※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復
2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。
ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。
以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。
●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)
まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。
次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。
まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。
まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。
氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。
もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。
辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。
「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。
(※省略)
16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。
まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。
東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は?
大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。
福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。
「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。
原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。
この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。
それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。
涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。
中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。
北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。
(※省略)
辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。
(※省略)
17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。
●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)
この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。
17:43閉会。
※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)
以下、余談。
というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。
帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。
・日経スペシャル ガイアの夜明け
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/
・MOS BURGER
http://www.mos.co.jp/
そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
※以下の文はほぼ『三国志』と無関係。
2008年9月14日11:30。国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」の会場である立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室で一般聴講していた清岡は席を立ち、外に出る。
・立正大学
http://www.ris.ac.jp/
というのもの三国志学会の年会費を払い『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れるべく、その会場となる大東文化大学板橋キャンパスに向かうためだ。別に会費の支払は郵送等で行えば良いんだけど、ここは敢えてネタとして払いに行こうかと前から思っていた。そのネタというのはこの記事を見ている人が勝手に意味を読みとるってことも含まれる(笑)。
しかし、「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」の「与北魏平城京畿城邑相関的石刻史料的整理与研究工作」以降の発表を聴けないのは残念なんだけど、まぁ清岡の興味のない時代なので良いのかなぁ、と(より正確には興味のない時代であるため少しも消化する自信がない)。後で気付いたんだけど、発表は母国語で行われ日本語訳もないため、中国語も韓国語も理解できない清岡には特に後悔することでもなかったんだけど。
数分掛けてJR大崎駅に向かい、11:39、そこから山手線渋谷方面行に乗り込み、12:06巣鴨に到着し降りる。12:14、都営三田線(西高島平行)に乗り込む。
今回の旅に合わせ、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーと落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書)を借りたんだけど、前者は前日の高速バスの中で一通り読んだため、列車の中では後者を読んでいた。元々、店頭で少し立ち読みして面白そうだなと思っていたんだけど、借りれる当てがあったんで、買わずに借りてこの日に読んでいた。列車の中でその新書を読んで楽しんでいるんだけど、脳の別の片隅では、そう言えば店頭で見かけた後、ネット上のいろんなブログでこの本のことを取り上げていたことを思い出していた。互いに関係性があまりないいろんなブログで同じ本のことが取り上げられること、つまりブログ群に同報性が潜んでいるだな、と興味を抱く。同じような趣味を持っているから当たり前かもしれないが、見かけ上(何かのブログを参照したとかなく)、それぞれ独立しているブログが同じ報せを取り上げる現象は面白い。それにこの本に関してそれぞれのブログでは感想なり書評なりが書かれており、どれも読んでいて楽しめるし、総じて多角的にその本について知ることができる。ところが別のジャンルや層のブログ群を見て回ると、こういった楽しみ方ができなくなってしまうこともある。どこの層かはここでは特定するようなことは書かないが、最近では、北方謙三先生が今度は『史記』を題材にして書くとか、少し前ではキャナルガーデンの人物像とかを取り上げたブログ群の極端な例では、それぞれのブログ(あるいはSNSの日記)で独立して報じている点では前述の本の事例と同じなんだけど、ブログ記事で書かれている内容は単に事実が述べられ、一言端的な感想(というか動物的反応)が添えられているぐらいで総じて無個性であるため、前述の事例のように同じことを報せていても見て回って楽しむことができない。さらにはあたかも第一発見者のようなテンションで書かれるとげんなりした気分になる。その層のブログ群の中で互いに情報のやりとりがあれば、互いに意識するものだから個性が出てきて、その無個性が変わるかもしれないと何となく思っている。だけど、あるブログの書き手とそれとは別のブログの書き手の趣味趣向が互いにとても似ていて、互いに似ている記事を書いているんだけど、まるで別の国、別の世界に住んでるかの如く、互いに交流しているどころか認知している気配もない、そういうことは多々見かけるんで、いつまでも見かけ上、別々の閉じた系に居るんだろうな、と予想が付く。まぁ、ブログがネットのコンテンツの中でもより私的なものと認知されているならば、そういう現象が起こるのも道理なのかもしれないし、部外者がとやかく思うことでもないんだろうけど。どちらにせよ、清岡の脳の大半では『甲骨文字に歴史をよむ』を読みつつ、脳の局所的なところで「ブログの同報性キモい」というフレーズがぐるぐる回っていた。もちろん自分に向けたフレーズでもあるんだけどね。
※追加 古代中国の虚像と実像(2009年10月20日)
そうこうしている間に12:31、西台駅到着。同じ東京都内と言うのに、最寄駅に着くまで一時間もかかってしまうなんて、と悪態をつきながら、そこから大東文化大学板橋キャンパスに向けて歩く。清岡は「学会の類ではスーツ」と決めていたものだから、この日はスーツ。大崎駅に行くまでもそうだったんだけど、炎天下の中、スーツ姿で歩いているためか、汗がダラダラ出てきて、歩きながらも何度もハンドタオルで顔をぬぐっていた。少なくとも次の公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」ではカジュアルな服装で行こうと決心する。おまけにこの日は前日の諸葛亭とホテルの無料パン以来、何も口にしていない。すでに一周回って特にお腹が減っているわけではなかったんだけど、道中の欧州カレー専門店の店頭で売っているカレー弁当が妙に美味しそうに見えていた。
10分余りで大東文化大学板橋キャンパスに到着。
・大東文化大学
http://www.daito.ac.jp/
会場となる多目的ホールは過去の三国志シンポジウムでも三国志学会大会でも使われたことがないため、どこにあるのかしばらく目が泳ぐ。そうすると道しるべを見かけ(写真のようになぜか「三国志シンポジウム」の絵が使い回しされていた)、意外と近いところにあった。昨年、三国志学会 第二回大会で見かけた方が受付をやっておられ、そこで支払を済ませ、『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れ任務完了。あとで気付いたんだけど、「三劉」の発表のレジュメが1/4から3/4ページまでしかなくこれは4/4ページが抜けているのか、それとも元からないのかよく解らなかった。
・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/
会場内へ入る。広めの会場だけど、休憩中なのか、人が4,5人しか居らず、前方のスクリーンでは映画『レッドクリフ』の予告編2分33秒バージョンが繰り返し流れていた。とりあえず画面が写り込まないように映像が流れていないときに、会場の様子をデジカメで撮る。
後から考えると戻っても清岡の理解の範囲外の発表であるため、しばらく三国志学会大会の会場に留まっても良かったが、そういう考えに及ばずすぐに踵を返し、西台駅を目指す。
13:04、西台駅発都営三田線(白金高輪行)に乗り込む。13:21巣鴨駅着。13:26、山手線池袋行に乗り、13:54大崎駅到着。14時過ぎ、立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室に戻る。五番目の発表の途中だった。
15:40に七つの発表が全て終了し、15分の休憩を挟んでパネルディスカッションとのこと。
休憩時間になるとすぐに教室を出る。5階エレベータ近く、エレベータ出て右側に今回、汲古書院が出店していることが目に付いていたので、直で底へ足を運ぶ。もしかすると前日、神保町で購入できなかった『漢代都市機構の研究』が置いてあるのではないかという期待を元に並んでいる書籍を見ると、有ったんで、迷わず手に取り購入する。ふと見ると全品二割引ということで結果的に得した状態だった。ちなみに『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』も置いてあった。
チラシをいくつか貰ったけど、高村武幸『漢代の地方官吏と地域社会』というのが面白そう。以前、サポ板で話題に出ていた「秦漢代地方官吏の『日記』について」も収録されているしね(あと長沙呉簡関連の論文も執筆されている方のようだ)。まずは『漢代の文物』や『漢代都市機構の研究』と同じく図書館で借りてきて、よく使うようであれば購入という流れになるね。
※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)
しばらく書籍コーナーでうろちょろしていると、しずかさんと会ったんでしばらくしゃべる。昨年の三国志学会 第二回大会以来。
というわけで時間が来たので、教室に戻る。
※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※追記 魏晉南北朝史研究会 第13回大会(2013年9月14日)
※追記 孫呉政権と国史『呉書』の編纂(2014年3月)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)
前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。
会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。
●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」
10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。
予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。
○はじめに
南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。
現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。
南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。
問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。
○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書
両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。
内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。
○2. 墓誌引用公文書の内容
まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。
『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。
(※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた)
馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。
墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った?
文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。
わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。
梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。
(※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。
公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。
○3. 各文書の書式等について
策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。
詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。
札の書式。時間の関係で省略。
○おわりに
詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。
(今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。
そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。
11:30終了。
※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復
※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日)
※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)