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『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(1975年)


  • 2007年5月 3日(木) 09:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,143
研究 京都市勧業館(みやこめっせ)の入り口 毎年、この大型連休の時期に京都古書研究会主催で京都市勧業館(みやこめっせ、写真)でやっているのが「春の古書大即売会」。今年で第25回で、5月1日から5日までやっている。

・京都古書研究会
http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/

 どんな催しかというと、広いホールに本棚がずらりとならんでいて、それぞれのスペースに京都を初め大阪や奈良の古書店が出店していて、いろんな古書を物色できる会。出店されている古書店は44店(さっきチラシから一回だけ数えたけど、数え間違え失礼) 会計は会場奥の壁際のカウンターで一律だし、買い物かごも用意されているので、ついつい買いすぎちゃう。
 昨年は三顧会と日程が重なったこともあってか、行けず仕舞いだったが、今年は都合が着いたので、行くことに。
 といっても15時半ぐらいに会場へ到着。荷物を預け、あれこれ古書を見て回る。値段は高いが『冊府元亀』や『康煕字典』がドカーンとセットで置いていたり、『三才図会』がさりげなく置いていたのはさすがだなぁって思った。ちなみに『中国社会風俗史』は1200円で売っていた。
 今回、そのまま旅行に行く予定だったので、良い本があっても心の中で難癖つけて、荷物にならないように勉めた。そのため漢代の出土物の展覧会の図録をあきらめる(難癖:半分ぐらいが興味ない唐代のものだから)。
 そんなことを思いながら、うろちょろしていたら、いつの間にやら時刻は16時20分。荷物預かりは16時半までだったので、慌てて、もったいないとばかりに気になっていた本を取りに行き、カウンターへ急ぐ。
 それは樋口隆康/著『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(<新潮選書>新潮社、1975年)。500円なり。

 暇を持て余す旅行の移動中とは言え、すでに旅のお供に『中国社会風俗史』と『画像が語る中国の古代』を携帯していたので、『古代中国を発掘する』を読み始めるのは半年後ぐらいになるだろう、と思っていた。ところがその二冊は既読ともあって、いつの間にやら手を伸ばしページを開いている。
 冒頭の「まえがき」を見ると「私の同学の京都大学人文科学研究所の林巳奈夫君」と林巳奈夫先生の名前が不意に出てきていて思わず食いついてしまう。その後、本編でも何度か林巳奈夫先生のお名前が出てくる。
 続く「序 ─世紀の大発見─」では原田淑人「盗掘」(『東亜古文化説』昭和四十八年刊)や楊伯峻の論文からピックアップした盗掘の話が印象に残った。そこには三国時代の盗掘や発掘された劉表の墓の話(『水経注』ベン水注と、『三国志』劉表伝)が載っていた。
 その後は馬王堆の漢墓について書かれてある。一つの墓についてだから狭く深くしか書かれていないように思ったが、墓自体について出土品について時代背景についてなど多岐にわたりどれも文献からの引用を交え事細かに書かれており、挿図も豊富なので、興味を失うことなく読み進めることができる。例えば帛画に描かれている絵画の説明は林 巳奈夫/編『漢代の文物』を彷彿とさせると、馬王堆漢墓の婦人の遺体の調査のところは冨谷至/著『古代中国の刑罰』を彷彿とさせる。

※馬王堆漢墓についての関連リンク
・2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

 三国時代より前の時代のことながら、三国志に書かれた当時の社会風俗の一部が浮き彫りになるようで面白い(いや、このサイトが「三国志ニュース」なもんでとってつけたような文を入れてみる・笑)。
 以下、『古代中国を発掘する』の目次を引用。

まえがき

序 世紀の大発見

第一部 馬王堆の漢墓

1 長沙の国
2 馬王堆一号墓の発掘
3 槨と棺
4 逸品ぞろいの副葬品
5 なぜ保存がよかったか
6 被葬者は誰か
7 長沙と楚の文化
8 馬王堆二号、三号墓の発掘

第二部 満城の漢墓

1 隠されていた墓
2 崖墓のしくみ
3 復原された金縷玉衣
4 副葬品のかずかす
5 劉勝と竇綰

結び 前漢時代の墓制

1 雄壮な帝王陵
2 堅穴墓から洞穴墓へ



以上、旅行中の山口県の岩国駅近くのファーストフードより。

メモ:二つの学術刊行物


  • 2007年4月13日(金) 12:08 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,642
研究

 私のような素人が、学術関連、特に史学関連の情報を知るのにとても重宝しているのは下記の關尾先生のブログ。ブラウザについているRSSニュースフィードで更新をチェックしている。
 ※ブログのタイトルには当たり前だけど敬称がなく、ここで取り上げるときにはいつも付けているが、今回は紛らわしいので敬称略。

・『關尾史郎のブログ』
http://sekio516.exblog.jp/

 実は上記ブログ以外にも關尾先生には個人的な趣味のブログがあって、それが下記。タイトルの初めの文字が違うんだね。

・『関尾史郎のブログ』
http://sekio402.exblog.jp/

 『關尾史郎のブログ』の方で気になる刊行物を見かける(と今更のメモだけど)。

・『西北出土文献研究』第5号,入稿間近!
http://sekio516.exblog.jp/5341600

 この号は「画像磚墓・壁画墓の特集号」ということでそれ自体、とても興味深いんだけど、その中でもとりわけ個人的には

>小林 聡「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」

がとても気になる。進賢冠ファンの私としては興味深いし、中国古代服飾ファンの諸兄(?)も読んでおきたいところだろうね。幸運には「書店を通じて販売の予定」があるとのことなので、資金に余裕があれば購入したいところ。でも、下記のように第4号が出たばかりだからまだ先なのかな?

・『西北出土文献研究』第4号、刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5404246

<4月17日追記>
今更気付いたけど、ここを書いた夜に刊行の記事がアップされている。

・『西北出土文献研究』第5号,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5502972

1500円。ころあいを見て書店(東方書店とか?)へ問い合わせだな。
<追記終了>

 刊行された『長沙呉簡研究報告』第3集を例に取ると、タイトルにある「入稿」の次に「刊行」ってのが来るんだろうね。

・『長沙呉簡研究報告』第3集,入稿!
http://sekio516.exblog.jp/5286728
・『長沙呉簡研究報告』第3集,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5357377

 『長沙呉簡研究報告』第3集は第1集、第2集がそれぞれ国際シンポジウム後の論文集であったのと同じように、2006年9月17日の長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の論文集で、買っておきたいところ(また、あの地に足のついた三国時代に浸りたいね)。送料の関係から、前述した『西北出土文献研究』第5号とまとめ買いしたいところだ。

<追記>
・ご挨拶
http://sekio516.exblog.jp/5433102

 上記のリンク先のように、実はブログを出版する話があったそうで、出版されるようであれば私は買いそう。学術史的にも後世、貴重な資料になるのでは、と。


※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
 

中国社会風俗史


  • 2007年3月30日(金) 20:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,808
研究  前々から話に聞いていて、サポ板でも何回か出ている『中国社会風俗史』が欲しくなり、お馴染みサイト「日本の古本屋」で検索すると、あじろ書林中川店という古書店に置いてあることがわかり2006年12月9日に買いに行く。

・日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/

・あじろ書林中川店
http://ikaino.com/

※追記 第34回 秋の古本まつり(京都古書研究会)

※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日)

※追記 第36回 秋の古本まつり(京都古書研究会2012年10月31日-11月4日)

 その古書店は大阪駅前第3ビルの地下にあり、そこを目指し、大阪駅近くの地下をひたすら歩く。平日はよくわからないんだけど休日の大阪駅前第1~第4ビルの地上部分は店がほとんど開いていないのに対し、地下は奇妙ににぎわっていて、来るたびに変なカルチャーショックをうける。私にとってはすごく独特な雰囲気に思える。第3ビルの地下一階で目的の店が見つからず、その場でノートパソコンを開いて確認。ちゃんと電波がとどくようで、目的地はどうやら地下二階にあることがわかる。
 それでお店の人に聴くまでもなく、東洋文庫用の棚があったんで、『中国社会風俗史』が二冊ならんでいた。それぞれ1500円強。定価を見ると、それぞれ550円と600円。
 あれ、プレミアついているのかな、と思い、一旦、店の外の廊下に出て平凡社のサイトで定価を調べる。

・平凡社
http://www.heibonsha.co.jp/
・東洋文庫
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=series.toyo/

 そうすると「定価:2835円」を見かけたし、品切れとのことなので、安心し古書で購入する。

東洋文庫 151
『中国社会風俗史』
尚秉和/著・秋田成明/訳

 その日からだらだらと読んでいたんだけど、さっきようやく一通り目を通す。内容はいろんな中国古代の社会風俗に関すること(下記目次参照)を項目ごとにそれぞれエピソードを文献から引用しつつ紹介していき、当時の様子を浮き彫りにしている。紹介されたエピソードはそれぞれ番号が振られていてどこからの引用かがちゃんと明記されているので、ちゃんと確認できて良い。深く知ろうと思えば、それを手がかりにどんどん手繰れるのだ。
 『三国志』に載っているエピソードや三国時代のエピソード、例えば『世説新語』に載っているものなど、意外と多く載っているし、載っていなくとも三国時代あたりの社会風俗を知ろうと思えば、漢代や晋代のことを読めば推測の助けになる。ただ挿図の少ない本で、あってもとくに畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている様子がないので注意が必要となる。
 それほど一通り眺めた感じで深くは読んでいないが、おそらく必要に応じて、後からたぐることになると思う。例えばネット上で「曹丕はおはじきが好き」とか見かけると、「ソースは何?」と気になると、『中国社会風俗史』の「第三十四章 各種の遊戯」の「(二)弾棊」を見ると、魏の文帝が弾棊に優れていたという旨の文章をみかけ、さらに引用元(『世説新語』巧藝)を辿ることができ、近いことを知ることができる。

彈棋始自魏宮内、用妝奩戲。文帝於此戲特妙、用手巾角拂之、無不中。有客自云能、帝使為之。客箸葛巾角、低頭拂棋、妙踰於帝。

 ちなみに巻末にある解説(秋田成明/著)によると、この『中国社会風俗史』は民国27年(西暦1938年)4月に発行された尚秉和/著『歴代社会風俗事物考』四十四巻のうち三十六巻を訳したものとのこと。残り八巻が気になるところだね。


○目次

第一章 冠髪
  一 冠
  二 美髪・化粧
第二章 衣服
  一 周代
  二 漢代
  三 魏晉、六朝以後
  四 佩帯品
  五 女性の服装
第三章 履物
第四章 飲食
  一 昔の料理法
  二 食事礼法
  三 食器および食料品
  四 酒
第五章 住居
第六章 坐席
第七章 廁
第八章 昔の家庭生活
第九章 燈火
第十章 火・水・木の利用
第十一章 周代の車馬
第十二章 漢代以後の車馬
第十三章 城郭
第十四章 都市の道路
第十五章 商業
第十六章 祭祀
第十七章 祝日
第十八章 迷信・禁忌
第十九章 医療・追儺
第二十章 学校
第二十一章 文具
第二十二章 結婚
第二十三章 喪礼
第二十四章 葬儀
第二十五章 墳墓
第二十六章 敬礼
第二十七章 訴訟と刑罰
第二十八章 官吏の生活
第二十九章 平民の任官制度
第三十章 賦役と戸籍
  一 租税
  二 夫役
  三 戸籍
第三十一章 奴婢の売買
第三十二章 旅行
第三十三章 軍事
第三十四章 各種の遊戯
第三十五章 社会雑事
第三十六章 芸妓

2007年7月29日三国志学会第二回大会


  • 2006年12月27日(水) 22:35 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,116
研究  下記のブログより三国志学会の学会誌『三国志研究』第一号が発行されたことを知った。

・古代中国箚記
http://ancientchina.blog74.fc2.com/
・『三国志研究』第一号
http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-48.html

 ついに発行されたのか、と興味を抱いていて、ふと何か肝心なことを忘れていることに気付く。
 あわててうちの郵便受けを見てみると、三国志学会からの封筒が届いていた。中をあけてみると、プリントと『三国志研究』第一号が入っていた。そうそう申し込んだんだった。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 プリントには次回の三国志学会第二回大会の予定もかかれてあった。

 三国志学会第二回大会
会場:大東文化大学板橋校舎多目的ホール
日時:2007年7月29日日曜日 10:00-17:00

 『三国志研究』第一号の編集後記によると、この予定は変更の可能性もありとのこと。

<2007年7月1日追記>
会場は「大東文化大学 板橋校舎 30114教室」に変更になったようだ。

・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

<追記終了>

 話を『三国志研究』第一号に戻し、下記に箇条書きで記す。

・『三国志研究』第一号
発行:2006年12月15日
価格:1500円
ISSN:1881-3631
内容:
 三国志学会 設立趣意書
 三国志学会会則

 講演
  狩野直禎  私と三国志
 論考
  石井 仁  呉・蜀の都督制度とその周辺
  和田英信  建安文学をめぐって
  竹内真彦  呂布の装束 ──その意味についての考察
  渡邉義浩  九品中正制度と性三品説


 講演と論考の前者三つは三国志学会第一回と関連し、論考の四番目はこの第一号で初お目見え。関連したものでも下記リンク先からもわかるように、タイトルを変えているものもある(まだ中身は読んでいないが、それは後日、じっくり読むとしよう)

・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

 第二号の現行の締め切りは2007年3月31日。第一号の編集後記によると「研究者以外の方々の原稿も広く募集しております」とのことなので興味のある方はどうぞ。

「長沙呉簡の世界」ノート4


  • 2006年11月14日(火) 00:23 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,135
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート3からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/428


 お昼休みも終わり。次の報告へ。

○報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」

 13:40スタート。予稿集にA4で13ページの資料がある。中国語のご報告ということなのでそれは中国語(繁体字)で書かれている。巻末の5ページにわたり中國・日本で人物ごとに長沙呉簡の研究が論集・論叢8つからリストアップされている「參考文獻略稱」は役立ちそう。

※注
 ご報告は中国語だけどそれが終わった段階で、日本語での要約があるとのこと。清岡にとって中国語はさっぱりなので、ご報告中、中国語のわかるしずかさん(短期留学帰り)の予稿集のページめくりに合わせながら、ご報告を聞いているそぶりにつとめた(笑)。
 というわけでここではご報告本編というより日本語要約のノートとなる。

 1996年に出土された長沙呉簡、その研究はすでに史料集は2つ、論文集が8つだされ、関連論文は100点を越える。研究内容は非常に広い。ここでは中日両国の参照論文だけとりあげる。論評して、中日両国の研究の趣向や方向について述べる。

一 關於長沙呉簡的性質
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 まず長沙呉簡の性質について。[木當]案(役所の文書)であることは間違いないが、どの役所に帰属するものか、三つの説がある。
※以下3つ、予稿集の写し

 (一)長沙郡有關各曹文書[木當]案(胡平生・宋少華1997A・1997B)
 (二)臨湘縣・長沙郡文書[木當]案(王素・宋少華・羅新1999A)
 (三)臨湘侯國田戸曹文書[木當]案(關尾史郎2005)

 (三)については新しい説。この性質について検証をまつ必要がある。

二 關於≪田家[艸/別]≫的性質

 いわゆる≪田家[艸/別]≫の性質について。今回でも何度か触れられているようにこの大木簡の性質について主に九つの説があげられている。その中の(三)納税人總帳(關尾史郎1998・2001A、伊藤敏雄2003)と(四)郷租税簿(張榮強2001・2003)の二つが有力だろう、とのこと。

三 關於≪田家[艸/別]≫田地的性質

 ≪田家[艸/別]≫の中で言及される田地について。

(一)二年上限田
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 主に六つの説があるうちの(4)根據輪耕制制定的按照二年一墾標準収取官租的規定(張榮強2001・2003)と(5)以二年為周期進行輪耕或休耕的田地(呉榮曾2001、孟彦弘2004)の二つ。総合的に見ればこの二つの説が正しく、それ以外は成立しないだろう。

(二)火種田
 主に五つの説があり、(4)火耕水耨田(張榮強2003)と(3)刀耕火種・燒兩次耕種・夥同互助耕種三田選一(呉榮曾2001)の二つが妥当。「田家[艸/別]」であり稲を収穫しているので(4)だろうと王素先生が考えている。

(三)餘力田與餘力火種田

 主に六つの説があって厳格に言えばそれぞれ根拠があるがどれも充分ではない。(※清岡注。このあとのところはよくわからず)

四 關於≪田家[艸/別]≫的統計錯誤

 ≪田家[艸/別]≫にでてきた統計上の誤りについて。土地面積や合計などの数に大分、誤りがある。これについて主に三つの説がある。具体的に、共通にあがっているある郷の特定の郷吏が誤ったものだろう、という説であろう。

五 關於丘的性質及其與郷・里的關係

 非常に重要なこと。丘と郷・里の関係。主に十の説。十のうち三つが妥当。(三)丘陵地區村落(王素・宋少華・羅新1999、張榮強2001、李卿2002、宋超2005)、(四)居住地或居民點(關尾史郎2001B・侯旭東2004)、(五)含有田地的居住地。「丘」というのは孫呉時期特有のものだと思われていたのが、先ほどの報告にもあったように後漢時期では「丘」と「里」が併用されている地域もあるので、孫呉時期特有という説は誤り。この「丘」というものの性質を理解するのに王素先生はご自身の一つの経験を紹介し、それを参考にしてほしいとのこと。つまり1969年冬に湖北省荊門県にいったときの話。そこは典型的な丘陵地区で山間に細長くのびる、「沖」(チョン)と呼ばれる低地が多数あった。それぞれに○○沖って言う名前が付いていた。細長いのでいくつもの行政単位に分かれていた。例えば土地の農民に「あなたはどこの人ですか?」ときくと「▽▽生産隊の人間で○○沖に住んでいる」と答えた、とのこと。これについて生産隊が当時の「里」に相当し、沖が当時の「丘」に相当すると考えれば、この問題はすっきり解決するのではないか。

六 關於戸口簿籍及其相關問題

(一)戸口簿籍的分類與定名

 まず戸籍簿の分類と名前の付け方。ここでは主に七つの説がある。この中で(七)吏民年紀簿・叛走人名簿・師佐年紀簿(關尾史郎2005)が最も孫呉時期の実際の状況に即しているだろう。

(二)戸口簿籍所見“殘疾病症”

 戸籍の中にある傷害や病気の問題について。ここでは12種類の見解がある。諸説入り乱れ結論がでない。多くの説にはどれも賛成できない。それらの中で傷害や病気が免役の目的なのか、そういった観点を高く評価している。また何の病気がどれにあたるかというのも検討しなければならない。

七 關於邸閣・倉・庫及其相關問題

(一)邸閣的性質與作用

 「邸閣」という言葉について。五つの説がある。鍵は「關邸閣」という言葉の「關」をどう理解するか。「關」というのは動詞だという説があり、王素先生はそれには道理があるとのこと。

(二)三州倉・州中倉及庫的性質與作用

 これについて七つの説がある。ただ倉・庫吏が県吏である、ということは成立しない。州中倉は郡倉である、と王素先生は考えておられる。倉と庫は一緒に存在しており、庫は倉に附属している、という考えをどちらかというと支持している。

(三)邸閣主管與倉吏・庫吏的身分

 邸閣に関係する吏の身分について。これは州吏県吏の一種の職役だろうという意見に賛成している。

小結
※このタイトルもレジュメの写し

 非常に多岐に問題がわたっているが、非常に大事なところに、中国と日本の研究者の注目する問題に違いがある。中国では賦役とか身分とかに注目するが日本ではあまりない。日本では基礎的な研究を重視するが中国ではそういう研究は非常に少ない。両国で共同で努力することは非常に大事である。日本の多くの研究は重要で、この分野に非常に貢献している。呉簡について新史料が続々と現れるのでこの分野の前途は非常に明るい、と信じているとのこと。

 質疑は特になし。


・「長沙呉簡の世界」ノート5へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/642
 

白川 静 先生、死去


  • 2006年11月 2日(木) 07:55 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,065
研究 訃報です。
2006年10月30日に白川 静 先生が多臓器不全のため死去されました。96歳でした。

・読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/
※ここの「おくやみ」のところです。

個人的なことなんですが、三国志や後漢書などの漢文を読むとき、白川 静 先生のご著作「字通」(CD-ROM版)には常にお世話になり続けていました。
また、京都でたびたび開催されるご講義に一度でも参加しておけばよかったという後悔の念でいっぱいです。

白川 静 先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。

「長沙呉簡の世界」ノート3


  • 2006年10月15日(日) 13:58 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,706
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/425

○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」

 11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。
 本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。

1. はじめに
※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか?
 しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。

2. 長沙呉簡名籍の検討

 いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。

(1)名籍にみえる「戸」と「家」
※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。
 民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。
※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。
 この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。

(2)名籍の書式

 名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ
 例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。

(3)名籍にみえる戸人と戸数・口数

 戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。
 さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。

3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察

 復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。
 まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例
 他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。
 ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。

4. むすびにかえて

 民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。

 12時30分終了。

 時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。


○昼食・休憩(12:25~13:30)

 予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。



・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/448
 

長沙呉簡研究会


  • 2006年10月12日(木) 19:09 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,956
研究  1996年に長沙市の走馬楼から十数万枚も三国時代・呉の簡牘が発見された。あまりにも大量のため十年目の今日でも整理がついていない状況であるし、史書のようにまとまったものでもないが、当時の「生」の情報が得られるということで私のような素人目に見ても当然、その資料的価値は非常に高い。
 と、この簡牘の内容が多岐に渡っていて、全然知らない人向けへの文を書けそうにないので、下記のリンクを参考にされたし。

・睡人亭
http://www.shuiren.org/
・走馬楼呉簡
http://www.shuiren.org/sangoku/chikkan.htm
※「三国志の頁」内にあるんで一般の三国志ファンに分かりやすく書かれていておすすめ

 この簡牘に関する研究会が日本でも1999年9月に発足されており、その研究会のサイトは下記にあるので、詳しくはそちらで。

・長沙呉簡研究会
http://h0402.human.niigata-u.ac.jp/prof/research/chosa.htm

 このサイトには長沙呉簡研究会の過去の発行物および活動の紹介以外に、「長沙走馬楼呉簡一覧・統計表」や「長沙東牌楼漢簡一覧表」がある。
 前者は過去の論稿からの抜粋。PDF形式。今年の6月21日、27日、28日、30日、7月4日と集中的にアップされている。見てみると釈文が書いてあるやつもあって、読んでいて面白い。

・「長沙呉簡一覧・統計表」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/3673459

 後者は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)と対応が効いて便利。

・「長沙東牌楼漢簡一覧」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/3839252

「長沙呉簡の世界」ノート2


  • 2006年10月11日(水) 22:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,935
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/421

○報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」

 11時7分スタート。予稿集4ページとは別にA4の7ページのレジュメ。予稿集を読み上げる形で報告をすすめていくとのこと。主に走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の比較の報告。

緒言
※この小タイトルは予稿集の写し

 日本の長沙呉簡研究会の「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集や羅新先生がお勤めになっている中国の北京大学の北京呉簡研討班の『呉簡研究』第1輯・第2輯などにより広く学界に共有。
 しかし、走馬楼呉簡は文献史料との接点が極めて少なく、理解の共有化に至るには困難。一例として「丘」の問題。それまでの文献中心の研究から知られなかった「丘」という存在が走馬楼呉簡の研究の一つの軸になった。いまだ論者同士で議論が平行化。
 少ないながらも文献史料と呉簡の接点を探ることで、従来の文献から得られた研究成果を活用するのもあり得る。「丘」について具体的には中国古代の地方行政制度史の研究蓄積を活用。
 これまでの走馬楼呉簡から文献史料を凌駕する知見が得られていないが、見方をかえて孫呉政権下の臨湘において国家の統治統制が及んでいたことは間違いないため、そういった累積的な国家統治機構の延長上で「丘」をどうとらえるかという方法が可能。さらに後漢から孫呉で統治機構がどう変わったかというのも論点となりうる。
 走馬楼近くに東牌楼簡牘(後漢末)が発見される。走馬楼呉簡には「官文書簡牘」と分類されるのが公開されていて、それに対する東牌楼簡牘でも行政機構間の職務上のやりとりの記録がある。二つの文書群と記載された内容を比較で機構の変容があったかどうか探ることができる。
 以上のように、この報告は走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述を比較検討しながら、従来の研究に依拠し、当時の臨湘県や長沙郡において実現していた国家統治の具体相を論じる。「丘」の問題を全面的にとりあげない。高村武幸先生・侯旭東先生の「郷」に関する研究、羅新先生の督郵に関する研究に学びながら、「郷」の問題を取り上げる。

1. 呉簡から見る孫呉期臨湘侯国下の郷
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 「郷」に関して、ここにいる人に説明不要だとおもうが、一応、プリント(レジュメ)1ページ目で文献に見られる「郷」をとりあげた。
 孫呉政権期の臨湘侯国治下における「郷」のあり方について、高村武幸先生(「長沙走馬楼呉簡に見える郷」)と侯旭東先生(「長沙走馬楼三国呉簡所見“郷”与“郷吏”」)の「郷」に関する研究に依拠しながら紹介。
 吏民田家[艸/別]の表題簡には「南郷」などの郷名があったが小型竹簡の公表でさらに多くの郷名を確認。代表的なものはレジュメに記載。都郷・北郷・西郷の「方角名+郷」以外にも広成郷・小楽郷などの郷名もあり。ちなみにこれらの郷が臨湘侯国に属するかは議論が分かれている。
 走馬楼呉簡の「官文書簡牘」にも「郷」の字が数点みられる。それらは「勧農掾」と関係する内容がある。例として簡番号J22-2543(『文物』1999-5 彩版参-1 .戸籍)のところ。予稿集に釈文、レジュメにその書き下しが載っている。さらにレジュメに別の二つの記述の釈文とその書き下しが載っている。この勧農掾はどういうものなのか議論の余地あり。県吏? 漢代の郷嗇夫と同じとみるのは難しいが、漢代と孫呉期の郷とにそれほど大きな違いはなさそう。
 レジュメにある二例目の簡番号J22-2546(『文物』1999-5 彩版肆 1 .戸籍)の「一人夜」や「四人真身已逸」となっている釈文は実際、小嶋先生が簡牘をみたら、それぞれ「一人被」、「四人真身已送」という可能性も感じたとのこと。
 プリントの2ページ目に「呉簡に見える郷」という項目でまとめられている。

2. 呉簡から見る臨湘侯国と長沙郡の関係-督郵の存在から-

 督郵の基本的な資料はプリントの3ページ目。漢代では郡吏として県の監察を掌握、監察区域は郡の内部でいくつかに区分。呉簡で督郵あり。羅新先生の研究(「呉簡所見之督郵制度」)がある。
 呉簡に「中部督郵」が見られる。その他「東部」。租税徴収業務に何らかの関与→プリント3ページに抽出。督郵が長沙太守の指揮下にあったことを示すもの等
 木牘(簡牘番号J22-2540 『文物』1999-5、彩版参)の方にも見られる。予稿集にその箇所が引用されている(プリントの4ページには書き下しあり)。郡吏である督郵と録事掾以下(県の属吏)の関係を考察。督郵の告発を受け、取り調べが行われていた。胡平生・李天紅『長沙流域出土簡牘与研究』(湖北教育出版社、2004)の611ページに中賊曹掾の陳曠が調査報告した事例の釈文あり(しかし督郵は出てない)。小嶋先生の考えでは告発までが督郵の仕事でそれから先の取り調べは別。
 藤岡喜久男先生の研究(「督郵研究」)では督郵はまず属県への監察が先行(論拠は漢代でもっとも古い記述、漢書尹翁帰伝)。羅新先生の研究では郵便通信機関に対する監察が先行。
 文献から見られないことで呉簡に見られたことは勧農掾の存在と勧農掾が県の指示で戸籍の照合等を行っていたこと。督郵の存在が明確に見られる。臨湘が中部督郵の監察下にある。
 呉簡は「漢制の枠組みの継承」という点で格好の史料。東牌楼簡牘と比較することで深化した検討が可能。

3. 東牌楼簡牘に見える長沙郡と臨湘県

 「東牌楼簡牘」は走馬楼のすぐ近くの長沙市東牌楼の古井から発見。木簡・木牘・封検・名刺・簽牌など。後漢霊帝期の年号が多く記される。ここでは最近、刊行された長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)の釈読に従う。
 ここで注目するのは次にあげる五つの点。
(1)臨湘県の「東部勧農郵亭掾」の名を記した「封匣」がある。→プリント4ページに記載。勧農掾と県との関係について考えを深化可能
(2)「監臨湘」の李氷と「例督盗賊」の殷何が起草した上行文章(簡牘番号五 1001号)→プリント4ページに記載、以下同じ。この二人が「中部督郵」の掾の檄を受けての文章。
(3)臨湘の県令(簡牘では「守令」)が上言した文章(簡牘番号一二 1105号)
(4)東牌楼簡牘に「丘」の記述あり。呉簡に見えない「度上丘」。呉簡にみれる「桐丘」。「丘」は霊帝期にも存在。小嶋先生個人としてはショックを受けたとのこと。
(5)様々な姓の記述。呉簡に見られる姓と共通のものが多い
 その他、プリントの方に督郵の記述の資料。
 孫呉政権は基本的に後漢からそのまま継承している。

 報告終了

 質問というより補足。プリント2ページの終わりの方。誤「5分の1」→正「7分の1」


・「長沙呉簡の世界」ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/428

※追記 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)
 
 

「長沙呉簡の世界」ノート1


  • 2006年10月 2日(月) 23:58 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究

 ・2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノートからの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/417

 中国からの先生が到着するのを待つために5分押しでスタート。
 まず総合司会の三崎良章先生から会場の注意事項についてアナウンス。

○開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学)

 窪添慶文先生の挨拶。中国訳が逐次入る。長沙呉簡の紹介と研究の現状について。呉簡の全貌が明らかにされていないが、最近、北京大学を中心とした北京呉簡研討班による『呉簡研究』第2輯が刊行されたことなど。日本の長沙呉簡研究会のも含めた今までの研究の流れも紹介。あと、中国から来られた王素先生、宋少華先生、羅新先生、それから韓国からの朴漢済先生の一人一人の紹介。紹介ごとに先生が起立され、その都度、拍手。あと日本からの阿部幸信先生、小嶋茂稔先生、町田隆吉先生のご紹介。


○主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学)

 予稿集の1ページ目を開くように言われ、そこには「主旨説明」と銘打たれた文章が2ページに渡りあった。基本的にはそれを關尾史郎先生が読み上げていく。1996年に長沙市の中心街である走馬楼の工事現場の古井戸(J22)から大量の簡牘が見つかったことから始まり、その価値、影響や研究動向について解説され、その後、このシンポジウムで発表される報告について一つ一つ順に概略を述べられていた。
 主旨説明が終わると拍手。

○報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」

 予稿集とは別に資料があるA4の2ページの資料と附表が配られる。

はじめに
※この小タイトルは予稿集の写し

 昨年の8月に行われた北京大学での長沙呉簡の国際シンポジウムでの日本側のデータベースの発表に中国側から強い関心が寄せられたので、それを受けての報告とのこと。

1.嘉禾吏民田家[艸/別]とは
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 まず田家[艸/別]の説明。50センチメートル前後の木簡で、面積に応じた租税額の計算と納税の確認が記録されているとのこと。それぞれの情報はすべて1枚におさまっている。記録された年度は嘉禾四年と五年(西暦235,236年)に集中しているとのこと。長沙のこの時期について詳細な情報が得られる。
 その記載例が予稿集とレジュメに書かれている。記載例に項目ごとに順に番号が打たれていてその後、それぞれの意味するところが説明されている。「(1)丘名(2)身分(3)姓名(4)田地の総数……(30)銭の納入先(31)校閲日(32)校閲者の官職・姓名(名は自著)」といったようなこと。ここで予稿集とレジュメ両方間違っていると言うことで訂正。予稿集とレジュメは釈文(実物を見て解釈された文)に則って書かれたが、写真を見ると、違っていたとのこと。正「(32)田戸経用曹史趙野張惕陳通校」。訂正前は「用」が抜けていた
 田家[艸/別]の性質としては今のところ不明とのこと。

2.数値データベースの紹介

 データベースは簡番号、釈文、『嘉禾吏民田家[艸/別]』の掲載ページ(写真版・釈文)いうシンプルなもの。入力作業そのものは2001年に終了。しかし、釈文と写真版を比べるとあれこれ論ずる点が出てくる。例えば「丘ごとの納税者の偏り、年度ごとの記載情報の特徴」とか。こういったことはデータベースの副産物。
 さらに進んで、データベースを検索システムにとどめず、数値化し、田家[艸/別]全体を分析・利用する手段にしようという動きが出てくる。
 具体的には、阿部幸信・伊藤敏雄/編『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』に載っている三つの数値一覧、(1)阿部幸信/編「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」(2)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]米納入状況一覧」(3)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]における丘別・倉吏別米納入状況一覧」。この本のタイトルに「(I)」とあるのはまだ全部じゃなくごく一部で、全部は膨大な量とのこと。
 続いて『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』の作成の背景について。田家[艸/別]は木簡一枚ごとに完結したものなので、できるだけ多くの複数枚のデータを抽出して比較検討する必要がある。田家[艸/別]のように田地の状況と課税の過程が詳細に表れている史料はなく、さらにそれが2000点以上もまとまっているので、数値データベースの手法が有効な手段の一つとしてでてきた

3.「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用事例─町数と畝数の関係を中心に─

 数値データベース、「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用例(一例)について解説。判別不能な部分も逆算して求めることもしてある。
 田地の数(町数)と田地の総面積について双方にについて判明するものを選別。
 「丘」が田地を含んだ一定の空間的広がりをもつものであるとしてここでは扱う。田家[艸/別]のその次の記載に身分と姓名が記されている。これが耕作者なのか納税者なのか不明。その次の課税と直接関係しない田地の数量まで記載された理由が不明。しかし、嘉禾4年・5年の長沙近辺の田地の数と広さを知ることが出来る。
 ここで面積を個数で割ることでその人物が工作していた個数あたりの面積(畝数/町数)をだすことができる。そうして出したデータの嘉禾4年全体をみてやると平均値が6.1畝、中央値が5.0畝とのこと。
 こういったデータを丘ごとにわけてやる。その結果がはじめに配られた附表。丘によって畝数/町数にばらつきが出てくる。つまり数字が大きいものと小さいものに分かれてくる。
 ここにどういった意味があるかというと、阿部先生が仮説を立てる。傾斜が比較的きつい丘では畝数/町数が小さく、平坦に近いと畝数/町数が大きくなると仮説。「丘」という名称が使われていても必ずしもそこが傾斜地であるとはかぎらないのではないか。

※清岡補足
 後日、コメントで仁雛さんから教えていただいたんだけど、ネット上に「走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫」というデータベースがある。試しに今、地名で「下伍」と検索すると地名が下伍丘である木簡の出土編號、地名、人名、年代編號、内容(釈文)が項目としてあげられ表となってずらずらと出てくる。内容(釈文)はこの報告通りのフォーマットであることを追認できる。なかなか楽しい。

・走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫
http://rhorse.lib.cuhk.edu.hk/

※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)


 司会から、予稿集に質問用紙が挟んであるので、それに書き込んでもらうことで、午後のパネルディスカッションで質疑応答を行うとアナウンス。その関係か特にこの時間の質疑応答はなし。

・「長沙呉簡の世界」ノート2へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/425

※追記 走馬樓三國呉簡 嘉禾吏民田家莂資料庫