以前、『中国社会風俗史』という本を買って一通り読んでいたけど、あまり図で説明するといった本ではなかったことや私の能力の限界もあってか、あまり理解できなかった箇所が少なからずあった。
・中国社会風俗史
http://cte.main.jp/newsch/article.php/548
それらの中の一つに「第二十六章 敬礼」がある。近頃、『礼記』に目を通すようになってこの章に書かれてある「拝」(旧字は「拜」)について多少なりとも馴染んできたためもう一度、目を通す。その際のメモ。尤もまだ『礼記』に目を通してないし、その上、また新たな視点で拝を見るようになるかもしれないんで、続きのメモができる可能性は大いにある。
まず三国創作と拝がどう関わるか、おさらいがてら説明。
ここで言う「拝」とは言ってみればお辞儀のような動作のことで(他にも拝には拝受するなど受けるという意味もあるが)、具体的には右上の画像において真ん中の人が行っている動作のこと(恐らく座っている状態からではなく、立っている状態からこのポーズになりまた立つといった動作)。
回りくどいがこの画像の説明。これは石刻拓本からAdobe Illustrator CSを使ってスケッチしたもの。拓本資料は京都大学人文科学研究所所蔵の「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」(後漢、嘉祥縣畫像石、管理番号B01-22)だ。もっとスケッチしやすい鮮明な石刻拓本はあったが、たまたまスケッチしづらい画像石を選んでしまう(鮮明な画像石はどれかは後述)
・石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/215
現代日本人から見ればあたかも土下座しているように見えるけど、当時においては日常的な動作。
時代が少し遡るが漢代に成立した『礼記』曲禮下には
大夫士相見.雖貴賤不敵.主人敬客.則先拜客.客敬主人.則先拜主人
大夫・士が互いに見えたら、地位の高い低いが同等でないといっても、主人が客を敬えば、則ちまず客を拝し、客が主人を慕えば、則ち主人を拝する。
と書かれている等、少なくとも士大夫層には日常的な動作だということがわかる。
『三国志』でも、ぱっと思い付くのが『三国志』呉書張昭伝や同周瑜伝に見られる 「升堂拜母」(堂に昇り、母を拝する)という記述。つまり、ここでの「拜母」は公の場だけではなく家庭でもという意味合いで、相手の母に拝する程、公私とも親しい仲ということなのかな。堂に関しては下記記事参照。こちらの記述も家庭でも、ってあたりを強調しているんだろうね(と、ここらへんこだわると「拝」から話が外れそうなのでこのへんまで)。
・三国創作のための『儀礼』メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/721
また特殊なことではないので、拝だけでは『三国志』のような史書に記載されづらく、何かしらの+αがあれば載っていたりする。例えば、以前、紹介した『三国志』蜀書龐統伝の注に引く襄陽記の記述(他にもあるがちゃんと目を通していない・汗)。
・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221
それで話を戻し、『中国社会風俗史』のこと。この訳本は社会風俗について中国古代から記述されてあって、それぞれの根拠となる出典が明記されている。今回、拝に関して改めて目を通すことになり、それぞれの出典を当たってみる。
まず拝について。上の画像にある動作以外の拝もあるそうな。つまり拝には状況に応じて動作が違ってくるという言ってみればグレードのようなものがあるとのこと。それは時代が遡るが『周礼』春官宗伯に書かれてある。
辨九拜.一曰稽首.二曰頓首.三曰空首.四曰振動.五曰吉拜.六曰凶拜.七曰奇拜.八曰褒拜.九曰肅拜.
まず一番目と二番目の稽首、頓首について。これらはお馴染みのやつで『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ)を見ると、稽首は人に対する最敬礼で、ひざまずき、頭を垂れて地(もしくはゆか)に接する礼で、頓首は、頭を下げ地に接するとすぐに頭を上げるものとのこと(『周礼』春官太祝の項の注に拠るものとのこと)。
『中国社会風俗史』では『春秋左伝』哀公十七年の記述を元に、稽首を説明している。
公會齊侯盟于蒙.孟武伯相.齊侯稽首.公拜.齊人怒.武伯曰.非天子.寡君無所稽首.
公は齊侯と会い、蒙において盟を結び、孟武伯は見ていた。齊侯は稽首し、公は拜し、齊人は怒った。武伯は言う。天子でなければ我が君は稽首するところではありません。
稽首と拝に違いがあって、稽首は天子に対して行うことがわかる。ちなみに春秋のころの天子とは王で、後漢のころの天子は皇帝のこと(後者は下記参照。『独断』の記述より)。
・Re:三国志の皇帝の呼び名について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2775
また稽首と頓首は皇帝への上書の文面にも形式として出てくるとのこと(こちらも『独断』の記述より)。敬意を表してのことだろうね。
・上表・上疏・上奏の違い
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2906
話が少し脱線するが、そう言えば形式として「拝」も文面として出てくるね。例えば下記記事のように「謁」や「刺」に「再拝」(二回、拝する)と書かれている。再拝が日常のどういうシチュエーションでなされるか、今後、『礼記』や『儀礼』を当たらないとね。
・三国時代あたりの名刺(謁、刺)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/566
続けて、三番目の空首。『中国社会風俗史』によると空首は画像を交え前述した一般的な拝に相当するそうな(根拠がよくわからんが)
そこの出典として上がっているのが『荀子』大略篇第二十七の記述。
平衡曰拜,下衡曰稽首,至地曰稽顙。
平衡が拝と言い、下衡が稽首と言い、地に至るのが稽顙と言う。
とのことで、平衡とは『中国社会風俗史』によると頭と腰が平らになることで、下衡は腰より頭が下がる場合とのこと。その記述に準じて上の画像の真ん中の人が拝するということにしている。
また拝のポーズは『礼記』内則によると、
凡男拜.尚左手.
およそ男が拝するのは左手を尚(うえ)にする。
凡女拜.尚右手.
およそ女が拝するのは右手を尚(うえ)にする。
とのこと。上の画像では服に隠れてどちらの手が上か確認できないが、左手を上にしているんだろうね。画像が不鮮明で分かりにくいけど(手にも見える)、腕から出ているものは、おそらく笏(こつ)ってやつ。命令をメモったりする板。聖徳太子の有名な画像で太子が持っているやつと用途は同じだろうね。使い方や身分に応じた材質等は『礼記』に書かれてある。
京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見る限り、こうやって誰かの前に拝している画像は画像石によくあるモチーフのようだ。上にあげた画像元は不鮮明すぎて分からなかったんだけど、他の石刻拓本では拝する人の冠がよく見える。
「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)では拝する人の冠は武冠になっている。それに対し、「左石室小龕後壁 拝礼、出行畫像」(後漢、武氏祠左石室、管理番号B04-01)では拝する人の冠は進賢冠になっている。冠については下記記事参照。
・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/641
余談ながら、後者の画像中の進賢冠は梁の部分が地面に落ちている描写がされている。時代変遷が関わってくるだろうが、長沙市金盆嶺9号晋墓の青磁騎馬俑を見ると梁ごと紐で固定しているので、拝で梁が落ちる描写は不自然のように見えるんだけど、それはもしかして拝の度合いを演出しているのかな。いや、それは考えすぎで頭を90°傾けたら落ちるぐらいの固定具合かな。梁の上部は斜めなんで、力が分散してそうだし(後から前への力に弱い)。
四番目以降は個人的にどうも理解しづらいのが続き、今のところ、興味のないものが多そうなので、一気に飛ばし九番目の粛拜に行く。『中国社会風俗史』によると粛拜は揖に相当するとのこと(ここらへんの理由もよく分からないが)
まず『礼記』曲礼上の記述。
介者不拜、為其拜而蓌拜 .
介者(鎧を着た者)は拝せず。その拝が蓌(いつわり)の拜になるためだ。
とのことで、鎧を着て、上の画像の真ん中の人のポーズを取るのは困難で、やればやったでいつわりの拜になるってことだ。じゃ、何もしないのかといえばそうではなく代わりに粛拜を行うとのこと。次に『春秋左伝』成公十六年。
郤至見客.免冑承命曰.君之外臣至.從寡君之戎事.以君之靈.間蒙甲冑.不敢拜命.敢告不寧.君命之辱.為事之故.敢肅使者.三肅使者而退
郤至は客を見て甲冑を脱ぎ、命令を承けて言う。「君の外臣の至は我が君の軍事に従い、君の霊により、そのまま甲冑を被り、あえて命令を拝せず、敢えて不寧と君命の辱を告げ、これにつかえるために、あえて使者に粛します」 使者に三回粛し退いた。
※清岡が訳したためちゃんとした訳ではない。
とのことで拝の代わりに粛していることがわかる。
<11月16日追記>
また揖に関してもこんな記述がある。『史記』卷八 高祖本紀第八より。
酈食其(謂)〔為〕監門、曰:「諸將過此者多、吾視沛公大人長者。」乃求見説沛公。沛公方踞牀、使兩女子洗足。酈生不拜、長揖、曰:「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者。」於是沛公起、攝衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留、得秦積粟。
酈食其は監門になって言う。「諸將はこのことを優れているとしすぎなので、私は沛公が大人長者かどうか見たい」 そのため会って沛公に説くことを求めた。沛公は牀の縁に踞し、二人の女子に足を洗わせていた。酈は現れ拝せず、深く揖して言う。「足下(あなた)は必ず無道の秦を誅したいと望むのだから、踞して長者に会うべきではない」 ここで沛公は立ち上がり、衣裳を整えこれを謝り、上にのび座った。食其は沛公に陳留を襲うことを説き、秦を得て粟を積んだ。
「踞」については下記記事参照。
・メモ:踞牀
http://cte.main.jp/newsch/article.php/485
つまり沛公(劉邦)が「踞」という非礼な態度を示したのに対し、酈食其は拝せず揖したという非礼な態度で応じたということだ。
<追記終了>
この揖(粛拝)というのは『中国社会風俗史』での記述を見て考えるに、おそらく上の画像の左の人の動作に相当するのだろう。つまり膝を地面に着かず拝するとのこと。
余談ながら粛は中国中央電視台制作ドラマの『三国演義』(下記記事参照)でもよく見られる。ドラマをよく見ると前述したように男の左手がちゃんと上になっているのはさすがだと思った。まぁ、上の画像より肘が張りすぎている気はするが。
・中国歴史ドラマ『三国志』の冒頭
http://cte.main.jp/newsch/article.php/638
<追記>
中華ファンタジーのアニメの『彩雲国物語』でドラマ『三国演義』ばりに肘の張った粛が出てきたが、やはりこの世とは別世界という設定なので、女性も男性も左手が上になっていた。
<追記終了>
※追記
初恋三国志 りゅうびちゃん、英傑と出会う!(2014年8月15日)
上の画像の左の人。こちらも手から出ているのは笏だろうね。京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見ると、他の画像石にも揖(粛拝)している場合があって、多くの場合は上の画像と同じく進賢冠を被っている。
この画像が本当に揖(粛拝)しているかどうかは『礼記』『儀礼』の記述と詳細に照らし合わせないといけないね。もしかすると拝の動作の途中を描いているかもしれないし。
<2009年5月16日追記>
幾つかの知識を持っているものの、それが頭の中で繋がっていない、ということはよくある。以下、その一例なんだけど、別件で『三国志』魏書閻恩伝の注に引く『魏略』勇俠伝を読んでいてどこかで見たことある話だな、と思ったら、『中国社会風俗史』の46ページにあった。漢晋代では笏を版と言うそうで、『魏略』勇俠伝にも一例に挙げられるんだけど、長官と会うときは版を持つのが慣例のようだね。ということで上の画像も版を持って拝しているよく見る姿ということなんだろう。
<追記終了>
ちなみに上の画像の右の人のように牀や榻の上に座って、拝や粛を承けるケースも他の画像石に見られる。上の画像では、進賢冠なんだけど、その他、よくわからない冠だったりすることもある(前述の「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)など)。網羅的に見ていないが、この名称不明冠(左前方として横から見ると梁の部分が「h」になっている冠)は後漢から見て昔の情景を描くときの画像によく見られる。他の画像石をみると、例えば「武梁祠西壁 神話故事、出行畫像」(後漢、武氏祠武梁祠、管理番号B02-02)だと、「呉王」と銘打たれた人が着けている冠にこの名称不明冠が使われている。後漢代には使われていない想像上の冠なのかな?(
林 巳奈夫/編『漢代の文物』では「名称不明冠」として出てくる)
また他の鮮明な画像石を参考にすると右の人の腕からでているものは「几」というやつで、正座して足が痺れないようにもたれかかる家具だ。
※関連記事
佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)