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検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 121 - 150 / 426 件 (0.0114 秒). 検索条件の修正

121. 第2回三国志学会大会ノート6
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/688 (※清岡注、最後の発表とあって疲れて清岡の気力が殆どなくなっており、またレジュメ等で後日補間できなかったため、以下、かなり端折ったレポート内容となっている)  16時15分に紹介開始。  二松学舎大学の竹下先生から林田先生のご紹介がある。略歴や著作等。三国時代の文学がご専門だそうな。 ○「私の中の三国志」林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)  16時20分に開始。  最近、講談社から『史記・貨殖列伝を読み解く』という本を出した。そこで金文京先生の『三国志の世界』の本を頂いた。その本で林田先生が疑問に思ったところがある。卑弥呼が景初二年に使者を魏の明帝に送ったくだりで、「景初二年」と陳寿が『三国志』魏書東夷伝ではっきり書いており、(その使者が)帶方郡に着いたのは景初二年六月であると書いている。明帝は景初三年正月に亡くなるわけだから、景初二年十二月にすでに重体である(※「十二月乙丑、帝寢疾不豫。」『三国志』魏書明帝紀)。  そこでなぜ(卑弥呼の使者が来たのは)景初三年になるのか。京都学派では景初三年になっていたり、今の教科書では景初三年になっているものもある。景初三年の理由がいろいろあるが、一つは明帝が亡くなった、一つは景初二年の六月から遼東半島で司馬懿と公孫淵が戦を初め八月には鎮圧した、というのがある。卑弥呼の使者は景初二年六月に帶方郡につき三ヶ月足止めを喰らっていた。そして戦が鎮まった景初二年八月に少し時間をおいて出発したとしても、遼東半島とそして洛陽まで大体、三ヶ月強ぐらいだ。なぜならば、(『三国志』魏書明帝紀の注に引く『干竇晉紀』で)明帝の問いにはっきりと司馬懿が百日と答えている(「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」)。  曹操と荀[或〃]の話、文学の話など(※清岡注、この辺りの下りがほとんど清岡の頭に入らず)。  漢代の辞賦作品。詩経などだいたい儒教の教理に適っている。また教理に沿いながら詩経などを解釈する。しかし曹丕は違う。「文以氣為主」(「典論論文」)としている。文には個性がある。それまで、政治的なものが入ってきて文学が形成された。例えばヨーロッパでは19世紀の末、ある人物(※清岡注、名前失念)が初めてヨーロッパ文学は(カソリックの教理から)自立したといった。(三世紀の中国の文学で自立性が確立して)それがあったからこそより内在的になった(※清岡注、この後の下りがほとんど清岡の頭に入らず)  集英社の企画で、「中国の英傑」という伝記のシリーズがあって、林田先生は曹操の伝記を書きたかったとのこと。編集サイドとしては諸葛亮を書いて欲しかったとのこと。諸葛亮を精神的思想的な啓蒙型に位置づけた書き方をしようとおもったとのこと(※→中国の英傑(5)『諸葛孔明 泣いて馬謖を斬る』)。(司馬徳操など荊州での話)  三国時代というのは三国が争ったが、国境を越えて文学というのがある。 ※ここでA4一枚のレジュメにある話にうつる。レジュメには四つの引用があって、まず初めの二つについて。下記。 (1)胡沖呉歴曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫權、又以紙寫一通與張昭。                        (『三國志』卷二 文帝紀 注引『呉歴』) (2)呉歴曰、權以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致[鼠軍]子裘、明光鎧・[馬非]馬、又以素書所作典論及詩賦與權。                      (『三國志』卷四十七 呉主傳 注引『呉歴』)  素書の素は絹の意味。絹に典論や詩賦を書いて孫権に贈った。やはり孫権に知ってもらいためにわざわざこういうものを贈ったんだろう。(「以紙寫一通與張昭」に触れて孫権だけじゃなく張昭にも贈った、とし、張昭の話、陸機の話。血縁関係から陸機は張昭の書を見たんじゃないかとし、張昭が陸機に与えた文学的影響の話) ※レジュメの三番目についての解説に移る。 (3)呉書曰、紘見[木冉]榴枕、愛其文、為作賦。陳琳在北見之、以示人曰、此吾郷里張子綱所作也。後紘見陳琳作武庫賦・應機論、與琳書深歎美之。琳答曰、自僕在河北、與天下隔、此間率少於文章、易為雄伯、故使僕受此過差之譚、非其實也。今景興在此、足下與子布在彼、所謂小巫見大巫、神氣盡矣。紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰、前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。                      (『三國志』卷五十三 張紘傳 注引『呉書』)  それぞれ観賞したり、自分の書いたものを贈りつけたり褒められたりして、また喜ぶ、またそれが国境を越えていたというのは面白い。 ※レジュメの四番目についての解説に移る。 (4)翻與少府孔融書、并示以所著易注。融答書曰、聞延陵之理樂、睹吾子之治易、乃知東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物、察應寒温、原其禍福、與神合契、可謂探[頤の頁が責]窮通者也。會稽東部都尉張紘又與融書曰、虞仲翔前頗為論者所侵、美寶為質、彫摩益光、不足以損。                            (『三國志』卷五十七 虞翻傳)  17時27分終了  質問と回答(例の如く頭に入らなかったので略)  17時29分終了  事務局長から来年の開催日についてアナウンス。来年の三国志学会大会は9月14日。 <参照>第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催 http://cte.main.jp/newsch/article.php/658 ※追記 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日) ※追記 より深く理解するための「三国志」講座(2010年10月15日-12月24日) ※追記 図説 三国志の世界(2011年5月23日) ※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)  あと帰路についてのアナウンス。スクールバスは終わっているが普通のバスはあるとのこと。三点目として懇親会のこと。会場は前もったお知らせにあるグリーンスポットであったが、急遽変更し一号館の地下の食堂になったとのこと。四点目は二階で出店しているまだ書店が営業しているとのこと。 ...

122. リンク:「漢代における郡県の構造について」
※前記事 リンク:「胡広伝覚書」  下記の掲示板のツリーは五年以上も前の書き込みなんだけど、たまに思い出しては、手元の電子文献の『續漢書』百官志や『漢官儀』を対象に検索をしていた。こちらの読解力もあって納得できる答えに辿り着けないでいた。 ・三国・魏の「町奉行さま」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1359  それで前記事に書いたように、近頃、「佛教大学論文目録リポジトリ」を見かけ、興味のある論文を読んでいたんだけど、その中で前述の疑問に答えるような論文を見かけた。 ・佛教大学論文目録リポジトリ http://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/index.htm  それが下記の論文。サイト「CiNii」内のページへのリンクも掲げておく。前記事の段階では「国立情報学研究所 CiNii 本文リンク」が切れていたんだけど、どうやら復旧したようなので安心してリンクできる。 西川 利文「漢代における郡県の構造について──尹湾漠墓簡牘を手がかりとして──」(『文学部論集』第81号 (199703) pp.1-17 佛教大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006472990

123. 韋昭研究(2011年7月)
数日前に汲古書院よりフライヤが送られてきて、普段は下記のサイトで情報が更新されるまで待つのだけど、今回は三国に直接関係し、しかも孫呉ファンの需要が高そうな情報なのですぐ記事に。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ そのフライヤによると、汲古書院より2011年7月に高橋康浩/著『韋昭研究』(ISBN978-4-7629-2965-6)が6300円で刊行されたという。タイトルの韋昭は『三国志』巻卷六十五呉書に立伝される、三国呉の韋曜字弘嗣(204-273)のことだね。

124. 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)  前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。  会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。 ●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」  10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。  予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。 ○はじめに  南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。  現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。  南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。  問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。 ○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書  両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。  内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。 ○2. 墓誌引用公文書の内容  まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。  『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。 (※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた)  馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。  墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った?  文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。  わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。  梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。 (※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。  公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。 ○3. 各文書の書式等について  策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。  詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。  札の書式。時間の関係で省略。 ○おわりに  詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。 (今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。 そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。  11:30終了。 ※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 ※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日) ※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)

125. メモ:二つの学術刊行物
 私のような素人が、学術関連、特に史学関連の情報を知るのにとても重宝しているのは下記の關尾先生のブログ。ブラウザについているRSSニュースフィードで更新をチェックしている。  ※ブログのタイトルには当たり前だけど敬称がなく、ここで取り上げるときにはいつも付けているが、今回は紛らわしいので敬称略。 ・『關尾史郎のブログ』 http://sekio516.exblog.jp/  実は上記ブログ以外にも關尾先生には個人的な趣味のブログがあって、それが下記。タイトルの初めの文字が違うんだね。 ・『関尾史郎のブログ』 http://sekio402.exblog.jp/  『關尾史郎のブログ』の方で気になる刊行物を見かける(と今更のメモだけど)。 ・『西北出土文献研究』第5号,入稿間近! http://sekio516.exblog.jp/5341600  この号は「画像磚墓・壁画墓の特集号」ということでそれ自体、とても興味深いんだけど、その中でもとりわけ個人的には >小林 聡「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」 がとても気になる。進賢冠ファンの私としては興味深いし、中国古代服飾ファンの諸兄(?)も読んでおきたいところだろうね。幸運には「書店を通じて販売の予定」があるとのことなので、資金に余裕があれば購入したいところ。でも、下記のように第4号が出たばかりだからまだ先なのかな? ・『西北出土文献研究』第4号、刊行! http://sekio516.exblog.jp/5404246 <4月17日追記> 今更気付いたけど、ここを書いた夜に刊行の記事がアップされている。 ・『西北出土文献研究』第5号,刊行! http://sekio516.exblog.jp/5502972 1500円。ころあいを見て書店(東方書店とか?)へ問い合わせだな。 <追記終了>  刊行された『長沙呉簡研究報告』第3集を例に取ると、タイトルにある「入稿」の次に「刊行」ってのが来るんだろうね。 ・『長沙呉簡研究報告』第3集,入稿! http://sekio516.exblog.jp/5286728 ・『長沙呉簡研究報告』第3集,刊行! http://sekio516.exblog.jp/5357377  『長沙呉簡研究報告』第3集は第1集、第2集がそれぞれ国際シンポジウム後の論文集であったのと同じように、2006年9月17日の長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の論文集で、買っておきたいところ(また、あの地に足のついた三国時代に浸りたいね)。送料の関係から、前述した『西北出土文献研究』第5号とまとめ買いしたいところだ。 <追記> ・ご挨拶 http://sekio516.exblog.jp/5433102  上記のリンク先のように、実はブログを出版する話があったそうで、出版されるようであれば私は買いそう。学術史的にも後世、貴重な資料になるのでは、と。 ※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

126. ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日)
※関連記事 魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会(2014年12月6日)  上記関連記事で紹介したように、2014年12月6日土曜日10時より大阪府松原市 阪南大学本キャンパス50周年記念館3階会議室にて国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」が開催された。その日、清岡は午前中に別の用事があって、その後、できるだけ早く会場に赴き、何とか昼休み前に会場入りできた。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/ ・国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(12月6日)のご案内 http://6ch.blog.shinobi.jp/開催案内/国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(1  その部屋に入る前の廊下にて資料としてA4の冊子とA4のプリント(佐川先生報告分)が配られてあって、それを受け取り、部屋に入ると、ラウンドテーブルみたく、机を輪の形に並べてあって…それは比喩表現で実際には四角く並べてあって、ほぼ満席でどこか空いてないかと見回すと、四角の形の角に当たる部分、机ではない箇所が空いてあって、そのうちの一つの席に座る。ちなみに対角線上にある角の席は、清岡より遅れていらっしゃった福原啓郎先生が座られていた。 ※関連記事 三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)

127. 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)
・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・2008年公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」 http://sekio516.exblog.jp/8583706/ 上記ブログ記事から下記へ引用。 ※但し他のソースを参照しつつ日付を一部訂正。 --引用開始--------------------------------------------------------- 日 時:2008年10月11日(土),12日(日) 会 場:愛媛大学法文学部,8階大会議室 日 程:  10月11日:公開講演(愛媛大学法文学部人文学会との共催)―午後3時~6時   藤田勝久氏(愛媛大学)「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」   今津勝紀氏(岡山大学)「古代の荷札木簡について」 ミニシンポジウム  10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)   王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」   金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」   上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」 10月12日:研究発表―午後の部(午後1時30分~5時)   松原弘宣氏(愛媛大学)「古代交通研究の現状」   佐藤 信氏(東京大学)「日本古代の交通と出土木簡」   近江俊秀氏(橿原考古学研究所)「考古学よりみた古代道路研究」   シンポジウム「古代交通と出土文字資料について」   コメンテーター:角谷常子氏(奈良大学),谷口 満氏(東北学院大学) 入場無料・事前申し込み不要 主 催:愛媛大学「資料学」研究会,愛媛大学研究開発支援経費・特別推進研究プロジェクト,新潟大学超域研究機構プロジェクト,東北学院大学アジア流域文化研究所 共 催:愛媛大学法文学部人文学会  --引用終了--------------------------------------------------------- ・愛媛大学 http://www.ehime-u.ac.jp/ ここが「三国志ニュース」なもんだから、お見苦しいながらもいちいち関連性を説明しないといけないんだけど、シンポジウムの発表の取り扱う範囲に三国時代の前の漢代が含まれており、交通に関し共通することは多いのだろう。 というわけで、私が興味のあるのは12日午前中に集中している。 JRからの正式発表はまだだけど、例年であれば「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、今年もあるのだったら、それを利用して行くのもいいかも。土曜日を往路に当てて、日曜日に午前の発表を聴講しおえたら、すぐに復路に着くという方法。私の住居から片道10時間程度。 <9/11追記> というわけで下記のサイトによると、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は1枚3回分で9180円。利用期間は2008年10月4日-19日。 ・JR西日本 http://www.westjr.co.jp/ <追記終了> ※関連記事  国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)  三国志学会 第三回大会 ※追記 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日) ※追記 資料学の方法を探る(2011年11月26日)

128. 第2回三国志学会大会懇親会
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート6 http://cte.main.jp/newsch/article.php/690  17時35分、第2回三国志学会大会終了。  その後、清岡はピーターラビットの手提げカバンを貰い、早速、ノートPCを入れてみる。そうするとちょうど(というかギリギリ)入ったのでこれから活用するという予感を持った。  懇親会は18時開始とのことでまだ20分程度余裕があったため、知り合い皆で一階下の書店へ立ち寄る。  その後、懇親会行く組と行かない組に分かれたので、組同士互いに別れの挨拶をし、地下の懇親会会場へと向かう。  知り合いで懇親会に行く組は清岡、KJさん、USHISUKEさん、すでに会場に来ていた、しずかさん。今回は前回の懇親会に比べ知り合いが少ない。 <参照>三国志学会第一回大会懇親会 http://cte.main.jp/newsch/article.php/409  前回、初めのうちは知り合い同士で固まって話をして、場に慣れてきたら、徐々に交流を広げていたが、今回は人数的にそのパターンができそうにないんで、清岡はKJさんの後に着いていく宣言をしていた(笑)  そうすると何故か清岡、KJさん、USHISUKEさんで作戦会議みたいな感じになる(なぜ?・笑)  あと去年の小学生は今年は来てないのかな、なんて話していた(後で聞いた話だと今年も来ていたとの話。その持続力は素晴らしい)  それから三国志学会のサイトで前回の大会の様子が写真で出ていたとか話していた。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※今、見に行ったら、第2回三国志学会大会の写真もアップされている。初めの発表の会場の写真で150名ぎっしり人が詰まっている様子がわかる。  18時になると、石井先生から食事の場所へ入るように呼び掛け。あと乾杯のための飲み物の準備に対しても。  前回の懇親会と同じくバイキング形式+立食パーティー形式。  清岡たちが着いたテーブルには知り合い以外には、中林先生や福原先生がいらっしゃった。 ○懇親会(午後6時~)  そして懇親会は、狩野直禎先生からの乾杯のご挨拶から始まる。  一同「乾杯!」、そして満場拍手。  早速、清岡は料理を取りに向かっていた。  テーブルに戻るとKJさん、福原先生、しずかさん、USHISUKEさんが話していて、それに耳を傾けていた。KJさんからの地理の話から、福原先生が実際に南陽→新野→襄陽をバスに乗っていったとき、ちょうど新野が中間地点にあったとか、実際に言ってみると土地の実感がわくという話になっていた。さらにしずかさんの大河の意味合い的な話、区切るものか人の流れを促すものかとか。それからKJさんからNPO三国志フォーラムの紹介。  福原先生から『西晋の武帝 司馬炎』(中国歴史人物選3、白帝社)の執筆話。冗談っぽく「書かされた」って表現をされたんで思わず「書かされたんですか?」とツッコミを入れてしまった。どうも司馬炎の伝記を頼まれたそうなんだけど、それだけでは一冊は書けないと思われたらしく(関西弁で「書けるんかな、と思って…」)、結局、司馬懿から書いて、「ポスト三国志」の流れになった。それから(今の)中国のお酒の話からUSHISUKEさんが中国に旅行した話。 ※追記 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』  その後はしばし清岡、KJさん、USHISUKEさんでローカルトーク。ウェブと出版とのコラボレーションで成功している事例があるのかな、って話などをしていた。  ここで石井先生からアナウンス。折角、韓国から来て下さったということで李先生からのお話を伺う場となる。  李先生が韓国語がおっしゃって、金先生がそれを日本語に訳すって流れ。  ローカルトークをしていたら、しずかさんがKJさんに客人を連れてくる。どうも「三国検索」を結構、活用している方で、KJさんのことをネットで一方的に知っている方らしい。  その後、中林先生からお酒で倒れた時の武勇伝(?)を伺う。面白すぎ。  『三国志研究入門』を出版している日外アソシエーツ株式会社の小森さんと名刺交換。  その後、会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺う。  USHISUKEさんは昨年と同様、澤先生とマンツーマン状態で話し込んで居るんで、清岡はKJさんとローカルトーク続行。  そうすると、その二人の元へ石井先生が見知らぬ二人を連れて来る。どうやらサイト「徳本商会」の徳本さんとその知り合いの簡俊さんとのこと。しばしサイト管理の話やネット動向の話、ファン層の興味の移り変わりの話で盛り上がる。サイト管理の話ではサイトの寿命の話をしていたっけ。以前の話題を提供した。  その流れでKJさんから清岡の紹介があって、「長沙走馬楼呉簡 丘について」の課題ネタを振られた。いやさすがに初対面の人にこのネタは引かれるだろうと思いつつ言ってみるとやっぱり引かれ気味だった(笑)。  ここで会長の狩野先生がお帰りというアナウンスがあったので拍手。  サイト管理の話を再開する。簡俊さんから最近の三国志ファン層の興味深い話を伺う。やっぱり三国志大戦がメジャーだよな。  とりあえずKJさんが「NPO三国志フォーラム」はまだNPO法人化されていないんで、「NPO法人三国志フォーラム」ではないので間違わないように、と徳本さんに主張していたところにはなんか妙に笑ってしまった。その流れで「三国志連環」の話。やはりデッドリンクが多いと感じられていると徳本さん。そうだよな、あれはなかなか。  話の流れで簡俊さんとUSHISUKEさんを引き合わせる。そうすると、マンツーマン状態でその後も話していた。 ※追記 ノート6:三国志学会 第五回大会  その後、分かれ、再び会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺っていた。清岡とKJさんからはネットの知り合いに会った話をする。  てな感じで時計は20時近く。ここで石井先生のアナウンスがあって、最後は福原啓郎先生から締めの挨拶。  最後は第三回に向けてということで一同乾杯と満場拍手で終える。 ...

129. メモ1:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」
※前記事 メモ:ポータルサイト「三国志ワーズ」構想  アクセス集計は今のところ2007年9月中旬まで進んでいて、順調にいけば8月上旬で2007年分で終わり、そこからデータ解析に移る予定。集計している感じではトピックはいっぱいあるが、現代の三国創作とそれを支える社会の本質に迫り得るものが一つでもあるかどうかはまだ疑問が残る。  これが何のための作業かというと、下記、関連記事にある通り。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)  アクセス集計が当初の予測を超え時間がかかっているため、並行して発表原稿や発表資料を作成していった方が効率的だと思うようになる。その意欲を高めるためにこの記事を書く。表題に「メモ1」とあるものの、2以降があるかどうかは不明。

130. 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本サブカルチャー研究会 http://www.japan-subculture.com/top.html  上記サイトにあるように(※時間が経てば更新される可能性大)、2012年6月1月金曜日から3日日曜日まで国際学術会議 "Manga Worlds" : Subculture, Japan, Japanology「マンガ・ワールズ-サブカルチャー、日本、日本学」が開催された。その二日目までは神戸大学瀧川記念学術交流館が会場で使用言語は英語のみで、三日目は京都国際マンガミュージアムが会場で使用言語に日本語も加わり発表時の同時通訳と質疑応答時の逐次通訳も行われた。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/  その三日目の会場の各座席に予め置かれていたのが、その国際学術会議についてのアンケートと、「日本マンガ学会第12回大会」のフライヤだった。そこには下記の日本マンガ学会サイトの下記ページにあるようなプログラムが書かれてあった。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12  上記のページによると、2012年6月23日土曜日24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催されるという。参加費は、会員であれば2日間で1000円(学生会員500円)、一般であれば1日につき1000円(学生500円)で、懇親会は一律別途3000円だという。 ・明治大学 http://www.meiji.ac.jp/  ここで「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表だ。 それは  陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻]  日本における三国志マンガの翻案過程 というもの。「会場3」は13時から16時までの間に4報告あってそのうち最後は「ラウンドテーブル(90分)」であるため、この報告に30分が割り当てられているのだろう。ここでいう「三国志マンガ」の対象が、下記関連記事であげたような広く通行する横山光輝/著『三国志』だけ等、絞っているのか、あるいはデータベース消費を誘発するような『BB戦士三国伝』関連マンガ等も含めるぐらい幅広く取り入れられているのか気になるところだ。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会ノート1

131. 第2回三国志学会大会ノート1
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679  右隣でげんりゅうさんとしずかさんが中国史における降雪の表現みたいな話をしている。  やはり去年と同じく、金銭の授受がある受付で混んでいる模様。そのため、少し遅れ10時4分スタート。  駒沢大学の石井仁先生が司会。 ○会長挨拶 三国志学会会長 狩野 直禎  三国志学会の方針みたいなことに言及されていた。歴史だけじゃなく文学・思想などなど幅広い分野があり、また一般にも門戸を広げているってことなど。今回、発行された『三国志研究』2号についても。 ○報告(午前10時10分~午後1時) ○「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科) ●長沙走馬楼呉簡について  ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ  1996年に湖南省長沙市で出土した三国呉代の簡牘。公表されている簡牘の紀年は後漢中平二年(185年)-孫呉嘉禾六年(237年)。但し黄龍年間(229-231)、嘉禾年間(232-)に集中。主な内容は長沙郡ないし臨湘県(侯国)の簿籍・文書。総数は14万点以上。その中で図録本として刊行されているのは「嘉禾吏民田家莂」(以下、田家莂)と題される大型木簡2141枚、竹簡19636枚。 ●はじめ  走馬楼呉簡には倉庫関係の簡牘が多く含まれている   →倉庫や出嚢や物資の流通など、当時の地方財政システムの理解に寄与する  谷口先生の今までの研究   穀倉関係簿の整理・分類の初歩的作業(出土した時点ではバラバラなので)   地方倉における搬出や移送といった穀物財政の仕組み及び簿籍の作成過程等の検討  伝世文献中に当時の税制に関する資料は乏しいため、これらの検討で新知見が得られる   →簿籍簡牘に賦税などとして穀倉に入れられる穀物の名目の一つ「限米」について再検討(その性格を位置づける)    →孫呉政権初期の穀物財政及び支配のあり方の一端を伺う。 ●一、穀倉に収蔵される穀物名目の概観  公表されている簡牘にもられる穀物名目の概観について。  (1)田家莂とは納税者台帳であり、田地の面積と租税額、納税の確認などの情報が記されている(レジュメにはその一例の釈文と書き下しが掲載)  (2)賦税総帳木牘とは納入穀物の総帳。ある期間内に納められた総計と内訳が記される(レジュメにはその一例の釈文が掲載。所々、太字下線部になっていてどこが内訳を示しているかわかりやすくなっている)  (3)穀倉関係簿(竹簡)。穀物納入の証明書(莂)を編綴して簿としたもの(莂簿)、一ヶ月・三ヶ月ごとの出納帳(それぞれ「月旦簿」、「四時簿」)など。  →レジュメの別紙に上記の簡牘の写真があり、その紹介。  続いてレジュメに「走馬楼呉簡中に見える穀物収入名目」がリストアップされている。分類としてa「税米」・「租米」(上記の(1)(2)(3)より)、b「限米」( (2)(3)より)、c官有物売却の代価としての米( (3)より)、d貸与返還米( (3)より)、e折咸米( (3)より)  「○米」の丘に「禾(アワ)」「粢(キビ)」「麦(大麦)」「豆(大豆)」なども見える。そのため「米」はイネのことと思われる。 先行研究に基づき簡単に分類  上記aは「田家莂」におると「吏民」(※吏と民以外にも卒なども含む総称)の田に課される米。米の他に布・銭も課されていて、それぞれを米で代納したのが「田畝布米」「田畝銭米」   →一般吏民に課せられた賦税と考えられる。  cは塩などの官有物を売却し、代価として得た穀物収入。「鹽(賈)米」  dは穀倉から貸与されていた穀物を民が返還したもの。「民還貸食米」。新規の収入ではない。帳簿上、他と区別。  eは輸送の過程などで失われた穀物を後日補填したもの。d同様、新規の収入ではない。  bの諸「限米」は身分呼称が冠されるのが特徴(例「衛士限米」)。   三説ある。1)国家の「正戸」でない者に課された米。最初に言われた説。「田家莂]」に記載されているのが「正戸」という理解に基づく。    2)屯田従事者が納入する米(「屯田限米」という記載があるから)。    3)「屯田限米」は屯田に関わる地租で、その他の身分は王族などの依附民が納めた地租  この三説に対するポイント  ・「屯田限米」以外の「限米」も全て屯田に関係すると考えるか否か  ・“「正戸」でない”、“依附民”などとされる「限米」納入身分者が名籍中にどうみえるか  →これを再検討(先行研究があるものはレジュメの後で提示) ●二、「限米」の納入状況と田 ...

132. メモ:「漢代明經考」
※前記事 メモ:「両漢時代の商業と市」  旧年の11月頃、官吏の登用制度が気になっていて、下記関連記事のように「2009年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』14冊にあった、この記事で紹介する論文を読んでいた。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況  結局、下記の関連記事のようにそこから辿って読んだ同著者の論文で孝廉の一側面について知ることができた。 ※関連記事 リンク:「胡広伝覚書」  登用制度全体は下記に示す論文であれこれ知ることができた。常科と制科の区別とか。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』Vol.54 No.4 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276  この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1200円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/

133. メモ:「東洋史研究会大会」出店状況
・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/ ・2009年度東洋史研究会大会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/contents/taikai2009.html ※関連記事 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート  上記サイトのページにあるように2009年11月3日火曜祝日に「2009年度 東洋史研究会大会」があって、上記関連記事の昨年と違って、今回は個人的に興味のある発表がなかったものだから、行かないつもりだったけど、知人とその話をしていたら、(本人は否定するだろうが)誘われた形になったものだから、足を運ぶことになった。結果的に漢代と南朝に関する三報は自分の興味範囲に入っていて興味深く聴けたんで良かったんだけどね。  それでもそれらの発表についてノートなり何なりこのサイトに情報を残すことはサイトの主旨に大きく逸脱しそうなので、どうするかは保留する。それよりサイトの主旨に近いと思われる、書店の出店についてメモを残す。この記事から『三国志』関連の専門書をネットを通じ探す際に活用してくれると幸い。

134. メモ:後漢時代の私塾に関する基礎的考察(史料批判研究 9号 2010年12月)
※三国関連の前記事 メモ:曹豹さんを囲む会(仮)(2013年5月4日) ※前雑記 ・メモ:亜種一周片道乗車券 http://cte.main.jp/sunshi/2013/0426.html  上記のリンク先のように一週間も経たず、今度は東へ出かける。当初はその二週間後に同じく東に出かけるため、上記の雑記のようにまた一筆書きの一周片道乗車券、しかも往復を選ぼうとしたが、有効期限を考えるとどう考えても価格的に割りに合わないので普通に高速バスの2往復を選択する。  2013年5月10日10時30分京都駅発の高速バスに乗り込み、バスの中では終わりの見えない大型連休のレポを書き始める。ちょうど上記の雑記からリンクを貼っているページがそれらに当たる。  18時ぐらいに東京駅日本橋口に到着し、そこから160円で丸ノ内線に乗り大手町で半蔵門線に乗り換え、神保町で降り、A7出口へ向かい、少し雨が降る中、通りを歩き、東方書店へ到着する。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/  下記関連記事で触れたように、夢梨さんとの話で、論文、照内崇仁「後漢時代の私塾に関する基礎的考察」(『史料批判研究』第9号、史料批判研究会2010年12月)のことを思い出していた。国立国会図書館に行けば読めると思っていたが、ちゃんと検索してみると、蔵書がなく、あれこれ当たると東方書店に置いてあると知り、用事のついでにその書店に寄ろうと決める。 ※関連記事 メモ:第18回三顧会 前夜祭(2013年5月3日)  それでいざ書店に入ってみてあれこれ本棚を見て回っても、目的の学術雑誌が見当たらない。しばし粘ってみたが、諦めて店員に尋ねてみて探して貰うことになった。  その待っている間の様子は下記関連記事に書いたとおりだ。 ※関連記事 六朝詩における「銅雀台」(中国詩文論叢 第31集 2012年12月)  それで出して貰った、下記リンク先に情報のある『史料批判研究』第9号。3150円。308頁もあり、思ったより分厚く一瞬、怯んだが、そのまま購入する。 ・国内書 史料批判研究 第九號【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900008555&bookType=jp

135. 三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学)
※関連記事  三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)  三国志学会 公開講演会(2009年9月6日)  三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)  三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日) ※追記 三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日) ※追記 三國志研究第五号(2010年9月11日) ※追記 非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像(2010年10月31日) ※追記 十大三国志ニュース2010 前編 ※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日) ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/  上記サイトの「大会ご案内」のページで昨年の大会プログラムが残っていて、当然、清岡の名前もあるもんだから、有り難くも恐縮していたので、いつ今年の分へ変わるのか結構、頻繁にチェックしていた。  今日、見てみると、昨年と違い、日時、会場、プログラム共々、今年の分へ一気に更新されていた。  というわけで、「三国志学会 第五回大会」は2010年9月11日土曜日に二松学舎大学 九段キャンパス3号館 3021教室(東京都千代田区)にて開催されるという。昨年、「三国志学会 公開講演会」が行われた所と同じ大学のキャンパス。あと大会に合わせて機関誌『三国志研究』が発行され、今回は第五号だね。(個人的な話だけど、日程的に往路は青春18きっぷを利用できそうだ)。 ・二松学舎大学 http://www.nishogakusha-u.ac.jp/

136. 「長沙呉簡の世界」ノート3
・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/425 ○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」  11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。  本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。 1. はじめに ※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。  『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか?  しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。 2. 長沙呉簡名籍の検討  いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。 (1)名籍にみえる「戸」と「家」 ※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。  「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。  民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。 ※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。  この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。 (2)名籍の書式  名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ  例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。 (3)名籍にみえる戸人と戸数・口数  戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。  さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。 3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察  復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。  まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例  他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。  ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。 4. むすびにかえて  民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。  12時30分終了。  時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。 ○昼食・休憩(12:25~13:30)  予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。 ・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/448

137. 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)
※関連記事  メモ:三国志関連のネット上地理感覚  石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)  曹全を追え  上記関連記事にあるように、主にデータベース「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」について「三国志ニュース」で度々、京都大学人文科学研究所漢字情報研究センターに触れてきた。  下記、東アジア人文情報学研究センターのサイトによると、「今春4月に漢字情報研究センターは、東アジア人文情報学研究センターに改組」したという。というわけで「三国志ニュース」内のリンクページを修正。 ・Center for Informatics in East Asian Studies, Kyoto University http://www.kita.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ※関連記事  京大人文研漢籍セミナー2 三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む  2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ ※追記 十大三国志ニュース2010 前編 ※追記 中国古代刑制史の研究(2011年1月)  また、漢字情報研究センターと言えば、上記関連記事にあるように毎年三月に開催されている「TOKYO漢籍SEMINAR」を思い出すんだけど、それに関するページも東アジア人文情報学研究センターのサイトに引き継がれているね。

138. 第2回三国志学会大会ノート5
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート4 http://cte.main.jp/newsch/article.php/687 ○「韓国における三国志演義の受容と研究」李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)  14時59分開始。  壇上には李先生と金先生が立ち、手元のPCでスクリーンに論文(漢字でかけるところは漢字で書かれている)を映し出す。李先生が発表し、それを順次、金先生が訳していくスタイル。  その前に李先生に登壇して頂いた理由について金先生から説明。  昨年は中国の研究者からの講演があったので、渡邉先生から三国志を伝統的に愛唱しているところは中国以外に、日本、韓国、ベトナムがあり、韓国が三国志の歴史的状況、現在の状況を考える上で重要だとのことで、韓国で研究されている方がいたら紹介してほしいということになった。そのときは思い付かなかったので去年は中国の学者の方ばかりとなった。 ※参照リンク ・三国志学会第一回大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 ・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/374 ・2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感 http://cte.main.jp/newsch/article.php/388  今年はちょうど李殷奉さんが韓国の三国演義研究で博士論文を書かれて金先生の元へもってきたので、ご講演して頂くこととなった。  講演開始。  『三国演義』の重要な版本として嘉靖本、(※清岡注。他二つ聞き取れず)、毛宗崗本などがある。韓国に『三国演義』が入ってきたか正確な年はわからないが、地理的に近いので恐らく中国で出版されほぼ同時期に韓国にもたらされたと考えられる。それを改刻・復刻した形で韓国において刊行され、小説ではあるが歴史小説であるため漢文を理解する読者に人気を博した。民間では壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のときに援軍として明の軍隊が来る。先の講演でもあったように明代の軍隊が関羽を信仰しており、関羽信仰を韓国へもたらし、そのため関羽信仰と共に三国演義が流行り、『三国演義』の筆写本、印刷されたものが流布することとなる。印刷されたものは経済的に制約で『三国演義』の中身全て出版されることがなかった。これが韓国の特徴で、人気のある面白い部分を取り出しそれを改作するということが流行した。そのため原作にはない内容、『三国演義』とは違う新しい物語が韓国で作られ出版される。近代になると日本からの活版技術が輸入され、それにより活字本でたくさんの『三国演義』の異本(韓国での創作が含むもの)が出現するようになる。こういった異本は大部分、読者が好む人物、興味深い事件を取り出し再構成したものであるために、歴史事実や大義名分が希薄になり興味本位なものとなり、『三国演義』は非常に多様な形態(小説、軍談、詩)で韓国で流布した。  ここでは韓国の文化全般に多くの影響を与えた『三国演義』がいつ韓国に伝わったか、当時、伝わった版本は何なのか、また韓国で独自に発達した『三国演義』の異本はどういったような影響を受けたのか、を簡単に紹介する。前述したように『三国演義』が入ってきた正確な年代は判らないが、一番、古い記述としては高麗時代に『老乞大』(ろうきつだい)という中国語の教科書の中で『三国志平話』を買う場面がある。これが『三国志平話』について最も早い貴重な記録だ。これ以外は嘉靖本の序文に出てくる。『三国演義』の記述は『朝鮮王朝実録』の1569年6月1日の記事に出てくる。これが『三国演義』が韓国に入った最も古い記述。王様に対して大臣がある事柄についてそれは史書に書いているのではなく『三国演義』に書いていることだと指摘し、小説でそういうものを引いてはいけませんと諫める記述内容とのこと(※清岡注。講演では具体名が挙がってもっと詳細なものだったがメモを取れず)。嘉靖本が出たのが1522年なので、恐らく嘉靖本が朝鮮に入って来たのだろう。但し現在、韓国には嘉靖本はないので、韓国に残っている最も古い『三国演義』は恐らく周曰校本をカイホウした耽羅刊本である(この後、版本に関することについて)  周曰校本以降、毛宗崗評本が入ってきて流行するが、その入ってきた年もよくわからない。粛宗の時代(1674年-1720年)のころだろうと推測されている。1681年-1768年の人物(※清岡注。名前失念)の一種の随筆に、「『三国演義』は刊行され広く読まれ家ごとに読まれており、過去の試験問題に『三国演義』が出ているがこれは全く恥ずかしい話である」というような記事がある。この時代、『三国演義』が非常に普及していたことがわかる。ある本(※清岡注。名前失念)では毛宗崗評本を全部、写しているのでこの時期には毛宗崗評本が入ってかなり普及していた。  韓国で出た毛宗崗評本は『貫華堂第一才子書』という題名になっている。中国で出た毛宗崗評本は最初に「シュウゾウ三國志演義」となっているが、韓国の本では「貫華堂第一才子書」になっている。中国の版本では十行二十一字になっているのに対し韓国の本では八行十五字になっている。本文の方は巻一から巻十九まで行数字数、字の形に至るまで中国ででたものは同じ。毛宗崗評本は中国で刊行されるたびに巻数は字面が変わってきてるのに対し、韓国の方の本文の部分は十九巻、十二行二十六字と一致して、中国の十九巻本と一致する。それ以外に韓国で刊行された満州語の教科書に『三国演義』の満州語の翻訳の中から十回分の翻訳を選んで教科書に使っている。これはそれ以前の版本(底本は嘉靖本)を使っている。  このように遅くとも1560年以前に『三国演義』が韓国に伝わっている。17世紀末には韓国語に翻訳され満州語との対訳になっていた。『三国演義』が韓国に伝わって、国王はもちろん士大夫たち、民間の女性・子供たちに至るまで三国志を興味を持つ階層は多様に渡っている。漢文を読む士大夫たちはそのまま読めたが、民間の女性や子供たちに対してはは(日本の)講釈師のような人が講談をし三国志を伝えた。17世紀の末には一部ではあるが『三国演義』が韓国語に翻訳され読者層拡大に寄与した。翻訳されたものを筆写する人がこの時代には居た。例えば1671年-1759年の人物(※清岡注。名前失念)の記録を見ると、ある人物(※清岡注。名前失念)のお母さんが『三国演義』を自分で筆写したという記録がある。女性は当時、漢字は書けないので、ハングルを筆写したのだろう。1690年-1742年の人物(※清岡注。名前失念)の文集に「娘たちに歴代の演義類の本を通じて歴史を教え見識を高める必要がある」という記述がある。17世紀末にはハングルで翻訳された『三国演義』が女性たちにより筆写されていたことがわかる。このようにハングルで翻訳された『三国演義』は筆写本以外にも旧活字本などいろいろな形態を通じ大衆の中へ多くの人気を得ることになる。  韓国語で翻訳された『三国演義』は17世紀末にはあったと思われるが、現存するもので一番、古いものは19世紀末から20世紀までのものしか残っていない。毛宗崗評本を翻訳したものが大部分。その中で一つ特徴あるものは「楽善斉」(王室の図書館)に18世紀に翻訳された思われる筆写本がかなり多くある。その「楽善斉」に『三国志通俗演義』三十九冊が残っている。これは諸葛亮が征討するときに軍内に関索が登場しない特徴がある。ここだけをみると嘉靖本を底本として翻訳したものに思われるが、但し、それ以外、周曰校本だけにある内容が見られる。一概に嘉靖本だけとは言えない。さらに嘉靖本と周曰校本両方にない内容が見られる。それはどうも韓国で付け加えたものだ。例えば「梁父吟」の詩は『三国演義』では全然違う内容だが、この楽善斉本では『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引くもの(※清岡注。『藝文類聚』卷第十九 人部三 吟に記載)になっている。中国の『三国演義』で「梁父吟」をこのようにしたものはおそらく無く、おそらく訳者や筆写した人が歴史書を見て書き替えた可能性が大きい。  商業出版が盛んになった19世紀に入ると、韓国の『三国演義』に新しい傾向が出てくる。それは『三国演義』全体を出版しそれを買うというのは経済的理由で難しいということで、人気のある一部を選んで、さらに新しい話を付け加え、元の『三国演義』とは全然違う話にしてしまう傾向。これは中国ではあまりない傾向で、韓国のこの時期の一番の特徴となる。  独自に作られた話をもう少し詳しく紹介。ソウルで出版されたもので毛宗崗評本の第四十九回から第七十二回に相当する韓国語に翻訳したもので、前半は毛宗崗評本と同じだが、後半になると内容が『三国演義』と全く違ってくる。趙子龍を主人公とした小説となっていて、戦争で敗れた将軍が劉備に復讐しようとするが趙子龍と諸葛孔明の活躍により撤退するという話。原作にはない全く話。大部分が『三国演義』でモチーフだけ持ってきて趙子龍を中心として加工した話になっている。そういうものとして旧活字本の『趙子龍伝』(1917年)あるいは『山陽大戦』『三国大戦』というものが出版されている。いつ創作されたかはわからないが、ソウルで出版された三巻本の『三国演義』にソウルの地名の記載があり、1859年以前につくられたと考えられる。それが現在、完本(全集のこと)として残っている。  もう一つの例を紹介すると、韓国語に訳された『三国演義』の下篇に、『孔明先生自筆』(※清岡注、聞き間違いの可能性あり)という諸葛亮に関する話がある。諸葛亮が南陽で弟の均と一緒に暮らしていて、黄承彦の娘と結婚してその奥さんからいろいろな術法を習うといった独特な構成になっている。諸葛亮を中心した話というより黄夫人を中心とした話として展開する。この小説は三顧の礼と最初の戦闘の話と結合し旧活字本の『黄夫人伝』という独自の物語として出版されている。  もう一つ紹介すると、ソウルで出版されたとされる『桃園結義論』という本がある。毛宗崗評本の第二十回から第三十回を説略したもの。その中に『三国演義』には載ってない関羽が貂蝉を斬るという話が載っている。これは明代の芝居の「関大王月夜斬貂蝉」を少し変えて載せたのだろう。  このように韓国語で翻訳された『三国演義』は19世紀に商業出版が盛んになると全部ではなくその中の一部分を取り出し、それを改作するというのが流行った。そのために元の『三国演義』の内容形態のものになる。中国では毛宗崗評本が最後の改訂版でこれ以降、話を変えたものは出ないし故意に内容を変えたものはでないが、韓国では全体をばらし一部を取り出しそれを違う話にどんどん作り替えてしまう(再構成してしまう)ということが流行った。これが韓国の当時の『三国演義』の大きな特徴で、そのため、歴史全体の三国志を見渡し、歴史小説としてあるいは教訓(大義名分)を読みとるとかの『三国演義』の柱になるが、当時の韓国ではそういうものよりかは個々の細部の話を興味本位に娯楽とする側面が強調されている。これが韓国での読者層の変化、『三国演義』への認識の変化をもたらしている。  15時51分終了 質問1 (※清岡注。長いので頭に入らなかった。訳す金先生もたいへんだと思った)  現在の韓国ではどういったものが伝わったり人気があったりするんでしょうか 回答  いくつかの漫画が流行っている。日本語版を写したりということ。小説は流行作家が書き直したものがある。この小説がよく読まれている。中国では現代作家が書く三国志ものはないので、これは日本と韓国の共通したところだ。  15時56分終了。  15分休憩。  このころになるとすっかり外は晴れていた。 <次回>第2回三国志学会大会ノート6 http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

139. リンク:『法制史研究』『書学書道史研究』
※前記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」 ・枕流亭ブログ http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/ ・『法制史研究』PDF  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100224/p1  上記ブログ記事で知ったこと。  下記のように独立行政法人科学技術振興機構(JST)運用で、電子化した学術雑誌を公開しているサイトがあるそうな。 ・Journal@rchive http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/  冒頭でリンクしたブログ記事では『法制史研究』掲載の論文(PDF)へいくつかリンクでまとめられている。それを見ても、下記の『法制史研究』のページを見ても両漢三国志西晋の法制史関連の論文が結構、ありそうだ。1951年から2003年までの分が読める(つまり新しい年の分は見られない) ・法制史研究  (※「Journal@rchive」内ページ) http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnltop_ja.php?cdjournal=jalha1951  それで下記の公式サイトを見に行くと、ちゃんと「法制史研究の電子アーカイブ化に伴うお知らせとお願い」のページがあるね。公開に関しては「刊行後5年を経過した時点」が目安だそうな。乱暴に言ってしまえば、拒絶を表明しなければ公開する的な電子化方針だね。 ・法制史学会ホームページ http://wwwsoc.nii.ac.jp/jalha/  あと三国時代あたりが関連する学術雑誌としては下記の『書学書道史研究』が挙げられる。1991年から2008年までの分が公開されている。三国志関連では例えば福宿孝夫「日本出土「魏紀年」四鏡の銘文と字体」(Vol.1991,No.1(1991) P.3-15)とか。割合としては少ないが。 ・書学書道史研究  (※「Journal@rchive」内ページ) http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnltop_ja.php?cdjournal=shogakushodoshi1991 ・書学書道史学会 - -書道史研究- http://shodoushi.s314.xrea.com/

140. 三国志学会第一回大会ノート3
・三国志学会第一回大会ノート2からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/399  時間がおしているので休憩なしでそのまま。会場のホールでの空調の調子は悪いが、皮肉なことに一階上の控え室はガンガンにクーラーが効いている、と渡邉先生の小粋なアナウンスが入る。  お次は文学の研究とのこと。建安文学がどういう位置づけかとのこと。あと和田先生のご紹介。 ○和田英信(お茶の水大学助教授)「建安文学をめぐって」  レジュメは縦書きの2ページ。丸で囲った数字が全部で16あり、それぞれの数字の下に引用した文が載せられている。建安は後漢の年号。建安期を代表する文学者、曹操、その息子、曹丕、曹植、その周りに集まった王粲といった詩人たち。 (1)李白の詩で建安のことが詩でうたわれている。建安は中国の文学の中で特別な位置。建安はその他の時代と異なる。  建安期以前の詩とはどのようなもの? そのほとんどが古詩あるいは樂府と呼ばれる作者不詳の詩。 (2)(3)現在見られるものの例、『文選』にある「古詩」十九首など。 (4)樂府とは音楽と共にうたわれたもの。例として『宋書』樂志にのっているもの。  古詩あるいは樂府はいつどのようなにつくられたか、はここでは論じないが、建安の詩人たちの土俵になったことは間違いない。曹操の作品は現在、樂府にカテゴリーに分類される。  古詩・樂府と建安を隔てる大きな違いは作品に署名があるかどうか。 (5)(6)  なぜ建安期によってかわったか。どのようにかわったか  建安期以降、歴史時代にはいったという考え(※漢字あってるかな)  具体例。(7)古詩と(8)曹植の詩の比較。 (7)「古詩十九首」其三。洛陽がにぎやかな代名詞としてあげられている。ここではかならずしも実在の洛陽でもなくてもよい。 (8)曹植「送應氏」二首其一。應氏が実在の人物。作者と作品とが関係。董卓の時代(190年)に宮室が焼かれた洛陽が描写される。ここでは洛陽を他の場所におきかえることができない。  人物に関して(3)古詩と(9)曹植の詩の比較。古詩の中に描き込まれる人物は神仙、神話上の人物など特殊な人物がほとんど。 (3)「古詩」十九首其十五。仙人がでてくるが不老不死の代名詞として出てくる。 (9)曹植「贈丁儀王粲」。二人の人物がでてくる。その人そのものを指す。具体的背景のその人たちへのメッセージ。作者と作品の関係は署名だけではなく詩のうたい方にも現れている。詩のあり方がかわったから、作者の署名が加わるようになったと考え方もできる。  建安以降、あらゆる詩がこうなったというわけではない。 (10)曹植「贈徐幹」。(個性を有した)徐幹を生き生きと描くのみならず、そういったメッセージを贈った作者そのものも生き生きと表現されているようだ。  建安以降、文学は個を表現するようになった。  建安期以降、詩が極めて具体的な政治状況で詩がくみ出されること。 (11)曹丕「令詩」。詩は明らかに政治的な文脈で書かれている。 (12)曹丕「至廣陵於馬上作詩」  曹操も政治的な作品をつくっている。政治的アピール。(13)曹操「短歌行」(14)「苦寒行」  (12)と(14)に東山詩が組み込まれている。 →そういう意味では文学は政治に従属するようになった? (15)典論論文の文学至上主義はそういう文脈でみると… (16)『文選』にみられる建安期の詩人 ○質疑応答 ※清岡が失念。文学と政治の話が司会と報告者で延々と応酬される。その後、質問者が一人。 ・三国志学会第一回大会ノート4へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/401

141. 三国志学会 第四回大会プレノート
※前記事 メモ3:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」  2009年9月5日に「三国志学会 第四回大会」を聴講したんで、いつものように「三国志ニュース」にノートを書いていこうと思うんだけど、その前に今回、私は報告者ということもあり記録の意味でも、当日までの経緯を書こうかと思う。特殊ケースなので誰かの参考になるとは思えないけど、何かの役に立てれば幸い。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)

142. 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復  2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。  ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。  以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。 ●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)  まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。  次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。  まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。  まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。  氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。  もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。  辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。  「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。  (※省略)  16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。  まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。  東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は?  大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。  福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。  「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。  原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。  この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。  それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。  涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。  中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。  北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。  (※省略)  辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。  (※省略)  17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。 ●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)  この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。  17:43閉会。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)  以下、余談。  というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。  帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。 ・日経スペシャル ガイアの夜明け http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/ ・MOS BURGER http://www.mos.co.jp/  そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。

143. 三国志研究入門(2007年7月25日)
日外アソシエーツというところから2007年7月25日に渡邉義浩先生/著、三国志学会/監修『三国志研究入門』という本が刊行されるとのこと。2300円。 ・日外アソシエーツ http://www.nichigai.co.jp/ ・三国志研究入門(上記サイト内紹介ページ) http://www.nichigai.co.jp/sales/sangokushi.html 上記ページを見ると、「三国志研究」とは言っても「歴史・文学・思想それぞれに焦点をあてて」いるようで、ここらへんは監修の三国志学会の取り扱う領域を反映しているようだね。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ・『三国志研究入門』 http://www.daito.ac.jp/sangoku/book.html ※このページによると三国志学会の学会員は特別価格2000円になるとのこと。300円安。 目次などを見るといろんな単語がピックアップしてあって興味深い。個人的には思想のあたり馴染みがないので、触りだけでも知りたいところ。日外アソシエーツのページでは「序」を見ることができ、またそのページからはPDF形式で本文見本を見ることができる。本文見本で上げられているのは「第一部 研究入門篇」の「I 三国志をより深く知るには」のところ。監修とあって三国志学会中心の書き出しで、ここらへんこの本の意図するところ(仕掛けようとするところ)のシステマチックなものが見え、面白いね。 この見本で知ったけど、『三国志研究』第二号(三国志学会第二回大会のときに発行)に去年の三国志学会第一回大会で講演のあった「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」の翻訳が載るとのこと。版本の細かい話とか判りづらかったので、ありがたい。 ・三国志学会第一回大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 ・三国志学会第二回大会のプログラム発表 http://cte.main.jp/newsch/article.php/636 ※追記 三国志研究要覧(2011年9月復刊) ※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日) あまり関係なさそうだけど、三国志ジャンルの「歴史・文学・思想」というと創文社のPR誌『創文』で「三国志の世界:思想・歴史・文学」というシリーズを連想するね。私は未読だけど。 ・三国志の世界:思想・歴史・文学(『創文』) http://cte.main.jp/newsch/article.php/627 <7月25日追記> ・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・購入(07/07/25) http://sekio516.exblog.jp/6160684 あ、そうか、復刊希望の多い『三国志研究要覧』のリニューアル本と捉えるのが自然だね。

144. 中国古典文学と挿画文化(2014年2月)
下記のTwitter Accountの下記のStatusで知ったこと。 ・敎団 (Vitalize3K) on Twitter http://twitter.com/Vitalize3K ・Twitter / Vitalize3K: @sangokushiforum ... http://twitter.com/Vitalize3K/status/431857827091476480 下記の出版社サイトの下記書籍ページによると、勉誠出版より2014年2月刊行予定で瀧本弘之・大塚秀高/編『中国古典文学と挿画文化』(アジア遊学 171、ISBN978-4-585-22637-6)が2400円(税別)で発売するという。もちろんタイトル通り『三国志演義』を含めた三国小説の挿絵文化についての論文も含まれている。 ・勉誠出版 --HOME http://bensei.jp/ ・中国古典文学と挿画文化 : 勉誠出版 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100312

145. 『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)
※関連記事 リンク:「胡広伝覚書」  上記関連記事で2009年度東洋史研究会大会の総会で『東洋史研究』のWeb上公開の議案が承認を得たという話について触れた。  下記ブログ記事によると、それがWeb上で公開開始されたという。 ・古代中国箚記 http://ancientchina.blog74.fc2.com/ ・『東洋史研究』PDF版、公開  (※上記ブログ記事) http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-421.html  それは下記サイトの下記ページにリストがあって、そこから各巻各号のページを辿れ、さらに各論文ページとPDF形式の各論文にリンクが張られている。 ・Kyoto University Research Information Repository: ホーム http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/ ・Kyoto University Research Information Repository: 東洋史研究 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138102  上記ページを見ても判るように、下記の「KURENAI update」のページによると、「KURENAIでは、雑誌の発行から3年経った号を公開していきます。現在63-66巻(2004-2007年)のみ公開しておりますが、バックナンバーも順次、登録していく予定です。」とのことで、2011年3月10日から公開開始しているようだ。上記ページで確認をとると、今のところ、さらに1-14巻、26巻1号、26巻3号が公開されている。 ・京都大学図書館機構 - KURENAI update : 『東洋史研究』をKURENAIから提供開始 by dlkyoto http://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/modules/wordpress2/index.php?p=102 ※追記 赤壁地名考―孫呉政権と江南の在地勢力(2011年11月3日)

146. 三国志学会 第四回大会ノート5
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート4  15:31。総合司会の石井先生から再開のアナウンスがされる。講演の司会は二松学舎大学の牧角(竹下)悦子先生とのこと。  牧角先生より川合康三先生の経歴の紹介が入る。川合先生は中唐文学研究会(現、中唐文学会)を立ち上げたという。文献史料や作家の歴史をおさえた上で、最終的に文学性を追求する立場にあるのがその特長だという。「三国志学会へは昨日入会した」そうな。  拍手の中、川合先生が登壇される。  レジュメはA4の2枚で2ページ。 ○「曹植の公と私」

147. 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日)
 2009年9月12日に開催される「第9回魏晋南北朝研究大会」の案内に同封されていたという、2009年9月13日開催の国際ワークショップ「新出魏晋簡牘をめぐる諸問題」のプリントの情報を手に入れたので下記へプログラム等を転載。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    国際ワークショップ「新出魏晋簡牘をめぐる諸問題」 日 時:2009年9月13日(日),午後1時30分~5時 会 場:立正大学大崎キャンパス,9号館地階9B11教室 プログラム  開 場:午後1時  開 会:午後1時30分   開会の挨拶(13:30~13:40)   第1部   報 告I(13:45~14:15)─關尾史郎氏(新潟大学,科研費プロジェクト代表)   「魏晋簡牘研究への一視点」   報 告II(14:15~14:45)─伊藤敏雄氏(大阪教育大学,三菱プロジェクト代表)   「魏晋簡牘の調査と課題」(仮題)   休憩(14:45~15:15)   第2部   講 演(15:15~16:15)─侯旭東氏(中国・清華大学,呉簡研討班)   「長沙走馬楼三国呉簡所見給吏与吏子弟─兼論漢代的給事」   質疑・討論(16:15~16:50)   閉会の挨拶(16:55~17:00) 主 催:長沙呉簡研究会 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

148. 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)
開催が一週間後に迫っているため早さ優先で端的に。 ・称猫庵 http://syoubyouan.blogspot.com/ ・関野貞資料と墳墓の世界  (※上記ブログ記事) http://syoubyouan.blogspot.com/2011/02/blog-post_23.html 上記ブログ記事で知ったこと。 ・東京大学東洋文化研究所 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/ ・国際シンポジウム「関野貞資料と墳墓の世界」が開催されます  (※上記サイトのお知らせ) http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?id=FriFeb1818:55:412011 上記お知らせにあるように、東京大学東洋文化研究所人間文化研究機構主催(近畿日本ツーリスト株式会社協力)で世界遺産に向き合い価値の共有を夢見た男 関野 貞 プロジェクト 「関野貞資料と墳墓の世界」(国際シンポジウム)が2011年3月2日水曜日13時から東京大学総合図書館三階大会議室にて参加費無料事前申し込み不要で開催されるという。 その中のプログラムで下記に引用するのが目に付く。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 鮮卑族の系譜  復旦大学 韓 昇 (墓葬のDNA鑑定 付:曹操一族の検討) ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

149. 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート2
※目次 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート(2009年9月12日) ※前記事 第9回魏晋南北朝史研究会大会ノート1  休憩中、隣の三口宗さんと次の三国志学会第五回大会は名古屋だろうか東京の二松学舎大学だろうか、と話していた。  事前のアナウンス通り、15時には会場は開始の様子となっていた。

150. 中国における墓主図像の研究(神戸大学2002年9月30日)
※関連記事 日中における中国四大名著のマンガ比較研究(同志社大学2013年3月21日)  上記関連記事と同じように…というより引き続き、2014年5月17日土曜日に博士論文を読みに行ったという話。