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メモ:「功次による昇進制度の形成」
※前記事 メモ:「漢代明經考」 下記関連記事で触れたように、尹湾漢墓簡牘に記載される長吏からも、察挙による就官の事例より功次による昇進の事例の方が多いと確認されたという。 ※関連記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」 前者の察挙はさらに常科と制科があり、それぞれ孝廉科、賢良・方正科が例として挙げられる。それについては前記事で触れた論文について書かれていた。しかしそれ以外の大半と言われる功次による昇進について私はあまり把握していないので、一度、目を通した論文を再び読んでメモを残す。 論文は一昨年の「2008年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』の中にあった分で、ちょうど下記の関連記事(2番目)で触れた論文の次に来る論文だ。 ※関連記事 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」 ※追記 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 佐藤 達郎「功次による昇進制度の形成」(『東洋史研究』Vol.58 No.4 (200003) pp.673-696 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660407 この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
: 清岡美津夫
2010年2月16日(火) 00:33 JST
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漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日)
小耳に挟んだんで記事にしてみる。 会議のタイトル通り、私を含めた一般人は立ち入りできないから、あまりここで記事にしても意味はなさそうだけど、前回2008年5月24日に開催された「第53回国際東方学者会議 東京会議」シンポジウムVI「両漢における「天」の文化」─思想史と歴史学の連携による」の内容は、下記のリンク先に情報を示す『両漢儒教の新研究』(汲古書院2009年1月刊行、ISBN978-4-7629-2850-5)にまとめられているから、今回も何らかの形で刊行される可能性はないとは言えないので、ここに記しておこう ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ・両漢儒教の新研究 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b12176.html ※追記 三國志研究 第四号(2009年9月) ※追記 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日) それで何かというと下記のリンク先にあるように、2009年5月15日金曜日に「第53回国際東方学者会議 東京会議」が日本教育会館(7・8階)で開催され、その中の部会にシンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」があるという。 ・財團法人東方學會 http://www.tohogakkai.com/ ・54th ICES SYMPOSIUM VI http://www.tohogakkai.com/ICES-program.html#sympo6 ※URLから判断するに、時間が経てばページの内容が差し替えられるかも。
: 清岡美津夫
2009年4月11日(土) 12:23 JST
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リンク:「漢代における郡県の構造について」
※前記事 リンク:「胡広伝覚書」 下記の掲示板のツリーは五年以上も前の書き込みなんだけど、たまに思い出しては、手元の電子文献の『續漢書』百官志や『漢官儀』を対象に検索をしていた。こちらの読解力もあって納得できる答えに辿り着けないでいた。 ・三国・魏の「町奉行さま」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1359 それで前記事に書いたように、近頃、「佛教大学論文目録リポジトリ」を見かけ、興味のある論文を読んでいたんだけど、その中で前述の疑問に答えるような論文を見かけた。 ・佛教大学論文目録リポジトリ http://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/index.htm それが下記の論文。サイト「CiNii」内のページへのリンクも掲げておく。前記事の段階では「国立情報学研究所 CiNii 本文リンク」が切れていたんだけど、どうやら復旧したようなので安心してリンクできる。 西川 利文「漢代における郡県の構造について──尹湾漠墓簡牘を手がかりとして──」(『文学部論集』第81号 (199703) pp.1-17 佛教大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006472990 ※新規関連記事 リンク:秦・漢における郷の治安維持機能(史滴2009年12月30日)
: 清岡美津夫
2010年1月 6日(水) 21:10 JST
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リンク:「盧植とその『礼記解詁』」
※関連記事 リンク:『魏晉石刻資料選注』 上記、リンク先の記事で紹介した京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI = Kyoto University Research Information Repository)を紹介したんだけど、別件でKURENAIを見ていたら、下記、論文、池田秀三「盧植とその『礼記解詁』」の(上)(下)を見かけたんで、まだ目を通していないけど続けてリンクを張っておく。それぞれ『京都大學文學部研究紀要』29巻(1990年3月31日発行)、同紀要30巻(1991年3月29日発行)収録。 ・Kyoto University Research Information Repository http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/ ・Kyoto University Research Information Repository: 盧植とその『礼記解詁』(上) http://hdl.handle.net/2433/73047 ・Kyoto University Research Information Repository: 盧植とその『礼記解詁』(下) http://hdl.handle.net/2433/73051 ※次記事 リンク:「胡広伝覚書」 ※追記 三国志学会 第八回大会(2013年9月14日土曜日)
: 清岡美津夫
2009年6月 7日(日) 15:43 JST
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ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12 ※関連記事 日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日) 上記のサイト、上記ページ、上記関連記事にあるように、2012年6月23日土曜日(12:45に開会)24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催された。そして「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表で、それは 陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻] 日本における三国志マンガの翻案過程 というものだ。
: 清岡美津夫
2012年6月30日(土) 00:34 JST
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メモ:「東洋史研究会大会」出店状況
・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/ ・2009年度東洋史研究会大会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/contents/taikai2009.html ※関連記事 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート 上記サイトのページにあるように2009年11月3日火曜祝日に「2009年度 東洋史研究会大会」があって、上記関連記事の昨年と違って、今回は個人的に興味のある発表がなかったものだから、行かないつもりだったけど、知人とその話をしていたら、(本人は否定するだろうが)誘われた形になったものだから、足を運ぶことになった。結果的に漢代と南朝に関する三報は自分の興味範囲に入っていて興味深く聴けたんで良かったんだけどね。 それでもそれらの発表についてノートなり何なりこのサイトに情報を残すことはサイトの主旨に大きく逸脱しそうなので、どうするかは保留する。それよりサイトの主旨に近いと思われる、書店の出店についてメモを残す。この記事から『三国志』関連の専門書をネットを通じ探す際に活用してくれると幸い。
: 清岡美津夫
2009年11月 3日(火) 21:31 JST
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リンク:漢字文献情報処理研究会
『電脳中国学II』の編纂団体として、またサイト「Kanhoo!東洋学サーチ」の運営団体として、著名な学術団体「漢字文献情報処理研究会」には、下記に示すように1998年10月13日開設のサイトがある。 ・漢字文献情報処理研究会 http://www.jaet.gr.jp/ この研究会は名前の通り東洋学分野における情報処理の研究に関連した会であり、年一回、会誌発行と大会開催を行っている。『漢字文献情報処理研究』は第1号から第7号までネット上にPDF形式で公開されている。今年2009年の第12回大会は12月20日に京都の花園大学で行われるとのこと。 この会は直接的に「三国志」に関係なく、強いて言えば会誌『漢字文献情報処理研究』第5号に『《三国演義》電子資料庫』という学術ソフトを紹介しているぐらいである。ではなぜ「三国志ニュース」で取り上げるかというと、研究会の取り扱う対象が東洋学に関わる文字コード、データベース、知的財産、語学教育と、ネットにおける「三国志」関連と切っても切れない関係だからだ。
: 清岡美津夫
2009年11月24日(火) 18:35 JST
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メモ3:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」
※前記事 メモ2:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」 2009年8月8日にようやく2005年3月1日から2007年12月31日までのアクセス集計のルーチンワークを終え、データ解析の部分は創造的かつスムーズに行えると思ったら、しょっぱなでつまづく。 何かというと、小分類を加算し中分類ごとに合計する作業だ。手元の環境だと、表計算ソフトの動作が遅くフリーズしやすく、またそれを緩和するためにこまめに保存するも、保存する最中にフリーズする状況だった。これで待ち時間ばかりの9日、10日と丸々二日費やし、絶望感を漂わしていたんだけど、10日の深夜にあるアイディアを思い付く。 今まで計算に際し、集計結果とリンクさせていたわけだけど、それを「形式を選択して貼り付け」し、リンクを切断すれば負担が軽くなるんじゃないかと気付く。機転の効く人だったら二日も費やさずに一瞬で気付くんだろうな、と自分をイヤになりつつ、そのアイディアを実行してみると、表計算ソフトの動作は速くなり、かつフリーズ頻度が激減し、ようやくデータ解析の作業を進められることに。 11日、12日は計算に誤りがないかチェックしつつ、グラフ作成をしていた。そういう苦労は発表で出るわけはないので、この際だからメモとして出そうとしたのが、今回の記事の本題というわけだ。
: 清岡美津夫
2009年8月13日(木) 23:04 JST
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ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日)
※関連記事 魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会(2014年12月6日) 上記関連記事で紹介したように、2014年12月6日土曜日10時より大阪府松原市 阪南大学本キャンパス50周年記念館3階会議室にて国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」が開催された。その日、清岡は午前中に別の用事があって、その後、できるだけ早く会場に赴き、何とか昼休み前に会場入りできた。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/ ・国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(12月6日)のご案内 http://6ch.blog.shinobi.jp/開催案内/国際研究集会「魏晋南北朝の主要都城と都城圏社会」(1 ※新規関連記事 メモ:三国志学会 第十六回大会 報告(2021年9月5日) その部屋に入る前の廊下にて資料としてA4の冊子とA4のプリント(佐川先生報告分)が配られてあって、それを受け取り、部屋に入ると、ラウンドテーブルみたく、机を輪の形に並べてあって…それは比喩表現で実際には四角く並べてあって、ほぼ満席でどこか空いてないかと見回すと、四角の形の角に当たる部分、机ではない箇所が空いてあって、そのうちの一つの席に座る。ちなみに対角線上にある角の席は、清岡より遅れていらっしゃった福原啓郎先生が座られていた。 ※関連記事 三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)
: 清岡美津夫
2014年12月18日(木) 23:05 JST
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『コミックトム』をM-GTA 1st step(2015年8月下旬)
※前の三国関連の記事 メモ:CafeBar曹操(広島県広島市中区流川町) 2015年8月28日金曜日夕方、dutyを終え、京都から新快速で西に向かう。ちょうど青春18きっぷの期間で個人的にはラスト2回目となった。やはり通勤・通学(後者はあまりないか)でいきなりは座れず。座れたら菓子パンのハムマヨを食べて、ラムネ風スコールを飲む。米原駅の手前のヤンマー中央研究所の電光掲示板によると気温が25℃だそうな。18時55分到着。乗り換え時間10分なんで、すでに次の列車、7番ホームで人が並んでいた。列車が着たら、後ろのばばあに順番抜かしされる。でも結果は同じくクロスシートの通路側なのにね。あと列車自体は東海道本線(東海)新快速(浜松行)ね。 ようやく落ち着けたので、先も長いので、木下康仁『グラウンデッド・セオリー・アプローチの実践』(弘文堂2003年8月15日発行)にある、木下先生考案のM-GTAに取り掛かる。といっても分析ワークシートに具体例を書き込んでいる段階だけど。 ・グラウンデッド・セオリー・アプローチの実践 質的研究への誘い | 弘文堂 http://www.koubundou.co.jp/book/b156903.html 横山光輝『別冊コミックトム 三国志』第一期配本(1-18巻、1980-82年)の大体、奇数巻に「お便り紹介コーナー」があり文字通り読者からのお便りが紹介され、まずはそれを分析対象に選んだ。やっぱり『エレ片のコント太郎』ポッドキャストを聞きながら作業を進める。 ※関連記事 『エレ片のコント太郎』ポッドキャストで三国志ネタ
: 清岡美津夫
2015年9月 4日(金) 23:31 JST
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「東アジアの出土資料と交通論」ノート3
※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2 ノートPCの入れ替え中、司会による次の発表の紹介が入る。 10:17。次の発表が始まる。予め配られたレジュメはA3の3枚、6ページ分。 ●上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」 科研の採択を受けて2005年から7年までの三年間、中国の北方地域を対象に地理学、政治史、環境史、考古学の四者で共同研究をおこなったとのことで、その成果が今回の発表だという。 ○はじめに 出土資料から交通論のアプローチが今回のシンポジウムのテーマ。この発表では交通路が結びつけるものは何かという視点で入る。人・情報ではなくハードウェアである地域を結ぶと考え見ていく。交通路に結びつけられる地域と地域がどのような関係にあるのか、すなわち地域と地域の関係から交通路をあぶり出していく。対象となるのは前漢代の北方地域。 ○1. 漢代の北方地域とは まず前提部分(※スクリーンに現在の地図が映し出される)。現在の山西省北部、内蒙古中南部、河北省北部を対象とする(※スクリーンの地図上、赤で示される)。この地域は歴代王朝が北方の諸民族と抗争した場であり、漢代も例にもれず、匈奴・鮮卑との抗争の場であった。 他の視点から北方地域がどう見えるか紹介。考古学をやっているが、昨年の中国考古学会で発表したのは、お墓の構築技術によって地域と地域がどのような関係にあるか、どう地域区分ができるか、というもの。前漢代(の華北)にはこのように八つの地域に分けることができる(※スクリーンに航空写真で映し出さ示される。またレジュメにはより単純な地図がある)。今回対象となるのはE地域、このような北方地域になる(※八つの地域の地図上最北地域)。造墓技術と漢代の地域区分を結論だけ示したが、プロセスを少し説明。前漢の後半期にどのような墓がどこで作られたかがこの図(※スクリーンに地図と共に説明が入る)。木築墓、木材が主な構築材料。磚築墓、煉瓦が主な構築材料。木築墓は今回対象にする北方地域、東シナ海沿岸の山東省東部、江蘇省に分布している。平たく言えば当時の周緑地域、辺境。磚築墓は中央地域、いわゆる王朝の中央地域に広がったのに対し、伝統的な木築墓は周辺地域に残ったと通常、解釈される。 今日の発表で二つの視点を提唱したい。一つはマクロな視点。県城と県城との関係を検討し、王朝の地域経営の戦略を復元する、あるいはそれを接近していこうというもの。もう一つはミクロな視点。お墓を対象として県城を中心とする一つの地域社会、その中における集団関係がどうであるか、これを検討していくもの。入れ物同士の関係がマクロな視点、そして入れ物の中に入っている人の構成がミクロな視点となる。 ○2. 地域社会のマクロな視点:県城遺跡 ○(1)北方領域の二つの姿 城郭とは、一つは地域社会の結節点となる。先ほどの金先生の発表にもあったように、漢代の行政区分として県の下には里、亭、郷といった下部組織、構造があり、一つの地域の結節点として県、県城がある。王朝の側からするとこの県城を掌握することにより、地域経営を進めていく、その拠点となる。科研の方で実際、その遺跡を見てきた(※スクリーンにだだっ広い草原の中に盛り上がっている写真などが映し出されており、それらが広武県故城や雲中県故城の写真。それをあれこれ説明)。広武県故城について。現状に残っているものでも10メートルを越えるだろうという城壁を確認。雲中県故城について。写真の内側が400メートルの城壁、外側に1.2キロメートルの城壁が回っている。 現在出ている遺跡地図集、考古学の報告書などからお城の情報を集めた。衛星写真を使って地理学の先生に依頼して地形利用というのを合わせた。地形利用図と考古等高を重ねるとどのように北方地域を復元できるか(※スクリーンに図が映し出される)。緑の部分が氾濫原、川の流域。川の流れを示すために青い線を入れるようお願いしたが、無理と言われた。つまり川の流れは常に動くものだということ。これが農耕が出来る可耕地、肥沃な土壌になる。その周辺にある黄色い部分、これが扇状地になる。山から川が流れてきて平原に降りてくる、その出口に扇状地が形成される。そこではやや水の利用が難しいと聞く。黒い部分が山塊になる。 ちなみにこの地形図からどのような交通路が復元できるか線を引くと(※スクリーンの地図に線が足される)、たくさんの線ができる。というのも河川の流れによる渓谷(※地図中、白い線)が重要な交通路になるだろう、ということで地理学の先生に線を引いて貰うとこのような図が返ってきた。 図において、中塗りの四角が県との対応がつく城郭になる。そういった城郭は交通路の結節点に当たる。 今回は二つの地域について。一つは河套平原。黄河が東に向かって流れる部分から南に流れを変える部分、まさにそこで形成された巨大な平原。南側に大同盆地と(※スクリーンの地図に)書いたが、こちらも地形図を見る限り、やや広域に広がる氾濫原を持つ盆地ということで、この二つの関係を見ていく。 まず城の立地環境。ここでは三つあげている。レジュメにあるように平地型、盆地型、谷筋型。平地型というのは扇状地も含めた平原のふちにお城を築く。それに対し非常に狭い谷筋に、やや可耕地、氾濫原が見える、一部分に城を築くのが盆地型。氾濫原を持たない谷筋に拠点を築くものを谷筋型とする。 次に城と城との関係。分布状況は二つの類型がある。一つは相互の関係が非常に密に、ある地域に密集すると、これを拠点密集型と呼ぶ。もう一つを等距離分散型と呼ぶ。大同盆地では城郭と城郭の距離が比較的等距離と見て取れる。 これらの三つの立地環境の分類、二つの分布状況の分類、これら二つの次元をよりどころにして河套平原と大同盆地の関係を整理していく。 大同盆地では平地型で等距離分散型。この状況は、王朝の視点からすると、広域ネットワークを構築し面的に地域を掌握することを意図した地域経営戦略。一方、河套平原は同じ平地型だが拠点密集型。これは王朝の視点からすると局地的に地域開発をする、あるいは拠点防衛を目的とした地域経営戦略。これが小タイトルにある「二つの姿」となる。 ○(2)雲中郡と定襄郡 縮尺を上げて、河套平原の内実を詳しく取り上げる。(※スクリーン上の地図において、またレジュメの図3において)中塗りの四角が県城との対応がついている城郭、白抜きの四角が城郭は確認されるが県城との対比が現状では難しいあるいは対比がなされていない城郭。 雲中郡の属県、定襄郡の属県それぞれがどのようなものかがこの図。雲中郡の属県が実線の黒で結んでいる。黒の点線が定襄郡の属県を示している。雲中郡の場合、その郡治(雲中県)に対し、東北側と東南側に城郭が密集する区域がある。それらを結びつけるのが郡治。それに対し郡治(成楽県)を中心とした定襄郡のネットワークは南の谷筋沿いに広がっていくネットワーク、あるいは北側に谷筋沿いに広がっていくネットワークを見ることができる。 先ほど、拠点開発・拠点防衛を目的とした河套平原と言ったんですが、その中にも県城のネットワークとして二つの要素が見える。雲中郡の場合は、郡治を河套平原の氾濫原のど真ん中に置いており、その郡治は拠点に必要な城郭群の結節点として機能している。それに対し定襄郡は、河套平原に出てくる出口、山麓・扇状地縁辺に郡治を置く。その郡治を中心に結びつけられる県城は谷筋を利用する線上に伸びるネットワーク。 それらを王朝の地域経営という視点で再整理すると、雲中郡はフロンティアを開発することを目的とした開発型のシステムと言える。拠点を開発していこうということで密集型に城郭を置いたのではないかと考えられる。それに対し定襄郡は開発すべきフロンティア(河套平原)の後背地にある交通要衝を掌握することを目的としたシステムである。裏を返せば軍事型、または交通路型といったネットワークだったのではないかと考えられる。 ○(3)「安陶丞印」封泥 この中にある一つの城郭で封泥が数多く出ている。文字を記したものが約100件、文字を持たないものが370件余り。安陶県の県城と考えられる城郭の二十家子城址から出てきた。 断片的に情報が報告されているため、総合的に復元することは難しいが、[内蒙古自治区文物工作隊 1961]をベースにして再整理をする(※まずスクリーンに二十家子城址の平面図が映し出される)。穀物を貯蔵するための貯蔵穴で穀物と封泥とが一緒に出てきている。 封泥は具体的にはこのようなものがある(※スクリーンやレジュメに写真が出てくる。それぞれ説明が入る)。 (※以下、レジュメより釈文) 安陶丞印 定襄丞印 武進丞印 平城丞印 駱□□□ □□太□章 都武□印 安□左□ 武□右□ 東郷 西郷 倉 □□庫□ 「□□太□章」は「定襄太守章」となり太守の章とのこと。「倉」や「庫」は軍事関連で「左□」「右□」はそれぞれ「左尉」「右尉」という軍事的官職か。 『漢書』地理志との対照する(※スクリーンに図がいくつか出てくる)。出ている地名と件数を対応させる(※表が出てくる)。先ほどのお城の結びつき地形との関係によって復元した地域間のネットワークを傍証するような封泥がある。 「左尉」「右尉」等、武官の関係を示す封泥があったが、実はこの二十家子城址は別の点でも重要な城になっている(※スクリーンに二十家子城址出土の鎧のスケッチが出てくる。林 巳奈夫/編『漢代の文物』挿図10-74でスケッチされるのと同じ鎧)。前漢の武帝紀の甲冑の構造を知ることができる史料はほとんどないが、考古学で武装の話をするときに必ず引かれる史料。 ○3. 地域社会へのミクロな視点:漢墓葬 墓を使って地域社会の階層構造、構成を見ていく。まず史料の着目点と何が明らかになるかという点を整理。 一つ目は、墓の構造や規模、副葬品や葬制に格差が存在。入れ物の墓、入れる物に格差を見出すことができる。格差を元にして被葬者の関係性ということで地域社会の集団関係あるいは階層構造を検討することが可能。地域社会の状況を現地の写真で説明(※スクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。現地へ同行した仏教大学の杉本先生に「じゃ漢代というのはお城から外を見ると墓山だらけだったんですかね?」と言うと「んー、多分、そうに違いない」とのこと。県城の周りにはその被葬者を葬るべきお墓が周辺に相当数存在したと言える(※さらにスクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。 被葬者を葬って副葬品を添える空間があり、その構造がどうであるか整理。北方領域では上位階層が木築墓。格差を示す副葬品としては青銅器、漆器等。お墓の大きさで上位と決めた。規模が大きな墓は木築墓。これは河套平原でも大同盆地でも同じ現象。ところが両地域で違ってくるのは磚築墓の存在。現状では磚築墓が出てくるのは北方地域では河套平原に限られる。 あと、お墓がいつごろから作られるのか? 我々の共通認識では、この点で河套平原と大同盆地とで差がある(※スクリーンでそれをまとめた図表が出てくる)。大同盆地では前漢を通じて造墓が増加している。前漢期の磚築墓はなし。一方、河套平原では前漢の後半期に造墓が盛んになる。造墓が始まった頃から磚築墓がある。 その背景を史書を見ながら考える。大同盆地では在地系の集団が地域社会を運営していた。だから伝統的な木築墓を使い続けた。上位階層もそういった墓葬を選択し続けた。一方、河套平原では上位階層が在地の伝統(価値)を引く集団。磚築墓の下位階層は外来系の集団の反映と考える。磚築墓とは長安、洛陽などの黄河流域、その辺りで出現し前漢の後半期には普及する。北方領域では磚築墓は自発的に現れる形式ではないので外来系の集団を想定。史書の開発の記事と対応すると、例えば王朝による徙民政策を反映すると考えられる。 ○4. まとめ
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: 清岡美津夫
2008年11月 9日(日) 14:16 JST
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132.
中国古代家族史研究 秦律・漢律にみる家族形態と家族観(2012年2月)
・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・メルマガ登録 http://www.toho-shoten.co.jp/mailmag/ 上記の書店サイトの上記ページにあるように東方書店が発行するメールマガジン『書羅盤:チャイナブックナビゲーター』2012年第4号-2(総245号)(2012年3月29日発行)によると、刀水書房より2012年2月に鈴木直美/著『中国古代家族史研究 秦律・漢律にみる家族形態と家族観』(ISBN978-4-88708-401-8)が6090円で発売されたという。 ・刀水書房ホームページ・創業34周年 http://www.tousuishobou.com/ ※新規関連記事 中国明末のメディア革命(2009年9月) ・中国古代家族史研究、刀水書房 http://www.tousuishobou.com/kenkyusyo/4-88708-401-8.htm
: 清岡美津夫
2012年4月13日(金) 18:26 JST
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メモ:「漢代明經考」
※前記事 メモ:「両漢時代の商業と市」 旧年の11月頃、官吏の登用制度が気になっていて、下記関連記事のように「2009年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』14冊にあった、この記事で紹介する論文を読んでいた。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況 結局、下記の関連記事のようにそこから辿って読んだ同著者の論文で孝廉の一側面について知ることができた。 ※関連記事 リンク:「胡広伝覚書」 登用制度全体は下記に示す論文であれこれ知ることができた。常科と制科の区別とか。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』Vol.54 No.4 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276 この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1200円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
: 清岡美津夫
2010年1月 5日(火) 00:09 JST
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メモ1:「アクセス集計に見られる現代日本における三国志由来事項の変容と浸透」
※前記事 メモ:ポータルサイト「三国志ワーズ」構想 アクセス集計は今のところ2007年9月中旬まで進んでいて、順調にいけば8月上旬で2007年分で終わり、そこからデータ解析に移る予定。集計している感じではトピックはいっぱいあるが、現代の三国創作とそれを支える社会の本質に迫り得るものが一つでもあるかどうかはまだ疑問が残る。 これが何のための作業かというと、下記、関連記事にある通り。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学) アクセス集計が当初の予測を超え時間がかかっているため、並行して発表原稿や発表資料を作成していった方が効率的だと思うようになる。その意欲を高めるためにこの記事を書く。表題に「メモ1」とあるものの、2以降があるかどうかは不明。
: 清岡美津夫
2009年7月 9日(木) 12:15 JST
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公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)
・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・2008年公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」 http://sekio516.exblog.jp/8583706/ 上記ブログ記事から下記へ引用。 ※但し他のソースを参照しつつ日付を一部訂正。 --引用開始--------------------------------------------------------- 日 時:2008年10月11日(土),12日(日) 会 場:愛媛大学法文学部,8階大会議室 日 程: 10月11日:公開講演(愛媛大学法文学部人文学会との共催)―午後3時~6時 藤田勝久氏(愛媛大学)「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」 今津勝紀氏(岡山大学)「古代の荷札木簡について」 ミニシンポジウム 10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時) 王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」 金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」 上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」 10月12日:研究発表―午後の部(午後1時30分~5時) 松原弘宣氏(愛媛大学)「古代交通研究の現状」 佐藤 信氏(東京大学)「日本古代の交通と出土木簡」 近江俊秀氏(橿原考古学研究所)「考古学よりみた古代道路研究」 シンポジウム「古代交通と出土文字資料について」 コメンテーター:角谷常子氏(奈良大学),谷口 満氏(東北学院大学) 入場無料・事前申し込み不要 主 催:愛媛大学「資料学」研究会,愛媛大学研究開発支援経費・特別推進研究プロジェクト,新潟大学超域研究機構プロジェクト,東北学院大学アジア流域文化研究所 共 催:愛媛大学法文学部人文学会 --引用終了--------------------------------------------------------- ・愛媛大学 http://www.ehime-u.ac.jp/ ここが「三国志ニュース」なもんだから、お見苦しいながらもいちいち関連性を説明しないといけないんだけど、シンポジウムの発表の取り扱う範囲に三国時代の前の漢代が含まれており、交通に関し共通することは多いのだろう。 というわけで、私が興味のあるのは12日午前中に集中している。 JRからの正式発表はまだだけど、例年であれば「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、今年もあるのだったら、それを利用して行くのもいいかも。土曜日を往路に当てて、日曜日に午前の発表を聴講しおえたら、すぐに復路に着くという方法。私の住居から片道10時間程度。 <9/11追記> というわけで下記のサイトによると、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は1枚3回分で9180円。利用期間は2008年10月4日-19日。 ・JR西日本 http://www.westjr.co.jp/ <追記終了> ※関連記事 国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日) 三国志学会 第三回大会 ※追記 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日) ※追記 資料学の方法を探る(2011年11月26日)
: 清岡美津夫
2008年9月 8日(月) 22:21 JST
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136.
第2回三国志学会大会ノート6
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/688 (※清岡注、最後の発表とあって疲れて清岡の気力が殆どなくなっており、またレジュメ等で後日補間できなかったため、以下、かなり端折ったレポート内容となっている) 16時15分に紹介開始。 二松学舎大学の竹下先生から林田先生のご紹介がある。略歴や著作等。三国時代の文学がご専門だそうな。 ○「私の中の三国志」林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授) 16時20分に開始。 最近、講談社から『史記・貨殖列伝を読み解く』という本を出した。そこで金文京先生の『三国志の世界』の本を頂いた。その本で林田先生が疑問に思ったところがある。卑弥呼が景初二年に使者を魏の明帝に送ったくだりで、「景初二年」と陳寿が『三国志』魏書東夷伝ではっきり書いており、(その使者が)帶方郡に着いたのは景初二年六月であると書いている。明帝は景初三年正月に亡くなるわけだから、景初二年十二月にすでに重体である(※「十二月乙丑、帝寢疾不豫。」『三国志』魏書明帝紀)。 そこでなぜ(卑弥呼の使者が来たのは)景初三年になるのか。京都学派では景初三年になっていたり、今の教科書では景初三年になっているものもある。景初三年の理由がいろいろあるが、一つは明帝が亡くなった、一つは景初二年の六月から遼東半島で司馬懿と公孫淵が戦を初め八月には鎮圧した、というのがある。卑弥呼の使者は景初二年六月に帶方郡につき三ヶ月足止めを喰らっていた。そして戦が鎮まった景初二年八月に少し時間をおいて出発したとしても、遼東半島とそして洛陽まで大体、三ヶ月強ぐらいだ。なぜならば、(『三国志』魏書明帝紀の注に引く『干竇晉紀』で)明帝の問いにはっきりと司馬懿が百日と答えている(「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」)。 曹操と荀[或〃]の話、文学の話など(※清岡注、この辺りの下りがほとんど清岡の頭に入らず)。 漢代の辞賦作品。詩経などだいたい儒教の教理に適っている。また教理に沿いながら詩経などを解釈する。しかし曹丕は違う。「文以氣為主」(「典論論文」)としている。文には個性がある。それまで、政治的なものが入ってきて文学が形成された。例えばヨーロッパでは19世紀の末、ある人物(※清岡注、名前失念)が初めてヨーロッパ文学は(カソリックの教理から)自立したといった。(三世紀の中国の文学で自立性が確立して)それがあったからこそより内在的になった(※清岡注、この後の下りがほとんど清岡の頭に入らず) 集英社の企画で、「中国の英傑」という伝記のシリーズがあって、林田先生は曹操の伝記を書きたかったとのこと。編集サイドとしては諸葛亮を書いて欲しかったとのこと。諸葛亮を精神的思想的な啓蒙型に位置づけた書き方をしようとおもったとのこと(※→中国の英傑(5)『諸葛孔明 泣いて馬謖を斬る』)。(司馬徳操など荊州での話) 三国時代というのは三国が争ったが、国境を越えて文学というのがある。 ※ここでA4一枚のレジュメにある話にうつる。レジュメには四つの引用があって、まず初めの二つについて。下記。 (1)胡沖呉歴曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫權、又以紙寫一通與張昭。 (『三國志』卷二 文帝紀 注引『呉歴』) (2)呉歴曰、權以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致[鼠軍]子裘、明光鎧・[馬非]馬、又以素書所作典論及詩賦與權。 (『三國志』卷四十七 呉主傳 注引『呉歴』) 素書の素は絹の意味。絹に典論や詩賦を書いて孫権に贈った。やはり孫権に知ってもらいためにわざわざこういうものを贈ったんだろう。(「以紙寫一通與張昭」に触れて孫権だけじゃなく張昭にも贈った、とし、張昭の話、陸機の話。血縁関係から陸機は張昭の書を見たんじゃないかとし、張昭が陸機に与えた文学的影響の話) ※レジュメの三番目についての解説に移る。 (3)呉書曰、紘見[木冉]榴枕、愛其文、為作賦。陳琳在北見之、以示人曰、此吾郷里張子綱所作也。後紘見陳琳作武庫賦・應機論、與琳書深歎美之。琳答曰、自僕在河北、與天下隔、此間率少於文章、易為雄伯、故使僕受此過差之譚、非其實也。今景興在此、足下與子布在彼、所謂小巫見大巫、神氣盡矣。紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰、前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。 (『三國志』卷五十三 張紘傳 注引『呉書』) それぞれ観賞したり、自分の書いたものを贈りつけたり褒められたりして、また喜ぶ、またそれが国境を越えていたというのは面白い。 ※レジュメの四番目についての解説に移る。 (4)翻與少府孔融書、并示以所著易注。融答書曰、聞延陵之理樂、睹吾子之治易、乃知東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物、察應寒温、原其禍福、與神合契、可謂探[頤の頁が責]窮通者也。會稽東部都尉張紘又與融書曰、虞仲翔前頗為論者所侵、美寶為質、彫摩益光、不足以損。 (『三國志』卷五十七 虞翻傳) 17時27分終了 質問と回答(例の如く頭に入らなかったので略) 17時29分終了 事務局長から来年の開催日についてアナウンス。来年の三国志学会大会は9月14日。 <参照>第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催 http://cte.main.jp/newsch/article.php/658 ※追記 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日) ※追記 より深く理解するための「三国志」講座(2010年10月15日-12月24日) ※追記 図説 三国志の世界(2011年5月23日) ※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日) あと帰路についてのアナウンス。スクールバスは終わっているが普通のバスはあるとのこと。三点目として懇親会のこと。会場は前もったお知らせにあるグリーンスポットであったが、急遽変更し一号館の地下の食堂になったとのこと。四点目は二階で出店しているまだ書店が営業しているとのこと。
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: 清岡美津夫
2007年9月14日(金) 12:25 JST
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関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)
開催が一週間後に迫っているため早さ優先で端的に。 ・称猫庵 http://syoubyouan.blogspot.com/ ・関野貞資料と墳墓の世界 (※上記ブログ記事) http://syoubyouan.blogspot.com/2011/02/blog-post_23.html 上記ブログ記事で知ったこと。 ・東京大学東洋文化研究所 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/ ※新規関連記事 リンク:漢代察挙制度の研究(東洋文化研究所紀要1983年11月) ・国際シンポジウム「関野貞資料と墳墓の世界」が開催されます (※上記サイトのお知らせ) http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?id=FriFeb1818:55:412011 上記お知らせにあるように、東京大学東洋文化研究所人間文化研究機構主催(近畿日本ツーリスト株式会社協力)で世界遺産に向き合い価値の共有を夢見た男 関野 貞 プロジェクト 「関野貞資料と墳墓の世界」(国際シンポジウム)が2011年3月2日水曜日13時から東京大学総合図書館三階大会議室にて参加費無料事前申し込み不要で開催されるという。 その中のプログラムで下記に引用するのが目に付く。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 鮮卑族の系譜 復旦大学 韓 昇 (墓葬のDNA鑑定 付:曹操一族の検討) ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
: 清岡美津夫
2011年2月23日(水) 19:57 JST
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中国における墓主図像の研究(神戸大学2002年9月30日)
※関連記事 日中における中国四大名著のマンガ比較研究(同志社大学2013年3月21日) 上記関連記事と同じように…というより引き続き、2014年5月17日土曜日に博士論文を読みに行ったという話。
: 清岡美津夫
2014年5月19日(月) 00:24 JST
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「長沙呉簡の世界」ノート3
・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/425 ○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」 11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。 本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。 1. はじめに ※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。 『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか? しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。 2. 長沙呉簡名籍の検討 いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。 (1)名籍にみえる「戸」と「家」 ※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。 「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。 民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。 ※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。 この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。 (2)名籍の書式 名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ 例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。 (3)名籍にみえる戸人と戸数・口数 戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。 さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。 3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察 復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。 まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例 他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。 ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。 4. むすびにかえて 民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。 12時30分終了。 時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。 ○昼食・休憩(12:25~13:30) 予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。 ・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/448
: 清岡美津夫
2006年10月15日(日) 13:58 JST
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三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学)
※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学) 三国志学会 公開講演会(2009年9月6日) 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) 三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日) ※追記 三国志学会 第六回大会(2011年8月27日土曜日) ※追記 三國志研究第五号(2010年9月11日) ※追記 非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像(2010年10月31日) ※追記 十大三国志ニュース2010 前編 ※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日) ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ 上記サイトの「大会ご案内」のページで昨年の大会プログラムが残っていて、当然、清岡の名前もあるもんだから、有り難くも恐縮していたので、いつ今年の分へ変わるのか結構、頻繁にチェックしていた。 今日、見てみると、昨年と違い、日時、会場、プログラム共々、今年の分へ一気に更新されていた。 というわけで、「三国志学会 第五回大会」は2010年9月11日土曜日に二松学舎大学 九段キャンパス3号館 3021教室(東京都千代田区)にて開催されるという。昨年、「三国志学会 公開講演会」が行われた所と同じ大学のキャンパス。あと大会に合わせて機関誌『三国志研究』が発行され、今回は第五号だね。(個人的な話だけど、日程的に往路は青春18きっぷを利用できそうだ)。 ・二松学舎大学 http://www.nishogakusha-u.ac.jp/
: 清岡美津夫
2010年7月20日(火) 12:06 JST
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ベトナムの『三国志演義』(2014年10月25日)
メールにて教えていただいたこと。 ・京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/ ・【お知らせ】公開セミナー「ベトナムの『三国志演義』」10月25日(土)┃京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/2014/10/15/jinbunken/ 上記サイトの上記お知らせページによると、2014年10月25日土曜日11時から12時30分まで京都府京都市左京区の京都大学人文科学研究所本館1階第1セミナー室にてDr.Lan NguyenTo「ベトナムの『三国志演義』」という公開セミナーがあるという。講師の方は「ベトナム社会科学院研究員 ・ ハーバード大学客員研究員・京都大学人文科学研究所招へい学者」とのことだ。中国語の発表だが日本語の適宜訳あり。 ・京都大学人文科学研究所 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ※関連記事 高校生のための夏期セミナー ~漢字文化への誘い~ 第一回(2013年8月9日)
: 清岡美津夫
2014年10月15日(水) 23:57 JST
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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日) 前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。 会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。 ●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」 10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。 予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。 ○はじめに 南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。 現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。 南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。 問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。 ○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書 両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。 内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。 ○2. 墓誌引用公文書の内容 まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。 『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。 (※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた) 馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。 墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った? 文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。 わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。 梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。 (※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。 公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。 ○3. 各文書の書式等について 策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。 詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。 札の書式。時間の関係で省略。 ○おわりに 詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。 (今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。 そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。 11:30終了。 ※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 ※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日) ※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)
: 清岡美津夫
2008年9月23日(火) 11:32 JST
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東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)
※関連記事 メモ:三国志関連のネット上地理感覚 石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵) 曹全を追え 上記関連記事にあるように、主にデータベース「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」について「三国志ニュース」で度々、京都大学人文科学研究所漢字情報研究センターに触れてきた。 下記、東アジア人文情報学研究センターのサイトによると、「今春4月に漢字情報研究センターは、東アジア人文情報学研究センターに改組」したという。というわけで「三国志ニュース」内のリンクページを修正。 ・Center for Informatics in East Asian Studies, Kyoto University http://www.kita.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ※関連記事 京大人文研漢籍セミナー2 三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む 2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ ※追記 十大三国志ニュース2010 前編 ※追記 中国古代刑制史の研究(2011年1月) また、漢字情報研究センターと言えば、上記関連記事にあるように毎年三月に開催されている「TOKYO漢籍SEMINAR」を思い出すんだけど、それに関するページも東アジア人文情報学研究センターのサイトに引き継がれているね。
: 清岡美津夫
2009年10月18日(日) 12:48 JST
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中国古典文学と挿画文化(2014年2月)
下記のTwitter Accountの下記のStatusで知ったこと。 ・敎団 (Vitalize3K) on Twitter http://twitter.com/Vitalize3K ・Twitter / Vitalize3K: @sangokushiforum ... http://twitter.com/Vitalize3K/status/431857827091476480 下記の出版社サイトの下記書籍ページによると、勉誠出版より2014年2月刊行予定で瀧本弘之・大塚秀高/編『中国古典文学と挿画文化』(アジア遊学 171、ISBN978-4-585-22637-6)が2400円(税別)で発売するという。もちろんタイトル通り『三国志演義』を含めた三国小説の挿絵文化についての論文も含まれている。 ・勉誠出版 --HOME http://bensei.jp/ ・中国古典文学と挿画文化 : 勉誠出版 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100312
: 清岡美津夫
2014年2月23日(日) 06:16 JST
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145.
三国志学会第一回大会ノート3
・三国志学会第一回大会ノート2からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/399 時間がおしているので休憩なしでそのまま。会場のホールでの空調の調子は悪いが、皮肉なことに一階上の控え室はガンガンにクーラーが効いている、と渡邉先生の小粋なアナウンスが入る。 お次は文学の研究とのこと。建安文学がどういう位置づけかとのこと。あと和田先生のご紹介。 ○和田英信(お茶の水大学助教授)「建安文学をめぐって」 レジュメは縦書きの2ページ。丸で囲った数字が全部で16あり、それぞれの数字の下に引用した文が載せられている。建安は後漢の年号。建安期を代表する文学者、曹操、その息子、曹丕、曹植、その周りに集まった王粲といった詩人たち。 (1)李白の詩で建安のことが詩でうたわれている。建安は中国の文学の中で特別な位置。建安はその他の時代と異なる。 建安期以前の詩とはどのようなもの? そのほとんどが古詩あるいは樂府と呼ばれる作者不詳の詩。 (2)(3)現在見られるものの例、『文選』にある「古詩」十九首など。 (4)樂府とは音楽と共にうたわれたもの。例として『宋書』樂志にのっているもの。 古詩あるいは樂府はいつどのようなにつくられたか、はここでは論じないが、建安の詩人たちの土俵になったことは間違いない。曹操の作品は現在、樂府にカテゴリーに分類される。 古詩・樂府と建安を隔てる大きな違いは作品に署名があるかどうか。 (5)(6) なぜ建安期によってかわったか。どのようにかわったか 建安期以降、歴史時代にはいったという考え(※漢字あってるかな) 具体例。(7)古詩と(8)曹植の詩の比較。 (7)「古詩十九首」其三。洛陽がにぎやかな代名詞としてあげられている。ここではかならずしも実在の洛陽でもなくてもよい。 (8)曹植「送應氏」二首其一。應氏が実在の人物。作者と作品とが関係。董卓の時代(190年)に宮室が焼かれた洛陽が描写される。ここでは洛陽を他の場所におきかえることができない。 人物に関して(3)古詩と(9)曹植の詩の比較。古詩の中に描き込まれる人物は神仙、神話上の人物など特殊な人物がほとんど。 (3)「古詩」十九首其十五。仙人がでてくるが不老不死の代名詞として出てくる。 (9)曹植「贈丁儀王粲」。二人の人物がでてくる。その人そのものを指す。具体的背景のその人たちへのメッセージ。作者と作品の関係は署名だけではなく詩のうたい方にも現れている。詩のあり方がかわったから、作者の署名が加わるようになったと考え方もできる。 建安以降、あらゆる詩がこうなったというわけではない。 (10)曹植「贈徐幹」。(個性を有した)徐幹を生き生きと描くのみならず、そういったメッセージを贈った作者そのものも生き生きと表現されているようだ。 建安以降、文学は個を表現するようになった。 建安期以降、詩が極めて具体的な政治状況で詩がくみ出されること。 (11)曹丕「令詩」。詩は明らかに政治的な文脈で書かれている。 (12)曹丕「至廣陵於馬上作詩」 曹操も政治的な作品をつくっている。政治的アピール。(13)曹操「短歌行」(14)「苦寒行」 (12)と(14)に東山詩が組み込まれている。 →そういう意味では文学は政治に従属するようになった? (15)典論論文の文学至上主義はそういう文脈でみると… (16)『文選』にみられる建安期の詩人 ○質疑応答 ※清岡が失念。文学と政治の話が司会と報告者で延々と応酬される。その後、質問者が一人。 ・三国志学会第一回大会ノート4へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/401
: 清岡美津夫
2006年8月29日(火) 00:00 JST
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第2回三国志学会大会ノート1
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 右隣でげんりゅうさんとしずかさんが中国史における降雪の表現みたいな話をしている。 やはり去年と同じく、金銭の授受がある受付で混んでいる模様。そのため、少し遅れ10時4分スタート。 駒沢大学の石井仁先生が司会。 ○会長挨拶 三国志学会会長 狩野 直禎 三国志学会の方針みたいなことに言及されていた。歴史だけじゃなく文学・思想などなど幅広い分野があり、また一般にも門戸を広げているってことなど。今回、発行された『三国志研究』2号についても。 ○報告(午前10時10分~午後1時) ○「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科) ●長沙走馬楼呉簡について ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ 1996年に湖南省長沙市で出土した三国呉代の簡牘。公表されている簡牘の紀年は後漢中平二年(185年)-孫呉嘉禾六年(237年)。但し黄龍年間(229-231)、嘉禾年間(232-)に集中。主な内容は長沙郡ないし臨湘県(侯国)の簿籍・文書。総数は14万点以上。その中で図録本として刊行されているのは「嘉禾吏民田家莂」(以下、田家莂)と題される大型木簡2141枚、竹簡19636枚。 ●はじめ 走馬楼呉簡には倉庫関係の簡牘が多く含まれている →倉庫や出嚢や物資の流通など、当時の地方財政システムの理解に寄与する 谷口先生の今までの研究 穀倉関係簿の整理・分類の初歩的作業(出土した時点ではバラバラなので) 地方倉における搬出や移送といった穀物財政の仕組み及び簿籍の作成過程等の検討 伝世文献中に当時の税制に関する資料は乏しいため、これらの検討で新知見が得られる →簿籍簡牘に賦税などとして穀倉に入れられる穀物の名目の一つ「限米」について再検討(その性格を位置づける) →孫呉政権初期の穀物財政及び支配のあり方の一端を伺う。 ●一、穀倉に収蔵される穀物名目の概観 公表されている簡牘にもられる穀物名目の概観について。 (1)田家莂とは納税者台帳であり、田地の面積と租税額、納税の確認などの情報が記されている(レジュメにはその一例の釈文と書き下しが掲載) (2)賦税総帳木牘とは納入穀物の総帳。ある期間内に納められた総計と内訳が記される(レジュメにはその一例の釈文が掲載。所々、太字下線部になっていてどこが内訳を示しているかわかりやすくなっている) (3)穀倉関係簿(竹簡)。穀物納入の証明書(莂)を編綴して簿としたもの(莂簿)、一ヶ月・三ヶ月ごとの出納帳(それぞれ「月旦簿」、「四時簿」)など。 →レジュメの別紙に上記の簡牘の写真があり、その紹介。 続いてレジュメに「走馬楼呉簡中に見える穀物収入名目」がリストアップされている。分類としてa「税米」・「租米」(上記の(1)(2)(3)より)、b「限米」( (2)(3)より)、c官有物売却の代価としての米( (3)より)、d貸与返還米( (3)より)、e折咸米( (3)より) 「○米」の丘に「禾(アワ)」「粢(キビ)」「麦(大麦)」「豆(大豆)」なども見える。そのため「米」はイネのことと思われる。 先行研究に基づき簡単に分類 上記aは「田家莂」におると「吏民」(※吏と民以外にも卒なども含む総称)の田に課される米。米の他に布・銭も課されていて、それぞれを米で代納したのが「田畝布米」「田畝銭米」 →一般吏民に課せられた賦税と考えられる。 cは塩などの官有物を売却し、代価として得た穀物収入。「鹽(賈)米」 dは穀倉から貸与されていた穀物を民が返還したもの。「民還貸食米」。新規の収入ではない。帳簿上、他と区別。 eは輸送の過程などで失われた穀物を後日補填したもの。d同様、新規の収入ではない。 bの諸「限米」は身分呼称が冠されるのが特徴(例「衛士限米」)。 三説ある。1)国家の「正戸」でない者に課された米。最初に言われた説。「田家莂]」に記載されているのが「正戸」という理解に基づく。 2)屯田従事者が納入する米(「屯田限米」という記載があるから)。 3)「屯田限米」は屯田に関わる地租で、その他の身分は王族などの依附民が納めた地租 この三説に対するポイント ・「屯田限米」以外の「限米」も全て屯田に関係すると考えるか否か ・“「正戸」でない”、“依附民”などとされる「限米」納入身分者が名籍中にどうみえるか →これを再検討(先行研究があるものはレジュメの後で提示) ●二、「限米」の納入状況と田
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: 清岡美津夫
2007年9月 6日(木) 20:46 JST
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三國志研究第十号(2015年9月5日)
・三国志学会 http://sangokushi.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志学会 第十回大会(2015年9月5日12日土曜日) 上記関連記事で触れた2015年9月5日土曜日開催の「三国志学会 第十回 京都大会」、あるいは同年同月12日土曜日開催の「三国志学会 東京講演会」にて会員には会費と引き替えに三国志学会機関誌『三国志研究』第十号(178ページ、ISSN 1881-3631)が渡された。 『三國志研究』は上記サイトにもあるように汲古書院で購入できるそうな。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/
: 清岡美津夫
2015年9月 6日(日) 23:37 JST
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148.
孫呉政権と国史『呉書』の編纂(2014年3月)
※関連記事 関プチ5 全国ツアー:8/9三国志納涼オフ会in東京2014(2014年8月9日) 上記関連記事にあるオフ会は人数が揃わず催行されなかったんだけど、清岡は予定通り国立国会図書館へ赴く。大した効果は得られないだろうけど、そろそろ気持ちを三国志学会第九回京都大会へ持っていきたいためだ。 ※関連記事 三国志学会 第九回大会(2014年9月6日13日土曜日) メインの目的は横山光輝『三国志』の雑誌掲載時のページ数と単行本のページ数とが手元の記録でズレが生じていたため、両者を照合するためなんだけど、想定していたところにズレがなかったため、解決が先送りとなった。もう一つの目的は横山光輝『三国志』の雑誌掲載時の「第一部 完」を複写しようと思っていたが、どうやらその号は複写禁止だったためこちらも目的を果たせず終いだった。 そんな消化不良の状況で閉館の17時前には図書館を出て、次の目的地を目指す。 永田町駅から東京メトロ半蔵門線(押上行)に乗り神保町駅で降りA7出口から、すずらん通りを東に進む。お馴染みの東方書店に行く予定だったがその前、その手前の内山書店に寄る。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・内山書店 http://www.uchiyama-shoten.co.jp/ ※新規関連記事 神保町ブックフリマ(2020年10月30日11月1日) 結論から書くと、下記関連記事で触れたお目当ての雑誌は両店ともに置いてなかった。とりあえず地元の図書館で閲覧してみるか。 ※関連記事 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日) 話を戻し、内山書店の文学のところで、『三國志研究』三号、六号、七号、八号を見かけ、歴史のところでもいつくか見られた。 ※関連記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 三國志研究第六号(2011年8月27日) 三國志研究第七号(2012年9月1日) 三國志研究第八号(2013年9月14日) その歴史のところに平積みで分厚い『明大アジア史論集』第18号「氣賀澤保規先生退休記念号」(2014年3月、3000円税別)があって、氣賀澤先生に関する記念号だから唐代の論考ばかりかと思いつつも気になって手に取っていた。 ・明治大学アジア史専攻 http://www.kisc.meiji.ac.jp/~asiashi/ ・『明大アジア史論集』総目次 http://www.kisc.meiji.ac.jp/~asiashi/ronshuu.html 氣賀澤先生は愛宕元先生と同学年だっけ? ※関連記事 愛宕 元 先生、死去(2012年1月2日) そこの目次で三国関連を見かける。菊地大「孫呉政権と国史『呉書』の編纂」という論考だ。三国志ニュースで著者名で検索すると下記関連記事が引っかかる。専攻は三国時代? ※関連記事 リンク:曹操と殊礼(2012年6月)
: 清岡美津夫
2014年8月 9日(土) 23:58 JST
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ノート:「連環画」の転変(『月刊しにか』2000年10月)
※前の記事 ノート:六朝建康都城圏的東方―破崗瀆的探討為中心(2014年12月6日) 前の記事で久々に学術の場に触れたのだけど、それでもなかなか手元の研究に気が向かないでいた。2014年12月20日土曜日に三国と無関係に関東へ行く用事があったので、どうせだったらやる気のてこ入れにひとまず国立国会図書館に行こうと思っていた。 移動は青春18きっぷを利用したJRの鈍行列車だ。ちょうど冬季の利用期間中なので。 ・青春 18きっぷ - おトクなきっぷ:JR東日本 http://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?GoodsCd=2125 ※関連記事 兀突骨(福岡県北九州市) 列車の中では、下記の三国志ニュースの記事を書いたり、デイヴィッド・A・プライス/著、櫻井祐子/訳『メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々』(早川書房2009年3月25日発行)の読書に当てたりしていた。 ※関連記事 呉書見聞 復活の兆し(2014年12月9日) レッドクリフ PartI&II(イマジカBS2014年12月2015年1月)
: 清岡美津夫
2014年12月20日(土) 23:11 JST
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三国志学会第一回大会ノート6
・三国志学会第一回大会ノート5の続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 司会の渡邉義浩先生から狩野直禎先生の紹介が入る。狩野先生がご著作の『諸葛孔明』を書くに至ったか、のご講演とのこと。 ○狩野直禎(三国志学会会長、元京都女子大学学長)「私と三国志」 レジュメは縦書き手書きの5枚。ある意味、貴重なレジュメ。 先祖は熊本肥後。(転勤族の)父親が初めて東京に赴任したときに狩野先生がお生まれになったとのこと。大半は京都にいらっしゃったとのこと。 小学校5年生のときに再び東京へ転勤。夏休みに引っ越し。そういう意味で友達がいなかったので両親が佐藤春夫/著『支那文學選』(新潮社、新日本少年少女文庫14)を買ってくださったとのこと。 ここで狩野先生が初めて三国志の存在を知ったとのこと。そこのエピソードは「天下の英雄は君と僕だけさ」「五丈原の戦ひ」など。そこの解説では三国時代は我が国の神功皇后の時代、と解説があったそうな。さらに引用した書物の簡単な解説があるとのこと。そこに『三国志演義』と『三国志』の解説があったそうな。狩野先生がこの本で印象に残ったのは「故郷(ふるさと)」と題したもの。魯迅の「故郷」を訳したもの。 1942年3月に小学校卒業。 当時は義務教育6年間。狩野先生は東京の中学校進学。当時の主要教科は英数國漢だそうな。現代では考えられないが漢文の授業があった。教科書は簡野道明『新修漢文』。最初は簡単だが(江戸時代に書かれた漢文)、十八史略など入ってきて、曹植「七歩詩」などがあったそうな。歴史(社会の一つじゃなく独立している。)は一年が日本史、二年が東洋史、三年が西洋史、四年がふたたび日本史だったとのこと。そのとき二年の教科書は羽田亨『中等東洋史』とのこと。仏教がらみでインド史が入ってくる程度。三国時代も当然、入ってくるが30分か1時間程度。 1944年で中学三年生。労働に使われたりしたそうな。狩野先生は防空壕の木材を運んだりしたとのこと。そのため西洋史については勉強する機会がなかったそうな。そのうち空襲が始まる。京都に帰る。京都府立の中学に転校。戦争が終わったら終わったで車掌として労働にかり出されていたとのこと。 その後、出師表について授業を受けたそうな(教科書、土井晩翠『星落秋風五丈原』)。祖父が手紙で書き下し文を送ってくれたとのこと。後年、狩野先生の『諸葛孔明』でその文をそのまま使ったとのこと。 京都の高等学校に進学。高等学校の一年生は日本史、二年生は東洋史、三年生は西洋史。東洋史の授業の先生は羽田亨先生のご令息だったそうな。そのときの夏休みの宿題が内藤虎次郎『中國中古の文化』(1927年の授業が本になったものとのこと)を読むようにというもの。当時は紙は悪いし内容が難しいし読みづらいものだったそうな。感想文提出。その中の項目で「曹操の文学趣味」「曹操の矯正策」「諸葛亮の矯正策」というのがあったとのこと。岡崎文夫『魏晋南北朝通史』を読んだそうな。 大学へ進学(当時は高等学校進学の方が難しいそうな)。狩野先生は哲学に行くか、文学に行くか、史学に行くか迷ったとのこと。結局、東洋史学へ。狩野先生は四川省に興味をもつ。那波利貞「文化史上より観察する四川省成都」(歴史と地理 十二巻五号・六号)、久村因(ちなみ)の諸論文(漢代の地名に詳しい)。大庭脩「秦の蜀地経営」(卒業論文→竜谷史壇33号、1950年)。卒業研究は蜀漢か五代十国がまよったが、結局、その両方を含む○○伝説の研究(※聞き取れず)。三国志の研究に近づく。 1953年に大学を卒業。そのころに小川環樹・金田純一郎/訳『三国志』(岩波文庫、1953年、※三国演義の訳) 旧制大学院に進学。一切、単位なし。そのころに川勝先生の論文が書かれる。 川勝義雄「曹操軍団の構成について」(京都大学人文科学研究所創立二十五周年記念)、その中で曹操軍団の構成は任侠的結合である、とかかれていたとのこと。同じ頃に宮川尚志先生が京大に来られる。 宮川尚志「三国呉の政治と制度」(史林38巻1号、1955年) 狩野先生はちょうどそのとき史林の編集委員だったとのこと。この論文の構成などをしたとのこと。 吉川幸次郎「曹氏父子伝」(世界121~132 6回 1956年)。この中の文を読まれる。内容は、我々は曹操を三国演義的な人物像を想像するが、それは正しくない、とかそういう旨。 1957年に狩野先生はある論文を書き上げる。それが狩野直禎「後漢末の世相と巴蜀の動向」(東洋史研究15巻3号、1957年)。その書き上げた直後に、吉川幸次郎「曹植兄弟」(新潮55巻、1958年)の連載が始まる。その後、1962年に吉川幸次郎「三国志実録」(筑摩書房)刊行。時代区分論争に関連し、「魏晋から中世なのか?」と吉川先生から三ヶ月も質問を受けた、という話。 その後、五斗米道の話も含めた論文、狩野直禎「蜀漢政権の構造」(史林42-4、1959年)を書き上げたそうな。このころ、狩野先生は京都大学東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』(東京創元社、1961年)の出版(下請けの仕事)に携わる。ここでいろんなことを勉強したとのこと。 そのころから狩野先生は聖心女子大学の小林分校に就職。そこで二年間勉強すると短大の資格が貰えるとのこと。その時期に狩野直禎「華陽国志の成立を廻って」(聖心女子大学論叢21、1963年)を書き上げる。狩野直禎「後漢時代地方豪族の政治生活」(史泉22、1961年)という論文を書く。これは[牛建]為郡の張氏について書かれていて、三国時代から離れて後漢時代だとのこと。 狩野直禎『両漢學術考』(筑摩書房、1964年)。吉川先生から言われた仕事とのこと。元は1924年の講義。後漢における老荘思想の萌芽。 宮崎市定先生が定年を迎える。普通は定年記念で論文集ができるが、人物往来社から中国人物叢書の企画があがる。第一回配本は随の煬帝で宮崎市定先生ご自身の著。第二回配本は「諸葛孔明」で狩野先生に割り当てられる。狩野直禎『諸葛孔明』(人物往来社、中国人物叢書2、1966年)。これに書くに当たって参考にした本がレジュメに書かれている。内藤虎次郎『諸葛武侯』(東華堂 1897年)。これは劉備がなくなった時点で終わっている。つまり未完。非常に細かく優れた内容。内藤先生は三顧の礼を否定。杉浦重剛・猪狩又藏『諸葛亮』(博文館、1913年)。古本屋で購入。宮川尚志『諸葛孔明』(富山房、支那歴史地理叢書、1940年)。植村清二『諸葛孔明』(筑摩書房、1964年)。 桑原隲藏「孔子と孔明」。これは「支那史上の偉人」というタイトルで1923年に大阪の懐徳堂で講演したときの紀要。のちに『東洋史説苑』(弘文堂、1923年)におさめられる。そこには桑原先生が「至誠一貫してその行動に一点の不純をも認めぬ」と断定。その中で中国嫌いの平田篤胤先生が「孔明の生涯の中で尤も感激に堪えぬのは、実に成敗を度外に北伐を実行して義務に殉じた時にある」と紹介されているとのこと。 その後、狩野先生は森鹿三/編『東洋の歴史』第四巻「分裂の時代」(人物往来社、1967年)で「三国の鼎立」、「西晋から東晋へ」、「民族の大移動」の章を執筆されたとのこと。それと平行して狩野直禎『魏晋學術考』(筑摩書房、1968年、1926年の講義内容)を執筆。狩野直禎『支那文學史』(みすず書房、1970年、1908年の講義内容)を出版。これは六朝文學。狩野直禎「李固と清流派の進出 田村博士頌寿 東洋史論叢」(1968年)を執筆。これはタイトル通り三国時代の前の話。狩野直禎『「三国志」の世界─孔明と仲達─』 清水書院、1971年 人と歴史東洋5。孔明についてそれ以前に書いたので、仲達を入れたとのこと。 ○質疑応答 質疑を呼びかけたものの、特になかったので、「ご講演ということで質疑はなし」ってことで終了。満場拍手。 ・三国志学会第一回大会懇親会へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/409
: 清岡美津夫
2006年9月10日(日) 23:34 JST
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