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「長沙呉簡の世界」ノート3
・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/425 ○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」 11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。 本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。 1. はじめに ※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。 『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか? しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。 2. 長沙呉簡名籍の検討 いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。 (1)名籍にみえる「戸」と「家」 ※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。 「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。 民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。 ※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。 この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。 (2)名籍の書式 名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ 例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。 (3)名籍にみえる戸人と戸数・口数 戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。 さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。 3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察 復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。 まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例 他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。 ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。 4. むすびにかえて 民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。 12時30分終了。 時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。 ○昼食・休憩(12:25~13:30) 予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。 ・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/448
: 清岡美津夫
2006年10月15日(日) 13:58 JST
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三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学)
※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学) 三国志学会 公開講演会(2009年9月6日) 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) 三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日) ※追記 三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日) ※追記 三國志研究第五号(2010年9月11日) ※追記 非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像(2010年10月31日) ※追記 十大三国志ニュース2010 前編 ※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日) ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ 上記サイトの「大会ご案内」のページで昨年の大会プログラムが残っていて、当然、清岡の名前もあるもんだから、有り難くも恐縮していたので、いつ今年の分へ変わるのか結構、頻繁にチェックしていた。 今日、見てみると、昨年と違い、日時、会場、プログラム共々、今年の分へ一気に更新されていた。 というわけで、「三国志学会 第五回大会」は2010年9月11日土曜日に二松学舎大学 九段キャンパス3号館 3021教室(東京都千代田区)にて開催されるという。昨年、「三国志学会 公開講演会」が行われた所と同じ大学のキャンパス。あと大会に合わせて機関誌『三国志研究』が発行され、今回は第五号だね。(個人的な話だけど、日程的に往路は青春18きっぷを利用できそうだ)。 ・二松学舎大学 http://www.nishogakusha-u.ac.jp/
: 清岡美津夫
2010年7月20日(火) 12:06 JST
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魏晋南北朝史のいま(2017年9月)
※前の記事 教科書では読めない中国史(2006年3月) 2017年10月28日土曜日16時ごろ、前の記事やその前の記事ににあるように東京の神保町の東方書店の中に入ってすぐのところの平積みのものを見ていた。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ 相変わらず楽史舎さんの同人誌が立てかけられているなと思いつつ。 ・楽史舎index http://www.diced.jp/~rakushi/ ※関連記事 メモ:東方書店(2016年7月30日) 次に手に取ったのがひだ積み右奥の書籍。以前から気になっていたのだけど、三国がどれくらいあるか確認したかったのを思い出した。それは勉誠出版より2017年9月に発売の窪添慶文/編『魏晋南北朝史のいま』(アジア遊学 213、ISBN978-4-585-22679-6)だ。2800円(税別)とのこと。下記に目次を引用するのだけど、開いたらいきなり田中靖彦の曹丕についての文だったんで、こりゃ三国志にもろ関係すると。 ・勉誠出版 --HOME http://bensei.jp/ ・魏晋南北朝史のいま http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=9_14_40&products_id=100791 ※関連記事 中国古代都城の設計と思想(勉誠出版2016年2月) 中国知識人の三国志像(2015年7月) 「湖南出土魏晋簡牘をめぐる諸問題」「出土資料からみた魏晋時代の河西」(2012年2月19日20日) ※新規関連記事 中国古典小説研究の未来(2018年5月) ※新規関連記事 サブカルチャーとしての三国志(現代中国のポピュラーカルチャー 勉誠出版2007年3月)
: 清岡美津夫
2017年11月 5日(日) 08:19 JST
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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日) 前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。 会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。 ●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」 10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。 予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。 ○はじめに 南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。 現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。 南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。 問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。 ○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書 両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。 内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。 ○2. 墓誌引用公文書の内容 まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。 『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。 (※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた) 馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。 墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った? 文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。 わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。 梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。 (※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。 公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。 ○3. 各文書の書式等について 策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。 詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。 札の書式。時間の関係で省略。 ○おわりに 詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。 (今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。 そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。 11:30終了。 ※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 ※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日) ※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)
: 清岡美津夫
2008年9月23日(火) 11:32 JST
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三国志学会第一回大会ノート6
・三国志学会第一回大会ノート5の続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 司会の渡邉義浩先生から狩野直禎先生の紹介が入る。狩野先生がご著作の『諸葛孔明』を書くに至ったか、のご講演とのこと。 ○狩野直禎(三国志学会会長、元京都女子大学学長)「私と三国志」 レジュメは縦書き手書きの5枚。ある意味、貴重なレジュメ。 先祖は熊本肥後。(転勤族の)父親が初めて東京に赴任したときに狩野先生がお生まれになったとのこと。大半は京都にいらっしゃったとのこと。 小学校5年生のときに再び東京へ転勤。夏休みに引っ越し。そういう意味で友達がいなかったので両親が佐藤春夫/著『支那文學選』(新潮社、新日本少年少女文庫14)を買ってくださったとのこと。 ここで狩野先生が初めて三国志の存在を知ったとのこと。そこのエピソードは「天下の英雄は君と僕だけさ」「五丈原の戦ひ」など。そこの解説では三国時代は我が国の神功皇后の時代、と解説があったそうな。さらに引用した書物の簡単な解説があるとのこと。そこに『三国志演義』と『三国志』の解説があったそうな。狩野先生がこの本で印象に残ったのは「故郷(ふるさと)」と題したもの。魯迅の「故郷」を訳したもの。 1942年3月に小学校卒業。 当時は義務教育6年間。狩野先生は東京の中学校進学。当時の主要教科は英数國漢だそうな。現代では考えられないが漢文の授業があった。教科書は簡野道明『新修漢文』。最初は簡単だが(江戸時代に書かれた漢文)、十八史略など入ってきて、曹植「七歩詩」などがあったそうな。歴史(社会の一つじゃなく独立している。)は一年が日本史、二年が東洋史、三年が西洋史、四年がふたたび日本史だったとのこと。そのとき二年の教科書は羽田亨『中等東洋史』とのこと。仏教がらみでインド史が入ってくる程度。三国時代も当然、入ってくるが30分か1時間程度。 1944年で中学三年生。労働に使われたりしたそうな。狩野先生は防空壕の木材を運んだりしたとのこと。そのため西洋史については勉強する機会がなかったそうな。そのうち空襲が始まる。京都に帰る。京都府立の中学に転校。戦争が終わったら終わったで車掌として労働にかり出されていたとのこと。 その後、出師表について授業を受けたそうな(教科書、土井晩翠『星落秋風五丈原』)。祖父が手紙で書き下し文を送ってくれたとのこと。後年、狩野先生の『諸葛孔明』でその文をそのまま使ったとのこと。 京都の高等学校に進学。高等学校の一年生は日本史、二年生は東洋史、三年生は西洋史。東洋史の授業の先生は羽田亨先生のご令息だったそうな。そのときの夏休みの宿題が内藤虎次郎『中國中古の文化』(1927年の授業が本になったものとのこと)を読むようにというもの。当時は紙は悪いし内容が難しいし読みづらいものだったそうな。感想文提出。その中の項目で「曹操の文学趣味」「曹操の矯正策」「諸葛亮の矯正策」というのがあったとのこと。岡崎文夫『魏晋南北朝通史』を読んだそうな。 大学へ進学(当時は高等学校進学の方が難しいそうな)。狩野先生は哲学に行くか、文学に行くか、史学に行くか迷ったとのこと。結局、東洋史学へ。狩野先生は四川省に興味をもつ。那波利貞「文化史上より観察する四川省成都」(歴史と地理 十二巻五号・六号)、久村因(ちなみ)の諸論文(漢代の地名に詳しい)。大庭脩「秦の蜀地経営」(卒業論文→竜谷史壇33号、1950年)。卒業研究は蜀漢か五代十国がまよったが、結局、その両方を含む○○伝説の研究(※聞き取れず)。三国志の研究に近づく。 1953年に大学を卒業。そのころに小川環樹・金田純一郎/訳『三国志』(岩波文庫、1953年、※三国演義の訳) 旧制大学院に進学。一切、単位なし。そのころに川勝先生の論文が書かれる。 川勝義雄「曹操軍団の構成について」(京都大学人文科学研究所創立二十五周年記念)、その中で曹操軍団の構成は任侠的結合である、とかかれていたとのこと。同じ頃に宮川尚志先生が京大に来られる。 宮川尚志「三国呉の政治と制度」(史林38巻1号、1955年) 狩野先生はちょうどそのとき史林の編集委員だったとのこと。この論文の構成などをしたとのこと。 吉川幸次郎「曹氏父子伝」(世界121~132 6回 1956年)。この中の文を読まれる。内容は、我々は曹操を三国演義的な人物像を想像するが、それは正しくない、とかそういう旨。 1957年に狩野先生はある論文を書き上げる。それが狩野直禎「後漢末の世相と巴蜀の動向」(東洋史研究15巻3号、1957年)。その書き上げた直後に、吉川幸次郎「曹植兄弟」(新潮55巻、1958年)の連載が始まる。その後、1962年に吉川幸次郎「三国志実録」(筑摩書房)刊行。時代区分論争に関連し、「魏晋から中世なのか?」と吉川先生から三ヶ月も質問を受けた、という話。 その後、五斗米道の話も含めた論文、狩野直禎「蜀漢政権の構造」(史林42-4、1959年)を書き上げたそうな。このころ、狩野先生は京都大学東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』(東京創元社、1961年)の出版(下請けの仕事)に携わる。ここでいろんなことを勉強したとのこと。 そのころから狩野先生は聖心女子大学の小林分校に就職。そこで二年間勉強すると短大の資格が貰えるとのこと。その時期に狩野直禎「華陽国志の成立を廻って」(聖心女子大学論叢21、1963年)を書き上げる。狩野直禎「後漢時代地方豪族の政治生活」(史泉22、1961年)という論文を書く。これは[牛建]為郡の張氏について書かれていて、三国時代から離れて後漢時代だとのこと。 狩野直禎『両漢學術考』(筑摩書房、1964年)。吉川先生から言われた仕事とのこと。元は1924年の講義。後漢における老荘思想の萌芽。 宮崎市定先生が定年を迎える。普通は定年記念で論文集ができるが、人物往来社から中国人物叢書の企画があがる。第一回配本は随の煬帝で宮崎市定先生ご自身の著。第二回配本は「諸葛孔明」で狩野先生に割り当てられる。狩野直禎『諸葛孔明』(人物往来社、中国人物叢書2、1966年)。これに書くに当たって参考にした本がレジュメに書かれている。内藤虎次郎『諸葛武侯』(東華堂 1897年)。これは劉備がなくなった時点で終わっている。つまり未完。非常に細かく優れた内容。内藤先生は三顧の礼を否定。杉浦重剛・猪狩又藏『諸葛亮』(博文館、1913年)。古本屋で購入。宮川尚志『諸葛孔明』(富山房、支那歴史地理叢書、1940年)。植村清二『諸葛孔明』(筑摩書房、1964年)。 桑原隲藏「孔子と孔明」。これは「支那史上の偉人」というタイトルで1923年に大阪の懐徳堂で講演したときの紀要。のちに『東洋史説苑』(弘文堂、1923年)におさめられる。そこには桑原先生が「至誠一貫してその行動に一点の不純をも認めぬ」と断定。その中で中国嫌いの平田篤胤先生が「孔明の生涯の中で尤も感激に堪えぬのは、実に成敗を度外に北伐を実行して義務に殉じた時にある」と紹介されているとのこと。 その後、狩野先生は森鹿三/編『東洋の歴史』第四巻「分裂の時代」(人物往来社、1967年)で「三国の鼎立」、「西晋から東晋へ」、「民族の大移動」の章を執筆されたとのこと。それと平行して狩野直禎『魏晋學術考』(筑摩書房、1968年、1926年の講義内容)を執筆。狩野直禎『支那文學史』(みすず書房、1970年、1908年の講義内容)を出版。これは六朝文學。狩野直禎「李固と清流派の進出 田村博士頌寿 東洋史論叢」(1968年)を執筆。これはタイトル通り三国時代の前の話。狩野直禎『「三国志」の世界─孔明と仲達─』 清水書院、1971年 人と歴史東洋5。孔明についてそれ以前に書いたので、仲達を入れたとのこと。 ○質疑応答 質疑を呼びかけたものの、特になかったので、「ご講演ということで質疑はなし」ってことで終了。満場拍手。 ・三国志学会第一回大会懇親会へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/409
: 清岡美津夫
2006年9月10日(日) 23:34 JST
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第2回三国志学会大会ノート1
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 右隣でげんりゅうさんとしずかさんが中国史における降雪の表現みたいな話をしている。 やはり去年と同じく、金銭の授受がある受付で混んでいる模様。そのため、少し遅れ10時4分スタート。 駒沢大学の石井仁先生が司会。 ○会長挨拶 三国志学会会長 狩野 直禎 三国志学会の方針みたいなことに言及されていた。歴史だけじゃなく文学・思想などなど幅広い分野があり、また一般にも門戸を広げているってことなど。今回、発行された『三国志研究』2号についても。 ○報告(午前10時10分~午後1時) ○「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科) ●長沙走馬楼呉簡について ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ 1996年に湖南省長沙市で出土した三国呉代の簡牘。公表されている簡牘の紀年は後漢中平二年(185年)-孫呉嘉禾六年(237年)。但し黄龍年間(229-231)、嘉禾年間(232-)に集中。主な内容は長沙郡ないし臨湘県(侯国)の簿籍・文書。総数は14万点以上。その中で図録本として刊行されているのは「嘉禾吏民田家莂」(以下、田家莂)と題される大型木簡2141枚、竹簡19636枚。 ●はじめ 走馬楼呉簡には倉庫関係の簡牘が多く含まれている →倉庫や出嚢や物資の流通など、当時の地方財政システムの理解に寄与する 谷口先生の今までの研究 穀倉関係簿の整理・分類の初歩的作業(出土した時点ではバラバラなので) 地方倉における搬出や移送といった穀物財政の仕組み及び簿籍の作成過程等の検討 伝世文献中に当時の税制に関する資料は乏しいため、これらの検討で新知見が得られる →簿籍簡牘に賦税などとして穀倉に入れられる穀物の名目の一つ「限米」について再検討(その性格を位置づける) →孫呉政権初期の穀物財政及び支配のあり方の一端を伺う。 ●一、穀倉に収蔵される穀物名目の概観 公表されている簡牘にもられる穀物名目の概観について。 (1)田家莂とは納税者台帳であり、田地の面積と租税額、納税の確認などの情報が記されている(レジュメにはその一例の釈文と書き下しが掲載) (2)賦税総帳木牘とは納入穀物の総帳。ある期間内に納められた総計と内訳が記される(レジュメにはその一例の釈文が掲載。所々、太字下線部になっていてどこが内訳を示しているかわかりやすくなっている) (3)穀倉関係簿(竹簡)。穀物納入の証明書(莂)を編綴して簿としたもの(莂簿)、一ヶ月・三ヶ月ごとの出納帳(それぞれ「月旦簿」、「四時簿」)など。 →レジュメの別紙に上記の簡牘の写真があり、その紹介。 続いてレジュメに「走馬楼呉簡中に見える穀物収入名目」がリストアップされている。分類としてa「税米」・「租米」(上記の(1)(2)(3)より)、b「限米」( (2)(3)より)、c官有物売却の代価としての米( (3)より)、d貸与返還米( (3)より)、e折咸米( (3)より) 「○米」の丘に「禾(アワ)」「粢(キビ)」「麦(大麦)」「豆(大豆)」なども見える。そのため「米」はイネのことと思われる。 先行研究に基づき簡単に分類 上記aは「田家莂」におると「吏民」(※吏と民以外にも卒なども含む総称)の田に課される米。米の他に布・銭も課されていて、それぞれを米で代納したのが「田畝布米」「田畝銭米」 →一般吏民に課せられた賦税と考えられる。 cは塩などの官有物を売却し、代価として得た穀物収入。「鹽(賈)米」 dは穀倉から貸与されていた穀物を民が返還したもの。「民還貸食米」。新規の収入ではない。帳簿上、他と区別。 eは輸送の過程などで失われた穀物を後日補填したもの。d同様、新規の収入ではない。 bの諸「限米」は身分呼称が冠されるのが特徴(例「衛士限米」)。 三説ある。1)国家の「正戸」でない者に課された米。最初に言われた説。「田家莂]」に記載されているのが「正戸」という理解に基づく。 2)屯田従事者が納入する米(「屯田限米」という記載があるから)。 3)「屯田限米」は屯田に関わる地租で、その他の身分は王族などの依附民が納めた地租 この三説に対するポイント ・「屯田限米」以外の「限米」も全て屯田に関係すると考えるか否か ・“「正戸」でない”、“依附民”などとされる「限米」納入身分者が名籍中にどうみえるか →これを再検討(先行研究があるものはレジュメの後で提示) ●二、「限米」の納入状況と田
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2007年9月 6日(木) 20:46 JST
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三国志学会 第四回大会プレノート
※前記事 メモ3:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」 2009年9月5日に「三国志学会 第四回大会」を聴講したんで、いつものように「三国志ニュース」にノートを書いていこうと思うんだけど、その前に今回、私は報告者ということもあり記録の意味でも、当日までの経緯を書こうかと思う。特殊ケースなので誰かの参考になるとは思えないけど、何かの役に立てれば幸い。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)
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2009年9月 9日(水) 19:22 JST
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158.
歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)
・關尾史郎のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(14/05/29) (※上記ブログ記事) http://sekio516.exblog.jp/22063020/ 上記のブログ記事のRSSで知ったこと。そこにある論文一報を紹介して終わりかと思って、下記の学術団体のサイトにアクセスするとそれだけで終わらなかった。 ・一般財団法人 歴史科学協議会 http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/ ・歴史科学協議会 - 『歴史評論』2014年5月号 http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/769.html 上記サイトの上記学術誌ページにあるように歴史科学協議会が発行する 『歴史評論』2014年5月号(第769、10日発行)の特集は「3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀」とのことで、定価は885円だという。それに寄稿されている方々についての関連記事を下記に挙げておこう ※関連記事 卑弥呼と台与 倭国の女王たち(2009年10月29日) 「長沙呉簡の世界」ノート2 メモ:「党錮の「名士」再考」 リンク:「王粛「論秘書表」の基礎的研究」
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2014年7月 7日(月) 21:50 JST
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159.
三国志演義の世界 増補版(2010年5月下旬)
東方書店のメールマガジン「【中国・本の情報館】Webユーザーのみなさまへ」vol.67(2010年5月14日発行)によると、東方書店より金文京/著『三国志演義の世界 増補版』が2010年5月下旬に1890円で発売するとのこと。ISBN 9784497210098。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/ ・国内書 三国志演義の世界 増補版 【5月下旬刊行予定】【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497210098&bookType=jp ※新規関連記事 中国の歴史4 三国志の世界 後漢 三国時代(講談社学術文庫2020年11月12日)
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2010年5月19日(水) 23:07 JST
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160.
メモ:二つの学術刊行物
私のような素人が、学術関連、特に史学関連の情報を知るのにとても重宝しているのは下記の關尾先生のブログ。ブラウザについているRSSニュースフィードで更新をチェックしている。 ※ブログのタイトルには当たり前だけど敬称がなく、ここで取り上げるときにはいつも付けているが、今回は紛らわしいので敬称略。 ・『關尾史郎のブログ』 http://sekio516.exblog.jp/ 実は上記ブログ以外にも關尾先生には個人的な趣味のブログがあって、それが下記。タイトルの初めの文字が違うんだね。 ・『関尾史郎のブログ』 http://sekio402.exblog.jp/ 『關尾史郎のブログ』の方で気になる刊行物を見かける(と今更のメモだけど)。 ・『西北出土文献研究』第5号,入稿間近! http://sekio516.exblog.jp/5341600 この号は「画像磚墓・壁画墓の特集号」ということでそれ自体、とても興味深いんだけど、その中でもとりわけ個人的には >小林 聡「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」 がとても気になる。進賢冠ファンの私としては興味深いし、中国古代服飾ファンの諸兄(?)も読んでおきたいところだろうね。幸運には「書店を通じて販売の予定」があるとのことなので、資金に余裕があれば購入したいところ。でも、下記のように第4号が出たばかりだからまだ先なのかな? ・『西北出土文献研究』第4号、刊行! http://sekio516.exblog.jp/5404246 <4月17日追記> 今更気付いたけど、ここを書いた夜に刊行の記事がアップされている。 ・『西北出土文献研究』第5号,刊行! http://sekio516.exblog.jp/5502972 1500円。ころあいを見て書店(東方書店とか?)へ問い合わせだな。 <追記終了> 刊行された『長沙呉簡研究報告』第3集を例に取ると、タイトルにある「入稿」の次に「刊行」ってのが来るんだろうね。 ・『長沙呉簡研究報告』第3集,入稿! http://sekio516.exblog.jp/5286728 ・『長沙呉簡研究報告』第3集,刊行! http://sekio516.exblog.jp/5357377 『長沙呉簡研究報告』第3集は第1集、第2集がそれぞれ国際シンポジウム後の論文集であったのと同じように、2006年9月17日の長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の論文集で、買っておきたいところ(また、あの地に足のついた三国時代に浸りたいね)。送料の関係から、前述した『西北出土文献研究』第5号とまとめ買いしたいところだ。 <追記> ・ご挨拶 http://sekio516.exblog.jp/5433102 上記のリンク先のように、実はブログを出版する話があったそうで、出版されるようであれば私は買いそう。学術史的にも後世、貴重な資料になるのでは、と。 ※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
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2007年4月13日(金) 12:08 JST
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161.
唐代史研究 第21号(2018年8月)
下記のTwitter AccountのStatusで知ったこと。 ・東方書店 東京店(神田神保町) (toho_jimbocho) on Twitter https://twitter.com/toho_jimbocho ・Twitter /toho_jimbocho: 【国内書新刊】 『唐代史研究 第21号』 唐代史研究会/2018年8月/税込3,240円 ... https://twitter.com/toho_jimbocho/status/1052517232155062273 ※関連記事 中国古代車馬研究(2018年10月19日) ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ※関連記事 中国版画散策 第44回(東方 451号2018年9月5日発行) ・国内書 唐代史研究 第21号 https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900010465&bookType=jp 発行元の唐代史研究会のサイトが見当たらないので上記の書店のページにあるように2018年8月に『唐代史研究』第21号(唐代史研究会)が出版され、東方書店では3240円で売られている。その学会誌の「新刊紹介」に「窪添慶文編『アジア遊学213 魏晋南北朝史のいま』(峰雪幸人)」がある。つまり下記リンク先にある勉誠出版より2017年9月に発売の窪添慶文/編『魏晋南北朝史のいま』(アジア遊学 213、ISBN978-4-585-22679-6)の峰雪幸人氏による紹介ね。「新刊紹介」以外に「書評」があって、別々なんだね。 ・勉誠出版 --HOME http://bensei.jp/ ・魏晋南北朝史のいま http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=9_14_40&products_id=100791 ※関連記事 魏晋南北朝史のいま(2017年9月)
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2018年11月18日(日) 21:21 JST
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三国志学会 第四回大会ノート5
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート4 15:31。総合司会の石井先生から再開のアナウンスがされる。講演の司会は二松学舎大学の牧角(竹下)悦子先生とのこと。 牧角先生より川合康三先生の経歴の紹介が入る。川合先生は中唐文学研究会(現、中唐文学会)を立ち上げたという。文献史料や作家の歴史をおさえた上で、最終的に文学性を追求する立場にあるのがその特長だという。「三国志学会へは昨日入会した」そうな。 拍手の中、川合先生が登壇される。 レジュメはA4の2枚で2ページ。 ○「曹植の公と私」
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2009年9月29日(火) 12:53 JST
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曹丕、曹植の詩文における押韻状況について(2014年12月)
※関連記事 卑弥呼 1話2話(『まんが日本史』9、10回1992年6月1日?-15日) 上記関連記事と同様、2015年3月21日土曜日は朝から国立国会図書館に籠もって、午後に下記関連記事の「(仮)三国志街道の集い」に参加しようとしていて、青春18きっぷの期間内だったので、前日の20日金曜日にできるだけ東京に、近付き東海道沿線のどこかで一泊して臨むつもりだった。 ※関連記事 (仮)三国志街道の集い(2015年3月21日) ところが計画を立てて掛川駅近くのビジネスホテルも予約した後、よくよく考えたら21日は春分の日で国立国会図書館は休みということに気付き、急遽予定を変更する。まず代々木駅近くの高速バス乗り場で次に来るときの帰りの高速バスチケットを購入し、そのまま中央線で御茶ノ水駅へ。そこから歩いて神田神保町へ行く。まず内山書店に足を運んだが、開店時間じゃなかった。今、下記サイトを見ると休業日だったようだね。 ・内山書店 http://www.uchiyama-shoten.co.jp/ それで予定通り、下記サイトの東方書店へ行く。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・中国学志 坎号(第29号)【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900009643&bookType=jp まず学術雑誌のコーナーにいくとすぐに目に付いたのが「曹丕、曹植」の文字。上記ページにある、大阪市立大学中国学会より2014年12月に出版の『中国学志』坎号(第29号)(ISSN0913-3151)所収の田婧「曹丕、曹植の詩文における押韻状況について―附:二曹韻譜」だ。その雑誌自体は2000円とのこと。 ・市大中国学会 - 大阪市立大学大学院文学研究科・文学部 http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/chn/
: 清岡美津夫
2015年3月22日(日) 01:15 JST
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新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート2
※目次 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日) ※前記事 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート1 ○報告II 新出三国西晋出土簡牘の調査と課題
: 清岡美津夫
2012年6月27日(水) 23:55 JST
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横山光輝『三国志』に見られる連環画の再構築(2013年7月6日)
※関連記事 横山光輝『三国志』に見られる連環画の再構築 問題意識と目的 初稿 龍路ツーリング(メロディ2000年2月号) 上記関連記事に少し触れたように日本マンガ学会第13回大会に向けてキンコーズでPCを借りる等して発表要旨を作成し、締切日の2013年4月1日にメールで提出した。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会 第13回大会 http://www.jsscc.net/taikai/13 そこから数日後、予定通り、担当者が査読の結果をメールで知らせて下さる。 査読が通ったため、2013年7月6日土曜日もしくは7日日曜日のいずれかの時間に、清岡美津夫が福岡県北九州市の北九州市漫画ミュージアムで開催予定の日本マンガ学会第13回大会にて「横山光輝『三国志』に見られる連環画の再構築」というタイトルで口頭発表することが決まった。 ・北九州市漫画ミュージアム http://www.ktqmm.jp/
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2013年4月12日(金) 00:35 JST
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三國志研究第六号(2011年8月27日)
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日) 三國志研究第五号(2010年9月11日) ※次記事 三國志研究第七号(2012年9月1日) ※追記 三国時代から見た「魏志倭人伝」(静岡県下田市2011年10月30日) 上記関連記事で触れた2011年8月27日開催の「三国志学会第六回大会」にて例年通り、会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第六号(112ページ、ISSN 1881-3631)が渡された。 『三国志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。下記の汲古書院のサイトでは今のところその情報はないけど、まぁ問題ないのだろう。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/
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2011年9月 3日(土) 14:42 JST
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167.
三國志研究第十三号(2018年9月15日)
※関連記事 日本マンガにおける秦始皇帝兵馬俑鎧甲デザインの伝播(京都2018年6月23日) ※新規関連記事 Fate/Grand Order Lostbelt No.3 人智統合真国 シン 紅の月下美人(2018年11月27日-) このサイト「三国志ニュース」を読んでいる人にはあまり目に触れることがないけど、記事番号4700の今回の記事は学会誌『三國志研究』第十三号について。ちなみに4600は上記関連記事。日記部分は後回しで。 ・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志学会 第十三回大会(2018年9月15日土曜日) ※新規関連記事 三国志研究第十九号(2024年9月8日発行) 上記関連記事で触れた2018年9月15日土曜日開催の「三国志学会第十三回大会」にて会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第十三号(180ページ、ISSN 1881-3631)が渡された。 『三國志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ※前号記事 三國志研究第十二号(2017年9月9日) ※次号記事 三國志研究第十四号(2019年9月14日) ※新規関連記事 三国志研究第十九号(2024年9月8日発行)
: 清岡美津夫
2018年9月15日(土) 23:37 JST
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168.
高島 俊男 先生、逝去 2021年4月5日
訃報です。 2021年4月5日に高島俊男先生がお亡くなりになりました。享年84歳でした。 ・東方書店 東京店(神田神保町) (toho_jimbocho) on Twitter http://twitter.com/toho_jimbocho ・Twitter / toho_jimbocho: 中国文学者の高島俊男先生がお亡くなりになりました。『お言葉ですが…』『漢字と日本人』『水滸伝の世界』『三国志きらめく群像』『中国の大盗賊』などのほか、東方書店からは1991年に『独断!中国関係名著案内』(品切れ)を刊行されました。心からお悔やみ申し上げます ... https://twitter.com/toho_jimbocho/status/1379033388632264706 高島俊男先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。
: 清岡美津夫
2021年4月 6日(火) 06:50 JST
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169.
中國古代の財政と國家(2010年9月17日)
・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日) 上記サイトのRSS配信で下記の書籍を知る。 ・汲古叢書91 中國古代の財政と國家 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b68285.html つまり汲古書院から2010年9月17日に渡辺信一郎/著『中國古代の財政と國家』(汲古叢書91、ISBN9784762925900)が14700円で発売するという。下記関連記事にあるように、著者は『天空の玉座』等でお馴染みの先生。 ※関連記事 メモ:『天空の玉座』
: 清岡美津夫
2010年9月 8日(水) 00:01 JST
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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。 ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。 以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。 ●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学) まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。 次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。 まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。 まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。 氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。 もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。 辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。 「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。 (※省略) 16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。 まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。 東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は? 大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。 福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。 「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。 原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。 この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。 それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。 涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。 中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。 北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。 (※省略) 辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。 (※省略) 17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。 ●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学) この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。 17:43閉会。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日) 以下、余談。 というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。 帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。 ・日経スペシャル ガイアの夜明け http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/ ・MOS BURGER http://www.mos.co.jp/ そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。
: 清岡美津夫
2008年9月26日(金) 19:07 JST
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第2回三国志学会大会ノート5
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート4 http://cte.main.jp/newsch/article.php/687 ○「韓国における三国志演義の受容と研究」李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長) 14時59分開始。 壇上には李先生と金先生が立ち、手元のPCでスクリーンに論文(漢字でかけるところは漢字で書かれている)を映し出す。李先生が発表し、それを順次、金先生が訳していくスタイル。 その前に李先生に登壇して頂いた理由について金先生から説明。 昨年は中国の研究者からの講演があったので、渡邉先生から三国志を伝統的に愛唱しているところは中国以外に、日本、韓国、ベトナムがあり、韓国が三国志の歴史的状況、現在の状況を考える上で重要だとのことで、韓国で研究されている方がいたら紹介してほしいということになった。そのときは思い付かなかったので去年は中国の学者の方ばかりとなった。 ※参照リンク ・三国志学会第一回大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 ・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/374 ・2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感 http://cte.main.jp/newsch/article.php/388 今年はちょうど李殷奉さんが韓国の三国演義研究で博士論文を書かれて金先生の元へもってきたので、ご講演して頂くこととなった。 講演開始。 『三国演義』の重要な版本として嘉靖本、(※清岡注。他二つ聞き取れず)、毛宗崗本などがある。韓国に『三国演義』が入ってきたか正確な年はわからないが、地理的に近いので恐らく中国で出版されほぼ同時期に韓国にもたらされたと考えられる。それを改刻・復刻した形で韓国において刊行され、小説ではあるが歴史小説であるため漢文を理解する読者に人気を博した。民間では壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のときに援軍として明の軍隊が来る。先の講演でもあったように明代の軍隊が関羽を信仰しており、関羽信仰を韓国へもたらし、そのため関羽信仰と共に三国演義が流行り、『三国演義』の筆写本、印刷されたものが流布することとなる。印刷されたものは経済的に制約で『三国演義』の中身全て出版されることがなかった。これが韓国の特徴で、人気のある面白い部分を取り出しそれを改作するということが流行した。そのため原作にはない内容、『三国演義』とは違う新しい物語が韓国で作られ出版される。近代になると日本からの活版技術が輸入され、それにより活字本でたくさんの『三国演義』の異本(韓国での創作が含むもの)が出現するようになる。こういった異本は大部分、読者が好む人物、興味深い事件を取り出し再構成したものであるために、歴史事実や大義名分が希薄になり興味本位なものとなり、『三国演義』は非常に多様な形態(小説、軍談、詩)で韓国で流布した。 ここでは韓国の文化全般に多くの影響を与えた『三国演義』がいつ韓国に伝わったか、当時、伝わった版本は何なのか、また韓国で独自に発達した『三国演義』の異本はどういったような影響を受けたのか、を簡単に紹介する。前述したように『三国演義』が入ってきた正確な年代は判らないが、一番、古い記述としては高麗時代に『老乞大』(ろうきつだい)という中国語の教科書の中で『三国志平話』を買う場面がある。これが『三国志平話』について最も早い貴重な記録だ。これ以外は嘉靖本の序文に出てくる。『三国演義』の記述は『朝鮮王朝実録』の1569年6月1日の記事に出てくる。これが『三国演義』が韓国に入った最も古い記述。王様に対して大臣がある事柄についてそれは史書に書いているのではなく『三国演義』に書いていることだと指摘し、小説でそういうものを引いてはいけませんと諫める記述内容とのこと(※清岡注。講演では具体名が挙がってもっと詳細なものだったがメモを取れず)。嘉靖本が出たのが1522年なので、恐らく嘉靖本が朝鮮に入って来たのだろう。但し現在、韓国には嘉靖本はないので、韓国に残っている最も古い『三国演義』は恐らく周曰校本をカイホウした耽羅刊本である(この後、版本に関することについて) 周曰校本以降、毛宗崗評本が入ってきて流行するが、その入ってきた年もよくわからない。粛宗の時代(1674年-1720年)のころだろうと推測されている。1681年-1768年の人物(※清岡注。名前失念)の一種の随筆に、「『三国演義』は刊行され広く読まれ家ごとに読まれており、過去の試験問題に『三国演義』が出ているがこれは全く恥ずかしい話である」というような記事がある。この時代、『三国演義』が非常に普及していたことがわかる。ある本(※清岡注。名前失念)では毛宗崗評本を全部、写しているのでこの時期には毛宗崗評本が入ってかなり普及していた。 韓国で出た毛宗崗評本は『貫華堂第一才子書』という題名になっている。中国で出た毛宗崗評本は最初に「シュウゾウ三國志演義」となっているが、韓国の本では「貫華堂第一才子書」になっている。中国の版本では十行二十一字になっているのに対し韓国の本では八行十五字になっている。本文の方は巻一から巻十九まで行数字数、字の形に至るまで中国ででたものは同じ。毛宗崗評本は中国で刊行されるたびに巻数は字面が変わってきてるのに対し、韓国の方の本文の部分は十九巻、十二行二十六字と一致して、中国の十九巻本と一致する。それ以外に韓国で刊行された満州語の教科書に『三国演義』の満州語の翻訳の中から十回分の翻訳を選んで教科書に使っている。これはそれ以前の版本(底本は嘉靖本)を使っている。 このように遅くとも1560年以前に『三国演義』が韓国に伝わっている。17世紀末には韓国語に翻訳され満州語との対訳になっていた。『三国演義』が韓国に伝わって、国王はもちろん士大夫たち、民間の女性・子供たちに至るまで三国志を興味を持つ階層は多様に渡っている。漢文を読む士大夫たちはそのまま読めたが、民間の女性や子供たちに対してはは(日本の)講釈師のような人が講談をし三国志を伝えた。17世紀の末には一部ではあるが『三国演義』が韓国語に翻訳され読者層拡大に寄与した。翻訳されたものを筆写する人がこの時代には居た。例えば1671年-1759年の人物(※清岡注。名前失念)の記録を見ると、ある人物(※清岡注。名前失念)のお母さんが『三国演義』を自分で筆写したという記録がある。女性は当時、漢字は書けないので、ハングルを筆写したのだろう。1690年-1742年の人物(※清岡注。名前失念)の文集に「娘たちに歴代の演義類の本を通じて歴史を教え見識を高める必要がある」という記述がある。17世紀末にはハングルで翻訳された『三国演義』が女性たちにより筆写されていたことがわかる。このようにハングルで翻訳された『三国演義』は筆写本以外にも旧活字本などいろいろな形態を通じ大衆の中へ多くの人気を得ることになる。 韓国語で翻訳された『三国演義』は17世紀末にはあったと思われるが、現存するもので一番、古いものは19世紀末から20世紀までのものしか残っていない。毛宗崗評本を翻訳したものが大部分。その中で一つ特徴あるものは「楽善斉」(王室の図書館)に18世紀に翻訳された思われる筆写本がかなり多くある。その「楽善斉」に『三国志通俗演義』三十九冊が残っている。これは諸葛亮が征討するときに軍内に関索が登場しない特徴がある。ここだけをみると嘉靖本を底本として翻訳したものに思われるが、但し、それ以外、周曰校本だけにある内容が見られる。一概に嘉靖本だけとは言えない。さらに嘉靖本と周曰校本両方にない内容が見られる。それはどうも韓国で付け加えたものだ。例えば「梁父吟」の詩は『三国演義』では全然違う内容だが、この楽善斉本では『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引くもの(※清岡注。『藝文類聚』卷第十九 人部三 吟に記載)になっている。中国の『三国演義』で「梁父吟」をこのようにしたものはおそらく無く、おそらく訳者や筆写した人が歴史書を見て書き替えた可能性が大きい。 商業出版が盛んになった19世紀に入ると、韓国の『三国演義』に新しい傾向が出てくる。それは『三国演義』全体を出版しそれを買うというのは経済的理由で難しいということで、人気のある一部を選んで、さらに新しい話を付け加え、元の『三国演義』とは全然違う話にしてしまう傾向。これは中国ではあまりない傾向で、韓国のこの時期の一番の特徴となる。 独自に作られた話をもう少し詳しく紹介。ソウルで出版されたもので毛宗崗評本の第四十九回から第七十二回に相当する韓国語に翻訳したもので、前半は毛宗崗評本と同じだが、後半になると内容が『三国演義』と全く違ってくる。趙子龍を主人公とした小説となっていて、戦争で敗れた将軍が劉備に復讐しようとするが趙子龍と諸葛孔明の活躍により撤退するという話。原作にはない全く話。大部分が『三国演義』でモチーフだけ持ってきて趙子龍を中心として加工した話になっている。そういうものとして旧活字本の『趙子龍伝』(1917年)あるいは『山陽大戦』『三国大戦』というものが出版されている。いつ創作されたかはわからないが、ソウルで出版された三巻本の『三国演義』にソウルの地名の記載があり、1859年以前につくられたと考えられる。それが現在、完本(全集のこと)として残っている。 もう一つの例を紹介すると、韓国語に訳された『三国演義』の下篇に、『孔明先生自筆』(※清岡注、聞き間違いの可能性あり)という諸葛亮に関する話がある。諸葛亮が南陽で弟の均と一緒に暮らしていて、黄承彦の娘と結婚してその奥さんからいろいろな術法を習うといった独特な構成になっている。諸葛亮を中心した話というより黄夫人を中心とした話として展開する。この小説は三顧の礼と最初の戦闘の話と結合し旧活字本の『黄夫人伝』という独自の物語として出版されている。 もう一つ紹介すると、ソウルで出版されたとされる『桃園結義論』という本がある。毛宗崗評本の第二十回から第三十回を説略したもの。その中に『三国演義』には載ってない関羽が貂蝉を斬るという話が載っている。これは明代の芝居の「関大王月夜斬貂蝉」を少し変えて載せたのだろう。 このように韓国語で翻訳された『三国演義』は19世紀に商業出版が盛んになると全部ではなくその中の一部分を取り出し、それを改作するというのが流行った。そのために元の『三国演義』の内容形態のものになる。中国では毛宗崗評本が最後の改訂版でこれ以降、話を変えたものは出ないし故意に内容を変えたものはでないが、韓国では全体をばらし一部を取り出しそれを違う話にどんどん作り替えてしまう(再構成してしまう)ということが流行った。これが韓国の当時の『三国演義』の大きな特徴で、そのため、歴史全体の三国志を見渡し、歴史小説としてあるいは教訓(大義名分)を読みとるとかの『三国演義』の柱になるが、当時の韓国ではそういうものよりかは個々の細部の話を興味本位に娯楽とする側面が強調されている。これが韓国での読者層の変化、『三国演義』への認識の変化をもたらしている。 15時51分終了 質問1 (※清岡注。長いので頭に入らなかった。訳す金先生もたいへんだと思った) 現在の韓国ではどういったものが伝わったり人気があったりするんでしょうか 回答 いくつかの漫画が流行っている。日本語版を写したりということ。小説は流行作家が書き直したものがある。この小説がよく読まれている。中国では現代作家が書く三国志ものはないので、これは日本と韓国の共通したところだ。 15時56分終了。 15分休憩。 このころになるとすっかり外は晴れていた。 <次回>第2回三国志学会大会ノート6 http://cte.main.jp/newsch/article.php/690
: 清岡美津夫
2007年9月12日(水) 07:16 JST
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第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート2
※目次 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日) ※前記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート1 休憩中、隣の三口宗さんと次の三国志学会第五回大会は名古屋だろうか東京の二松学舎大学だろうか、と話していた。 事前のアナウンス通り、15時には会場は開始の様子となっていた。
: 清岡美津夫
2010年9月24日(金) 19:30 JST
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日本における三国志の挿絵本(1979年3月31日)
※関連記事 メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ) 上記関連記事で触れた、上田望「日本における『三国演義』の受容(前篇)―翻訳と挿図を中心に―」『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』、Vol.9、2006年3月、pp.1-43を読んでいて、ふと気になってその注で出されていた論文を当たる。 それが鈴木重三『絵本と浮世絵 江戸出版文化の考察』(美術出版社1979年3月31日発行)のpp.239-243にある同著者の「日本における三国志の挿絵本」だ。短いながら江戸時代に脈々と出版されていた「三国志の挿絵本」についてよく纏まっている。図書館から借りてきた。
: 清岡美津夫
2014年6月 6日(金) 00:52 JST
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リンク:歌舞伎の世界における関羽の受容(2011年3月31日)
※関連記事 『三国志画伝』における『通俗三国志』の理解(2007年3月) 上記関連記事を書く際に、そこでふれた論文がCiNiiでないか検索したときに気付いた論文。 ・UTokyo Repository: 歌舞伎の世界における関羽の受容 http://hdl.handle.net/2261/51602 ※新規関連記事 『三国志演義』における日本語の翻訳(比較文学・文化論集 第36号2019年3月31日発行) 上記の東京大学のリポジトリのページにあるように、梁蘊嫻「歌舞伎の世界における関羽の受容」(『比較文学・文化論集』28号, 2011.3.31, pp. 1-10, 東京大学比較文学・文化研究会2011年3月31日)という論文があって、それが上記リンク先にてPDFファイルとして読めるという。
: 清岡美津夫
2015年3月20日(金) 06:14 JST
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リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について
※前記事 リンク:『法制史研究』『書学書道史研究』 ※関連記事 メモ:「功次による昇進制度の形成」 前々回の記事や上記関連記事で触れたように官吏の昇進について見てきたんだけど、そもそもどうやって官吏になるかというのにも興味が出てくる。そういったことで読んだのが下記論文。対象となる張家山漢簡の二年律令は、一般的に呂后の二年(紀元前186年)と考えられるという。三国時代からは随分、遡るんだけど、制度的に繋がりが深く参考になることが多いと見なし読み進める。 西川 利文「張家山漢簡「史律」に見える任用規定について」(『文学部論集』第93号 (20090301) pp.107-116 佛教大学 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40016598277 現在、全文PDFへのリンクが切れているが、実は下記「佛教大学論文目録リポジトリ」の「文学部論集」から論文の中身が読めるようになっている。 ・佛教大学論文目録リポジトリ http://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/index.htm
: 清岡美津夫
2010年5月23日(日) 23:48 JST
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国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」(2010年11月27日28日)
「毎日新聞 愛媛大学 曹操」という検索語句があったんで、何かと思って再検索すると、毎日新聞で下記の記事が出てきた。 ・シンポジウム:曹操、そうなの? 「墓」の真偽、愛媛大で中国人研究者交え論争 - 毎日jp(毎日新聞) http://mainichi.jp/kansai/news/20100904ddf041040008000c.html ・毎日jp - 毎日新聞のニュース・情報サイト http://mainichi.jp/ ※余談だけど、毎日新聞は記事のページにリンクを張ることを下記のように明言していて良い感じ。 ・Q.毎日jpのトップページや記事にリンクをはりたい http://mainichi.jp/info/etc/arukikata.html#Q9 しかし記事自体は、「多くの偽墓を作らせたという伝承もあり」とあって、『三国演義』「第七十八回 治風疾神醫身死、傳遺命奸雄數終」に「又遺命於彰德府講武城外、設立疑塚七十二、勿令後人知吾葬處:恐為人所發掘故也。」とある創作由来の話を、それを調べた気配も見せず乱暴にも「伝承」の一言で片付けてあってダメな感じなんだけど、それよりそこに書かれてある本題だ。 つまり、2010年11月27日土曜日28日日曜日に愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターで国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」が開催されるという。 ※追記。会場は「愛媛大学南加記念ホール」とのこと。 ・愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター -トップ- http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/aic/ 入場無料ということなんで専門外の方もいらっしゃるとは思うけど、前述の創作由来の話を持ち出すような質問をして貴重な時間を不意にする行為はご遠慮してもらいたいところだろうね。 上記サイトのシンポジウムのページから下記へ講演者を引用する。招聘される講演者は河南省文物考古研究所関係者ばかりだから、曹操の墓と断定するのに疑問を呈する研究者による発表は期待できないんだろうね(下手をすればそれが曹操の墓だという結論ありきの議論になる)。もし聴講されるのだったら、そこらへんを念頭に置く必要があるだろう。 ※追記。無料でメールでの事前申込で先着順230人ということで、さらに各講演タイトルも発表されたので、下記引用部分に追加しておく。あと一般向けを意識してか「通訳あり」とのこと。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 講演者 村上恭通(愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター長) 「『三国志 魏の世界』開催にあたって」 白 雲翔(中国社会科学院考古研究所副所長) 「巻末・三国時代考古およびその新展開」 潘 偉斌(河南省文物考古研究所研究員) 「曹操高陵の発見と発掘および初歩研究」 郝 本性(河南省文物考古研究所研究員) 「曹操高陵出土文物の研究」 張 志清(河南省文物考古研究所副所長) 「漢代陵墓考古と曹操高陵」 パネル展示「魏曹操墓発掘成果特別展」見学会 in 愛媛大学博物館(愛大ミュージアム) ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※該当ページから下記へ引用の追記。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ プログラム 11月27日(土)12:00~ 受け付け開始 13:00~ 開会 13:15~13:45 村上恭通『「三国志 魏の世界」開催にあたって』 13:45~15:15 白雲翔『漢末・三国時代考古およびその新展開』
...
: 清岡美津夫
2010年9月 6日(月) 12:56 JST
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日本の「三国志演義」翻案作品における作画資料としての「三国演義連環画」(2017年6月24日)
※関連記事 1980年代日本における「三国志演義」翻案作品のファン層形成(2016年6月25日) 上記関連記事と同じく、昨年と同じく、Twitter内で「"マンガ学会"」と検索している。 ・Twitter / 検索 - "マンガ学会" https://twitter.com/search?q=%22%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%AD%A6%E4%BC%9A%22&src=typd ※新規関連記事 日本マンガにおける秦始皇帝兵馬俑鎧甲デザインの伝播(京都2018年6月23日) そうすると2017年6月1日に日本マンガ学会第17回大会のプログラムが発表されていることを知る。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第17回大会 プログラム - 日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/convention/17 それでどこが三国に関係するかというと、2016年6月24日土曜日15時20分から50分までクロスパルにいがた3 階 308・309 第2会場にて清岡美津夫「日本の「三国志演義」翻案作品における作画資料としての「三国演義連環画」」の口頭発表があるという。大会参加費は「会員 1,000円(1日につき)/一般 2,000円(1日につき)/学生(※要学生証提示、大学学部生以下) 1日目:500円 2日目:1,000円」だという。 ・生涯学習センター(クロスパルにいがた) 新潟市中央区 https://www.city.niigata.lg.jp/chuo/shisetsu/manabi/shiminkaikan/syougaigakusyuu_cpn.html 全体としては次の日の6月25日にシンポジウム「マンガとスポーツ」があるのに対し初日24日は「会員による研究発表/総会/懇親会/合宿座談会」であり、研究発表は13時から16時25分まででその今回の会場は3つあって、口頭発表が15件、ラウンドテーブルが1件(司会1名計3名)、ポスター発表が1件といったところ。個人的に見に行きたいのは第1会場(クロスパルにいがた3 階 多目的ルーム2)のラウンドテーブル「カートゥーンが描くトランプ米大統領」とやはり自分の研究と関係してきそうな、第3会場(クロスパルにいがた4 階)の「中国における日本漫画の文法の受容―中国最初の新型漫画雑誌『画書大王』をてがかりに」、「〈伝記学習マンガ〉の人物選択と「有名性」をめぐって」、「〈歴史科系学習マンガ〉の表現における「リアリティ」をめぐって」の3報なんだけど、どれも自分の発表時刻にかかってくるというオチだ。「〈歴史科系学習マンガ〉の表現における「リアリティ」をめぐって」はいけそうだけどね。
: 清岡美津夫
2017年6月 4日(日) 12:40 JST
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後漢政治制度の研究(2014年3月20日)
三国志学会 Facebookページで知ったこと。 早稲田大学出版部より2014年3月20日に渡邉将智/著『後漢政治制度の研究』(早稲田大学学術叢書 ISBN:978-4-657-14701-1)が8400円(税別)で発売されたという。 ・早稲田大学出版部 http://www.waseda-up.co.jp/ ・後漢政治制度の研究 | 早稲田大学出版部 http://www.waseda-up.co.jp/history/post-698.html
: 清岡美津夫
2014年3月30日(日) 00:29 JST
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リンク:『法制史研究』『書学書道史研究』
※前記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」 ・枕流亭ブログ http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/ ・『法制史研究』PDF (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100224/p1 上記ブログ記事で知ったこと。 下記のように独立行政法人科学技術振興機構(JST)運用で、電子化した学術雑誌を公開しているサイトがあるそうな。 ・Journal@rchive http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/ 冒頭でリンクしたブログ記事では『法制史研究』掲載の論文(PDF)へいくつかリンクでまとめられている。それを見ても、下記の『法制史研究』のページを見ても両漢三国志西晋の法制史関連の論文が結構、ありそうだ。1951年から2003年までの分が読める(つまり新しい年の分は見られない) ・法制史研究 (※「Journal@rchive」内ページ) http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnltop_ja.php?cdjournal=jalha1951 それで下記の公式サイトを見に行くと、ちゃんと「法制史研究の電子アーカイブ化に伴うお知らせとお願い」のページがあるね。公開に関しては「刊行後5年を経過した時点」が目安だそうな。乱暴に言ってしまえば、拒絶を表明しなければ公開する的な電子化方針だね。 ・法制史学会ホームページ http://wwwsoc.nii.ac.jp/jalha/ あと三国時代あたりが関連する学術雑誌としては下記の『書学書道史研究』が挙げられる。1991年から2008年までの分が公開されている。三国志関連では例えば福宿孝夫「日本出土「魏紀年」四鏡の銘文と字体」(Vol.1991,No.1(1991) P.3-15)とか。割合としては少ないが。 ・書学書道史研究 (※「Journal@rchive」内ページ) http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnltop_ja.php?cdjournal=shogakushodoshi1991 ・書学書道史学会 - -書道史研究- http://shodoushi.s314.xrea.com/
: 清岡美津夫
2010年2月25日(木) 23:56 JST
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『中国古典小説研究』第14号(2009年11月15日)
※関連記事 書羅盤より2009年2月発売の書籍 上記関連記事で紹介したメールマガジン『書羅盤・チャイナブックナビゲーター』の2009年第21号(総204号)(2009年12月29日発行)で知ったこと。2009年12月第四弾。 ・中国古典小説研究会 - 国立大学法人 一橋大学 http://sasa1.misc.hit-u.ac.jp/zgxy/ 上記サイトにあるように中国古典小説研究会から『中国古典小説研究』第14号(ISSN 1342-2545)が2009年11月15日に2000円で発売されているという。 『三国演義』関連は下記の二報。 片倉健博「『三国志演義』のストーリー形成の一考察 ─雑劇『襄陽会』と『博望焼屯』を中心に─」 後藤裕也「読み物としての『絵図三国志鼓詞』 ─車王府本鼓詞『三國誌』との比較を通じて─」 「三国志ニュース」では今までこの研究会とその学会誌について触れていなかったんだけど、『中国古典小説研究』のバックナンバー目次を見ると、『三国演義』に関する論文が多いし、第12号には「学会報告」のところに「三国志学会第1回大会」が挙げられている。 ※関連記事 2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0
: 清岡美津夫
2010年1月 4日(月) 00:04 JST
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