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上記記事を書いた際、リンクしたサイト「りゅうぜんず」を懐かしく感じ、記事を書き終えた後もついつい読み込んでいた。
・りゅうぜんず-三国志を愉しもう-
http://www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/
その中で、気になった掲示板の話題(2002年11月)が下記のところ。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/1045/1016631283/158-
ノスタルジックな雰囲気にするため、わざと私が振った話題が上の方に来るようにリンクを張っているんだけど、冒頭の私の書き込みが指しているのは下記にリンクした「永安日報」2002年11月24日分だ。
永安日報-日記と三国志ニュース2002/11/24 (日)
http://cgi.www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/anews/a-news.cgi?date=2002.11.24
※追記。気付いたけど、dateへの直接リンクはできないようで、まず
http://cgi.www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/anews/a-news.cgiにアクセスする必要があるようだね。
私のサイト自体移転したため、件の掲示板で書いたシンポジウム「石刻が語る三国時代」のレポートはリンク切れしている。現在は下記のところにある。
・石碑からこんにちわ
http://cte.main.jp/sunshi/w/w0212101130.html
ちなみにこのシンポジウムが科研費の中間報告にあたり、その四年後に最終報告があった。下記参照。
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それで話を本題に戻し、表題にあるように、なぜか袁術が「成皇帝」だといった誤った認識がネットで浸透しているという話題。ここでいう「成」とは国号だという。どれぐらい浸透しているかは検索サイトで「成皇帝 袁術」で検索してくれれば把握できるかと思う。
話題に出たネタ元は下記の「永安日報」2002年12月12日分。
永安日報-日記と三国志ニュース
http://cgi.www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/anews/a-news.cgi?date=2002.12.12
(※全然関係ないけど、これを見ると
「モエサンゴク」は昔、「PHYCHO」ってサイト名だったんだね、今、気付いた)
さらに世界史板三国志スレにリンクが張られているんだけど、
過去ログを見ても該当するレスが残っていない(※2011,6/28追記。ツイートされた記念で探してみたらあった→
ここの948だね)。当時、私はリンク先を読んでいないので、以下、話が繰り返しになるかもしれない。
「三国志ニュース」をよく見に来てくださる方ならご存知だと思うし、「永安日報」2002年12月12日分にも少し書いているんだけど、『三國志』卷六魏書董二袁劉傳第六裴松之注所引『典略』に
術以袁姓出陳、陳、舜之後、以土承火、得應運之次。又見讖文云:「代漢者、當塗高也。」自以名字當之、乃建號稱仲氏。
とあるように、または『後漢書』劉焉袁術呂布列傳に
建安二年、因河内張炯符命、遂果僭號、自稱「仲家」。
とあるように袁術が建てた国の号が「仲」であり、もしくは前述の『後漢書』の件の章懐太子賢注に
「仲」或作「沖」。
とあるように、国号は「沖」となる。
件の掲示板ではいくつか浸透した理由が推定されている。それらの中で私が納得したのは、横山光輝/著『三国志』(漫画)の本編では国号は出ていなかったものの、その副読本である『横山光輝三国志事典』では「成」になっているという。これは1983年4月の発行とのこと。
※追記。P.97以降の「第五章 総登場 キャラクター事典」 P.96-97「袁術」の項目でP.97「野望家で淮南に成という国をつくり、」とある。
※追記
三国演義連環画と横山三国志
「永安日報」2002年12月12日分ではコーエーのシミュレーションゲーム『三國志』シリーズにより広まったという推測がある。『三國志』シリーズの第一作は1985年12月からなんだけど「成」としているのは何作目からなのか、私は未確認だ(ここらへん疎いので教えて欲しいぐらいだが)。
ともかく発行年からこれより『横山光輝三国志事典』の方が先のようだ。
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他には『三国志武将画伝』という書籍でも「成」になっていたという。こちらは1996年2月小学館発行。
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もしかすると以上の三つの大元となる事象があるのかもしれない。余談だけど、
件の掲示板スレッドでの173のレスにある
NOBさんの推測が、私の記憶に強く残っていて、ここ数年ぐらいそれが一番、真実に近いと思い込んでいたので、記憶の上書き保存ができて良かった(笑)
それで件の掲示板にも話題に出ていた『三国志集解』を当たってみる。注の文の「乃建號稱仲氏」にずらずらと注釈(いわゆる集解部分)が入っていて、先の『後漢書』劉焉袁術呂布列傳章懐太子賢注にある「沖」のことも触れられている。ここで気になったのが、
公孫述傳遂自立為天子號成家亦是僭國號曰成也
という記述で、不意に公孫述が「成」という国号を使ったことが事例で出されている。ここでいう「公孫述傳」とは『後漢書』隗囂公孫述列傳のことであろう。ちなみにこれは『三國志』卷四魏書三少帝紀第四裴松之注に
孫盛曰:昔公孫述自以起成都、號曰成。二玉之文、殆述所作也。
というように公孫述が「成都」で起家したので「成」と号したと触れられている。
今、私が思うに、誰かが『三国志集解』にある「公孫述傳」からの記述を見て、袁術の記述と誤認したのかな、と推測してみるんだけど、どうも根拠に乏しいような気がする。
あと
世界史板三国志スレの533のレスによると(私は未確認だけど)『真実の『三国志』―活劇!三国志正史』という書籍では袁術の国号が「陳」になっているそうな。どちらかの誤読?
結局、この話題に決定的なことは見出せないままなんだけど、今回の経緯で「永安日報」のa-News版を見つけることができたので、それはそれで満足なんだけどね。
・永安日報-日記と三国志ニュース
http://cgi.www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/anews/a-news.cgi?date=2003.03.03
※追記
リンク:20世紀の三国志サイトの話題
※追記
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※追記
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