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第2回三国志学会大会ノート4


  • 2007年9月11日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,683
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685


○「台湾における関帝信仰の諸相」松本 浩一(筑波大学教授)

 雷を伴う集中豪雨により会場への観客の戻りが遅いため予定を遅らせる。
 ステージの上にスクリーンが用意されて、14時10分スタート。

●1. 関帝(関聖帝君):様々な性格を持った神
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 実際、様々な神格を持っている。関羽対する信仰は数種の部面があり、そのうち四つを紹介(増田福太郎『臺灣の宗教』p32の引用がレジュメに記載)。(イ)武神としての関羽。(ロ)仏教の祭神としての関羽。いわゆる伽藍神。お寺の建物の守り神(スクリーンにその関羽像が映し出される。青龍刀を持っている)。(ハ)儒教の祭神としての関羽。「文衡聖帝」として五文昌の一人。家業の神様。入試などで文昌帝君のところに絵馬が並ぶとのこと。(ニ)商業の神としての関羽。華僑の居るところには必ず関帝廟がある。
 それぞれについて由来を辿る。

●2. 国家祭祀の祭神としての関帝
 皇帝から称号を授かる歴史。まず宋元時代の加封。レジュメに『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆からの引用がある(以下に出てくる文献に関してもほとんどレジュメに引用と訳あり)
 宋元時代に王を加封。大觀二年に武安王など。現在、正史に見られないが、このころ、多くの称号を授かったことは間違いない。
 ある村民が県尉の李若水に関大王の書を持ってきたエピソード(『古今図書集成』神異典巻37より)。夢の予言でその村民が道士から得たとのこと。これが北宋末の年号。北宋末に王になっていたことは間違いない。
 時代を経るにつれてどんどん加封されていき元文宗天歴(暦)元年には顯靈威勇武安英濟王になった(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。
 最初は御霊神だった。『三国演義』の中でも曹操・呂蒙へ祟りを起こしに行くので。それを鎮めるために神様に祭られた。唐の咸通年間の乱のあとのエピソードでは霊の一つとして捉えられている(『北夢瑣言』巻11より)。関羽が祭られている祠では「僧侶でここに居住する者は、外の戸をしめないで、財産や絹を思うままにしておいても、敢えて盗む者はない」というほど、恐れられていた神様(『雲渓共友議』巻3より)。
 宋元の時代には道教の中にも関羽が神様として出てくる。呪術儀礼の中で、神兵を率いて邪鬼を追い払ったりする元帥神の一人。これは台湾に関係ないため触れない。
 多くの文献が(明朝の)萬暦年間に帝号をうけたとする(『三才図絵』人物巻5關羽、『關聖帝君聖跡圖誌』巻3)。王見川氏の考証では関羽が「協天大帝」の称号を受けたのは朝廷からの正式なものではなく民間の「私封」ではないかとしている。萬暦四十二年には三界伏魔大帝神威遠鎭天尊關聖帝君(いわゆる関聖帝君)になっている(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。この年に帝号を受けたことは様々な資料から裏付けられる。

●2. 仏教の伽藍神としての関帝(※清岡注。レジュメで2.が二回でてくる)
 伊藤先生の発表の中にあった唐代の董[イ廷]という人が書いた関帝の廟の記録(董[イ廷]「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉關廟記」(『全唐文』巻684))に、智顗禅師が玉泉寺にやってきたとき関羽が現れてこの地を僧坊として提供したいと申し出て(守護神となった)、とある。この全唐文では将軍になっているが後の時代になると聖帝になっている。帝号を得てから書き替えられたのであろう。張商英「重建當陽武廟記」(『全宋文』巻2231)の方では関羽が帝になっている。

●3. 商業の神としての関帝
 これはお馴染みのところ。

 ここまでは増田福太郎さんの言っていることと対応がつく。

●4. 扶[占し]の神としての関帝
 扶[占し](ふうち)とは神様が降りてきて字を書くこと。そうやってお告げをしていく。そういった文献がかなりある。先ほどの(伊藤先生の)発表は関羽について書かれた文献だったが、こちらは関羽が自らお告げを下した書物。
 清代には関帝の託した善書が多く出現。大概、良いことをすれは良いことが起こり悪いことをすれば悪いことが起こるといった内容。『関聖帝君明聖経』『救劫新論』『関帝返性図輯要実録』『救生船』『関聖帝君降筆真経』『関聖帝君戒士文』『関聖帝君全書』
などがある。一番有名なのが清朝の初期から中期ごろに成立したといわれる『関聖帝君覚世真経』(レジュメに引用と訳)。大抵は薄い冊子。
 清朝の後期になると関帝が降りてきて作るのが多くなる。場所は四川雲南湖南といった宗教結社で多くなる。時代に合わせ世を救うというテーマが強くなる。
 恩主公信仰。関聖帝君、孚佑帝君、司命真君が「三恩主」としてセットとして祭られている。
 関帝が玉皇大帝(西遊記でお馴染みの玉帝)の譲りを受けて、第十八代目の玉皇大帝に就任。第十七代の玉皇大帝は「玉皇大天尊玄穹高上帝」であり、『西遊記』第一回などにも「高天上聖大慈仁者玉皇大天尊玄穹高上帝」として見えている。第十八代「玉皇大天尊玄霊高上帝」になったという説。王見川氏によると雲南省あたりで発生したとのこと。
 王見川氏によると民国の初年中国で作られた善書の中には三つの異なった説がある。『中外普渡皇経』『玉皇普渡尊経』、『洞冥宝記』巻十のそれぞれに説がある(発表では三つ目の説を紹介)。
 この説は戦後になって台湾に伝わる。民国六十九年に台中の聖賢堂が印刷し各地に広まったという(レジュメに引用と一部訳がある)。
 最後に台湾での信仰を見るということになる。この後、スクリーンへ写真を映し出し順に解説。

 関帝を祭った廟として多いのは扶[占し]の神としての廟と商売の神様としての廟。いろんなところに出てきて最後は玉皇大帝になってしまうのは関羽の人気の高さを示している。

 14時47分終了。
 司会からフォローが入っていたが王見川を発表中「おうみかわ」と読んでいたのは「おうけんせん」だとのこと

質問1
(※清岡注。前置きが長いので略)関羽だけ帝にまでなったのは何故か
回答
 芝居や講談などの関羽人気が大きかった。また悲劇的最期を遂げたのも大きい。御霊神としての信仰がかなり広まる要素となっていると思う。

質問2
 商業神としての関羽は出身地から考えるのが一般的なのでは? 解県というのは代々、塩の名産地として知られている。解県のイメージからお金や商売がでてきた。

回答
 今回は皆さん御存知だと思ってちょっとしか話をしなかった。解州の塩とかかなり関係するとは思うが、山西商人自体、活躍していた。善書が広まるのは山西商人の影響が大きい。
(※清岡注 「解県」には塩池はなく続漢書郡国志によると安邑県にある。そこらへん回答では「解州」と言い換えているあたりさすがだなぁ、と思った。)

※追記 三国志飴(2010年9月16日)

質問3
(※清岡注。聞き取れず)

回答

 最後にこういうことに興味があれば道教学会の方にも足を運んでほしいとアナウンス。
 14時56分終了。

 ここでアナウンス。大学からのスクールバスは17時10分が最終とのこと。他の交通手段について説明があった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

鋼鉄之宴(2008年2月10日東京)


  • 2007年9月10日(月) 21:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,240
二次創作 なんか「鋼鉄三国志 イベント」とか「鋼鉄三国志 同人」とか頻繁に検索があったので気になって下のリンクから辿ってみたら、鋼鉄三国志だけの同人誌展示即売会(いわゆるオンリーイベント)の開催があるようだね。

・鋼鉄三国志関連個人サイト検索
http://cte.main.jp/newsch/article.php/647

というわけでご紹介。

・鋼鉄之宴~鋼鉄三国志オンリーイベント 告知サイト
http://ktonly.crap.jp/

鋼鉄之宴

--引用開始---------------------------------------------------------
鋼鉄三国志・オンリーイベント
『鋼鉄之宴』
2008年2月10日(日) 11:00~15:00
東京御茶ノ水・損保会館4F全室 (JR秋葉原駅徒歩5分 御茶ノ水駅徒歩5分)

主催 黄昏通信
協賛 チラシの裏

*募集内容*
直接 30sp
委託 10sp
コスプレ可(完全事前登録制)
--引用終了---------------------------------------------------------

堅実なスペース数で一安心かな。とは言っても、このジャンルの勢いには感心。

<関連>魏勇伝・弐(2008年9月21日東京)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/712
<追記>交地ニハ絶ツコトナカレ 九(2008年5月25日、蒲田)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/782

※追記 鋼鉄三国志オンリーイベント『文武両道』(2008年9月14日山口)

第2回三国志学会大会昼休み


  • 2007年9月10日(月) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,219
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684


 ここで事務局長(渡邉先生)からアナウンス。いろいろ持って帰ることができる研究紀要、学内誌やパンフレットの話を終えた後、

「このようなものを用意いたしましたので(とピーターラビットの絵の入った手提げカバンを掲げられる)、宜しければお持ち帰り頂いてということでございまして、中を開けると何となく大学の案内が入ってると思いますが、『諸葛亮の罠』だとして、親戚の方々にでも配っていただくという仕組みになっております」

と『諸葛亮の罠』で場内爆笑。
 その後、構内の学食を含む近くの昼食の取れるところの案内と書店の案内をされていた。

 去年の会場は大東文化会館だったので、近くのスーパーマーケット内にあった「ジンギスカン フランス人」(旧名)に行ったんだけど、今年は大東文化大学板橋校舎ということで昨日行ったジョナサンに行くのも能がないと思い、「手作りうどん 味の民芸」に行くことに(というか清岡が主張・笑)。道中はやはり先ほどの発表について。

<参照>三国志学会第一回大会お昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

 民芸についたら、総勢8名居た。こりゃまた分かれて座るかな、と思ったら、実は同じところに座れるということで、しばし待つ。待っている間は『三国志研究』第2号は雑纂として一般の人の文章が載っており、実際、門戸を開いているんだなぁ、という話をげんりゅうさんとしていた。


USHISUKEさん おりふさん げんりゅうさん 三口宗さん

 テ ー ブ ル テ ー ブ ル テ ー ブ ル 

  清岡   しずかさん 玄鳳さんの後輩 玄鳳さん

※玄鳳さんの後輩さんはげんりゅうさんの後輩でもあるとのこと


 こんな感じの席順。お座敷。清岡は天ざるそばを注文。
 この八名はきっと知らない者同士も居るだろうってことで、清岡がお節介にも自己紹介タイムを提案。玄鳳さんから時計回りにスタートし、名前とか所属とか軽く自己紹介。結構、mixiではマイミク同士とかって話が出ていてそこらへん時代性を感じていた。
 というわけで後は席の近いところでローカルトーク。清岡の近くでは京都への旅行話をしていた。市バスの一日券で名所を回るのが良いのかなとか。
 そういう話をしていたら、向こう側の四人から何か話が飛んでくる。三口宗さんが晋書の訳が欲しいって話。

清岡「自分で訳してください、としか言いようがないですね(笑)」

という鬼発言で少し場をわかせる。んまぁ、一応、清岡からは、訳だとデータ化されてないんで、逆にネットでデータとしてある漢文(原文)の方が検索しやすい、という話でお茶を濁したが。げんりゅうさんも漢文読んだら派だったような。
 こっち側では再び京都話に戻り、大凶コレクターの話になっていた。そうこうしている間に料理が一辺に来て妙に感動する。
 食べながら、今日の会場移動は何故だろう、って話をしていた。移動前の会場のキャパシティが150名ぐらいだから、もし三国志学会会員の大半が来場したらさすがに入りきらないだろうって話。

 食べていると周りがざわつき、そのうち稲光と雷の音が。驚いて外を見ると集中豪雨。まさにバケツをひっくりかえしたような雨だ。みんな傘の心配をしていた。
 おりふさんが誰かシャッターを焚いていると思ったと言うと、すかさず清岡が「シャッターを気にするなんて有名人みたいですね」と茶々を入れる。
 そういや第一回三国志シンポジウム後はこういった集中豪雨でしたね、と思い出話を口にする。

・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html

 一人一人レジでの清算を終え、どうやってこの雷雨かつ豪雨の中、会場まで戻るか、眼前の問題に直面する。

 清岡は折り畳み傘を持っていて次の発表の時間が差し迫っていたので、意を決し外に飛び出す。
 途中で落雷が恐くて脇道に逸れ、まずどこか建物に入ろうとしたが見つからず結局、遠回りになってより多く濡れるだけというアホな結果になった(汗)


<次回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687

第2回三国志学会大会ノート3


  • 2007年9月 9日(日) 00:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,559
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683


○「建安文学における香りについて──迷迭の賦をめぐって」狩野 雄(相模女子大学准教授)

 12時17分スタート。

●一 はじめに──曹操の薫香嫌いと時代背景
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ
  また、レジュメでは[資料]として様々な文献からの引用が載せられている。

 建安文学の創造者とされる曹操だが、曹操は薫香を嫌い続けた人物。[資料一─1](太平御覧巻九百八十一 香部一 香に引かれる魏武令)に明確に「吾不好焼香」と書かれていて、焼香を許したのは実用面のみであった。曹操の薫香に対する姿勢は[資料一─2](三国志巻一 魏書一 武帝紀の注に引く魏書)で「雅性節儉、不好華麗」とみえるように華美を好まないためかもしれない。こうしたことを反映してか現存する曹操の詩歌作品中に薫香表現を見出すことは難しく、[資料一─3](宋書 楽志三 曹操「陌上桑」)で「柱杖桂枝佩秋蘭」と見えるだけ。曹操は詩人としても一個人としても薫香に関しては遠い存在といわざるを得ない。
 曹操のこうした姿勢は建安の時代において薫香がすべてに渡って疎んじられたという意味ではない。むしろ禁止しなければならないほど薫香が人々の好みに適っていたと雄弁に物語っていた。例えば曹操の息子、曹丕に関して[資料一─4](三国志 魏書 巻二十九 方技伝 朱建平)で「帝將乘馬、馬惡衣香、驚囓文帝膝」とあり馬が香りを嫌って衣に噛みつく程。
 こうした関心の強さはその当時まで蓄積された薫香の状況と些か関わりがある。[資料一─5]に示した陳連慶「漢晋之際輸入中国的香料」(『史学集刊』1986年第二期)では武帝紀に中国にもたらされた品々を細かに挙げながらかつ[資料一─5─(1)](漢書巻九十六下 西域伝)の「殊方異物、四面而至。」と述べながら、そこに香料が含まれないことと、香料の名が見える文献の清書が南北朝期であることを指摘した上で、当時、漢代、すでに陶製の薫炉が行われたことが出土文物からは認められるものの、香料の輸入が本格的に行われていたことを示すものでは必ずしもないと論じられている。信用できる文献として[資料一─5─(2)](芸文類聚巻八十五 布帛部 素、太平御覧巻九百八十二 香部二 蘇合)の班固が班超に宛てた手紙がある。後漢の章帝期で大月氏の蘇合香が中国に入ってきたことが確認できる。月氏の視線の先には大秦国(※清岡注、ローマ帝国のこと)が意識されていたかもしれない。[資料一─5─(3)](後漢書巻八十八 西域伝 大秦)では大秦国の様子に触れられているが蘇合香にも触れられている。「凡外國諸珍異皆出焉」の記述は[資料一─5─(1)]の記述にも通じる。「珍異」なるものとして香料が挙げられている。香料の名が魏略西戎伝に記される。[資料一─5─(4)](三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝の注に引く)のところ。「一微木・二蘇合・狄提・迷迷」。「迷迷」は「迷迭(めいてつ)」の誤りだと思われる。こういった香料は使節にももたらされたが商人にももたらされた。いつの頃かはわからないが[資料一─5─(5)](楽府詩集巻七十七 雑曲歌辞十七 楽府 古辞)に「五木香」や「迷迭」など香料やその原料となる植物が挙げられる。陳連慶氏は中国に香料がもたらされる時期を三つに分ける。前漢武帝期からを薫醸段階、後漢期を○○段階、魏晋期を○○段階、つまり建安時代は外国の香料が大量に中国へもたらされる段階に当たっている。こういったことを背景にしながら、建安文学の香りについて見ていく必要がある。香料の名前としてあるいは香料の原料として「迷迭」というものあった。[資料一─5─(6)](法苑珠林巻四十九)では「迷迭香 魏略曰、大秦出迷迭。廣志曰、迷迭出西海中。」となっている。「迷迭」は元々、植物の名称で建安の舞台にあって詩人たちによって愛でられた。

●二 迷迭の賦をめぐって──異国の植物はどう香るのか

 『芸文類聚』巻八十一は薬香草部上にあたっていて迷迭が一項目として立てられ、五名の辞賦作品がある。また[資料二─0](太平御覧巻九百八十二 香部二 迷送(迭))、曹丕の賦と思わしきものが収められている(「魏文帝迷送(迭)賦曰~」)。この制作年代は不明だが、先行研究の中では仮にとされながら「建安二十一年」としている。曹丕は迷迭の種を中庭に植えその様子と香りについて迷迭の賦を作っている。おそらく他の四名の作というのもこの時に盛んに行われたと言われている即興的競作的作品、つまり同時に作られたと思われる。
 今、詩人の個性と共に香りに対する感覚の世代間の差異が認められるか否かについて考えるために、試みに世代順に見ていく。まず曹操と同年代の陳琳(156-217)について[資料二─1](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 陳琳「迷迭賦」、韻補巻二 下平声・十陽・鍾「終」字 陳琳「迷迭香賦」、韻補巻五 入声・五質・歇「歇」字 陳琳「迷迭香賦」の三つ)で見る。芸文類聚に作品の全て掲載されていないことは韻補に収録されていることから知られている。残されている部分からいくつかの特徴がいえる。香りについて芸文類聚の引用の最後の部分「動容飾而微發、穆斐斐以承顔。」の表現を踏まえつつ、感じる顔の気配を詠じている。「斐斐」という表現が嗅覚と共に視覚をも意味する面白さを含みつつも余り迷迭の香りを中心に据えてはいないように感じられる。韻補の引用についても香りは久しく留まらないことを詠じられていたり、同様の傾向が伺える。
 こういう傾向は次の王粲(177-217)にも伺える。[資料二─2](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 王粲「迷迭賦」)。王粲の「迷迭賦」の芳香表現は「揚豐馨於西裔兮」に見られこれが「去原野之側陋兮、植高宇之外庭」の前、すなわち中国にもたらされ目の前に植えられる前の段階の香りを詠んでいる。眼前にある迷迭を詠じた部分ではもっぱらその姿の美しさが視覚的に捉えられており、迷迭の香りを中心に据えているようには思えない。 陳琳「迷迭賦」では迷迭は「來儀」するものと詠じられていたが、「來儀」とは[資料二─2─(1)](尚書 虞書 益稷)に見える「鳳皇來儀」という風に本来、鳳凰の鳳来を意味するものだった。[資料二─2─(2)](芸文類聚 巻九十二 鳥部下 雀)では大雀を詠じたものであり、霊物はしばしば鳥の姿で描かれる。おそらくはそうであるからこそ王粲の「迷迭賦」の最後で「以孔翠之揚精」とあり「孔翠」、辞書によってはクジャクだったり孔鳥と翠鳥の二種類の鳥だったりするが、いずれも美しい鳥である。こうした視点から異国の植物である迷迭を描いたとするならば、そこには可視的に到来することが期待されるのかもしれない。こうした陳琳や王粲の営みというのはそれが作られた場にはっきり影響を受けている。これらは曹丕を主人とする主客的空間であることを示すことで理解できる。
 目の前で迷迭が香りを放っている表現は無いかというと、應[王昜](?-217)の迷迭賦がそのような視点からの描写が見える。[資料二─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 應[王昜]「迷迭賦」)。應[王昜]は「舒芳香之酷烈、乘清風以徘徊」と詠じている。「舒芳香之酷烈」という表現は[資料二─3─(1)](楚辞 王褒 九懐「蓄英」、漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」、文選巻十六 司馬相如「長門賦」の三つ)に挙げている前漢の作家に見られる表現を踏まえたもの。
 続いて曹丕(187-226)の迷迭賦に見られる香りの表現は應[王昜]の香りの表現にとても良く似ている。[資料二─4](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹丕「迷迭賦」)。曹丕の迷迭賦に見られる香りの表現は「隨迴風以搖動兮、吐芳氣之穆清」、この部分に現れている。風に順い迷迭が揺れ、その際に清々しい香りを吐き出す、と表現されているので、應[王昜]の表現と大きく変わるものではない。ただ一点、「芳草之樹」が詠み込まれていることだけが差異と言える。この表現の差異はそれほど小さいものではないと考えている。「芳草之樹」が詠み込まれていることがどういうことかというと、漢代の辞賦作品を例に挙げると、[資料二─4─(1)](漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」)で「吐芳揚烈」とあってそれを顔師古は「烈、酷烈之氣成」と注をし、「郁郁菲菲、衆香發越」については郭璞は「香氣射散也」と注を付けている。何れも芳香の氣だと注釈にある。あくまでも注釈の段階で「氣」と表現されている。時代が下ると表現が一般化される。司馬相如の段階では表現の目が現れてない。
 「氣」の字が香りとして用いられるのはどれが一番古いのか。曹丕「迷迭賦」に先駆けては一つしか見いだせない。[資料二─4─(2)](芸文類聚巻八十七 菓部下 [艸/劦]支 王逸「[艸/劦]支賦」)での「口含甘液、心受芳氣。」。味覚と嗅覚で感じられる「芳氣」。「氣」を香りとして表現した曹丕の例がもう一例、曹植には二例ある。[資料二─4─(3)](楽府詩集巻三十六 瑟調曲一 曹丕「善哉行」)での「清氣含芳」、(玉台新詠巻二 曹植「美女編」)の「長嘯氣若蘭」、(文選巻十九 曹植「洛神賦」)の「氣若幽蘭」。同時代の用例はこの二人にだけ見られるということから、曹丕兄弟は芳香の氣を意識的に用いられると考えられる。現存する辞賦作品から見るならば、王逸によって試みられた芳香の氣の表現を曹丕曹植が受託的積極的に採用したといえるかもしれない。
 「氣」の字を織り込むことによって曹丕曹植兄弟は何を表現しようとした、あるいは結果的に何が表現されたのか。[資料二─4─(4)](説文解字一篇上、説文解字十一篇下)では「气、雲气也。」とされ、さらに「雲、山川气也。」とされる。こうしたものも合わせて考えると氣とは自然界に存在する雲気、水蒸気の立ち上る様子を表していた。可視的ではないことはないが可視的でもある。言い換えると名詞的でもあり形容詞的でもある。身体でも感じるものである。香りは充分に視覚では捉えられないものだが、決して実態のないものではない。王逸はまずそれを「芳氣」と表現し、曹丕曹植はその表現を継承する形で、いわば再発見してみせたといえる。芳香が「氣」の字と結びつくことにより、視覚だけではなく嗅覚や皮膚感覚でも捉えられるものとして強く意識されるようになったのではないか。曹丕兄弟は「芳氣」の詩語としての魅力に気が付いたことになる。視覚的に偏って表現されてきた香りは曹丕兄弟の手によって香りそのものに対する認識によって表現された。
 迷迭について曹植(192-232)のもう一つの辞賦作品がある。[資料二─5](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹植「迷迭香賦」)。残念ながら「氣」の字が見られない。ただそれでも「氣」の字を詠み込むことをどこかで通じるような感覚が詠み込まれている。最後の句に「順微風而舒光」とある。微風に順うの香りであるはずなのに曹植は光と表現している。実際、「舒光」という表現は漢代を通して視覚的になされているし、曹植自身も視覚として表現している。[資料二─5─(1)](楚辞 王褒 九懐「陶壅」、続漢書天文志上 注引 張衡「霊憲」、芸文類聚巻五十九 武部 戦伐 應[王昜]「撰征賦」、芸文類聚巻三十四 人部十八 哀傷 曹植「慰子賦」)。おそらくは[資料二─5─(2)](傅亜庶訳注『三曹詩文全集訳注』(1997年、吉林文史出版社)760頁)にみえる「舒光…謂迷迭香発出淡淡的幽香」という解釈だろう。つまり曹植は「舒光」という表現を香りの表現と寄り合わせるように詠じている。こうした表現がそれ以前になかったというわけではない。例えば「斐斐」という表現など。嗅覚と視覚にまたがった言葉の感覚がそれ以前にもあったことを示す。眼前の香りをどう捉えどう表現するかに曹植が研究したもの、そういったものを作り上げたい。曹丕兄弟の作品に見られる芳香の表現には香りそのものの性質として彼らが捉えたものとして、嗅覚に視覚や触覚が意識されて詠み込まれていることになる。

●三 おわりに──曹操の遺言とその後の香気

 [資料三─1](楽府詩集巻三十一 相和歌辞 平調曲 銅雀台題解)の「[業β]都故事」に曹操の遺言がある。「餘香可分諸夫人、不命祭」(余った香は夫人たちに分けてもよいが、(自分を)祭るのに用いさせない)とある。ある意味、徹底した曹操の態度。しかしこういった態度は息子の曹丕に受け継がれることはなかった。
 曹丕は帝位についた翌年には[資料三─2](三国志 呉書巻四十七 呉主権 「立登為王太子」の注に引く江表伝)に示した物品の要求を孫権にした。そこに「雀頭香」が見える。おそらくそれは[資料三─2─(1)](三国志巻四十九 呉書 劉[夕/缶系]太史慈士燮伝 士燮)に挙げられたような士燮から孫権へ届けられたものを見据えたものだといえる。その中に種々の香料があり、「雑香」という字が見える。
 最後に香気がどう伝えられたかについて。陳琳、王粲、應[王昜]が疫病に倒れこの世を去った年、217年に生まれた傅玄(217-278)は香りの表現を見ていく上で重要な詩人であると考えられる。曹丕兄弟の芳香の氣の表現が継承されている。[資料三─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 傅玄「鬱金賦」)と、その比較として[資料三─3─(1)](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 後漢・朱穆「鬱金賦」)。朱穆(100-163)の「鬱金賦」が傅玄の「鬱金賦」のほぼ三倍あまりの字数を用いながら、芳香の氣やそれと相通じる表現が含まれていないことを考えると、建安年間を通じてこうした表現が立ち上がってきてそれが次の時代の詩人に受け継がれたことがよくわかる。これ以降、芳香の氣が意識し織り込まれることが示唆されている。

 12時54分終了。

質問1
 迷迭という植物は今で言う何ということは判明しているのか。
回答
 結論からいうと、私自身ははっきりわからないが、「迷迭香」という植物は現代中国では「ローズマリー」とされることがある。「ローズマリー」とすると一応、理屈はあう。ローズマリーは南ヨーロッパの原産で、当時のローマ帝国(大秦国)の支配下にある。なんせ1800年前のことだから今の「ローズマリー」とするのは控えたい。

(※清岡の個人的な話。この時、何故か曹丕がローズマリーをくわえているイメージが脳内を駆けめぐり笑い出しそうになっていた)

質問2
(※清岡注、長くて頭に入らなかった)
回答
香料は漢代から熱心に使われていたと考えられる。もう一つの質問に関して。現存しているものからは蜀より魏の方が多い傾向にあっただろう。例えば鼓吹曲は魏や呉に残っているが蜀にはない。ただこれが実際になかったかどうかはわからない。それに関しては金先生の著作に詳しい。

<参照リンク>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

13時1分終了。

<次回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685

第2回三国志学会大会ノート2


  • 2007年9月 8日(土) 11:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,043
研究 1号館301号室の様子<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

 1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。
 そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。

○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)

 11時13分スタート。司会は中川先生。

●はじめに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。
 (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。

●一、対象とする「関羽文献」

 (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている)
 A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858)
 これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。

●二、「関羽文献」の「本伝」の内容
 いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。
●1. 呼称
 (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる)
 Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。
●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程
 (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている)
 『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。
 出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。
 「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。
→王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。
 「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。
→『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。
 関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。
→BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。

<参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/275

●3. 車胄を斬る
 『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。
●4. 秉燭達旦
 『三国志』にはない話。発表では割愛
●5. 義釈曹操
 『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響
●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード
 レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。
●7. エピソードの挿入位置
 エピソードが挿入された順番に関する違い。
 (1)孫権が蜀を取ろうとして劉備に阻まれる
  210年頃、劉備の入蜀直前(BDG) 215年単刀会前に過去を振り返る形(ACE)
※以下レジュメでは合わせて7項目のエピソードの挿入位置について文献を分類している。
 こういった感じでエピソードの挿入位置を比較してみておおざっぱにまとめてみると、
 グループIがACE、グループIIがBDGと分かれる。

●まとめ
 ACEの文献は比較のところであまり取りあげていない。これは比較的、歴史に忠実なため。序文で誤りを正すと書いている方針は史書に忠実であるといところを指す。グループIとFはいわば真面目な文献。関羽信仰に対し冷静な態度をとっている。
 グループII(BDG)の文献の特徴として1)関羽、劉備・張飛の呼称によって関羽を尊崇する気持ちを強く表し、2)王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく聖蹟図を収録し、聖蹟図に基づく説を本伝に採用し、つまり出所が怪しい説を盲信し採用していて、3)『三国演義』を中心に演劇などを含めた俗文学の影響を多く受けている。
→これらの三つの文献も序文の中で先行文献の誤りを正すと書かれている。BDGの編纂者にとっては関羽のあらゆる説をなにもかも本伝に取り込むことが誤りを正す行為だったんだろう。関羽信仰の熱烈な信者。特にBの文献の序文では夢の中で関羽にこういう本を作れと命令されたと書かれている。そのあたり、いかがわしさがある。
 関羽文献というものはそういう方針から大きく二極分化していったのではないか。

(※清岡が思ったこと。グループIIの方針を聞いたとき、Wikipediaの三国志のところで出没する通称「ルーツ君」を連想し、笑い出すのを堪えていた)

 11時50分終了。

質問1
 Dの義で曹操を許すというところ(華容道のところ。曹操が「今日當踐三舎之言。」というところ)は『三国演義』の影響とのことだったが、雑劇なんかでこういったことを言うところがあったと思うが、主に『三国演義』の影響か、もっと通俗的なものの影響なのか。(※清岡注。長くて殆ど聞き取れなかった)
回答
 華容道の場面で春秋を出すところは『三国演義』の影響。大枠としては『三国演義』の影響。

質問2
 関羽の外貌の成立について、荊州の関羽について(※清岡注、報告に関係ない長い質問で清岡の頭に入らなかった)
回答
 元の時代では既に関羽の外貌の徴候があった(白黒ながら)。(一例として)赤い顔というのは忠義の色と言われている。また日焼けの赤で、農民の色、関羽が庶民にとって身近であることを表す意味という説も。関羽の容貌が劉淵の容貌に準じている話(大塚秀高先生の説)
 (※清岡注 この後、荊州の関羽について懇切丁寧な説明があるも、質問の段階で理解できなかったので清岡の頭に入らず。最後に、インターネット上のコラム参照とのこと。下記リンク先)

<参照リンク>(中国情報局のコラム)「名場面と人物で見る三国志」完結
http://cte.main.jp/newsch/article.php/594

※追記 メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)

 12時2分終了

 事務局長(渡邉義浩先生)からの予定変更のご案内。
 午前の部は「建安文学における香りについて」までで、そこから昼休みというスケジュールに変更。あと昨日と同じく冷たいお水を用意している旨、一階下の201号室に書店が来ている旨、この建物の地下に食堂がある旨、今から10分ほど休憩がある旨のアナウンスがあった。

 舞台の向かって右にご自由に取れる研究紀要が置いてある本棚があって休憩終了前にそれを持って帰ってくれというアナウンスがあって多くの人(おそらく一般の人がほとんど)が本棚に群がっていったんだけど、その群衆の中に福原先生が混じって物色していたのは妙にユーモラスな光景だった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/684