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2008年春期講座「三国志の世界」(大東文化大学 地域連携センター)


  • 2008年3月24日(月) 14:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,915
教育機関 ・大東文化大学
http://www.daito.ac.jp/

上記の大東文化大学のサイトにアクセスすると

春のオープンカレッジ、全96講座で開講<受講生募集>
申込期間 平成20年3月27日(木)~4月14日(月)

という更新情報が見えたので、リンクに導かれるまま、「大東文化大学 地域連携センター」のページにアクセスする。

・大東文化大学 地域連携センター
http://www.daito.ac.jp/exten/

そうすると、「大東文化会館」のところに「三国志の世界」と銘打たれた講座名が見えた。

どうやら講師が渡邉義浩先生で全六回の講座とのこと。テキストに渡邉義浩先生の著作『図解雑学 三国志』が用いられる。受講料は一般で11000円。2008年の5月15日、29日、6月12日、26日、7月10日、24日(いずれも木曜日)の13:15から14:45まで行われる。
受講方法等、詳しいことは上記の「大東文化大学 地域連携センター」のサイトまで。


※追記 レッドクリフを楽しむ(2009年2月19日)

早稲田大学の入試で三国志関連


  • 2008年2月26日(火) 22:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,511
教育機関 またまたタレコミ情報が来たので記事に。

早稲田大学入試問題の「文学部」、「教育学部」、「社会科学」の「世界史」でそれぞれ三国志に関係する問題が出たとのこと。箇所は下記のメモ参照。

※メモ
 文学部 世界史 [II]BC
 教育学部 世界史 3-1
 社会科学 世界史 I

それにしても三国志関連に限らず、同じ世界史でも学部によって特色が出ていて面白い。
実際の問題の内容は下記の読売新聞の「大学入試速報」にて。

・大学入試速報(読売新聞)
http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/

※関連記事
・立命館大学の入試で三国志関連
http://cte.main.jp/newsch/article.php/824
・センター試験での三国志関連
http://cte.main.jp/newsch/article.php/800
・黄巾inセンター試験
http://cte.main.jp/newsch/article.php/486


※追記 関西学院大学の入試(F方式)で三国志関連

立命館大学の入試で三国志関連


  • 2008年2月23日(土) 00:57 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,920
教育機関 タレコミ情報が来たので記事に。

立命館大学入試問題の「A方式」の「世界史」で三国志に関係する問題が出たとのこと。詳しい内容は下記の読売新聞の「大学入試速報」にて。

・大学入試速報(読売新聞)
http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/

※関連記事
・早稲田大学の入試で三国志関連
http://cte.main.jp/newsch/article.php/827
・センター試験での三国志関連
http://cte.main.jp/newsch/article.php/800
・黄巾inセンター試験
http://cte.main.jp/newsch/article.php/486

※追記 立命館大学の入試で司馬師鍾毓

『漢文講読テキスト 三国志』


  • 2008年2月 4日(月) 00:58 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,431
教育機関 白帝社より『漢文講読テキスト 三国志』刊行。1700円

・白帝社
http://www.hakuteisha.co.jp/

そのサイトの詳細ページによると、

--引用開始---------------------------------------------------------
◆編者:三国志学会 監修  石井仁・渡邉義浩・津田資久・伊藤晋太郎・田中靖彦
--引用終了---------------------------------------------------------

とのことで、三国志学会、監修の書籍とのこと。
そのページの紹介文を見ると『三国志』で「漢文訓読」を学ぼうって主旨の書籍のようだね。
さらには

--引用開始---------------------------------------------------------
■ 学生が高い興味を示す『三国志』は、漢文講読テキストとして最適といえよう。
※解答例はご採用の先生にお渡しします。
--引用終了---------------------------------------------------------

とのことなので、教科書としても使えることが売りなのかな。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

上記、三国志学会のサイトに行くとまだ「三国志学会監修の本」の本には載っていない。

<関連記事>三国志研究入門(2007年7月25日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/644


個人的には、まず、『三国志』関連で漢文の授業を受けられるってのは羨ましい! とおもったのが一つ(といってもまだ『漢文講読テキスト 三国志』に目を通していないが)
次に、定期テスト前になると、ネットで大量に三国志関連の検索ワードが飛び交うんだろうな、という予想が一つ。

<関連記事>「捜神記」で検索される訳
http://cte.main.jp/newsch/article.php/264

※追記 三国志で攻略!センター漢文12(2009年9月18日)

センター試験での三国志関連


  • 2008年1月19日(土) 20:36 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,270
教育機関 ・黄巾inセンター試験
http://cte.main.jp/newsch/article.php/486

昨年、上記のような記事を書いたんだけど、今年も読売新聞の大学入試速報で何か三国志関連の問題がないか見てみる。

・大学入試速報(読売新聞
http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/


今年は世界史Aの第1問、問4の選択肢に

 卑弥呼の使者を迎えた。

とあるのと世界史Bの第4問、問9の選択肢に

 前漢で,黄巾の乱が起こった。

とあったことかな。後者は正しいものを選ぶ問題での選択肢なので、もちろん文自体が間違いね。

<関連>立命館大学の入試で三国志関連
http://cte.main.jp/newsch/article.php/824

※追記 センター試験での三国志関連2009

袁家残党討伐1800周年記念(早稲田祭2007)


  • 2007年11月 3日(土) 09:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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教育機関 前回の記事で思い出したけど、そういや今、文化祭の季節で、今年の早稲田大学三国志研究会は何をするのか、気になった。

・早稲田大学の学園祭「早稲田祭2007」公式サイト
http://www.wasedasai.net/
※関係ないけど、ここのページ構成面白い。wasepediaとか。

「早稲田祭2007」(2007年11月3日土曜日・4日日曜日開催)の「企画紹介」→「学術研究・発表」と辿ると、三国志研究会の名が見え、そこには「袁家残党討伐1800周年記念」とタイトルが見える。
なるほどね、三国志魏書武帝紀によると

(建安十二年、西暦207年)九月、公引兵自柳城還、康即斬(袁)尚・熙及速僕丸等、傳其首。

というわけで、今年の9月で1800周年記念ってことで「袁家残党討伐1800周年」ってことで(笑)
それで「袁家残党討伐1800周年記念」の内容だけど、下記に引用。

--引用開始---------------------------------------------------------
戦場考察の展示を中心とし、その他にも会誌発行、クイズ、三国志占い、三国志カルタ、レジュメ発表などを予定しています。
--引用終了---------------------------------------------------------

・早稲田大学三国志研究会
http://www.jggj.net/3594

第3回三国志シンポジウム 雑感4


  • 2007年9月 3日(月) 23:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,002
教育機関 <目次>第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661
<前回>第3回三国志シンポジウム 雑感3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/675

 昼飯を食べ終え、会場に戻ってくる。時間になっても午前ほどは人が居なかった。前列の高校生がごっそり居なくなっており、本来の目的であるオープンキャンパスに専念したんだろうな、と思った。また後列の中年女性もごっそり居なくなっていて、これはやはり二限目の「「三國志」と書道」目当てだったのかな、と妙に納得していた。


○討論會

 13時40分スタート。
 壇上には司会の渡邉先生と午前の部で授業を行った三人の先生方が並ぶ。前回、前々回と同じく客席の最前列にはコメンテーター席が設けられており、向かって左から大東文化大学三国志研究会(というか○○ゼミ)、東京大学三国志研究会、早稲田大学三国志研究会が並ぶ。

・東京大学三国志研究会
http://sangokushiken.web.fc2.com/
・早稲田大学三国志研究会
http://www.jggj.net/3594

 今回も一般聴講している人たちからも質問できるように予め質問用紙が配られており、昼休みに回収されている。
※以下、かなり端折りつつレポ。もしかすると「ジンジャエール」を「死んじゃえ」と聞き違えるぐらいの聞き間違えがあるかも。

 初めは各大学の三国志研究会から質問。

●早稲田大学三国志研究会から三浦先生への質問。
Q.華佗は儒者指向とのことでしたが、なぜ動物ストレッチングのような道教のようなことをしたのか?

三浦先生「要するに…(マイクが入ってない)もうはじまっているんですかー?」渡邉先生「始まっていますよー」っていうやりとりに和やかな笑いが。

A.儒者だから道教的なことはしない、ってことにはならないと思う。歴代の儒者も五禽戯をやっている。単純には言えないのでは?

●東京大学三国志研究会から中林先生へ
Q.日中戦争時は三国志はどういうふうに利用されていたか?
A.三国志そのものがどうなのか当時の日本人がきっちり考えていたわけではない。そこに諸葛亮が使われるのは日本の文化人に合いやすい…要するに成功しないから(場内笑)。義経と同じ。一般の人はそういうものに頭を回すほど余裕があった時代ではなかったと思う。

●大東文化大学三国志研究会。三浦先生へ。
Q.五禽戯は(六禽や九禽とはあるものの、)五行にどう関係するか
A.五行説とどう関係するかは華佗自身、残していない。しかし、五行と繋げるという議論はできてきている。おそらく、華佗の段階でそういう考え方があって一つの思想として五禽戯を定義していったと思う。ただ五行だけで説明しきれないのがある。例えば亀とか蛇とか。

●ここで会場からの質問コーナー。中川先生へ質問が無かったので、司会の渡邉先生がそちらへの質問を探しあぐねていたら、会場右手から初老の男性から手が挙がり、質問用紙を介さず直接、マイクで質問。
Q.中川先生へ書に関する質問。王羲之の前の書としての鍾[夕/缶系]の書を知らなくて驚いた。まだ隷書の雰囲気が残っているが、これ以外の鍾[夕/缶系]の拓本があれば教えて欲しい。また鍾[夕/缶系]が隷書を書いたのか?
A.いくつかあるが具体的に今、名前が出せない。鍾[夕/缶系]の隷書体は目にしなかった。
A.(渡邉先生から)鍾[夕/缶系]が書いたと伝えられるものに「魏公卿上尊號奏」というのがある。

●早稲田大学三国志研究会から中林先生へ。
Q.なぜ吉川三国志は現在まで影響力があるのか?
A.「端的に申し上げて吉川だから」(場内笑) この後、あれこれ作家名を挙げたあとに「(吉川英治は)文章の出来が違います」。中林先生の世代では文章を声に出したときの耳障りが他の作家に比べて圧倒的に良いし名文だ。

●ここで司会の渡邉先生がこの質疑応答関連で会場の質問用紙から一つ質問を出す。
Q.研究会への質問。吉川三国志以外で北方三国志や宮城谷三国志などがあるが、どの三国志小説が好きか? とここで先ほどの初老の男性から手が挙がり、実はこの質問もこの男性の質問とのこと。

A.(早稲田大学三国志研究会から順に※言った順に番号をふる)1)吉川三国志、2)吉川三国志、北方三国志、蒼天航路、3)どちらかと言えば、北方三国志。
 3人目の人が○○も○○も三国志というツールを使って書いている云々と語りだしたとき、左隣のげんりゅうさんがアイタタという仕草をしていて面白かった。清岡は立場と心中を察して小声で「でも(自分語りは)すぐ終わったじゃないですか」とフォローを入れておいた。

A.4)吉川英治、それ以降は北方三国志、5)北方三国志、6)吉川も北方も読んだけど柴田錬三郎の三国志、7)完訳の三国演義しか読んでいないんでよくわからない、8)北方先生のハードボイルド小説のファンだったのでそのまま北方三国志

A.渡邉先生は吉川三国志、中川先生は原文。立場上、(小説ではなく)訳本を読んで下さいとのこと。あと三国志平話をプッシュしていた。ここで渡邉先生による三国志平話の解説が入る。そう中川先生は三国志平話を訳し、それがコーエーより出版されており、本の宣伝になっていて会場をわかしていた。

<参照記事>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/153

A.ここで会場でカメラを持ってパシャパシャやっていた伊藤晋太郎に話が振られる。出会いは人形劇、その次に三国演義の訳本。日本の小説では通して読んだのが柴田錬三郎? 研究者の立場だと吉川三国志にしろ北方三国志にしろ彼ら自身の考え方、文章、強調したいところ、主観になってしまい、彼ら自身の文学作品になる。研究者としては三国演義の完訳本を読んで欲しい。

●東京大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.三国時代の書道について、どの筆とか、どれに書き付けていたとか?
A.「わかりません」(場内爆笑) もう紙があった時代だけど今みたいに普及していないはず。かといって木簡竹簡だけの時代でもないはず。「(渡邉先生へ向けて)呉の地域から何か発掘されたんですよね?」 物が錯綜していた時代。
 渡邉先生から長沙呉簡の解説(明日、長沙呉簡の発表をされる谷口建速先生に話を振ろうとし会場内を見渡すが、見あたらないという流れから)
 ・長沙走馬楼という所から出てきた呉で使っていた竹簡木簡
 ・ビルつくってたら発掘された
 ・役所でつかっていた竹簡木簡を棄てたとか保存していたとか
 ・そこに書いていた文字数が陳寿の『三国志』より多い
 ・ですからいろんなことがわかるのではないか、と期待されている

 ここで客席から去年、サントリー美術館で展示されたという情報(※三年前が正解)。渡邉先生から再び馬王堆の帛書(絹に文字を書く)と共に解説。

<参照リンク>2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

●大東文化大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.鍾[夕/缶系]が書の名人だったってことが『三国志』に書いていないのは何故か。
A.「それ陳寿に聞いてみないとわからないですね」(場内笑) 私自身、不思議に思っている。
A.渡邉先生個人の考えでは王羲之以前は書を芸術として捉える価値基準がなかったのでは、とのこと。

●質問用紙からの質問。
Q.各国の敗因はなにか? どこをどうすれば統一できたか?
A.(中林先生)中国の場合、中原を押さえたところが強い(晋が統一したという歴史が示しているように)。魏の人たちは魏以外の国があるのか、といった具合。そうなると蜀も呉も勝てない。もう一つは旗印(正当性)があった方が良い。もう一つは蜀という地方を押さえそこから天下統一した政権は歴代、一つもない。呉も同様。(ここで渡邉先生がホワイトボードに地図を入れたり図解をし始め場内をわかせる)。中原を押さえるか否か、中原を押さえないとダメ。(ここで南北朝の話に戻って行宮が云々)
 但し、何かあれば蜀に逃げ込むと大丈夫。(この後、四川料理や霧深い土地柄の話)

●質問用紙からの質問。三浦先生へ。
Q.華佗は人の首の移植に成功したという伝説があるが、麻沸散でそういうことができたのか(麻薬という説もあった)。
A.医学史とか華佗とか研究しているわけではないのでわかりかねるが、少なくとも『三国志』には無かった。麻沸散というのはいろんな説があり、麻薬であったかどうかもしらない。
Q.(三浦先生から中林先生へ質問)関羽像に関すること。
A.結構、いい加減に祀っているところもある(どれが関羽がわからない状態)。

●質問用紙からの質問。
Q.曹操が詩を作った建安文学に関する質問。それがどんな風に伝わってどんな風に受容されていくか
A.(会場に来ていた東京女子大学の安藤先生に話が振られる)樂府と呼ばれる民謡はそれ以前、民間に感情を抱き、特に個人の思いじゃなかった。そういう意味では文学史上、曹操が中国で最初の私人だった。
(清岡注※授業に関係しない質問なので、とっかかりが掴めず回答を理解できずに居た)

<参照リンク>三国志学会第一回大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

●早稲田大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.三国時代の鍾[夕/缶系]以外の書家は居なかったのか? 魏の中では?
A.全く居なかったわけではない。個人名としてはなかなか難しい。
 (渡邉先生から)南朝の時に焼けたので現代に伝わってなかった云々

※ここで清岡は舞台の話をそっちのけで隣のげんりゅうさんに張紘は篆書が巧かったという話をしていた。そのためどういうやりとりが舞台で行われていたか聞かず。げんりゅうさんが中華書局の『三国志』を持っていたので、『三国志』呉書張紘伝の注に引く呉書を指し示していた。

紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰:「前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。」

●東京大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.岳飛の書いた出師の表はどういう評価がされているのか?
A.僕自身の評価? 去年、拓本を買ってきた。非常に力強い非常に将軍らしい書だった。個人の評価は立派な書だった。

●大東文化大学三国志研究会から三浦先生へ
Q.中国のカンフー映画であれこれ蟷螂拳、蛇拳とか出てくるが、やはり五禽戯を元にしたのか?
A.五禽戯の中に蟷螂はないから適当かと。

●早稲田大学三国志研究会から中川先生へ
Q.鍾[夕/缶系]が七言八句の詩を献上するシーンは嘉靖本のみですか?
A.嘉靖本が最古で明代の版本にはある。毛宗崗本にはない。それは毛宗崗が七言八句の詩が当時、あることはおかしいと判断し削ったのだろう。
Q.他に削られたエピソードは?
A.漢寿亭侯のところ(しばし漢寿亭侯の解説が続く)。曹操が関羽に寿亭侯を送ったが受け取らず、漢を着けたら受け取ったというエピソード。関羽が曹操ではなく漢に下ったという意志表現。実は漢寿という地名なのでこのエピソードはおかしいとし毛宗崗はこれを削った。

●東京大学三国志研究会から三浦先生へ。
Q.五禽戯の他に華佗の業績は何か伝わったか?
A.医学史の専門家ではないんではっきり言えない。外科の麻酔は継承されなかったんじゃないか。

 ここで渡邉先生から三浦先生の専門の紹介。風水?道教?と来てなんでもできるになっていた(笑)。あと大東文化大学の中国学科は一年生のときに合宿があって、そのときに三浦先生から太極拳を教わるとのこと。

●大東文化大学三国志研究会から。特になし。

●会場から。
Q.『三国志』の記述等に見られる烏林・赤壁の位置に関する質問。
(※後で気付いたんだけど、質問していたのは簡俊さんかな)
 渡邉先生は駒沢大学の石井先生に話を振ろうと会場を見渡すも見あたらないため、中川先生に話がいく。
A.実際は烏林を指していると思う。

●会場から。何かよくわからない質問。

 15時終了。

 中林先生からアナウンスで前に飾っているフィギュアを欲しい人は持っていってとのこと。
 欲しいようで多くの人が一気に群がっていた(笑)
 ちなみにフィギュアはおそらく海洋堂NHK人形劇三国志フィギュア。
 あとこのタイミングで石井先生が来場されていた(笑)


 清岡はこの後、ネットの知り合い総勢七人でオフ会に行くこととなる。


・便乗プチオフ会(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/678

※追記 まとめリンク:北方三国志

第3回三国志シンポジウム 雑感3


  • 2007年9月 1日(土) 21:57 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,663
教育機関 <目次>第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661
<前回>第3回三国志シンポジウム 雑感2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/674


 そういやめくり台の次の演題に誤字があって「動物トレッチング」となっていて後から吹き出しとともに「ス」が足されていて、観衆のツッコミの的になっていた。

○三限目・・・三浦 國雄(大東文化大學中國學科教授)
名醫華佗と動物ストレッチング

 11時49分スタート。

「三国志の専門家とは違いますので、三国志とはずれた話になると思います…もうすでにめくりからずれてますので、お気軽に聞いて下さい」

と冒頭でおっしゃって会場をわかしていた。これ以降もちょくちょくとネタが入る。

●1,「神医」華佗
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 史書では華佗は『三国志』方技伝(治療法16例)と『後漢書』方術列伝(治療法7例)に出てくる。ここでの方術は技術・占術の総称。華佗の治療法としては1)薬物療法、2)鍼療法、3)外科療法がある。外科療法では「麻沸散」という麻酔薬を遣って開腹手術をした(世界初)。また日本の華佗になりたい、と言っていた和歌山の華岡青洲(1760-1835)が麻酔薬「通仙散」(旧名「麻沸湯」)で乳ガンの摘出手術に成功(世界初)。余談(小説で有吉佐和子『華岡青洲の妻』ってのがある)。4)心理療法。わざと激怒させて黒い血を吐かせて治癒。
 『三国志』華佗伝の冒頭に「遊学徐士、兼通数経、暁養性(=生)之術」とあって、「数経」と元々儒者指向で、養生法は1)服食(滋養・強壮剤)、弟子の阿善が提唱と言われている、2)導引(体操、ストレッチング)、五禽戯、弟子の呉普が提唱といわれている、の二つがある。

●2,華佗と曹操

 『三国志』華佗伝の話を引用。曹操は頭風に苦しんでいたところに華佗は横隔膜あたりに針をつくといいとした。華佗は士人指向で、医者と思われるのを嫌がっていた。妻が病気だといって華佗は家に帰った。曹操にバレて牢獄に入れられる。

●3,華佗の最期

 荀[或〃]が殺すには惜しいとしたが、曹操は天下にこのような輩はいっぱい居るとして華佗を殺してしまう。華佗は死ぬ間際に獄吏に一巻書を渡すが法を畏れ受け取らず、華佗はそれを焼いてしまう。曹操の愛子、倉舒が病にかかったとき、曹操は華佗を殺したことを悔いた。
 これが虚構化される。『三国演義』(毛宗崗本)第78回。レジュメの2ページに絵付きのもののコピーがある。華佗の一巻書は「青嚢書」という名前が付けられており、獄吏は呉という姓がつき、嫁が「青嚢書」を焼く。「麻沸散」は「麻肺湯」になっている。
 「青嚢書」は方術・術数書、風水書。『晋書』郭璞伝に出てくる。

●4,華佗と五禽戯

 五禽戯は『三国志』華佗伝と『後漢書』華佗伝に出てくる(レジュメでその部分が引用されている。後漢書の注も引用)。労働は「体を動かす」の意、穀気は食べ物は気に変わる考えから。熊経(=頸)鴟顧、熊の首、ふくろうが首だけ動かすポーズ。一つの基礎。五禽戯は一つは虎、一つは鹿、一つは熊、一つは猿(実際、援のけものへんの漢字)、一つは鳥。これをやると病気が治り足が軽くなる。一つやると汗が出て、粉をつけると、体が軽くなり食欲も出る。
 後漢書の注も引用では熊経は熊が枝にぶら下がるポーズ、鴟顧は首だけ動かすポーズ。さらに古い息を吐き新しい息を吸う呼吸法も書かれてある。問題は熊経。導引図から引用した絵がレジュメにあって、どうもそれだと枝にぶら下がっているポーズではない。
 華佗別伝では呉普が魏の明帝の前で披露しようとするが呉普は老いていて手足を動かせなかった。

●5,動物ストレッチングの源流と展開

 『三国志』より古い『荘子』刻意篇と『淮南子』精神訓(レジュメで引用)に動物ストレッチングが見られる。後者ではカモが居て、六禽になっている。
 馬王堆3号漢墓(長沙国丞相利蒼の子、前168年没)出土「導引図」(一部がレジュメにコピーされている。沈寿『導引養生図説』から復原・分類されたもの)。全44種のポーズ。熊、鳥、猿などの動物模擬がかなりある。

<参照記事>2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

 展開として道教・養生の世界で、東晋・葛洪『抱朴子』、明・高濂『遵生八牋』延年却病牋がある。前者に亀の呼吸法、燕、兎などが加わっている。後者は仏教思想の影響を受けている。
 武術では少林5拳、形意拳、象形拳、太極拳がある。

●6,五禽戯の展開

 梁・陶弘景『養性延命録』では始めに華佗と呉普の名前が出てきて、華佗が言ってなかったポーズが出てくる。レジュメにはそれを現代の気功家が復原した図のコピーがある。(ここでこのポーズを家で帰ってやってもいいが、夜の公園ではやらない方が良いってネタが飛び出て場内の笑いをとる)
 明・周履靖『赤鳳髄』「五禽戯図」での特徴は体内の気に重点がおかれているところ(レジュメにコピーがある)。
 これらが現代気功における再編集をうける。いろんな人が再現している。周稔豊ら『五禽戯』(ベースボール・マガジン社1983)では「熊の形」に導引図を参考にしている形跡がある(熊の形、猿の形、鳥の形がレジュメに引用)。

●7,結語

 馬王堆導引図の歴史的意義。戦国期以降、支配層は労働から開放され、日常生活の中に運動を欠く→体のゆがみの自覚→自然性回復への希求→動物模擬
 これとは反対に、導引図により、導引は一般大衆に非常に盛んで、古代人が自然と一体化した証という説がある(張勇「悠久の体ほぐし─馬王堆導引図の世界」『体育の科学』6、1999年からのもの。レジュメに引用あり)。三浦先生は納得してなくて、過酷な労働を強いられていた一般大衆がわざわざ導引は行わないだろうし、自然と一体化していればわざわざ野生動物の模倣はしないだろう、とのこと。
 動物ストレッチングが支配層・貴族を中心に流行。華佗は五行思想に依拠して体系化
 人間は母親のお腹の中で進化をなぞる成長をする「個体発生は系統発生を繰り返す」→自然性から本来性への回帰
 →たまには人間を止めようよ、という結論。

 最後は周稔豊先生の五禽戯のビデオをスクリーンで見て終わり。

 12時35分終了。

 お昼休みは去年と同じくファミレスのジョイフルで食す。やっぱり一度に座れる場所が無くて二つに別れたけど。おりふさん、清岡、KJさん、三口宗さんのグループとげんりゅうさん、玄鳳さん、伊比学さん、キングさんのグループ(チームW?・笑)。

 おりふさんが中林先生の授業をきいて江戸時代も現代も同じ、って感想を持ってらして例えで「武力80って言っているのと一緒じゃん」っていう発言は妙に可笑しかった。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/646
↑それから某氏からここの追記部分を聞く。180名ぐらい講義を受けている人が居て、その人気の秘訣は授業名に「三国志」がついているとか予想を立てられていた。
その人数を羨ましがって回してくれないかなぁ、なんて方がいらっしゃったんだけど、多分、単位がないと集まらないと清岡は突っ込んでいた(笑)
 KJさんは三国志ファン向けに○○先生が何の専門か、とかわかるデーターベースがあれば良いなぁって話をしていた。

<次回>第3回三国志シンポジウム 雑感4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/677

※追記 三国志フェス2010(2010年8月21日土曜日)

※参照リンク追記
・国内書 却穀食気・導引図・養生方・雑療方【中国・本の情報館】東方書店
http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497210081&bookType=jp

第3回三国志シンポジウム 雑感2


  • 2007年8月31日(金) 22:42 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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教育機関 <目次>第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661
<前回>第3回三国志シンポジウム 雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/665

 一限目が終わってここで司会の渡邉先生から教室の外にお水を用意してある旨と高校生に向けたオープンキャンパスの案内が告げられる。それからあの名言、

それからあとはお土産というわけじゃありませんけど、ピーターラビットのですね、こんなかわいい(絵が入った)手提げカバンを持って帰って頂きますと、もれなく(そのカバンの中に)大学の案内が入ってまして、諸葛亮の罠でありまして…

が飛び出て場内の爆笑を誘っていた。というわけで5分程度休憩。
 清岡は外へペットボトルのミネラルウォーター(大東文化大のデザインでビックリ)を貰いに言って、知り合いと今回の三国志シンポジウムの客層の話などをしていた。


○二限目・・・中川 諭(大東文化大學中國學科準教授)
「三國志」と書道

 11時09分スタート。前の授業で掛け軸など展示してあったが、どうやら休憩時間中に模様替えがあったようで、ホワイトボードにはスクリーンがぶら下がっており、そこにMS Windows Vistaの画面が映し出されており、PCでなにやら発表資料を映し出すことがわかる。

●はじめに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 まず歴史の『三国志』と物語の『三国演義』の説明から。それと今回の授業では「三国志」と「書道」がどんな関係を持つのか、というのが主題とのこと。

●一、鍾[夕/缶系]─三国時代の書家

 まず『三国演義』での鍾[夕/缶系]の説明。場面は赤壁の戦い後のところ、銅雀台完成の祝いの宴のシーン(現在、通行している毛宗崗本にはなく嘉靖本にあるシーンとのこと)。まず武将が曹操の前で武芸を披露し、その後、王朗は詩を献上。続いて鍾[夕/缶系]が登場し、筆を執ると七言八句の詩を献上する。ここで中川先生の解説が入り、そもそもこの時代に七言八句の詩があることがおかしいとのこと。(この後、『三国演義』と『三国志』における鍾[夕/缶系]の紹介)。この鍾[夕/缶系]について『三国演義』(嘉靖本)では「善寫隷書、萬古為法」という記述があるが、『三国志』には出てこない。しかし、実は鍾[夕/缶系]が優れた書家であったといういくつも存在し、その内、二つを紹介。
 まず鍾[夕/缶系]が書いたとされる(直筆ではないが)書跡を見る。ここでレジュメの3ページを示す。そこには鍾[夕/缶系]「薦季直表」のコピーがある。皇帝に季直という人物を推薦するときの文章とのこと。楷書体で書かれているが、隷書体の雰囲気が残っている。特徴としてどちらかと言えば小さい字だが、力強くどっしりとした字で、特に盾の線が太く力強くなっている(ここらへんスクリーンに映しだして説明)。
 もう一つは書道理論の文献。孫過庭(609?-703?)という書の名人が書道についての理論を『書譜』(草書体で書かれている。687年に完成)にまとめる。今では書道の草書を勉強する時の代表的なお手本。『書譜』の冒頭(レジュメ4ページにコピーがあり、またスクリーンに映し出される。草書体で清岡にはまったく読めないで居た)で、孫過庭が書道の名手として、鍾[夕/缶系]、張芝、王羲之、王献之の四人の名前を挙げている。鍾[夕/缶系]は孫過庭から書家として高く評価されている。王羲之自身も鍾[夕/缶系]、張芝の二人を挙げている。
 王羲之、王献之の後を受け継いだのは初唐の三大家、虞世南、欧陽詢、楮遂良。極めて単純に言うと、その少し後に顔真卿(盛唐の時代)、宋代に蘇軾、黄庭堅が現れる。
 王羲之、王献之に先んじる優れた書家として鍾[夕/缶系]、張芝が挙げられており、中国書道史の正統派の流れの源になっているといえる。つまり『三国志』の時代が芸術書道にとって重要な時代であったと考えることができる理由の一つ。
●二、後の時代の書家と「三国志」

 書家が「三国志」をどう思っていたか。

●(1)蘇軾

 蘇軾(1036-1101、号は東坡)。学者として有名。文学作品として「赤壁の賦」がある(レジュメの6ページに示されて、スクリーンに映し出され、実際に三行目を読まれる)。蘇軾の書跡も伝わっている。書跡は楷書と行書の中間で力強い太い線でずっしりとした文字。また蘇東坡が「赤壁の賦」を作った場所は実際の赤壁の戦いの場所ではない。蘇東坡自身もそれを知っていた。

●(2)趙孟[兆頁]

 元代の人。趙孟[兆頁](1254-1322、字は子昂)。宋王朝の皇帝の血筋に連なる人物。王羲之の書風を再興しようとした人。「出師の表」を書跡として残している(7ページにコピーがある)。王羲之の「蘭亭叙」を思わせるような正統的な行書体。元の時代は中国がモンゴル民族に支配されていた時代で、もしかすると諸葛亮と自身を重ね合わせ、「出師の表」に思い入れがあったのかもしれない。

●(3)祝允明

 明代。中期になると書道のみならず絵画や文学など多方面にわたる芸術家が多く現れる。沈周、文徴明、祝允明、唐寅が代表的。その中で祝允明(1460-1526)の書跡を辿る。祝允明が書いた「赤壁の賦」(レジュメの8ページ)。自由奔放な草書体。『三国演義』嘉靖本は嘉靖元年(1522年)に印刷出版されているので、もしかすると、好事家の祝允明が読んでいたかもしれない。

●終わりに

 三国時代に構成の書道史に大きな影響を与えた書道の大家、鍾[夕/缶系]が居て、三国志より後の時代になるが、「三国志」に関わる文章を題材にした作品を残している書道の大家はたくさんいた。つまり「三国志」と書道は意外にもしっかりと繋がっている考えられる。

 11時43分終了。3分ほど休憩。


<次回>第3回三国志シンポジウム 雑感3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/675

※追記 リンク:漢字文献情報処理研究会

第3回三国志シンポジウム 雑感1


  • 2007年8月12日(日) 23:25 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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教育機関 めくり台にある演題<目次>第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661

 2007年7月28日。10時になり、総合司会の渡邉義浩先生のアナウンスが入り、学科主任の挨拶から入る。門脇廣文先生が壇上に立つ。

○學科主任挨拶・・・門脇廣文

 挨拶は中国学科の紹介から始まる。。文学、哲学、歴史を中心にその他、語学、書道の5つの柱から構成されているとのこと。その後、大東文化大学の歴史が述べられる。あと入試の新しい推薦制度の紹介とか。詳しくは下記の大東文化大学のサイトより。

・大東文化大学
http://www.daito.ac.jp

 その後、今日の授業についての説明。あと去年の三国志シンポジウムをまとめた冊子と『三国志研究入門』の紹介がされていた。

・三国志研究入門(2007年7月25日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/644

○一限目・・・中林 史朗(大東文化大學中國學科教授)
日本人にとって三國志とは何じゃいな? ~見るのか、讀むのか、掛け軸から『ストップ劉備くん』まで~

 10時13分スタート。
 その前にこの授業のタイトルについて。予めの情報だと、上記の通りタイトルに「ストップ劉備くん」と書いてあったんだけど、大東文化大学のサイトの情報だと「ストップ、ザ劉備君」という誤用になっている。当日、どうなっているのか楽しみにしていたら、写真のように会場のめくり台やプログラムの紙では「ストップ、ザ劉備君」、だけど配られたレジュメでは「ストップ劉備くん」となっている。おそらく事務方には何故か「ストップ、ザ劉備君」と誤って伝わったんだろうね。結局、授業では特に『STOP劉備くん!』に触れられることは無かったので、どっちでも良かったんだけど。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/630
※↑その開催前の経緯はこの記事の下部参照

 まずこの授業を受け持つ経緯について面白可笑しく説明。なんでも台湾に居たら中川先生からメールで依頼が来たそうな。金がないから今回、身内だけ(大東文化大学の先生方だけ)でやるらしい。

●始めに
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 授業の主旨は三国志の世界をもう一度、確認しようではないか、とのこと。まず日本人に広く知られた「三国志」の世界とは『三国志』ではなく『三国志演義』である、と断った上で、『三国志』は寛平年間(889-897)で藤原佐世/編『日本國見在書目録』に記載されており、平安朝時代に日本へ舶来されている。つまり知識人にはこのころから知られていたこと。一般大衆には江戸時代以降でしかも『三国志演義』の方が知られた。
 「結論から言うと三国志の世界とは遊びの世界だった」とおっしゃってすかさず「これで私の話は終わりです……という訳にはいきませんが」とおっしゃって場内をわかせる。

●1、江戸時代

 日本人によく知られた人物は諸葛亮。なぜなら、彼の作とされるものが残っているから。粱父吟や出師表は『文選』や『古文真宝』に収録されており、『文選』は平安時代より親しまれている。特に中世の禅林の世界において『古文真宝』(中国の名文を集めた者)が愛読されていた。そこから推測し江戸初期には『古文真宝』に書かれている諸葛亮の評価がそのまま踏襲され朱子学者や漢学者に引き継がれる。その具体例として寛文三年(1663年)の鵜飼石斎『古文真宝後集諺解大成』収録「後出師表」の文末の注に宋の張[木式]の「蓋凛凛乎三代之佐」が引用されている、つまり諸葛亮を「王佐の人」と肯定的に捉えている。江戸幕府が朱子学を御用学としているので、江戸前期の公式見解ということになろう。大学頭の林家二代目林鵞峰には十編以上、弟の読耕斎にも数編の「孔明贊」が残されている。
 この「王佐の人」に批判的なのは伊藤仁斎(京都の町学者)。その著作の『古学先生文集』巻六「読諸葛孔明伝」において「王佐之才」と対極の「覇者之臣」(諸葛亮自ら「管仲・樂毅」に比したので)に位置づけた。ところが著作の『古学先生詩集』巻二「楠判官画像贊」においては信義という点で諸葛亮と楠正成と同一視しているが、諸葛亮に対し贊文など一切書いていない。
 元禄時代からがらっと変わってくる。仁斎の子、東涯の時代になると諸葛亮に関する詩文を書いているし、それ以後の人々も三国志に関する詩文を書いている。これはちょうど元禄年間に『通俗三国志』が刊行されたこと。ここで『通俗三国志』の説明。今でも出版されている。

<参考記事>2005年11月21日~ 「完本三国志」全6巻
http://cte.main.jp/newsch/article.php/239

ほぼ同時期に岡島冠山(1674-1728)が京都や大阪で唐話の普及や白話小説の翻案を活発に行ったことの影響がある。そのため一般に三国志が知られるのは元禄以降。
 それというのも三国志に関する「○○像」や「題○○図」等の詩文が多く見られるようになるため。ここでもう一方のレジュメ「『三國志』シンポ資料」(以下、資料)に移る。「6、江戸の漢詩文(元禄以後の一部)」のところ。たまたま中林先生の手元にあるものをリストアップしたものとのこと。確かに「題孔明像」とかいろいろある。三国志の原文を読んで詩をつくるのではなく、絵があってそれに概算をかくとのこと。ここで会場の前に展示されている掛け軸について触れる。まず一つ目が関羽とそれに関する贊とのことで「何を書いてあるかはこの字が読める人はお考えになればよろしい」と言って会場内をわかせる(掛け軸の字は崩してあって現代人が読むには辛い)。以上は江戸時代の儒者に見られる評価。
 次が江戸時代の一般諸人について。江戸時代の川柳を見ると、曹操、劉備、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲らを対象にした歌が150作以上も見られる。ここで資料「7、江戸の川柳(『誹風柳多留全集』『誹風柳多留捨遺』の中の一部)」に移る。ここでは人物ごとに川柳がピックアップされている。例えば劉備のところでは「三度まで通いお蜀を手に入れる」、諸葛亮のところでは「孔明も三会目から帯をとき」など。これらから庶民に『三国志演義』の内容がよく知られていたことがわかる。その中でも諸葛亮に関した歌は50作以上と特に多い。ついで劉備。また歌から当時、諸葛亮の絵を描いた羽子板が存在し、智謀の士として広く知れ渡っていたことが推測できる。
 一方、関羽について。日本における関羽像は、黄檗僧が信仰の対象の伽藍神としてもたらしたもの、長崎から入った唐絵としての明清時代の肉筆のもの、小説に附せられた版画のもの等によりもたらされ、江戸中期の寶暦(1751)以後に広まり、日本での肉筆関羽像画が作られ出すようになった。この日本での関羽像の傾向は四つに大別されるが(周倉・関平を従えた図、赤兎馬に跨る図、春秋を読む図、演義中の一場面図)、絵柄や構図は中国に倣う。一方、諸葛亮の日本での肉筆画はそれほどたくさんない。中林先生曰く、(関羽ほど)あまり絵にならない人物なのではないか、とのこと。
(※関羽の図像、伊藤仁斎親子の孔明観に関しての参考文献、長尾直茂/著『漢文学 解釋與研究』第二輯・第三輯(平成11年・12年))
 ここで会場に展示された掛け軸について説明。真贋や描写内容について面白可笑しく解説され場内をわかせていた。巻物ではなく刊本を持っているのはおかしい、とか。あと絵から関羽の顔は赤いってことがよく知られていた、という指摘があった。
 江戸後期のこのような傾向に、最も大きな影響を与えたと思われるのが『絵本通俗三国志』(天保年間)。絵としては葛飾戴斗の絵が一番有名だろう。

<参照記事>2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/377

●2、明治から昭和前半

 幸田露伴(文人)『通俗三国志』を初め、十本前後の『三国志演義』の翻訳や内藤湖南(学者)『諸葛武侯』を皮切りに五本前後の諸葛亮に関する評伝が公刊される。ここで資料「1、『三國志』と『演義』に関するもの」と「2、諸葛亮に関するもの」に移る。諸葛亮に関するものは、江戸時代では中国から来たものを訳したものだったが、日本人により諸葛亮に関して書いたものの最初は浅田寛『諸葛孔明傳』(文政十年)。
 それらの中で我々日本人に最も影響を与えたのが土井晩翠(詩人)の長編詩「星落秋風五丈原」ではないだろうか。当時を代表する思想家で東宮御学問所御用掛となり倫理を進講した杉浦重剛も『諸葛亮』なる評伝を書いており、同時に江戸の侠客幡随院長兵衛を讃える漢詩をつくっており、諸葛亮も幡随院も「侠」という概念で同じように捉えていたことが分かる。土井晩翠や杉浦重剛に見られるような諸葛亮に対する見方は当時の日本人の対外の見方だ。また資料に「日本青年の歌」と「星落秋風五丈原」との共通する部分をあげてある(つまり「日本青年の歌」が「星落秋風五丈原」をぱくった)。

●3、昭和後半から平成へ

 この時代を一言でいうなら、小説、同人誌、コミック、人形劇、映画、ゲーム、インターネット等、何でもありの世界。価値観が多様化だけではなく三国志が完全にエンターテイメント化した。
 例としてマンガの武論尊/原作・池上遼一/作画『覇-LORD-』が上げられる。ストーリーの説明で主人公の倭人が劉備に成りすますことや、呂布と趙雲(作中では女性)との子が関平とか出てくる。(※これは割かし三国志ファンの間で有名な話だけど、さらに中林先生は周瑜が美貌の女将軍で、彼女が率いる軍団が美女軍団と最近のトピックまで言及されていたのには驚いた)。あと芝居の方でも市川猿之助の『スーパー歌舞伎 新・三国志』がある。
 これらの中で唯一大きな展開を示していないのが映画やテレビを中心とした映像部門。『人形劇三国志』や劇場公開されたアニメ以後、新たな企画は殆ど耳にしない。来年(2008年)放送を目指し日中共同でアニメ『三国志』の制作が始まった、との話も伝わる。
 「三国志」というものは固有名詞から「単に覇権を賭けた争いを表す普通名詞」になったといえる。それは既に江戸時代からある。千代丘草庵主人の『洒落本讃極史』(遊里の話)、近松門左衛門の『本朝三国志』(日本の話)に見られる。三国志は完全に遊びの娯楽になっている。ここで資料の「5、三国志とは関係無いもの」に移る。加藤文『やきそば三国志』とか加野厚志『女三国志』など。

●終りに

※以下、殆どレジュメそのまま
 日本人に広く知れ渡った「三国志」と言うものが、ある意味で娯楽(大衆文化)であったとするならば、娯楽であるが故に「三国志」に関する多くの著作は、それぞれの時代の時代相或いは当時の日本の社会相を、色濃く反映していると言える
 我々は、日本人が著した「三国志」に関する著作を読み解くことに因って単に中国の時代や文化を読み解くだけでは無く、それぞれの時代の日本或いは日本人自身を読み解くことも可能となる。

 11時終了。

<次回>第3回三国志シンポジウム 雑感2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/674


※追記 リンク:「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」