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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)


  • 2008年9月26日(金) 19:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,656
研究

※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復


パネルディスカッションの様子 2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。
 ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。

 以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。


●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)

 まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。

 次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。
 まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。

 まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。
 氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。
 もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。
 辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。

 「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。

 (※省略)

 16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。
 まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。
 東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は?
 大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。

 福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。
 「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。
 原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。
 この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。
 それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。
 涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。

 中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。
 北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。

 (※省略)

 辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。

 (※省略)

 17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。

●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)

 この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。

 17:43閉会。

※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)



 以下、余談。
 というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。
 帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。

・日経スペシャル ガイアの夜明け
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/

・MOS BURGER
http://www.mos.co.jp/

 そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。
 



※新規関連記事 メモ:コミックマーケット93 3日目(2017年12月31日)

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