Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2021年 12月
«
»
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

-

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 64 投票 | 0 コメント

PR

清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
よくわかるねこまんまさんの問題行動 pdf
gif

検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 151 - 180 / 504 件 (0.0123 秒). 検索条件の修正

151. ノート1:三国志学会 第五回大会
※前記事&目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日) ○開会の辞 (10:00~10:10)  ※頭に「○」を冠する場合はプログラムより。以下同じ。  10時を過ぎると牧角悦子先生から開始のアナウンスが入るも、会長の狩野直禎先生のご体調が優れないとのことで(今年2010年の暑さの影響とのことで)、代わりに渡邉義浩先生から開会の辞で、そういった経緯を話されていた。牧角先生によると、渡邉先生もご体調が優れないそうな。そのため、来年は狩野先生のお膝元の京都で三国志学会大会が開催される旨が告げられる。 ○研究報告 10:10~11:00「蜀漢の南中政策と「西南シルクロード」」

152. 孫呉政権と国史『呉書』の編纂(2014年3月)
※関連記事 関プチ5 全国ツアー:8/9三国志納涼オフ会in東京2014(2014年8月9日)  上記関連記事にあるオフ会は人数が揃わず催行されなかったんだけど、清岡は予定通り国立国会図書館へ赴く。大した効果は得られないだろうけど、そろそろ気持ちを三国志学会第九回京都大会へ持っていきたいためだ。 ※関連記事 三国志学会 第九回大会(2014年9月6日13日土曜日)  メインの目的は横山光輝『三国志』の雑誌掲載時のページ数と単行本のページ数とが手元の記録でズレが生じていたため、両者を照合するためなんだけど、想定していたところにズレがなかったため、解決が先送りとなった。もう一つの目的は横山光輝『三国志』の雑誌掲載時の「第一部 完」を複写しようと思っていたが、どうやらその号は複写禁止だったためこちらも目的を果たせず終いだった。  そんな消化不良の状況で閉館の17時前には図書館を出て、次の目的地を目指す。  永田町駅から東京メトロ半蔵門線(押上行)に乗り神保町駅で降りA7出口から、すずらん通りを東に進む。お馴染みの東方書店に行く予定だったがその前、その手前の内山書店に寄る。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・内山書店 http://www.uchiyama-shoten.co.jp/ ※新規関連記事 神保町ブックフリマ(2020年10月30日11月1日)  結論から書くと、下記関連記事で触れたお目当ての雑誌は両店ともに置いてなかった。とりあえず地元の図書館で閲覧してみるか。 ※関連記事 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)  話を戻し、内山書店の文学のところで、『三國志研究』三号、六号、七号、八号を見かけ、歴史のところでもいつくか見られた。 ※関連記事  メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復  三國志研究第六号(2011年8月27日)  三國志研究第七号(2012年9月1日)  三國志研究第八号(2013年9月14日)  その歴史のところに平積みで分厚い『明大アジア史論集』第18号「氣賀澤保規先生退休記念号」(2014年3月、3000円税別)があって、氣賀澤先生に関する記念号だから唐代の論考ばかりかと思いつつも気になって手に取っていた。 ・明治大学アジア史専攻 http://www.kisc.meiji.ac.jp/~asiashi/ ・『明大アジア史論集』総目次 http://www.kisc.meiji.ac.jp/~asiashi/ronshuu.html  氣賀澤先生は愛宕元先生と同学年だっけ? ※関連記事 愛宕 元 先生、死去(2012年1月2日)  そこの目次で三国関連を見かける。菊地大「孫呉政権と国史『呉書』の編纂」という論考だ。三国志ニュースで著者名で検索すると下記関連記事が引っかかる。専攻は三国時代? ※関連記事 リンク:曹操と殊礼(2012年6月)

153. ベトナムの『三国志演義』(2014年10月25日)
メールにて教えていただいたこと。 ・京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/ ・【お知らせ】公開セミナー「ベトナムの『三国志演義』」10月25日(土)┃京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/2014/10/15/jinbunken/ 上記サイトの上記お知らせページによると、2014年10月25日土曜日11時から12時30分まで京都府京都市左京区の京都大学人文科学研究所本館1階第1セミナー室にてDr.Lan NguyenTo「ベトナムの『三国志演義』」という公開セミナーがあるという。講師の方は「ベトナム社会科学院研究員 ・ ハーバード大学客員研究員・京都大学人文科学研究所招へい学者」とのことだ。中国語の発表だが日本語の適宜訳あり。 ・京都大学人文科学研究所 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ※関連記事 高校生のための夏期セミナー ~漢字文化への誘い~ 第一回(2013年8月9日)

154. 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日)
 2009年9月12日に開催される「第9回魏晋南北朝研究大会」の案内に同封されていたという、2009年9月13日開催の国際ワークショップ「新出魏晋簡牘をめぐる諸問題」のプリントの情報を手に入れたので下記へプログラム等を転載。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    国際ワークショップ「新出魏晋簡牘をめぐる諸問題」 日 時:2009年9月13日(日),午後1時30分~5時 会 場:立正大学大崎キャンパス,9号館地階9B11教室 プログラム  開 場:午後1時  開 会:午後1時30分   開会の挨拶(13:30~13:40)   第1部   報 告I(13:45~14:15)─關尾史郎氏(新潟大学,科研費プロジェクト代表)   「魏晋簡牘研究への一視点」   報 告II(14:15~14:45)─伊藤敏雄氏(大阪教育大学,三菱プロジェクト代表)   「魏晋簡牘の調査と課題」(仮題)   休憩(14:45~15:15)   第2部   講 演(15:15~16:15)─侯旭東氏(中国・清華大学,呉簡研討班)   「長沙走馬楼三国呉簡所見給吏与吏子弟─兼論漢代的給事」   質疑・討論(16:15~16:50)   閉会の挨拶(16:55~17:00) 主 催:長沙呉簡研究会 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

155. メモ:日本の「三国志演義」翻案作品における作画資料としての「三国演義連環画」(2017年6月24日)
※関連記事 メモ:三国志研究会(全国版)第7回例会(2016年12月25日)  上記の関連記事に続き、きりのいい記事番号の記念記事。今回のNo.4300は日本マンガ学会第17回大会での清岡が数日前から研究報告するまでのレポートというか奮闘記。 ※前の記事 真・三國無双 15th Anniversary キャラクター設定画集(2016年8月3日)  前の記事の次の金曜日、6月16日。例によって夕方から鈍行で出発。コンビニでお菓子と明日の朝食を買い、三国志ニュースの記事「昨日までを、超えてゆけ #4 日食(Galaxy CM 2017年5月23日)」を書いて、18時31分には「長野剛原画展2017(東京会場2017年6月16日-18日、愛知会場23日-25日)」を書き終える。そこからようやく次の週の土曜日にせまった日本マンガ学会第17回大会のレジュメにとりかかる。今回の報告は自分的にサイト「三国志ニュース」スペシャルの位置づけで、というのも大まかな流れとしては断片としての「三国志ニュース」の記事をつなげたりまとめたりすることが多いからだ。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第17回大会 プログラム - 日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/convention/17 ※関連記事 日本の「三国志演義」翻案作品における作画資料としての「三国演義連環画」(2017年6月24日) ※新規関連記事 メモ:日本マンガにおける秦始皇帝兵馬俑鎧甲デザインの伝播(2018年6月23日)

156. 「長沙呉簡の世界」ノート5
・「長沙呉簡の世界」ノート4からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/448 ※こちらの報告もまず中国語で行われ、後で日本語の要約が日本人の訳者により話される。中国語の判らない清岡は前報告と同じく聴いている振りをし日本語要約に集中していた。報告では、長沙呉簡の出土現場の写真を見せながら行われていたが、当然ながら、日本語の要約発表にはその写真は出されていない。 ○報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」  14時35分報告開始。まず宋少華先生の略歴を司会の方から紹介がある。長沙市の簡牘博物館の館長なんだね。  会場の照明が落とされ、OHPで写真がスクリーンに映される。予稿集を見ると「一、調査的目的」(実際は簡体字表記、以下同じ)となっていて、まず長沙における出土簡牘について書かれていて、その次が「二、長沙二十世紀五十年代~七十年代簡牘出土的情況」となっており、その中で続く小タイトルが「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」となっていたので、1950年代から1970年代の長沙の出土簡牘についての解説をしつつ、それに関係する写真を出しているのだな、と清岡は思っていた。OHPの1枚目が報告タイトルでNo.2、3が出土場所を記した地図、と予稿集にメモをとる(以下、「No.」は清岡が勝手につけたもの)。  「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」の中にさらに細かい内訳があって、「1、五里牌406楚墓,年代属戦國中期(公元前四世紀)」、「2、徐家湾401号墓,年代属西漢晩期(公元前四世紀)」、「3、伍家嶺203号墓,年代亦属西漢晩期」とあって、それぞれに説明文が添えられている。メモを見るとこの2と3にOHPのNo.4、5が使われており、3の中に説明がある「封泥」(写真?)にNo.6が使われている。  「(二)1953年仰天湖25号墓楚簡」ではNo.7に分布図、No.8に楚簡の写真が映し出されていて、「(三)1954年長沙楊家湾6号墓」ではNo.9、10と写真が使われ、「(四)1972-1973年,長沙馬王堆一、三号漢墓出土簡牘」ではNo.11~13と使われ、その中に木[木曷]の写真があった。 ※2007年3月にこのシンポジウムの報告冊子として『長沙呉簡研究報告』第3集が刊行され、このときの予稿集の日本語訳は掲載されたが、残念ながらこのときの図や写真などの発表資料は掲載されていない。  次の大きな括りである「三、長沙二十世紀九十年代至本世紀初簡牘的發現」に移る。まずOHPのNo.14で現場の航空写真、No.15でその拡大写真を見せ、「(五)1993年西漢長沙王后“魚陽”墓出土封検、木[木曷]」(※『長沙呉簡研究報告』第3集でのこの箇所は「(五)」ではなくナンバーがリセットされ、「1)」になっている)ではNo.16にその墓の写真が出てきて、No.17,18で封検・木[木曷]の写真が出てくる。「(六)1996年長沙走馬楼出土三国呉簡」ではNo.19に出土した場所を示した地図、No.20に竹簡の写真、No.21に発掘場所の全景が来て、「(七)1997年九如斉(科文大厦)出土東漢簡牘」の話に移る(九如斉は走馬楼から200m離れたところにあるとのこと)。No.22にJ4と名付けられた古井戸の写真が出された。それからNo.23で全景が出され、「(八)2003年長沙走馬楼8号井出土西漢簡牘」に話が移り、No.24で8号井の写真、No.25で作業する人の写真、No.26~28で清浄後の簡牘の写真が出ていた。「(九)2004年長沙東牌楼東漢簡牘」に話が移り、No.29でまず全景写真、それからNo.30で出土したJ7と名付けられた古井戸の図が映し出された。  このように時代を追って出土した簡牘についての解説があり、予稿集ではこの後、「四、長沙出土簡牘所見的一些特点」とタイトルで、長沙出土簡牘の考察が続く。小タイトルは「1、長沙的自然地理環境」、「2、簡牘出土地点保存条件」、「3、出土的時代特征」、「4、簡牘形制特征」、「5、長沙簡牘年代序列」、「6、長沙簡牘内容的特点」、「7、長沙簡牘埋蔵特点」となる。  報告が終わり、その日本語要約に移る。  これらのことは宋少華先生からいろいろな資料を含め改めて文章を書かれていると聞き及んでいるとのことで、詳しくはそちらを参照とのこと。報告では長沙簡牘について1950年代から現代に至るまでの状況について詳しく説明があった。出土状況について時期について二つの段階に分けられた。一つは1950年代から1970年代まで。一つは1970年代後半(文革以降)から現代まで。後者の中の1996年の長沙走馬楼の呉簡の発見、これ以降が特に重要とのこと。1950年代から1970年代までは長沙の郊外の地の墓葬から簡牘類が発見されたことを一つ一つ丁寧な紹介があった。1970年代後半以降、現在に至るまで墓葬や井戸から出土した長沙呉簡、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡も紹介された。今回、紹介のあった中には画像には未公開のものが多数含まれていた。後半部分はなぜ長沙でこういった簡牘が発見されたという理由について長沙の自然条件、2000年来、人が住み続けていったという状況と、土地の状況についての指摘があった。まず郊外に多く見られる墓葬については深く掘ってお墓を作っている、あるいは白膏泥、木炭を沈めているいること、密封性が高かったために簡牘類が発見できたとのこと。ただその簡牘類は少数。1990年代以降について、中国の経済発展に伴って、中心地での発掘が多くあって、井戸から大量の木簡・竹簡が出土した。井戸から出土した物について漢簡などがあるが、走馬楼呉簡(長沙呉簡)に関してはある一定の規則とまでは言わないまでも、本来保存すべき名籍類・行政文書などはある定まりで棄てられていた。まとまって棄てられていたことからある管理期間を過ぎた後に廃棄した物だと言われている。それに対してほぼ同じ地区から出た物、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡の三つについては生活のゴミのようなものと一緒に出てきたため、これらは長沙呉簡と違い、生活のゴミとして廃棄されたものでなかろうかと指摘される。 ・「長沙呉簡の世界」ノート6へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/646 ※2011,5/18追記。アクセスログを見ると、二日前から同一ホストから「東ひ楼漢簡」という検索語句があるんだけど、もしかして、「東牌楼漢簡(とうはいろうかんかん)」を「とうひろうかんかん」と読むという恥をふりまいているのだろうか。それともそういう名の漢簡が別にあるとか。※さらに追記。その後、別のホストから「東碑楼漢簡」という検索語句があった。なるほどね。「片」を「石」と誤ったんだ。※さらに2011,5/22追記。複数のホスト(うち地域が判るのは東京、立川や浦和)から「東牌楼漢簡」という検索語句が多くなってきたが、この現象、どこかで見覚えある。中央大学あたりでレポートが出ていたりして(笑)

157. 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復  2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。  ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。  以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。 ●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)  まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。  次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。  まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。  まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。  氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。  もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。  辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。  「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。  (※省略)  16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。  まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。  東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は?  大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。  福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。  「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。  原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。  この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。  それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。  涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。  中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。  北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。  (※省略)  辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。  (※省略)  17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。 ●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)  この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。  17:43閉会。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)  以下、余談。  というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。  帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。 ・日経スペシャル ガイアの夜明け http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/ ・MOS BURGER http://www.mos.co.jp/  そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。

158. 三國志研究第十号(2015年9月5日)
・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志学会 第十回大会(2015年9月5日12日土曜日)  上記関連記事で触れた2015年9月5日土曜日開催の「三国志学会 第十回 京都大会」、あるいは同年同月12日土曜日開催の「三国志学会 東京講演会」にて会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第十号(178ページ、ISSN 1881-3631)が渡された。  『三國志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/

159. 三国志学会 第四回大会ノート5
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート4  15:31。総合司会の石井先生から再開のアナウンスがされる。講演の司会は二松学舎大学の牧角(竹下)悦子先生とのこと。  牧角先生より川合康三先生の経歴の紹介が入る。川合先生は中唐文学研究会(現、中唐文学会)を立ち上げたという。文献史料や作家の歴史をおさえた上で、最終的に文学性を追求する立場にあるのがその特長だという。「三国志学会へは昨日入会した」そうな。  拍手の中、川合先生が登壇される。  レジュメはA4の2枚で2ページ。 ○「曹植の公と私」

160. 中国古代家族史研究 秦律・漢律にみる家族形態と家族観(2012年2月)
・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・メルマガ登録 http://www.toho-shoten.co.jp/mailmag/ 上記の書店サイトの上記ページにあるように東方書店が発行するメールマガジン『書羅盤:チャイナブックナビゲーター』2012年第4号-2(総245号)(2012年3月29日発行)によると、刀水書房より2012年2月に鈴木直美/著『中国古代家族史研究 秦律・漢律にみる家族形態と家族観』(ISBN978-4-88708-401-8)が6090円で発売されたという。 ・刀水書房ホームページ・創業34周年 http://www.tousuishobou.com/ ・中国古代家族史研究、刀水書房 http://www.tousuishobou.com/kenkyusyo/4-88708-401-8.htm

161. 「長沙呉簡の世界」ノート1
・2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノートからの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/417  中国からの先生が到着するのを待つために5分押しでスタート。  まず総合司会の三崎良章先生から会場の注意事項についてアナウンス。 ○開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学)  窪添慶文先生の挨拶。中国訳が逐次入る。長沙呉簡の紹介と研究の現状について。呉簡の全貌が明らかにされていないが、最近、北京大学を中心とした北京呉簡研討班による『呉簡研究』第2輯が刊行されたことなど。日本の長沙呉簡研究会のも含めた今までの研究の流れも紹介。あと、中国から来られた王素先生、宋少華先生、羅新先生、それから韓国からの朴漢済先生の一人一人の紹介。紹介ごとに先生が起立され、その都度、拍手。あと日本からの阿部幸信先生、小嶋茂稔先生、町田隆吉先生のご紹介。 ○主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学)  予稿集の1ページ目を開くように言われ、そこには「主旨説明」と銘打たれた文章が2ページに渡りあった。基本的にはそれを關尾史郎先生が読み上げていく。1996年に長沙市の中心街である走馬楼の工事現場の古井戸(J22)から大量の簡牘が見つかったことから始まり、その価値、影響や研究動向について解説され、その後、このシンポジウムで発表される報告について一つ一つ順に概略を述べられていた。  主旨説明が終わると拍手。 ○報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」  予稿集とは別に資料があるA4の2ページの資料と附表が配られる。 はじめに ※この小タイトルは予稿集の写し  昨年の8月に行われた北京大学での長沙呉簡の国際シンポジウムでの日本側のデータベースの発表に中国側から強い関心が寄せられたので、それを受けての報告とのこと。 1.嘉禾吏民田家[艸/別]とは ※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。  まず田家[艸/別]の説明。50センチメートル前後の木簡で、面積に応じた租税額の計算と納税の確認が記録されているとのこと。それぞれの情報はすべて1枚におさまっている。記録された年度は嘉禾四年と五年(西暦235,236年)に集中しているとのこと。長沙のこの時期について詳細な情報が得られる。  その記載例が予稿集とレジュメに書かれている。記載例に項目ごとに順に番号が打たれていてその後、それぞれの意味するところが説明されている。「(1)丘名(2)身分(3)姓名(4)田地の総数……(30)銭の納入先(31)校閲日(32)校閲者の官職・姓名(名は自著)」といったようなこと。ここで予稿集とレジュメ両方間違っていると言うことで訂正。予稿集とレジュメは釈文(実物を見て解釈された文)に則って書かれたが、写真を見ると、違っていたとのこと。正「(32)田戸経用曹史趙野張惕陳通校」。訂正前は「用」が抜けていた  田家[艸/別]の性質としては今のところ不明とのこと。 2.数値データベースの紹介  データベースは簡番号、釈文、『嘉禾吏民田家[艸/別]』の掲載ページ(写真版・釈文)いうシンプルなもの。入力作業そのものは2001年に終了。しかし、釈文と写真版を比べるとあれこれ論ずる点が出てくる。例えば「丘ごとの納税者の偏り、年度ごとの記載情報の特徴」とか。こういったことはデータベースの副産物。  さらに進んで、データベースを検索システムにとどめず、数値化し、田家[艸/別]全体を分析・利用する手段にしようという動きが出てくる。  具体的には、阿部幸信・伊藤敏雄/編『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』に載っている三つの数値一覧、(1)阿部幸信/編「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」(2)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]米納入状況一覧」(3)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]における丘別・倉吏別米納入状況一覧」。この本のタイトルに「(I)」とあるのはまだ全部じゃなくごく一部で、全部は膨大な量とのこと。  続いて『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』の作成の背景について。田家[艸/別]は木簡一枚ごとに完結したものなので、できるだけ多くの複数枚のデータを抽出して比較検討する必要がある。田家[艸/別]のように田地の状況と課税の過程が詳細に表れている史料はなく、さらにそれが2000点以上もまとまっているので、数値データベースの手法が有効な手段の一つとしてでてきた 3.「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用事例─町数と畝数の関係を中心に─  数値データベース、「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用例(一例)について解説。判別不能な部分も逆算して求めることもしてある。  田地の数(町数)と田地の総面積について双方にについて判明するものを選別。  「丘」が田地を含んだ一定の空間的広がりをもつものであるとしてここでは扱う。田家[艸/別]のその次の記載に身分と姓名が記されている。これが耕作者なのか納税者なのか不明。その次の課税と直接関係しない田地の数量まで記載された理由が不明。しかし、嘉禾4年・5年の長沙近辺の田地の数と広さを知ることが出来る。  ここで面積を個数で割ることでその人物が工作していた個数あたりの面積(畝数/町数)をだすことができる。そうして出したデータの嘉禾4年全体をみてやると平均値が6.1畝、中央値が5.0畝とのこと。  こういったデータを丘ごとにわけてやる。その結果がはじめに配られた附表。丘によって畝数/町数にばらつきが出てくる。つまり数字が大きいものと小さいものに分かれてくる。  ここにどういった意味があるかというと、阿部先生が仮説を立てる。傾斜が比較的きつい丘では畝数/町数が小さく、平坦に近いと畝数/町数が大きくなると仮説。「丘」という名称が使われていても必ずしもそこが傾斜地であるとはかぎらないのではないか。 ※清岡補足  後日、コメントで仁雛さんから教えていただいたんだけど、ネット上に「走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫」というデータベースがある。試しに今、地名で「下伍」と検索すると地名が下伍丘である木簡の出土編號、地名、人名、年代編號、内容(釈文)が項目としてあげられ表となってずらずらと出てくる。内容(釈文)はこの報告通りのフォーマットであることを追認できる。なかなか楽しい。 ・走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫 http://rhorse.lib.cuhk.edu.hk/ ※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)  司会から、予稿集に質問用紙が挟んであるので、それに書き込んでもらうことで、午後のパネルディスカッションで質疑応答を行うとアナウンス。その関係か特にこの時間の質疑応答はなし。 ・「長沙呉簡の世界」ノート2へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/425 ※追記 走馬樓三國呉簡 嘉禾吏民田家莂資料庫

162. ノート:「連環画」の転変(『月刊しにか』2000年10月)
※前の記事 ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日) 前の記事で久々に学術の場に触れたのだけど、それでもなかなか手元の研究に気が向かないでいた。2014年12月20日土曜日に三国と無関係に関東へ行く用事があったので、どうせだったらやる気のてこ入れにひとまず国立国会図書館に行こうと思っていた。  移動は青春18きっぷを利用したJRの鈍行列車だ。ちょうど冬季の利用期間中なので。 ・青春 18きっぷ - おトクなきっぷ:JR東日本 http://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?GoodsCd=2125 ※関連記事 兀突骨(福岡県北九州市)  列車の中では、下記の三国志ニュースの記事を書いたり、デイヴィッド・A・プライス/著、櫻井祐子/訳『メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々』(早川書房2009年3月25日発行)の読書に当てたりしていた。 ※関連記事  呉書見聞 復活の兆し(2014年12月9日)  レッドクリフ PartI&II(イマジカBS2014年12月2015年1月)

163. 三国志演義の世界 増補版(2010年5月下旬)
東方書店のメールマガジン「【中国・本の情報館】Webユーザーのみなさまへ」vol.67(2010年5月14日発行)によると、東方書店より金文京/著『三国志演義の世界 増補版』が2010年5月下旬に1890円で発売するとのこと。ISBN 9784497210098。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/ ・国内書 三国志演義の世界 増補版 【5月下旬刊行予定】【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497210098&bookType=jp ※新規関連記事 中国の歴史4 三国志の世界 後漢 三国時代(講談社学術文庫2020年11月12日)

164. リンク:日本学者の名前の読み方
1,2年前に、知人が、その知人(つまり私とは無関係)のブログを発見したとかで、そこにある面白そうな記事を見ていたのを盗み見し、後でブックマークを付けておこうと思っていたが、すっかりそのブログの手掛かりすら忘れてしまっていた。 ・Marginal Notes & Marginalia http://iwamoto.asablo.jp/blog/ ・紹介 美馬牛  (※上記ブログ記事) http://iwamoto.asablo.jp/blog/2007/11/20/2449178 最近、上記ブログを通しで見ていたんだけど、そうすると上記ブログ記事を見かける。ここでピンと来て、リンクを辿ると、ブックマークを付けておこうと思ったブログとその記事に再会する。以下。 ・美马牛 http://hi.baidu.com/meimaniu ・日本学者の名前の読み方  (※上記ブログ記事) http://hi.baidu.com/meimaniu/blog/item/db00048f7cd394f9513d9223.html

165. 『中国古典小説研究』第14号(2009年11月15日)
※関連記事 書羅盤より2009年2月発売の書籍 上記関連記事で紹介したメールマガジン『書羅盤・チャイナブックナビゲーター』の2009年第21号(総204号)(2009年12月29日発行)で知ったこと。2009年12月第四弾。 ・中国古典小説研究会 - 国立大学法人 一橋大学 http://sasa1.misc.hit-u.ac.jp/zgxy/ 上記サイトにあるように中国古典小説研究会から『中国古典小説研究』第14号(ISSN 1342-2545)が2009年11月15日に2000円で発売されているという。 『三国演義』関連は下記の二報。 片倉健博「『三国志演義』のストーリー形成の一考察 ─雑劇『襄陽会』と『博望焼屯』を中心に─」 後藤裕也「読み物としての『絵図三国志鼓詞』 ─車王府本鼓詞『三國誌』との比較を通じて─」 「三国志ニュース」では今までこの研究会とその学会誌について触れていなかったんだけど、『中国古典小説研究』のバックナンバー目次を見ると、『三国演義』に関する論文が多いし、第12号には「学会報告」のところに「三国志学会第1回大会」が挙げられている。 ※関連記事 2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0

166. 高島 俊男 先生、逝去 2021年4月5日
訃報です。 2021年4月5日に高島俊男先生がお亡くなりになりました。享年84歳でした。 ・東方書店 東京店(神田神保町) (toho_jimbocho) on Twitter http://twitter.com/toho_jimbocho ・Twitter / toho_jimbocho: 中国文学者の高島俊男先生がお亡くなりになりました。『お言葉ですが…』『漢字と日本人』『水滸伝の世界』『三国志きらめく群像』『中国の大盗賊』などのほか、東方書店からは1991年に『独断!中国関係名著案内』(品切れ)を刊行されました。心からお悔やみ申し上げます ... https://twitter.com/toho_jimbocho/status/1379033388632264706 高島俊男先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。

167. 三国志学会 第十二回大会(2017年9月9日土曜日)
・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※前回記事 三国志学会 第十一回大会(2016年9月3日10日土曜日)  少なくとも私が把握しているここ数年は、三国志学会大会昼休み中の役員会で来年の三国志学会大会の日程が決められ(もちろん都合により変更されることもあった)、大会が終わる頃には事務局長等から来場された方々にその日程が告知されていた。  今回も2016年9月10日土曜日開催の「三国志学会 第十一回京都大会」にて早くも来年の三国志学会大会の日程について告知があり、「三国志学会 第十二回大会」は2017年9月2日土曜日にまず京都の龍谷大学にて開催され(とれれば2016年と同じく京都駅前の響都ホールとのこと)、その一週間後の9月9日土曜日に東京の二松学舎大学にて開催されるという。 ・龍谷大学 You, Unlimited http://www.ryukoku.ac.jp/ ・二松學舍大学 http://www.nishogakusha-u.ac.jp/  12年目ってことで一周まわってきた感じ。

168. 国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」(2010年11月27日28日)
 「毎日新聞 愛媛大学 曹操」という検索語句があったんで、何かと思って再検索すると、毎日新聞で下記の記事が出てきた。 ・シンポジウム:曹操、そうなの? 「墓」の真偽、愛媛大で中国人研究者交え論争 - 毎日jp(毎日新聞) http://mainichi.jp/kansai/news/20100904ddf041040008000c.html ・毎日jp - 毎日新聞のニュース・情報サイト http://mainichi.jp/ ※余談だけど、毎日新聞は記事のページにリンクを張ることを下記のように明言していて良い感じ。 ・Q.毎日jpのトップページや記事にリンクをはりたい http://mainichi.jp/info/etc/arukikata.html#Q9  しかし記事自体は、「多くの偽墓を作らせたという伝承もあり」とあって、『三国演義』「第七十八回 治風疾神醫身死、傳遺命奸雄數終」に「又遺命於彰德府講武城外、設立疑塚七十二、勿令後人知吾葬處:恐為人所發掘故也。」とある創作由来の話を、それを調べた気配も見せず乱暴にも「伝承」の一言で片付けてあってダメな感じなんだけど、それよりそこに書かれてある本題だ。  つまり、2010年11月27日土曜日28日日曜日に愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターで国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」が開催されるという。 ※追記。会場は「愛媛大学南加記念ホール」とのこと。 ・愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター -トップ- http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/aic/  入場無料ということなんで専門外の方もいらっしゃるとは思うけど、前述の創作由来の話を持ち出すような質問をして貴重な時間を不意にする行為はご遠慮してもらいたいところだろうね。  上記サイトのシンポジウムのページから下記へ講演者を引用する。招聘される講演者は河南省文物考古研究所関係者ばかりだから、曹操の墓と断定するのに疑問を呈する研究者による発表は期待できないんだろうね(下手をすればそれが曹操の墓だという結論ありきの議論になる)。もし聴講されるのだったら、そこらへんを念頭に置く必要があるだろう。 ※追記。無料でメールでの事前申込で先着順230人ということで、さらに各講演タイトルも発表されたので、下記引用部分に追加しておく。あと一般向けを意識してか「通訳あり」とのこと。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 講演者 村上恭通(愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター長)   「『三国志 魏の世界』開催にあたって」 白 雲翔(中国社会科学院考古研究所副所長)   「巻末・三国時代考古およびその新展開」 潘 偉斌(河南省文物考古研究所研究員)   「曹操高陵の発見と発掘および初歩研究」 郝 本性(河南省文物考古研究所研究員)   「曹操高陵出土文物の研究」 張 志清(河南省文物考古研究所副所長)   「漢代陵墓考古と曹操高陵」 パネル展示「魏曹操墓発掘成果特別展」見学会   in 愛媛大学博物館(愛大ミュージアム) ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※該当ページから下記へ引用の追記。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ プログラム 11月27日(土)12:00~ 受け付け開始 13:00~ 開会 13:15~13:45 村上恭通『「三国志 魏の世界」開催にあたって』 13:45~15:15 白雲翔『漢末・三国時代考古およびその新展開』 ...

169. 「古典中國」における文學と儒教(2015年4月)
汲古書院より送られてきたチラシで知ったこと。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ※リンク追記 ・「古典中國」における文學と儒教 http://www.kyuko.asia/book/b196250.html そのチラシによると上記サイトの汲古書院より、(早稲田大学教授)渡邉義浩/著『「古典中國」における文學と儒教』(ISBN978-4-7629-6546-3)が8000円(税別)で2015年4月に刊行したという。チラシでの煽り文は「◎中国文学史上における六朝文学の位置を儒教との関わりの中で明らかにする」とのことだ。 ・渡邉義浩ホームページ http://ywata.gakkaisv.org/ ※関連記事 英雄たちの「志」 三国志の魅力(2015年4月) ※新規関連記事 六朝文評価の研究(2017年1月27日)

170. 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)
・關尾史郎のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(14/05/29) (※上記ブログ記事) http://sekio516.exblog.jp/22063020/ 上記のブログ記事のRSSで知ったこと。そこにある論文一報を紹介して終わりかと思って、下記の学術団体のサイトにアクセスするとそれだけで終わらなかった。 ・一般財団法人 歴史科学協議会 http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/ ・歴史科学協議会 - 『歴史評論』2014年5月号 http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/769.html 上記サイトの上記学術誌ページにあるように歴史科学協議会が発行する 『歴史評論』2014年5月号(第769、10日発行)の特集は「3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀」とのことで、定価は885円だという。それに寄稿されている方々についての関連記事を下記に挙げておこう ※関連記事  卑弥呼と台与 倭国の女王たち(2009年10月29日)  「長沙呉簡の世界」ノート2  メモ:「党錮の「名士」再考」  リンク:「王粛「論秘書表」の基礎的研究」

171. 三国志学会第一回大会ノート5
・三国志学会第一回大会ノートお昼休みからの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/402  14時に定刻通り始まる。 ○劉世徳(中国社会科学院教授)、通訳 伊藤晋太郎(慶応義塾大学講師)「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」  今回はレジュメというより「≪三国志演義≫嘉慶七年刊本試論」という11ページの論文が配られている。それはタイトルも含め簡体字で書かれている。以降、ここで表示できる漢字に置き換える。  劉世徳先生は中国の三国志演義学会の会長でだそうな。司会の金文京先生によると、中国の古典小説研究の権威とのこと。  講演のスタイルは前日の劉先生の大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」と同じくまず劉先生が中国語で話し、随時、その後に通訳の伊藤先生が訳されていくというものだ。  なぜ劉先生が三国演義の版本について研究しているかのお話。三国演義の版本については日本の方が先を行っていて、中国人の方も急いで追いつかないといけないとのこと。そういう考えの元、一人に日本人学生(博士課程)をとったとのこと。もちろんその学生は版本研究。彼の論文は優秀だと評価されたので、研究所では彼を版本研究にとどめようとしたそうな。ところが彼はその研究所から去ることになったとのこと。その理由は彼が結婚することになったんだけど、彼は家を貰えなかったからとのこと。その後、彼は商売替えし、三国演義から完全に離れてしまったとのこと。  その後、劉先生自ら、版本の研究をすることになったとのこと。  劉先生が今まで嘉慶七年刊本の研究をしてきた理由。その版本というのは希なものだから。イギリスの学者、アンドリュー・ウエスト(論文の除魏安?)の「三国演義版本考」という本によると、嘉慶七年刊本はアメリカのハーバード大学にしかないとのこと。その版本というのは紹介する価値がある。  その版本の特徴は福建省の建陽というところで清の時代(嘉慶七年)に刊行されたとのこと。  嘉慶七年刊本は二つの版本の流れが合流している性質がある。この趨勢は明代の終わりから清代の初めに始まった。福建省の建陽にあった出版社のあるものが南京の方へうつった。本来は上三分の一が絵で残り下三分の二が字だったんですが清代になりその形式を捨て去った。この時代の版本は毛宗崗本にどんどん近づいた。この版本は毛宗崗本についてた絵を移植している。また金[又/土][口又]という有名な文芸評論家の名を勝手に使っている。毛宗崗本に近づいているのに毛宗崗本とは称されていない。福建省の建陽の版本は風下におかれていて絶体絶命の状況にあった。  嘉慶七年刊本は12幅(12枚)の絵がある(論文にその人物が書かれている。昭烈帝、張飛、諸葛亮、趙雲、姜維、曹操、張遼、許チョ、呉大帝、周瑜、魯粛、司馬懿)。その中に関羽だけ居ない。  明代、関羽は重きを置かれていた。嘉靖本とその復刻本の区別がある。嘉靖本には関羽がどのように殺されるか詳しく書かれている。復刻本ではそういう場面がない。どう書き換えられたかというと、天から関羽を呼ぶ声(「はやくおいでよ」)がした、というふうに書き換えられている。このように明代には関羽を尊重して書き換えが行われている。同じように関羽の名前もでず「関公」と置き換えられている。それに対し、嘉慶七年刊本では関羽の絵がなくなっている。明代から清代の初めにかけて関羽を神様にする機運が高まっていたが、嘉慶年間になると関羽崇拝のブームが覚めてきた。  嘉慶七年刊本は簡本(二十巻)であり、福建の本は簡本と繁本の二種類に分かれる。それら簡本は「志伝」と「英雄志伝」の二種類がある。嘉慶七年刊本を劉龍田刊本と黄一鶚刊本とで比較した。論文の比較は全面的ではないかもしれない。  次に論文の構造と結論についての話。  論文は八つの部分で構成。一は概況。二はいくつかの注意点。ここで四つの問題について述べている。一つ目は嘉慶七年刊本に書かれた作者の出身地が間違っている。二番目に関羽がいない点。三つ目は誤字が多い。四つ目はコスト削減のため臨機応変的な処置をとっている。  三番目のテーマはこれが福建省の出版なのかどうか。三つの問題。一つは劉先生は福建省出版と認識している。その理由は書店、序文の作者や巻の構成などから。三つ目は二つの可能性がある。一つの可能性は福建の書店が出版した。二つ目の可能性は余所の書店が福建の古い版本をつかって出版した。  四番目のテーマは三国演義第240節の題名について述べられている。三つの問題について述べている。一つ目は目次と本文の題名の不一致。二つ目は第139節、本文に関索は出てこないが、本の先頭にある目次には関索の文字が見える。三つ目は節のタイトルに誤字が見られる。→黄一鶚刊本によく似ている。  五番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の一。235節の本文を例にとって述べている。いろんな本を比べ文字を見ると「簡本」に分類。他の簡本に比べてもかなり簡略化されている。  六番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の二。33節と175節の末尾。33節の最後の部分には三つの違いがある。嘉慶七年刊本は明代の黄一鶚刊本の系列の簡略化された本と同じ。  七番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の三。関索の挿話について述べている。結論。嘉慶七年刊本は基本的に黄一鶚刊本、明代の劉龍田刊本と同じ。別の系統にある周曰校刊本とは異なる。  八番目は終わりに。すでにお話ししたのでここでは繰り返さない。 ○質疑応答  たいがあさんからの質問。三国志演義の版本について、日頃から疑問に思っていたことの質問。三国志演義の英訳(テイラー訳)について。英訳本と和訳本(小川環樹訳)とに内容が食い違う部分がある。例えば三顧の礼のシーンで諸葛亮が吟じる詩のところ。 ※ここらへんは「三国志ファンのためのサポート掲示板」で出ていた話題なので以下のリンク先を参照のこと http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2023 これら二つは版本が元々違うのか? →司会の金文京先生が(和訳の話なので)劉先生には答えることはできないとし、まず話の確認から。小川環樹訳は毛宗崗本とのこと。それから誰がおわかりになるか? と呼びかける。しばし二、三人からの中国語が会場に響き渡る。 (※中国文学のイギリス人の訳と日本人の訳について中国人と韓国人が中国語で話し合っているのを多くの日本人が静かに見守るという何とも国際色豊かなシーンだと清岡は内心思っていた) 司会の金先生は「それは面白い問題ですね」と話す。 →(劉先生の中国語の話を金先生が日本語に訳して)まとめると、結論としてはお答えできない。なぜなら劉先生自体、英訳も和訳も見ていないから。一般的な状況としてそれらは毛宗崗本に基づいて訳されている。毛宗崗本と一言にいってもそれは複雑で毛宗崗本の中でもいろんな違いがある。もしかすると英訳と和訳とでは元にした本が違うのかも。もし同じものに基づいていたら違いは起こらないだろう、と劉先生は信じているとのこと。明らかな例をあげると毛宗崗本では冒頭で詩があげられているが、本来の羅貫中のにはなかったここらへんは{前日の三国志シンポジウムの基調報告にあった話だ) →さらにここから実際に諸葛亮の詩の違いについての確認。英訳にあたるような版本はない、とのこと。意訳ではないか? この間、やっぱり中国語が飛び交う。 (清岡がたいがあさんにきくと今、英語の文が手元にないとのこと。あとで清岡がノートPCでサポ板のツリーを見せる) 周文業先生からの質問。嘉慶七年刊本を劉先生はどこでみたのか? →亡くなった方の蔵書の中で見た。 ハーバード大学のものと劉先生のみた本は同じものか? →同じものであろう 12幅の絵で関羽が居ない理由は? それは単に抜けているだけでは? →その可能性は小さいだろう。ハーバード大学の方の本でも関羽が居ないから。 周先生の理解では関羽崇拝ブームがどんどん高まっていった。劉先生との考え方以外で説明できることはないか? →関羽崇拝は文化現象。明代の終わりから清代の初めまで関羽崇拝が高まったことは間違いない。清代中頃、関羽崇拝がさがっていったかどうかは検討の余地がある。劉先生は版本の話だけで述べた。関羽崇拝がどんどん高まっていったという根拠は? 周先生による別の考え方。関羽を崇拝するあまり怖ろしくて絵にもできなくなった(場内笑)。それは証拠があって清代に関羽のお芝居をすることが禁止された例がある。 →劉先生。関羽があるべきところにはあるはずだし、必要なければないはずだ。(何か例が出たけど清岡失念)。お芝居というのは特殊な状況で版本の問題は別。しかし、周先生の解釈も否定できない。 33節の末尾に三つの違いがあるということだけどどれが正しいか? →字数の調整による違い。区切り方によってそれぞれのテキストに違いがでてきた。(その後、「紅楼夢」の例があげられる。) 話を通すと全部、同じだが、どこで区切るかによって違う。33節の末尾について専門に論文を書いたことがある。建陽で火事が起き出版業がだめになったことがある。数年前に建陽にいったことがあるが出版業が盛んだった時代のいかなる痕跡も残っていなかった。建陽の出版業は時代が下るごとに縮小していった。出版の中心は浙江省の杭州や南京の方へ移っていった。(以下、専門的な話が続く) 司会の金先生からのコメント。こういったテキストの研究というのは必要なものではあるが、非常に退屈なこと。劉先生の講演の冒頭で学生さんが版本の研究を離れるのも当然か、なと(場内笑)。もう一人名前の出ていたイギリスの人も今は銀行員になっていて、刊本研究をやめている。これから版本研究をやる人はご参考に、とのこと(場内笑) ○10分休憩  ここで清岡は昨日一瞬、会った仁雛さんと会い、挨拶。 ...

172. ノート4:三国志学会 第五回大会
※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日) ※前記事 ノート3:三国志学会 第五回大会  14:30、司会からアナウンスが入り、稀代麻也子先生(筑波大学人文社会学系准教授)の紹介が入る。稀代先生は青山学院大学の大学院ご出身だそうな。  レジュメはA3用紙1枚、A4縦書きで4ページだ。以下、その時のノート。 ○研究報告 14:00~14:50「劉楨―「文学」の「感」」

173. 中國古代の財政と國家(2010年9月17日)
・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/  ※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日)  上記サイトのRSS配信で下記の書籍を知る。 ・汲古叢書91 中國古代の財政と國家 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b68285.html  つまり汲古書院から2010年9月17日に渡辺信一郎/著『中國古代の財政と國家』(汲古叢書91、ISBN9784762925900)が14700円で発売するという。下記関連記事にあるように、著者は『天空の玉座』等でお馴染みの先生。 ※関連記事 メモ:『天空の玉座』

174. 2006年9月17日 「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」
 關尾史郎先生のブログより。2006年9月17日日曜日10時から17時まで、お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室にて長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」があるそうな。入場無料,一般聴講可とのこと。詳しくは下記のリンク先へ。 ・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・記事「長沙呉簡国際シンポジウム『長沙呉簡の世界-三国志を超えて-』」 http://sekio516.exblog.jp/3729950 <追記>2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート http://cte.main.jp/newsch/article.php/417

175. 三國志研究第六号(2011年8月27日)
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事  三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日)  三國志研究第五号(2010年9月11日) ※次記事 三國志研究第七号(2012年9月1日) ※追記 三国時代から見た「魏志倭人伝」(静岡県下田市2011年10月30日)  上記関連記事で触れた2011年8月27日開催の「三国志学会第六回大会」にて例年通り、会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第六号(112ページ、ISSN 1881-3631)が渡された。  『三国志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。下記の汲古書院のサイトでは今のところその情報はないけど、まぁ問題ないのだろう。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/

176. リンク:「王粛「論秘書表」の基礎的研究」
※関連記事 メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ)  とある大学の研究紀要にある論文が読みたくなって、上記記事で紹介したように、下記の「学術機関リポジトリ構築連携支援事業」のサイトで、「機関リポジトリ一覧」を見てみる。 ・学術機関リポジトリ構築連携支援事業 http://www.nii.ac.jp/irp/  そうすると一覧に目的の大学はなかったものの、「国士館大学」の文字が見えたので、アクセスする。 ・i-Lib kiss (国士舘学術情報サービス) http://libw01.kokushikan.ac.jp/  少々検索してみる。そうすると下記論文が出てくる。PDF形式。  津田資久「王粛「論秘書表」の基礎的研究」(『国士館大学文学部人文学会紀要』Vol.38(200512))  途中で王粛「論秘書表」の通釈(日本語)も収録されているので、三国魏に興味あるが、論文は難しいと敬遠している方でも、上記「i-Lib kiss」の検索から該当論文の通釈だけでも読んでみると良いかも。

177. メモ2:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」
※前記事 メモ1:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」  アクセス集計のペースが1日当たり4日分から3日分にペースダウンしたものの、2007年12月17日分まで進み作業の目処が立ち、また並行して、前記事に引き続き、発表原稿へも当日配るレジュメへも転用できるような原稿を書いている。  意欲を高めるために、前記事で「序言」を公開したわけだけど、現行ではその文に日本におけるインターネットの利用状況に関する文を加えている。それはウェブ上に公開されている総務省による平成18年「通信利用動向調査」を引用した上で、それを論拠にし書かれている。前記事を編集し、その部分を公開しても良いのだけど、いちいち変更した分を編集するときりがないため、前記事に書いた部分を第一稿として留め、最終稿は当日にとっておくことにする。  それで今回、前記事の「序言」に続き、「集計方法」を公開する。もちろん前記事と同じく改められる可能性は高いが、変更箇所を追って公開しない予定。また、「メモ1」「メモ2」と続いたが、次は「3. 集計結果と考察」となり、報告の肝の部分になるため、発表前に公開される可能性は低い。但し、発表者の意欲を高めるため、断片的に公開される可能性は捨てきれない。  主に「2-4. 検索語句の分類」については下記、関連記事を大きく参考にした(とは言ってもそこの冒頭で示唆するように、元々、発表原稿に流用する目的で書いたんだけどね)。 ※関連記事 メモ:検索ワードの分類

178. 三国志学会第一回大会懇親会
・三国志学会第一回大会ノート6の続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/407  三国志学会第一回大会は17時に予定通りに無事終了。  プログラム通りだと18時から希望者は懇親会だ。  ここで渡邉義浩先生によるアナウンス。それによると、余裕を持って17時半に終わると考え、その後の予定もその通りに組んだとのこと。懇親会の会場は大東文化大学の板橋キャンパスになるとのことなので、そこまでチャーターしたバスで移動する手順。予想外にきちんと時間通りに終わったので、30分程度、大東文化会館での待ち時間となる。  とりあえず清岡はKJさんやらUSHISUKEさんやらげんりゅうさんやらミミまろさんやらたいがあさんやらそれぞれとしゃべったりしていて時間をつぶしていた。何の話してたっけ? USHISUKEさんとKJさんが全国津々浦々に我々のような三国志ファンの集まりがあるはずって話かな。そういった草の根の集まりと連絡をとりあって連携をとりたいなぁなんて言っていた。それは必ずしもネットにつないでいる集まりではないからどうやって把握しようって話かな。清岡は実現性を考えないと前置きをおいて我々がイベントやら講演やらの巡業をすればいいんじゃない?なんて言ってた。あとミミまろさんとは清岡が手に持つ礼記の訳本を元にした話(殿下、陛下の語源をお聞きしたり)、たいがあさんとはやっぱりテイラー訳の種本の話をしていた。  時間になって呼びかけがあったんで、地下のバス発着場に降りると、大型のバスが二台きていた。みんなで同じバスへ乗り込む。  大東文化大学板橋校舎に到着し、案内されたところは食堂みたいなところ。「大東文化大学板橋校舎 カフェテリア Green Spot」とのこと。 ○懇親会(18時-) 会 場:大東文化大学板橋校舎 カフェテリア Green Spot  そこにはテーブルが10ぐらい用意されていて、みなさん、用意された荷物置き場に荷物をおいて、自由にそれぞれのテーブルへ陣取る。  案の定、我々6人だけが一つのテーブルにかたまった。  そして懇親会は、沈伯俊先生からの乾杯のご挨拶から始まる。  一同「乾杯!」、そして満場拍手。  懇親会のお料理はバイキング形式+立食パーティー形式。こういうときは清岡は話すよりも何よりも真っ先にお料理を取りに行く(汗)  遠目で岡崎先生を見かけたので、宣和堂電網頁のオフ会の受け売りな上に冗談で、げんりゅうさんに「田中芳樹先生のこと、聞いてきてくださいよぉ」なんて言っていた(私自身、田中芳樹先生のご著作をまとまって読んでいないので実行できなかったが)。  それから6人であれこれお話。この6人だと三国志関連のネットの話とかネット上の知り合いの話とかの話になりがち。  それで我々6人専用と化していたテーブルへの初のお客様はKJさんのお知り合いの池田雅典さん(※清岡は初対面だったので初め誰だかわからないでいた)。今回、スタッフをされていて、あれこれ裏方のお話をしてくださる。  その次のお客さんが11歳の女の子とそのお母さん(と思われる女性)。実は三国志学会第一回大会の会場でこのお二人のすぐ後ろに我々が陣取っていたので、どの講演でもこの女の子が熱心にノートをとっていたのを我々は知っていた。  それで我々のところへ来た用件というのが、USHISUKEさんが質疑応答で名乗った「NPO三国志フォーラム」についてそれは何の団体かって聞きに来たとのこと。ということで代表者のUSHISUKEさんに説明してもらう……ってまだ団体の実体はほとんどない(汗) それでメンバーのサイトなどを紹介したり。「NPO三国志フォーラム」のお客さん第一号だ。  その後、その女の子は「三国志の舞台」という本を手に作者の田中靖彦先生の元へサインを貰いに行っていた。  その後、我々6人のところへ来たお客さんは仁雛さん。清岡とあれこれ話をした。それにしても国際シンポジウムの定義は外国人の方が参加していたらそういうことだとのこと。それから画像石を使う場合の著作権の話とか(まるまるスキャンはその絵の著者や撮影者の著作権に抵触するので駄目だけど、スケッチだとOKだとか)。あと仁雛さんとげんりゅうさんとに意外なつながりがあったことが判明。しばしお二人でローカルトークで盛り上がる。その後、仁雛さんはKJさんと三国時代の地理関連の話をされていた。  お次のゲスト(?)はビッグなゲスト。USHISUKEさんのところへ澤章敏先生がいらっしゃる。やっぱりこれも質疑応答がきっかけになってるね。場所が遠かったので何を話していたかわからなかったけど、結構、長い間、熱心にUSHISUKEさん、聴いていたなぁ。  19時ごろ、狩野直禎先生による三国志学会第一回大会に対する総評が入る。おっしゃるとおり会を追うごとに会員が増えると良いなぁ。  それから誰か確認とってないけど、たいがあさんのところへお客さん。こちらもやっぱり質疑応答がきっかけになってる。  狩野先生の総評をまたいで、仁雛さんとKJさんと熱心に話していて、さらに清岡が加わり交代し(笑)、結構、長い間、あれこれ話していた。「漢代の文物」が共同研究の成果の本だから市販されていない幻の書だったとか、画像石に異民族はなかなか書かれていないとか、学生を中国に送り込む方式(?)とかあれこれ。  その後、また6人で話していたんだけど、ここで、たいがあさんからネット関連のビッグニュースをきく。さっそくその夜……というかオフ会への移動最中、三国志ニュースの記事にしたんだけどね。  20時ごろ、そうこうしている間に懇親会も終了の宣言。  帰り方の概要が説明された後、石井仁先生から締めの挨拶。  「この席は三国演義でいうところの桃園結義」とおっしゃり場内をわかせる。満場拍手。  その後、渡邉義浩先生が「来年は三顧の礼1800年記念でございますから、来年もお会いしたいと」と場内をわかせ、さらに「再来年は赤壁の戦いで」とさらに場内を沸かせ、解散。  お別れの挨拶をそれぞれの人に言って、スタッフの方が先導してくれる帰り道にそれぞれ別れる。 ……とそのまま6人、別れるはずだったんだけど、仁雛さんのこの後、飲みに行くのかって質問になぜか再結集する。USHISUKEさん、げんりゅうさん、KJさん、清岡、ミミまろさん、仁雛さんの6人が池袋で軽く飲みに行くことに(清岡が乗る夜行バスの出発時間がリミット)。  スタッフの池田雅典さんが先導するままに東武練馬駅行きのバス停へ向かって歩き出し、会場を後にした。 ・第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/661 <次回>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

179. リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について
※前記事 リンク:『法制史研究』『書学書道史研究』 ※関連記事 メモ:「功次による昇進制度の形成」  前々回の記事や上記関連記事で触れたように官吏の昇進について見てきたんだけど、そもそもどうやって官吏になるかというのにも興味が出てくる。そういったことで読んだのが下記論文。対象となる張家山漢簡の二年律令は、一般的に呂后の二年(紀元前186年)と考えられるという。三国時代からは随分、遡るんだけど、制度的に繋がりが深く参考になることが多いと見なし読み進める。 西川 利文「張家山漢簡「史律」に見える任用規定について」(『文学部論集』第93号 (20090301) pp.107-116 佛教大学 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40016598277  現在、全文PDFへのリンクが切れているが、実は下記「佛教大学論文目録リポジトリ」の「文学部論集」から論文の中身が読めるようになっている。 ・佛教大学論文目録リポジトリ http://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/index.htm

180. 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート1
※目次 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日) ※前記事 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)  予想より多い来客のためレジュメ増刷中で、開始が遅れる様子。ところが今は足りているとのことで、13時40分ぐらいに第1部の司会の阿部幸信先生が前に立ち、進行をする。