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メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』


  • 2007年7月21日(土) 17:42 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,877
研究  書店で見かけたら買おうと思っていた書籍に、蘇哲/著『魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社アジア史選書008、2007年2月1日発行)ってのがあるんだけど、よくよく調べてみると近くの図書館に置いていたので借りてくることに。
 とは言ってもタイトルから連想されるように「三国志ニュース」的なことはそれほどないんだろうな、と思っていて、それを証明するかのように七章あるうち、三国志と関係ありそうなのは「第一章 三国西晋の壁画墓」だけだった。第二章は「五胡十六国時代の壁画墓」ということで三国関係はあまり期待できないな、と思いつつ読み進める。
 「一、中原壁画墓の衰微」。魏はやはり曹操が厚葬を禁止したので、それほど面白いものが出ていないようだね。

※『三国志』魏書武帝紀
(建安)十年春正月、攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰:「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。

 その中で紹介されていたのが「壁画のない陳思王墓」という小タイトルで曹植の墓が紹介されている。発掘調査は1951年6月、二度目は1977年3月と結構、古い。タイトル通り壁画はなかったものの、私的には「棺の右側には炊事道具、左側には井戸・車・家畜・家禽類の模型と俑などの陶質明器が並んでいた」という箇所に興味あり(本には写真はなかった)。それから墓の銘文から墓を造営した人に二〓日の休みを賜った(各賜休二〓日)という制度とかも興味あり(一文字だけ消えてるとしたら二十日とか二百日とかどれだろ)。あと三国志ファンとしてはその墓に遺骨が安置されていたってところが気になるんじゃないかな。
 この章だとあと「二、河西回廊の壁画墓の繁栄」。ここでは漢民族と異民族の関わり合いが大きく取りあげられている。私が興味あったのは「河西地域の羌と胡」という小タイトルのところ。「嘉峪関市新城6号墓農耕図」、「嘉峪関市新城5号墓牧畜図」、「嘉峪関市新城3号墓穹窿図」の三枚の白黒写真が出てくる。6号墓に描かれている人物を「髪の毛が二股であり、羌族とされている」と書かれている。5号墓に描かれている人物を「鼻が高く、顎が大きくて、中央アジア人種の特徴を持っている」とし後の記述で「月氏族である可能性が高い」と書かれている。3号墓に関しては「ご飯をつくっている人物の服には鳥の尾羽がついている」と書かれている。どうも画像の絵が単純すぎてそれだけだと判りづらいが、こう説明されると理解や想像の手助けにはなる。
※ちなみにこの本、「夏侯淵」(正)が「夏候淵」(誤)となっている。
 それで他の章には三国関係はないかというと、そうではなく時たま過去の事例を引っぱり出すときに不意にでてきたりする。第二章の始めは墓での西王母と東王父の壁画に関し、後漢の事例を引っぱり出している。後は出行図に関してあれこれ。そこの挿図(図32 進賢冠の構造図)に孫機/著『漢代物質文化資料図説』で載っている進賢冠の説明図と同じものがでてくる。「図版出典一覧」の図32の出典を見ると、「図32 進賢冠の構造図(『中国古輿服論叢』文物出版社 2001年)」となっていて、この章の注で「〔15〕武冠・進賢冠・平上[巾責]の形式について、孫機「進賢冠与武弁大冠」(『中国歴史博物館館刊』総13・14期)1989年、のちに『中国古輿服論叢』文物出版社 2001所収)参照」となっているんで、おそらく同じ作者によるものなんだろうな。ここでの個人的チェックポイントは「『晋書』輿服志・『宋書』礼志の記録により、介[巾責]は文吏、平上[巾責]は武官のかぶりものだとわかる」ってあたり。時代にもよるだろうけど、介[巾責]は進賢冠の一部だし、平上[巾責]は武冠の一部だから納得できる。他のチェックポイントは「被葬者冠は武冠(籠冠ともいう)といい、西晋・東晋時代では、将軍クラスの武人がかぶっているものである」というところ。後漢の俑などをみると、音楽を引いたり踊ったりしている人が武冠かぶっていることが多いんで、ここらへんの時代変遷が新鮮。この章ではあと牛車の流行り廃れについて書いている。
 もう三国関係はないかと思いきや第六章に「魏晋南北朝の具装騎兵」というのがあって後漢~三国の文献に見られる「鎧馬」、「鉄騎」、「鉄騎都尉」(馬超の弟)などについて書かれている。文献には曹操の『軍策令』からのもある。ここらへん第一回三国志シンポジウムで石井仁先生の報告「三国時代の軍事制度」でも触れられていたことを思い出した。

・2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

※追記 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)

「長沙呉簡の世界」ノート7


  • 2007年7月16日(月) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,237
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート6からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/646

○パネルディスカッション(15:45~16:45) コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校)

 休憩が終わり16時7分、パネルディスカッションが始まるとアナウンスが出る。
 始めに韓国から特別に来ていただいた朴漢済先生からのコメントがあるとのこと。経歴の紹介があったあと、外国語でコメントがある。日本語で追って読まれるのではなく、予稿集に日本語訳があるので省略される。
『長沙呉簡研究報告』第3集にも載っている

 パネルディスカッションに移る。
※中国の先生からの回答は、中国語の回答→日本語訳といった流れ

 阿部先生への質問。1.耕作者の身分は具体的にどのように記されているか。2.身分的集計がされているのか。
 回答。1.、圧倒的に多いのは「男子」、その他「大女」。続いて「州吏」「郡吏」「軍吏」、あるいは「州卒」。その他、特定の丘里に見られる身分もあるため、今、すべての身分を掲げることはできない。2.今のところ身分ごとに有義のあることは見いだせない。一つ言えることは「州吏」に関してかかってくる税率が他の身分より低い。旱田の率が極めて低い。全体的に低い。

 宋少華先生への質問。1.長沙市の簡牘博物館について長沙呉簡を訪問者が実際に手にとって見ることができるのか。
 回答。1.呉簡自体はまだ地下の貯蔵庫にある。そのため初めて来る人は先生にお願いして地下の貯蔵庫から出して貰うという形で見ることができる。まだ取り壊し状態のところが二棟残っており、それが取り壊されると完全に開放される予定。去年の12月には400枚ほどの簡牘を見ていただいた。

 王素先生と羅新先生への質問。1.竹簡は一部しか公開されていないが、整理釈読に当たっている先生方は公開済みの竹簡と異なる性質のものをみかけたか。あればそれはどの程度か。
 王素先生からの回答。1.現在まで長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡〔壹〕』(上、中、下)(文物出版社、2003)が出ているが、今年の年末か来年の初頭には竹簡〔弐〕が出る(※現在では既刊。長沙簡牘博物館・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組(編)『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[弐]』(全3冊),文物出版社,2007年1月,7-5010-1726-3.。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。竹簡〔弐〕の中にはわずかであるが形式や内容の異なるものが含まれている。竹簡〔参〕以降になるとそういった異なるものが増えてくる。後になればなるほど内容は豊富で重要なものとなる(ここで場内笑)

 東海大の渡部武先生からの質問。1.「常限田」「火種田」について興味がある。それを漢代の史料に出てくる「火耕水耨」と結びつける流れがあるが、四川の西南地方を調査したときに水がかりの良い土地とそうでない周辺の土地がいっぱいある。そういうことを連想し、長沙にもそういった対比があったのではないか、水がかりの良いところは水平で、そうではない所は通常の方式をとらない、そういったことを調査から思い浮かべたが、そういうことを言っている研究者はほとんど居なかった。農学を研究している方面から走馬楼呉簡についての二つの種類の耕地(※「常限田」「火種田」のこと?)への所見はあるのか。
 日本側からの回答。1.結論からいうとわからない。一点言うと「常限田」「火種田」とは対比したり二種類として良いものか、というのは問題になっていることの一つだ。今のところ基本的には「常限田」と対比される概念は「餘力田」である。「餘力田」=「火種田」なのか、それとも「餘力田」と「火種田」とは別のカテゴリーなのかというのはまだ想像の範囲だ。そういう段階だから「火種田」をどういう風に理解するかは答えにくい。「餘力」とは何なのかが絡んでくる。
 中国側からの回答。1.「火種田」は二つの見方がある。一つは「火耕水耨」。もう一つは阿部先生の指摘通り山地の焼き畑農法。後者は水田ではない。両方のやり方が存在していて、長沙呉簡では収穫してからなので「米」という字を書いていて(※この直後、聞き取れず)、「火種田」は水田と思われる。
 宋少華先生からの回答。1.現在の話。水利条件の良いところでは水稲を設け、あとは野菜、トウモロコシなどをつくっている。水利条件の悪い山地的なところではアワ、豆、麻、麦などを現在はつくっている。
 伊藤先生からの回答。1.目録を作っているが、今のところ、農学者による論文を見ていない。

 質問。1.文献に見えるような豪族の変化の方向性は呉簡で見えるのか(※ここでは清岡はかなり略して書いている)。2.あるいは後漢の研究で碑陰の中に出てくる郷里の門生故吏(で見られるように)同じ姓の人たちが地方で里を占めていくというがあり、呉簡でそういうことが見えてくるのか。3.従来の後漢社会の変化というものと呉簡研究との関係はどうか
 回答。2.竹簡〔壹〕でのデータベースを検索していく中で一つの里の中で同じ姓はあまり見られない。今のところ大きな力を持った姓は見られない。

 新潟大学の書道史の鶴田先生(今回のシンポジウムの表題なりパネルなりの文字を書いた先生)からのコメント。1.三月に明治大学で研究会があって後漢の史料がかなりあるという話。議論があまり進んでいない状況。みんな盛んにアタックし始めている。鶴田先生は十一月の学会で草書について発表する予定(※現在では発表済。鶴田一雄氏「長沙市東牌楼出土簡牘にみる草書の変遷に関する一考察」。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。

 王素先生への質問。1.長沙呉簡に書かれる時期の長沙は蜀に対する呉の最前線(軍事的に厳しい状況)だったが、(「邸閣」は日本では軍事施設という理解が強い、あるいは明らかな軍事的な機関の名も見られるが、)その時期の長沙は呉の一地方とみなすのか、それとも前線とみなすのか。
 王素先生からの回答。1.まず呉簡は大きく分けて経済方面の史料が多くある。経済方面の史料として戸籍と、税を納める史料が非常に多い。但し軍事関係の史料が全くないというわけではない。こういう方面は羅新先生が知っているので(羅新先生にコメントを求める)。
 羅新先生からの回答。1.そういう史料があれば非常に面白い研究になると思うが、現在、(研究するほどには史料が整理されていない)。

 關尾先生から朴先生へのお願い。1.朴先生は韓国の呉簡研究について厳しい評価をした。大分前に關尾先生が韓国に行き韓国の若い先生と話をした。その時に日本の学会では社会経済史の研究は停滞気味だが韓国の学会では若い先生方が社会経済史に対し大きな関心を持っていると感じた。長沙呉簡は今日の報告にもあったように社会経済史に関する非常に豊かな宝庫だと思っている。そのため、是非、韓国でも若い研究者の方々を中心に長沙呉簡に関する研究が活発になるよう祈っているし、朴先生にはリーダーとしての立場としてそういった研究を盛り上げてくれるようお願いしたい。
 朴先生からのコメント。1.呉簡に関して今、韓国では盛んに研究が行われてないが、○○(※聞き逃し)史に関して若い先生方で新しい研究がされている。社会経済史に関しては若い研究者の間で一所懸命やっている。4,5年前にこちらの方に来たとき、呉簡とあまり関係ない研究をやっていて、今回、この研究会に参加し、多くのものを得て、いろんなものを考えるようになって、これから韓国に帰ったら、若い人たちと一緒に研究をやってみたいと考えてる。そのためいろんな史料をいただけるとありがたい。韓国でこのような研究会があるとすれば、今度はコメンテーターとしてではなく発表者として参加したい。もし韓国でなければ、私がやりたい(主催?)と思う。

 パネルディスカッション終了のアナウンスで終了。17時2分。

○閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学)

 伊藤先生が日本語でおっしゃった後、中国語で追随する形。今回のシンポジウムで一つ一つ誰がどんな発表したかをいう形。今回の報告内容は『長沙呉簡研究報告』第3集に収録される予定なので、刊行されれば購入してくれるようお願いがあった(場内笑)


○この後

 開場は片づけと共に先生方で集合写真を撮っていた。
 それを尻目に我々は会場を後にしファミリーレストランで一休み

※追記 ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日)
 

「長沙呉簡の世界」ノート6


  • 2007年7月14日(土) 00:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,864
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/642

※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。

※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか?
<7月20日5時半追記>
何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。
三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。
まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/264
↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような…
<7月28日13:20追記>
確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。

※追記 リンク:学生の動向

※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日)

<追記終了>


○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」

 15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。

 それで日本語の要約。
 報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。

 前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。
 呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。
 宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。
 また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。
 孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。
 羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。
 王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。
 王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。
 ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。

 後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。
 非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。
 呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。
 呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。

※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。

 15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。
 16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。

○休憩(15:25~15:45)

 この間、さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪
 あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑)


・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/648

※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)
 

三国志研究入門(2007年7月25日)


  • 2007年7月13日(金) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,589
研究 日外アソシエーツというところから2007年7月25日に渡邉義浩先生/著、三国志学会/監修『三国志研究入門』という本が刊行されるとのこと。2300円。

・日外アソシエーツ
http://www.nichigai.co.jp/
・三国志研究入門(上記サイト内紹介ページ)
http://www.nichigai.co.jp/sales/sangokushi.html

上記ページを見ると、「三国志研究」とは言っても「歴史・文学・思想それぞれに焦点をあてて」いるようで、ここらへんは監修の三国志学会の取り扱う領域を反映しているようだね。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/
・『三国志研究入門』
http://www.daito.ac.jp/sangoku/book.html
※このページによると三国志学会の学会員は特別価格2000円になるとのこと。300円安。

目次などを見るといろんな単語がピックアップしてあって興味深い。個人的には思想のあたり馴染みがないので、触りだけでも知りたいところ。日外アソシエーツのページでは「序」を見ることができ、またそのページからはPDF形式で本文見本を見ることができる。本文見本で上げられているのは「第一部 研究入門篇」の「I 三国志をより深く知るには」のところ。監修とあって三国志学会中心の書き出しで、ここらへんこの本の意図するところ(仕掛けようとするところ)のシステマチックなものが見え、面白いね。
この見本で知ったけど、『三国志研究』第二号(三国志学会第二回大会のときに発行)に去年の三国志学会第一回大会で講演のあった「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」の翻訳が載るとのこと。版本の細かい話とか判りづらかったので、ありがたい。

・三国志学会第一回大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405
・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

※追記 三国志研究要覧(2011年9月復刊)

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

あまり関係なさそうだけど、三国志ジャンルの「歴史・文学・思想」というと創文社のPR誌『創文』で「三国志の世界:思想・歴史・文学」というシリーズを連想するね。私は未読だけど。

・三国志の世界:思想・歴史・文学(『創文』)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/627

<7月25日追記>
・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・購入(07/07/25)
http://sekio516.exblog.jp/6160684

あ、そうか、復刊希望の多い『三国志研究要覧』のリニューアル本と捉えるのが自然だね。

「長沙呉簡の世界」ノート5


  • 2007年7月11日(水) 18:08 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,177
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート4からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/448

※こちらの報告もまず中国語で行われ、後で日本語の要約が日本人の訳者により話される。中国語の判らない清岡は前報告と同じく聴いている振りをし日本語要約に集中していた。報告では、長沙呉簡の出土現場の写真を見せながら行われていたが、当然ながら、日本語の要約発表にはその写真は出されていない。

○報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」

 14時35分報告開始。まず宋少華先生の略歴を司会の方から紹介がある。長沙市の簡牘博物館の館長なんだね。
 会場の照明が落とされ、OHPで写真がスクリーンに映される。予稿集を見ると「一、調査的目的」(実際は簡体字表記、以下同じ)となっていて、まず長沙における出土簡牘について書かれていて、その次が「二、長沙二十世紀五十年代~七十年代簡牘出土的情況」となっており、その中で続く小タイトルが「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」となっていたので、1950年代から1970年代の長沙の出土簡牘についての解説をしつつ、それに関係する写真を出しているのだな、と清岡は思っていた。OHPの1枚目が報告タイトルでNo.2、3が出土場所を記した地図、と予稿集にメモをとる(以下、「No.」は清岡が勝手につけたもの)。
 「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」の中にさらに細かい内訳があって、「1、五里牌406楚墓,年代属戦國中期(公元前四世紀)」、「2、徐家湾401号墓,年代属西漢晩期(公元前四世紀)」、「3、伍家嶺203号墓,年代亦属西漢晩期」とあって、それぞれに説明文が添えられている。メモを見るとこの2と3にOHPのNo.4、5が使われており、3の中に説明がある「封泥」(写真?)にNo.6が使われている。
 「(二)1953年仰天湖25号墓楚簡」ではNo.7に分布図、No.8に楚簡の写真が映し出されていて、「(三)1954年長沙楊家湾6号墓」ではNo.9、10と写真が使われ、「(四)1972-1973年,長沙馬王堆一、三号漢墓出土簡牘」ではNo.11~13と使われ、その中に木[木曷]の写真があった。

※2007年3月にこのシンポジウムの報告冊子として『長沙呉簡研究報告』第3集が刊行され、このときの予稿集の日本語訳は掲載されたが、残念ながらこのときの図や写真などの発表資料は掲載されていない。

 次の大きな括りである「三、長沙二十世紀九十年代至本世紀初簡牘的發現」に移る。まずOHPのNo.14で現場の航空写真、No.15でその拡大写真を見せ、「(五)1993年西漢長沙王后“魚陽”墓出土封検、木[木曷]」(※『長沙呉簡研究報告』第3集でのこの箇所は「(五)」ではなくナンバーがリセットされ、「1)」になっている)ではNo.16にその墓の写真が出てきて、No.17,18で封検・木[木曷]の写真が出てくる。「(六)1996年長沙走馬楼出土三国呉簡」ではNo.19に出土した場所を示した地図、No.20に竹簡の写真、No.21に発掘場所の全景が来て、「(七)1997年九如斉(科文大厦)出土東漢簡牘」の話に移る(九如斉は走馬楼から200m離れたところにあるとのこと)。No.22にJ4と名付けられた古井戸の写真が出された。それからNo.23で全景が出され、「(八)2003年長沙走馬楼8号井出土西漢簡牘」に話が移り、No.24で8号井の写真、No.25で作業する人の写真、No.26~28で清浄後の簡牘の写真が出ていた。「(九)2004年長沙東牌楼東漢簡牘」に話が移り、No.29でまず全景写真、それからNo.30で出土したJ7と名付けられた古井戸の図が映し出された。
 このように時代を追って出土した簡牘についての解説があり、予稿集ではこの後、「四、長沙出土簡牘所見的一些特点」とタイトルで、長沙出土簡牘の考察が続く。小タイトルは「1、長沙的自然地理環境」、「2、簡牘出土地点保存条件」、「3、出土的時代特征」、「4、簡牘形制特征」、「5、長沙簡牘年代序列」、「6、長沙簡牘内容的特点」、「7、長沙簡牘埋蔵特点」となる。

 報告が終わり、その日本語要約に移る。
 これらのことは宋少華先生からいろいろな資料を含め改めて文章を書かれていると聞き及んでいるとのことで、詳しくはそちらを参照とのこと。報告では長沙簡牘について1950年代から現代に至るまでの状況について詳しく説明があった。出土状況について時期について二つの段階に分けられた。一つは1950年代から1970年代まで。一つは1970年代後半(文革以降)から現代まで。後者の中の1996年の長沙走馬楼の呉簡の発見、これ以降が特に重要とのこと。1950年代から1970年代までは長沙の郊外の地の墓葬から簡牘類が発見されたことを一つ一つ丁寧な紹介があった。1970年代後半以降、現在に至るまで墓葬や井戸から出土した長沙呉簡、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡も紹介された。今回、紹介のあった中には画像には未公開のものが多数含まれていた。後半部分はなぜ長沙でこういった簡牘が発見されたという理由について長沙の自然条件、2000年来、人が住み続けていったという状況と、土地の状況についての指摘があった。まず郊外に多く見られる墓葬については深く掘ってお墓を作っている、あるいは白膏泥、木炭を沈めているいること、密封性が高かったために簡牘類が発見できたとのこと。ただその簡牘類は少数。1990年代以降について、中国の経済発展に伴って、中心地での発掘が多くあって、井戸から大量の木簡・竹簡が出土した。井戸から出土した物について漢簡などがあるが、走馬楼呉簡(長沙呉簡)に関してはある一定の規則とまでは言わないまでも、本来保存すべき名籍類・行政文書などはある定まりで棄てられていた。まとまって棄てられていたことからある管理期間を過ぎた後に廃棄した物だと言われている。それに対してほぼ同じ地区から出た物、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡の三つについては生活のゴミのようなものと一緒に出てきたため、これらは長沙呉簡と違い、生活のゴミとして廃棄されたものでなかろうかと指摘される。


・「長沙呉簡の世界」ノート6へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/646

※2011,5/18追記。アクセスログを見ると、二日前から同一ホストから「東ひ楼漢簡」という検索語句があるんだけど、もしかして、「東牌楼漢簡(とうはいろうかんかん)」を「とうひろうかんかん」と読むという恥をふりまいているのだろうか。それともそういう名の漢簡が別にあるとか。※さらに追記。その後、別のホストから「東碑楼漢簡」という検索語句があった。なるほどね。「片」を「石」と誤ったんだ。※さらに2011,5/22追記。複数のホスト(うち地域が判るのは東京、立川や浦和)から「東牌楼漢簡」という検索語句が多くなってきたが、この現象、どこかで見覚えある。中央大学あたりでレポートが出ていたりして(笑)

メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」


  • 2007年7月 8日(日) 15:09 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究  このまま日にちが経つと、私にとって「興味深かった」という印象が残るだけなので、自分向けにメモを残しておこう。何かというと、2007年5月26日に東方書店で買った『西北出土文献研究』第5号。それに収録されている小林 聡先生/著「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」という論文について。

・メモ:二つの学術刊行物
http://cte.main.jp/newsch/article.php/561
・神保町
http://cte.main.jp/newsch/article.php/608

 といっても私は専門にはほど遠い立場のまったくの素人で、しかも単に「進賢冠の梁の数はどう数えるの?」という素朴な疑問を知りたいだけなので、まったく論文の主旨とは外れたメモになると思う。

 とその前に、このブログは「三国志ニュース」と銘打たれているので、一応、三国志との関わり合いを説明。漫画なり映像作品なり三国志に関係する創作物のそのほとんどはどうも三国時代より後代の『三国演義』の挿し絵などを参考にしているようで、三国時代前後の画像史料に馴染んだ人にとってはおそらく違和感が残るものとなっている。違和感が出るものに服飾(服装)、鎧や座具なんてのがあるが、そのうちの一つに人物がかぶる冠があって、創作するに当たり何を参考にしているか顕著に現れる箇所であろう。

※参考リンク
・三国時代の建物など(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=2443
・三国志学会第一回大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401
・メモ:三才圖會と三禮圖
http://cte.main.jp/newsch/article.php/480

※追記 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容―出土文物中の服飾資料を題材として―」(2008年度 東洋史研究会大会)

 別に「正史三国志ベースのマンガです」とセールスポイントを喧伝しつつ、冠が『三国演義』の挿し絵ベースであっても、作品の本質には関係ないんで良いような気がするが、ごく個人的な話だと表紙でそういった冠を見掛けると手にとって見ようとも思わなくなってしまったことが多々あった。あとマンガに限らず、ビジネス書や解説書の類で、「三国志正史が書かれている」とあっても表紙で当時の冠じゃないイラストなんかが描かれている上、人物がしていたら内容と無関係に購買意欲が完全になくなるかな……もちろんごく個人的な話ね。
※その前に「正史三国志」という用語を使っている時点で買わないか…こちらもごく個人的な話。

 それで、話を戻し当時の冠はどんなものがあるかというと、折角なんで論文から引用すると、

小林 聡2007「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」(『西北出土文献研究』第5号,90頁)
--引用開始---------------------------------------------------------
冠の場合,皇太子・諸王のための遠遊冠,主として文官のための進賢冠,主として武官のための武冠,監察官のための法冠,謁者のための高山冠などがあるが,官人の着用者数で言えば,進賢冠と武冠が圧倒的多数を占めたであろう.
--引用終了---------------------------------------------------------

とのこと。これを漫画など三国創作の話に強引に話題を持っていくと、最低限、進賢冠と武冠が描かれていればリアリティが増すのかなぁ、と個人的に思い続けているところ。作品の本質とはあまり関係ないことを書いていて恥ずかしくなってくるんだけど、恥かきついでに書くと、『八卦の空』では進賢冠がたくさん描かれていて、『江南行』では武冠がたくさん描かれている。
 それでそれらは実際、どんな冠かって話だけど、まず今回、触れない武冠については下記の記事参照。リンク先の絵はスケッチのスケッチなのであみあみ部分がかなり荒くなってしまっているが。

・メモ:武冠のあみあみ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/502

 その次が本題の進賢冠。冠の形としては下記のリンク先のイラストみたいなものなんだけど、「梁」については今回、触れる話なのでそこは保留して読んでいただけると幸い。

・一梁?メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/365

 話を戻し、今回のメモの主題となるのは「梁」の数え方。「梁」とは進賢冠の上部に縦に立っている線の部分。何の予備知識もなく、三つの線が縦に立っているのを見れば、素直に「三梁」(三つの梁)とカウントしてしまうんだけど、論文によると周錫保『中国古代服飾史』(中国戯劇出版社,1984)では


小林 聡2007「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」(『西北出土文献研究』第5号,93頁)
--引用開始---------------------------------------------------------
周氏は後漢時代の画像石や壁画に見られる進賢冠を多数挙げた上で,三梁冠を着用する官吏が広範に存在するのは文献史料と符合しないとし,両側の2本は「梁」でないと考え,これらは一梁冠であろうとしている(22).
--引用終了---------------------------------------------------------
(22) 周錫保『中国古代服飾史』(中国戯劇出版社,1984)

としている。
※以後、「本」と「梁」では意味(単位)が違うとする。

 これを裏付けることとして論文中では、後漢後期に属する河北望都所薬村1号壁画墓の前室西壁壁画を挿図(出典:河北省文物研究所編『河北古代墓葬壁画』(文物出版社,2000))と共に取りあげている。その壁画には「門下功曹」(挿図では「門」が削れている)という文字と共に三本の進賢冠を着けている人物が描かれてる。実際、文献と照らし合わせると、「門下功曹」は三梁ではないという理由から、「三本」≠「三梁」であり「三本」=「一梁」ということだ。その他の同様の例として遼陽三道壕張君墓の右耳室壁画の墓主像を挿図(□□支令という文字があり、つまり図中の三本の進賢冠をかぶった人は県令の身分)と共に取りあげている。
 この説に準じてか、作品として中国中央電視台製作/制作『三国演義』(TVドラマ)、前述の『江南行』(漫画)、『八卦の空』(漫画)では四本の進賢冠を見ることが出来る。

 ただ個人的には現時点でこの説に強い違和感を感じる。というのも五本や四本の進賢冠を出土史料関連で見たことがないし、それに対し、二本の進賢冠はいろんな文献に見られる出土史料のスケッチや拓本の写真(京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料。ごくわずかながら)で見られるからだ。
 尤も今後、出土史料で五本と四本の進賢冠を見た上で、二本の進賢冠と思っていたものが、単なる写した際の情報損失だったというオチになる可能性はありうる。
 それに現時点では上記の「門下功曹」の例の説明はできないしね(「妄想」では文字では嘘をつけないが、絵では嘘をつけるとし、墓をつくった人が見栄で三本にしたのかな、とかあるけど・笑)

 話を論文に戻し、この流れで、一本の進賢冠の例が挿図付きで取りあげている。それが西溝7号墓の「騎導」画像磚(出典:馬建華編『甘粛酒泉西溝魏晋墓―中国古代壁画精華叢書―』(重慶出版社,2000))。つまり一梁進賢冠はこの一本の進賢冠ではないか、ということ。ただ画像が荒すぎてよくわからないのが残念。
 この挿図では進賢冠をかぶった人が騎乗しても、西晋の礼制に反しないという例として、長沙市金盆嶺9号晋墓の青磁騎馬俑が挿図(出典:富田哲雄編著『中国の陶磁 陶俑』第2巻(平凡社,1998))と共に取りあげられている。これも画像が荒いんだけど、個人的に図録(多分)からのカラーのスキャン画像を持っているんで、それを見ることが出来る。
※ちなみにこの騎馬俑は鞍に鐙がある最古の例(その墓から「永寧二年五月十日作」との紀年銘磚が出土したとのこと。永寧二年は西暦302年)として有名だったもの。
 この進賢冠の梁の部分を見ると、線や管ではなく面、つまり板のように表現されている。その面を写真でみると線あるいは管を表現しようとしているような凹凸が見られない。そこで私はこういった板状の梁を持つ冠が一梁進賢冠ではないか、と思って居るんだけどね。


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

※追記 メモ:漢中興士人皆冠葛巾

※追記 メモ:三国創作のための扶助会


※次記事 メモ:「党錮の「名士」再考」

※追記 メモ:「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系」

※追記 画像資料に見る魏晋時代の武器―河西地域を中心として―(2012年3月)

※追記 リンク:模範解答でいいのか(ニュースな史点2012/4/30の記事)

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

※追記 議事録:三国創作における視覚的研究材についての情報交換会(仮題)(2012年7月5日)

三国志学会第二回大会のプログラム発表


  • 2007年7月 1日(日) 09:27 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 下記、「三国志学会」のサイトで2007年7月29日に行われる三国志学会第二回大会のプログラムが発表されましたので、以下に引用し告知しておきます。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第二回大会

日時:2007年7月29日(日)午前10時~午後5時
会場:大東文化大学 板橋校舎 30114教室
   (東武東上線、東武練馬駅下車、スクールバスが運行されています。)
参加費:500円(入会された方は無料です)
三国志学会年会費:2000円

プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分~午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

お昼休み

講演(午後2時~午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時~)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

第一回と大きな分野わけが似ているというか講演枠みたいなのが確立されているようで面白いですね。

※関連記事
・2007年7月29日三国志学会第二回大会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/474

・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

・第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(1975年)


  • 2007年5月 3日(木) 09:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 京都市勧業館(みやこめっせ)の入り口 毎年、この大型連休の時期に京都古書研究会主催で京都市勧業館(みやこめっせ、写真)でやっているのが「春の古書大即売会」。今年で第25回で、5月1日から5日までやっている。

・京都古書研究会
http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/

 どんな催しかというと、広いホールに本棚がずらりとならんでいて、それぞれのスペースに京都を初め大阪や奈良の古書店が出店していて、いろんな古書を物色できる会。出店されている古書店は44店(さっきチラシから一回だけ数えたけど、数え間違え失礼) 会計は会場奥の壁際のカウンターで一律だし、買い物かごも用意されているので、ついつい買いすぎちゃう。
 昨年は三顧会と日程が重なったこともあってか、行けず仕舞いだったが、今年は都合が着いたので、行くことに。
 といっても15時半ぐらいに会場へ到着。荷物を預け、あれこれ古書を見て回る。値段は高いが『冊府元亀』や『康煕字典』がドカーンとセットで置いていたり、『三才図会』がさりげなく置いていたのはさすがだなぁって思った。ちなみに『中国社会風俗史』は1200円で売っていた。
 今回、そのまま旅行に行く予定だったので、良い本があっても心の中で難癖つけて、荷物にならないように勉めた。そのため漢代の出土物の展覧会の図録をあきらめる(難癖:半分ぐらいが興味ない唐代のものだから)。
 そんなことを思いながら、うろちょろしていたら、いつの間にやら時刻は16時20分。荷物預かりは16時半までだったので、慌てて、もったいないとばかりに気になっていた本を取りに行き、カウンターへ急ぐ。
 それは樋口隆康/著『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(<新潮選書>新潮社、1975年)。500円なり。

 暇を持て余す旅行の移動中とは言え、すでに旅のお供に『中国社会風俗史』と『画像が語る中国の古代』を携帯していたので、『古代中国を発掘する』を読み始めるのは半年後ぐらいになるだろう、と思っていた。ところがその二冊は既読ともあって、いつの間にやら手を伸ばしページを開いている。
 冒頭の「まえがき」を見ると「私の同学の京都大学人文科学研究所の林巳奈夫君」と林巳奈夫先生の名前が不意に出てきていて思わず食いついてしまう。その後、本編でも何度か林巳奈夫先生のお名前が出てくる。
 続く「序 ─世紀の大発見─」では原田淑人「盗掘」(『東亜古文化説』昭和四十八年刊)や楊伯峻の論文からピックアップした盗掘の話が印象に残った。そこには三国時代の盗掘や発掘された劉表の墓の話(『水経注』ベン水注と、『三国志』劉表伝)が載っていた。
 その後は馬王堆の漢墓について書かれてある。一つの墓についてだから狭く深くしか書かれていないように思ったが、墓自体について出土品について時代背景についてなど多岐にわたりどれも文献からの引用を交え事細かに書かれており、挿図も豊富なので、興味を失うことなく読み進めることができる。例えば帛画に描かれている絵画の説明は林 巳奈夫/編『漢代の文物』を彷彿とさせると、馬王堆漢墓の婦人の遺体の調査のところは冨谷至/著『古代中国の刑罰』を彷彿とさせる。

※馬王堆漢墓についての関連リンク
・2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

 三国時代より前の時代のことながら、三国志に書かれた当時の社会風俗の一部が浮き彫りになるようで面白い(いや、このサイトが「三国志ニュース」なもんでとってつけたような文を入れてみる・笑)。
 以下、『古代中国を発掘する』の目次を引用。

まえがき

序 世紀の大発見

第一部 馬王堆の漢墓

1 長沙の国
2 馬王堆一号墓の発掘
3 槨と棺
4 逸品ぞろいの副葬品
5 なぜ保存がよかったか
6 被葬者は誰か
7 長沙と楚の文化
8 馬王堆二号、三号墓の発掘

第二部 満城の漢墓

1 隠されていた墓
2 崖墓のしくみ
3 復原された金縷玉衣
4 副葬品のかずかす
5 劉勝と竇綰

結び 前漢時代の墓制

1 雄壮な帝王陵
2 堅穴墓から洞穴墓へ



以上、旅行中の山口県の岩国駅近くのファーストフードより。

メモ:二つの学術刊行物


  • 2007年4月13日(金) 12:08 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究

 私のような素人が、学術関連、特に史学関連の情報を知るのにとても重宝しているのは下記の關尾先生のブログ。ブラウザについているRSSニュースフィードで更新をチェックしている。
 ※ブログのタイトルには当たり前だけど敬称がなく、ここで取り上げるときにはいつも付けているが、今回は紛らわしいので敬称略。

・『關尾史郎のブログ』
http://sekio516.exblog.jp/

 実は上記ブログ以外にも關尾先生には個人的な趣味のブログがあって、それが下記。タイトルの初めの文字が違うんだね。

・『関尾史郎のブログ』
http://sekio402.exblog.jp/

 『關尾史郎のブログ』の方で気になる刊行物を見かける(と今更のメモだけど)。

・『西北出土文献研究』第5号,入稿間近!
http://sekio516.exblog.jp/5341600

 この号は「画像磚墓・壁画墓の特集号」ということでそれ自体、とても興味深いんだけど、その中でもとりわけ個人的には

>小林 聡「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」

がとても気になる。進賢冠ファンの私としては興味深いし、中国古代服飾ファンの諸兄(?)も読んでおきたいところだろうね。幸運には「書店を通じて販売の予定」があるとのことなので、資金に余裕があれば購入したいところ。でも、下記のように第4号が出たばかりだからまだ先なのかな?

・『西北出土文献研究』第4号、刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5404246

<4月17日追記>
今更気付いたけど、ここを書いた夜に刊行の記事がアップされている。

・『西北出土文献研究』第5号,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5502972

1500円。ころあいを見て書店(東方書店とか?)へ問い合わせだな。
<追記終了>

 刊行された『長沙呉簡研究報告』第3集を例に取ると、タイトルにある「入稿」の次に「刊行」ってのが来るんだろうね。

・『長沙呉簡研究報告』第3集,入稿!
http://sekio516.exblog.jp/5286728
・『長沙呉簡研究報告』第3集,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5357377

 『長沙呉簡研究報告』第3集は第1集、第2集がそれぞれ国際シンポジウム後の論文集であったのと同じように、2006年9月17日の長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の論文集で、買っておきたいところ(また、あの地に足のついた三国時代に浸りたいね)。送料の関係から、前述した『西北出土文献研究』第5号とまとめ買いしたいところだ。

<追記>
・ご挨拶
http://sekio516.exblog.jp/5433102

 上記のリンク先のように、実はブログを出版する話があったそうで、出版されるようであれば私は買いそう。学術史的にも後世、貴重な資料になるのでは、と。


※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
 

中国社会風俗史


  • 2007年3月30日(金) 20:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究  前々から話に聞いていて、サポ板でも何回か出ている『中国社会風俗史』が欲しくなり、お馴染みサイト「日本の古本屋」で検索すると、あじろ書林中川店という古書店に置いてあることがわかり2006年12月9日に買いに行く。

・日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/

・あじろ書林中川店
http://ikaino.com/

※追記 第34回 秋の古本まつり(京都古書研究会)

※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日)

※追記 第36回 秋の古本まつり(京都古書研究会2012年10月31日-11月4日)

 その古書店は大阪駅前第3ビルの地下にあり、そこを目指し、大阪駅近くの地下をひたすら歩く。平日はよくわからないんだけど休日の大阪駅前第1~第4ビルの地上部分は店がほとんど開いていないのに対し、地下は奇妙ににぎわっていて、来るたびに変なカルチャーショックをうける。私にとってはすごく独特な雰囲気に思える。第3ビルの地下一階で目的の店が見つからず、その場でノートパソコンを開いて確認。ちゃんと電波がとどくようで、目的地はどうやら地下二階にあることがわかる。
 それでお店の人に聴くまでもなく、東洋文庫用の棚があったんで、『中国社会風俗史』が二冊ならんでいた。それぞれ1500円強。定価を見ると、それぞれ550円と600円。
 あれ、プレミアついているのかな、と思い、一旦、店の外の廊下に出て平凡社のサイトで定価を調べる。

・平凡社
http://www.heibonsha.co.jp/
・東洋文庫
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=series.toyo/

 そうすると「定価:2835円」を見かけたし、品切れとのことなので、安心し古書で購入する。

東洋文庫 151
『中国社会風俗史』
尚秉和/著・秋田成明/訳

 その日からだらだらと読んでいたんだけど、さっきようやく一通り目を通す。内容はいろんな中国古代の社会風俗に関すること(下記目次参照)を項目ごとにそれぞれエピソードを文献から引用しつつ紹介していき、当時の様子を浮き彫りにしている。紹介されたエピソードはそれぞれ番号が振られていてどこからの引用かがちゃんと明記されているので、ちゃんと確認できて良い。深く知ろうと思えば、それを手がかりにどんどん手繰れるのだ。
 『三国志』に載っているエピソードや三国時代のエピソード、例えば『世説新語』に載っているものなど、意外と多く載っているし、載っていなくとも三国時代あたりの社会風俗を知ろうと思えば、漢代や晋代のことを読めば推測の助けになる。ただ挿図の少ない本で、あってもとくに畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている様子がないので注意が必要となる。
 それほど一通り眺めた感じで深くは読んでいないが、おそらく必要に応じて、後からたぐることになると思う。例えばネット上で「曹丕はおはじきが好き」とか見かけると、「ソースは何?」と気になると、『中国社会風俗史』の「第三十四章 各種の遊戯」の「(二)弾棊」を見ると、魏の文帝が弾棊に優れていたという旨の文章をみかけ、さらに引用元(『世説新語』巧藝)を辿ることができ、近いことを知ることができる。

彈棋始自魏宮内、用妝奩戲。文帝於此戲特妙、用手巾角拂之、無不中。有客自云能、帝使為之。客箸葛巾角、低頭拂棋、妙踰於帝。

 ちなみに巻末にある解説(秋田成明/著)によると、この『中国社会風俗史』は民国27年(西暦1938年)4月に発行された尚秉和/著『歴代社会風俗事物考』四十四巻のうち三十六巻を訳したものとのこと。残り八巻が気になるところだね。


○目次

第一章 冠髪
  一 冠
  二 美髪・化粧
第二章 衣服
  一 周代
  二 漢代
  三 魏晉、六朝以後
  四 佩帯品
  五 女性の服装
第三章 履物
第四章 飲食
  一 昔の料理法
  二 食事礼法
  三 食器および食料品
  四 酒
第五章 住居
第六章 坐席
第七章 廁
第八章 昔の家庭生活
第九章 燈火
第十章 火・水・木の利用
第十一章 周代の車馬
第十二章 漢代以後の車馬
第十三章 城郭
第十四章 都市の道路
第十五章 商業
第十六章 祭祀
第十七章 祝日
第十八章 迷信・禁忌
第十九章 医療・追儺
第二十章 学校
第二十一章 文具
第二十二章 結婚
第二十三章 喪礼
第二十四章 葬儀
第二十五章 墳墓
第二十六章 敬礼
第二十七章 訴訟と刑罰
第二十八章 官吏の生活
第二十九章 平民の任官制度
第三十章 賦役と戸籍
  一 租税
  二 夫役
  三 戸籍
第三十一章 奴婢の売買
第三十二章 旅行
第三十三章 軍事
第三十四章 各種の遊戯
第三十五章 社会雑事
第三十六章 芸妓