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第2回三国志学会大会ノート6


  • 2007年9月14日(金) 12:25 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,719
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

(※清岡注、最後の発表とあって疲れて清岡の気力が殆どなくなっており、またレジュメ等で後日補間できなかったため、以下、かなり端折ったレポート内容となっている)

 16時15分に紹介開始。
 二松学舎大学の竹下先生から林田先生のご紹介がある。略歴や著作等。三国時代の文学がご専門だそうな。

○「私の中の三国志」林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)

 16時20分に開始。
 最近、講談社から『史記・貨殖列伝を読み解く』という本を出した。そこで金文京先生の『三国志の世界』の本を頂いた。その本で林田先生が疑問に思ったところがある。卑弥呼が景初二年に使者を魏の明帝に送ったくだりで、「景初二年」と陳寿が『三国志』魏書東夷伝ではっきり書いており、(その使者が)帶方郡に着いたのは景初二年六月であると書いている。明帝は景初三年正月に亡くなるわけだから、景初二年十二月にすでに重体である(※「十二月乙丑、帝寢疾不豫。」『三国志』魏書明帝紀)。
 そこでなぜ(卑弥呼の使者が来たのは)景初三年になるのか。京都学派では景初三年になっていたり、今の教科書では景初三年になっているものもある。景初三年の理由がいろいろあるが、一つは明帝が亡くなった、一つは景初二年の六月から遼東半島で司馬懿と公孫淵が戦を初め八月には鎮圧した、というのがある。卑弥呼の使者は景初二年六月に帶方郡につき三ヶ月足止めを喰らっていた。そして戦が鎮まった景初二年八月に少し時間をおいて出発したとしても、遼東半島とそして洛陽まで大体、三ヶ月強ぐらいだ。なぜならば、(『三国志』魏書明帝紀の注に引く『干竇晉紀』で)明帝の問いにはっきりと司馬懿が百日と答えている(「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」)。

 曹操と荀[或〃]の話、文学の話など(※清岡注、この辺りの下りがほとんど清岡の頭に入らず)。

 漢代の辞賦作品。詩経などだいたい儒教の教理に適っている。また教理に沿いながら詩経などを解釈する。しかし曹丕は違う。「文以氣為主」(「典論論文」)としている。文には個性がある。それまで、政治的なものが入ってきて文学が形成された。例えばヨーロッパでは19世紀の末、ある人物(※清岡注、名前失念)が初めてヨーロッパ文学は(カソリックの教理から)自立したといった。(三世紀の中国の文学で自立性が確立して)それがあったからこそより内在的になった(※清岡注、この後の下りがほとんど清岡の頭に入らず)
 集英社の企画で、「中国の英傑」という伝記のシリーズがあって、林田先生は曹操の伝記を書きたかったとのこと。編集サイドとしては諸葛亮を書いて欲しかったとのこと。諸葛亮を精神的思想的な啓蒙型に位置づけた書き方をしようとおもったとのこと(※→中国の英傑(5)『諸葛孔明 泣いて馬謖を斬る』)。(司馬徳操など荊州での話)
 三国時代というのは三国が争ったが、国境を越えて文学というのがある。
※ここでA4一枚のレジュメにある話にうつる。レジュメには四つの引用があって、まず初めの二つについて。下記。

(1)胡沖呉歴曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫權、又以紙寫一通與張昭。
                       (『三國志』卷二 文帝紀 注引『呉歴』)

(2)呉歴曰、權以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致[鼠軍]子裘、明光鎧・[馬非]馬、又以素書所作典論及詩賦與權。
                     (『三國志』卷四十七 呉主傳 注引『呉歴』)

 素書の素は絹の意味。絹に典論や詩賦を書いて孫権に贈った。やはり孫権に知ってもらいためにわざわざこういうものを贈ったんだろう。(「以紙寫一通與張昭」に触れて孫権だけじゃなく張昭にも贈った、とし、張昭の話、陸機の話。血縁関係から陸機は張昭の書を見たんじゃないかとし、張昭が陸機に与えた文学的影響の話)

※レジュメの三番目についての解説に移る。

(3)呉書曰、紘見[木冉]榴枕、愛其文、為作賦。陳琳在北見之、以示人曰、此吾郷里張子綱所作也。後紘見陳琳作武庫賦・應機論、與琳書深歎美之。琳答曰、自僕在河北、與天下隔、此間率少於文章、易為雄伯、故使僕受此過差之譚、非其實也。今景興在此、足下與子布在彼、所謂小巫見大巫、神氣盡矣。紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰、前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。
                     (『三國志』卷五十三 張紘傳 注引『呉書』)

 それぞれ観賞したり、自分の書いたものを贈りつけたり褒められたりして、また喜ぶ、またそれが国境を越えていたというのは面白い。

※レジュメの四番目についての解説に移る。

(4)翻與少府孔融書、并示以所著易注。融答書曰、聞延陵之理樂、睹吾子之治易、乃知東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物、察應寒温、原其禍福、與神合契、可謂探[頤の頁が責]窮通者也。會稽東部都尉張紘又與融書曰、虞仲翔前頗為論者所侵、美寶為質、彫摩益光、不足以損。
                           (『三國志』卷五十七 虞翻傳)

 17時27分終了

 質問と回答(例の如く頭に入らなかったので略)

 17時29分終了

 事務局長から来年の開催日についてアナウンス。来年の三国志学会大会は9月14日。

<参照>第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
http://cte.main.jp/newsch/article.php/658

※追記 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日)

※追記 より深く理解するための「三国志」講座(2010年10月15日-12月24日)

※追記 図説 三国志の世界(2011年5月23日)

※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)

 あと帰路についてのアナウンス。スクールバスは終わっているが普通のバスはあるとのこと。三点目として懇親会のこと。会場は前もったお知らせにあるグリーンスポットであったが、急遽変更し一号館の地下の食堂になったとのこと。四点目は二階で出店しているまだ書店が営業しているとのこと。

 17時35分、第2回三国志学会大会終了。

<次回>第2回三国志学会大会懇親会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/691

第2回三国志学会大会ノート5


  • 2007年9月12日(水) 07:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,449
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687


○「韓国における三国志演義の受容と研究」李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)

 14時59分開始。
 壇上には李先生と金先生が立ち、手元のPCでスクリーンに論文(漢字でかけるところは漢字で書かれている)を映し出す。李先生が発表し、それを順次、金先生が訳していくスタイル。

 その前に李先生に登壇して頂いた理由について金先生から説明。
 昨年は中国の研究者からの講演があったので、渡邉先生から三国志を伝統的に愛唱しているところは中国以外に、日本、韓国、ベトナムがあり、韓国が三国志の歴史的状況、現在の状況を考える上で重要だとのことで、韓国で研究されている方がいたら紹介してほしいということになった。そのときは思い付かなかったので去年は中国の学者の方ばかりとなった。

※参照リンク
・三国志学会第一回大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405
・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/374
・2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 今年はちょうど李殷奉さんが韓国の三国演義研究で博士論文を書かれて金先生の元へもってきたので、ご講演して頂くこととなった。
 講演開始。

 『三国演義』の重要な版本として嘉靖本、(※清岡注。他二つ聞き取れず)、毛宗崗本などがある。韓国に『三国演義』が入ってきたか正確な年はわからないが、地理的に近いので恐らく中国で出版されほぼ同時期に韓国にもたらされたと考えられる。それを改刻・復刻した形で韓国において刊行され、小説ではあるが歴史小説であるため漢文を理解する読者に人気を博した。民間では壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のときに援軍として明の軍隊が来る。先の講演でもあったように明代の軍隊が関羽を信仰しており、関羽信仰を韓国へもたらし、そのため関羽信仰と共に三国演義が流行り、『三国演義』の筆写本、印刷されたものが流布することとなる。印刷されたものは経済的に制約で『三国演義』の中身全て出版されることがなかった。これが韓国の特徴で、人気のある面白い部分を取り出しそれを改作するということが流行した。そのため原作にはない内容、『三国演義』とは違う新しい物語が韓国で作られ出版される。近代になると日本からの活版技術が輸入され、それにより活字本でたくさんの『三国演義』の異本(韓国での創作が含むもの)が出現するようになる。こういった異本は大部分、読者が好む人物、興味深い事件を取り出し再構成したものであるために、歴史事実や大義名分が希薄になり興味本位なものとなり、『三国演義』は非常に多様な形態(小説、軍談、詩)で韓国で流布した。
 ここでは韓国の文化全般に多くの影響を与えた『三国演義』がいつ韓国に伝わったか、当時、伝わった版本は何なのか、また韓国で独自に発達した『三国演義』の異本はどういったような影響を受けたのか、を簡単に紹介する。前述したように『三国演義』が入ってきた正確な年代は判らないが、一番、古い記述としては高麗時代に『老乞大』(ろうきつだい)という中国語の教科書の中で『三国志平話』を買う場面がある。これが『三国志平話』について最も早い貴重な記録だ。これ以外は嘉靖本の序文に出てくる。『三国演義』の記述は『朝鮮王朝実録』の1569年6月1日の記事に出てくる。これが『三国演義』が韓国に入った最も古い記述。王様に対して大臣がある事柄についてそれは史書に書いているのではなく『三国演義』に書いていることだと指摘し、小説でそういうものを引いてはいけませんと諫める記述内容とのこと(※清岡注。講演では具体名が挙がってもっと詳細なものだったがメモを取れず)。嘉靖本が出たのが1522年なので、恐らく嘉靖本が朝鮮に入って来たのだろう。但し現在、韓国には嘉靖本はないので、韓国に残っている最も古い『三国演義』は恐らく周曰校本をカイホウした耽羅刊本である(この後、版本に関することについて)
 周曰校本以降、毛宗崗評本が入ってきて流行するが、その入ってきた年もよくわからない。粛宗の時代(1674年-1720年)のころだろうと推測されている。1681年-1768年の人物(※清岡注。名前失念)の一種の随筆に、「『三国演義』は刊行され広く読まれ家ごとに読まれており、過去の試験問題に『三国演義』が出ているがこれは全く恥ずかしい話である」というような記事がある。この時代、『三国演義』が非常に普及していたことがわかる。ある本(※清岡注。名前失念)では毛宗崗評本を全部、写しているのでこの時期には毛宗崗評本が入ってかなり普及していた。
 韓国で出た毛宗崗評本は『貫華堂第一才子書』という題名になっている。中国で出た毛宗崗評本は最初に「シュウゾウ三國志演義」となっているが、韓国の本では「貫華堂第一才子書」になっている。中国の版本では十行二十一字になっているのに対し韓国の本では八行十五字になっている。本文の方は巻一から巻十九まで行数字数、字の形に至るまで中国ででたものは同じ。毛宗崗評本は中国で刊行されるたびに巻数は字面が変わってきてるのに対し、韓国の方の本文の部分は十九巻、十二行二十六字と一致して、中国の十九巻本と一致する。それ以外に韓国で刊行された満州語の教科書に『三国演義』の満州語の翻訳の中から十回分の翻訳を選んで教科書に使っている。これはそれ以前の版本(底本は嘉靖本)を使っている。
 このように遅くとも1560年以前に『三国演義』が韓国に伝わっている。17世紀末には韓国語に翻訳され満州語との対訳になっていた。『三国演義』が韓国に伝わって、国王はもちろん士大夫たち、民間の女性・子供たちに至るまで三国志を興味を持つ階層は多様に渡っている。漢文を読む士大夫たちはそのまま読めたが、民間の女性や子供たちに対してはは(日本の)講釈師のような人が講談をし三国志を伝えた。17世紀の末には一部ではあるが『三国演義』が韓国語に翻訳され読者層拡大に寄与した。翻訳されたものを筆写する人がこの時代には居た。例えば1671年-1759年の人物(※清岡注。名前失念)の記録を見ると、ある人物(※清岡注。名前失念)のお母さんが『三国演義』を自分で筆写したという記録がある。女性は当時、漢字は書けないので、ハングルを筆写したのだろう。1690年-1742年の人物(※清岡注。名前失念)の文集に「娘たちに歴代の演義類の本を通じて歴史を教え見識を高める必要がある」という記述がある。17世紀末にはハングルで翻訳された『三国演義』が女性たちにより筆写されていたことがわかる。このようにハングルで翻訳された『三国演義』は筆写本以外にも旧活字本などいろいろな形態を通じ大衆の中へ多くの人気を得ることになる。
 韓国語で翻訳された『三国演義』は17世紀末にはあったと思われるが、現存するもので一番、古いものは19世紀末から20世紀までのものしか残っていない。毛宗崗評本を翻訳したものが大部分。その中で一つ特徴あるものは「楽善斉」(王室の図書館)に18世紀に翻訳された思われる筆写本がかなり多くある。その「楽善斉」に『三国志通俗演義』三十九冊が残っている。これは諸葛亮が征討するときに軍内に関索が登場しない特徴がある。ここだけをみると嘉靖本を底本として翻訳したものに思われるが、但し、それ以外、周曰校本だけにある内容が見られる。一概に嘉靖本だけとは言えない。さらに嘉靖本と周曰校本両方にない内容が見られる。それはどうも韓国で付け加えたものだ。例えば「梁父吟」の詩は『三国演義』では全然違う内容だが、この楽善斉本では『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引くもの(※清岡注。『藝文類聚』卷第十九 人部三 吟に記載)になっている。中国の『三国演義』で「梁父吟」をこのようにしたものはおそらく無く、おそらく訳者や筆写した人が歴史書を見て書き替えた可能性が大きい。
 商業出版が盛んになった19世紀に入ると、韓国の『三国演義』に新しい傾向が出てくる。それは『三国演義』全体を出版しそれを買うというのは経済的理由で難しいということで、人気のある一部を選んで、さらに新しい話を付け加え、元の『三国演義』とは全然違う話にしてしまう傾向。これは中国ではあまりない傾向で、韓国のこの時期の一番の特徴となる。
 独自に作られた話をもう少し詳しく紹介。ソウルで出版されたもので毛宗崗評本の第四十九回から第七十二回に相当する韓国語に翻訳したもので、前半は毛宗崗評本と同じだが、後半になると内容が『三国演義』と全く違ってくる。趙子龍を主人公とした小説となっていて、戦争で敗れた将軍が劉備に復讐しようとするが趙子龍と諸葛孔明の活躍により撤退するという話。原作にはない全く話。大部分が『三国演義』でモチーフだけ持ってきて趙子龍を中心として加工した話になっている。そういうものとして旧活字本の『趙子龍伝』(1917年)あるいは『山陽大戦』『三国大戦』というものが出版されている。いつ創作されたかはわからないが、ソウルで出版された三巻本の『三国演義』にソウルの地名の記載があり、1859年以前につくられたと考えられる。それが現在、完本(全集のこと)として残っている。
 もう一つの例を紹介すると、韓国語に訳された『三国演義』の下篇に、『孔明先生自筆』(※清岡注、聞き間違いの可能性あり)という諸葛亮に関する話がある。諸葛亮が南陽で弟の均と一緒に暮らしていて、黄承彦の娘と結婚してその奥さんからいろいろな術法を習うといった独特な構成になっている。諸葛亮を中心した話というより黄夫人を中心とした話として展開する。この小説は三顧の礼と最初の戦闘の話と結合し旧活字本の『黄夫人伝』という独自の物語として出版されている。
 もう一つ紹介すると、ソウルで出版されたとされる『桃園結義論』という本がある。毛宗崗評本の第二十回から第三十回を説略したもの。その中に『三国演義』には載ってない関羽が貂蝉を斬るという話が載っている。これは明代の芝居の「関大王月夜斬貂蝉」を少し変えて載せたのだろう。
 このように韓国語で翻訳された『三国演義』は19世紀に商業出版が盛んになると全部ではなくその中の一部分を取り出し、それを改作するというのが流行った。そのために元の『三国演義』の内容形態のものになる。中国では毛宗崗評本が最後の改訂版でこれ以降、話を変えたものは出ないし故意に内容を変えたものはでないが、韓国では全体をばらし一部を取り出しそれを違う話にどんどん作り替えてしまう(再構成してしまう)ということが流行った。これが韓国の当時の『三国演義』の大きな特徴で、そのため、歴史全体の三国志を見渡し、歴史小説としてあるいは教訓(大義名分)を読みとるとかの『三国演義』の柱になるが、当時の韓国ではそういうものよりかは個々の細部の話を興味本位に娯楽とする側面が強調されている。これが韓国での読者層の変化、『三国演義』への認識の変化をもたらしている。

 15時51分終了

質問1
(※清岡注。長いので頭に入らなかった。訳す金先生もたいへんだと思った)
 現在の韓国ではどういったものが伝わったり人気があったりするんでしょうか
回答
 いくつかの漫画が流行っている。日本語版を写したりということ。小説は流行作家が書き直したものがある。この小説がよく読まれている。中国では現代作家が書く三国志ものはないので、これは日本と韓国の共通したところだ。

 15時56分終了。
 15分休憩。
 このころになるとすっかり外は晴れていた。


<次回>第2回三国志学会大会ノート6
http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

第2回三国志学会大会ノート4


  • 2007年9月11日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,660
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685


○「台湾における関帝信仰の諸相」松本 浩一(筑波大学教授)

 雷を伴う集中豪雨により会場への観客の戻りが遅いため予定を遅らせる。
 ステージの上にスクリーンが用意されて、14時10分スタート。

●1. 関帝(関聖帝君):様々な性格を持った神
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 実際、様々な神格を持っている。関羽対する信仰は数種の部面があり、そのうち四つを紹介(増田福太郎『臺灣の宗教』p32の引用がレジュメに記載)。(イ)武神としての関羽。(ロ)仏教の祭神としての関羽。いわゆる伽藍神。お寺の建物の守り神(スクリーンにその関羽像が映し出される。青龍刀を持っている)。(ハ)儒教の祭神としての関羽。「文衡聖帝」として五文昌の一人。家業の神様。入試などで文昌帝君のところに絵馬が並ぶとのこと。(ニ)商業の神としての関羽。華僑の居るところには必ず関帝廟がある。
 それぞれについて由来を辿る。

●2. 国家祭祀の祭神としての関帝
 皇帝から称号を授かる歴史。まず宋元時代の加封。レジュメに『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆からの引用がある(以下に出てくる文献に関してもほとんどレジュメに引用と訳あり)
 宋元時代に王を加封。大觀二年に武安王など。現在、正史に見られないが、このころ、多くの称号を授かったことは間違いない。
 ある村民が県尉の李若水に関大王の書を持ってきたエピソード(『古今図書集成』神異典巻37より)。夢の予言でその村民が道士から得たとのこと。これが北宋末の年号。北宋末に王になっていたことは間違いない。
 時代を経るにつれてどんどん加封されていき元文宗天歴(暦)元年には顯靈威勇武安英濟王になった(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。
 最初は御霊神だった。『三国演義』の中でも曹操・呂蒙へ祟りを起こしに行くので。それを鎮めるために神様に祭られた。唐の咸通年間の乱のあとのエピソードでは霊の一つとして捉えられている(『北夢瑣言』巻11より)。関羽が祭られている祠では「僧侶でここに居住する者は、外の戸をしめないで、財産や絹を思うままにしておいても、敢えて盗む者はない」というほど、恐れられていた神様(『雲渓共友議』巻3より)。
 宋元の時代には道教の中にも関羽が神様として出てくる。呪術儀礼の中で、神兵を率いて邪鬼を追い払ったりする元帥神の一人。これは台湾に関係ないため触れない。
 多くの文献が(明朝の)萬暦年間に帝号をうけたとする(『三才図絵』人物巻5關羽、『關聖帝君聖跡圖誌』巻3)。王見川氏の考証では関羽が「協天大帝」の称号を受けたのは朝廷からの正式なものではなく民間の「私封」ではないかとしている。萬暦四十二年には三界伏魔大帝神威遠鎭天尊關聖帝君(いわゆる関聖帝君)になっている(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。この年に帝号を受けたことは様々な資料から裏付けられる。

●2. 仏教の伽藍神としての関帝(※清岡注。レジュメで2.が二回でてくる)
 伊藤先生の発表の中にあった唐代の董[イ廷]という人が書いた関帝の廟の記録(董[イ廷]「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉關廟記」(『全唐文』巻684))に、智顗禅師が玉泉寺にやってきたとき関羽が現れてこの地を僧坊として提供したいと申し出て(守護神となった)、とある。この全唐文では将軍になっているが後の時代になると聖帝になっている。帝号を得てから書き替えられたのであろう。張商英「重建當陽武廟記」(『全宋文』巻2231)の方では関羽が帝になっている。

●3. 商業の神としての関帝
 これはお馴染みのところ。

 ここまでは増田福太郎さんの言っていることと対応がつく。

●4. 扶[占し]の神としての関帝
 扶[占し](ふうち)とは神様が降りてきて字を書くこと。そうやってお告げをしていく。そういった文献がかなりある。先ほどの(伊藤先生の)発表は関羽について書かれた文献だったが、こちらは関羽が自らお告げを下した書物。
 清代には関帝の託した善書が多く出現。大概、良いことをすれは良いことが起こり悪いことをすれば悪いことが起こるといった内容。『関聖帝君明聖経』『救劫新論』『関帝返性図輯要実録』『救生船』『関聖帝君降筆真経』『関聖帝君戒士文』『関聖帝君全書』
などがある。一番有名なのが清朝の初期から中期ごろに成立したといわれる『関聖帝君覚世真経』(レジュメに引用と訳)。大抵は薄い冊子。
 清朝の後期になると関帝が降りてきて作るのが多くなる。場所は四川雲南湖南といった宗教結社で多くなる。時代に合わせ世を救うというテーマが強くなる。
 恩主公信仰。関聖帝君、孚佑帝君、司命真君が「三恩主」としてセットとして祭られている。
 関帝が玉皇大帝(西遊記でお馴染みの玉帝)の譲りを受けて、第十八代目の玉皇大帝に就任。第十七代の玉皇大帝は「玉皇大天尊玄穹高上帝」であり、『西遊記』第一回などにも「高天上聖大慈仁者玉皇大天尊玄穹高上帝」として見えている。第十八代「玉皇大天尊玄霊高上帝」になったという説。王見川氏によると雲南省あたりで発生したとのこと。
 王見川氏によると民国の初年中国で作られた善書の中には三つの異なった説がある。『中外普渡皇経』『玉皇普渡尊経』、『洞冥宝記』巻十のそれぞれに説がある(発表では三つ目の説を紹介)。
 この説は戦後になって台湾に伝わる。民国六十九年に台中の聖賢堂が印刷し各地に広まったという(レジュメに引用と一部訳がある)。
 最後に台湾での信仰を見るということになる。この後、スクリーンへ写真を映し出し順に解説。

 関帝を祭った廟として多いのは扶[占し]の神としての廟と商売の神様としての廟。いろんなところに出てきて最後は玉皇大帝になってしまうのは関羽の人気の高さを示している。

 14時47分終了。
 司会からフォローが入っていたが王見川を発表中「おうみかわ」と読んでいたのは「おうけんせん」だとのこと

質問1
(※清岡注。前置きが長いので略)関羽だけ帝にまでなったのは何故か
回答
 芝居や講談などの関羽人気が大きかった。また悲劇的最期を遂げたのも大きい。御霊神としての信仰がかなり広まる要素となっていると思う。

質問2
 商業神としての関羽は出身地から考えるのが一般的なのでは? 解県というのは代々、塩の名産地として知られている。解県のイメージからお金や商売がでてきた。

回答
 今回は皆さん御存知だと思ってちょっとしか話をしなかった。解州の塩とかかなり関係するとは思うが、山西商人自体、活躍していた。善書が広まるのは山西商人の影響が大きい。
(※清岡注 「解県」には塩池はなく続漢書郡国志によると安邑県にある。そこらへん回答では「解州」と言い換えているあたりさすがだなぁ、と思った。)

※追記 三国志飴(2010年9月16日)

質問3
(※清岡注。聞き取れず)

回答

 最後にこういうことに興味があれば道教学会の方にも足を運んでほしいとアナウンス。
 14時56分終了。

 ここでアナウンス。大学からのスクールバスは17時10分が最終とのこと。他の交通手段について説明があった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

第2回三国志学会大会昼休み


  • 2007年9月10日(月) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,199
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684


 ここで事務局長(渡邉先生)からアナウンス。いろいろ持って帰ることができる研究紀要、学内誌やパンフレットの話を終えた後、

「このようなものを用意いたしましたので(とピーターラビットの絵の入った手提げカバンを掲げられる)、宜しければお持ち帰り頂いてということでございまして、中を開けると何となく大学の案内が入ってると思いますが、『諸葛亮の罠』だとして、親戚の方々にでも配っていただくという仕組みになっております」

と『諸葛亮の罠』で場内爆笑。
 その後、構内の学食を含む近くの昼食の取れるところの案内と書店の案内をされていた。

 去年の会場は大東文化会館だったので、近くのスーパーマーケット内にあった「ジンギスカン フランス人」(旧名)に行ったんだけど、今年は大東文化大学板橋校舎ということで昨日行ったジョナサンに行くのも能がないと思い、「手作りうどん 味の民芸」に行くことに(というか清岡が主張・笑)。道中はやはり先ほどの発表について。

<参照>三国志学会第一回大会お昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

 民芸についたら、総勢8名居た。こりゃまた分かれて座るかな、と思ったら、実は同じところに座れるということで、しばし待つ。待っている間は『三国志研究』第2号は雑纂として一般の人の文章が載っており、実際、門戸を開いているんだなぁ、という話をげんりゅうさんとしていた。


USHISUKEさん おりふさん げんりゅうさん 三口宗さん

 テ ー ブ ル テ ー ブ ル テ ー ブ ル 

  清岡   しずかさん 玄鳳さんの後輩 玄鳳さん

※玄鳳さんの後輩さんはげんりゅうさんの後輩でもあるとのこと


 こんな感じの席順。お座敷。清岡は天ざるそばを注文。
 この八名はきっと知らない者同士も居るだろうってことで、清岡がお節介にも自己紹介タイムを提案。玄鳳さんから時計回りにスタートし、名前とか所属とか軽く自己紹介。結構、mixiではマイミク同士とかって話が出ていてそこらへん時代性を感じていた。
 というわけで後は席の近いところでローカルトーク。清岡の近くでは京都への旅行話をしていた。市バスの一日券で名所を回るのが良いのかなとか。
 そういう話をしていたら、向こう側の四人から何か話が飛んでくる。三口宗さんが晋書の訳が欲しいって話。

清岡「自分で訳してください、としか言いようがないですね(笑)」

という鬼発言で少し場をわかせる。んまぁ、一応、清岡からは、訳だとデータ化されてないんで、逆にネットでデータとしてある漢文(原文)の方が検索しやすい、という話でお茶を濁したが。げんりゅうさんも漢文読んだら派だったような。
 こっち側では再び京都話に戻り、大凶コレクターの話になっていた。そうこうしている間に料理が一辺に来て妙に感動する。
 食べながら、今日の会場移動は何故だろう、って話をしていた。移動前の会場のキャパシティが150名ぐらいだから、もし三国志学会会員の大半が来場したらさすがに入りきらないだろうって話。

 食べていると周りがざわつき、そのうち稲光と雷の音が。驚いて外を見ると集中豪雨。まさにバケツをひっくりかえしたような雨だ。みんな傘の心配をしていた。
 おりふさんが誰かシャッターを焚いていると思ったと言うと、すかさず清岡が「シャッターを気にするなんて有名人みたいですね」と茶々を入れる。
 そういや第一回三国志シンポジウム後はこういった集中豪雨でしたね、と思い出話を口にする。

・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html

 一人一人レジでの清算を終え、どうやってこの雷雨かつ豪雨の中、会場まで戻るか、眼前の問題に直面する。

 清岡は折り畳み傘を持っていて次の発表の時間が差し迫っていたので、意を決し外に飛び出す。
 途中で落雷が恐くて脇道に逸れ、まずどこか建物に入ろうとしたが見つからず結局、遠回りになってより多く濡れるだけというアホな結果になった(汗)


<次回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687

第2回三国志学会大会ノート3


  • 2007年9月 9日(日) 00:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683


○「建安文学における香りについて──迷迭の賦をめぐって」狩野 雄(相模女子大学准教授)

 12時17分スタート。

●一 はじめに──曹操の薫香嫌いと時代背景
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ
  また、レジュメでは[資料]として様々な文献からの引用が載せられている。

 建安文学の創造者とされる曹操だが、曹操は薫香を嫌い続けた人物。[資料一─1](太平御覧巻九百八十一 香部一 香に引かれる魏武令)に明確に「吾不好焼香」と書かれていて、焼香を許したのは実用面のみであった。曹操の薫香に対する姿勢は[資料一─2](三国志巻一 魏書一 武帝紀の注に引く魏書)で「雅性節儉、不好華麗」とみえるように華美を好まないためかもしれない。こうしたことを反映してか現存する曹操の詩歌作品中に薫香表現を見出すことは難しく、[資料一─3](宋書 楽志三 曹操「陌上桑」)で「柱杖桂枝佩秋蘭」と見えるだけ。曹操は詩人としても一個人としても薫香に関しては遠い存在といわざるを得ない。
 曹操のこうした姿勢は建安の時代において薫香がすべてに渡って疎んじられたという意味ではない。むしろ禁止しなければならないほど薫香が人々の好みに適っていたと雄弁に物語っていた。例えば曹操の息子、曹丕に関して[資料一─4](三国志 魏書 巻二十九 方技伝 朱建平)で「帝將乘馬、馬惡衣香、驚囓文帝膝」とあり馬が香りを嫌って衣に噛みつく程。
 こうした関心の強さはその当時まで蓄積された薫香の状況と些か関わりがある。[資料一─5]に示した陳連慶「漢晋之際輸入中国的香料」(『史学集刊』1986年第二期)では武帝紀に中国にもたらされた品々を細かに挙げながらかつ[資料一─5─(1)](漢書巻九十六下 西域伝)の「殊方異物、四面而至。」と述べながら、そこに香料が含まれないことと、香料の名が見える文献の清書が南北朝期であることを指摘した上で、当時、漢代、すでに陶製の薫炉が行われたことが出土文物からは認められるものの、香料の輸入が本格的に行われていたことを示すものでは必ずしもないと論じられている。信用できる文献として[資料一─5─(2)](芸文類聚巻八十五 布帛部 素、太平御覧巻九百八十二 香部二 蘇合)の班固が班超に宛てた手紙がある。後漢の章帝期で大月氏の蘇合香が中国に入ってきたことが確認できる。月氏の視線の先には大秦国(※清岡注、ローマ帝国のこと)が意識されていたかもしれない。[資料一─5─(3)](後漢書巻八十八 西域伝 大秦)では大秦国の様子に触れられているが蘇合香にも触れられている。「凡外國諸珍異皆出焉」の記述は[資料一─5─(1)]の記述にも通じる。「珍異」なるものとして香料が挙げられている。香料の名が魏略西戎伝に記される。[資料一─5─(4)](三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝の注に引く)のところ。「一微木・二蘇合・狄提・迷迷」。「迷迷」は「迷迭(めいてつ)」の誤りだと思われる。こういった香料は使節にももたらされたが商人にももたらされた。いつの頃かはわからないが[資料一─5─(5)](楽府詩集巻七十七 雑曲歌辞十七 楽府 古辞)に「五木香」や「迷迭」など香料やその原料となる植物が挙げられる。陳連慶氏は中国に香料がもたらされる時期を三つに分ける。前漢武帝期からを薫醸段階、後漢期を○○段階、魏晋期を○○段階、つまり建安時代は外国の香料が大量に中国へもたらされる段階に当たっている。こういったことを背景にしながら、建安文学の香りについて見ていく必要がある。香料の名前としてあるいは香料の原料として「迷迭」というものあった。[資料一─5─(6)](法苑珠林巻四十九)では「迷迭香 魏略曰、大秦出迷迭。廣志曰、迷迭出西海中。」となっている。「迷迭」は元々、植物の名称で建安の舞台にあって詩人たちによって愛でられた。

●二 迷迭の賦をめぐって──異国の植物はどう香るのか

 『芸文類聚』巻八十一は薬香草部上にあたっていて迷迭が一項目として立てられ、五名の辞賦作品がある。また[資料二─0](太平御覧巻九百八十二 香部二 迷送(迭))、曹丕の賦と思わしきものが収められている(「魏文帝迷送(迭)賦曰~」)。この制作年代は不明だが、先行研究の中では仮にとされながら「建安二十一年」としている。曹丕は迷迭の種を中庭に植えその様子と香りについて迷迭の賦を作っている。おそらく他の四名の作というのもこの時に盛んに行われたと言われている即興的競作的作品、つまり同時に作られたと思われる。
 今、詩人の個性と共に香りに対する感覚の世代間の差異が認められるか否かについて考えるために、試みに世代順に見ていく。まず曹操と同年代の陳琳(156-217)について[資料二─1](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 陳琳「迷迭賦」、韻補巻二 下平声・十陽・鍾「終」字 陳琳「迷迭香賦」、韻補巻五 入声・五質・歇「歇」字 陳琳「迷迭香賦」の三つ)で見る。芸文類聚に作品の全て掲載されていないことは韻補に収録されていることから知られている。残されている部分からいくつかの特徴がいえる。香りについて芸文類聚の引用の最後の部分「動容飾而微發、穆斐斐以承顔。」の表現を踏まえつつ、感じる顔の気配を詠じている。「斐斐」という表現が嗅覚と共に視覚をも意味する面白さを含みつつも余り迷迭の香りを中心に据えてはいないように感じられる。韻補の引用についても香りは久しく留まらないことを詠じられていたり、同様の傾向が伺える。
 こういう傾向は次の王粲(177-217)にも伺える。[資料二─2](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 王粲「迷迭賦」)。王粲の「迷迭賦」の芳香表現は「揚豐馨於西裔兮」に見られこれが「去原野之側陋兮、植高宇之外庭」の前、すなわち中国にもたらされ目の前に植えられる前の段階の香りを詠んでいる。眼前にある迷迭を詠じた部分ではもっぱらその姿の美しさが視覚的に捉えられており、迷迭の香りを中心に据えているようには思えない。 陳琳「迷迭賦」では迷迭は「來儀」するものと詠じられていたが、「來儀」とは[資料二─2─(1)](尚書 虞書 益稷)に見える「鳳皇來儀」という風に本来、鳳凰の鳳来を意味するものだった。[資料二─2─(2)](芸文類聚 巻九十二 鳥部下 雀)では大雀を詠じたものであり、霊物はしばしば鳥の姿で描かれる。おそらくはそうであるからこそ王粲の「迷迭賦」の最後で「以孔翠之揚精」とあり「孔翠」、辞書によってはクジャクだったり孔鳥と翠鳥の二種類の鳥だったりするが、いずれも美しい鳥である。こうした視点から異国の植物である迷迭を描いたとするならば、そこには可視的に到来することが期待されるのかもしれない。こうした陳琳や王粲の営みというのはそれが作られた場にはっきり影響を受けている。これらは曹丕を主人とする主客的空間であることを示すことで理解できる。
 目の前で迷迭が香りを放っている表現は無いかというと、應[王昜](?-217)の迷迭賦がそのような視点からの描写が見える。[資料二─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 應[王昜]「迷迭賦」)。應[王昜]は「舒芳香之酷烈、乘清風以徘徊」と詠じている。「舒芳香之酷烈」という表現は[資料二─3─(1)](楚辞 王褒 九懐「蓄英」、漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」、文選巻十六 司馬相如「長門賦」の三つ)に挙げている前漢の作家に見られる表現を踏まえたもの。
 続いて曹丕(187-226)の迷迭賦に見られる香りの表現は應[王昜]の香りの表現にとても良く似ている。[資料二─4](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹丕「迷迭賦」)。曹丕の迷迭賦に見られる香りの表現は「隨迴風以搖動兮、吐芳氣之穆清」、この部分に現れている。風に順い迷迭が揺れ、その際に清々しい香りを吐き出す、と表現されているので、應[王昜]の表現と大きく変わるものではない。ただ一点、「芳草之樹」が詠み込まれていることだけが差異と言える。この表現の差異はそれほど小さいものではないと考えている。「芳草之樹」が詠み込まれていることがどういうことかというと、漢代の辞賦作品を例に挙げると、[資料二─4─(1)](漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」)で「吐芳揚烈」とあってそれを顔師古は「烈、酷烈之氣成」と注をし、「郁郁菲菲、衆香發越」については郭璞は「香氣射散也」と注を付けている。何れも芳香の氣だと注釈にある。あくまでも注釈の段階で「氣」と表現されている。時代が下ると表現が一般化される。司馬相如の段階では表現の目が現れてない。
 「氣」の字が香りとして用いられるのはどれが一番古いのか。曹丕「迷迭賦」に先駆けては一つしか見いだせない。[資料二─4─(2)](芸文類聚巻八十七 菓部下 [艸/劦]支 王逸「[艸/劦]支賦」)での「口含甘液、心受芳氣。」。味覚と嗅覚で感じられる「芳氣」。「氣」を香りとして表現した曹丕の例がもう一例、曹植には二例ある。[資料二─4─(3)](楽府詩集巻三十六 瑟調曲一 曹丕「善哉行」)での「清氣含芳」、(玉台新詠巻二 曹植「美女編」)の「長嘯氣若蘭」、(文選巻十九 曹植「洛神賦」)の「氣若幽蘭」。同時代の用例はこの二人にだけ見られるということから、曹丕兄弟は芳香の氣を意識的に用いられると考えられる。現存する辞賦作品から見るならば、王逸によって試みられた芳香の氣の表現を曹丕曹植が受託的積極的に採用したといえるかもしれない。
 「氣」の字を織り込むことによって曹丕曹植兄弟は何を表現しようとした、あるいは結果的に何が表現されたのか。[資料二─4─(4)](説文解字一篇上、説文解字十一篇下)では「气、雲气也。」とされ、さらに「雲、山川气也。」とされる。こうしたものも合わせて考えると氣とは自然界に存在する雲気、水蒸気の立ち上る様子を表していた。可視的ではないことはないが可視的でもある。言い換えると名詞的でもあり形容詞的でもある。身体でも感じるものである。香りは充分に視覚では捉えられないものだが、決して実態のないものではない。王逸はまずそれを「芳氣」と表現し、曹丕曹植はその表現を継承する形で、いわば再発見してみせたといえる。芳香が「氣」の字と結びつくことにより、視覚だけではなく嗅覚や皮膚感覚でも捉えられるものとして強く意識されるようになったのではないか。曹丕兄弟は「芳氣」の詩語としての魅力に気が付いたことになる。視覚的に偏って表現されてきた香りは曹丕兄弟の手によって香りそのものに対する認識によって表現された。
 迷迭について曹植(192-232)のもう一つの辞賦作品がある。[資料二─5](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹植「迷迭香賦」)。残念ながら「氣」の字が見られない。ただそれでも「氣」の字を詠み込むことをどこかで通じるような感覚が詠み込まれている。最後の句に「順微風而舒光」とある。微風に順うの香りであるはずなのに曹植は光と表現している。実際、「舒光」という表現は漢代を通して視覚的になされているし、曹植自身も視覚として表現している。[資料二─5─(1)](楚辞 王褒 九懐「陶壅」、続漢書天文志上 注引 張衡「霊憲」、芸文類聚巻五十九 武部 戦伐 應[王昜]「撰征賦」、芸文類聚巻三十四 人部十八 哀傷 曹植「慰子賦」)。おそらくは[資料二─5─(2)](傅亜庶訳注『三曹詩文全集訳注』(1997年、吉林文史出版社)760頁)にみえる「舒光…謂迷迭香発出淡淡的幽香」という解釈だろう。つまり曹植は「舒光」という表現を香りの表現と寄り合わせるように詠じている。こうした表現がそれ以前になかったというわけではない。例えば「斐斐」という表現など。嗅覚と視覚にまたがった言葉の感覚がそれ以前にもあったことを示す。眼前の香りをどう捉えどう表現するかに曹植が研究したもの、そういったものを作り上げたい。曹丕兄弟の作品に見られる芳香の表現には香りそのものの性質として彼らが捉えたものとして、嗅覚に視覚や触覚が意識されて詠み込まれていることになる。

●三 おわりに──曹操の遺言とその後の香気

 [資料三─1](楽府詩集巻三十一 相和歌辞 平調曲 銅雀台題解)の「[業β]都故事」に曹操の遺言がある。「餘香可分諸夫人、不命祭」(余った香は夫人たちに分けてもよいが、(自分を)祭るのに用いさせない)とある。ある意味、徹底した曹操の態度。しかしこういった態度は息子の曹丕に受け継がれることはなかった。
 曹丕は帝位についた翌年には[資料三─2](三国志 呉書巻四十七 呉主権 「立登為王太子」の注に引く江表伝)に示した物品の要求を孫権にした。そこに「雀頭香」が見える。おそらくそれは[資料三─2─(1)](三国志巻四十九 呉書 劉[夕/缶系]太史慈士燮伝 士燮)に挙げられたような士燮から孫権へ届けられたものを見据えたものだといえる。その中に種々の香料があり、「雑香」という字が見える。
 最後に香気がどう伝えられたかについて。陳琳、王粲、應[王昜]が疫病に倒れこの世を去った年、217年に生まれた傅玄(217-278)は香りの表現を見ていく上で重要な詩人であると考えられる。曹丕兄弟の芳香の氣の表現が継承されている。[資料三─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 傅玄「鬱金賦」)と、その比較として[資料三─3─(1)](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 後漢・朱穆「鬱金賦」)。朱穆(100-163)の「鬱金賦」が傅玄の「鬱金賦」のほぼ三倍あまりの字数を用いながら、芳香の氣やそれと相通じる表現が含まれていないことを考えると、建安年間を通じてこうした表現が立ち上がってきてそれが次の時代の詩人に受け継がれたことがよくわかる。これ以降、芳香の氣が意識し織り込まれることが示唆されている。

 12時54分終了。

質問1
 迷迭という植物は今で言う何ということは判明しているのか。
回答
 結論からいうと、私自身ははっきりわからないが、「迷迭香」という植物は現代中国では「ローズマリー」とされることがある。「ローズマリー」とすると一応、理屈はあう。ローズマリーは南ヨーロッパの原産で、当時のローマ帝国(大秦国)の支配下にある。なんせ1800年前のことだから今の「ローズマリー」とするのは控えたい。

(※清岡の個人的な話。この時、何故か曹丕がローズマリーをくわえているイメージが脳内を駆けめぐり笑い出しそうになっていた)

質問2
(※清岡注、長くて頭に入らなかった)
回答
香料は漢代から熱心に使われていたと考えられる。もう一つの質問に関して。現存しているものからは蜀より魏の方が多い傾向にあっただろう。例えば鼓吹曲は魏や呉に残っているが蜀にはない。ただこれが実際になかったかどうかはわからない。それに関しては金先生の著作に詳しい。

<参照リンク>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

13時1分終了。

<次回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685

第2回三国志学会大会ノート2


  • 2007年9月 8日(土) 11:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 1号館301号室の様子<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

 1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。
 そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。

○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)

 11時13分スタート。司会は中川先生。

●はじめに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。
 (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。

●一、対象とする「関羽文献」

 (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)
 A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)
 これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。

●二、「関羽文献」の「本伝」の内容
 いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。
●1. 呼称
 (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)
 Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。
●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程
 (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)
 『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。
 出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。
 「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。
→王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。
 「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。
→『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。
 関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。
→BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。

<参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/275

●3. 車胄を斬る
 『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。
●4. 秉燭達旦
 『三国志』にはない話。発表では割愛
●5. 義釈曹操
 『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響
●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード
 レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。
●7. エピソードの挿入位置
 エピソードが挿入された順番に関する違い。
 (1)孫権が蜀を取ろうとして劉備に阻まれる
  210年頃、劉備の入蜀直前(BDG) 215年単刀会前に過去を振り返る形(ACE)
※以下レジュメでは合わせて7項目のエピソードの挿入位置について文献を分類している。
 こういった感じでエピソードの挿入位置を比較してみておおざっぱにまとめてみると、
 グループIがACE、グループIIがBDGと分かれる。

●まとめ
 ACEの文献は比較のところであまり取りあげていない。これは比較的、歴史に忠実なため。序文で誤りを正すと書いている方針は史書に忠実であるといところを指す。グループIとFはいわば真面目な文献。関羽信仰に対し冷静な態度をとっている。
 グループII(BDG)の文献の特徴として1)関羽、劉備・張飛の呼称によって関羽を尊崇する気持ちを強く表し、2)王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく聖蹟図を収録し、聖蹟図に基づく説を本伝に採用し、つまり出所が怪しい説を盲信し採用していて、3)『三国演義』を中心に演劇などを含めた俗文学の影響を多く受けている。
→これらの三つの文献も序文の中で先行文献の誤りを正すと書かれている。BDGの編纂者にとっては関羽のあらゆる説をなにもかも本伝に取り込むことが誤りを正す行為だったんだろう。関羽信仰の熱烈な信者。特にBの文献の序文では夢の中で関羽にこういう本を作れと命令されたと書かれている。そのあたり、いかがわしさがある。
 関羽文献というものはそういう方針から大きく二極分化していったのではないか。

(※清岡が思ったこと。グループIIの方針を聞いたとき、Wikipediaの三国志のところで出没する通称「ルーツ君」を連想し、笑い出すのを堪えていた)

 11時50分終了。

質問1
 Dの義で曹操を許すというところ(華容道のところ。曹操が「今日當踐三舎之言。」というところ)は『三国演義』の影響とのことだったが、雑劇なんかでこういったことを言うところがあったと思うが、主に『三国演義』の影響か、もっと通俗的なものの影響なのか。(※清岡注。長くて殆ど聞き取れなかった)
回答
 華容道の場面で春秋を出すところは『三国演義』の影響。大枠としては『三国演義』の影響。

質問2
 関羽の外貌の成立について、荊州の関羽について(※清岡注、報告に関係ない長い質問で清岡の頭に入らなかった)
回答
 元の時代では既に関羽の外貌の徴候があった(白黒ながら)。(一例として)赤い顔というのは忠義の色と言われている。また日焼けの赤で、農民の色、関羽が庶民にとって身近であることを表す意味という説も。関羽の容貌が劉淵の容貌に準じている話(大塚秀高先生の説)
 (※清岡注 この後、荊州の関羽について懇切丁寧な説明があるも、質問の段階で理解できなかったので清岡の頭に入らず。最後に、インターネット上のコラム参照とのこと。下記リンク先)

<参照リンク>(中国情報局のコラム)「名場面と人物で見る三国志」完結
http://cte.main.jp/newsch/article.php/594

※追記 メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)

 12時2分終了

 事務局長(渡邉義浩先生)からの予定変更のご案内。
 午前の部は「建安文学における香りについて」までで、そこから昼休みというスケジュールに変更。あと昨日と同じく冷たいお水を用意している旨、一階下の201号室に書店が来ている旨、この建物の地下に食堂がある旨、今から10分ほど休憩がある旨のアナウンスがあった。

 舞台の向かって右にご自由に取れる研究紀要が置いてある本棚があって休憩終了前にそれを持って帰ってくれというアナウンスがあって多くの人(おそらく一般の人がほとんど)が本棚に群がっていったんだけど、その群衆の中に福原先生が混じって物色していたのは妙にユーモラスな光景だった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684

第2回三国志学会大会ノート1


  • 2007年9月 6日(木) 20:46 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

 右隣でげんりゅうさんとしずかさんが中国史における降雪の表現みたいな話をしている。

 やはり去年と同じく、金銭の授受がある受付で混んでいる模様。そのため、少し遅れ10時4分スタート。
 駒沢大学の石井仁先生が司会。

○会長挨拶 三国志学会会長 狩野 直禎

 三国志学会の方針みたいなことに言及されていた。歴史だけじゃなく文学・思想などなど幅広い分野があり、また一般にも門戸を広げているってことなど。今回、発行された『三国志研究』2号についても。


○報告(午前10時10分~午後1時)

○「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)

●長沙走馬楼呉簡について
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 1996年に湖南省長沙市で出土した三国呉代の簡牘。公表されている簡牘の紀年は後漢中平二年(185年)-孫呉嘉禾六年(237年)。但し黄龍年間(229-231)、嘉禾年間(232-)に集中。主な内容は長沙郡ないし臨湘県(侯国)の簿籍・文書。総数は14万点以上。その中で図録本として刊行されているのは「嘉禾吏民田家莂」(以下、田家莂)と題される大型木簡2141枚、竹簡19636枚。

●はじめ

 走馬楼呉簡には倉庫関係の簡牘が多く含まれている
  →倉庫や出嚢や物資の流通など、当時の地方財政システムの理解に寄与する
 谷口先生の今までの研究
  穀倉関係簿の整理・分類の初歩的作業(出土した時点ではバラバラなので)
  地方倉における搬出や移送といった穀物財政の仕組み及び簿籍の作成過程等の検討
 伝世文献中に当時の税制に関する資料は乏しいため、これらの検討で新知見が得られる
  →簿籍簡牘に賦税などとして穀倉に入れられる穀物の名目の一つ「限米」について再検討(その性格を位置づける)
   →孫呉政権初期の穀物財政及び支配のあり方の一端を伺う。

●一、穀倉に収蔵される穀物名目の概観

 公表されている簡牘にもられる穀物名目の概観について。
 (1)田家莂とは納税者台帳であり、田地の面積と租税額、納税の確認などの情報が記されている(レジュメにはその一例の釈文と書き下しが掲載)
 (2)賦税総帳木牘とは納入穀物の総帳。ある期間内に納められた総計と内訳が記される(レジュメにはその一例の釈文が掲載。所々、太字下線部になっていてどこが内訳を示しているかわかりやすくなっている)
 (3)穀倉関係簿(竹簡)。穀物納入の証明書(莂)を編綴して簿としたもの(莂簿)、一ヶ月・三ヶ月ごとの出納帳(それぞれ「月旦簿」、「四時簿」)など。
 →レジュメの別紙に上記の簡牘の写真があり、その紹介。

 続いてレジュメに「走馬楼呉簡中に見える穀物収入名目」がリストアップされている。分類としてa「税米」・「租米」(上記の(1)(2)(3)より)、b「限米」( (2)(3)より)、c官有物売却の代価としての米( (3)より)、d貸与返還米( (3)より)、e折咸米( (3)より)
 「○米」の丘に「禾(アワ)」「粢(キビ)」「麦(大麦)」「豆(大豆)」なども見える。そのため「米」はイネのことと思われる。

先行研究に基づき簡単に分類
 上記aは「田家莂」におると「吏民」(※吏と民以外にも卒なども含む総称)の田に課される米。米の他に布・銭も課されていて、それぞれを米で代納したのが「田畝布米」「田畝銭米」
  →一般吏民に課せられた賦税と考えられる。
 cは塩などの官有物を売却し、代価として得た穀物収入。「鹽(賈)米」
 dは穀倉から貸与されていた穀物を民が返還したもの。「民還貸食米」。新規の収入ではない。帳簿上、他と区別。
 eは輸送の過程などで失われた穀物を後日補填したもの。d同様、新規の収入ではない。
 bの諸「限米」は身分呼称が冠されるのが特徴(例「衛士限米」)。
  三説ある。1)国家の「正戸」でない者に課された米。最初に言われた説。「田家莂]」に記載されているのが「正戸」という理解に基づく。
   2)屯田従事者が納入する米(「屯田限米」という記載があるから)。
   3)「屯田限米」は屯田に関わる地租で、その他の身分は王族などの依附民が納めた地租

 この三説に対するポイント
 ・「屯田限米」以外の「限米」も全て屯田に関係すると考えるか否か
 ・“「正戸」でない”、“依附民”などとされる「限米」納入身分者が名籍中にどうみえるか
 →これを再検討(先行研究があるものはレジュメの後で提示)

●二、「限米」の納入状況と田

 『三国志』にも「限米」の記述があるが、まず走馬楼呉簡でどう見えるか。

●a.「限米」の納入状況
・「税米」・「租米」の納入事例(レジュメに釈文の数例)
 ここでレジュメ別紙の写真3)を使って解説。簡の上から三分の一のところに横線が引かれてあって、これは納入された時に付けられる印。二行に渡って付けられる印で片方を穀倉側、もう片方を納入した者が側に渡されるそうな(写真は穀倉側の方。つまり印に納入証明の意味がある)。この印以外にも下から三分の一に著名があってそれも両側に分かれている。
 →元々は納入の証明書として作成されたが、後で帳簿の形に編綴される。
   →編綴の仕方は各郷ごと。
・「限米」の納入事例(レジュメに釈文の数例かある)。
 ・「限米」の簡は「税米」・「租米」と書式が同じ。簡番号も近い。
  ※ここで簡番号の意味の説明。井戸から簡のいくつもの塊として発掘された。その塊ごとに番号を付ける。簡番号が近いということは同じ塊に入っており、同じような帳簿に入っていたと想定される。
  →「税米」「租米」「限米」の簡は同一簿にまとめられたと考えられる。
   →ここから収入としての性格の近さが伺える(逆に「鹽米」の簡は書式が異なる)
    ・「民還貸食米」は簡番号が特定の部分に集中しており独立の簿として編綴
    ・傍証として「税米」「租米」「限米」をまとめた表現(「税租限米」)がある
 ・納入簡のはじめに郷名が記され、簿に編綴される際も郷ごとにまとめられ、
  「税米」「租米」「限米」も郷に関する収入
  →「限米」の納入者が郷に所属or「限米」を課せられた田が郷に所属
  →「限米」納入者と「税米」「租米」納入者が同一区画(郷)内に散居。

●b.「限米」に課される田
 (レジュメに釈文の例とそれらの書き下し)「~郵卒田~畝々収限米二斛~」
  「~衛士田~畝々収限米二斛~」「~佃卒田~畝々収限米二斛~」
→ある領域内に存在する特定の田(郵卒田)の面積と、そこから徴収される穀物の総数の記録
 ・「郵卒田」「佃卒・衛士田」など納入者の身分呼称を関する田に「限米」が課される
  →「郵卒田」から徴収されたのが「郵卒限米」
 ・「限米」は田1畝ごとに2斛が徴収された
  →「田家莂」によると
    「税米」は1畝ごとに1斛2斗、「租米」は1畝ごとに4斗5升6合(嘉禾四年)
      →「限米」の方が高額なので屯田説の根拠の一つとなっている。

※10時47分。ここで司会の石井先生から講演者に紙が渡されたんだけど、時間、おしているのかな?

・「民田」に関して(レジュメに釈文の一例とその書き下し)
 「民田」全他の面積と徴収額を知るし、「民税田」と「民火種田」の内訳を記す構成。
 書式が「限米」の簡と同じで簡番号も近い。簡の性格が似ている。
 ・「民」は「吏」「卒」に対応する語。「郵卒」と同じく身分の表現
  →「限米」を課される「郵卒田」「佃卒田」「衛士田」
    と「税米」等を課される「民田」と対応関係
   ※孫呉政権では身分ごとに田地を把握。

 ・「租税雑限田」の表記について
  「雑限田」は上記の「郵卒田」「佃卒田」などの総称か
  →ここからも「限田」と「税田」「租田」の近さが伺える
   両者の違いは「屯田←→一般の田」という根本的な違いではなく、
   あくまで田に携わる者の身分の違いと考えられる。

・まとめ
 (1)「限米」に関連してみえる身分は「税米」「租米」納入者の身分と概ね重複しない
 (2)「限米」は「税米」「租米」と書式が同じで収入としての性格が近い
 (3)「限米」は郷に関わる収入。
   「限米」納入者は「税米」「租米」納入者と同様、郷に所属
 (4)「限米」を課される「限田」と
   「税米」「租米」を課される「税田」「租田」「民田」は並列的な位置。
 →「限米」は「税米」「租米」と同性格の賦税目であり、
  「郵卒」「子弟」など特殊身分の者に課せられたと推測。
  →「限米」に関する身分は、専門業務に携わる(「郵卒」)、
   新たに戸籍につけられた(「還民」)、など何らかの形で優遇されてい可能性が高い
    但し、1畝当たりの徴収額の高いことが疑問点
  →走馬楼呉簡中に裏付ける資料はないが、田に布・銭が課されない、
   他の税役面で優遇されている可能性がある。

●c.文献資料に見える「限米」。
 『三国志』呉書孫休伝永安元年(258年)条(その書き下し)がレジュメに引用されている
 第三代皇帝孫休が即位直後に発布したもの。
 諸吏の家で5人の男手のうち3人が役に就くケースがあって、「限米」を供出しなければならないという資料内容。
 →諸吏の家に「限米」が課せられていたことが分かる。

※ここらへん時間が押しているとのことでレジュメの記載より端折った解説

・孫呉政権では、一般吏民の家の田に課す「税米」「租米」の他、特殊な業務に従事する者及び吏の家の田に「限米」を課していた」
 →吏や特殊身分に対する特別な課税方法が制度化。
  「限米」の最も古い紀年は「黄武五年(226年)」であり孫呉政権の最初期から。

●三、郷・里の名籍中に見える「限米」納入身分
「限米」を課せられた身分のうち一部は、名籍中にもみえる(例がレジュメに引用)
→「給田帥」「給子弟」「給習射」「給私學」も「民」が当該身分の役目に従事したことを意味するか。これらの各身分も吏民と同様、郷・里の名籍に登録されていることを確認。
→ここから「限米」納入者が正戸の者でないとか王族などの依附民であるとは言えなくなってくる。
 「給子弟佃客」「給習射及限佃客」に見えるように一部の「限田」については「佃客」が耕作している。
・「限佃客」の名籍が見られる。

・最後に「永安元年詔」に関連し、走馬楼呉簡当時の吏の家の実態を伺う。
 「永安元年詔」に関連するような文書木牘(嘉禾四年八月廿六日、州吏三人家族二十三人の調査記録)の釈文とその書き下しがレジュメに引用されている
 1人が「限佃(限田耕作に従事する意か)」とある。
  →全ての“吏の家”に「限米」が課せられている状況を伺わせる「永安元年詔」と
   齟齬するようにも考えられるが、その他の家族の内訳を見ると
    (1)何らかの疾病を有する、(2)幼少、(3)既に吏役に就いている、ことが分かる。
→疾病や幼少であることを理由に「限佃」を免れていた可能性
・「永安元年詔」からは「限米」が“吏の家”にとって重い負担とも読みとれるが、本木牘からも“吏の家”の厳しい状況が伺える

●おわりに
 レジュメに「限米」のまとめが書かれている(報告中では触れるだけで読まれていない)

 10時54分終了。

 司会の石井先生から報告についてと、あと時間が押しているので手短で報告内容に関わる質問を促される。

質問1
「税米」「租米」との違いについて研究はされているのか。
回答
「田家莂」の研究で詳細な研究がある。「税米」「租米」に関わる田について違う(徴収額が違う)。具体的な田の性格についてはいくつか説がある。

質問2 早稲田大学の渡辺さん
(漢代では衛士は毎年派遣される中央政府の宮殿の兵士?※聞き取れず)衛士は兵士と考えられるのか? 「税米」「租米」に衛士は出てくるのか?
回答
「衛士」については研究されているものはない。「衛士」は○○(※聞き取れず)に派遣されたものではないか。

11時3分終了

 ここで事務局からのお願いということで会場を3号館114号室から1号館301号室に移ってくれとのこと。
 というのもよく見ると後の方でパイプ椅子が出されるぐらいなのにそれでも観客が入り切れていないので、さらに大きな会場に移動するということだ。学術系のイベントで観客150名オーバーってのは素晴らしいね。
 というわけでどういう大きさの会場か清岡は知らないので席が取れなかったら大変とばかりに急ぎ移動する。

<次回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683

※追記 メモ:海外中国史研討会関連

※追記 曹操墓の真相(2011年9月)

第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)


  • 2007年9月 5日(水) 12:14 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 開演10分前の会場の様子・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 上記のリンク先のように今年も三国志学会大会が開催されるということで、泊まりがけで東京入りしていたため、第2回三国志学会大会の2007年7月29日は前日と同じく清岡は大塚駅近くのホテルから、大塚駅-(山手線)→池袋駅-(東武東上線)→東武練馬駅という乗換で、さらに駅近くの大東文化会館から無料のスクールバスで、大東文化大学板橋校舎へ向かう。スーツ姿をまとった状態で朝食は車内でコンビニおにぎりを食す(汗)
 途中、同じく関西から来られている、しずかさんと合流し、いざ三国志学会大会の会場へ。昨日の第3回三国志シンポジウムと同じく大東文化大学板橋校舎の3号館114号室。受付で学会の年会費と懇親会のお金を払って『三国志研究』第2号とできてる分のレジュメを貰い、いざ会場へ。
 昨日と同じく五列目のど真ん中に陣取る。右にしずかさんで、しばらくすると、左にKJさん、一つ後列の右から玄鳳さん、その後輩、げんりゅうさん、おりふさん、USHISUKEさんと居並び、離れたところにはSuさんと三口宗さんがいらっしゃる。

 それで今回の内容を以下に引用。雑感を書いたら、各々にリンクを張る予定。

--引用開始---------------------------------------------------------
プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分~午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

お昼休み

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

講演(午後2時~午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時~)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

※関連記事
・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

※追記 三国志学会 第三回大会プログラム発表

※追記 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)


<前日>便乗プチオフ会(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/678


<次回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催


  • 2007年7月29日(日) 23:33 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,850
研究 ・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/


今日(2007年7月29日)、第2回三国志学会大会があったんだけど、閉会のときに早くも次回(来年)の第3回三国志学会大会の日程が発表された。

2008年9月14日日曜日とのこと。

まずはお知らせまで。

※関連
・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

・第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

※追記 三国志学会 第三回大会プログラム発表


<私信>
第2回三国志学会大会については、いつものようにレポを書く予定です。
でも、前日の三国志シンポジウムから順々に書きますので、限米のところはかなり後になると思いますよ。
あと個人的なスケジュールで、下手をすると書き終えるのが九月以降になると思います(汗)

メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』


  • 2007年7月21日(土) 17:42 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,144
研究  書店で見かけたら買おうと思っていた書籍に、蘇哲/著『魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社アジア史選書008、2007年2月1日発行)ってのがあるんだけど、よくよく調べてみると近くの図書館に置いていたので借りてくることに。
 とは言ってもタイトルから連想されるように「三国志ニュース」的なことはそれほどないんだろうな、と思っていて、それを証明するかのように七章あるうち、三国志と関係ありそうなのは「第一章 三国西晋の壁画墓」だけだった。第二章は「五胡十六国時代の壁画墓」ということで三国関係はあまり期待できないな、と思いつつ読み進める。
 「一、中原壁画墓の衰微」。魏はやはり曹操が厚葬を禁止したので、それほど面白いものが出ていないようだね。

※『三国志』魏書武帝紀
(建安)十年春正月、攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰:「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。

 その中で紹介されていたのが「壁画のない陳思王墓」という小タイトルで曹植の墓が紹介されている。発掘調査は1951年6月、二度目は1977年3月と結構、古い。タイトル通り壁画はなかったものの、私的には「棺の右側には炊事道具、左側には井戸・車・家畜・家禽類の模型と俑などの陶質明器が並んでいた」という箇所に興味あり(本には写真はなかった)。それから墓の銘文から墓を造営した人に二〓日の休みを賜った(各賜休二〓日)という制度とかも興味あり(一文字だけ消えてるとしたら二十日とか二百日とかどれだろ)。あと三国志ファンとしてはその墓に遺骨が安置されていたってところが気になるんじゃないかな。
 この章だとあと「二、河西回廊の壁画墓の繁栄」。ここでは漢民族と異民族の関わり合いが大きく取りあげられている。私が興味あったのは「河西地域の羌と胡」という小タイトルのところ。「嘉峪関市新城6号墓農耕図」、「嘉峪関市新城5号墓牧畜図」、「嘉峪関市新城3号墓穹窿図」の三枚の白黒写真が出てくる。6号墓に描かれている人物を「髪の毛が二股であり、羌族とされている」と書かれている。5号墓に描かれている人物を「鼻が高く、顎が大きくて、中央アジア人種の特徴を持っている」とし後の記述で「月氏族である可能性が高い」と書かれている。3号墓に関しては「ご飯をつくっている人物の服には鳥の尾羽がついている」と書かれている。どうも画像の絵が単純すぎてそれだけだと判りづらいが、こう説明されると理解や想像の手助けにはなる。
※ちなみにこの本、「夏侯淵」(正)が「夏候淵」(誤)となっている。
 それで他の章には三国関係はないかというと、そうではなく時たま過去の事例を引っぱり出すときに不意にでてきたりする。第二章の始めは墓での西王母と東王父の壁画に関し、後漢の事例を引っぱり出している。後は出行図に関してあれこれ。そこの挿図(図32 進賢冠の構造図)に孫機/著『漢代物質文化資料図説』で載っている進賢冠の説明図と同じものがでてくる。「図版出典一覧」の図32の出典を見ると、「図32 進賢冠の構造図(『中国古輿服論叢』文物出版社 2001年)」となっていて、この章の注で「〔15〕武冠・進賢冠・平上[巾責]の形式について、孫機「進賢冠与武弁大冠」(『中国歴史博物館館刊』総13・14期)1989年、のちに『中国古輿服論叢』文物出版社 2001所収)参照」となっているんで、おそらく同じ作者によるものなんだろうな。ここでの個人的チェックポイントは「『晋書』輿服志・『宋書』礼志の記録により、介[巾責]は文吏、平上[巾責]は武官のかぶりものだとわかる」ってあたり。時代にもよるだろうけど、介[巾責]は進賢冠の一部だし、平上[巾責]は武冠の一部だから納得できる。他のチェックポイントは「被葬者冠は武冠(籠冠ともいう)といい、西晋・東晋時代では、将軍クラスの武人がかぶっているものである」というところ。後漢の俑などをみると、音楽を引いたり踊ったりしている人が武冠かぶっていることが多いんで、ここらへんの時代変遷が新鮮。この章ではあと牛車の流行り廃れについて書いている。
 もう三国関係はないかと思いきや第六章に「魏晋南北朝の具装騎兵」というのがあって後漢~三国の文献に見られる「鎧馬」、「鉄騎」、「鉄騎都尉」(馬超の弟)などについて書かれている。文献には曹操の『軍策令』からのもある。ここらへん第一回三国志シンポジウムで石井仁先生の報告「三国時代の軍事制度」でも触れられていたことを思い出した。

・2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

※追記 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)