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メモ:漢中興士人皆冠葛巾


  • 2008年9月12日(金) 23:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,101
歴史  私の記憶で、袁紹か袁術かを例にして当時の身分の高い人でも物資の乏しさ故に冠を被れないってのがあったんだけど、何で見かけたのか、すぐに思い出す。下記。

 沈従文/編著、古田真一/訳『中国古代の服飾研究』(京都書院1995年)※原書1980年

・三国志ファンのためのサポート掲示板
http://cte.main.jp/
・やっぱり「中国古代の服飾研究」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=64

 この『中国古代の服飾研究』だけど、そういえば豊富な挿図に目が行き、ある程度、通して読んでなかったなと思い、この期に図書館から借り興味のあるところを一通り読んでみる。

※関連記事 前漢に鐙はあった?!

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)


 典拠があまり明示されていなかったり、語句が主に現在のもので当時の呼ばれ方が判りにくかったりするものの、あれこれ新たに発見することも多かった。綬を納めるためのものが「虎頭[般/革]嚢」と呼ばれ、その画像もあったりと(※ここでいう画像は畫像磚石・俑などの出土物の写真やスケッチのことね)。あと出土した武冠の漆紗部分の写真とか。進賢冠の梁は鉄製だとか(※出典不明。探せばありそう)

※関連記事 メモ:武冠のあみあみ

 それで読んでいくと記憶にある箇所を見つける。それを下記に引用。

P144
「このような状態であったので、将軍の身分であった者、例えば袁紹や崔鈞でさえも、ただ頭巾で頭を包むことができただけで、冠を戴くことは難しかったわけであり、ましてや他は推して知るべしであろう。」


 「このような状態」というのは天下の荒廃ぶりを示した文であるが、特に典拠が書かれていない。しかし、冠ってそんな物資が要るかな? 進賢冠の梁ぐらいのような。

※関連記事 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

 ちなみに崔鈞といえば、下記のように袁紹と共に山東で反董卓のため兵を起こした人なので、上記のこともこれぐらいの時期の出来事を指しているのかな?

・『後漢書』崔[馬因]列傳

鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東、董卓以是收烈付[眉β]獄、錮之、[金良]鐺鐵鎖。


 それで「崔鈞」をキーワードに典拠を探してみるとあっさり見つかる。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』だ。似たような記述は『晋書』や『宋書』にも見られる。


・三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』

漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹・崔鈞之徒、雖為將帥、皆著[糸兼]巾。魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁[糸兼]帛以為[巾合]、合于簡易隨時之義、以色別其貴賤、于今施行、可謂軍容、非國容也。

<清岡による訳>
漢末の王公は王服を多くまねて、幅巾をもって雅として、これにより袁紹・崔鈞の徒は將帥だといえども、皆、[糸兼]巾をつけた。魏太祖は天下の凶荒をもって、資財が乏しく尽き、古の皮弁をまね、[糸兼]帛(白いかとりぎぬ)を裁つことで[巾合]にし、簡易に随時の義において合わせ、色をもってその貴賎を分かち、今において施行し、軍容(軍の儀容)というべきで、国容(国の儀節)ではない。


 後半部分の魏太祖(曹操)はまさしく『中国古代の服飾研究』の言うとおりなんだけど、個人的には、前半部分だけだと、特に袁紹や崔鈞が資財に乏しいだけで[糸兼]巾を着けていたわけじゃなく、「冠を戴くことは難しかった」と言い切れないような気がする。

 『三国志集解』によると、上記「非國容也」の後に次のように書かれている。

博物志漢中興士人皆冠葛巾建安中魏武造白[巾合]於是遂廢惟二學書生猶
著也中華古今注軍[巾(匚+夾)]魏武所制以軍中服之輕便又作五色[巾(匚+夾)]以表方面也

<清岡による訳>※うまく訳せてない。
博物志に言う。
漢の中興の士人は皆、葛巾を冠し、建安中、魏武は白[巾合]を造り、このため、遂に(葛巾を)廃し、ただ二学書生は(葛巾を)著した。(※追記。二学は太学と国子学)
中華古今注に言う。
軍[巾(匚+夾)]は魏武の制するところであり、これにより軍中でこれを軽便(手軽)に服し、また五色の[巾(匚+夾)]を作ることにより方面を表した。


 これと合わせて考えると、袁紹や崔鈞の時期というより、建安中あたりから冠を戴くことは難しかったのかな? とは言っても袁紹や崔鈞の時期と建安中は重なる部分はあるだろうけど。

 あと「葛巾」と言えば諸葛亮を連想することをメモとして残しておこう。

・諸葛亮の羽扇について。 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1452

宮城谷昌光/著『三国志』第七巻(2008年9月13日)


  • 2008年9月11日(木) 12:49 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,194
小説

・文藝春秋
http://www.bunshun.co.jp/

歴史書の陳寿撰『三国志』と同じ名前が付けられ、『文藝春秋』に連載中の歴史小説である宮城谷昌光/著『三国志』なんだけど、その七巻が2008年9月13日発売とのこと。1700円。
ちなみに作中の地の文で陳寿撰『三国志』が出てきたりすることもあるので、両者の区別に注意が必要。

上記サイト「文藝春秋」から以下に内容を引用する。

--引用開始---------------------------------------------------------
劉備、蜀を平定す
劉備は荊州四郡を押さえ、戦力は巨大化する。孫権、曹操と睨み合いながら、劉璋との戦いへ……。宮城谷版「三国志」怒濤の第7巻
--引用終了---------------------------------------------------------

スタートがスタートだけに、どこでエンドになるのか今から楽しみ。

あとまだ上記サイトでは情報がなく、未確認情報だけど、来月、文春文庫で発売されるようだね。
※追記。上記「文藝春秋」のサイトによると文春文庫の『三国志 第一巻』『三国志 第二巻』は2008年10月10日発売、各630円。

※関連記事 宮城谷昌光/著『三国志 第六巻』

※次巻 宮城谷昌光/著『三国志』第八巻(2009年9月16日)

※追記 三国志第三巻第四巻(2009年10月9日)
 

公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)


  • 2008年9月 8日(月) 22:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,695
研究

・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・2008年公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」
http://sekio516.exblog.jp/8583706/

上記ブログ記事から下記へ引用。
※但し他のソースを参照しつつ日付を一部訂正。

--引用開始---------------------------------------------------------
日 時:2008年10月11日(土),12日(日)
会 場:愛媛大学法文学部,8階大会議室
日 程:
 10月11日:公開講演(愛媛大学法文学部人文学会との共催)―午後3時~6時
  藤田勝久氏(愛媛大学)「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」
  今津勝紀氏(岡山大学)「古代の荷札木簡について」
ミニシンポジウム
 10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)
  王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」
  金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」
  上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」
10月12日:研究発表―午後の部(午後1時30分~5時)
  松原弘宣氏(愛媛大学)「古代交通研究の現状」
  佐藤 信氏(東京大学)「日本古代の交通と出土木簡」
  近江俊秀氏(橿原考古学研究所)「考古学よりみた古代道路研究」
  シンポジウム「古代交通と出土文字資料について」
  コメンテーター:角谷常子氏(奈良大学),谷口 満氏(東北学院大学)
入場無料・事前申し込み不要
主 催:愛媛大学「資料学」研究会,愛媛大学研究開発支援経費・特別推進研究プロジェクト,新潟大学超域研究機構プロジェクト,東北学院大学アジア流域文化研究所
共 催:愛媛大学法文学部人文学会 
--引用終了---------------------------------------------------------

・愛媛大学
http://www.ehime-u.ac.jp/

ここが「三国志ニュース」なもんだから、お見苦しいながらもいちいち関連性を説明しないといけないんだけど、シンポジウムの発表の取り扱う範囲に三国時代の前の漢代が含まれており、交通に関し共通することは多いのだろう。
というわけで、私が興味のあるのは12日午前中に集中している。
JRからの正式発表はまだだけど、例年であれば「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、今年もあるのだったら、それを利用して行くのもいいかも。土曜日を往路に当てて、日曜日に午前の発表を聴講しおえたら、すぐに復路に着くという方法。私の住居から片道10時間程度。

<9/11追記>
というわけで下記のサイトによると、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は1枚3回分で9180円。利用期間は2008年10月4日-19日。

・JR西日本
http://www.westjr.co.jp/

<追記終了>

※関連記事
 国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
 三国志学会 第三回大会

※追記 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)


※追記 資料学の方法を探る(2011年11月26日)  

第9回三顧会(2008年8月16日午後2)


  • 2008年9月 8日(月) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,691
場所 ・石城の里 三国志城
http://www3.ocn.ne.jp/~sangoku/


※前記事 第9回三顧会(2008年8月16日午後1)


●11時40分 映像試写 三国志祭り&映画レッドクリフ
 ※会場に貼っていたタイムテーブルより。

 14:30。
 スタッフの英傑群像岡本さんのアナウンスによると、休憩も兼ねて、スクリーンに「第2回 三国志祭」の映像を流すとのこと。BGMと共に清岡にとっては懐かしの映像が流れる。少し英傑群像岡本さんから解説が入る。

※関連記事 第2回三国志祭(三国志コレクション)

 清岡が映っていないかと探していたけど、映っていないようだ。

<9/9追記>
下記の「三国志祭オフィシャルサイト」でその映像が公開された模様。ファイルはwmv形式。

・三国志祭オフィシャルサイト
http://sangoku-maturi.com/
<追記終了>

 上映終了。

英傑群像岡本さん「私も入っていたんですけど、どこか映っているかな?と見ていると映っていなかったので、意図的に隠されたのかな、と思います」(場内笑)

 すかさずKOBE鉄人PROJECTの方から否定するツッコミが入る(笑)

 それから映画『レッドクリフ』関連の上映。
 まずよく見かける2分程度の予告編映像。
 続けて2分程度の映像が上映。ちゃんとは見比べてないけど台湾公式サイトで公開されているやつに字幕がついたような感じかな。


●14時30分 お遊びイベント『三国志ダーツ大会』
 ※会場に貼っていたタイムテーブルより。

 14:42。
 先ほど映像が流されている間にスタッフの方が準備されていたようで、演壇の右の壁にマトが設置されている。
 ダーツのマトは中国の地図。同じものが横に並べて二枚用意されている。魏蜀呉と分かれている。それぞれの都を中心に同心円上に得点分布がある。もちろん都に近いほど高得点。他にも主要都市には高得点が配されている。塞外は0点。
 英傑群像岡本さんによると魏、蜀、呉、後漢の4チームに分かれたチーム戦とのこと。ルールは自国以外の国にダーツを当てれば得点になるが、自国に誤って当てると逆にマイナス得点になるそうな。後漢はどこ当てても得点になるが、半分しか入らないというルール。想像力を刺激されるなかなか面白いルールだ。

 清岡はもちろん後漢のチームに入る。同じチームに「三国志の宴2」「三国志の宴3」に参加されていた(らしい)明加さんがいらっしゃったので、「お久しぶりです、義兄弟」と声を掛ける。一年越しの念願が叶って良かった(笑)。これも前から気になっていたことだけど、三顧会閉会後に、曹全碑(碑陽・碑陰共に)に「李儒」の姓名が見えることをお伝えできて良かった。

※追記 三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日)

※追記 メモ:コミックマーケット82 3日目(2012年8月12日)

 それで話戻して、順繰りに順番が回っていく。清岡はダーツを投げるのは初めて。そのため重みで落ちる様になれず、結局、一回も当てることができなかった(汗)
 最後は一発勝負の得点五倍になる大将戦ならぬ皇帝戦(?)で他のチームがマイナスに当てたこともあって、後漢チームが優勝。商品として三国志城瓦煎餅を全員に配られる。これが美味しいんだよな。

※追記 第17回三顧会 午後(2012年8月14日)

※追記 メモ:曹豹さんを囲む会(仮)(2013年5月4日)


●15時30分 館長  閉会の挨拶
 ※会場に貼っていたタイムテーブルより。

 15:05
 傅僉さんの司会により終了の旨が告げられ、谷館長の閉会の挨拶がなされる。

 というわけで一応、解散。
 参加者のみなさん、それぞれおしゃべりをしていたり、ダーツをやったりとまだまだ盛り上がっている様子だった。
 清岡もいろんな方と話していた。ただ疲れがピークに来ていたので、頭の回転と口がおぼつかなかったが(笑)。
 清岡からは『クイズマジックアカデミー5』三国志検定の話や三国志検定の話をしていた。


 それから「BS熱中夜話」の制作会社の方が三顧会参加者に番組のアンケートを配ったり、三顧会参加者に対し個別に三顧会についてインタビューされていたりしていた。

 そして人がどんどん帰っていく時間帯。
 清岡は前々回、前回と同じくそのまま三国志城に泊まるので、見送る立場となる。今回は泊まり組は四名とのこと。

 かなり疲れが溜まっていたけど、三丘温泉(みつおおんせん)に連れていって貰ってさっぱりして回復。

●17時頃 三国志城クローズ
 ※会場に貼っていたタイムテーブルより。

 それで泊まり組が居るもんだから、毎度、いつクローズになったかわかんない(笑)

 夕食を頂いた後、泊まり組の三名と地元の三名が、ニンテンドーDSやPSPなどで『三国志大戦・天』や『モンスターハンター』をプレイし27時まで盛り上げっていた。清岡は疲れて熟睡していた。



※次記事 プチオフ会「諸葛亭へ一顧しよう!」1(2008年9月13日)

第9回三顧会(2008年8月16日午後1)


  • 2008年9月 7日(日) 15:49 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,164
場所

前夜に撮った演壇周り・石城の里 三国志城
http://www3.ocn.ne.jp/~sangoku/


※前記事 第9回三顧会(2008年8月16日午前)


●12時~ お食事時間
※会場に貼っていたタイムテーブルより。

 2008年8月16日12:08。昼食時間となったわけだけど、清岡は一日二食なので、この時間は食堂に行かず、人の居ない特別企画展示場でやっぱり『漢代都市機構の研究』を読んでくつろいでいた。

12:20。
 前記事の写真のように特別企画展示場の南側にはすでにスクリーンと講壇が設置されている。
 そこへ満田剛先生らしき方が来られノートPCを開けセッティングされていた。CCTV.comで見かけた映像と髪型が違ったんでちょいと自信がなかった。

 ちょうどスタッフの傅僉さんが満田先生にお名前の読み方を確認していた。実は「剛」は「たかし」と読むそうな。そこで清岡は帝京大学、京都外国語大学、駒沢大学の東洋史の先生方の名前を挙げつつ、読み間違えやすいお名前は結構、ありますね、なんて話をしつつ輪に入る。そして名刺を頂く。実は長沙呉簡のシンポジウムで受付をしてらしたとのこと。その流れで清岡は9月14日の「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」と「第3回 三国志学会大会」の話をしていた。とりあえず関西ご出身と言うことに安心し清岡は掛布ネタを振っていた(これは関西でも話さないか)。清岡曰く「言葉を選ばないと箱根の山は越えられない」

※追記 リンク:日本学者の名前の読み方

 その後、大三国志展について興味深いお話を伺う。

12:40 話しているといつの間にか特別企画展示場に結構、人が集まってきた。「BS熱中夜話」の制作会社の方は、撮っているか判らないが、演壇から最も遠いところで三脚を立てカメラをセットしている。


●13時~ 三国志講演会 第1部「ビギナー向け」30分
13時45分 三国志講演会 第2部「ベテラン向け」30分
講師:書籍「三国志─正史と小説の狭間」
研究者「満田剛」先生
※会場に貼っていたタイムテーブルより。

・三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ
http://mitsuda.blogtribe.org/

・三顧会(追記〔お詫びと訂正〕あり)  (※上記ブログ記事)
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-7c433be87138f78362dcd35b75d9f5e0.html

・第9回三顧会講演内容(箇条書き風に)  (※上記ブログ記事)
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-ddbb4591ce472e03e45ee3b96ed3f910.html


12:45。スタッフの傅僉さんから満田先生の紹介から始まり満田先生の講演第1部「ビギナー向け」スタート。

 まず満田先生は観衆に向けて吉川三国志横山三国志等、『三国志』を題材とした小説や漫画ぐらいは読んだことあるか、など質問を投げかける。そうするとやはり三顧会に参加するぐらいの人だから結構、多くの人から手が挙げられていた。
 その流れで少し『蒼天航路』の話。ちゃんと歴史を読んで描かれているようですごいなぁとコメント。ただ高校生以下に勧めにくいある理由により漫画だという。満田先生自身、高校でも授業を受け持っており、女子高生から「私、(『蒼天航路』を)読みました」なんて言われたというエピソードが出ていた。

 スクリーンにワードファイルのようなものが映し出され、講演の本題へと滑り込む。
 まず歴史書の陳寿『三国志』(正史類)の説明。先行する歴史書である王沈『魏書』・韋昭『呉書』を参考にして紀元280年から284年の間に書かれた。『三国志』の特徴として簡潔で(悪く言えば舌足らず)、後に裴松之が注を付ける。
 番組の『大相撲ダイジェスト』の例えを出しつつ(場内笑)、『三国志』はダイジェスト的であると説明。その理由として陳寿が書いた時期は王沈『魏書』・韋昭『呉書』が残っていたことや対象となる人物が生きていたことなどが挙げられていた。

 そのため『三国志』を読んでもよくわからない箇所が出てくる。
 その例えとして出てきたのが、赤壁の戦い。満田先生曰く「赤壁の戦い、解る人居たら教えて下さい」。赤壁の戦いを例に出し、『三国志』魏書、蜀書、呉書で記述が少しずつ違っていると解説される。

 現在の三国志関連小説の大半の元になっている『三国演義』の説明。14世紀ごろの成立。三国志をモチーフとして儒教的な価値観で「義」をより通俗的に作られている。もしかすると我々は『三国演義』を読んで儒教的な価値観を刷り込まれている? だから関羽が活躍する?
 『三国演義』成立までも面白い研究がいろいろある。関羽が剣の神様になっていたり。あと『新刊全相平話三国志』(三国志平話)の紹介。

 『三国志』の何が難しいかというと「同時代史」であること。関係者がみんな生きていること。ここで現在のロシアに当てはめてたとえ話を出し解りやすく解説されていた。

 ここで後半の第2部「ベテラン向け」の話を少しだけ出る。魏の君主は皇帝扱いされているが、蜀も呉も皇帝扱いされていない。ところが、蜀と呉の君主に待遇の差がある。蜀の方が上に書いてある。ここまで引っ張っておいてこの続きは後半か?、というネタで場内を沸かしていた。

 話が変わって「三国時代」の定義の話。いろんな見解を紹介しつつ、厳密に言えば魏が起こった220年からになるが、大まかに言えば黄巾の乱の184年から呉の滅亡の280年で良いのでは、と説明。
 その流れで黄巾の乱の説明。一応、宗教団体としておく。
 続けて董卓の説明。董卓はよくわからない人。観客に向け董卓ファンは居るか確認した上でここから董卓の悪口になると断る。と董卓ファンが居て場内笑。(馬上で)両方から弓引ける人(※「左右馳射」『三国志』魏書董卓伝)。遊牧民の習俗に慣れ親しんだ人(※「少好侠、嘗游羌中、盡與諸豪帥相結。」『三国志』魏書董卓伝)。
 一番、満田先生が笑ったのがお金の話。それまでの五銖銭を小さい銭にして銭を増やしたエピソード(※「悉椎破銅人・鐘〓、及壞五銖錢。更鑄為小錢、大五分、無文章、肉好無輪郭、不磨鑢。」『三国志』魏書董卓伝)。そのためハイパーインフレーションになった。もしかすると後々まで影響を残したという(破壊的な)意味では董卓が上位に来るのでは。
 董卓は破壊的だが小心者。この後、『三国志』蜀書許靖伝などに載る、董卓はその部下が推薦した人物を刺史や太守に任命し、それらがことごとく反乱を起こしたエピソードを紹介。
 群雄割拠の時代。袁紹や劉表の名前を出し、劉表の説明。歴史書に見られる劉表の評価はほとんど悪口になってしまっている。前向きな評価がほとんどない。

 スクリーンには魏蜀呉で代表的な人物が出ている。

満田先生「ご不満はいろいろあるかと思いましょうが…」

と頭を下げはじめ観客の爆笑をとる。そういった会場の様子を見て清岡は思わず「鉄板ネタ」とつぶやいてしまう。
それからそれら人物の説明+各勢力の動き。

 三国時代の説明。全体的に寒くなって行きつつある気候の話になり、曹丕が呉を攻めようとしたとき、淮水と江水との運河に船を遠そうとしたが凍ったというエピソードの紹介(※「八月、帝遂以舟師自[言焦]循渦入淮、從陸道幸徐。九月、築東巡臺。冬十月、行幸廣陵故城、臨江觀兵、戎卒十餘萬、旌旗數百里。是歳大寒、水道冰、舟不得入江、乃引還。」『三国志』魏書文帝紀)。寒くなるので農業が乏しくなる。
 吉川三国志に見られる一騎打ちの話で実際にはあったのか、という話題になり、それとは対照をなす、夏侯淵が亡くなった時に曹操が出した「軍策令」のエピソードを出す。夏侯淵が逆木(さかもぎ、城の周りにある敵の進行を防ぐ役割のもの。「鹿角」)を調べていたときに襲われて亡くなった。

満田先生「司令官が逆木を調べて襲われて亡くなるなんて、どういうことやねん!」(場内爆笑)

 夏侯淵は「白地将軍」と呼ばれていた。これは「何となく」という意味。満田先生が中国からの留学生(女性)に「白地」の意味を聞いたら「バカという意味です」と返ってきたとか。満田先生曰く「夏侯淵のイメージ崩して申し訳ございませんでした」(場内笑)

・『太平御覧』卷三百三十七 兵部六十八 鹿角
『魏武軍策令』曰:夏侯淵今月賊燒卻鹿角。鹿角去本營十五里、淵將四百兵行鹿角、因使士補之。賊山上望見、從谷中卒出、淵使兵與鬥、賊遂繞出其後、兵退而淵未至、甚可傷。淵本非能用兵也、軍中呼為「白地將軍」、為督帥尚不當親戰、況補鹿角乎!

 要するに司令官は武器持つこと(親戦)も控えなくてはならない。
 一般人にとってこれほど悲惨な時代はない。そういう状況で宗教、道教とか仏教とかが広がっていく。

13:16。ここで第一部終了。10分程度、休憩時間。

 清岡は演壇の近くに居て、満田先生に向かって「いろいろ鉄板ネタ、持ってますね」とか「『BS熱中夜話』、出て下さいよ」なんて話し掛けていた(※後者に関しては返答として満田先生が別の先生の名前を出していらしたけど、この記事を書いている時点ではその名前の出ていた先生に決まるんじゃないかという気がする)

 演壇のテーブルの向かって右端には、満田先生の著作『三国志-正史と小説の狭間-』と『三国志万華鏡 英雄たちの実像』が平積みになっていて販売されている(※上の写真は前の夜に撮影したものなので、まだ梱包された状態)。前者に関しては白帝社のサイトで前もって下記のように今回の講演について告知があった。

・白帝社
http://www.hakuteisha.co.jp/

--引用開始---------------------------------------------------------
○『三国志-正史と小説の狭間-』の著者、満田剛先生が“三国志城博物館”で行われるイベント、「三顧会2008」(8/16)で講演されます。どうぞご参加ください。
--引用終了---------------------------------------------------------

 販売コーナーがあるので、休憩時間に三顧会参加者が書籍を購入しそれにサインを求めたりしていた。

 ここで『蒼天航路』話。
 原作者のお葬式に行った知り合いの話に始まり、『BSマンガ夜話』の話を経由し、満田先生がブログに書いた話をしていた。『蒼天航路』のあるエピソードを見て満田先生が絶句したという。清岡はブログ記事(下記)ではイマイチ理解ができなかったんだけど、ここであれこれ質問しようやくそのエピソードの多重構造の深い含蓄がわかる。なるほどね。

・三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ
http://mitsuda.blogtribe.org/

・『蒼天航路』での漢魏交替期の文学と政治  (※上記ブログ記事)
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-6a5c720dfea1b1689bc14d028358db22.html


 というようなことを演壇の近くのローカルで話しているつもりだったが、気付けば第2部を待つ観客が集まってきていて、実はその余談を会場全体が聴いていたというオチ。
 ここで慌てて清岡はオフレコの進言をしたんだけど、特に事実を述べているだけなんで、その必要はないとのこと(笑)

13:30。それにかぶせる形で司会の傅僉さんが「オフレコ話で盛り上がってしまいましたけど、皆様、聴かなかったことにしてください」と告げ場内の笑いをとる。さらにそれをオフレコじゃないと律儀に否定される満田先生。

 第2部スタート。
 国のランク付けの話。筑摩書房の『三国志』訳本の文庫版のあとがきで井波律子先生が書かれていたが(どなたかが修士論文で書いたという)、『三国志』においてそれぞれの君主の呼び方が違う。魏が公とか王とか帝とかで、呉は名を呼び捨て。それに対し、蜀は先主・後主。これはよく考えたら変な話。后(きさき)については魏は皇后とか、呉は夫人で統一。蜀はなぜか皇后。皇帝が亡くなったときの表現も違う。魏は崩(ほう)、呉は薨(こう)、蜀は[歹且](そ)。(※清岡注。「天子死曰崩.諸侯曰薨.大夫曰卒.士曰不祿.庶人曰死.」『禮記』曲禮)
 魏は直接禅譲されているし、蜀漢は後漢の皇帝と血が繋がるし、その点、研究論文にもなっているが、呉はその時代から引け目に感じていたそうな。

※参照記事 2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ
※講演「魏・蜀・呉の正統論」

 そこらへんランク付けにも反映されているのでは?という話。

 皇帝が臣下に対してクーデターを起こすエピソード。皇帝は司馬昭に殺される。陳寿は「崩」を使わず「卒」という字を使う(※「五月己丑、高貴郷公卒、年二十。」『三国志』魏書三少帝紀)。本紀で「卒」という時点でおかしい、本紀で急に「卒」が出たら何かあったなと気付く、という話。
陳寿はもしかして仏教嫌い?の話。仏教の記述がかなりカットされている痕跡がある。例えば仏教の経典で王沈『魏書』・韋昭『呉書』が引かれていて、そこに『三国志』にはない僧侶の名前が列挙されている。そこで、三国志の時代には仏教が広がっていたのでは?と話す。

 スクリーンに地図を表示させる。
 諸葛亮(字、孔明)の南征北伐の話。シルクロードを狙っていたのでは?という話。敦煌に至るまでの涼州の辺りは今と違って結構、緑豊かだったらしい。農業生産は豊か。

 ここから大三国志展の写真をスクリーンに映しつつ、大三国志展の紹介。

※関連記事 大三国志展(物語でたどる三国志)

 スクリーンには曹全碑(碑陽)の拓本の写真が映し出されていた。
 そして満田先生はおもむろにYシャツを脱ぎだして何かと思えば、「大三国志展」のTシャツが出てくる。このネタには会場、大ウケ。

 その後、次々と展覧会の写真がスクリーンに映し出され、あれこれ解説をされていく(※マウスで画面右上にカーソルを合わせクリックし写真が変わっていったが、キーボードのカーソルキーを押すだけで写真が変わらないのかな、と細かいところに清岡は気が向いていた)。
 例えば、呉暁峰≪関公読書秋坐像≫の写真が出たところで、満田先生曰く「この絵に間違いがあるとか、これは突っ込んじゃいけないんでしょうね」など面白く解説される。関羽が手に取る書籍が冊本になっているところがツッコミ所というネタ。清岡はそれより関羽が踞しているところが気になり後でその旨を口にしていた。そこから春秋左氏伝の話や「吾虎女安肯犬子乎!」(※三国演義「第七十三回:玄徳進位漢中王、雲長攻拔襄陽郡」)の話になっていた。
 というような感じで「あまり突っ込まないでおきましょう」という言葉と共に興味深い解説があれこれ入る(※ここらへんは敢えて省略しておこう)

 「出土品関係はこんなにまとまって来ることはないんでしょうね」と「大三国志展」の魅力についておっしゃって、展覧会の紹介はしめられる。

※関連記事 「大三国志展」の日程 via 「大三国志展ブログ」

 漢王朝に「NO」を最初に突き付けた袁術の話や青州兵の話になり、満田先生が「曹操ってどんな人物だと思います?」と観客に問うと、返ってきたのが「人妻に手を出すようなろくでもないやつ」という言葉で場内爆笑(※「太祖納濟妻、繍恨之。」『三国志』魏書張繍伝など)。ここで満田先生、曹操の立場に立ってフォローされていた。
 曹操は研究者から「迷信を信じない人」と言われることもあるが、その反面、張魯を攻めたときの迷信深いエピソードもあり、それを紹介されていた(※「太祖曰:『此妖妄之國耳、何能為有無?吾軍少食、不如速還。』」『三国志』魏書劉曄伝)。曹操はいろんな側面のある人。孫子魏武注の話とか、曹沖が亡くなったときの話(※「文帝寬喩太祖、太祖曰:『此我之不幸、而汝曹之幸也。』」『三国志』魏書武文世王公伝)とか。後者で「『オレにとっては不幸だが、おまえにとっては幸いじゃ』」という父親、それを言われた息子、どう思います?」と満田先生は口真似(?)込みで解説され場内の笑いを誘っていた。

 蜀については漢王朝復興が命題のイデオロギー国家。その命題に縛られた国。劉備の解説。『蒼天航路』の劉備は意外にイメージが近いのでは?と。諸葛亮(字、孔明)はいろんな方が書かれている。満田先生からは一つだけ「彼の頭の中では地理的な視野は相当広い」とのこと。敦煌の博物館には蜀の銭があるという。
 余談で、蜀はほとんど異族?って話とか、王平は異族?って話とか、長沙走馬楼呉簡に見られる異族の話とか。

 三国志関連のサブカルチャーの話、満田先生曰く「戦いは美しくなければ!」(場内笑)。もっとすごいのはガンダム。BB戦士三国伝は中国の方が売れているという。

14:30終了。満場拍手。


※次記事 第9回三顧会(2008年8月16日午後2)

※追記 文化カレッジ講座「三国志をたどる~正史と小説の狭間~」