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掲示板 件名 最新投稿

リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)


  • 2009年12月27日(日) 19:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,498
歴史 ・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/

・曹操の墓キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091227/p1
<追記>曹操の墓キタ━つづき  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091228/p1
<追記>曹操の墓キタ━まだつづくんじゃよ  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091230/p1
<追記>「曹操の墓」に陪葬されたふたりの女性について  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100101/p2
<追記>安陽の「曹操の墓」が冉閔の墓だという説について  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100120/p1
<追記>曹操の墓の石碑に「トイレ」  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100125/p1
<追記>曹操の墓から出土した石碑が偽作との説  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100825/p1


 上記ブログ記事で知る。
 魏武王高陵(つまり曹操の陵墓)が発見されたという報道が2009年12月27日にあったとのこと。例えば(というより写真入りでの情報源の一つは)下記の「河南文物网」のページとか。

・河南文物网
http://www.haww.gov.cn/

・曹操高陵在河南得到考古确认  (※上記サイト記事)
http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html

 ここまで明白だと素人考えながら返って疑ってしまう。まずそれだけ銘(石牌)が出ているのに年月日の書かれたものがないこと(加えて、それだけに根拠を集約させていること)、画像石に描かれたモチーフが、後漢の典型すぎて既視感があること。続報が出ないままってことにならなければ良いけど。
 ちなみに史書上では次の記述ね。

・『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十五年春正月条

庚子、王崩于洛陽、年六十六。遺令曰:「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。

※追記<訳>庚子(紀元220年1月23日)、王は洛陽で崩御し、年六十六だった。遺令に言う。「天下はなお未だ安定せず、未だ古にしたがい得ない。葬が終われば、皆、服喪を止めろ。その将兵屯戍者は皆、屯部を離れるな。有司は各々、汝の職を修めろ。季節の衣服を(柩に)収め、金玉珍宝を(陵墓)に収めるな」 諡(おくりな)は武王と言う。二月丁卯(紀元220年2月20日)、高陵に葬る。(※清岡コメント。今さらだけど、『禮記』王制に「天子七日而殯.七月而葬.諸侯五日而殯.五月而葬. 大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、天子であれば七ヶ月後、諸侯で五ヶ月後、大夫、士、庶人でも三ヶ月後に葬るんだけど、戦時とあってか一ヶ月未満と早いね)


 ちなみに下記関連記事にあるように1977年3月に陳思王墓(曹植墓)と遺骨が発見されているので、曹操のものと期待されている亡骸とDNA照合できないかな、とひそかに期待している。

※関連記事 メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』

 それと伝世文献史料では、下記の『資治通鑑』の胡三省注にあるように、今回の記事にある河南省安陽県と違って、河北の鄴城の西に曹操高陵があることになっている。「西門豹祠」がどこにあるかがネックだそうな。
(※訂正。違ってない。Googleマップで確認すると今回の安陽縣安豐郷西高穴村は鄴城の西、さらには西門豹祠の西の位置にある)

・『資治通鑑』巻第六十九魏紀一黄初元年二月条(胡三省注)

丁卯、葬武王于高陵。(高陵、在鄴城西。操遺令曰:汝等時時登銅雀臺、望吾西陵墓田。魏紀載操令曰:規西門豹祠西原上為陵。)

※追記<訳>丁卯(紀元220年2月20日)、高陵において武王を葬った。(高陵は鄴城の西にある。曹操の遺令に言う。「汝らはおりおりに銅雀台に登り、吾の西陵墓の連なりを望め」 魏紀に載る曹操の令に言う。「西門豹祠の西の原の上を則り陵となせ」)


<追記>
それで中国情報局(サーチナ)で早速、日本語記事が出ているね。さすが仕事が早い。下記サイトで「曹操」で検索すれば、「三国時代「曹操の墓」発見か、カギとなる石牌を確認―河南省」という「2009/12/27(日) 19:23」付けの記事が出てくる。

・アジアへの扉、サーチナ。
http://searchina.ne.jp/

リンク:国学導航 四部索引


  • 2009年11月 1日(日) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,901
歴史 ※関連記事 第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)

 上記関連記事にあるように「第33回 秋の古本まつり」に行っていて、仏教関連に力を入れている古書店が結構、あった。そこで何となく下記の関連記事で触れた『高僧伝』があったら良いな、とぼんやり思いつつ本棚を眺めていた。

※関連記事 高僧伝(一)(2009年8月18日)

 三密堂書店のところで鎌田茂雄/著『中国仏教史』 (岩波全書 310)が2000円で売られていて、中身をちょっと読んだけど、『後漢書』やら『三国志』やら史書の記述に基づいている感じだったから(当たり前だけど世の中にはこれができてないのもあるので)、買おうか迷っていた。

 よくよく考えてみると、例え『高僧伝』があっても、三国時代前後の記述ぐらいしか読まないだろうから、猫に小判だろうし、何か買うのを思いとどまる。
 と言うのも、あるアイディアを思い付いており、ノートPCを起動し、ローカルに保存した『太平御覧』で「高僧傳」と検索し、そこに出てくる文を検索語句にして、ネットで検索する。それは下記の関連記事にある方法の応用だ。

※関連記事 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書

 そうすると、下記のように、サイト「国学導航」が出てくる。

・国学导航-中国国学经典在线阅读-免费的手机国学网
http://www.guoxue123.com/

 とりあえず[梁]慧皎撰『高僧伝』巻一をざっと読むと、康僧會のところで孫権が出てきてたり関連性がありそうだ。

メモ:『後漢書』傅燮伝


  • 2009年10月 4日(日) 00:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,763
歴史 ※関連記事
 『後漢書』朱儁伝の冒頭
 メモ:東漢人多為舉主行喪制服

 上記記事にもあるように、たまに手元の『後漢書集解』を読むわけだけど、今さらながら『後漢書集解』傅燮伝冒頭の集解部分が気に掛かる。

・『後漢書』傅燮伝

※本文

傅燮字南容北地靈州人也

<清岡による訳> 傅燮は南容と字し、北地郡の霊州県の人だ。

※「靈州人也」にかかる李賢注及び集解部分

靈州縣也[集解]惠棟曰此傳
全採燮孫元所撰傅子也

<清岡による訳> 霊州は県だ。[集解]恵棟が言う。この伝は全て傅燮の孫の元が撰した傅子を採用した。

※清の康煕帝の諱を避けて「傅元」になっているが、「傅玄」のこと。

8月25日は何進の忌日


  • 2009年8月26日(水) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,658
歴史 毎年、この時期は忙しいので、書けず終いだったけど、今回は十日前ほどに予め書いて、エディタに保管していた。(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「26日」から「25日」に訂正)

何かというと今日8月25日は何進字遂高の忌日、あるいは薨去した日。勿論、例の如く旧暦ね。

・『後漢書』孝靈帝紀

八月戊辰、中常侍張讓・段珪等殺大將軍何進、於是虎賁中郎將袁術燒東西宮、攻諸宦者。


・ 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)

戊辰、大將軍何進白太后、將決其事、謀欲盡誅諸常侍、選三署郎補其處。中常侍張讓・段珪相謂曰:「大將軍常稱疾、不臨喪葬、今忽入省、此意何為?竇氏意復起邪?」使侍者聽之、〔具〕(冥)聞進言。出坐省戸下、讓謂進曰:「天下憤憤、亦非獨我曹也。又先帝嘗與太后不快、幾至成敗、我曹泣涕救解、各出家財且千萬、共為禮、和悅上意、但欲託門戸於卿耳。今卿云何欲滅我曹種族、不亦太甚乎!卿言省内濁穢、公卿已下忠清、為誰乎?」於是尚方監渠穆拔劍斬進。珪・讓偽詔以故太尉樊陵為司隸校尉、故司空許相為河南尹。尚書得詔疑焉、請大將軍出議之。中黄門以進首與尚書曰:「何進謀反、以伏誅。」


つまり光熹元年八月戊辰(紀元189年8月25日)に中常侍の張讓と段珪の命令により尚方監の渠穆が何進を殺害する。
この二、三日後に張讓らも亡くなって董卓が入京するって流れ。

※関連記事 4月11日は霊帝崩御の日

※追記 メモ:「前漢後期における中朝と尚書」

※追記 8月27日は何苗の忌日

メモ:日有食之


  • 2009年7月22日(水) 12:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,240
歴史  うちの地域では11:05に最大日食になるんだけど、あいにくの曇り空だった。だけど、その数分前に雲の切れ目から、辛うじて三日月状の太陽(変な表現だが)を拝むことができた。

 そういや、後漢末から三国時代あたりで日食といえば、三公クラスの人が免官になるイメージが私にはあるんだけど、何に基づいたイメージかあいまいだったので、この際だから検索かけてみる。
 『後漢書』本紀で「日有食之」と検索してみて、ちゃんと引用元を書かず、以下、列挙してみる。


秋七月甲戌朔 、日有食之 。壬午、太尉朱寵・司徒朱倀罷 。 庚子、太常劉光為太尉、録尚書事;光祿勳許敬為司徒。

戊戌晦、日有食之。十一月、太尉劉寵免、太僕郭禧為太尉。

三月丙寅晦、日有食之。夏四月、太尉郭禧罷、太中大夫聞人襲為太尉。

三月辛酉朔、日有食之。太尉聞人襲免、太僕李咸為太尉。

冬十月癸丑朔、日有食之。太尉劉寬免。

丙子晦、日有食之。十一月、太尉陳球免。

九月庚寅朔、日有食之。太尉劉寬免、衛尉許戫為太尉。

夏四月丙午朔、日有食之。太尉馬日磾免、幽州牧劉虞為太尉。


 これらを見た第一印象では、そういえば月と太陽の位置関係上、旧暦の晦(月末)や朔(月初)に日食が起こるのは道理だ、と妙に感心していた。
 それで本題についてだけど、私のイメージの元は、昔、劉寬について検索しては読んでいたことがあったんだと思い出す。これらの記述を見ると、日食があれば主に「太尉」が免官になっているね。

 それでここが「三国志ニュース」ということで、『三国志』ではどうかというと、『三国志』魏書文帝紀の黄初二年六月(紀元221年6月29日、新暦で8月5日)の条に以下の記述がある。

戊辰晦、日有食之、有司奏免太尉、詔曰:「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹・湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職、後有天地之眚、勿復劾三公。」

 面倒だから(今のところ)訳さないが、太尉を免じるよう上奏があったものの、曹丕が詔で、以後、天地の過ちがあっても、三公を弾劾することを禁じているね。

 ここらへんつついてみると、ちゃんと説明した論文はありそうだ。


※参照記事 皆既日食観測ツアーin赤壁(2009年7月20日発4日間)


※リンク追記
・Twitter / @f_nisihara: 日食のせいでクビになった人 in 『後漢書』 - メ ...
http://twitter.com/f_nisihara/status/204187038130507778

6月27日は賈詡の忌日


  • 2009年6月27日(土) 11:09 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,865
歴史 『三国志』魏書文帝紀によると

(黄初四年六月)甲申、太尉賈詡薨。

<清岡による訳>
(黄初四年六月)甲申(紀元223年6月27日)、太尉の賈詡は薨去した。

とのことなので、6月27日は賈詡の忌日。黄初四年六月甲申の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換に依拠している。

※関連記事 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

メモ:[唐]許嵩撰『建康實録』


  • 2009年6月 2日(火) 12:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,104
歴史  電子文献としては持っているんだけど、句読点のない白文なものだから読みづらい。
 そんな折り、知り合いが中華書局のを購入したという。何かっていうと[唐]許嵩 撰『建康實録』(張忱石 點校)。神保町の株式会社 燎原(つまり燎原書店)から学会価格4000円だそうな(※今、下記サイトを見ると、定価4851円だね)。

・RYOGEN CO.,LTD.
http://www.ryogen.jp/

 説明が面倒なので、その書籍の冒頭にある「點校説明」の冒頭から以下、引用する。

建康實録二十卷、唐許嵩撰。這是一部記述呉、東晉、宋、齊、梁、陳六朝事的史籍、因六朝皆建都建康(呉名建鄴、晉愍帝改名建康)、故以為名。

 ということで、唐代に成立した三国呉を含めた六朝の史籍。「建康」とは三国呉でいう「建業」のこと。「実録」とあるけど全然それっぽくない。むしろ地方志。

『後漢書』朱儁伝の冒頭


  • 2009年4月17日(金) 20:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,508
歴史  どうも漢文離れが久しく、私にとってその先の創作になかなか進めないこともあり、良いスパイラルへ変えたくて、この場できっかけ作りをしてみる。
 何かというと、史書を自分なりに読んで、その一端を書いてみる。対象は宋范曄『後漢書』朱儁伝の冒頭とそれに対応する唐李賢(※というか章懐太子か)等の注と王先謙等の集解部分。

4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日


  • 2009年4月16日(木) 12:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,548
歴史 ・孫権の忌日  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」内書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2874


 以前、上記のリンク先のように書き込んだんだけど、『三国志』呉書呉主伝に、

(太元二年、紀元252年)夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。

<清岡による訳>
(太元二年、紀元252年)夏4月に孫権は薨去し、当時、年七十一で、大皇帝と諡をつけた。


とあって、亡くなった月日まで書いてない。ところが同書の他の伝、諸葛恪伝には

權疾困、召恪・弘及太常滕胤・將軍呂據・侍中孫峻、屬以後事。翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。

<清岡による訳>
孫権は苦しみ、諸葛恪と孫弘および太常の滕胤、将軍の呂據、侍中の孫峻を召し後事を任せた。翌日、孫権が薨去した。孫弘は元より諸葛恪と穏やかではなく、諸葛恪により治められることをおそれ、孫権の死を隠し訪ね、偽りの詔により諸葛恪を除することを望んだ。孫峻が諸葛恪に告げたため、諸葛恪は孫弘に面会を求め、座中でこれを誅することを図り、すなわち、死亡を公表し服した。弟の公安督の諸葛融に書で言う。
「今月十六日乙未の日、大行皇帝は万国を委棄し(崩御し)、群下大小は嘆き悲しまないものはなかった。


とあって、孫権が亡くなった日が記されている。
 冒頭のリンク先にも書いたが、念のため、中央研究院兩千年中西暦轉換で太元二年(紀元252年)の4月16日のところを見てみると、確かに乙未の日になっている。

 三国志ニュースの過去の記事を見ると、結構、四月に忌日(※仏教用語で言うところの「命日」)がくる人物が多い。下記にリンクと共に纏めてみよう。

4月
  4日 孫策
 11日 劉宏
 24日 劉備
 25日 蹇碩
 25日 夏侯惇
 26日 孫権

※追記 6月27日は賈詡の忌日

※追記 三国統一(280年3月15日)

古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)


  • 2009年1月25日(日) 21:13 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    266,152
歴史 ※関連記事 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

 上記記事を書くにあたり、そう言えばネットで楊守敬『水経注図』を見ることができることを思い出す。確か、サイト「三国志討論会」のチャットログで知ったんだ。

・三国志討論会
http://san-gokushi.com/debate/


 それでどこで見れるかというと、下記の早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」。

・古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/