※関連記事
12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日
上記関連記事の続き。
※関連記事
サイト「同人用語の基礎知識」で三国志関連
上記関連記事でも追記したように、下記サイトの下記ページを見ると、姜維(字伯約)の生没年で「202年~264年3月3日」としている。
・同人用語の基礎知識
http://www.paradisearmy.com/doujin/
・打ち間違い消し忘れ/ 同人用語の基礎知識
http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_umkw.htm
これの確認を取ろうと率直に『三国志』巻四十四蜀書姜維伝を見ると、
(景耀六年、紀元263年以降の記述)魏將士憤怒、殺會及維、維妻子皆伏誅。
<訳>魏の将士は憤怒し、鍾會(鍾会)及び姜維を殺し、姜維の妻子は皆、誅に伏した。
となり、特に没年月日の記述はない。一方、生年に目を向けると同伝で、
(建興六年、紀元228年の記述)亮辟維為倉曹掾、加奉義將軍、封當陽亭侯、時年二十七。
<訳>諸葛亮は姜維を召し倉曹掾にし、奉義將軍を加え、當陽亭侯に封じ、時に年二十七だった。
とあるので、当時は年号と同じく数え年だから、生年は紀元202年となる。
ここで共に殺された鍾會に着目し、『三国志』巻二十八魏書鍾会伝を見ると、
(景元五年、紀元264年一月の記述)十八日日中、烈軍兵與烈兒雷鼓出門、諸軍兵不期皆鼓譟出、曾無督促之者、而爭先赴城。(中略)姜維率會左右戰、手殺五六人、衆既格斬維、爭赴殺會。會時年四十、將士死者數百人。
<訳>景元五年一月十八日の日中に、烈しい軍兵と烈しい児は鼓を叩き門を出て、諸軍兵は皆、騒ぎ出る時を定めず、すなわち督促の者が無く、先を争い城に赴いた。(中略)姜維は鍾會の左右を率い戦い、自ら五、六人を殺し、衆は皆戦い姜維を斬り、争って鍾會を殺しに赴いた。鍾會は時に年四十で、将士の死者は数百人だった。
とあり、姜維字伯約の没年月日(忌日)は紀元264年1月18日で、享年63歳(数え年)だと判る。生年は前述の通り紀元202年なので、今年は生誕1810年だね。
一方、鍾會字士季の没年月日(忌日)は同じく紀元264年1月18日で、享年40歳(数え年)であるため、生年は紀元225年と判る。
それで話を冒頭に戻し、なぜ3月3日なるかというと、例によって下記の「中央研究院兩千年中西暦轉換」で紀元264年1月18日を見ると、その日は新暦の3月3日になるという理屈だ。
・中央研究院兩千年中西暦轉換
http://sinocal.sinica.edu.tw/
ちなみに下記関連記事の余談で書いたように、忌日を旧暦から新暦に変える場合、もう一方の方法だと毎年変わるので注意が必要となる(今年2012年は2月9日だね)。
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三国統一(280年3月15日)
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