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検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 61 - 90 / 605 件 (0.0113 秒). 検索条件の修正

61. メモ:「前漢後期における中朝と尚書」
※前記事 メモ:「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系」 ・三国志ファンのためのサポート掲示板 http://cte.main.jp/ ・黄門令について (※上記サイト内ツリー) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3048  上記掲示板のツリーでも少し触れられているように、皇帝の居住するところで禁中(省中、省内)があり、前々から具体的にはどこなのか気になってはいた。ちょうど何進が暗殺されるあたりで中心となる場所であるため、そこらへんを具体的に理解するのには避けて通れないだろう。 ※参照記事 8月25日は何進の忌日  そんなおり、「2009年度 東洋史研究会大会」で100円で販売されていた『東洋史研究』Vol.64 No.2に米田 健志「前漢後期における中朝と尚書--皇帝の日常政務との關連から」という論文を見かける。中を見ると、前漢後漢の違いはあるものの、上記の懸案事項について書かれているようなので、その場で購入する。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況  その論文について下記のように、CiNii内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 米田 健志「前漢後期における中朝と尚書--皇帝の日常政務との關連から」(『東洋史研究』Vol.64 No.2 (200509) pp.253-286 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006975846 ※リンク追記。ダウンロード可能になったんでリンク。 ・Kyoto University Research Information Repository: 前漢後期における中朝と尚書--皇帝の日常政務との關連から http://hdl.handle.net/2433/138167  この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.64 No.2は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだね。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/

62. メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究
※前記事 リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法 ※参照記事 ダメ人間の世界史(2010年3月16日)  上記参照記事にあるように、メーラーのEdMaxを使って個人的にチェックしている掲示板に、下記サイト「徹夜城の多趣味の城」の掲示板「史劇的伝言板」がある。 ・徹夜城の多趣味の城 http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/TETUYA.HTML  そこにある投稿#8845が気に掛かる。それは映画『レッドクリフ』(原題『赤壁』)に関する書き込みであり、主にその映画ででてくる「甲冑」が当時のものをどれほど再現しているものかという疑問だ。 ・RED CLIFF 映画『レッドクリフ』公式サイト http://redcliff.jp/ ※関連記事 呉宇森(ジョン・ウー)監督『レッドクリフ(RED CLIFF)』報道まとめ  当時のズバリのものは発掘されていないので、直感的には、ある程度、取り入れているが、映画のようなマントとかローブとか、畫像磚石や明器でも見られないものが平気で出てくる程度の時代考証だと思っていた。しかし、特に何か確証があってそう思っている訳ではないし、これを良い機会だと思い、ある程度、自分や誰かの参照できるものをメモとして残そうと思った。ちょうど下記関連記事のように「虎牢関」、「武冠」や「拝」などについて書いたときのように。前記事で触れたように、視覚的要素を含む現代日本の三国作品の変遷に興味があるものの、当時のデザインでない鎧を見た場合、「腹巻きタイプの鎧」(清岡命名)とか「伝統的なデザイン(≠歴史に忠実なデザイン)」とか個人的には一言で片付けているので、説得力がなく、「ではどんなのが当時のデザインなのか」と聞かれた場合、ぼんやりとしか説明できないからだ。 ※関連記事  メモ:虎牢関って  メモ:武冠のあみあみ  三国創作のための拝メモ  「甲冑」の「冑」はともかく「甲」(よろい)はというと、下記関連記事で触れた2008年10月12日開催の「東アジアの出土資料と交通論」での報告「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」を思い出す。 ※関連記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート3

63. 三国志学会 第四回大会懇親会
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート5  17:02。三国志学会 第四回大会が終わり、龍谷大学の大宮学舎東黌101教室から聴講者が外へ出始める。  清岡は用事のあるげんりゅうさんを見送り、まず、ぐっこさんと合流して、「三国志ニュース」のシステム面の話をしていた。101教室の南の出口から出ると青空の下、折り畳みの長机6個程度が北側を空け三方を囲み「コ」の字になっていた。その上に書籍やグッズが並んでいる。先ほど教室でアナウンスのあった「英傑群像」の出店だね。結局、最後までいらっしゃったということで。 ・英傑群像(三国志エンターテイメント 情報&グッズ) http://www.chugen.net/ ・三国志学会で英傑群像出店します。  (※上記ブログ記事) http://sangokushi.chugen.net/1282  清岡とぐっこさんはしゃべりつつ、商品を物色していた。ぐっこさんは2009年8月22日23日開催の「第三回三国志祭」での英傑群像のブースで銅製の爵杯を買ったそうな。あと企業ブースにあった「夏侯惇の目玉飴」というグッズは「第三回三国志祭」に留めず卸せば売れるんで勿体ない、なんて話していた。それと清岡からはまた「激突! 三国志武将かるた」のアクセス数増加の話をしていた。 ※関連記事  第三回三国志祭(2009年8月22日23日)  激突! 三国志武将かるた(2009年7月)

64. メモ:三国志ジャンルにおけるデータベース消費
<2012年1月28日追記> アクセスログを見ると、ネットで「データベース消費」と検索するだけでリンクを辿ろうとしない、あるいは検索語句を調整しない、ネットリテラシーの低い人が多いので、お節介にも出典とそこからの引用を以下に追記しておく。 東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より --引用開始--------------------------------------------------------- 「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。 --引用終了--------------------------------------------------------- ※追記。アクセスログを見ると、2012年07/27 (金) 00:57:14から不特定多数のIPアドレスから「データベース消費 三国志」とか「データベース消費 漫画」とか検索語句があるが、早稲田あたりでレポートでもでているんだろうか。07/30 (月) 16:50:35に「データベース消費と物語消費 についてのレポート」というそのものズバリの短絡的な、知性のかけらもかんじられない検索語句があったし。そんなリテラシーの低さだと、その結果はきっと評価点も低いことだろう。 <追記終了>  以前、メモ的な記事を書いたとき、冒頭で、とあるブログの影響を受けたと書いたけど、そのブログでよく引用されていたのが東浩紀さんの著作。そこで同著の『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生 : 動物化するポストモダン2』『網状言論F改』『波状言論S改』を続けざまに読んでいる(※そういや関係ないけど、第7回三顧会で玄鳳さんが持っていた書籍は『三国志』の訳本以外だと東浩紀さんの著作だったね、確か)。  というわけで以下、その影響を受けつつ三国志ニュースの「公式サイト」の記事を参考にしたメモ。  よく耳にする言い回しとして「三国志という物語」とか「三国志 あらすじ」とか「三国志、その後」とか「三国志の結末」などがあり、『三国志』が一つの「大きな物語」であると誤認されている証左なのだろう。しかし、そもそも今の三国志ジャンルの大元である史書の陳寿撰『三国志』(成立:紀元280年以降)自体、一つの「大きな物語」なのではなく、王や皇帝など君主ごとに記述された本紀と、臣下ごと(一部、民族ごと)に記述された列伝の集合体であり、いってみればデータベース的側面を持っている。また『三国志』は『三国志』魏書袁紹伝に「語在武紀」(語は武帝紀に在る)、または『三国志』魏書呂布伝に「語在卓傳」(語は董卓伝に在る)とあるように他の列伝の箇所に触れることもあって、あたかもあるデータが別のデータへリンクしている箇所があり、その側面を浮き彫りにしている。  『三国志』には本紀と列伝のみだが、他の史書、例えば『史記』には、さらに諸侯ごとに記述された成家、制度ごとに記述された書(他の史書、例えば『後漢書』や『晋書』では志)、年ごとに記述された表があり、データベース的側面が強くなっている。  さらに『三国志』の裴松之の注は言ってみれば関連情報・詳細情報へのリンクなんだろう。また『三国志』と記述されている人物が多く共通する『世説新語』や『捜神記』などの文献はエピソードごとに収録されたデータベースとも言える。  時代が下るとこういった簡牘や紙をメディアにしたもの以外にも、三国志関連の講談や雑劇など、生身の声や動作(楽器演奏も)をメディアとしたものが出てくる。これらはどちらかというとエピソードごとにまとめられている(※講談に関してはほとんど知らないので、こう言い切れる自信はないが)。  さらに時代が下ると紙のメディアの『新刊全相平話三国志』(成立:紀元1321-1323年)や羅貫中/作『三国演義』(成立:14世紀)など、三国志関連を一つの「大きな物語」にまとめる動きが出てくる。  それらの中で『三国演義』は淘汰されず、多くの人によりバージョンが変えられつつ(挿絵も入るようになり)写本あるいは出版し続けられた。  この「大きな物語」の『三国演義』は日本にも輸入され、『三国演義』を日本語に翻訳(?)した湖南文山の『通俗三国志』(成立:紀元1689-1692年)が刊行された。  そのため、江戸時代中期の日本では、輸入された『三国演義』を読む層、『通俗三国志』や『三国演義』のダイジェスト本を読む層、三国演義関連の歌舞伎や浄瑠璃や講談などで物語を楽しむ層の三つの消費形態出てくる。三番目の層の物語を楽しむ層は言ってみれば「大きな物語」からエピソードを切り出す消費形態の走りだといえる。 ※参考記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2  三番目の層の補足として、下記、参考記事によると詩文、川柳、掛け軸などがあったとのこと。エピソード以外にも「大きな物語」からさらに多角的に細分化して切り出し創作を加え消費されている。 ※参考記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1  日本では『通俗三国志』が出版され消費され続け(時には挿絵も入るようになる)、それとは別に明治時代に入ると『三国演義』も出版されるようになる(これも上記参考記事の受け売り)。  1939年8月から1943年まで『中外商業新報』(新聞)において、『三国演義』を元にした吉川英治/著『三国志』(小説、以下、吉川『三国志』と表記)が連載され、後に書籍にまとめられ、それが現在に至っても消費されている。  日本人の手で、『三国志』を大元として『三国演義』を日本語でリライトした三国志関連の「大きな物語」としては20世紀の日本において代表的な作品となっている。  これに、三国志関連の小説として1966年から1968年まで『週刊現代』で連載された柴田錬三郎/著『柴錬三国志 英雄ここにあり』(小説)、1974年の陳舜臣/著『秘本三国志』(小説)が続く。  後者の『秘本三国志』は『三国演義』や『三国志』以外にも『後漢書』を参考にしており、『三国演義』の「大きな物語」とは異なる部分が多い。  こういった小説としての「大きな物語」の消費形態から新たに漫画としての消費形態が提示された。それが1972年1月から1987年3月まで連載された横山光輝/著『三国志』(漫画)である。これは吉川『三国志』とストーリーが似ている。  さらには1982年10月2日から1984年3月24日までNHK制作の『人形劇三国志』がTV番組として放送され(人形を使った劇の放送、『三国演義』が原作となる)、三国志関連の消費形態が小説に留まらないことが示された。  横山光輝/著『三国志』および『人形劇三国志』はこの頃の日本(1980年代?)の三国志ブームを支えていた。  このブームの中、それ自体が「大きな物語」という枠組みに収まらない消費形態が出てくる。それは1985年12月に発売された光栄(現コーエー)/制作『三國志』(PC88用シミュレーションゲーム)である。  これはシリーズ化され現在、11作目まで発売されており、そのどれもイベントと呼ばれる断片的なストーリーはあるものの、基本的に幹となるストーリー、つまり「大きな物語」はない。またゲームであるため、登場する人物の特性はパラメータ化されており、その多くは消費者(プレイヤー)に明示されている。その消費形態故に三国志関連の様々な事象をデータベース的に解体する必要があったと言える。  ここに日本の三国志関連において「大きな物語」に頼らなくとも消費できるという構造の始まりを見て取れる。  とは言っても、三国志ブームの盛衰に影響を受けるものの、「大きな物語」の枠組みに収め消費する構造は三国志ジャンルにおいて依然、健在であり、1990年代に入ってもなお、様々なメディアでその多くが『三国演義』を基板とした作品が生産され消費された。  1991年から1992年まで横山光輝/原作『横山光輝三国志』(アニメ)が放送された。  1994年、中国中央電視台/制作『三国演義』(TVドラマ)が制作された。  1994年10月から2005年11月10日まで王欣太/著『蒼天航路』(漫画)が『週刊モーニング』(講談社)で連載された。これは『三国演義』以外にも『三国志』等の史書も参考にされている。  1996年11月から北方謙三/著『三国志』(小説)が発表された。  1998年7月25日から2007年5月28日まで諏訪緑/著『諸葛孔明 時の地平線』(漫画)が『隔月刊プチフラワー』に続き『月刊flowers』(共に小学館)で連載された。  これらは何らかの形で1990年代の三国志ブームを支えたと言える。 ※参考記事 第8回三顧会午前1 ※リンク先のページの終盤にある  これとは違う流れとして別ジャンルの要素を三国志ジャンルに合わせる消費形態がある。例えば、1985年7月25日発売の雑誌『小説June』に掲載された『わが天空の龍は淵にひそみて(前編)』、後の江森備/著『私説三国志 天の華・地の風』(小説)はJune系の要素を三国志ジャンルに導入し(もしくはJune系のジャンルに三国志ジャンルの要素を導入し)、結果的にそれまでの三国志ジャンルの外にあった消費層の需要を開拓した。 ...

65. 三国志学会 第四回大会ノート1
※前記事 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)  会場には聴講者が4,50人程度が集まりつつあって、10時になり、司会の石井先生の紹介後、会長の狩野直禎先生が登壇される。 ○開会の辞 (10:00~10:10)  狩野先生から、挨拶に続き、関西での開催、会員数が現在300名程度、さらなる会員数の増加への願いについて触れられる。さらにここ一年の「三国志」に関する動きに触れられる。「大三国志展」や映画『レッドクリフ』など。それを承けて「三国志学会」では一般の人にも門戸を開いていることに言及され、開会の辞を終えられる。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※参照記事  呉宇森(ジョン・ウー)監督『レッドクリフ(RED CLIFF)』報道まとめ  大三国志展(2008年5月3日-7月13日)関連情報 ※追記 リンク:「Google 日本語入力」関連 ※追記 メモ:大半の三国創作と二次創作の相似点 ※追記 リンク:「三国志」の世界(2009年6月20日) ※追記 三国志大戦3 オフィシャルカードバインダー追加リフィルセット(2008年10月23日) ※追記 教科書本文データ集(全国漢文教育学会) ※追記 私的メモ2:三国漫画分析 ※追記 私的メモ1:三国志ワーズネットの展望

66. 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2
※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)  9:22。次の発表が始まる。 ●金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」  まず自己紹介から。「今回、日本語で発表したいと思いましたが、今、後悔しております」とおっしゃり会場を沸かせる。  予め配られたレジュメ(というより論文)はA3の4枚、7ページ分で、それにノートPCでプロジェクターを通じスクリーンに資料を映し出し発表されるとのこと。基本的にはレジュメを読んで進んでいく(※そのため以下のノートはレジュメの丸写しになる可能性がある)。  レジュメでのタイトルは「古代中国南方地区の水運 ―湖北・湖南省出土簡牘と墓葬を中心にして―」。 ○はじめに  昨年、ここで楽浪郡について発表があったそうで、それと関連した様々な簡牘と遺物に関心があるという。  秦漢帝国の郡県支配における内郡と辺郡について、先進・後進、徹底的支配方式・緩やかな支配方式など、二項対立的に区別するのは賛同しない。内郡にも中心と周辺、辺郡にも中心と周辺があるという常識的なレベルで迫る必要がある。  その第一の作業として、内郡の律令支配される地域への考察。睡虎地秦簡や張家山漢簡『二年律令』を見ると公的領域だけでなく濃厚と消費に至る生活全体を徹底的に規制しているが、はたして全帝国において実施されたか。郡県支配が実施される実際の空間を前提して郡県支配の実態が初めて明らかになるのではないか。  その聚落の空間を設定するため、墓葬の位置と分布を検討。河南省、山東省、江蘇省、湖北省、四川省にある7000基の墓葬の位置とそれと県城との距離を測定。結果、律令支配が比較的徹底的に行われた前漢では県城付近の集住が著しいが、後漢時代になるとそれが崩れる(※ここで会場のスクリーンに山東省や江蘇省の調査に関わる様々な図表が表示され前漢と後漢の違いが提示される。ただグラフに縦軸や横軸にラベルがなく何なのか解りづらい)。これで郡県内の県城という「中心」空間は明らかになったが相対的に「周辺」は明らかにならなかった。県城という中心と別の中心との関係、その間で形成される中心と周辺の関係が今後の課題。さらには漢代墓葬の副葬品が中心からの距離によってどのように分布しているのか現在考察中。この過程で注意しなければならないことは、交通の問題。交通により中心と周辺が大きく変わる。  今まで秦簡時代の交通について王子今先生を中心に多くの研究がなされ、藤田勝久先生をはじめ日本の学者も様々な角度で研究を重ねた。今回の発表で先行研究を踏まえ、江南地域での水運について整理したい。出土簡牘と考古遺物を通じ具体的な水運の姿を検討。特に陸運が重要という観念が根強いため、それと結びつけ見る傾向にある。そのため、数多くの出土資料が注目されず放置されている。この発表の前半は簡牘中心、後半は考古学中心。 ○一、郷里単位の水運と水運損失に備えた自治組織―江陵鳳凰山10号漢墓簡牘  江陵鳳凰山10号墓の6号簡牘によれば、平里の戸芻27石、田芻4.37石、田藁2.245(※清岡注。まぐさ、わら)。鄭里全体の畝数は617畝、『二年律令』の規定によるとおよそ田芻18石、田藁12石の芻藁税が徴収されるので、6号簡牘の田芻は1/3-1/6にすぎない(※ここで簡牘の釈文がスクリーンに映し出される)。戸芻と戸藁を含むとさらに多くなり、24石の芻、14石の藁が徴収されたことになる。田租の場合、正確な税率は解らないが、鳳凰山10号墓の7号簡牘によれば市陽里の場合53.36石徴収された。  鳳凰山10号墓の4号簡牘は、市陽里の里正の張偃(墓主)が所属する西郷佐である賜に毎月徴収の算賦を治めた記録。4号簡牘と5号簡牘によると鄭里と当利里の算賦も徴収し西郷に納めたので少なくとも芻藁120石以上、田租130石以上、徴収・伝達された。  里正が算賦のみ徴収したのではないとすれば、張偃は市陽里以外にも鄭里と当利里の算賦・田租を担っていた。算賦が銅銭で徴収・納付に対し、田租と芻藁税は穀物と芻藁の実物を直接徴収・納付しなければならなかった。  田租の一部が銅銭で折納される場合があり、6号簡牘に見られるが極少。『二年律令』にも折納の規定があるが、まず県に集荷され、県の財政の規模・価格によって折納し郡に納入。  穀物は重量、芻藁は体積により徴収。里正の張偃が幾つかの里で徴収・伝達。したがって、西郷から官吏が徴収するのではなく、里正が算賦と同様、穀物と芻藁とを集め郷まで伝達した。  品物の輸送に多くの費用がかかり、時間と空間により多くの差がある。居延出土「建武三年十二月候粟君所責寇恩事」簡牘が具体的な費用の推定に便利。これは粟君が寇恩に魚の販売を頼みながら支払った賃金がいくらであるという問題を巡って起こった事件の裁判。粟君が賃金の穀27石との主張に対し、寇恩が穀27石と牛1頭との主張。魚5000匹の運送に50日かかり運送以外に販売という行為も含む金額。  張偃が運送した量は、寇恩のそれよりはるかに多い。交通手段を水路に依存せざるをえない華南地域。しかし漕運は決して容易ではない。貨物を埠頭で収合し船に積み運航し、埠頭に付いてから降ろすなど複雑な過程があり、当然、運送費用がかかった。  こういったことは同時期の『二年律令』に明記。 ・『二年律令』「賊律」第7-9号簡 船人渡人而流殺人、耐之、船嗇夫・吏主者贖耐。其殺馬牛及傷人、船人贖耐、船嗇夫、吏贖(遷)。其敗亡粟米物、出其半、以半負船人、舳舮負二、徒負一;其可紐繋而亡之、盡負之、舳舮亦負二、徒負一、罰船嗇夫、吏金各四兩。流殺傷人、殺馬牛、有亡粟米物者、不負。  水運に携わる船人・舳舮・徒の存在とそれらを監督した船嗇夫・吏主者が人や貨物を運送する際、死亡または遺失の場合、その賠償責任を明示したもの。水運の過程で様々な損失が発声した事実を物語っている。  里正の張偃はこのような過程を処理する必要があった。江陵鳳凰山10号漢墓簡牘は張偃の責任の元で諸里の税役を徴収し上納した内容が主。4号簡牘と5号簡牘には算賦の用度の記載があり、そのうち「転費」とあり、それは居延漢簡「転銭」と同じく、人を雇用し糧食等を運ぶ費用のこと。  ここで鳳凰山10号墓出土「中販共侍約」に注目。内容は張伯(張偃)が販長になり他六名と約束した後、その規定を書いたもの(※ここでスクリーンに釈文が映し出される)。後半部分は張伯とは別の販吏が見え、販吏の命令に従わない場合のことを規定。前半部分は共同作業が必須で器物損傷・遺失について別の規定がある。張伯らが自発的に組織したという説があるが、戦国時代の秦以降前漢末まで里単位の私的利益のための結社を徹底的に禁止されていたためこの可能性は低い。「会而計」というように販吏への会計報告義務があり官との関連性を暗示。  類似の組織は後漢初の「漢侍廷里父老[イ單]買田約束石券」でも確認。この石券は于李等25人が[イ單]を組織し構成員が出捐した61500銭で82畝の土地を買った後、里父老にその土地の収穫物を使用できるようにしたもの。資産が足りなくなり里父老の資格がなくなると25名の中で次の人に渡すようにした。官により強制的に課せられた里父老の義務を処理するため、出捐したお金で将来発生する可能性がある金銭的損失に備えた。「他如約束」とあるように具体的な罰則規定は別途に規定したようだ。里正と同様、後漢の里父老の義務の一つに税役の徴収がある。これこそ経費負担の主な原因。水運での損失の可能性が高いため、それに備え組織を作りそれは官に許された。  弘一先生によると「中販共侍約」の「販」は「般」、すなわち大船を意味する。より確実に船舶を利用・運送する担当者が将来発生する可能性のある問題に対処するため、官の指導のもとで組織を作ったと理解。 ○二、県級単位以上の水運と水運損失への官府の補填―長沙走馬楼呉簡 ※関連記事  第2回三国志学会大会ノート1  2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート  走馬楼呉簡が出土した長沙は鳳凰山簡牘が出土した江陵と同じ地理環境。走馬楼呉簡の内容の一つに嘉禾三年と四年にかけての田租の徴収と倉庫への納入がある。そのため鳳凰山簡牘で考察した水運関係の事実を走馬楼呉簡で確認できる可能性は高い。  漢代以来、賦税のの納入は「自送」が原則。前述のように里正・里父老のような下級官吏により統合・納入し、その費用を「転費」などの名目で農民に課した。それにより「里父老石券」「中販共侍約」出現。走馬楼呉簡の田家[艸/別]に「入□郷嘉禾二年租米八斛就畢 嘉禾二年九月廿八日叟丘県吏潘孔関邸閣董基付倉吏鄭黒受」(A2869)などとあるように入倉の主体が見えないため、「自送」したように見えるが、漢代と同じように基層単位の担当者が代納した可能性が高い。しばしば代納の主体が屯田司馬、西郷佃吏などのように確認できるのはその証左。  租米や限米など多様な種類の穀物が全部水運で入倉されたわけではないが、県倉と離れたところは水運を利用せざるをえなかったようだ。しかも県倉に納入された品物を再び別のところへ運ばれる際、主に水運に依存。「其一百廿五斛五斗四升民先入付三州倉吏谷漢出付船師唐鼠運詣中倉関」(9.3097)という事例(※スクリーンに釈文が映し出される)では、民が三州倉に納入した125.54石の穀物が船師に渡され中倉へ運ばれる。  漢代の簡牘では損失に備えた組織が出現した事例があるのに対し、走馬楼呉簡では実際の損失に対する報償する具体的過程が書かれている。王子今先生は「折咸米」の事例がいずれも「入吏(或吏某)所備船師某某年折咸米」という形式であることに着目し、「折咸米」が船師の運送中に損失された部分を指すとした。侯旭東先生は官吏の過失を報償する行為を意味するとする。先の張家山漢簡『二年律令』では第一次的な責任は船人が負うのと同時に官吏が連帯責任を負うことが明示。走馬楼呉簡の「吏所備」は恐らく連帯責任の一部。ただ折咸米が思ったより少なく、運送中にかかる他の必要経費も含まれると見た方が良い。  「[イ就]銭」にも注目。王子今先生はこれを「邑下居民」と関連づけ、使用者が土地の持ち主に支給した租価であると説明。「[イ就]銭」を「運賃の用途に使われる税金」と解釈すれば、居延漢簡や敦煌漢簡の用途と関連づけ理解できる。鳳凰山10号漢墓出土簡牘の「転費」と類似すると考えられる。  漢代では主に徴収する責任者が作った自発的な組織で損失に備えたのに対し、三国呉では多くの部分が官吏により体系的に支払われた。無論、『二年律令』によれば漢代でも官吏により損失分が補填され、三国呉でも自発的組織が形成された可能性は高い。 ○三、水運対象の貨物と範囲―里耶秦簡  江陵鳳凰山簡牘に見える水運貨物は主に穀物と芻藁であるが、F類竹簡に分類される鳳凰山10号墓簡牘には「[台/木]」(※からむし・あさ)や「笥」(※竹や葦で編んだ箱?)などが記される。簡牘の意味については貨物の明細書、運送集団の運賃支給、商業経営帳簿等、様々な見解がある。[台/木]を数える単位は「絜」となっており、『説文解字』の段玉裁注によると「絜」は一束のこと。完成品の[台/木]の単位が「匹」なので、簡牘の[台/木]は縛られる材料または半成品と考えられる。従って[台/木]や笥はこの地域で生産される水運対象と推定。  里耶秦簡にも[台/木]を収穫し半成品を作る中間過程が記される。具体的には脱膠、剥皮、刮青、分劈の過程を経た後、紡織する。里耶秦簡に脱膠で主に使われる[シ區]漬法が見えるため、恐らく[シ區]漬を経た後、出荷される。  走馬楼呉簡では水運対象が主に穀物でそのうち軍糧に使われる事例に注目。断片的な記録だが、軍糧輸送は三州倉→州中倉→倉曹→督軍糧都尉→右節度の順で、軍糧は船師に伝達され水運で運ばれたことは明らか。文献資料に記載される呉の武陵蛮討伐と時期的にも空間的にも重なるので、走馬楼呉簡の軍糧輸送は[シ元]水流域の武陵蛮討伐のためと考えられる。つまり湘水地域の長沙から[シ元]水地域への水運事例。  里耶秦簡にも軍需物資の輸送関連の記録がある。秦始皇34年9月を基準に遷陵県で保管中の弩臂の数量を点検した記録。うち七件が益陽と臨[シ元]で放出と記録。いずれも水系で繋がる。  他所から酉水上流の遷陵地域へ水運で運ばれる貨物も確認される。江陵地域の競陵県蘯陰里の狼仮が故荊の積瓦を求めるために公船を借りていった事例が代表的。他に洞庭の上裙も遷陵地域に運ばれていた。遷陵地域で半成品の[台/木]が搬出されたのと対照的  江陵以南の地域は人と文書の通行も水運に大いに依存。里耶秦簡の里程簡では臨[シ元](常徳附近)から遷陵までの距離が中間の別の地名を経ず910里と記される。これに関し多くの議論があり、この路程が水路か陸路かについて後者を仮定する場合が多い。それは北方地域の陸上の郵の設置と文書伝達システムが南方地域でもそのまま運営されるという仮定が出発点のため。張家山漢簡『二年律令』と居延漢簡には、それぞれ一日に文書を移動すべき距離が規定されており、文書の移動で最速が郵伝によるとするならば、里程簡に地名間の距離が記されているのも、陸上の郵の方法で伝達される距離になる。『二年律令』「行書律」に江陵以北は10里ごとに1郵、索までは20里ごとに1郵設置するが、地形が険しい場合は便利なところに設置できると規定されている。尹湾漢簡だと、東海郡の場合、1県当たり1郵の比率。索すなわち今の湖南省常徳以南の場合、地形が非常に険しい湘西地域は水系にそって県単位で設置されたと考えられる。また一旦水系に沿って移動すれば、陸上のように中間の郵を経る必要がない。[シ元]陵虎渓山簡牘の中に「廷到長安、道涵谷、三千二百一十九里、其四百卅二里[シ元]水」(MIT:43-99)とあるのは[シ元]陵から臨[シ元]もしくは索までは水系に沿って物資と文書が移動されたことを如実に示している。 ○四、漢代墓葬の副葬品よりみた湖南省の水運  簡牘で見た湖南省水運範囲は非常に広い。 (※ここで「時間がないため、簡単に説明すると告知」)  長沙馬王堆駐軍図の地理的背景に対し様々な意見があるが、歴史地理学界では湖南省最南部、九疑山地域に比定。都尉が設置されたところには軍事物資の運送が必須だが、周辺の地形上、水運が不可避。そのため、全体的に見れば遷陵・[シ元]陵という酉水の水系、臨[シ元]・[シ元]陵・敍浦(武陵郡)の[シ元]水の水系、益陽の資水の水系、長沙-州(九疑山)の湘水の水系、これら多くの水系が互いに連結した姿を確認。  漢代墓葬の副葬品を通じ、水運を確認したい。方法はまず水系別に墓葬を整理し、墓葬出土品の陶器・青銅器など材料別に分け相関関係を考える。 ...

67. 横山光輝『三国志』に見られる連環画の再構築 問題意識と目的 初稿
・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/  上記サイトにあるように、2013年7月6日7日に北九州市にて「日本マンガ学会 第13回大会」が開催され、それに先立つ同年4月1日が発表要旨の〆切なので、「問題意識と目的」「方法」「結果と考察」「結論」のうち一旦、「問題意識と目的」を書いてみた。しかし、1500-2000文字の範囲なのに、すでにその時点で注抜きで1400文字以上あったので、削りまくる必要に迫られ(例えば文章の流れにうまく乗ってない吉川英治『三国志』の件をばっさりカット)、原型を留めなくなった。そのため初稿を公開しても問題ないだろうと思い、続けて公開する。さらに注には関連する記事へリンクする。あとワールドワイドウェブでの指摘の件もカットしたため、まるで清岡がこの件を発見したみたくなってしまった感じがあるので、もし査読が通ればそこらへんは発表で忘れず触れたいと思う。

68. 1980年代日本における「三国志演義」翻案作品のファン層形成(2016年6月25日)
※関連記事 「三国志演義」を翻案した少年マンガの1980年代までの変遷(2014年6月28日)  上記関連記事と同じく2年前と同じく、Twitter内で「"マンガ学会"」と検索している…その間にTwitterのシステムが徐々に変わって積算すれば結構、かわっているだろうけどね、少なくとも検索は。 ・Twitter / 検索 - "マンガ学会" https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=%22%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%AD%A6%E4%BC%9A%22&src=typd ※関連記事 三国志 義兄弟の宴(東京都港区 2015年9月13日-)  上記関連記事にある第12回 三国志 義兄弟の宴に参加すべく中野駅近くのスターバックスで待機していた。 ・中野通り店 | スターバックス コーヒー ジャパン http://www.starbucks.co.jp/store/search/detail.php?id=229  それで冒頭の通り検索してみると、日本マンガ学会第16回大会のプログラムが発表されていることを知る。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第16回大会 プログラム - 日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/convention/16_program  それでどこが三国に関係するかというと、2016年6月25日土曜日13時35分から14時5分まで(※時刻はPDFのフライヤーより)に東京工芸大学中野キャンパス(最寄:中野坂上駅) 1号巻2階1203教室・会場3にて清岡美津夫「1980年代日本における「三国志演義」翻案作品のファン層形成:『コミックトム』読者欄を介した質的研究」の口頭発表があるという。 ・東京工芸大学 http://www.t-kougei.ac.jp/index.html ※新規関連記事 打猫-猫狩り-(2019年1月19日)  下記関連記事に前々回会場2室、前回会場3室13報(内ラウンドテーブル1報)で、今回が4室で口頭発表22報(内ラウンドテーブル2報)になって、ポスター発表数が前回4報から2報に減ったといえども、あからさまに規模が大きくなっておりさすがは東京大会ってところだろうか。ちなみに日本マンガ学会大会は年一回で、地方と中央とを交互に開催し、さらに中央は東京と京都の交互で開催されるため、東京での大会は下記関連記事にあるように4年ぶりとなる。いつものように二日目の日曜日(2016年6月26日)にシンポジウムがあって、参加費は一般2000円/日、会員1000円/日、学生初日500円・2日目1000円となる。 ※関連記事 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

69. メモ:第6章 武侠漫画の映画的手法表現の成立をめぐって
※前回記事 三国志ジョーカー 単行本未収録分(2011年7月6日-11月5日) ※三国と無関係ながら前回の雑記 ・22日はボーヤンの日 http://cte.main.jp/calcio/blog.cgi?n=361  表題の三国に関係があるところに到達するまで、無関係な記述が続くので、先に以前、書き残し損ねた三国関連について書く。

70. 三國志研究 第四号(2009年9月)
※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)  上記のように2009年9月5日に「三国志学会 第四回大会」があった。  まぁ、詳しい説明は後日じっくりゆっくりチョビチョビと、ということで、まず自分的に興味深かったことを一点。 ※関連記事 漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日)  以前、上記の2009年5月15日金曜日に開催された「第53回国際東方学者会議 東京会議」シンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」をまとめたものが三国志学会の方から出ると小耳に挟んだもんだから、下記、三国志学会を結構、こまめにチェックしていた。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/  それで今日、「三国志学会 第四回大会」の会場に行って、例年のように会費を払い、学会誌を貰うと、『三國志研究』第四号(ISSN 1881-3631)が何だか、いつもより分厚い。それでも特に気にせずぱらぱらめくると、なぜか福原先生のコメントが掲載されている。  もしやと思ったら、やはり「漢魏交替期における社会と文化」をまとめたものがまとめてまるっと『三國志研究』第四号の中に入っていた。  もちろんいつもの講演、論考(三劉さんのところも)が入っている。 ※関連記事 三国志学会&BS熱中夜話(三劉)  後で石井先生からの話で知ったんだけど、値段もいつもより1000円高くて2500円。会費は変わらないので、相対的にいつもよりお得になっている(と書くと何かどこかの回し者のようになっているけど、そうでもない・笑)。 ※追記 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※追記 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況 ※追記 歴ドル小日向えりの恋する三国志(2009年3月10日) ※追記 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日) ※次号 三國志研究第五号(2010年9月11日) ※追記 魏晋南北朝期における貴族制の形成と三教・文学(2011年9月) <9月10日追記>   『三國志研究』第四号を置いていたら、いつの間にか知り合いに読まれていた。その知り合いが印象に残ったことを漏らしていたんだけど、まず「漢魏交替期における社会と文化」のところで、本当に先生方がチェックしているのか?と疑問を持つほど誤字が多いこと、次に、院生が投稿するようになってマシになってきたけど、そもそも学会誌掲載論文としてカウントされるのかな?という疑問、あと、日本語訳された『郁郁たり文若』が面白いと思ったら作家によるものだったことなど。  対する私は最後の話題のところで、そのタイトルから、あるブログを連想していたんだけど、下記のようにやっぱりそうだったようだ。 ・花郁郁たる高陽里 http://gaoyangli.blog79.fc2.com/ ・三国志研究第四号に翻訳が掲載されました http://gaoyangli.blog79.fc2.com/blog-entry-163.html <追記>  『三國志研究』第四号に中川諭先生による『歴ドル小日向えりの恋する三国志』の書評があって、それに対するご当人のブログ記事を下記へリンクする。 ・歴史アイドル(歴ドル)小日向えりの「三国志見聞録」 http://ryo0207.cocolog-nifty.com/blog/ ・「三国志研究」に書評を掲載頂きました! http://ryo0207.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-3786.html ※関連記事 歴ドル小日向えりの恋する三国志(2009年3月10日)

71. 「三国志演義」を翻案した少年マンガの1980年代までの変遷(2014年6月28日)
※関連記事 日本マンガ学会第13回大会に至るまで(2013年7月4日-)  上記関連記事で書いたように、2013年7月6日開催の日本マンガ学会第13回大会開催前に、下記リンク先にあるように、Twitter内で「マンガ学会」と検索し、鈴木真吾さんが発表資料の見直ししているというツイート等で、意欲を頂いて以来、ちょくちょくそういった検索をするようになった。 ・Twitter / 検索 - マンガ学会 http://twitter.com/search/realtime?q=%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%AD%A6%E4%BC%9A&src=typd  それから十ヶ月経って、2014年5月16日に同じように「マンガ学会」と検索すると、いつもより、多くの人が「マンガ学会」という単語を含むツイートをされていて、下記の日本マンガ学会サイト内の第14回大会のページへのURLを記していた。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会 第14回大会(京都精華大学・京都国際マンガミュージアム) - 日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/convention/14  つまりプログラムが発表されたので、アクセスが増え、その分、ツイッターでつぶやく人も増えたってことか。  それでどこが三国に関係するかというと、2014年6月28日土曜日15時30分から16時までに京都精華大学・会場B(黎明館 L-103 ※5月16日現在、「L-201」となっているが誤りかと)にて清岡美津夫「「三国志演義」を翻案した少年マンガの1980年代までの変遷」の口頭発表があるという。 ・京都精華大学 http://www.kyoto-seika.ac.jp/ ・京都国際マンガミュージアム - えむえむ http://kyotomm.jp/

72. 三国志学会 第九回大会(2014年9月6日13日土曜日)
・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※前回記事  三国志学会 第八回大会(2013年9月14日土曜日)  ノート:三国志学会 第八回大会(2013年9月14日)  少なくとも私が把握しているここ数年は、三国志学会大会昼休み中の役員会で来年の三国志学会大会の日程が決められ(もちろん都合により変更されることもあった)、下記関連記事にあるように大会が終わる頃には事務局長等から来場された方々にその日程が告知されていた。半月以内ぐらいにこの三国志ニュースでもお伝えしていて、そして今年もそのように三国志学会大会で告知されたのだけど、三国志ニュースではすっかり時機を逸していた。 ※関連記事  三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日)  三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)  三国志学会 第八回大会(2013年9月14日土曜日) 「三国志学会 第八回大会」でも渡邉義浩先生から早くも来年の三国志学会大会の日程について告知があり、「三国志学会 第九回大会」は2014年9月13日土曜日に、三国志学会会長の狩野直禎先生のお膝元となる京都の龍谷大学にて開催されるという。 ・龍谷大学 You, Unlimited http://www.ryukoku.ac.jp/  また、その一週間前の2014年9月6日土曜日に、京都で大会が開催された今年と似たような形で、東京の二松学舎大学にて一般向けの講演会が開催されるという。 ・二松学舎大学 http://www.nishogakusha-u.ac.jp/

73. 三國志研究第五号(2010年9月11日)
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学) ※新規関連記事 三国志研究第十九号(2024年9月8日発行)  上記関連記事に書いたように、「三国志学会第五回大会」にて例年通り、会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第五号が渡された。  『三国志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。下記の汲古書院のサイトでは今のところその情報はないけど、まぁ問題ないのだろう。 ※追記。 上記三国志学会サイトによると、「A4・198頁/ISSN 1881-3631」とのこと。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/

74. 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート1
※前記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日)  13:00、中村先生より開会の挨拶があり、総合司会は川合先生とのこと。  川合先生から今日のスケジュールが告げられる。  13:01、大原さんと満田先生が前の長机のところに着席され、まず満田先生から司会。配付資料はA3用紙8枚15ページの本紙とA3用紙4枚7ページの表中心の別紙とA3用紙1枚2ページの補足資料。大原さんの経歴の紹介。  13:07、発表開始。  修士の時に曹魏明帝期の中書に深く関わっていた。そのため、中書と尚書系官職との関わりについて疑問に思っていたところでの今回の報告となる。 ○報告1 曹魏明帝政権の人的構造

75. 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日)  上記関連記事で書いた「三国志学会 第六回大会」にてご講演が終わった後、その直後の懇親会についてのアナウンスの後、三国志学会事務局長の渡邉義浩先生から早くも来年の三国志学会大会の日程について告知があった。  「三国志学会 第七回大会」は2012年9月8日土曜日に、三国志学会会長の狩野直禎先生のお膝元となる京都の龍谷大学大宮キャンパスにて開催されるという。  また、それに先立つ2012年9月1日土曜日に、京都で大会が開催された今年と似たような形で、東京の二松学舎大学にて「三国志学会」の林田愼之助先生の傘寿記念講演会が開催されるという。 ※関連記事 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日) ※追記 『三国志』から見る東アジア共同体の可能性(2011年11月19日) ※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日)

76. 「長沙呉簡の世界」ノート7
・「長沙呉簡の世界」ノート6からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/646 ○パネルディスカッション(15:45~16:45) コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校)  休憩が終わり16時7分、パネルディスカッションが始まるとアナウンスが出る。  始めに韓国から特別に来ていただいた朴漢済先生からのコメントがあるとのこと。経歴の紹介があったあと、外国語でコメントがある。日本語で追って読まれるのではなく、予稿集に日本語訳があるので省略される。 ※『長沙呉簡研究報告』第3集にも載っている  パネルディスカッションに移る。 ※中国の先生からの回答は、中国語の回答→日本語訳といった流れ  阿部先生への質問。1.耕作者の身分は具体的にどのように記されているか。2.身分的集計がされているのか。  回答。1.、圧倒的に多いのは「男子」、その他「大女」。続いて「州吏」「郡吏」「軍吏」、あるいは「州卒」。その他、特定の丘里に見られる身分もあるため、今、すべての身分を掲げることはできない。2.今のところ身分ごとに有義のあることは見いだせない。一つ言えることは「州吏」に関してかかってくる税率が他の身分より低い。旱田の率が極めて低い。全体的に低い。  宋少華先生への質問。1.長沙市の簡牘博物館について長沙呉簡を訪問者が実際に手にとって見ることができるのか。  回答。1.呉簡自体はまだ地下の貯蔵庫にある。そのため初めて来る人は先生にお願いして地下の貯蔵庫から出して貰うという形で見ることができる。まだ取り壊し状態のところが二棟残っており、それが取り壊されると完全に開放される予定。去年の12月には400枚ほどの簡牘を見ていただいた。  王素先生と羅新先生への質問。1.竹簡は一部しか公開されていないが、整理釈読に当たっている先生方は公開済みの竹簡と異なる性質のものをみかけたか。あればそれはどの程度か。  王素先生からの回答。1.現在まで長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡〔壹〕』(上、中、下)(文物出版社、2003)が出ているが、今年の年末か来年の初頭には竹簡〔弐〕が出る(※現在では既刊。長沙簡牘博物館・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組(編)『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[弐]』(全3冊),文物出版社,2007年1月,7-5010-1726-3.。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。竹簡〔弐〕の中にはわずかであるが形式や内容の異なるものが含まれている。竹簡〔参〕以降になるとそういった異なるものが増えてくる。後になればなるほど内容は豊富で重要なものとなる(ここで場内笑)  東海大の渡部武先生からの質問。1.「常限田」「火種田」について興味がある。それを漢代の史料に出てくる「火耕水耨」と結びつける流れがあるが、四川の西南地方を調査したときに水がかりの良い土地とそうでない周辺の土地がいっぱいある。そういうことを連想し、長沙にもそういった対比があったのではないか、水がかりの良いところは水平で、そうではない所は通常の方式をとらない、そういったことを調査から思い浮かべたが、そういうことを言っている研究者はほとんど居なかった。農学を研究している方面から走馬楼呉簡についての二つの種類の耕地(※「常限田」「火種田」のこと?)への所見はあるのか。  日本側からの回答。1.結論からいうとわからない。一点言うと「常限田」「火種田」とは対比したり二種類として良いものか、というのは問題になっていることの一つだ。今のところ基本的には「常限田」と対比される概念は「餘力田」である。「餘力田」=「火種田」なのか、それとも「餘力田」と「火種田」とは別のカテゴリーなのかというのはまだ想像の範囲だ。そういう段階だから「火種田」をどういう風に理解するかは答えにくい。「餘力」とは何なのかが絡んでくる。  中国側からの回答。1.「火種田」は二つの見方がある。一つは「火耕水耨」。もう一つは阿部先生の指摘通り山地の焼き畑農法。後者は水田ではない。両方のやり方が存在していて、長沙呉簡では収穫してからなので「米」という字を書いていて(※この直後、聞き取れず)、「火種田」は水田と思われる。  宋少華先生からの回答。1.現在の話。水利条件の良いところでは水稲を設け、あとは野菜、トウモロコシなどをつくっている。水利条件の悪い山地的なところではアワ、豆、麻、麦などを現在はつくっている。  伊藤先生からの回答。1.目録を作っているが、今のところ、農学者による論文を見ていない。  質問。1.文献に見えるような豪族の変化の方向性は呉簡で見えるのか(※ここでは清岡はかなり略して書いている)。2.あるいは後漢の研究で碑陰の中に出てくる郷里の門生故吏(で見られるように)同じ姓の人たちが地方で里を占めていくというがあり、呉簡でそういうことが見えてくるのか。3.従来の後漢社会の変化というものと呉簡研究との関係はどうか  回答。2.竹簡〔壹〕でのデータベースを検索していく中で一つの里の中で同じ姓はあまり見られない。今のところ大きな力を持った姓は見られない。  新潟大学の書道史の鶴田先生(今回のシンポジウムの表題なりパネルなりの文字を書いた先生)からのコメント。1.三月に明治大学で研究会があって後漢の史料がかなりあるという話。議論があまり進んでいない状況。みんな盛んにアタックし始めている。鶴田先生は十一月の学会で草書について発表する予定(※現在では発表済。鶴田一雄氏「長沙市東牌楼出土簡牘にみる草書の変遷に関する一考察」。リンク先『關尾史郎のブログ』内ページ)。  王素先生への質問。1.長沙呉簡に書かれる時期の長沙は蜀に対する呉の最前線(軍事的に厳しい状況)だったが、(「邸閣」は日本では軍事施設という理解が強い、あるいは明らかな軍事的な機関の名も見られるが、)その時期の長沙は呉の一地方とみなすのか、それとも前線とみなすのか。  王素先生からの回答。1.まず呉簡は大きく分けて経済方面の史料が多くある。経済方面の史料として戸籍と、税を納める史料が非常に多い。但し軍事関係の史料が全くないというわけではない。こういう方面は羅新先生が知っているので(羅新先生にコメントを求める)。  羅新先生からの回答。1.そういう史料があれば非常に面白い研究になると思うが、現在、(研究するほどには史料が整理されていない)。  關尾先生から朴先生へのお願い。1.朴先生は韓国の呉簡研究について厳しい評価をした。大分前に關尾先生が韓国に行き韓国の若い先生と話をした。その時に日本の学会では社会経済史の研究は停滞気味だが韓国の学会では若い先生方が社会経済史に対し大きな関心を持っていると感じた。長沙呉簡は今日の報告にもあったように社会経済史に関する非常に豊かな宝庫だと思っている。そのため、是非、韓国でも若い研究者の方々を中心に長沙呉簡に関する研究が活発になるよう祈っているし、朴先生にはリーダーとしての立場としてそういった研究を盛り上げてくれるようお願いしたい。  朴先生からのコメント。1.呉簡に関して今、韓国では盛んに研究が行われてないが、○○(※聞き逃し)史に関して若い先生方で新しい研究がされている。社会経済史に関しては若い研究者の間で一所懸命やっている。4,5年前にこちらの方に来たとき、呉簡とあまり関係ない研究をやっていて、今回、この研究会に参加し、多くのものを得て、いろんなものを考えるようになって、これから韓国に帰ったら、若い人たちと一緒に研究をやってみたいと考えてる。そのためいろんな史料をいただけるとありがたい。韓国でこのような研究会があるとすれば、今度はコメンテーターとしてではなく発表者として参加したい。もし韓国でなければ、私がやりたい(主催?)と思う。  パネルディスカッション終了のアナウンスで終了。17時2分。 ○閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学)  伊藤先生が日本語でおっしゃった後、中国語で追随する形。今回のシンポジウムで一つ一つ誰がどんな発表したかをいう形。今回の報告内容は『長沙呉簡研究報告』第3集に収録される予定なので、刊行されれば購入してくれるようお願いがあった(場内笑) ○この後  開場は片づけと共に先生方で集合写真を撮っていた。  それを尻目に我々は会場を後にしファミリーレストランで一休み。 ※追記 ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日)

77. ノート:三国志学会 第八回大会(2013年9月14日)
・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志学会 第八回大会(2013年9月14日土曜日)  上記サイトや上記関連記事にあるように、2013年9月14日に京都の龍谷大学大宮学舎東黌103教室にて「三国志学会 第八回大会」が開催された。

78. 魏晉政治社会史研究(2012年3月)
下記ブログ記事で知ったこと。 ・關尾史郎のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(12/04/23) (※上記ブログ記事) http://sekio516.exblog.jp/17845576/ 下記サイトの下記書籍ページによると、2012年3月に京都大学学術出版会より福原啓郎/著『魏晉政治社会史研究』(東洋史研究叢刊之七十七(新装版15)、ISBN9784876985357)が7980円で、刊行されたという。 ・京都大学学術出版会:ホーム http://www.kyoto-up.or.jp/ ・京都大学学術出版会:魏晉政治社会史研究 http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1793 ※関連記事 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』 ※新規関連記事 リンク:西晋の菅洛墓誌について(研究論叢2013年)

79. 鍾繇書の実装―新出の東牌楼後漢簡牘を手がかりとして(2009年1月)
・書羅盤・チャイナブックナビゲーター http://www.mag2.com/m/0000067662.html ※関連記事 書羅盤・チャイナブックナビゲーターの2008年の三国志関連 ・東方書店のホームページ<中国・本の情報館> http://www.toho-shoten.co.jp/  上記、メールマガジン『書羅盤・チャイナブックナビゲーター』2009年第3号(総186号)2009年2月10日発行によると、下記のような情報があった。 --引用開始--------------------------------------------------------- □『書法漢学研究 第4号』 書法漢学研究会 編 アートライフ社 B5 72頁 2009年1月 1,890円 9784990360337 鍾[揺-才系]書の実装―新出の東牌楼後漢簡牘を手がかりとして(大橋修一)、 狩谷[木夜]齋の「轉注説」について(張莉)、「大河内文書」にみる中国文人の 活動実態―その文芸思想と経済活動(中村史朗)ほか。 --引用終了---------------------------------------------------------  この雑誌について、まずネットを当たってみると、下記のような公式サイトが出てくる。 ・アートライフ社「書法漢学研究」 http://www.artlife-sha.co.jp/magazine/

80. リンク:「漢代の扁書・壁書」
※前記事 リンク:「漢代における郡県の構造について」  このシリーズで同著者の論文へのリンクが続いたので、別の著者の論文へのリンクを張る。元々は『史林』がオンラインで公開されていないか、確認のため、CiNiiで検索をかけていたときに見かけた論文。 ・The Society of Historical Research http://wwwsoc.nii.ac.jp/shr/  それが下記の論文。「関西学院大学リポジトリ」にも収録されている。 佐藤 達郎「漢代の扁書・壁書──特に地方的教令との関係で──」(『関西学院史学』35号 (200803) pp.83-98 関西学院大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110007153041

81. 『易緯乾鑿度』上下二巻に附された鄭玄注の真偽(東洋古典學研究 第41集 2016年5月)
※関連記事 メモ:東方書店(2016年7月30日) 上記関連記事で触れたように、東方書店で見かけた学術誌に三国関連が。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・国内書 東洋古典学研究 第41集【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900010084&bookType=jp 上記書店ページの上記雑誌ページによると、2016年5月に東洋古典学研究会『東洋古典學研究』第41集(ISBN/ISSN 1346-9428)が刊行されたという。東方書店で2500円。そこに藤田衛「『易緯乾鑿度』上下二巻に附された鄭玄注の真偽」が収録されている。 ・東洋古典學研究 | 広島大学 http://hiroshima-u.jp/bungaku/brochure/publication_magazine/toyoukoten ※関連記事 中國古典定立史(2016年3月30日)

82. メモ:「黄巾の亂と傳統の問題」
※前記事 メモ:「前漢後期における中朝と尚書」  下記にある「第33回 秋の古本まつり」で購入した『東洋史研究』7冊のうち、1冊に「黄巾の乱」関連の論文があった。 ※関連記事 第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)  「黄巾の乱」についてある程度、知っていて、1975年と古い論文なので、気軽に読むつもりで掲載されている論文誌を購入していた。  その論文について下記のように、CiNii内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。※追記。読めるリポジトリのページを下記に追記。 福井 重雅「黄巾の亂と傳統の問題」(『東洋史研究』Vol.34 No.1 (197506) pp.24-57 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002659661 ※リンク追記・Kyoto University Research Information Repository:黄巾の亂と傳統の問題」 https://doi.org/10.14989/153573 ※新規関連記事 三国志ニュース定期便 【論文紹介】黄巾って五行関係なくね?(YouTube2024年6月16日)  この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.34 No.1は下記の東洋史研究会のサイトのバックナンバーでリストアップされていないので、購入できるかどうか不明。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/ ※新規関連記事 福井 重雅 先生、死去(2020年3月13日)

83. 2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午後レポ
・午前の部 http://cte.main.jp/newsch/article.php/305  「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」の午後の部。  まず司会の冨谷先生から座席についてのお願いとアンケート回答のお願い。 ○講演「漢から魏へ──上尊号碑」(13:10~14:30)  講師は井波陵一先生(京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター教授)。講演の前に次回「TOKYO 漢籍 SEMINAR」のお知らせ  そういや午前の部で書き忘れていたけど、貰った資料の中に次回のお知らせがあった。 2007年3月10日土曜日開催予定 「第三回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」 講演テーマ遠い世界へ Part 1 西域への旅  玄奘三蔵『大唐西域記』 などをとりあげるとのこと  それから講演に入る。プリントの資料の2-1に触れ、そこの最初の【延康】から触れている(以下、【】付けはプリントの資料2-1で【】付けにされている項目があるという意味)。延康元年(西暦220年)は曹操がなくなってからの改元だ。延康の前は建安で、建安文学の説明が入る。  プリントの資料に則し次が【禅譲】。禅譲という言葉の走りは後漢書逸民伝に見られるとのこと。そこから禅譲の意味へ。禅譲は武力を伴わないものに対し「放伐」は武力にうったえるもの(例として夏→殷、殷→周)。なるほど、初耳。  【220年当時の情勢】に話が移り、武力は必要ないが、大義名分が必要とのこと。まず周囲の盛り上がりが大事とのこと(曹丕が一方的に圧力をかけたわけではない)。元号の「延康」に漢王朝の抵抗の意味が込められていると説明。  というわけで話は曹丕の【即位へ向けてのプロセス】へ。ここで上尊号碑にまつわる話に触れていく。上尊号碑が今、どういうふうにおかれているか、撮影許可をとるだけでも大変だ、という話など。  それから【上尊号碑】を奉った人物の説明へうつっていく。その奉った人物の一覧表(46人)が別のプリント(2-4 表2)でまとめられている。上尊号碑にはまず肩書きがあって姓がなくて人物の名がくるとかとかいう概説。名しかないので誰のことかわからない人物が何人かいるとのこと。  具体的に上尊号碑に記載のある人物の説明に移る。【三公】から。三公の相國が司徒とも呼ばれ御史大夫が司空とも呼ばれ、それぞれの担当を説明した後、最高責任者であると説明。九卿(元々は九つあったがこの時期は違う)が各省庁の大臣職官にあたると上尊号碑の碑額に「公卿将軍上尊号碑」(公卿→三公九卿)と書かれていて文官武官のトップクラスが並べられていることがわかる。  三公である【華[音欠]・賈[言羽]・王朗】の説明。三国志魏書武帝紀などに見られる着任時期の話。三人が三公になったのは曹丕が魏王だったときで碑文と一致。ただし、三国志魏書賈[言羽]伝との記述とは一致しない。これは即位→即王位とすれば一致する(王昶「金石萃編」の主張)。賈[言羽]の爵位も史書と碑文は一致しない。  【華[音欠]】。三国演義だと曹丕に即位を促した悪人と説明し、史書の説明に移る。三国志魏書華[音欠]伝において、靈帝を廃位しようとしたとき華[音欠]がそれを止めたというエピソードを紹介し(プリントの資料にその言葉が訳して載せられている)、それなのに曹丕に即位を促したというのは相当の覚悟だったと説明。  【賈[言羽]】。資料のプリントには三国志魏書賈[言羽]伝にみえる「[言羽]自以非太祖舊臣、而策謀深長、懼見猜疑、闔門自守、退無私交、男女嫁娶、不結高門、天下之論智計者歸之。」の訳が書かれてあり、それを紹介。他の三公と違って「世説新語」に載せられていない人で面白いと紹介。元々、太祖の臣じゃないところからの心理的な考察等。  【王朗】。経書に注釈を加えたというあたりに触れる。学者。三国演義では当時の学問的な話を取り上げることがなかった。王朗の息子の王粛の話にうつる。ちなみに王粛は鄭玄(じょうげん)の学説に反対の立場をとることが多かった。三国演義だと王朗は諸葛亮と対決する。実際の王朗とは違う云々。  【04曹仁~14臧霸】(数字は上尊号碑においての順番)。碑文にある05劉若は三国志に伝がない。06鮮于輔~09閻柔は異様。「三国職官表」では判で押したように「上尊号碑は九卿の上に在れば、即ち亦た応に三品なるべし」(プリントの資料にあり)というような頼りないコメントであると説明。「通典」での将軍の序列は「大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍、四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍、雑号将軍」となっている。これと上尊号碑を対応付け。碑文では……四鎮将軍→九卿→近衛軍→雑号将軍という流れ。「通典」では諱を避けて虎牙将軍(雑号将軍)が武牙将軍になっている。こういった官職の意味で06鮮于輔~09閻柔は序列が異様。さらに三国志には伝がない。曹丕との個人的関係によるもの?  【曹仁・曹洪・曹真・曹休・夏侯尚・臧霸】。臧霸以外、曹丕の親戚。碑文にみえる「使持節・行都督督軍」や「仮節・都督諸軍事」の説明。節のランクが「使持節・持節・仮節」(資料のプリント)。(清岡はここで仮節の意味を取り違えていたことに気付く・汗)。厳密な使い分けは謎(碑文では使持節=仮節?)。臧霸について→川勝義雄先生の本を参照。プリントの資料2-2に引用されている。講演では「六朝貴族制社会の研究」。任侠的な人間関係の話が出てくる。  11曹真の話。曹真残碑(資料のプリント2-6に拓本のコピーあり)について。「蜀賊諸葛亮」の「賊」が後世に削られたって話。清岡はこの話を知っていたけど、これって曹真残碑のことだったんだ。下記URL参照。 ・サイト「睡人亭」内曹眞殘碑 http://www.shuiren.org/sangoku/soshin.htm  【前後左右将軍】。「朱霊という人物をよく知っている方がおられたらよっぽどの三国志マニアだと思います」。この四人は元々、他の配下。朱霊は自ら袁紹の元をさって曹操の元にきた。それは西暦194年で他の三人より早い。朱霊は三国志でちゃんとした伝が立てられていない。上尊号碑の順番で朱霊の重要性を改めて確認できる。  【匈奴】。19呼厨泉。異民族、ある意味、お客さんだから高い位置。  その次が【九卿】。九卿で22程昱トップ。24鍾[夕/缶系]は刑罰の分野で有名。肉刑論の話。→参考、冨谷至先生/著「古代中国の刑罰」。前漢の文帝の13年に肉刑廃止とか。鍾[夕/缶系]は肉刑復活論者。  【近衛軍】。それほど有名な人物は出てこない。三国演義での話云々。【雑号将軍】。35焦触。三国演義では赤壁の戦いであっけなく殺される人物なので、上尊号碑に出てくるぐらい「あんた、生きてたの?」と口走ったほど個人的に面白かったとのこと。46許[木者](キョチョ、上尊号碑ではきへんで書かれているそうな)。上尊号碑の位置づけの最後というのは重要な意味を込めているかも。  まとめ。碑文の名前の羅列と文献史料の対比で何かしら面白みを見いだしてくれたら幸い。  それで司会の冨谷先生のコメント(井波先生の専門等、史書と碑文を厳密に比較云々、順番や官位は碑文の書き手が緊張するところだ)から質問タイムへ。時代の区分に関する質問。ここで清岡が興味深かったのが、史記は前漢あたり「経書」に分類されていたが、三国時代以降、「史書」に分類、つまり「史書」が独立されてきたって話。春秋の扱いに絡ませて。 ○休憩(14:30~14:45、10分おしぐらい)  ここで隼鶻さんと会う。よもやま話。 ○講演「魏から晋へ──王基碑」(14:45~15:55、10分おしぐらい)  司会の冨谷先生の紹介から、藤井律之先生の講演(京都大学人文科学研究所助手)。北京大学へ研修へ行くそうな。  ≪1 未完の石刻≫。(以下、同様にプリント内の表題を≪≫でくくる) ...

84. 愛宕 元 先生、死去(2012年1月2日)
訃報です。 2012年1月2日1時に愛宕 元 (おたぎ はじめ)先生が食道癌のため死去されました。1943年生まれで享年68歳でした。 ・京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/ ※ここの「地域のニュース」2012年01月05日 13時39分に情報があります。 愛宕 元 先生は、下記関連記事にありますように、文学部教授として帝京大学にご在籍であり、2011年4月21日開催「関野貞資料と都城の世界」(国際シンポジウム)にて「中国の都城」というご講演をされたそうです。帝京大学以前は定年まで京都大学にご在籍でした(京都大学名誉教授)。 ※関連記事 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日) 下記参照リンク先でもありますように、愛宕 元 先生と申しますと、一般層には『中国の城郭都市 殷周から明清まで』(中公新書1014 中央公論社1991年3月25日)が知られているかと思います。そのタイトルや前述の関連記事からも判ります通り、中国都城研究の第一人者でしょう。ちなみに『中国の城郭都市』では「唐宋時代専攻」と記述されています。 ※参照リンク ・洛陽の地図について(銅駝街など)   (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1628

85. 「四大奇書」の研究(2010年11月10日)
・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ 上記サイトのRSS配信で下記の書籍を知る。 ・「四大奇書」の研究 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b80965.html つまり汲古書院から2010年11月10日に小松謙/著『「四大奇書」の研究』(汲古書院、ISBN9784762928857)が8400円で発売したという。 「四大奇書」は上記ページにある内容説明(本書を引用したもの)には下記に引用したように書かれてある。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  「四大奇書」とは、『三國志演義』『水滸傳』『西遊記』『金瓶梅』の總稱である。この名稱自體は、?代前期の書坊が販賣促進用につけたキャッチフレーズにすぎまいが、この四篇をもって明代白話小説の代表作、更にいえば中國長篇小説の最高峯と見なすことには、ほとんど異論はないであろう。 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※引用部分の「?」となっている表示できてない部分は前後関係から恐らく元々は「淸」と書かれてあって「清」のことだろう。 このように一部、『三国演義』について書かれてある書籍であり、上記ページから目次を下記に引用するような内容となっている。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  序 第一部 明代に何が起こったのか 第一期 洪武~天順(1368~1464) 第二期 成化~正徳(1465~1521)  第三期 嘉靖(1522~66) 第二部 『三國志演義』 第一章 「三國」について――なぜこの時代が藝能の題材となるのか――   第二章 三國志物語の變容   第三章 『三國志演義』の成立と展開――嘉靖本と葉逢春本を手がかりに―― ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

86. 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)
※前記事 三国志学会 第四回大会プレノート  2009年9月5日の前夜、自分の報告内容がどんなふうに伝達されるのか想像すると、ワクワクしてうまく寝付けないで居た。  何かというと2009年9月5日の「三国志学会 第四回大会」で清岡が報告することとなっていた。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学) ※追記 三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学)  当日は開会一時間前の9時に着くように、京都市バス206号系統の七条堀川のバス停で降り、北西の龍谷大学大宮学舎を目指す。 ・龍谷大学 『進取と伝統』~新しさを重ねて370年~ http://www.ryukoku.ac.jp/

87. 『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)
※関連記事 リンク:「胡広伝覚書」  上記関連記事で2009年度東洋史研究会大会の総会で『東洋史研究』のWeb上公開の議案が承認を得たという話について触れた。  下記ブログ記事によると、それがWeb上で公開開始されたという。 ・古代中国箚記 http://ancientchina.blog74.fc2.com/ ・『東洋史研究』PDF版、公開  (※上記ブログ記事) http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-421.html  それは下記サイトの下記ページにリストがあって、そこから各巻各号のページを辿れ、さらに各論文ページとPDF形式の各論文にリンクが張られている。 ・Kyoto University Research Information Repository: ホーム http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/ ※新規関連記事 リンク:魏晉南朝の遷官制度に關する二三の問題(東方學報2006年3月10日) ・Kyoto University Research Information Repository: 東洋史研究 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138102  上記ページを見ても判るように、下記の「KURENAI update」のページによると、「KURENAIでは、雑誌の発行から3年経った号を公開していきます。現在63-66巻(2004-2007年)のみ公開しておりますが、バックナンバーも順次、登録していく予定です。」とのことで、2011年3月10日から公開開始しているようだ。上記ページで確認をとると、今のところ、さらに1-14巻、26巻1号、26巻3号が公開されている。 ・京都大学図書館機構 - KURENAI update : 『東洋史研究』をKURENAIから提供開始 by dlkyoto http://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/modules/wordpress2/index.php?p=102 ※追記 赤壁地名考―孫呉政権と江南の在地勢力(2011年11月3日)

88. リンク:「漢代の飮食」
※前記事 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究 ※参照記事 1976年 林 巳奈夫/編「漢代の文物」  上記参照記事の「2011年4月7日リンク追記」にあるように、アクセスログを見ると2011年4月7日22:45:28に「林巳奈夫氏の「漢代の飲食」(東方学報)」という検索語句(タイトル以外で敬称や助詞を入れているあたり初々しい感じが)が見えたんで、CiNii(国立情報学研究所提供サービス)で検索してみる。  そうすると林 巳奈夫「漢代の飮食」(『東方學報』48巻、京都大学人文科学研究所1975年12月10日)が京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI)で無料公開されているのに気付く。三国時代やその前後の直接的な飲食の史料は少ないため、その前代に当たる漢代関連の論文は貴重となる。余談だけど冒頭で書いたような情報のリーチの仕方が多々あるので、やはり検索語句の共有化は有益かと。 ・京都大学人文科学研究所 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ・Kyoto University Research Information Repository: ホーム http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/ ・Kyoto University Research Information Repository: 漢代の飮食 http://hdl.handle.net/2433/66533

89. 三国志学会第一回大会ノート1
・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/395 ○報告(10時-12時40分)  司会に津田資久先生がついて、まず石井仁先生の紹介が述べられる。 ○石井 仁(駒澤大学助教授)「呉・蜀の軍事制度に関する覚書」  昨年、三国志シンポジウムで「三国時代の軍事制度」の報告をされた先生。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/152  トップバッターで反董卓時期の曹操にあやかりたいとのこと(すぐに曹操は敗れたから縁起が悪いと自己ツッコミ)  レジュメは6ページの箇条書き。  まず時代区分の論争(中世古代の論争)について軽く説明。都督は封建的主従関係かって論争があったそうな。それへの疑問が石井先生の制度史研究のきっかけになったそうだ。当時の制度をきっちりおさえることが大事だと。  それから魏晋の軍事制度のこと。これは記録が多いが呉や蜀は少ない。呉・蜀の軍事制度と魏晋との比較を今回、行う。  魏晋の軍事制度の中心的なものについて説明。中軍(中外軍)、つまり魏晋の正規軍のこと。次が都督について。「使持節・都督○○諸軍事」の略称。各方面の行政・軍事を統轄する機関および長官のこと。必ず三公ないし将軍の加官。魏初には河北都督、揚州都督、荊州都督、雍涼二州都督がいた。駐屯地には都督府がある。  レジュメでは続いて参考文献が列挙されている。 1. 呉・蜀の都督制度  まず呉の都督  通俗的理解では、呉は魏晋よりも小規模な「督」を列置。都督→督の二重構造。  三国志呉書では「假節・督夏口」の記述。三国志魏書では「使持節・都督夏口諸軍事」。同じく「西陵督」と「都督西陵諸軍事」。そのため単なる表記上の問題とみなす(資料の経路の違い?)。魏晋の都督制度とほぼ同等。監軍が派遣されている。呉の都督の特徴として長江流域の重鎮(樂郷・武昌など)の都督が左右(東西)で構成されている。  ※レジュメでは本文があって、そこに○数字がうってあって、その丸数字には論拠となる史書の記述が列挙されている。以下、同じ。  次が蜀の都督。  表記が一定せず統一性がない(レジュメで督の部分を列挙)。「陳寿という人は都督制を理解していたのか?」という根本的なことに行きかねない。魏晋は「督軍」(前漢由来)と「都督」(曹操政権)が融合。そのため正式名称は「都督督軍」。蜀にも都督督軍が一例あるので魏晋と同じ可能性あり。呉も都督と督軍がある。  [广+來]降都督(らいこうととく)だけは統一的表記。[广+來]降は南中の地名だそうな。必ず副貳(副官)がついたとのこと。これは「[广+來]降屯副貳都督」「南中参軍」とも称され、さらに魏晋の記録では[广+來]降都督を「南中都督護軍」「南中監軍」と称す。正式名称は「都督南中諸軍事」? [广+來]降は通称? [广+來]降は来降に通じやってきて降るの意? 受降城と同義? 2. 都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍  蜀は「都護→軍師→監軍/領軍→護軍→典軍→参軍」という序列の官職がある。軍部関連。魏晋に似たような官職があるが同一視できない。  呉にも同様なのがある。蜀より簡略。「軍師→都護→護軍」。断片的。始まりは周瑜の「左右大督」に分かれたのを機に「左右護軍」に分かれる(「左右都護」「左右軍師」を累加)。軍部関連。次第に名誉職の意味合いが強くなる。  ここで時間になったのでまとめに入る。  呉・蜀では「都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍」の本質は西魏二十四軍の指揮系統に期限を持つ勲官に類するものと推測。 おわりに  蜀は10人に一人兵士、呉は11人に一人兵士。  三国は基幹部分を共有している(劉備集団は曹操政権および孫呉政権と綿密に関わる)。ここらへんも考慮する必要があるか否か。三国時代もしくは中国~東アジアをトータルに眺める視点。 ○質疑応答 ※理解せず聴いていたので以下、ただのメモ。  龍谷大学の村田先生。「都督」、「督」は名詞的方法? 動詞的用法?  当時の都督のイメージ、陳寿の都督のイメージ、現代の都督のイメージが異なるかもしれませんが…。国家を運営する理念が都督制に反映されている。  文官・武官のやりとり。  →時間なので後は懇親会で。 ・三国志学会第一回大会ノート2へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

90. 三国志学会 第三回大会プログラム発表
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/  上記「三国志学会」のサイトで、2008年9月14日に開催される「三国志学会 第三回大会」のプログラムが発表されていたので下記へ引用する。 --引用開始--------------------------------------------------------- 三国志学会 第三回大会 日時:2008年9月14日(日)10時~17時20分 会場:大東文化大学 板橋校舎 多目的ホール 東武東上線、東武練馬駅 徒歩25分 都営三田線 西台駅 徒歩10分 参加費:500円(入会された方は無料です) 板橋キャンパス周辺地図 ※ スクールバスはありません。都営線西台駅より、徒歩が便利です。 三国志学会年会費:2000円 入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。 当日、入会することもできます。 プログラム 開会の辞 (10:00~10:10) 三国志学会会長 狩野 直禎 研究報告 (10:10~12:00) 10:10~11:00 矢田 博士 (愛知大学経営学部教授) 「魏における五言詩の流行と西晋における四言詩の盛行について」 11:10 ~ 12:00 綿谷 直之 ・ 清水 健史 (超級三国志遺跡紹介HP《三劉》管理人) 「史実と民間伝承からみる三国志遺跡」 お昼休み (12:00~13:00) 講演会 (13:00~17:20) 13:00 ...