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第2回三国志学会大会昼休み


  • 2007年9月10日(月) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,401
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684


 ここで事務局長(渡邉先生)からアナウンス。いろいろ持って帰ることができる研究紀要、学内誌やパンフレットの話を終えた後、

「このようなものを用意いたしましたので(とピーターラビットの絵の入った手提げカバンを掲げられる)、宜しければお持ち帰り頂いてということでございまして、中を開けると何となく大学の案内が入ってると思いますが、『諸葛亮の罠』だとして、親戚の方々にでも配っていただくという仕組みになっております」

と『諸葛亮の罠』で場内爆笑。
 その後、構内の学食を含む近くの昼食の取れるところの案内と書店の案内をされていた。

 去年の会場は大東文化会館だったので、近くのスーパーマーケット内にあった「ジンギスカン フランス人」(旧名)に行ったんだけど、今年は大東文化大学板橋校舎ということで昨日行ったジョナサンに行くのも能がないと思い、「手作りうどん 味の民芸」に行くことに(というか清岡が主張・笑)。道中はやはり先ほどの発表について。

<参照>三国志学会第一回大会お昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

 民芸についたら、総勢8名居た。こりゃまた分かれて座るかな、と思ったら、実は同じところに座れるということで、しばし待つ。待っている間は『三国志研究』第2号は雑纂として一般の人の文章が載っており、実際、門戸を開いているんだなぁ、という話をげんりゅうさんとしていた。


USHISUKEさん おりふさん げんりゅうさん 三口宗さん

 テ ー ブ ル テ ー ブ ル テ ー ブ ル 

  清岡   しずかさん 玄鳳さんの後輩 玄鳳さん

※玄鳳さんの後輩さんはげんりゅうさんの後輩でもあるとのこと


 こんな感じの席順。お座敷。清岡は天ざるそばを注文。
 この八名はきっと知らない者同士も居るだろうってことで、清岡がお節介にも自己紹介タイムを提案。玄鳳さんから時計回りにスタートし、名前とか所属とか軽く自己紹介。結構、mixiではマイミク同士とかって話が出ていてそこらへん時代性を感じていた。
 というわけで後は席の近いところでローカルトーク。清岡の近くでは京都への旅行話をしていた。市バスの一日券で名所を回るのが良いのかなとか。
 そういう話をしていたら、向こう側の四人から何か話が飛んでくる。三口宗さんが晋書の訳が欲しいって話。

清岡「自分で訳してください、としか言いようがないですね(笑)」

という鬼発言で少し場をわかせる。んまぁ、一応、清岡からは、訳だとデータ化されてないんで、逆にネットでデータとしてある漢文(原文)の方が検索しやすい、という話でお茶を濁したが。げんりゅうさんも漢文読んだら派だったような。
 こっち側では再び京都話に戻り、大凶コレクターの話になっていた。そうこうしている間に料理が一辺に来て妙に感動する。
 食べながら、今日の会場移動は何故だろう、って話をしていた。移動前の会場のキャパシティが150名ぐらいだから、もし三国志学会会員の大半が来場したらさすがに入りきらないだろうって話。

 食べていると周りがざわつき、そのうち稲光と雷の音が。驚いて外を見ると集中豪雨。まさにバケツをひっくりかえしたような雨だ。みんな傘の心配をしていた。
 おりふさんが誰かシャッターを焚いていると思ったと言うと、すかさず清岡が「シャッターを気にするなんて有名人みたいですね」と茶々を入れる。
 そういや第一回三国志シンポジウム後はこういった集中豪雨でしたね、と思い出話を口にする。

・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html

 一人一人レジでの清算を終え、どうやってこの雷雨かつ豪雨の中、会場まで戻るか、眼前の問題に直面する。

 清岡は折り畳み傘を持っていて次の発表の時間が差し迫っていたので、意を決し外に飛び出す。
 途中で落雷が恐くて脇道に逸れ、まずどこか建物に入ろうとしたが見つからず結局、遠回りになってより多く濡れるだけというアホな結果になった(汗)


<次回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687

第2回三国志学会大会ノート3


  • 2007年9月 9日(日) 00:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,182
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683


○「建安文学における香りについて──迷迭の賦をめぐって」狩野 雄(相模女子大学准教授)

 12時17分スタート。

●一 はじめに──曹操の薫香嫌いと時代背景
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ
  また、レジュメでは[資料]として様々な文献からの引用が載せられている。

 建安文学の創造者とされる曹操だが、曹操は薫香を嫌い続けた人物。[資料一─1](太平御覧巻九百八十一 香部一 香に引かれる魏武令)に明確に「吾不好焼香」と書かれていて、焼香を許したのは実用面のみであった。曹操の薫香に対する姿勢は[資料一─2](三国志巻一 魏書一 武帝紀の注に引く魏書)で「雅性節儉、不好華麗」とみえるように華美を好まないためかもしれない。こうしたことを反映してか現存する曹操の詩歌作品中に薫香表現を見出すことは難しく、[資料一─3](宋書 楽志三 曹操「陌上桑」)で「柱杖桂枝佩秋蘭」と見えるだけ。曹操は詩人としても一個人としても薫香に関しては遠い存在といわざるを得ない。
 曹操のこうした姿勢は建安の時代において薫香がすべてに渡って疎んじられたという意味ではない。むしろ禁止しなければならないほど薫香が人々の好みに適っていたと雄弁に物語っていた。例えば曹操の息子、曹丕に関して[資料一─4](三国志 魏書 巻二十九 方技伝 朱建平)で「帝將乘馬、馬惡衣香、驚囓文帝膝」とあり馬が香りを嫌って衣に噛みつく程。
 こうした関心の強さはその当時まで蓄積された薫香の状況と些か関わりがある。[資料一─5]に示した陳連慶「漢晋之際輸入中国的香料」(『史学集刊』1986年第二期)では武帝紀に中国にもたらされた品々を細かに挙げながらかつ[資料一─5─(1)](漢書巻九十六下 西域伝)の「殊方異物、四面而至。」と述べながら、そこに香料が含まれないことと、香料の名が見える文献の清書が南北朝期であることを指摘した上で、当時、漢代、すでに陶製の薫炉が行われたことが出土文物からは認められるものの、香料の輸入が本格的に行われていたことを示すものでは必ずしもないと論じられている。信用できる文献として[資料一─5─(2)](芸文類聚巻八十五 布帛部 素、太平御覧巻九百八十二 香部二 蘇合)の班固が班超に宛てた手紙がある。後漢の章帝期で大月氏の蘇合香が中国に入ってきたことが確認できる。月氏の視線の先には大秦国(※清岡注、ローマ帝国のこと)が意識されていたかもしれない。[資料一─5─(3)](後漢書巻八十八 西域伝 大秦)では大秦国の様子に触れられているが蘇合香にも触れられている。「凡外國諸珍異皆出焉」の記述は[資料一─5─(1)]の記述にも通じる。「珍異」なるものとして香料が挙げられている。香料の名が魏略西戎伝に記される。[資料一─5─(4)](三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝の注に引く)のところ。「一微木・二蘇合・狄提・迷迷」。「迷迷」は「迷迭(めいてつ)」の誤りだと思われる。こういった香料は使節にももたらされたが商人にももたらされた。いつの頃かはわからないが[資料一─5─(5)](楽府詩集巻七十七 雑曲歌辞十七 楽府 古辞)に「五木香」や「迷迭」など香料やその原料となる植物が挙げられる。陳連慶氏は中国に香料がもたらされる時期を三つに分ける。前漢武帝期からを薫醸段階、後漢期を○○段階、魏晋期を○○段階、つまり建安時代は外国の香料が大量に中国へもたらされる段階に当たっている。こういったことを背景にしながら、建安文学の香りについて見ていく必要がある。香料の名前としてあるいは香料の原料として「迷迭」というものあった。[資料一─5─(6)](法苑珠林巻四十九)では「迷迭香 魏略曰、大秦出迷迭。廣志曰、迷迭出西海中。」となっている。「迷迭」は元々、植物の名称で建安の舞台にあって詩人たちによって愛でられた。

●二 迷迭の賦をめぐって──異国の植物はどう香るのか

 『芸文類聚』巻八十一は薬香草部上にあたっていて迷迭が一項目として立てられ、五名の辞賦作品がある。また[資料二─0](太平御覧巻九百八十二 香部二 迷送(迭))、曹丕の賦と思わしきものが収められている(「魏文帝迷送(迭)賦曰~」)。この制作年代は不明だが、先行研究の中では仮にとされながら「建安二十一年」としている。曹丕は迷迭の種を中庭に植えその様子と香りについて迷迭の賦を作っている。おそらく他の四名の作というのもこの時に盛んに行われたと言われている即興的競作的作品、つまり同時に作られたと思われる。
 今、詩人の個性と共に香りに対する感覚の世代間の差異が認められるか否かについて考えるために、試みに世代順に見ていく。まず曹操と同年代の陳琳(156-217)について[資料二─1](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 陳琳「迷迭賦」、韻補巻二 下平声・十陽・鍾「終」字 陳琳「迷迭香賦」、韻補巻五 入声・五質・歇「歇」字 陳琳「迷迭香賦」の三つ)で見る。芸文類聚に作品の全て掲載されていないことは韻補に収録されていることから知られている。残されている部分からいくつかの特徴がいえる。香りについて芸文類聚の引用の最後の部分「動容飾而微發、穆斐斐以承顔。」の表現を踏まえつつ、感じる顔の気配を詠じている。「斐斐」という表現が嗅覚と共に視覚をも意味する面白さを含みつつも余り迷迭の香りを中心に据えてはいないように感じられる。韻補の引用についても香りは久しく留まらないことを詠じられていたり、同様の傾向が伺える。
 こういう傾向は次の王粲(177-217)にも伺える。[資料二─2](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 王粲「迷迭賦」)。王粲の「迷迭賦」の芳香表現は「揚豐馨於西裔兮」に見られこれが「去原野之側陋兮、植高宇之外庭」の前、すなわち中国にもたらされ目の前に植えられる前の段階の香りを詠んでいる。眼前にある迷迭を詠じた部分ではもっぱらその姿の美しさが視覚的に捉えられており、迷迭の香りを中心に据えているようには思えない。 陳琳「迷迭賦」では迷迭は「來儀」するものと詠じられていたが、「來儀」とは[資料二─2─(1)](尚書 虞書 益稷)に見える「鳳皇來儀」という風に本来、鳳凰の鳳来を意味するものだった。[資料二─2─(2)](芸文類聚 巻九十二 鳥部下 雀)では大雀を詠じたものであり、霊物はしばしば鳥の姿で描かれる。おそらくはそうであるからこそ王粲の「迷迭賦」の最後で「以孔翠之揚精」とあり「孔翠」、辞書によってはクジャクだったり孔鳥と翠鳥の二種類の鳥だったりするが、いずれも美しい鳥である。こうした視点から異国の植物である迷迭を描いたとするならば、そこには可視的に到来することが期待されるのかもしれない。こうした陳琳や王粲の営みというのはそれが作られた場にはっきり影響を受けている。これらは曹丕を主人とする主客的空間であることを示すことで理解できる。
 目の前で迷迭が香りを放っている表現は無いかというと、應[王昜](?-217)の迷迭賦がそのような視点からの描写が見える。[資料二─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 應[王昜]「迷迭賦」)。應[王昜]は「舒芳香之酷烈、乘清風以徘徊」と詠じている。「舒芳香之酷烈」という表現は[資料二─3─(1)](楚辞 王褒 九懐「蓄英」、漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」、文選巻十六 司馬相如「長門賦」の三つ)に挙げている前漢の作家に見られる表現を踏まえたもの。
 続いて曹丕(187-226)の迷迭賦に見られる香りの表現は應[王昜]の香りの表現にとても良く似ている。[資料二─4](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹丕「迷迭賦」)。曹丕の迷迭賦に見られる香りの表現は「隨迴風以搖動兮、吐芳氣之穆清」、この部分に現れている。風に順い迷迭が揺れ、その際に清々しい香りを吐き出す、と表現されているので、應[王昜]の表現と大きく変わるものではない。ただ一点、「芳草之樹」が詠み込まれていることだけが差異と言える。この表現の差異はそれほど小さいものではないと考えている。「芳草之樹」が詠み込まれていることがどういうことかというと、漢代の辞賦作品を例に挙げると、[資料二─4─(1)](漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」)で「吐芳揚烈」とあってそれを顔師古は「烈、酷烈之氣成」と注をし、「郁郁菲菲、衆香發越」については郭璞は「香氣射散也」と注を付けている。何れも芳香の氣だと注釈にある。あくまでも注釈の段階で「氣」と表現されている。時代が下ると表現が一般化される。司馬相如の段階では表現の目が現れてない。
 「氣」の字が香りとして用いられるのはどれが一番古いのか。曹丕「迷迭賦」に先駆けては一つしか見いだせない。[資料二─4─(2)](芸文類聚巻八十七 菓部下 [艸/劦]支 王逸「[艸/劦]支賦」)での「口含甘液、心受芳氣。」。味覚と嗅覚で感じられる「芳氣」。「氣」を香りとして表現した曹丕の例がもう一例、曹植には二例ある。[資料二─4─(3)](楽府詩集巻三十六 瑟調曲一 曹丕「善哉行」)での「清氣含芳」、(玉台新詠巻二 曹植「美女編」)の「長嘯氣若蘭」、(文選巻十九 曹植「洛神賦」)の「氣若幽蘭」。同時代の用例はこの二人にだけ見られるということから、曹丕兄弟は芳香の氣を意識的に用いられると考えられる。現存する辞賦作品から見るならば、王逸によって試みられた芳香の氣の表現を曹丕曹植が受託的積極的に採用したといえるかもしれない。
 「氣」の字を織り込むことによって曹丕曹植兄弟は何を表現しようとした、あるいは結果的に何が表現されたのか。[資料二─4─(4)](説文解字一篇上、説文解字十一篇下)では「气、雲气也。」とされ、さらに「雲、山川气也。」とされる。こうしたものも合わせて考えると氣とは自然界に存在する雲気、水蒸気の立ち上る様子を表していた。可視的ではないことはないが可視的でもある。言い換えると名詞的でもあり形容詞的でもある。身体でも感じるものである。香りは充分に視覚では捉えられないものだが、決して実態のないものではない。王逸はまずそれを「芳氣」と表現し、曹丕曹植はその表現を継承する形で、いわば再発見してみせたといえる。芳香が「氣」の字と結びつくことにより、視覚だけではなく嗅覚や皮膚感覚でも捉えられるものとして強く意識されるようになったのではないか。曹丕兄弟は「芳氣」の詩語としての魅力に気が付いたことになる。視覚的に偏って表現されてきた香りは曹丕兄弟の手によって香りそのものに対する認識によって表現された。
 迷迭について曹植(192-232)のもう一つの辞賦作品がある。[資料二─5](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹植「迷迭香賦」)。残念ながら「氣」の字が見られない。ただそれでも「氣」の字を詠み込むことをどこかで通じるような感覚が詠み込まれている。最後の句に「順微風而舒光」とある。微風に順うの香りであるはずなのに曹植は光と表現している。実際、「舒光」という表現は漢代を通して視覚的になされているし、曹植自身も視覚として表現している。[資料二─5─(1)](楚辞 王褒 九懐「陶壅」、続漢書天文志上 注引 張衡「霊憲」、芸文類聚巻五十九 武部 戦伐 應[王昜]「撰征賦」、芸文類聚巻三十四 人部十八 哀傷 曹植「慰子賦」)。おそらくは[資料二─5─(2)](傅亜庶訳注『三曹詩文全集訳注』(1997年、吉林文史出版社)760頁)にみえる「舒光…謂迷迭香発出淡淡的幽香」という解釈だろう。つまり曹植は「舒光」という表現を香りの表現と寄り合わせるように詠じている。こうした表現がそれ以前になかったというわけではない。例えば「斐斐」という表現など。嗅覚と視覚にまたがった言葉の感覚がそれ以前にもあったことを示す。眼前の香りをどう捉えどう表現するかに曹植が研究したもの、そういったものを作り上げたい。曹丕兄弟の作品に見られる芳香の表現には香りそのものの性質として彼らが捉えたものとして、嗅覚に視覚や触覚が意識されて詠み込まれていることになる。

●三 おわりに──曹操の遺言とその後の香気

 [資料三─1](楽府詩集巻三十一 相和歌辞 平調曲 銅雀台題解)の「[業β]都故事」に曹操の遺言がある。「餘香可分諸夫人、不命祭」(余った香は夫人たちに分けてもよいが、(自分を)祭るのに用いさせない)とある。ある意味、徹底した曹操の態度。しかしこういった態度は息子の曹丕に受け継がれることはなかった。
 曹丕は帝位についた翌年には[資料三─2](三国志 呉書巻四十七 呉主権 「立登為王太子」の注に引く江表伝)に示した物品の要求を孫権にした。そこに「雀頭香」が見える。おそらくそれは[資料三─2─(1)](三国志巻四十九 呉書 劉[夕/缶系]太史慈士燮伝 士燮)に挙げられたような士燮から孫権へ届けられたものを見据えたものだといえる。その中に種々の香料があり、「雑香」という字が見える。
 最後に香気がどう伝えられたかについて。陳琳、王粲、應[王昜]が疫病に倒れこの世を去った年、217年に生まれた傅玄(217-278)は香りの表現を見ていく上で重要な詩人であると考えられる。曹丕兄弟の芳香の氣の表現が継承されている。[資料三─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 傅玄「鬱金賦」)と、その比較として[資料三─3─(1)](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 後漢・朱穆「鬱金賦」)。朱穆(100-163)の「鬱金賦」が傅玄の「鬱金賦」のほぼ三倍あまりの字数を用いながら、芳香の氣やそれと相通じる表現が含まれていないことを考えると、建安年間を通じてこうした表現が立ち上がってきてそれが次の時代の詩人に受け継がれたことがよくわかる。これ以降、芳香の氣が意識し織り込まれることが示唆されている。

 12時54分終了。

質問1
 迷迭という植物は今で言う何ということは判明しているのか。
回答
 結論からいうと、私自身ははっきりわからないが、「迷迭香」という植物は現代中国では「ローズマリー」とされることがある。「ローズマリー」とすると一応、理屈はあう。ローズマリーは南ヨーロッパの原産で、当時のローマ帝国(大秦国)の支配下にある。なんせ1800年前のことだから今の「ローズマリー」とするのは控えたい。

(※清岡の個人的な話。この時、何故か曹丕がローズマリーをくわえているイメージが脳内を駆けめぐり笑い出しそうになっていた)

質問2
(※清岡注、長くて頭に入らなかった)
回答
香料は漢代から熱心に使われていたと考えられる。もう一つの質問に関して。現存しているものからは蜀より魏の方が多い傾向にあっただろう。例えば鼓吹曲は魏や呉に残っているが蜀にはない。ただこれが実際になかったかどうかはわからない。それに関しては金先生の著作に詳しい。

<参照リンク>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

13時1分終了。

<次回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685

第2回三国志学会大会ノート2


  • 2007年9月 8日(土) 11:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,113
研究 1号館301号室の様子<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

 1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。
 そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。

○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)

 11時13分スタート。司会は中川先生。

●はじめに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。
 (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。

●一、対象とする「関羽文献」

 (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)
 A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)
 これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。

●二、「関羽文献」の「本伝」の内容
 いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。
●1. 呼称
 (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)
 Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。
●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程
 (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)
 『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。
 出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。
 「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。
→王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。
 「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。
→『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。
 関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。
→BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。

<参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/275

●3. 車胄を斬る
 『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。
●4. 秉燭達旦
 『三国志』にはない話。発表では割愛
●5. 義釈曹操
 『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響
●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード
 レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。
●7. エピソードの挿入位置
 エピソードが挿入された順番に関する違い。
 (1)孫権が蜀を取ろうとして劉備に阻まれる
  210年頃、劉備の入蜀直前(BDG) 215年単刀会前に過去を振り返る形(ACE)
※以下レジュメでは合わせて7項目のエピソードの挿入位置について文献を分類している。
 こういった感じでエピソードの挿入位置を比較してみておおざっぱにまとめてみると、
 グループIがACE、グループIIがBDGと分かれる。

●まとめ
 ACEの文献は比較のところであまり取りあげていない。これは比較的、歴史に忠実なため。序文で誤りを正すと書いている方針は史書に忠実であるといところを指す。グループIとFはいわば真面目な文献。関羽信仰に対し冷静な態度をとっている。
 グループII(BDG)の文献の特徴として1)関羽、劉備・張飛の呼称によって関羽を尊崇する気持ちを強く表し、2)王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく聖蹟図を収録し、聖蹟図に基づく説を本伝に採用し、つまり出所が怪しい説を盲信し採用していて、3)『三国演義』を中心に演劇などを含めた俗文学の影響を多く受けている。
→これらの三つの文献も序文の中で先行文献の誤りを正すと書かれている。BDGの編纂者にとっては関羽のあらゆる説をなにもかも本伝に取り込むことが誤りを正す行為だったんだろう。関羽信仰の熱烈な信者。特にBの文献の序文では夢の中で関羽にこういう本を作れと命令されたと書かれている。そのあたり、いかがわしさがある。
 関羽文献というものはそういう方針から大きく二極分化していったのではないか。

(※清岡が思ったこと。グループIIの方針を聞いたとき、Wikipediaの三国志のところで出没する通称「ルーツ君」を連想し、笑い出すのを堪えていた)

 11時50分終了。

質問1
 Dの義で曹操を許すというところ(華容道のところ。曹操が「今日當踐三舎之言。」というところ)は『三国演義』の影響とのことだったが、雑劇なんかでこういったことを言うところがあったと思うが、主に『三国演義』の影響か、もっと通俗的なものの影響なのか。(※清岡注。長くて殆ど聞き取れなかった)
回答
 華容道の場面で春秋を出すところは『三国演義』の影響。大枠としては『三国演義』の影響。

質問2
 関羽の外貌の成立について、荊州の関羽について(※清岡注、報告に関係ない長い質問で清岡の頭に入らなかった)
回答
 元の時代では既に関羽の外貌の徴候があった(白黒ながら)。(一例として)赤い顔というのは忠義の色と言われている。また日焼けの赤で、農民の色、関羽が庶民にとって身近であることを表す意味という説も。関羽の容貌が劉淵の容貌に準じている話(大塚秀高先生の説)
 (※清岡注 この後、荊州の関羽について懇切丁寧な説明があるも、質問の段階で理解できなかったので清岡の頭に入らず。最後に、インターネット上のコラム参照とのこと。下記リンク先)

<参照リンク>(中国情報局のコラム)「名場面と人物で見る三国志」完結
http://cte.main.jp/newsch/article.php/594

※追記 メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)

 12時2分終了

 事務局長(渡邉義浩先生)からの予定変更のご案内。
 午前の部は「建安文学における香りについて」までで、そこから昼休みというスケジュールに変更。あと昨日と同じく冷たいお水を用意している旨、一階下の201号室に書店が来ている旨、この建物の地下に食堂がある旨、今から10分ほど休憩がある旨のアナウンスがあった。

 舞台の向かって右にご自由に取れる研究紀要が置いてある本棚があって休憩終了前にそれを持って帰ってくれというアナウンスがあって多くの人(おそらく一般の人がほとんど)が本棚に群がっていったんだけど、その群衆の中に福原先生が混じって物色していたのは妙にユーモラスな光景だった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684

『真・三國無双5』(PS3/Xbox360版)11月11日発売決定


  • 2007年9月 7日(金) 18:29 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,598
ゲーム <10月10日追記>
公式サイトによると『真・三國無双5』 (PS3/Xbox360版)2007年11月11日発売決定とのこと。
あと「真・三國無双5 with PLAYSTATION3(40GB/セラミック・ホワイト)」 同時発売決定だって。新型廉価版「プレイステーション3(PS3)」の同梱商品とのことだから覚悟していたよりは安い。

というわけでこのタイトルも変更。

通常版 7200円 TREASURE BOX 12800円
「真・三國無双5 with PLAYSTATION3(40GB/セラミック・ホワイト)」 47600円
<10月19日追記>
『真・三國無双5 オリジナル・サウンドトラック』が2007年12月5日に発売とのこと
<追記終了>



9月7日に「GAMECITY」(コーエー総合ポータルサイト)(下記サイト)にて『真・三國無双5』(PS3/Xbox360版)が2007年11月発売決定ということが告知される。7200円(税抜)。TREASURE BOXが12800円(税抜)。

・GAMECITY  (コーエー総合ポータルサイト)
http://www.gamecity.ne.jp/
・真・三國無双5
http://www.gamecity.ne.jp/smusou5/

あと『真・三國無双5』の公式サイトもリニューアルされていて「Character」のところで登場人物が少し公開されている。魏が典韋、呉が孫尚香、蜀が関羽、それぞれにスクリーンショットあり。孫尚香の武器が弓になっていたり、劉備が髭なしになっていたり、あれこれデザインが変更されていることが伺える。「Screenshot」と「Movie」はそのまま引き継ぎ。これからの更新が楽しみ。
<追記>
9/14 Characterに陸遜、趙雲、Actionに連舞システム
10/5 Battlefieldに拠点、攻城戦、その他の戦場要塞、Modeに6つのモード、無双モード、Characterに夏侯惇、周瑜、張飛、MovieにTGS Movie(東京ゲームショウ?)
しかし夏侯惇は金棒で周瑜は棒か。というかより拠点ぽくなっていてビックリ。
TGS Movieは流出していた画像元だね。いろんなキャラが写っている。
10/19 Characterに司馬懿、System更新
10/26
Modeに「フリーモード」「チャレンジモード」「幕舎」「事典」
Characterに「呂布」「貂蝉」
10/30 MovieにPROMOTION MOVIE Vol.2
11/2 MovieにCF Movie(Xbox 360 Version)
11/7 MovieにCF Movie(PLAYSTATION 3 Version)、Actionに「基本アクション」と「その他アクション」
11/9 Wallpaperを追加
<追記終了>

<関連記事>『真・三國無双5』(PS3版) 今秋発売決定!
http://cte.main.jp/newsch/article.php/650

<次回>メモ:『真・三國無双5』で消えたキャラクター
http://cte.main.jp/newsch/article.php/735

『八卦の空』(ミステリーボニータ10月号、2007年9月6日)


  • 2007年9月 7日(金) 18:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,051
マンガ  中国三国時代の魏を舞台とし、紀玄龍や管公明のコンビが神秘的な事件を解決していく漫画、青木朋先生/著『八卦の空』。月刊『ミステリーボニータ』に連載中。
 今回は一話完結で予告通り巻頭カラー。未だに清岡は「巻頭カラー」の定義を掴みかねて居るんだけど、ともかく今号の『ミステリーボニータ』の一番前の漫画が『八卦の空』で、見開きの表紙を含めた4ページがカラーということだ。

※関連リンク
・秋田書店
http://www.akitashoten.co.jp/

・青木朋先生のサイト「青木朋HP++青青」
http://aoki.moo.jp/


・ミステリーボニータ10月号に「八卦の空」(ブログ『青青日記』)
http://blog.aoki.moo.jp/?eid=785096

・青木朋さん(私設)ファンクラブ
http://bluefan.exblog.jp/

<前回>2007年8月6日『八卦の空』(ミステリーボニータ9月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/663

<次回>『八卦の空』(ミステリーボニータ11月号、2007年10月6日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/708


 カラー部分の冒頭から玄龍くんが兵卒を率いた捕り物シーン。のっけからテンション高めでストーリーに引き込まれる。赤い鮮やかな衣装を纏った女盗賊の紅月鬼を追い詰めるも、その場から瞬時に姿が消える。逃げられたから、捕り物が終わるんだけど、玄龍くんは消えた現場に鏡を見つける。実はそれは不思議な鏡でそこから話が始まる。姿が同じだけど、中身が違う蘇月娘、それから同じ魯女生の門下の妹弟子、君児などの人物が出てきて、話が進む。今回は劉朱姫ちゃんにスポットが当たったような物語の進み方で鏡にまつわるミステリーがほぐれていく。
 そういや今号の「ミステリーボニータ ホットライン」(つまり読者からのお便りコーナー)に「八卦の空」へのお便りあり。今回は二通もあって、一つが管ちゃんについて、もう一つが玄龍くんについて。編集サイド…じゃなくコーナーのマスコットがコメントを寄せているように是非、イメチェンで管ちゃん仕様の眉毛にして欲しいところ(笑)