今日が「成人の日」なんだけど、三国時代辺りではどの日なのか参考になるのが、『続漢書』志四礼儀志上の
正月甲子若丙子為吉日、可加元服、儀從冠禮。
と言う記述だ。つまり一月の甲子の日もしくは丙子の日に元服し(成人し)、冠礼の儀を行うため、毎年、同じ一月だが同じ日にはならない。 この「甲子」やら「丙子」やらは十干十二支による日付の表記で、それについては下記のリンク先参照。
・Re:九月「甲戌」等の実際の日 (※「
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http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1825
例えば三国志ファンにとって身近なところだと、『後漢書』紀九孝献帝紀にある献帝は
興平元年春正月辛酉、大赦天下、改元興平。甲子、帝加元服。
とあり、興平への改元の三日後となる194年1月甲子(16日)に年十四で元服している。
十干十二支は全部で60日なので、年によっては甲子とその十二支の一周後(12日後)の丙子も含まれない場合があり、そういう場合はどうするのか気になって、『後漢書』本紀を見てみると、紀五孝安帝紀での安帝は「(永初)三年春正月庚子、皇帝加元服。」と庚子の日に元服している。この月は壬辰から始まり己未に終わり、甲子も丙子もない。
冠礼の儀自体は『礼記』冠義に書かれており、『礼記』曲禮上では「男女異長.男子二十冠而字.父前子名.君前臣名.女子許嫁.笄而字.」とあり、男子であれば年二十で冠(元服)して字(あざな)し、女子は許嫁の際に笄(こうがい)を付け字すとある。
実際に当時、元服は年二十なのか、『後漢書』本紀で以前、下記リンク先のように皇帝について見てみた。後漢の皇帝については記録に残る分だと、年二十以前に元服するものばかりだった。
・後漢の皇帝の場合。 (※「
三国志ファンのためのサポート掲示板内」ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=653
それで誰が字を付けるかは、『三国志』巻四十八呉書孫休伝の注に引く『呉録』に載る孫休の詔に「今人競作好名好字、又令相配、所行不副、此瞽字伯明者也、孤嘗哂之。或師友父兄所作、或自己為;師友尚可、父兄猶非、自為最不謙。」とあり、最後の方に、師や友に字を付けて貰うのが良く、父や兄に付けてもらうのは良くなく、自分で付けるのは最もつつしむものと書かれている。
※リンク追記
・Twitter / @akeyamaa: 三国時代の成人の定義って何歳なんだろうなあ 20じゃ ...
http://twitter.com/akeyamaa/status/171983528437891072
※本記事とはまったく無関係だが、個人的に興味のあるネット・リテラシーの記録として残しておく。このツイートが2012年2月22日0:44で、ログを見るとおそらくその直後に、あたかも脊髄反射的に二つのドメインから0:44:37、0:44:53に「三国志 成人」と検索があって、0:45に本記事へのリンクを含むakeyamaa宛ツイートが行われ、ログによるとそのツイートからのアクセスが0:45:59になされた。一昔前ならば「
ググレカス」と言われ質問主を不用意に萎縮させ、結果的にフィルタリングされ、そういったやりとりが記録に残りにくかっただろうから、ネット文化の浸透という意味でも特筆すべきものだろうね。こういった現象は、疑問主にあるネット・リテラシーの不足分がネット・コミュニティ(あるいはツイッター)により緩衝されたと言うべきだろうか。あと特筆すべきは結局、この現象の発端となった疑問の解答は、『真・三國無双』シリーズに関する話の消費材として使われそうだということだろう。※2014年記録追記、07/08 (火) 20:30:31、07/08 (火) 20:32:57と別の二つのドメインから検索があり、07/08 (火) 20:36:39にはツイッターからのアクセスがある。そしてこういうのを見慣れているとベタなんだけど、一つのページをアクセスされるだけで、リンクを辿って他のページをアクセスされることがごくまれで、この記事もちゃんと読まれているかどうかわからない(実際、二十歳とは限らない例を出しているのに伝わった様子がない)。やはりこういったツイッターを介した伝達(というかページの紹介)というのは、軽く浅い消費と考えるのが自然なんだろうか。
※追記
女諸葛亮(2015年10月27日-)
※追記
リンク:當塗發現一東呉大墓(2016年3月11日-)
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