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ノート1:三国志学会 第五回大会


  • 2012年7月24日(火) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,219
研究 ※前記事&目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日)

○開会の辞 (10:00~10:10)
 ※頭に「○」を冠する場合はプログラムより。以下同じ。

 10時を過ぎると牧角悦子先生から開始のアナウンスが入るも、会長の狩野直禎先生のご体調が優れないとのことで(今年2010年の暑さの影響とのことで)、代わりに渡邉義浩先生から開会の辞で、そういった経緯を話されていた。牧角先生によると、渡邉先生もご体調が優れないそうな。そのため、来年は狩野先生のお膝元の京都で三国志学会大会が開催される旨が告げられる。

○研究報告 10:10~11:00「蜀漢の南中政策と「西南シルクロード」」

 そのまま、「三国志学会は蜀漢と同じシステムをとっておりまして、丞相独裁という形になっておりますので、ほとんどのことは丞相たる私がやります」という理由を口にし会場を温めた上で、渡邉先生は始めの研究報告の司会に移られる。
 その「蜀漢」というキーワードから研究報告と、それをされる松尾亜季子さんの紹介に移る。松尾さんは始皇帝の研究で有名な学習院大学の鶴間和幸先生に師事されたとのこと。その後、修士課程に進み、鶴間先生が休みの時に修士論文を書き、(渡邉先生が)学習院大学に教えに行かされ、そういった関係で渡邉先生もその修士論文を読んだそうな。

※関連記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート4

 その後、『三国志大戦』で有名な会社に就職されたとのこと。

※関連記事 2005年3月15日「三国志大戦」稼働開始

 10:13発表開始。レジュメはA3用紙3枚でA4面12ページ。以下、その時のノート。


●【はじめに】
 ※頭に「●」を冠する場合はレジュメから。以下同じ。

 はじめはレジュメの訂正。
 シルクロードの説明。今回、三つあるシルクロードの中でも、成都を起点に、雲南、ミャンマー、インド、中央アジアに至る西南シルクロードを取り上げる。このシルクロードは他の二つに比べ古いもので、東南交流史の観点からも高い重要性があるといえる。三国時代に限って言えば、三つの国がシルクロードの三起点をそれぞれ有しおり、この時期、独自のパターンを有していた。三国時代は再統一に向け内側に注目が集まる時代だが、西方世界にも目を向けていた時代だ。歴史の古さに加えこういった時代の独自性という観点からも蜀漢と西南シルクロードの関係を明らかにしたい。

●・先行研究

 主に古島琴子氏、羅二虎氏、藤島範孝氏のものがある。それぞれ東南アジア史、特に古代タイの視点から、漢晋時代を中心、時系列順に古代から清までとなる。こうした研究は後漢で断絶し、諸葛亮の南征による再開にかけての事象にはあまり触れられていない。蜀漢自体に対する研究も狩野先生以降の『三国志』研究は人的構成の分析に主体が置かれ、中国の研究者も南征はあくまで賛美の対象という面が強い。西南シルクロードとの関わりが論じられることはあまりなかった。しかし蜀漢が南征をきっかけに後漢以降断絶していた西南シルクロードを再開させているという事実がある。西南シルクロードによっ
蜀漢は豊かな経済利益がもたらされ、また交易ロートとしても機能させてきた。そうなると、そもそも南征の目的に西南シルクロードを開拓するという目的があったのではないかと仮説が立てられる。西南シルクロードと南征は蜀漢の南方支配の独自性を明らかにするにあたって重要なキーワードになりえる。
 今回の報告では、交易路としての役割だけではなく、蜀漢政権の南方支配における役割を中心として西南シルクロードについて考察していきたい。

●【一、西南シルクロードの支配】

 西南シルクロードと中国の政権について。西南シルクロードの起源は北方シルクロードや海のシルクロードより古く、紀元前四世紀のマウリヤ朝時代のインドの文献にも「蜀の商人がインドに来て交易を行っている」という記載があり、このときには人や物の往来があったと思われる。元々はルート沿いの人々によって交易が行われていたようだ。中国の史料でその一部が登場するのは『史記』だ。楚威王の時代(在位紀元前339-329年)、将軍荘蹻が西に攻め、その時に建国した記載がある。その行軍に利用されたのが西南シルクロードの一部であったと思われる。そのため、交易路という認識はなく軍事的道のみとして機能していた。秦の時代になり恵文王十三年(前311年)に蜀の開発で卓氏や鄭氏などに代表される徙民が行われている。始皇帝の時に将軍常頞が西南シルクロードの一部である五尺道を通って川滇間の異民族を平定し、一定の領土を支配した。この時点でもまだ交易路という認識はなかったようだ。
 中国の政権が交易路と認識するのは前漢武帝の頃。建元六年(前135)に犍為郡から夜郎に至るルートを発見し、唐蒙により夜郎道が、元朔元年(前129)に司馬相如によって霊関道が描かれている(史料2、『史記』巻百十六西南夷列伝)。唐蒙が夜郎道の支配を目的に行われた遠征で考えられ、その結果、犍為郡が置かれる。司馬相如によって開かれた霊関道に関しては同じく史料2の『史記』巻百十七司馬相如列伝を挙げる。

相如曰:「邛・筰・冉・駹者近蜀、道亦易通、秦時嘗通為郡縣、至漢興而罷。今誠復通、為置郡縣、愈於南夷。」天子以為然、乃拜相如為中郎將、建節往使。

司馬長卿便略定西夷、邛、筰、冉、駹、斯榆之君皆請為内臣。除邊關、關益斥、西至沬、若水、南至牂柯為徼、通零關道、橋孫水以通邛都。

とあり、ここで夜郎道、霊関道が開かれたことになる。この時に両道がどの程度まで達していたか定かではないが、ただ○○から武帝期に鋳造された五銖銭が出土していることから、永章道までは前漢の影響力が及んでいると思われる。また哀牢国から出土しておりすでに交易路として機能していたことを示す。中央アジアまで伝わる東西交流道の一部としての認識が生まれる切欠となったのが、張騫によってだ。まず『史記』巻百十六西南夷列伝より。

及元狩元年、博望侯張騫使大夏來、言居大夏時見蜀布・邛竹・杖、使問所從來、曰「從東南身毒國、可數千里、得蜀賈人市」。

 さらに『史記』巻百十二十三大宛列伝より。

騫曰:「臣在大夏時、見邛竹杖・蜀布。問曰:『安得此?』大夏國人曰:『吾賈人往市之身毒。身毒在大夏東南可數千里。其俗土著、大與大夏同、而卑溼暑熱云。其人民乘象以戰。其國臨大水焉。』以騫度之、大夏去漢萬二千里、居漢西南。今身毒國又居大夏東南數千里、有蜀物、此其去蜀不遠矣。今使大夏、從羌中、險、羌人惡之;少北、則為匈奴所得;從蜀宜徑、又無寇。」

 この報告を受けた武帝は、羌や匈奴の危険のある北方ではなく、蜀経由でインド、大夏へのルートを変革するよう命ずる。それを受けた張騫は『史記』巻百十二十三大宛列伝によると、

天子欣然、以騫言為然、乃令騫因蜀犍為發閒使、四道並出:出駹、出冉、出徙、出邛・僰、皆各行一二千里。

とあり、元封二年(前109)に滇王、夜郎王が帰順し、この地に益州郡を置く。しかし、北へ進んだルートでは氐、筰に、南では巂、昆明に進行に阻まれる(『史記』巻百十二十三大宛列伝)。但し、このことについて羅氏は異論を唱える。氐、筰に阻まれるというよりそもそもルート自体がなかったのではないか、と。その理由は四川西方に高度数千メートルにおよぶ高山地帯があったため、往来そのものが困難だったためとする。しかし『史記』巻百十二十三大宛列伝によると、

然聞其西可千餘里有乘象國、名曰滇越、而蜀賈姦出物者或至焉、於是漢以求大夏道始通滇國。

とある。
 話が戻るが、滇王と夜郎王の帰順の際に銀が授けられている。それは滇国も夜郎国も交易ルート上にあるためと考えられる。その二国を特別視していたことからも前漢が貿易ルートの確保に熱心だったといえる。
 これ以降、前漢は滇国を通して大夏に至るルートを開拓したが、昆明に阻まれたためそれ以上、西に行くことができなかった。

※清岡注。余談だが、滇国と言えば、「三国志ニュース」では片側鐙でお馴染みの所。
※記事 前漢に鐙はあった?!

 再び交易路の開通を求めて動いたのは後漢に移って明帝の永平十二年(69年)のこと。『後漢書』に哀牢王が帰順し、永昌郡を置くとある。史料3の『後漢書』伝七十六南蛮西南夷列伝によると、

西南去洛陽七千里、顯宗以其地置哀牢・博南二縣、割益州郡西部都尉所領六縣、合為永昌郡。始通博南山、度蘭倉水、行者苦之。

とあり、このとき、初めてルートを支配下に置き交通施設を設置することに成功した。
 漢代の交通施設について。その時、道路の官吏には道路状況の改善や橋をかける、道路を整備する等の設備的整備と、日常的にそれを使えるようにする二つの側面があった。中央から派遣された官吏が道路をひらいて、その完成後はその地方の行政長官を任される。そのため、官吏の強化を図って、前漢の時には都尉、後漢の時に将軍などがルート上に設置されるようになった。具体的な施設の名は郵、亭、駅、伝、置等。それぞれの役割は郵は郵便伝達の機関、亭は旅客に宿舎を提供、駅は文書伝達者に馬の提供、伝は官吏や特別に許可を与えられた者への車の管理、置は伝や駅を置く地の管理を担っていた。

※関連記事 リンク:「漢代における郡県の構造について」
 ※ここと認識がずれているね。あるいは多面的なものの一面とか。

 ただ設置される際には役割を纏められることが多い。例えば「郵置」としたり「亭駅」とした。円滑な往来を確保するために砦を築いた。史料11の『三国志』巻四十三蜀書張嶷伝に

開通舊道、千里肅清、復古亭驛。

とあり、ルートを復活させればこういった施設を復活させていた。またこの時の西南シルクロードは、(レジュメの地図のように)、道は、夜郎道、霊関道、永章道の大きく三種類あった。夜郎道と霊関道は下関あたりで合流し、ここからはインド・ミャンマーに至る永章道になる。永章道に関しては一部は支配下になかったが、ただ東西交易路、インドまで続く交易路としての認識がなされ初めてルートが開通された。しかし安定期(在位106-125年)には反乱が頻発し、再びルートが途絶える(レジュメの史料4)。この反乱により西南シルクロードは蜀漢政権の南征まで中国政権の支配下をでることになる。

●【二、西南シルクロードにおける交易】

 具体的に西南シルクロードを通して行われた交易はどのようなものであったか。物品はレジュメの史料5の『華陽国志』巻三蜀志で、

内城營廣府舍、置鹽鐵市官並長・丞。

とあることからこの地方では塩や鉄器が作られ官で運営されたと思われる。史料6の『史記』巻百二十九貨殖列伝で、

巴蜀亦沃野、地饒卮・薑・丹沙・石・銅・鐵・竹・木之器。

とあり、卮はくちなし、薑は山椒、しょうが等を指し、これらが取引されていたことがわかる。史料7の『史記』巻百十六西南夷列伝より

巴蜀民或竊出商賈、取其筰馬・僰僮・髦牛、以此巴蜀殷富。

とあるように、牛馬や奴隷も交易品として扱われていた。西南シルクロードの沿線でも鉱物が盛んにとれており、史料8の『後漢書』伝七十六南蛮西南夷列伝によると、

出銅・鐵・鉛・錫・金・銀・光珠・虎魄・水精・琉璃・軻蟲・蚌珠・孔雀・翡翠・犀・象・猩猩・貊獸。

とある。光珠、虎魄、軻蟲は海の貝で、蚌珠ははまぐりから取れる真珠で、翡翠、琉璃などは大抵、ミャンマー、インドで取れる物で、永昌郡にもたらされた物だ。ただ当時の永昌郡は国際交流の重要な地であることから、こうした鉱物が永昌産という認識が生まれたようだ。交易品の中で最も注目すべきは、中国が西南シルクロードを認識する切欠となった、蜀布と邛竹杖だ。これらのことは工藤元男「蜀布と邛竹杖」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要第四分冊』四十七号、P.80-94、2001年)に詳しく、今回参考にした。邛竹杖はその名の通り、邛竹という竹で作られた杖で、工芸品の一種で、知識人に好まれたとされる。分布は西南シルクロードの主線・支線沿いに放射状に広がる。蜀布について。蜀錦などの絹織物が有名になるのは後漢末から三国時代以降であるため、張騫が大夏でみたのは麻布の一種であると考えられる。蜀布の別名として、沙羅布、蘭干布、桐華布、橦華布、白叠、白氎、白緤、榻布、答布などがある。工藤氏は独自の見解をし、蜀布が邛竹杖に入れて運ばれたのではないか、という説を唱える。邛竹杖自体には大夏まで運ばれるほどの価値がないであろうということ、また蜀布は太い布の一種で、黄潤が羌筒に丸めて運ばれた記述が『華陽国志』巻三蜀志にある(安漢、上・下朱邑出好麻、黄潤細布、有羌筒盛。)。そのため、西南シルクロードを通る蜀布の場合は邛竹杖に丸めて入れ運ばれたのではないかという説を唱える。『諸葛亮集』(『太平御覧』巻八百十五)に「決敵之資唯仰錦耳」とあるが、蜀錦が有名になったのは諸葛亮の努力の結果とも言えるかも知れない。

●【三、諸葛亮の南征と西南シルクロード支配】

 三国時代になると西南シルクロードは再度注目される。その切欠となったのが、章武三年(223年)に、劉備の死を切欠に益州郡で起きた反乱だ。史料9の『華陽国志』巻四南中志によると

先主薨後、越嶲叟帥高定元殺郡將軍焦璜、舉郡稱王以叛。益州大姓雍闓亦殺太守正昂、更以蜀郡張裔為太守。闓假鬼教曰:「張裔府君、如瓠壺、外雖澤、而内實粗、殺之不可、縛與呉。」於是執送裔於呉。呉主孫權遙用闓為永昌太守;遣故劉璋子闡為益州刺史、處交・益州際。牂柯郡丞朱提朱褒領太守、恣睢、丞相諸葛亮以初遭大喪、未便加兵、遣越嶲太守巴西龔祿住安上縣、遙領郡;從事蜀郡常頎行部南入;以都護李嚴書曉喩闓。闓答曰:「愚聞天無二日、土無二王。今天下派分、正朔有三、遠人惶惑、不知所歸。」其傲慢如此。頎至牂柯、收郡主簿考訊姦。褒因煞頎為亂。益州夷復不從闓、闓使建寧孟獲説夷叟曰:「官欲得烏狗三百頭・膺前盡黑、蟎腦三斗、斷木構三丈者三千枚、汝能得不?」夷以為然、皆從闓。

とあり、まず越嶲の民族の高定元が反乱を起こし、大姓の雍闓が諸侯を扇動し反乱を起こさしている。また雍闓は孟獲を通して異民族に対し蜀漢の不当な搾取を説かしている。次に注目すべきは雍闓が益州太守を捕らえ呉に送り、その結果、雍闓は永昌太守に任命されていることだ。この際に連絡に用いられたと考えるのが、交州道だ。交州道は西南シルクロードには含まれないが、三国時代の国内外のルートということで、少し触れる。【一、西南シルクロードの支配】で、前漢武帝の時に夜郎道、霊関道が開かれたことに触れたが、その契機となった唐蒙の報告にはもう一つ興味深い記述がある。それによると犍為郡から夜郎、夜郎から南越に至るルートが存在したという。前漢の南方進出時点から、南越、夜郎、昆明のネットワークによる交易路が存在したともいわれ、これらは夜郎を経て交州に至るもので、夜郎は巴蜀と交州を結ぶ交易路の集結地の役割を果たした。おそらく雍闓と孫権の連絡に用いられた交州道はこうした交易路の一部と思われる。
 益州と孫呉の間が結ばれていたとすると、蜀漢政権にとっては大姓や異民族の離反を煽られることは勿論、蜀の産物を呉に取られる可能性もある。南征の目的には西南シルクロードでの交易による利益を得るのに加え、物資が本土に流れることを阻止しようという意図があったのかもしれない。また同じ年に蜀漢は孫呉に使者を出し結びつきを強めているが、これは中大姓と異民族が孫呉に接近することを警戒したための牽制ではないか。
 南征のルートがレジュメの地図になる。二つのルートが重なる。南征の際には西南シルクロードの支線が行軍に利用されていた。南征の目的はその地を直接支配するものではなかったと考えられる。史料10の『三国志』巻三十五蜀書諸葛亮伝注所引『漢晋春秋』より、

南中平、皆即其渠率而用之。或以諫亮、亮曰:「若留外人、則當留兵、兵留則無所食、一不易也;加夷新傷破、父兄死喪、留外人而無兵者、必成禍患、二不易也;又夷累有廢殺之罪、自嫌釁重、若留外人、終不相信、三不易也;今吾欲使不留兵、不運糧、而綱紀粗定、夷・漢粗安故耳。」

とあるためだ。その目的が何だったのか。南征前後の変化をみていきたい。その変化に西南シルクロードの再開があげられるのではないか。南征は建興三年(225年)三月に成都を発ち、その12月に成都に戻ってくるというとても短期間のものだ。そのことからその目的は戦闘や支配よりも沿線の盗賊、大姓に蜀漢の権勢を見せつけるための行軍と考えられる。
 また南征後の統治の様子からも伺える。南征後に統治に当たった張嶷について。史料11の『三国志』巻四十三蜀書張嶷伝より、

奏封路為旄牛句毗王、遣使將路朝貢。

とあり、張嶷は旄牛の狼路を封建し朝貢させている。また、この記述に先んじる所で、

嶷與盟誓、開通舊道、千里肅清、復古亭驛。

とあり、霊関道を再開させ亭駅を置いている。南征の切欠となる反乱を起こした益州の大姓、雍闓も反乱後の支配に関しては孟獲を通し異民族を統治しようとしていた。つまりこの地の統治にあたっては大姓の西南地域への規制力を前提として、経済的、軍事的利益の供出を目的としているように思える。

●【おわりに】

 これまで西南シルクロードの成立と中国の関わり、南越、蜀漢の南征との関わりを考察してきたが、まず言えるのが、西南シルクロードは中国にえる南中支配に欠かせないということだ。もともと沿線の民族により経営してきた西南シルクロードは常に中国政権の支配下に入っていたわけではない。結果、中国政権の支配下にあった時期でも、在地との独自の結びつきが色濃く残っていたと考えられる。また、三国時代という時間軸で考えるならば、蜀漢が外から入ってきた政権である点、三国並び立っていたという点を、漢代とは異なる西南シルクロード経営の目的と位置付けた。蜀漢は郡県的支配をするのではなく、人と物の通り道となるルートを支配することで、ルートを経営し、それに依存し利益を得ていた民族、大姓を支配しようとした。またルートや物資を確保することで、孫呉への牽制として、交州道の機能を停止させようとしていたとも考えられる。蜀が南中支配するに当たり、西南シルクロードは蜀漢政権の独自性を受けて漢代とは異なる目的で経営されたといえるのではないか。

10:58終了。場内拍手

 司会の渡邉先生の簡単な研究紹介に移る。日本では初の本格的な西南シルクロードの論文になるだろう、諸葛亮の南征の理由についても説明するものがなかった(郡県支配ではなくルートの確保だったとするのは初めてじゃないか)、と。そして質疑を促す。

Q. ひろおさんからの質問。武帝期や明帝期のような時代は、郡県的支配で、諸葛亮の時代は交通施設を置くことしかされていないとするが、史料を読む限り、すでに武帝や明帝が郡県を置いているから、新たに郡県を置く必要がなかったと感じられる。そういう点から、諸葛亮が交通施設を整えたことは武帝や明帝がやったことと同じで、本質的な差異は史料から読み取れないがどの辺りが違うと判断されたのか。

A. 機関として漢の時代にあって、具体的な固有名詞を思い出せないが、その時(諸葛亮の時代)に地方の太守に任命された人たちは元々そこに居た在姓と呼ばれる存在で、直接、成都から連れてきた者を派遣するのではなく、在地の者に支配を委ねた点では直接的支配ではないという見解だ。

Q. (続けて)諸葛亮は最終的な目的は直接支配で、暫定的にそうしたともとれるが。

A. 在姓は蜀漢政権が存続する限り、要職に就いているが、結果としては大姓が中央に進出することになり、最終的に北伐に反対する勢力が強くなるが、やはり元からので良いのだろう、そこだけで良いのだろうという勢力が強くなるので、確かに史料面から最後まで諸葛亮が狙ったものがわからない。ただやはり在地の大姓が支配すること、それによって元からあるシルクロードとしての機能をうまく利用しようとする面があったと考えられる。

(渡邉先生からコメントが入った上で、史料的には松尾さんの言う通りそれ以上のことはわからない、とする)

Q. なぜ支配しようとしたか、私の理解では、無理矢理、蜀漢政権が蜀に入り、諸葛亮は地元の民から税金をとれない、だからプラスの収益にならない、そのため西に攻めていき西を支配し、何らかを召し上げて蜀の民から怨嗟の声が出ないようにすると考えたい。

A. 南征の目的にそういった利益を上げることはあったと思う。実際、南征を通して支配のあった地域から人を運んできて兵士にしたり奴隷にしたりということはあったし、結果、沿線の物資が流れてくることによって豊かになっただろう。

(渡邉先生からのコメント(一部))王平が率いていた軍隊がその異民族軍隊。

 場内拍手

 次は11時15分からとアナウンス。


※次記事 ノート2:三国志学会 第五回大会


※この研究報告と関連し、この一年後の2011年8月27日発行の『三國志研究』第六号に松尾亜季子「蜀漢の南中政策と「西南シルクロード」という論考が収録されている。

※関連記事 三國志研究第六号(2011年8月27日)

※新規関連記事 『華陽国志』の世界(東洋大学2017年9月30日)

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