学会第一回大会ノート1からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/397  司会に三国志学会副会長の堀池信夫先生がついて、早速、次の報告がスタート。 ○澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)「五斗米道研究の現状と課題」  レジュメは6ページ。家系図、年表やら史書からの引用がある。  初めは澤先生から高校の授業で三国志がほとんど取り上げられないことに不満の声が挙がるほど関心が高いという掴み。 【1】宗教名の変遷  まず五斗米道の説明。張陵が始祖。いつのころから天師道と呼ばれるようになったとのこと。元代には正一教と呼ばれる。南北朝のころには様々な経典を受け入れ、道教とも呼ばれるようになった。つまり初期道教と呼ばれる。 【2】歴代張天師  歴代の天師名がレジュメに並べられる。初期の三代を三張(張道陵、張衡、張魯)と呼ばれる。現在は64代目の張源先(1969~)で台湾におられるとのこと。この系図は疑わしい部分がある。張魯のときに五斗米道は大きな飛躍をする。 【3】五斗米道関係年表  190年に劉焉と結びつき漢中郡と巴郡を支配下に置き、五斗米道に基づいた政治を行う。この政権は宗教王国のような捉え方をされている。道教からの研究(道教の歴史や教義、仏教との論争等)と歴史からの研究の二つがある。歴史研究において太平道(黄巾の乱)に比べ副次的に五斗米道が研究されてきた。 【4】『三国志』巻8張魯伝  タイトルにある三国志魏書張魯伝の冒頭の漢文が引用されていて、それが読まれていく。五斗米道は病気を治す→レジュメ【5】裴松之注を読まれる 【5】同前、裴松之注  五斗米道の細かいところが読まれる。「老子五千文」を読ませるとか。老子がテキストに使われていることに注目。五斗米道のころから老子が重要。六朝時代から唐の時代にかけての道教の伝承では張衡あるいは張魯が老子に注をつけたということで「老子想爾注」が成立したとのこと。道教の研究には不可欠なもの。成立年代は多くの人が後漢の成立だろうといっている。疑問の声もある。 【6】『後漢書』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条  裴松之の指摘。張脩を張衡としている。これらの論争があって幸田露伴は裴松之に従う。張脩のままでいいんだ、としている人もいる。五斗米道の研究ではさらにやっかいで、張脩という人物は三人出てくる。裴松之注に引く典略、三国志魏書張魯伝、後漢書本紀の三カ所出てきて、どれとどれとが同一人物とかいろんなパターンが出てくる。  実は張脩が五斗米道を開き、張魯が乗っ取って張魯が歴史をねつ造したという興味深い説もある。  澤先生は裴松之の指摘は間違いで、三カ所の張脩は同一人物と考えているとのこと。そうすると本筋とは別の問題が出てくる。なぜ陳寿は『三国志』で「別部司馬張脩」とだけ載せたか? 五斗米道との関係を書かなかったのか。澤先生は張魯の伝であって、張魯中心に書いていたため張脩については簡略に書いた、と考えた。  歴史研究、五斗米道を主な研究としたもの。「教団の組織」と「異民族との関係」とを対象とした二つがある。  まず教団の組織について。大きな組織(大きな軍)をおさめられたのか? 地元の豪族の協力が必要。教団そのものではない。政権としては地元の有力者を形式的に祭司に任命し治めさせていたのではないか。信者じゃない人も信者としていた 【7】『華陽国志』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条 【8】『三国志』巻1武帝紀、建安20年の条 【9】『文選』巻4所載、蜀都賦注引『風俗通』 【10】『後漢書』巻86南蛮伝、板楯蛮夷の条  そして異民族との関係。曹操に攻められたとき、異民族を張魯は味方にしていた。【7】で[宗/貝]人(そうじん)、【10】で板楯蛮と呼ばれている。非常に勇猛な民族をうまく取り入れた。民族の首長を祭司に任命し取り入れた。 ・残された課題  五斗米道と太平道との関係。宮崎市定先生から「君、関係あると思うかね?」ときかれたそうな。黄巾の乱とは別に考える? ・質疑応答  津田先生からの質問というか意見。  第一に張魯の娘が曹操の息子に嫁ぐ。その息子が最後の皇帝になる。そういったことに関係するのか。  第二に陳寿のこと。陳寿の出身地は五斗米道の活動範囲とかぶる。  USHISUKEさんからの質問。名乗らず、NPO三国志フォーラムに所属とのこと  異民族についての質問。王平のこととか。  五斗米道はどの程度、異民族に対し寛容であったか。 ※詳しくは下に示す三国志漂流の記事参照 ・三国志漂流 http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040 ・『三国志学会』レポート http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2606181#2606181  →元々、漢民族に対し協力的。後漢になると中央政府に対する板楯蛮の反乱が多くなってくる。そういった異民族に対し五斗米道は受け入れる体制にあった。板楯蛮は租税を免除されいたんだろう。曹操に降った後、異民族は軍団長に任命されていたり、と。 ・三国志学会第一回大会ノート3へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

102. リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」
※前記事 リンク:「漢代の扁書・壁書」  漢代においての地方官吏の日常については前々から興味があって、下記掲示板の書き込みにある論文について気になっていた。 ・Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2546  その論文は下記の論文。 高村 武幸「秦漢代地方官吏の『日記』について」(『古代文化』54(9) (2002) pp.22-33,63-64) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000449115  下記関連記事で触れた高村武幸/著『漢代の地方官吏と地域社会』の「後記」によると、この論文は大幅に書き改められた上で、この書籍の「第二部 漢代官吏の社会と生活」の「第一章 秦漢代地方官吏の「日記」について」に収録されたという。 ※関連記事 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年) ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ・汲古叢書 75 漢代の地方官吏と地域社会 - 株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/book/b9728.html  その漢代の部分の元となる史料は尹湾六号漢墓簡牘であり、中でも「元延二年日記」と命名された冊書が主となる。前述の論文に先んじて、基礎的研究の論文が下記のようにあり、ウェブ上で閲覧できる。 西川 利文「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究──三・四号木牘の作成時期を中心として──」(『文学部論集』第83号 (199903) pp.1-17 佛教大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473019

103. メモ:三国志ジャンルと消費2
 「三国志ニュース」を見て下さっている方にはほとんど関係ない内輪な話なんだけど、今回の記事で「三国志ニュース」における記事の通し番号が1000を迎えることになる。但し、欠番は結構あるので、記事が1000報あるというわけではない。  それを記念して、三周年のときに書いたように、「三国志ニュース」の今までの記事を振り返るみたいな企画も考えたけど、特にピンと来るのが思い付かなかったので、極々、清岡の個人的なことを書いてお茶を濁してしまおう。個人的な話に留めないと角が立つってのもあるけど(笑) ・蒼天三国志blog http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/ ・thinking 2008 http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/archives/51452120.html  上記ブログ記事に刺激を受けてあれこれ三国志ジャンルのことを考えていた。中でも「二次創作」というキーワードに反応してしまう。  「二次創作」とは、ある創作物(作品)からキャラクターや設定などの要素を抜き出して来て、それらを自らの創作物において使用する創作のことを指す。時には複数の創作物から要素を抽出する場合もある。  こう書くと中には何かまとまった作品を想像される方もおられるだろうが、多くの二次創作物は一次創作がある前提(受け手が一次創作を知っている前提)で成り立っており、そのため、すでに一次創作で出ているキャラクターの性格や設定などの要素を説明する必要はなく、結果的にそれ自体が独立していない断片的なものとなりやすい。  以上はもちろん三国志ジャンルに限ったことではなく一般的な話である。余談だけど、「二次創作」は「創作」とあるもののファンにとっては消費の一形態のように清岡は最近、思うようになっている。  上記ブログでは、三国志ファンの間で二次創作が盛り上がっている、と書かれているのかもしれないが、ここは敢えて、流通する最近の三国志関連創作において二次創作的なものが盛り上がっている、と受け止めていこう。  とは言っても流通している作品において前述した二次創作にありがちな「それ自体が独立していない断片的なもの」はほとんどないように清岡は思える。それは単独で流通し消費される前提のものだから他の創作物に依存する訳がないという先入観が清岡にはあって、正しく認識できてない可能性がある。人によって捉え方は違うだろうし、現に仮装士 義さんの見方だと最近の作品は「三国志を知っている前提」のものが多いとのことだ。  ここで話は前提条件に立ち戻る。「三国志関連創作(作品)」と言う以上、『三国志』なり『三国演義』なりをベースにするのだから、二次創作的(あるいは多次創作的)になるのは当たり前だ、と言われそうだけど、ここで清岡が着目しているのはそういうことじゃない。と言うのも、最近の三国志関連創作は『三国志』または『三国演義』以外のところからもキャラクターや設定などの要素を取り出していないか、ということであり、そういう意味で二次創作的な作品が盛り上がっているんじゃないか(流通し消費されているんじゃないか)、ということだ。  『三国志』または『三国演義』以外のところ、というのは何も一つにまとまった特定の作品からとは限らない。それらは他作品に見られるようなナルシストなキャラクター性であったり、異質なデザインであったり、実在するタレントであったり、女性化だったり様々だ。もちろん例えば『BB戦士 三国伝』みたいに、あからさまにまとまった特定の作品(あるいはシリーズ)から抽出するケースもある。  こういった二次創作的な作品が次々と出る最近の三国志ジャンルに清岡は違和感を覚えているんだけど、どうもそれをうまく言語化できずにいた。  とりあえず無理からにでも言語化しようとし「データベース消費」という言葉を借用し、以前、ある記事を書いた。無理からに一気に書いたせいか、どうも書いていくうちに「データベース消費」という言葉の意味がズレてきていた。今、読み返すとそのズレっぷりを恥ずかしく感じ、記事を削除するか訂正するかすれば良いんだけど、前者は惜しく思え、後者は時間的余裕がないということで、そのまま放置しておこう。  とは言え、そのまま三国志ニュース内で「データベース消費」を誤用したままにしておくのも閲覧者に申し訳ないので、下記に定義の書かれた部分を引用しておく。 東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より --引用開始--------------------------------------------------------- 「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。 --引用終了---------------------------------------------------------  話を本筋に戻し、清岡の違和感を感じる根元の一つに、制作側はなぜ『三国志』または『三国演義』以外のところから抽出した要素を創作に使うのだろうか、というものがある。すぐに「それはその要素に商業的に成功した実績があるから」と答えが出るんだけど、どうも清岡は割り切れない。  また、そういったところからいろんな要素を取り込むことによって、三国志ジャンルやそのファン層の裾野が広がるだろうが、果たして三国志ジャンルにとって他の影響はないんだろうか。こういったことを清岡自身は下記のように2002年あたりから気にかけいろんなところで話していた。 ※関連記事  2006年3月11日 プチオフ会 新宿編  三国志ファン、コア層こわそう  自戒! ブロマイド小説 (※個人サイト内ページ。2002年6月27日) ※追記 プレ:三国志ニュースの記事が出来るまで  それらの記事を読み直し改めて思うのは、結局、『三国志』『三国演義』以外の要素と抱き合わせのように消費されると、ビギナーは『三国志』『三国演義』の表層だけに目が行き、深いところを知らずにいるままになるんじゃないかということ。いくら抱き合わせで盛り上がったとしても三国志ジャンルの表層で消費サイクルを早めるだけで、ビギナーは容易に三国志ジャンルから離れるのではないかという予想が付く。 ※実名を出した手前、一応フォローとして参照まで下記に記事を挙げておく。 ※参照記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)  そういった風潮において再び制作側に目を向けてみると、『三国志』『三国演義』を深く掘り起こそうとする動きよりは、むしろデータベース消費されやすいような製品を進んで出している動きが目立つ。もはやデータベース消費に抵抗できうるような作品性の高い(まとまりのある)ものは目立たなくなっている。ここらへんが1980年代や1990年代の三国志ブームと違い、「今のブームは「幹」になるような作品がない」とされている所以なのかもしれない。 ※参照記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて  清岡はこういった近況について、もはや良い悪いを論じるほど熱くなれずにいて、せいぜい消費サイクルの速さに振り回されないように、身の守りを固くし(というより財布の紐を固くし)醒めた目で静観しつつ、独自にやりたいことをやるぐらいだ。そもそも何かを消費するほど、三国志ジャンル内の製品には、清岡にとって魅力的なものはほとんどないんだけどね。  三国志ジャンルがどう転ぼうとも、動物的に消費し続けるファン層以外にも、状況を把握しそれを論じるような、ジャンルを支えるファン層があれば安泰なんだけど、果たしてそんなファン層が支えられるほど居るのか、という疑問も湧く。  ようやく冒頭で書いたように極々、個人的なことに話が戻ってきたんだけど、要はそういった二次創作的な三国志関連創作自体にどうも興味を持てなくなってきているぞ、ということだ。それらが社会や三国志ジャンルにどう影響を与えているかについては未だ興味はあるんだけどね。それは単に表明であって特に非難しているわけではない。  そういった二次創作的なものを省いた場合でも三国志関連創作についても興味が持てなくなってきている。創作物に制作者の創作部分以外に『三国演義』等の後世の創作が混じるとそれを認めた時点で清岡は拒否反応を起こしてしまう。  別に懐かしの「正史派」&「演義派」(SNSのコミュニティの噂を聞くとリバイバルしているのかな?)のどちらかを気取っているわけではなく、その創作が『三国志』ベースであろうとも『三国演義』ベースであろうとも作品の本質とは無関係であることは理屈で解っている。しかし、いざそういった『三国演義』等の後世の創作が混じったものを目の当たりにすると、強い違和感を抱き興醒めしてしまう。例えば、源平の時代に電話を出したり、フランス革命前に革命後の軍服を出したりと敢えてやっている分には気にならないが、「歴史」あるいは『三国志』を題材とした創作と銘打ちながら、何らかの考えに裏打ちされず『三国演義』等の後世の創作からも取材した創作物については違和感を抱く。どうも清岡には、制作側発信側が歴史から取材するより一つのまとまった物語である『三国演義』(挿絵も含め)から取材する方が簡単だと捉え、易きに流れているだけに思えてならない。  『三国演義』は版を重ねるごとに数百年間、改良され続けており、制作側発信側にとって確固たるものかもしれないが、それだけを取材することで『三国志』を取材した創作とは言えない。また、監督が『三国演義』の映画化と言っているのに、配給会社の一つが「『三国志』の完全映画化」と喧伝しているケースもあり、注意する必要がある。その上、『三国志』や『三国演義』を題材にした創作物であるのに、そのまま「三国志」と名付ける、いわゆる自称「三国志」・他称「三国志」にも清岡は注意を向けている。すでにその弊害として、『三国志』が物語であると勘違いしている事例が散見されている。  『三国演義』を含め後世の創作を交えず、三国創作を行おうとすれば、『三国志』やその注以外にも『後漢書』や『晋書』などの史書を当たることもあるだろうし、出土史料と経書類、小学類、制度史類を照らし合わせることもあるだろうし、工具書にも頼ることもあるだろうし、論文を読んで新たな観点を得ることもあるだろう。こういったように後世の創作を取り込まずとも『三国志』を含む歴史関連には、まだまだ消費財として開拓されていない箇所がたくさんあり、充分、魅力的なものも種々あるだろう。こういったことを差し置いて他の時代の方がはるかに魅力的だと三国志ファンを扇動することは自らの無知を表明しているように思える。  随分、長々と書いたけど、そういった現状の三国志関連創作物を消費することよりも、史書の記述や既存の歴史研究を消費財に換えることに今、清岡の興味は向いているということを書きたかっただけだったりする。三国志ニュースでは後者より前者に関係する記事が多く、恐らくブログの性質上、前者の方が相性が良いためだろう。後者に関係する記事は最近では「メモ:東漢人多為舉主行喪制服」や「三国創作のための拝メモ」などあることはあるが少数派となる。  これから先、清岡は後者への活動により多くの時間を割いていきたいため、おそらく三国志ニュースでの清岡による更新はペースダウンすることだろうね。

104. リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法
※前記事 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について ※関連記事 三国志 Three Kingdoms 群雄割拠(BSフジ2011年1月10日-)  上記関連記事で触れたように『三国志 Three Kingdoms』前篇 DVD-BOXに完全収録『絵本通俗三国志』挿絵集が同梱されると聞いて、一瞬、「何を今さら」と思ってしまったわけだけど、それにはちゃんと解説文がついているようでファンの趣向の幅を広げるという意味では意義があるのかもしれない。 ※参照記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2  だけど、三国マンガ等、視覚的要素を含む現代日本の三国作品において、ちゃんと根拠を示せるわけじゃないけど、この日本の『絵本通俗三国志』よりも中国の連環画の影響が大きいように思える。 ※参照記事 赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポ  ここ一年ぐらい、マンガ関連の学会大会やシンポジウムに一般聴講して再認識したんだが、マンガに先立つ一つの表現形式として連環画がある。そのため、日本の三国マンガにどれ程、連環画が影響を与えたか興味を持っていた。なかなか視覚的要素を定量的に扱う案が思い浮かばず、定性的に扱うとなると主観を交えない自信がないため、研究するのに躊躇しているのだが。 ※関連記事 私的メモ2:三国漫画分析  そこで何か参考になるものはないか、今、CiNiiで「連環画」と軽く検索を掛けるといくつか論文が出てきて、それらの中のいくつかは読めるものもあって、今回、リンクするのが下記の論文。 高橋 愛「中国の連環画の変遷とその描写技法」(『美術教育学 : 美術科教育学会誌』27号 (20060331) pp.219-231 美術科教育学会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004702829

105. 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日)
・財團法人東方學會 http://www.tohogakkai.com/  ※関連記事 漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日)  上記サイトにあるように2010年5月21日に「第55回国際東方学者会議」の併設の「第2回中日学者中国古代史論壇 魏晋南北朝期における貴族制の形成と三教・文学 ―歴史学・思想史・文学の連携による―」が開催される。  名前から連想されるように私を含めた一般人は立ち入りできないから(※追記訂正。この記事のコメント覧で渡邉義浩先生よりご指摘をいただき、一般でも参加できるとのこと。5月12日締切でEメールでの事前申込制で会議参加費4000円で、学生は2000円。ただ、たいへん権威のある学会なのでそこらへんは念頭においてください。)、あまりここで記事にしても意味はなさそうだけど、下記関連記事にあるように昨年の「第53回国際東方学者会議 東京会議」のシンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」の内容が『三國志研究』第四号にまとめられており、今回も何らかの形で刊行される可能性はないとは言えないので、ここに記しておこう。 ※関連記事 三國志研究 第四号(2009年9月)  今回、「三国志ニュース」的に目を引くのが、「Section II(History)」の13:50-14:10のところにある「梁満倉: 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係」というもの。  タイトルに「曹操墓」ってあるけど、これって、連想するに、昨年末(2009年12月27日)に公表された安陽西高穴大墓の出土物(※下記記事参照)と伝世文献史料とを照合し検討するような内容なのかな。 ※関連記事 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

106. 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日)
※関連記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会(2009年9月12日)  上記関連記事で書いたように、2009年9月12日に第9回魏晋南北朝史研究会大会が駒澤大学深沢校舎1-2講義室で開催された。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/  初めていく大学だが、事前に駒澤大学深沢校舎は駅から結構、離れていると知ったんで、なるべく歩かないようにと、最寄りのバス停がないかネット上の地図で探す。そうすると、会場の目の前にバス停があると知る。渋谷駅から出る東急バス渋82(等々力行)の路線で駒大深沢キャンパス前というバス停があるそうな。

107. 林 巳奈夫 先生、死去
訃報です。 2006年1月1日に林 巳奈夫 先生が急性心不全のため死去されました。80歳でした。 ・産経新聞 http://www.sankei.co.jp/ ※ここの「おくやみ」のところです。 林 巳奈夫 先生は京都大学名誉教授で「中国古代の生活史」(吉川弘文館刊、1992年3月10日発行、ISBN4-642-07311-6)の著者であり、つい最近、著作の「漢代の文物」を紹介したばかりです(下のリンク参照)。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/258 そのため、個人的にかなり驚きました。 林 巳奈夫 先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。 ※追記 『中国古代の生活史』復刊(2009年12月15日)

108. 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日) ※関連記事 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日) ※追記 国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」(2010年11月27日28日)  上記の関連記事にあるように2008年10月11日12日に愛媛大学で公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」が行われるということで足を運ぶ。  当日はちょうど「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、12日の午前中を狙って11日丸一日かけて愛媛大学のある愛媛県松山市へと向かう。初めて行く土地で、車窓を楽しんでいたので、 図書館から借りた『漢代の地方官吏と地域社会』をほとんど読み進められなかったが。  松山はコンパクトにまとまった街で、市電と徒歩でホテル、観光地や繁華街などほとんどカバーできた。しかも市電はどこでも150円で一日券が300円という安さ。ただ市電の終電が早いことは玉にきずだけどね。  12日朝、市電に乗り込み、いざ会場となる愛媛大学へ向かう。 ・愛媛大学 http://www.ehime-u.ac.jp/  9時前、会場となる建物の愛媛大学法文学部に到着する。その出入り口のど真ん中には写真のように犬がうつ伏せに寝そべって、こちらに無関心な様子で建物の入口の前でくつろいでいた(笑)。  エレベータに乗り込み8階に上がり、東側にある大会議室へ。西の入口でレジュメを貰う。  東の壁にスクリーンがあって、そこが演壇となる。席が東に向かって配置されているのではなく、写真にあるように会議室の名の通り、南北で交互に向かい合わせになるような席と机の配置となっている。清岡はスクリーンが見えるように北側南向きの席に座り、開始を待つ。 ●10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)  ※以下、頭に「●」をつけた一行はプログラムからの写し  9:06開始。  前日「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」のご講演をされていた藤田勝久先生が司会として立たれる。ここで王子今先生は渡航手続の関係上、来日できなかったとアナウンスされる。その代わり、三番目に黄 暁芬先生の「秦直道の調査と研究」というご報告をされるそうな。 ※追記 中国古代国家と社会システム(2009年9月25日) ●王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」  藤田先生が急遽、作成した資料「中国古代の出土資料と交通論」を元に簡単な説明がされるとのこと。 ○1、中国古代交通史の研究  ※以下、頭に「○」をつけた一行はレジュメからの写し  白寿彝『中国交通史』(1975)は交通区域とか都会とか道路とか、制度史のような形で書かれた。その他、いくつか書かれ漢代だと譚宗義『漢代国内陸路交通考』(1967)、唐代だと厳耕望『唐代交通図考』(1985-1986)など交通路線の問題、それから交通施設の問題など、文献学を中心とした研究。  王子今『秦漢交通史考』(1994)は手に入るものの中で、一番、ベーシックなもの(レジュメでは目次が書かれている)。王子今先生の考えによると交通システムは統一国家を維持するためのものとのこと。秦漢時代に空前の発達を遂げた。秦漢交通史に重要性がある。社会生産の発展は交通の発達と維持を必要とする。交通網の分布、密度、効率は文化圏の範囲と規模を決定する。『秦漢交通史考』はこの当時、発見された出土史料画像史料をも含め概説されている。考察の対象としては狭い意味では人と物の空間、広い意味では通信など伝達方式も意識されている。考察の対象として、交通発展の現象と規律、社会文化面に対する作用を扱う。実際には制度、交通路とか橋とか乗り物とかが社会にどのように関わるか網羅的に扱う。  今回、王子今先生が発表するにあたり、予めどのような内容なのか聴いており、それがレジュメに書かれている「1交通条件と皇帝権、2交通施設と国家の政治、3交通路と国家の建設、4交通道路と軍事化」という目次に当たる。王子今先生には機会を改めて松山で発表してもらう予定とのこと。 ○2、人びとの移動と出土資料:文字資料と口頭伝達  人びとの移動としてどんな資料があるか。藤田先生は昔、『司馬遷の旅』(中公新書、2003)という本を書き、司馬遷は武帝と巡行したりと中国の三分の二を旅行している。交通史の研究が少ないので実際、どうかわからない、と。その本では「余論」として「漢代の旅行事情」として書いて、その時に調べてわかったことがある。つまり中国の交通史の研究は進んでなくて、よくわからないということがよくわかった。  レジュメの右側にいくつか項目を挙げている。それらは中国ではどんな人々が移動しているか、そんな移動を示す出土資料にはどういったものがあるか、そういったものを対象として研究を進んでいけば貢献できるのではないか。  「1)皇帝の巡狩」。一番有名なのに秦始皇帝の天下巡行がある。それを示すものに「刻石」がある。「2)中央の官僚、官吏」「3)地方の官僚、官吏」。従来から研究されている。「4)軍隊とその組織」。王子今先生も注目されている。軍事目的で移動したり辺境の防衛や徙民に関連する資料もある。「5)公的な労働」。単に物資を輸送させるだけではなく、土木建設、例えば皇帝陵墓作るためかり出されるとか。各地への軍需物資の移動の資料の一つに、今日、発表で触れられる「里耶秦漢」などがある。「6)学者、客、一般民など」。思想家、占いをする者、技術者など。 ○3、交通の施設と交通システム  一番考えられるのは「1)公的な城郭、交通・軍事の施設」、こういうハード面がある。出土資料そのものだけではなく近年、遺跡の調査もある。「2)交通システムと規定」について例えば睡虎地秦簡や張家山漢簡には「行書律」「伝食律」などの職業規定が出てきている。また通行書に当たるもの(符、伝、伝信)も資料として増えてきた。  ここで今回の報告の概要が藤田先生により説明される。今回の発表は全て日本語だそうな。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2 ※追記 東アジア出土資料と情報伝達(2011年5月25日) ※追記 日本マンガ学会第13回大会に至るまで(2013年7月4日-) ※追記 中国の歴史をたどる―『三国志』(2014年10月14日-2015年3月10日全6回)

109. 「四大奇書」の研究(2010年11月10日)
・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ 上記サイトのRSS配信で下記の書籍を知る。 ・「四大奇書」の研究 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b80965.html つまり汲古書院から2010年11月10日に小松謙/著『「四大奇書」の研究』(汲古書院、ISBN9784762928857)が8400円で発売したという。 「四大奇書」は上記ページにある内容説明(本書を引用したもの)には下記に引用したように書かれてある。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  「四大奇書」とは、『三國志演義』『水滸傳』『西遊記』『金瓶梅』の總稱である。この名稱自體は、?代前期の書坊が販賣促進用につけたキャッチフレーズにすぎまいが、この四篇をもって明代白話小説の代表作、更にいえば中國長篇小説の最高峯と見なすことには、ほとんど異論はないであろう。 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※引用部分の「?」となっている表示できてない部分は前後関係から恐らく元々は「淸」と書かれてあって「清」のことだろう。 このように一部、『三国演義』について書かれてある書籍であり、上記ページから目次を下記に引用するような内容となっている。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  序 第一部 明代に何が起こったのか 第一期 洪武~天順(1368~1464) 第二期 成化~正徳(1465~1521)  第三期 嘉靖(1522~66) 第二部 『三國志演義』 第一章 「三國」について――なぜこの時代が藝能の題材となるのか――   第二章 三國志物語の變容   第三章 『三國志演義』の成立と展開――嘉靖本と葉逢春本を手がかりに―― ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

110. リンク:「盧植とその『礼記解詁』」
※関連記事 リンク:『魏晉石刻資料選注』  上記、リンク先の記事で紹介した京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI = Kyoto University Research Information Repository)を紹介したんだけど、別件でKURENAIを見ていたら、下記、論文、池田秀三「盧植とその『礼記解詁』」の(上)(下)を見かけたんで、まだ目を通していないけど続けてリンクを張っておく。それぞれ『京都大學文學部研究紀要』29巻(1990年3月31日発行)、同紀要30巻(1991年3月29日発行)収録。 ・Kyoto University Research Information Repository http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/ ・Kyoto University Research Information Repository: 盧植とその『礼記解詁』(上) http://hdl.handle.net/2433/73047 ・Kyoto University Research Information Repository: 盧植とその『礼記解詁』(下) http://hdl.handle.net/2433/73051 ※次記事 リンク:「胡広伝覚書」 ※追記 三国志学会 第八回大会(2013年9月14日土曜日)

111. メモ3:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」
※前記事 メモ2:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」  2009年8月8日にようやく2005年3月1日から2007年12月31日までのアクセス集計のルーチンワークを終え、データ解析の部分は創造的かつスムーズに行えると思ったら、しょっぱなでつまづく。  何かというと、小分類を加算し中分類ごとに合計する作業だ。手元の環境だと、表計算ソフトの動作が遅くフリーズしやすく、またそれを緩和するためにこまめに保存するも、保存する最中にフリーズする状況だった。これで待ち時間ばかりの9日、10日と丸々二日費やし、絶望感を漂わしていたんだけど、10日の深夜にあるアイディアを思い付く。  今まで計算に際し、集計結果とリンクさせていたわけだけど、それを「形式を選択して貼り付け」し、リンクを切断すれば負担が軽くなるんじゃないかと気付く。機転の効く人だったら二日も費やさずに一瞬で気付くんだろうな、と自分をイヤになりつつ、そのアイディアを実行してみると、表計算ソフトの動作は速くなり、かつフリーズ頻度が激減し、ようやくデータ解析の作業を進められることに。  11日、12日は計算に誤りがないかチェックしつつ、グラフ作成をしていた。そういう苦労は発表で出るわけはないので、この際だからメモとして出そうとしたのが、今回の記事の本題というわけだ。

112. 韋昭研究(2011年7月)
数日前に汲古書院よりフライヤが送られてきて、普段は下記のサイトで情報が更新されるまで待つのだけど、今回は三国に直接関係し、しかも孫呉ファンの需要が高そうな情報なのですぐ記事に。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ そのフライヤによると、汲古書院より2011年7月に高橋康浩/著『韋昭研究』(ISBN978-4-7629-2965-6)が6300円で刊行されたという。タイトルの韋昭は『三国志』巻卷六十五呉書に立伝される、三国呉の韋曜字弘嗣(204-273)のことだね。

113. リンク:「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」
・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(09/04/07) http://sekio516.exblog.jp/10007672/  上記ブログ記事で知ったこと。 --引用開始----------------------------------------------------- 中林史朗「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」,『大東文化大学漢学会誌』第48号:237-274,2009年3月 --引用終了----------------------------------------------------- ・大東文化大学文学部中国学科 http://daito-sinology.seesaa.net/  この論文のタイトルから2007年7月28日に開催された「第3回三国志シンポジウム」の一限目の「日本人にとって三國志とは何じゃいな? ~見るのか、讀むのか、掛け軸から『ストップ劉備くん』まで~」を連想し、何か関連があるのかと思い、下記のサイトを見に行く。 ※関連記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1  そうすると、同じ論文が公開されていた上に、やはり「第3回「三国志シンポジウム」に於いて発表した講演原稿と配付資料とに、些か手を加えて書き改めたものである」とのこと。  というわけで、下記に該当ページへリンクする。あれこれ参考になるね。「Dynasty Warriors Wiki」もここを参考にすれば良いと思った。 ・黄虎洞 http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/ ・日本人に於ける三国志とは http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html  ※「http://www.daito.ac.jp/」から「http://www.ic.daito.ac.jp/」へ訂正 ※関連記事 Sangokushi News - Japanese fansite for anything based on the Romance of Three Kingdoms

114. ノート2:三国志学会 第五回大会
※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日) ※前記事 ノート1:三国志学会 第五回大会  11時16分再開。牧角先生から発表者と発表題名のアナウンスが入る。以下、二つ目の研究報告のノート。レジュメはB4用紙4枚、B5で縦書き8ページだ。 ○研究報告 11:10~12:00「結びつけられる三国志と太平記―近世初期の学問・思想の一齣として」

115. メモ:大半の三国創作と二次創作の相似点
※前記事 メモ:歴史漫画における少年漫画と少女漫画との違い  上記記事の続き。  前置きはやはり長くて、主にマンガ/コミックスの国際学術会議について。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/ ・国際学術会議「世界のコミックスとコミックスの世界」| 京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/event/study/isc01.php  前記事のように、2009年12月18日から20日まで京都国際マンガミュージアムにて国際学術会議「世界のコミックスとコミックスの世界」が開催された。  この国際学術会議の主催は「京都国際マンガミュージアム/京都精華大学国際マンガ研究センター」ということなんだけど、共催は「国際交流基金、女性MANGA研究プロジェクト、ドイツ文化センター」ということで、独日の「国際交流」という名目で予算を引っ張ってくる方式は実現の可否はともかく何かと使えそうだ。「三国志」だと中日交流なわけだけど、清岡の狭い見識ではこういう予算の方式はあまり聞いたことがない。「中国文化」全般だと日本の大学にいくつかある孔子学院が真っ先に思い付くのだが。 ・京都国際マンガミュージアムへ。最終日  (※清岡個人の日記) http://cte.main.jp/sunshi/2009/1209.html#20  上記日記にも書いたように、2009年12月20日にはこの国際学術会議以外にも「漢字文献情報処理研究会第十二回大会」という学術催事があって、両者を比較してみると、スタイルの特徴が明確になって興味深いものだった。 ・漢字文献情報処理研究会 ホームページ http://www.jaet.gr.jp/

116. ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12 ※関連記事 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)  上記のサイト、上記ページ、上記関連記事にあるように、2012年6月23日土曜日(12:45に開会)24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催された。そして「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表で、それは  陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻]  日本における三国志マンガの翻案過程 というものだ。

117. メモ:「功次による昇進制度の形成」
※前記事 メモ:「漢代明經考」  下記関連記事で触れたように、尹湾漢墓簡牘に記載される長吏からも、察挙による就官の事例より功次による昇進の事例の方が多いと確認されたという。 ※関連記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」  前者の察挙はさらに常科と制科があり、それぞれ孝廉科、賢良・方正科が例として挙げられる。それについては前記事で触れた論文について書かれていた。しかしそれ以外の大半と言われる功次による昇進について私はあまり把握していないので、一度、目を通した論文を再び読んでメモを残す。  論文は一昨年の「2008年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』の中にあった分で、ちょうど下記の関連記事(2番目)で触れた論文の次に来る論文だ。 ※関連記事  「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート  メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」 ※追記 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について  その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 佐藤 達郎「功次による昇進制度の形成」(『東洋史研究』Vol.58 No.4 (200003) pp.673-696 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660407  この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/

118. 「東アジアの出土資料と交通論」ノート3
※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2  ノートPCの入れ替え中、司会による次の発表の紹介が入る。  10:17。次の発表が始まる。予め配られたレジュメはA3の3枚、6ページ分。 ●上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」  科研の採択を受けて2005年から7年までの三年間、中国の北方地域を対象に地理学、政治史、環境史、考古学の四者で共同研究をおこなったとのことで、その成果が今回の発表だという。 ○はじめに  出土資料から交通論のアプローチが今回のシンポジウムのテーマ。この発表では交通路が結びつけるものは何かという視点で入る。人・情報ではなくハードウェアである地域を結ぶと考え見ていく。交通路に結びつけられる地域と地域がどのような関係にあるのか、すなわち地域と地域の関係から交通路をあぶり出していく。対象となるのは前漢代の北方地域。 ○1. 漢代の北方地域とは  まず前提部分(※スクリーンに現在の地図が映し出される)。現在の山西省北部、内蒙古中南部、河北省北部を対象とする(※スクリーンの地図上、赤で示される)。この地域は歴代王朝が北方の諸民族と抗争した場であり、漢代も例にもれず、匈奴・鮮卑との抗争の場であった。  他の視点から北方地域がどう見えるか紹介。考古学をやっているが、昨年の中国考古学会で発表したのは、お墓の構築技術によって地域と地域がどのような関係にあるか、どう地域区分ができるか、というもの。前漢代(の華北)にはこのように八つの地域に分けることができる(※スクリーンに航空写真で映し出さ示される。またレジュメにはより単純な地図がある)。今回対象となるのはE地域、このような北方地域になる(※八つの地域の地図上最北地域)。造墓技術と漢代の地域区分を結論だけ示したが、プロセスを少し説明。前漢の後半期にどのような墓がどこで作られたかがこの図(※スクリーンに地図と共に説明が入る)。木築墓、木材が主な構築材料。磚築墓、煉瓦が主な構築材料。木築墓は今回対象にする北方地域、東シナ海沿岸の山東省東部、江蘇省に分布している。平たく言えば当時の周緑地域、辺境。磚築墓は中央地域、いわゆる王朝の中央地域に広がったのに対し、伝統的な木築墓は周辺地域に残ったと通常、解釈される。  今日の発表で二つの視点を提唱したい。一つはマクロな視点。県城と県城との関係を検討し、王朝の地域経営の戦略を復元する、あるいはそれを接近していこうというもの。もう一つはミクロな視点。お墓を対象として県城を中心とする一つの地域社会、その中における集団関係がどうであるか、これを検討していくもの。入れ物同士の関係がマクロな視点、そして入れ物の中に入っている人の構成がミクロな視点となる。 ○2. 地域社会のマクロな視点:県城遺跡 ○(1)北方領域の二つの姿  城郭とは、一つは地域社会の結節点となる。先ほどの金先生の発表にもあったように、漢代の行政区分として県の下には里、亭、郷といった下部組織、構造があり、一つの地域の結節点として県、県城がある。王朝の側からするとこの県城を掌握することにより、地域経営を進めていく、その拠点となる。科研の方で実際、その遺跡を見てきた(※スクリーンにだだっ広い草原の中に盛り上がっている写真などが映し出されており、それらが広武県故城や雲中県故城の写真。それをあれこれ説明)。広武県故城について。現状に残っているものでも10メートルを越えるだろうという城壁を確認。雲中県故城について。写真の内側が400メートルの城壁、外側に1.2キロメートルの城壁が回っている。  現在出ている遺跡地図集、考古学の報告書などからお城の情報を集めた。衛星写真を使って地理学の先生に依頼して地形利用というのを合わせた。地形利用図と考古等高を重ねるとどのように北方地域を復元できるか(※スクリーンに図が映し出される)。緑の部分が氾濫原、川の流域。川の流れを示すために青い線を入れるようお願いしたが、無理と言われた。つまり川の流れは常に動くものだということ。これが農耕が出来る可耕地、肥沃な土壌になる。その周辺にある黄色い部分、これが扇状地になる。山から川が流れてきて平原に降りてくる、その出口に扇状地が形成される。そこではやや水の利用が難しいと聞く。黒い部分が山塊になる。  ちなみにこの地形図からどのような交通路が復元できるか線を引くと(※スクリーンの地図に線が足される)、たくさんの線ができる。というのも河川の流れによる渓谷(※地図中、白い線)が重要な交通路になるだろう、ということで地理学の先生に線を引いて貰うとこのような図が返ってきた。  図において、中塗りの四角が県との対応がつく城郭になる。そういった城郭は交通路の結節点に当たる。  今回は二つの地域について。一つは河套平原。黄河が東に向かって流れる部分から南に流れを変える部分、まさにそこで形成された巨大な平原。南側に大同盆地と(※スクリーンの地図に)書いたが、こちらも地形図を見る限り、やや広域に広がる氾濫原を持つ盆地ということで、この二つの関係を見ていく。  まず城の立地環境。ここでは三つあげている。レジュメにあるように平地型、盆地型、谷筋型。平地型というのは扇状地も含めた平原のふちにお城を築く。それに対し非常に狭い谷筋に、やや可耕地、氾濫原が見える、一部分に城を築くのが盆地型。氾濫原を持たない谷筋に拠点を築くものを谷筋型とする。  次に城と城との関係。分布状況は二つの類型がある。一つは相互の関係が非常に密に、ある地域に密集すると、これを拠点密集型と呼ぶ。もう一つを等距離分散型と呼ぶ。大同盆地では城郭と城郭の距離が比較的等距離と見て取れる。  これらの三つの立地環境の分類、二つの分布状況の分類、これら二つの次元をよりどころにして河套平原と大同盆地の関係を整理していく。  大同盆地では平地型で等距離分散型。この状況は、王朝の視点からすると、広域ネットワークを構築し面的に地域を掌握することを意図した地域経営戦略。一方、河套平原は同じ平地型だが拠点密集型。これは王朝の視点からすると局地的に地域開発をする、あるいは拠点防衛を目的とした地域経営戦略。これが小タイトルにある「二つの姿」となる。 ○(2)雲中郡と定襄郡  縮尺を上げて、河套平原の内実を詳しく取り上げる。(※スクリーン上の地図において、またレジュメの図3において)中塗りの四角が県城との対応がついている城郭、白抜きの四角が城郭は確認されるが県城との対比が現状では難しいあるいは対比がなされていない城郭。  雲中郡の属県、定襄郡の属県それぞれがどのようなものかがこの図。雲中郡の属県が実線の黒で結んでいる。黒の点線が定襄郡の属県を示している。雲中郡の場合、その郡治(雲中県)に対し、東北側と東南側に城郭が密集する区域がある。それらを結びつけるのが郡治。それに対し郡治(成楽県)を中心とした定襄郡のネットワークは南の谷筋沿いに広がっていくネットワーク、あるいは北側に谷筋沿いに広がっていくネットワークを見ることができる。  先ほど、拠点開発・拠点防衛を目的とした河套平原と言ったんですが、その中にも県城のネットワークとして二つの要素が見える。雲中郡の場合は、郡治を河套平原の氾濫原のど真ん中に置いており、その郡治は拠点に必要な城郭群の結節点として機能している。それに対し定襄郡は、河套平原に出てくる出口、山麓・扇状地縁辺に郡治を置く。その郡治を中心に結びつけられる県城は谷筋を利用する線上に伸びるネットワーク。  それらを王朝の地域経営という視点で再整理すると、雲中郡はフロンティアを開発することを目的とした開発型のシステムと言える。拠点を開発していこうということで密集型に城郭を置いたのではないかと考えられる。それに対し定襄郡は開発すべきフロンティア(河套平原)の後背地にある交通要衝を掌握することを目的としたシステムである。裏を返せば軍事型、または交通路型といったネットワークだったのではないかと考えられる。 ○(3)「安陶丞印」封泥  この中にある一つの城郭で封泥が数多く出ている。文字を記したものが約100件、文字を持たないものが370件余り。安陶県の県城と考えられる城郭の二十家子城址から出てきた。  断片的に情報が報告されているため、総合的に復元することは難しいが、[内蒙古自治区文物工作隊 1961]をベースにして再整理をする(※まずスクリーンに二十家子城址の平面図が映し出される)。穀物を貯蔵するための貯蔵穴で穀物と封泥とが一緒に出てきている。  封泥は具体的にはこのようなものがある(※スクリーンやレジュメに写真が出てくる。それぞれ説明が入る)。  (※以下、レジュメより釈文)   安陶丞印 定襄丞印 武進丞印 平城丞印 駱□□□ □□太□章   都武□印 安□左□ 武□右□ 東郷 西郷 倉 □□庫□  「□□太□章」は「定襄太守章」となり太守の章とのこと。「倉」や「庫」は軍事関連で「左□」「右□」はそれぞれ「左尉」「右尉」という軍事的官職か。  『漢書』地理志との対照する(※スクリーンに図がいくつか出てくる)。出ている地名と件数を対応させる(※表が出てくる)。先ほどのお城の結びつき地形との関係によって復元した地域間のネットワークを傍証するような封泥がある。  「左尉」「右尉」等、武官の関係を示す封泥があったが、実はこの二十家子城址は別の点でも重要な城になっている(※スクリーンに二十家子城址出土の鎧のスケッチが出てくる。林 巳奈夫/編『漢代の文物』挿図10-74でスケッチされるのと同じ鎧)。前漢の武帝紀の甲冑の構造を知ることができる史料はほとんどないが、考古学で武装の話をするときに必ず引かれる史料。 ○3. 地域社会へのミクロな視点:漢墓葬  墓を使って地域社会の階層構造、構成を見ていく。まず史料の着目点と何が明らかになるかという点を整理。  一つ目は、墓の構造や規模、副葬品や葬制に格差が存在。入れ物の墓、入れる物に格差を見出すことができる。格差を元にして被葬者の関係性ということで地域社会の集団関係あるいは階層構造を検討することが可能。地域社会の状況を現地の写真で説明(※スクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。現地へ同行した仏教大学の杉本先生に「じゃ漢代というのはお城から外を見ると墓山だらけだったんですかね?」と言うと「んー、多分、そうに違いない」とのこと。県城の周りにはその被葬者を葬るべきお墓が周辺に相当数存在したと言える(※さらにスクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。  被葬者を葬って副葬品を添える空間があり、その構造がどうであるか整理。北方領域では上位階層が木築墓。格差を示す副葬品としては青銅器、漆器等。お墓の大きさで上位と決めた。規模が大きな墓は木築墓。これは河套平原でも大同盆地でも同じ現象。ところが両地域で違ってくるのは磚築墓の存在。現状では磚築墓が出てくるのは北方地域では河套平原に限られる。  あと、お墓がいつごろから作られるのか? 我々の共通認識では、この点で河套平原と大同盆地とで差がある(※スクリーンでそれをまとめた図表が出てくる)。大同盆地では前漢を通じて造墓が増加している。前漢期の磚築墓はなし。一方、河套平原では前漢の後半期に造墓が盛んになる。造墓が始まった頃から磚築墓がある。  その背景を史書を見ながら考える。大同盆地では在地系の集団が地域社会を運営していた。だから伝統的な木築墓を使い続けた。上位階層もそういった墓葬を選択し続けた。一方、河套平原では上位階層が在地の伝統(価値)を引く集団。磚築墓の下位階層は外来系の集団の反映と考える。磚築墓とは長安、洛陽などの黄河流域、その辺りで出現し前漢の後半期には普及する。北方領域では磚築墓は自発的に現れる形式ではないので外来系の集団を想定。史書の開発の記事と対応すると、例えば王朝による徙民政策を反映すると考えられる。 ○4. まとめ ...

119. 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本サブカルチャー研究会 http://www.japan-subculture.com/top.html  上記サイトにあるように(※時間が経てば更新される可能性大)、2012年6月1月金曜日から3日日曜日まで国際学術会議 "Manga Worlds" : Subculture, Japan, Japanology「マンガ・ワールズ-サブカルチャー、日本、日本学」が開催された。その二日目までは神戸大学瀧川記念学術交流館が会場で使用言語は英語のみで、三日目は京都国際マンガミュージアムが会場で使用言語に日本語も加わり発表時の同時通訳と質疑応答時の逐次通訳も行われた。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/  その三日目の会場の各座席に予め置かれていたのが、その国際学術会議についてのアンケートと、「日本マンガ学会第12回大会」のフライヤだった。そこには下記の日本マンガ学会サイトの下記ページにあるようなプログラムが書かれてあった。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12  上記のページによると、2012年6月23日土曜日24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催されるという。参加費は、会員であれば2日間で1000円(学生会員500円)、一般であれば1日につき1000円(学生500円)で、懇親会は一律別途3000円だという。 ・明治大学 http://www.meiji.ac.jp/  ここで「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表だ。 それは  陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻]  日本における三国志マンガの翻案過程 というもの。「会場3」は13時から16時までの間に4報告あってそのうち最後は「ラウンドテーブル(90分)」であるため、この報告に30分が割り当てられているのだろう。ここでいう「三国志マンガ」の対象が、下記関連記事であげたような広く通行する横山光輝/著『三国志』だけ等、絞っているのか、あるいはデータベース消費を誘発するような『BB戦士三国伝』関連マンガ等も含めるぐらい幅広く取り入れられているのか気になるところだ。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会ノート1

120. 後漢における「儒教國家」の成立(汲古書院)
※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日)  上記の記事の時と同様、昨日、汲古書院からチラシが届いて知る。 ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ※関係ないが「学会・研究会出店予定」はそれぞれの詳細ページへのリンクが張ってあって便利。  渡邉義浩/著『後漢における「儒教國家」の成立』(8400円、ISBN978-4-7629-2865-9)が2009年3月に汲古書院から刊行されたという。そのチラシで添えられた文が「◎中国思想史研究者との共同研究に基づき「儒教の国教化」を論証する!」。