※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)
前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。
会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。
●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」
10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。
予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。
○はじめに
南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。
現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。
南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。
問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。
○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書
両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。
内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。
○2. 墓誌引用公文書の内容
まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。
『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。
(※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた)
馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。
墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った?
文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。
わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。
梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。
(※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。
公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。
○3. 各文書の書式等について
策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。
詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。
札の書式。時間の関係で省略。
○おわりに
詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。
(今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。
そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。
11:30終了。
※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復
※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日)
※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)
※前記事 プチオフ会「諸葛亭へ一顧しよう!」二次会(2008年9月13日)
2008年9月14日9:20。
蒲田駅近くのホテルを出て、京浜東北線で品川駅まで行き、乗り換えて山手線で大崎駅まで行く。そこから歩くこと数分で、立正大学大崎キャンパスの山手通り口に着く。
・立正大学
http://www.ris.ac.jp/
そこから会場となる11号館を探そうと思ったけど、ちょうどその山手通り口に關尾先生が立っておられて道しるべもあって、どうやら山手通り口に面した建物が11号館であってすぐそこのエレベータで5階に上がれば良いらしい。
5階に上がったらすぐ受付があって、そこで署名し予稿集やレジュメを貰い、1151番教室に入る。スタートの数分前とあって、結構、人が入っている。「長沙呉簡の世界」の時のように向かって右側三分の一のところに先生方が固まっているというわけではないが、みな通路に近い席に陣取っているものだから、通路から遠い真ん中の席が空いている。清岡は真ん中の前の方に座る。その後、席を立ち、会場の様子を写真に納める(※今見ると肖像権保護みたいな感じで良い感じでピンぼけしている・笑)。
というわけで、ここから以下は国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」についてのノート。但し清岡の興味のあるところしか触れていないし、中国語と韓国語を解しない清岡には書けないってのもあるけど。
※関連記事
国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ
※追記 リンク:『魏晉石刻資料選注』
※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)
●開会の挨拶・趣旨説明:伊藤敏雄氏(大阪教育大学)
※上記関連記事(上の方)からさらに引用したプログラム、以下、頭に「●」とあるのは同じ。
10:00。
というわけで「開会の挨拶・趣旨説明」が始まる。科研の三年目の報告だそうな。
●福原啓郎氏(京都外国語大学)「西晋の辟雍碑の再検討」
10:05。
予稿集では「晉辟雍碑の再検討 ─碑陰題名の分析を中心として─」というタイトル。
右上の写真のように会場には前もって何やら拓本が飾られており、それはどうやらこの発表で扱う晉辟雍碑の碑陽と碑陰とのこと。
福原先生曰く、今日の話は現在進行形の話とのこと。
会場で掲げている晉辟雍碑の拓本は去年の三月に洛陽の博物館で先生が購入したものという。「元々、五千元ですけど、四千元にまけて買ったものです」と告げ会場を沸かす。それは乾拓であり、一週間前に辻先生が購入された同じ四千元の拓本は湿拓とのこと。乾拓の方(書家用)が字がくっきりしていて、本当だったら湿拓の方が良いという。
予稿集とは別に追加資料がいくつかある。そのうちの一つに辟雍碑の碑陽と碑陰の釈文がある。[顧廷龍 1931]をベースにし劉承幹『希古楼金石萃編』(1933)、羅振玉『石交録』(1941)、『魏晉石刻資料選注』(2005)を整理したとのこと。
○はじめに
※予稿集から引用したタイトル、以下、頭に「○」とあるのは同じ。
西晋の碑は漢の時代に比べ非常に少ないため、この辟雍碑が目立つ。
(※ちなみに辟雍碑は石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)に収録されている)
民国二十(1931)年に洛陽近郊で発見された。この拓本は河南省博物院を初めいろんなところに展示されている。出土直後に顧廷龍・余嘉錫により基本的な考証は粗方終わっている。日本では[足立豊 1971][木島史雄 1996]があり、先生自身は「晉辟雍碑に関する一考察」(1998)を著した。この時の再検討が今回の発表。先生自身は二度ほど実物を見たという。初めは子どもにより落書きされるようなところに置いていたのが時代を経る事に碑の周りが整理されてきたそうな。
○1.晉辟雍碑の概要
高さが3mを超え、大型の漢碑に匹敵する(※以降、碑陽や陽陰に関し部分の説明)。
書体は隷書の八分で、書家の人もこの技法を参考にするため、拓本を売っていた人も書家には六千元で売ると言っていたそうな。
まずこの碑が偽刻かどうかという問題があるが、まずそれはない。それは出土の経緯や内容から考えてのこと。しかし謎や問題点は残されている。
この碑が立てられたのが咸寧四(278)年十二月。孫呉平定(280年3月15日)の一年半前。そのため碑陰に孫呉に関連する人物はいない。
民国二十(1931)年の出土地は偃師市太学村の漢魏洛陽故城南郊の太学遺址もしくは辟雍遺址。そのため立碑地は太学あるいは辟雍の境内にあったと推定。立碑後は恐らく永嘉五(311)年の洛陽陥落に伴い倒れ地中に埋もれ、発掘されるまで地中にあった。出土後、東大郊村に運ばれ、現在、その南街の路地の奥に立っている。
碑陽の刻文は題額、序、頌、立碑年月日からなり、題額「大晉龍興/皇帝三臨辟雍/皇太子又再莅之/盛徳隆煕之頌」と序と頌の内容が対応している。
序の内容は司馬氏(司馬懿、司馬昭、司馬炎)の台頭の賛美で「大晉龍興」に対応。注目しべきは司馬師に言及がない。これは当時の評価?微妙な問題? 次に泰始年間の武帝の三回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇帝三臨辟雍」に対応。最後に咸寧年間の皇太子司馬衷(暗愚で有名。のちの恵帝)の二回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇太子又再莅之」に対応。この碑が立てられた意味は簡単に言えば皇太子をヨイショする。時代背景として皇太子の資格があるか問題になっていた。序に記された晉王朝の興盛と現皇帝・皇太子それぞれの親臨に対する頌があり、「盛徳隆煕之頌」に対応。
○2.碑陰題名の概要
碑陰は立碑の関係者。厳密に言うと現皇帝・皇太子それぞれの親臨の行礼へ参列した者だけど、太学によっているのは、皇太子親臨へ参列し立碑した「学徒」。碑陽の序の末尾にある「礼生・守坊・寄学・散生」。400名程度の学生が主体。
一列目のみ15行で二列目以降44行。構成要素は「礼生安平王沈弘道」のように肩書+本貫+姓名+字。ここでなぜ王沈を出したかというと『晉書』では西晉で有名な王沈は二名居るが、これは西晉で三人目かな、と。
碑陽と違い、碑陰は全体的に摩[シβ力]があり判読できない文字がある。特に両端がひどい。題名の総数は確定できないが計算上は409名。これらは五つのグループに分ける。
第一グループ。一列目の15名。所管の太常寺の長官・次官を除けば、講義の博士(上級の学官)。注目すべきは、史書に記載のあるのは『晉書』に立伝のある4名を含め11名も居る点。対照的に第二グループ以降は無名。
第二グループ。二列目11名。下級学官で行礼の責任者であろう。
第三グループ。二列目から六列目。題名の肩書は「都講」「主事」「礼生」の三種。大半が「礼生」(碑陽の「治礼学生」の略称)であり、「行礼」の「学徒」(実際に礼を行っている学生)。さらにこのグループは前半の鄭大射礼関係者と後半の王郷飲酒礼関係者に分けられる。鄭大射礼とは後漢の鄭玄が解釈したのに従ってやったもの。「王」は王粛。前者は咸寧四(278)年二月の大射礼、後者が咸寧三(277)年十一月の郷飲酒礼。
第四グループ。第六列の13行目から第九列の28行目までの148名。主に「弟子」。微妙な問題だけど、国子学の学官の名前もある。ちょうどこの時期、国子学ができた。
最後に第五グループがあるが、よくわからない。60名。多くは「弟子」。
「礼生・守坊・寄学・散生」は「行礼」の「学徒」である「礼生」と「列位」の「学徒」である「守坊・寄学・散生」に二分することができる。五つのグループと対応すると、「礼生」は「礼生」(第三グループ)で、「弟子」は碑陽の「守坊」に対応する。学生が主体ということだけど、学官もあるのでズレを感じる。
○3.後漢の顕彰碑の碑陰題名との対比
晉辟雍碑のルーツは漢碑、より限定すると後漢の顕彰碑。
碑陰題名が始まった後漢の顕彰碑だと、上から下に列に分かれ、漢碑は3列が普通。曹全碑は5列。晉辟雍碑は10列。ちなみに一番長いのは南朝の梁の20列。晉辟雍碑は漢碑と比較すると大きい。
漢安二(143)年の北海相景君碑54名など40~60名が多く、韓勅碑103名、冀州刺史王純碑200名以上であるが、晉辟雍碑は409名。
漢碑の題名の構成要素。大半は姓名は刻されている。その前には肩書と本貫が記される。肩書は官名・爵名・職名など。(※ここで孔宙碑、張遷碑の具体例)。孔宙碑、北海相景君碑、張遷碑に見られる肩書の頭に「故」「故吏」という碑主との関係を示す語が附される例も多い。
碑陽の序の末尾に孔宙碑「故吏門人」や衛方碑「海内門生故吏」など立碑関係者が記されていることが多い。また碑陰の篆額に孔宙碑「門生故吏名」、鄭季宣残碑(中平三(186)年)「尉氏故吏処士人」とある。このことから碑主と立碑関係者の関係は、門生故吏関係の端的な現象。
これらに対し、晉辟雍碑は学官と太学の学生であり、主体の学生の名称が「行礼」と「列位」、「列位」の「学徒」がさらに細分化されているのが特徴。
本貫の地名に関して。地名が記されている場合、郡県(孔宙碑)、郡のみ(王純碑、曹真碑(太和五(231)年頃)、廬江太守范指揮碑、漢碑にはほぼ無い)、県のみ(北海相景君碑)の三つに分類。晉辟雍碑は郡名のみ。
姓名の後に字、場合によっては醵金額が記される。字に関しては字が記されない場合もある。字の前に「字」と添える場合とそのまま続ける場合がある。張遷碑には数字の前に「銭」の字を加え、この醵金を当時、「義銭」(白石神君碑)や「奉銭」などと称していた。その点、晉辟雍碑には醵金はなく当然、学生が金を出した訳ではない。
碑陰題名、特にその構成要素を対比・検討した結果、晉辟雍碑は形式的には後漢の顕彰碑を踏襲している。門生故吏関係がの典型的な公偉の一つが、門生故吏が醵金して顕彰碑を立て、碑陰に名を刻むこと。碑陰題名に注目すると、晉辟雍碑は後漢の顕彰碑の系譜を引いている。列数と人数の相違は、後漢の顕彰碑が郡レベル(郷里社会)に対し、晉辟雍碑は国家レベル(全国)。
魏晋の何度もある立碑の禁(偶然か、晉辟雍碑が立った年にも立碑の禁が出ている)を挟んで、後漢の顕彰碑と晉辟雍碑の間に断絶がある。つまり晉辟雍碑は国家による例外的な立碑。立碑の背景に存する門生故吏関係の否定を含意していると推測。ある意味、中央による回収吸い上げという、科挙における殿試の創設を連想せしめる動きは西晉王朝国家の性向を窺わせる。
○4.碑陰題名の本貫に対する分析
すでに前稿([1998])で検討した問題。当時の敵国である孫呉の版図内の揚・広・交の三州はまったくないが、すでに西晉の版図に繰り込まれて十五年になるにもかかわらず、旧蜀漢の版図に含まれていた梁・益・寧の三州も梁州の一名のみ。旧蜀漢の人士が入洛・出仕していたであろうにもかかわらず、旧蜀漢出身の学生が居ないのはどういう理由か。その他、北方の辺境に近い幽・并の二州も少ない。それとは対照的に同じ辺境に位置する涼・平の二州は特別枠が設けられているようだ。
涼州において敦煌郡出身の「散生」が6名刻されているがその他の郡は一名も見あたらないのは泰始五(269)年頃に勃発し咸寧五(279)年(立碑の翌年)に終息した禿髪樹機能の反乱の影響であろう(樹機能は咸寧三(277)年に本拠地を武威郡に定めた)。
これらは当時の西晉王朝を取り巻く国際・国内状況が生々しく迫っている。
「趙郡」(8名)と「趙国」(7名)が併存している点について。「趙郡」の場合、全員が第三グループに属する礼生で、「趙国」の場合、第三グループに属する礼生は一人もおらず、治礼舎人が1人、残りは弟子(第五グループ)。何を意味するか。ミスや不統一ではなく、碑陰題名の原稿作成の際に基づいたであろう名籍類の段階で異なっていたのだろう。司馬倫が琅邪王から新たに設けられた趙王に転封されたのが咸寧三(277)年八月癸亥(碑が立てられた前の年。『晉書』武帝紀)。礼生の場合、これ以前の名籍、弟子らの場合、これ以後の名籍に基づいていることになる。礼生はよくできる、しかも容貌の優れた人が選ばれたのではないかと言われているが、少なくとも長年、太学に居た人。
碑陰題名の学生は様々な要因により偏在していた。偏在として連動してさまざまな肩書を有していた。
○5.晉辟雍碑の歴史的意義
南方の孫呉と対峙していた泰始年間・咸寧年間の都洛陽の城南の辟雍において学礼への皇帝・皇太子自身の臨席、およびそれに対する顕彰のための立碑には、その背後に新たなる権威を創出せんとする強い意志が感じられる(※この記事のこの文はほとんど予稿集の写しになっている)。西晉王朝にとっては、秦漢帝国瓦解後の魏晋国家の課題、曹魏滅亡後の西晉の課題という二重の課題があり、学礼親臨と立碑との二段階の演出はその試み。
両者の目的は、礼教政策による視覚的な権威の創出であり、同時期の国子学の創設などとともに「礼教国家」建設の一環であった。同時に立碑当時、二十歳の暗愚な皇太子司馬衷の箔付けをも兼ねた。厳密には咸寧年間の皇太子の親臨と晉辟雍碑の立碑、「盛徳隆煕之頌」の直接の対照は皇太子の顕彰にあった。
立碑の主体に関し武帝、側近の官僚、儒学関係の学官などが想定されるが、建前かもしらないが、碑陽の末尾の表現だと「行礼」「列位」の学生こそが主体と明記。碑陽の末尾に立碑の主体を示し、それに対応し碑陰に具体的な題名を刻すという形式は、後漢の顕彰碑のそれの踏襲。後漢の顕彰碑を支えた門生故吏関係(晉辟雍碑では門生の関係)を何らかの形で生かそうとしたのではないか。碑陰には学生だけでなく学官もふくまれており、ズレがあり、そこには西晉王朝の「下」から自発的に盛り上げという演出が馬脚を現しているのではないか。強いて言うなら門生故吏関係の利用。主体の学生も本貫の点で、当時の西晉の版図全体といえ、さまざまな要因による地域偏在などが見られ、当時のさまざまな地域の状況が如実に反映している。
『洛陽伽藍記』穀水の条によると、当時、太学には熹平石経、正始石経、『典論』碑、太学賛碑、太学弟子賛碑などに、泰始二(266)年には晉辟廱行礼碑が加わるなど石碑が林立していた。『洛陽伽藍記』に記載はないが、立碑の禁の最中、新たに立てられた巨碑、晉辟雍碑は当時の人々の目にどのように映ったか。
◎1'.郷飲酒礼と大射礼の歴史的展開
※予稿集とは別に用意されたプリントのタイトル
(※プリントの表側には文章で書かれており、それと違い口頭では簡単に述べられる)最初、氏族共同体から始まった。儒学の中に取り込まれた。後漢時代に郡レベルでいろいろ学校で行われた。後漢末になると行われなくなり、国家レベルになる。鄭玄や王粛の学説を利用して復活する。
(※さらにプリントの裏側に、【行礼】【親臨】【立碑】【碑陰題名】【内藤湖南】の項目について、後漢と西晉との対応表がある。それについて説明。最後の項目では「地方の名望家」と「〔中央の〕貴族」。現在進行形で考えておられるとのこと)
10:47終了。
※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
「三国志大戦 蒼天」という検索があるな、と思ったらその理由がわかった。
下記「三国志大戦3公式ウェブサイト」によるとセガのアーケードゲームの『三国志大戦3』が2008年9月18日にバージョンアップして『三国志大戦3 ~蒼天の龍脈~』になったようだね。
・三国志大戦3公式ウェブサイト
http://www.sangokushi-taisen.com/
おおまかな内容は上記公式サイトから下記へ引用。新勢力が「漢」ってことは皇甫嵩、朱儁、傅燮は出るんだよね??
--引用開始---------------------------------------------------------
■2008.9.18
「三国志大戦3 ~蒼天の龍脈~」稼働開始!!
皆さん、おまたせしました!
新勢力「漢」参戦!!
新たな武将、新たな計略に戦況が大きく変わる!
三国志大戦シリーズ最新バージョン
「三国志大戦3 ~蒼天の龍脈~」
とくとご堪能ください!
--引用終了---------------------------------------------------------
<11月5日追記>
2008年11月5日にバージョン3.11になったとのこと。
英傑伝に新たに「激武錬の章」が追加されたそうな。「武錬の章」をすべてクリアする登場する超難易度の「超武錬の章」を越える難攻不落のステージが登場するという。
<追記終了>
※関連記事
『三国志大戦3』稼働開始(2007年12月13日)
2008年8月7日『三国志大戦・天』(ニンテンドーDS版)
※追記 三国志大戦3 DVD 将星決起(2008年12月11日発売)
※追記 三国志大戦3 エクストラフィギュアVol.2「小喬」登場
※追記 『三国志大戦3 ~蒼天の龍脈~』Ver3.12(2009年2月17日)
※追記 EX小喬(『三国志大戦3 頂上対決列伝 第三章』)
※追記 まとめメモ:『三国志大戦』ネットワーク大会
※追記 三国志大戦3 オフィシャルカードバインダー追加リフィルセット(2008年10月23日)