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清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
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三国志学会 第四回大会ノート3


  • 2009年9月21日(月) 19:29 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,389
研究 ※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)
※前記事 三国志学会 第四回大会ノート2

 昼休みに清岡はげんりゅうさんと共に、まず受付近くに出店している英傑群像の店舗を見に行く。英傑群像の岡本さんは食事中のようでいらっしゃらなかった。

・英傑群像(三国志エンターテイメント 情報&グッズ)
http://www.chugen.net/

 昨年の第二回三国志祭と違って、今回、同人誌の中を試読可能になっていて、ようやく○○伝シリーズの中身を確認できた(下に作者ブログへリンク張っておく)。ちゃんと漢文を載せている感じなんだね(…とここらへんが後、恐らく三記事ほど後の記事への伏線となる)。

・四海のほとり
http://blogs.yahoo.co.jp/sjn_congo

※関連記事 第2回三国志祭(三国志コレクション)

 あと「横山光輝三国志トランプ」や「激突! 三国志武将かるた」があって、それを見つつ、清岡は「三国志ニュース」の記事を思い出しつつ、げんりゅうさんに解説していた(さぞかしお節介な感じだっただろう・汗)

※関連記事
 横山光輝三国志トランプ(2009年8月25日)
 激突! 三国志武将かるた(2009年7月)

 その後、南側の教室に出店している汲古書院や東方書店を見に行っていた。

・株式会社汲古書院
http://www.kyuko.asia/

 そこには今回、カメラ撮影に従事されていた中川先生がいらっしゃって、汲古書院の人がフライヤーを渡そうとしていたら、「どうせ(郵送で)来るんでしょ?」と受け取り拒否されていて、清岡もそれに倣って受け取らずにいた(笑)。
 あと「サイン会やったらウケるんじゃない? 『渡邉義浩サイン会』?」と半分ネタのようなことをおっしゃっていたのを清岡は聞き逃さなかった(笑)
 清岡は結局、読めずにいた、小嶋茂稔/著『漢代国家統治の構造と展開─後漢国家論研究序説─』をずっと読んでいた。やはり一通りは読んでおきたいね。どうせ次の土日の魏晋関連の学会で出店されると思っていたんで、買う検討を保留にしていたんだけど、結局、出店されていなかったので悔やまれるところ。

※関連記事 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日)

 東方書店関西支社のところに行くと、三國志訂補(24種263卷)(USB盤)のフライヤー等を頂く。

・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店
http://www.toho-shoten.co.jp/

※関連記事 三國志訂補(24種263卷)(USB盤)(2009年5月)

 それから会場に帰り、待機。ここで用事のある伊比さんは退席される。
 途中、げんりゅうさんが午後の分のレジュメを持っていることに気付き、最後列のところまで取りに行く。レジュメを見ると四番目の報告が事前に報せられていたタイトル「鄭玄と王弼」から「王弼の「意」と「象」―「象」の淵源から解釈の展開―」へ変わっていた。「鄭玄」目当てに来られていた、げんりゅうさんがズッコケていた。

 13:03。総合司会の石井先生から大会の再開が告げられる。報告の司会はそのまま石井先生。レジュメはB4が四枚、8ページ。
 村田先生が登壇される。

○「蜀漢成立期の支配についての一考察~蜀漢政権論再検討に向けて~」

●○問題提起
※以下、行の冒頭に「●」とある場合はレジュメからの引用。また行の冒頭に「史料」とあるのはレジュメに書かれている漢文。レジュメでは行の冒頭数字に編みかけされている。

●【契機】

 『三国志』は有名な史書で、小説等、人口に膾炙するところが多いが、史書(正史)として皇帝が並び立っていて「三国志」という名前からして矛盾がある。この問題は史書の変遷(史学史)に関わっており、それなりに多くの人が研究している。しかし全体の中でどのように位置づけるかはっきりしない。例えば『三国志』なのに(本紀、列伝、志、表という意味での)「志」がない。

●【展開】

 陳寿の人物像を掘り下げることでそういうことを考えていこうという事例もあり、王朝の正統性の問題(のちの時代の考えが入っている)もある。結局、『三国志』の問題は『三国志』に帰るしかない。
 (報告者が今まで呉の研究をやってきており)いきなり蜀になるかは、元々、「なぜ三国」という疑問があるため。

●【一次的結論】

 大きな主題に答える準備がなく、具体的な事実の検討から少しずつでも問題に迫るしかない。報告者は未だ蜀漢にまつわる発表をしていないので、準備として「蜀漢政権論再検討に向けて」ということで発表したい。
 まず劉備が荊州・益州を獲得し帝位に就き蜀漢が出来上がる。蜀漢政権をどう考えるのか。蜀漢政権、孫呉政権など、○○政権は便利の良い、少しいい加減なテクニカル・タームだ。国家への認識、なぜ三国かという報告命題にも関わってくるが、国、政権、軍閥、集団、いろんな言い方があるが一つの纏まり・枠としてうまい言い方がないので、今回のタイトルも敢えて「蜀漢成立期」として、そういう形で問題提起していく。

●○史料と考察

 特に断りがない限り、『三国志』蜀書を蜀志とする。

●一、劉表の下での劉備の地位について

 劉備については「傭兵集団で流れ者だ」というイメージを持たる。劉備は転戦を続け、「髀肉の嘆」の故事があるように所領荊州の劉表のところへ逃げてきて、そこから最終的に蜀漢という纏まりを作る飛躍のきっかけとなる。(劉表の下での)その地位について。うまい言い方がないからこういう言い方になるが。蜀志先主伝を見ると、一応、優遇はされていたが、それは劉備だけなのかを考える。劉備は流れ歩いており、客将という立場。
 劉表の下には「東藩」として黄祖がいて、黄祖が孫家に滅ぼされる、もしくは滅ぼされかけたときに劉備が北から流れてくる。そういうもの(東藩)の類似の存在として国境沿いのどこかに根拠地を与えられ客将として入ってきている。

史料1 曹公既破紹、自南撃先主。先主遣麋竺・孫乾與劉表相聞、表自郊迎、以上賓禮待之、益其兵、使屯新野。荊州豪傑歸先主者日益多、表疑其心、陰禦之。(蜀志卷二先主傳)
史料2 表疾病、琦還省疾。琦性慈孝、瑁・允恐琦見表、父子相感、更有託後之意、謂曰:「將軍命君撫臨江夏、為國東藩、其任至重…(魏志卷六劉表傳の裴註に引く『典略』)

 史料1に「荊州豪傑歸先主者日益多」とあるが、どの程度、劉表が許したのか、なかなか難しい問題と思う。劉琦が後継者にならず江夏太守として外に出て行くが、これはちょうど孫権により黄祖が滅ぼされ、東の長江沿いの守りが手薄になるから。これには諸葛亮が相談を受けて助言をしている背景がある。この江夏太守より劉備の置かれていた立場は低いものだろう。というのも太守や県令に任命されているかはその地域で実権を握るかの話になってくるので、物資人員等が補給されていても財布の紐を握っているのは劉表側であり、劉備というのは武将宿将扱いと思う。劉備は曹操の下で獲得した豫州牧と左將軍をずっと守り続けており、周りからも「劉豫州」や「劉左將軍」と呼ばれている。属官として「從事中郎」が史料に出てくる。史料にある麋竺、簡雍、孫乾あたりが「左將軍從事中郎」に就いている。

史料3 先主將適荊州、遣竺先與劉表相聞、以竺為左將軍從事中郎。(蜀志卷八麋竺傳)
史料4 先主至荊州、雍與麋竺・孫乾同為從事中郎、常為談客、往來使命。(蜀志卷八簡雍傳)

 司馬彪の『續漢書』の志を見ると、史料5がある。

史料5 長史・司馬皆一人、千石。本注曰:司馬主兵、如太尉。從事中郎二人、六百石。本注曰:職參謀議。掾屬二十九人。令史及御屬三十一人。本注曰:此皆府員職也。(司馬彪『續漢書志』卷二十四百官一將軍條)

 これは大將軍の属官の説明だが、員数などに拘らず任命した節があり、それでも一応、(左將軍は)開府していることが「從事中郎」を任命していることからわかる。それがどの程度、機能しているのか。元々、將軍府自体は軍政にまつわる様々なことを担当する。さらに洪飴孫『三國職官表』を見ると、左將軍府に様々な官職が見られ適時勝手に任命している。それについて実際、どれほど仕事していたのか、怪しいものがある。「從事中郎」の職務内容を見ると「參謀議」ということで、参謀の文官というようなのが仕事であり、地方行政に関わるものでは当然あり得ない。ちなみにこの段階では、曹操の下で関羽は遍將軍、張飛は中郎將を頂いている。

●二、赤壁の戦い前後から荊州南部の制圧へ(建安十三年~十六年)

 劉表の後継者である劉琮は劉備を見捨ててしまう。これは建安十三年八月(208年)のことだが、その後、赤壁の戦いに至る一連の戦いが起こる。

史料6 瑜・普為左右督、各領萬人、與備俱進、遇於赤壁、大破曹公軍。公燒其餘船引退、士卒飢疫、死者大半。備・瑜等復追至南郡、曹公遂北還、留曹仁・徐晃於江陵、使樂進守襄陽。時甘寧在夷陵、為仁黨所圍、用呂蒙計、留淩統以拒仁、以其半救寧、軍以勝反。(呉志卷二呉主傳建安十三年條)

 史料6にあるように、問題は劉備軍も参加するわけだが、この後、荊州南部を制圧し、根拠地となる地域を初めて得る。孫呉の側から見ると、呉志を見ると貸してやったこと、黙認の立場になる。劉備側からだと実力で取ったことになる。もちろん劉備は黙認を求めてはいる。
 レジュメの最後に手書きの地図をつけている。襄陽のところに劉表の荊州牧の公府があったところ。劉備が最初にいた新野はその東北の守りにあたる場所になる。南陽から新野に至るルートで北から曹操に攻め込まれ、地図に×をつけた長坂のあたりで、曹操に追い付かれる(『レッドクリフ』の最初の方と説明)。目指していたのはさらに南の江陵、南郡の中核的な所で、そこに辿り着く前に劉備はやられてしまい散り散りになる。漢水を下ると夏口というところがあって、そのあたりで、江夏太守の劉琦と関羽の軍勢と合体し、そこで孫権との同盟の返事を待つ。長江の北側、江夏から南郡にかけてあるいは南陽の南側にかけて、まさに激戦地になっているところ。さらに赤壁の軍勢の主力は呉の軍勢で、特に周瑜が取ろうとしていたのは江陵となる。曹仁と激しい攻防戦を行い、周瑜が江陵を手に入れている。その間に、ある程度、黙認の下に、どさくさ紛れに劉備は南の方の四つの郡を手に入れている。

史料7 瑜・仁相守歲餘、所殺傷甚眾。仁委城走。權以瑜為南郡太守。劉備表權行車騎將軍、領徐州牧。備領荊州牧、屯公安。(呉志卷二呉主傳建安十四年條)

 劉備は孫権と同盟を結び、史料7にあるように、お互いを荊州牧と徐州牧とに推薦し合う(上表する)。劉備は公安に駐屯する。

史料8 周瑜為南郡太守、分南岸地以給備。備別立營於油江口、改名為公安。(蜀志卷二先主傳に引く『江表傳』)

 史料8にある「南岸地」の解釈は二つ意見があって、一つは南部の統治を認めたという説と、一つは南郡の南の岸辺沿いという説を指している。二つ目の説だと、非常に小さい地域だ。おそらくこの狭い地域が認められていた。そこに公安がある。

史料9 遇表長子江夏太守琦衆萬餘人、與倶到夏口。……先主表琦為荊州刺史、又南征四郡。武陵太守金旋・長沙太守韓玄・桂陽太守趙範・零陵太守劉度皆降。……琦病死、群下推先主為荊州牧、治公安。權稍畏之、進妹固好。先主至京見權、綢繆恩紀。(蜀志卷二先主傳)

 史料9にあるように劉備は武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を制圧する。基本的には荊州牧劉表、荊州刺史劉琦、荊州牧劉備という流れのように周りから見られている。

史料10 後備詣京見權、求都督荊州、惟肅勸權借之、共拒曹公。曹公聞權以土地業備、方作書、落筆於地。(呉志卷九魯肅傳)

 また史料10にあるように、魯肅傳では明らかに「借」という表現をしている。南郡周辺で激しい攻防戦をやっている中、周瑜が劉備に南郡を譲ることは考えにくい。荊州の中では南の方は北より貧しい地。長江の北では曹操と孫権との軍勢が戦っており、その最中、劉備が南へ逃げる。一声掛けるのが当然だから、孫権側からだと「認めた」となる。
 劉備は四郡を支配することとなる。

史料11 先主遂收江南、以亮為軍師中郎將、使督零陵桂陽長沙三郡、調其賦税、以充軍實。(蜀志卷五諸葛亮傳)また注に引く『零陵先賢傳』には「亮時住臨烝」とある

 史料11にあるように諸葛亮が軍師中郎將、使督零陵桂陽長沙三郡の地位につき、臨烝にいた。

史料12 先主收江南諸郡、乃封拜元勳、以羽為襄陽太守・盪寇將軍、駐江北。(蜀志卷六關羽傳)

 史料12の「江北」の長江の北側であり、関羽は襄陽太守となっているが、地図を見るとわかるように明らかに襄陽に劉備の力はない。襄陽は曹操に占領されている。
(※清岡注。昔、「三サポ板」にそれ関係の質問があったのを思い出していた。該当ツリー

史料13 先主既定江南、以飛為宜都太守・征虜將軍、封新亭侯、後轉在南郡。(蜀志卷六張飛傳)

 史料13のように張飛は宜都太守・征虜將軍に任命された。宜都郡というのは無いので、勝手に劉備がつけている。「後轉在南郡」とあるが最初は南へ攻めに行っていたと思われる。実はこの「南郡」という言い方と「江陵」という言い方が錯綜している。この点について従来、先行の研究で目処を付けて考えられたかどうか怪しい。明らかに長江の北側では劉備が軍を置いたとしても呉の援軍として置いた程度で、長江の南に劉備軍が居て、北に曹操軍が居て、長江沿いに孫権軍が居るとそういう状態と思った方が良い。従来、南郡全体が劉備のものになっていると思われがちだがそれは明らかに間違い。

史料14 從平江南、以為偏將軍、領桂陽太守、代趙範。(蜀志卷六趙雲傳に引く『雲別傳』)
史料15 廖立字公淵、武陵臨沅人。先主領荊州牧、辟為從事、年未三十、擢為長沙太守。(蜀志卷十廖立傳)

 史料14にあるように趙雲は桂陽太守になっており、史料15にあるように廖立は長沙太守になっている。
 関羽や張飛の太守の任命、加えて長江北側の駐屯は、北岸の問題にもコミットしたいという劉備の意志の表れと考えて良い。
 周瑜、甘寧が孫権に勧めたという話は有名だが、諸葛亮の天下三分を待つまでもなく、孫権も長江をさかのぼり劉璋を倒し根拠地を得るという計画を持っていた。それを劉備が邪魔をした。宜都というのは江陵から見て長江の上流にあるので、張飛を宜都太守に任命したということは名前だけのことであっても劉備の意志の表れであろう。
 劉備の下には旧劉表治下の荊州人士が集まる。彼らにしてみれば、北から攻めてくる曹操も、東から攻めてくる孫権(黄祖の敵と解説)も、共に敵だった。そのため劉備の下に集まるのは当然のこと。劉備は荊州の州府に辟召して家臣団を形成したと思われる。州には「從事史」(※レジュメに「治中從事・別駕從事・部郡從事」)や仮佐(※レジュメに「主簿ほか」)といった郡と共通する社会層の人々が就任する官職がある。
(※レジュメに次の先行研究が記載されている。山田智「漢代の州についての覚書」『専修史学』三〇、一九九九年、小嶋茂稔「漢代州制再攷」『歴史』九九、二〇〇二年)

史料16 霍峻字仲邈、南郡枝江人也。兄篤、於郷里合部曲數百人。篤卒、荊州牧劉表令峻攝其衆。表卒、峻率衆歸先主、先主以峻為中郎將。(蜀志卷十一霍峻傳)

 史料16にあるように霍峻は劉備に下っていて、中郎將という武官職になっている。地元の有力者を州府に辟召し、再編成するということが行われていたと思われるが、具体的な様子は史料から伺い知ることは難しい。
 史料11に見られるように諸葛亮の果たした役割は重要なものであろう(※13:39経過なので急ぐと宣言される)。

(※ここで以下のようなレジュメに記載される図で説明)

劉備の荊州府(在公安) → 諸葛亮の督零陵桂陽長沙三郡(在臨烝) →桂陽太守趙雲/長沙太守廖立 ほか
            → 武陵太守、襄陽太守、宜都太守 などの軍事的緊張度の高い郡

 諸葛亮の重要な仕事というのは、「調其賦税、以充軍實」といいう徴税を中心とした支配の実権を掌握しようというものだった。耳慣れない「軍師中郎將」を帯びてのこと。
(※レジュメに次の先行研究が記載されている。石井仁「軍師考」『日本文化研究所研究報告』二六、一九九○年)

史料17 先主定蜀、徴和為掌軍中郎將、與軍師將軍諸葛亮並署左將軍大司馬府事(蜀志卷九董和傳)

 益州平定後だが、史料17にあるように董和は「掌軍中郎將」になり「左將軍大司馬府事」を著している。「軍師中郎將」や「掌軍中郎將」といった仕事は、劉備の左將軍府の軍事関係とは違い、地方行政のコミットする臨時の職として作られているのではないか。

(※ここで以下のようなレジュメに記載される図でまとめられ、説明される)

劉備の荊州府(在公安) → 荊州の士人を収容し再編
劉備の左將軍府(軍師中郎將が取り仕切る) → 桂陽太守趙雲/長沙太守廖立 ほか
 その他 關羽・張飛らの武将 → 襄陽・宜都・武陵太守などの軍事的緊張度の高い郡に駐屯

●三、益州への侵攻(建安十六年~十九年)

史料18 先主留諸葛亮・關羽等據荊州、將步卒數萬人入益州。……璋推先主行大司馬、領司隸校尉;先主亦推璋行鎮西大將軍、領益州牧。璋增先主兵、使撃張魯、又令督白水軍。先主并軍三萬餘人、車甲器械資貨甚盛。……先主軍益強、分遣諸將平下屬縣、諸葛亮・張飛・趙雲等將兵泝流定白帝・江州・江陽、惟關羽留鎮荊州。……十九年夏、雒城破、進圍成都數十日、璋出降。(蜀志卷二先主傳)

 レジュメに史料18~21と挙げているように、諸葛亮や張飛・趙雲等を率い激しい戦いでなかなか成都を占領できないという状況で別働隊として長江を遡っていくことになる。關羽はその間、荊州で留守番役を命じられる。

史料19 亮與關羽鎮荊州。先主自葭萌還攻璋、亮與張飛・趙雲等率衆泝江、分定郡縣、與先主共圍成都。成都平、以亮為軍師將軍、署左將軍府事。先主外出、亮常鎮守成都、足食足兵。(蜀志卷五諸葛亮傳)

 史料19を見ると、諸葛亮は軍師將軍となっており相変わらず「署左將軍府事」となっている。「足食足兵。」ことになり、諸葛亮は前漢の蕭何のような補給の仕事をしている。実は「軍師中郎將」の仕事と変わっていない。劉備の軍勢を支える地域の支配を安定させることに深く関わっている。

史料21 先主復領益州牧、諸葛亮為股肱、法正為謀主、關羽・張飛・馬超為爪牙、許靖・麋竺・簡雍為賓友。及董和・黄權・李嚴等本璋之所授用也、呉壹・費觀等又璋之婚親也、彭羕又璋之所排擯也、劉巴者宿昔之所忌恨也、皆處之顯任、盡其器能。有志之士、無不競勸。(蜀志卷二先主傳建安十九年條)

 史料21は劉備が州牧を名乗る史料で、具体的な官職はないが、人士が挙げられており、益州が取り込まれている様子が描かれている。劉備の国は挙兵以来の家臣、荊州に居るときの家臣、益州で再編成された家臣、三つの要素から成り立つ。先行研究では劉備がいろんな時期に獲得した人々の分析が行われ、それで政権の様子が考えられている。人事によって地域性が出てくるのはごく当たり前のこと。
 この後、問題になるのは、史料22~24からレジュメの図のようになるが実際には違うだろう。

(※ここで以下のようなレジュメに記載される図でまとめられ、説明される)

関羽の董督荊州事 → 荊州各部の支配
劉備の益州府 → 益州各郡の太守任命と支配

 また史料25の龐統のように「軍師中郎將」は参謀的な仕事もしている。

史料25 先主見與善譚、大器之、以為治中從事。親待亞於諸葛亮、遂與亮並為軍師中郎將。亮留鎮荊州。統隨從入蜀。……進圍雒縣、統率衆攻城、為流矢所中、卒、時年三十六。先主痛惜、言則流涕。(蜀志卷七龐統傳)

 本来、「軍師」というイメージに近いのは龐統であり、諸葛亮は関羽と一緒に留守番をしている。諸葛亮は調整等、軍政をしているが、(援軍等)軍も統率している。
 一見、後漢的な官秩に従っているように見えるが、場当たり的な不明瞭さを持っている。

史料26 其領軍皆有部曲。大將軍營五部、部校尉一人、比二千石;軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。其不置校尉部、但軍司馬一人。又有軍假司馬・假候、皆為副貳。其別營領屬為別部司馬、其兵多少各隨時宜。門有門候。其餘將軍、置以征伐、無員職、亦有部曲・司馬・軍候以領兵。其職吏部集各一人、總知營事。兵曹掾史主兵事器械。(『續漢書志』卷二十四百官一將軍條)

 史料5の後に史料26が続く。史料26の方が本来、将軍配下の、兵を率いる官職の名前ということになり、この系統に「中郎將」や「將軍」は入ってこない。一般的に「將軍」、「中郎將」、「校尉」、「司馬」には序列があり、それとは別に「軍師中郎將」のような新しい官名を劉備は任命する要素が見られる。左將軍府、荊州府に分けて考えていくことができたが、中間に本来、領軍だけもしくは軍政だけすべき「軍師中郎將」の諸葛亮がいる。実状、(レジュメに載る二つの図のうち)下のような形になる。

(※レジュメに記載される図)

(軍)左將軍劉備 ─ (領軍)軍師中郎將諸葛亮 ─ 關羽ら將軍 ─ 趙雲ら司馬
         ─ (軍政)軍師中郎將諸葛亮 ─ 左將軍府属官
(政)荊州牧劉備 ─ (政)軍師中郎將諸葛亮 ─ 治中從事以下の州府 ─ 各郡府


 ここに周りが入ってくるとどうなってくるか。

(※ここで以下のようなレジュメに記載される図(建安十九年段階)でまとめられ、説明される)

荊州支配 = 関羽の董督荊州事 → 荊州各部の支配
益州支配 = 劉備の益州府   …→?行政の中心は未だに左將軍府で、益州人士の確保のみか?
       劉備の左將軍府(軍師將軍諸葛亮と掌軍中郎將董和が中心) → 益州各部の太守
例外措置 ? 劉備の軍事に関する相談役 = 蜀郡太守法正(太守だが左將軍府の統制無し?)
     ? 庲降都督鄧方   → 南中諸郡の支配

●四、荊州分割と漢中王即位(建安二十年~二十四年)

 成都陥落後、孫權側から荊州の返還を求められる。史料27から30に挙げられるように激しいにらみ合いとなる。魯肅と呂蒙が軍を率い荊州南部に官吏を送り込み、關羽により排除されると、それを理由に軍事占領に乗り出す。南の地域は呉に従う。劉備自ら公安に五万の軍を率い、長江を下ってきて、公安から關羽に兵三万を預け南を取り返すよう命じる。この際、劉備が江陵に入らず公安に入ったということは江陵はまだ呉のものだということになる。
 にらみ合いに「単刀会」の話があるが、『三国演義』では関羽が主役になっているが、実際には魯肅の見せ場だ。湘水の西側を劉備が東側を呉が統治するということでまとまる。南郡においては、長く曹操軍と睨み合っていた孫權軍はこのとき初めて江陵から撤退すると考えている。実際、關羽は襄陽の方へ軍を進め、それで留守を孫權に攻撃され、關羽は殺されることとなる。流れを考えると、北方で曹操と戦うのは劉備に任され、孫呉の方にとってみると南部で曹操と戦う必要はないので、損な取引ではない。
 この後、有名な漢中攻防があって、劉備は漢中王に即位する。これも先行研究に指摘されるように、史料31にあげた上表文の中に最初四名は漢王朝から独自に官位を獲得したもので、実際の序列は五番の諸葛亮からだと考えるべきだ。

史料31 秋、群下上先主為漢中王、表於漢帝曰:「平西將軍都亭侯臣馬超・左將軍長史領鎮軍將軍臣許靖・營司馬臣龐羲・議曹從事中郎軍議中郎將臣射援・軍師將軍臣諸葛亮・盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽・征虜將軍新亭侯臣張飛・征西將軍臣黃忠・鎮遠將軍臣賴恭・揚武將軍臣法正・興業將軍臣李嚴等一百二十人上言曰……封備漢中王、拜大司馬、董齊六軍、糾合同盟、掃滅凶逆。以漢中・巴・蜀・廣漢・犍為為國、所署置依漢初諸侯王故典。夫權宜之制、苟利社稷、專之可也。然後功成事立、臣等退伏矯罪、雖死無恨。」遂於沔陽設壇場、陳兵列衆、群臣陪位、讀奏訖、御王冠於先主。(蜀志卷二先主傳建安二十四年秋條)

 漢から与えられたのではなく劉備から与えられた「軍師將軍」から「盪寇將軍」、「征虜將軍」という流れがあげられる。私設官位となる「軍師將軍」は非常に固い地位にあると考えるべき。法正はこの後、尚書令に任命され、一見すると漢中政府が中心になろうとするが、法正が死んでしまいうやむやになる。留守を任され軍事要件を完璧にこなした諸葛亮が、劉備即位の際に丞相になるのは流れの中で必然のことだ。

●○おわりに(蜀漢政権の成立に向けて)

 先行研究のまとめは上谷浩一「蜀漢政権論─近年の諸説をめぐって─」『東方学』九一、一九九六年を参照にしてもらうと良い。
 『三國志』に登場する政権に参画した人物の出自・社会的地位を、統計的手法や「貴族制」等の問題意識の方から人々の構成なんかを作っていく分析がこれまで中心だった。淡々と状況を並べてきた中、諸葛亮の地位の重要性をもうちょっと考えていくべきではないか、というのを一旦の結論とする。


 13:55、報告終了。まず司会の石井先生から村田先生は呉に関する論文を何報か出していると紹介があった。
 その後、報告についてまとめられる。まず冒頭の『三國志』の矛盾と「政権」について。後者については石井先生からは「目から鱗」ということで考えさせられたという。
 特に原因である権力構造をどう考えるのか、時期に沿ったいくつかの権力構造のモデルを考えたのが要点だった、と報告内容に触れられていた。結論部分について、「軍師中郎將」等、諸葛亮の重要性と特殊性が際立つのではないかという問題提起が行われたとされ、(渡邉先生等の)先行研究での諸葛亮の位置づけは一方では低く見るということが行われていたと石井先生が言及されていた。
 13:59、質疑に移る。

(ここで石井先生が渡邉先生へ話を振る)
Q1 渡邉先生より。(事務局の仕事があったので完全に聞いていないと前提を話されてから)諸葛亮の位置づけについて。(「(渡邉先生自身が諸葛亮を)そんなに低く見ていたかな?」と前置きをした後)今まで諸葛亮讃美がずっと続いていたのに対し、劉備の君主権力側からの諸葛亮に対する掣肘のようなものがあったと言いたかった。軍師中郎將に関わりながら諸葛亮は際立っている、というのはその通りで、それを中心に諸葛亮個人の研究に入られるのが楽しみだ。

A1 個人の研究に行くかどうかは今のところ未定。諸葛亮をどう評価するのか自体も変遷があって面白いが、評価等ではなく、まず史料に即して順々に見ていこうという立場で今回報告した。

Q2 京都外語大学の福原先生より。劉備の左將軍は重要なのか。

A2 前漢の時は大將軍は重要で、開府の権を持っている。前後左右の將軍はそれに次ぐ地位がある。

Q2 開府について左將軍に関してエピソードはあるか。劉備以前に「左將軍」なった人で有名な人は居るのか

A2 左將軍は大將軍の周りを固めているイメージ。

(石井先生より)おそらく「將軍」自体に開府の権限はないので、劉備が許昌にいたときに開府儀同三司の権限を授けられていたのか、あるいは勝手に開府したのか。

(※清岡注。ここらへんのことは『三國志研究』第四号に収録されているシンポジウムの川本先生のコメントのところが参考になる)
※参照記事 三國志研究 第四号(2009年9月)

Q2 本当かどうかは別として劉備が漢室の後裔を名乗っているのはどれぐらいの効果があったのか。

A2 入り込みやすいというのはあったと思う。結局、出自の怪しさに関していえば、例えば、前漢後漢交代期の劉盆子であるとか、(劉備は)看板といえば看板で、効果はそれなりにあったのではないか。

Q3 関羽の地位はそれほど大きくはないのか。劉備が来るまでは動けなかったので。

A3 最近、上谷氏の論文で、関羽は権力構造の変化の中、焦っていたのではないか、とあったが、この場合、関羽は留守を任されていただけに重要な地位だと思う。具体的になぜ魯肅に対抗できなかったかは数の問題。兵が足りない状態。そこで攻められては成す術がなく、劉備に助けを求めた。

 14:09終了。

※次記事 三国志学会 第四回大会ノート4

※追記 三國志研究第五号(2010年9月11日)

※追記 『週刊 マンガ世界の偉人』で諸葛孔明(2012年5月1日)

※追記 ノート2:三国志学会 第五回大会

※追記 中国の政治・文化・産業の進展と実相(2015年3月)

※追記 立命館大学の世界史入試で三国志関連2016

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